switch21

 時はちょうど、八月に入っていた。
 暑い日射しが照り付ける中、透耶は鬼柳と共に街中を歩いていた。
 理由は、今度の京都行きへの準備だ。
 本家の葵(あおい)から頼まれたモノを買いに行く為だった。
 当然のように鬼柳をついてくる。
「そんなものが欲しいのか?」
 鬼柳がそう言った。
「まあ、変わってるけどね」
 透耶は複雑な顔をして鬼柳を見上げる。
 ……帰郷するのに東京名物なら解るけど、どうして北海道名物品な訳?
 そうした顔をしている透耶に鬼柳は言った。
「そんなに変わり者なのか?」
 鬼柳は葵という人物について何も知らない。透耶から受ける印象は、少し厳しいお兄さんという感じで、光琉から受ける印象は、変どころではなく、偏屈な伯父という感じなのだ。
 だが、透耶は答える。
「時々、訳の解らない事言うけどね」
 この透耶の答えに鬼柳は言った。
「訳の解らない?」
 いやに真剣な鬼柳。
 ……別に「お嬢さんを下さい」と言いに行く訳じゃあるまし。
 呆れながらも透耶は言った。
「俺言わなかった?」
 透耶は葵について幾つか話をしたが、やはり解らない。
「言ったけど……」
「後は会ってみてのお楽しみってところかな? でも気に入られたら虐められるから解るよ」
 透耶は笑ってそう答える。
 気に入ったら虐める。
 それは小学生のする事じゃないのか?
 鬼柳はそう思ってしまう。
「あ、虐めても、言葉でだけだからね」
 透耶が慌てて付け足した。
 そう言われても難しい言葉なら鬼柳には通じない。
 ……あ、でも恭なら大丈夫かも、下手に理屈捏ねた言葉は通じないだろうし。
 透耶はそう思ってしまった。
 大学教授を黙らせる口調の持ち主でも、難しい日本語が通じない鬼柳なら無駄 なのである。
「全部買い終えたら、すぐに梱包して宅急便で送らないと」
 透耶がそう言ったので鬼柳が不思議顔。
「それって別に土産でも何でもなくて、それを口実に自分の金を使わないって手じゃないか?」
 そう鬼柳に指摘されて、透耶はハッとした。
 ……そう、そうだよ!
 ……別に俺が送らなくたって、自分で通版すればいいじゃんかー!
 だが、今更遅い。
 もう半分以上の買い物を済ませてしまっている。
 透耶が今、それに気が付いた様子を見て、鬼柳ははあっと溜息を吐いた。
 ……こりゃ、一筋縄ではいきそうにないな。
 それが葵に対する印象だった。


 旅行で欲しいもの。それはもう解ってる。ただ単に土産と透耶の旅行用バッグを買うだけなのだ。
 そうして向かったのは、若者の街と言われる場所。
 今日は平日だが、人でごった返している。
 その間を抜けて、何とか伯父の注文していたモノ買う事ができた。
 さっそく車へ戻ろうと思っていた時だった。
 駐車場までは遠く、その道筋で透耶が驚いた声を上げた。
「あれ?」
 透耶の驚きに鬼柳は早速反応する。
「どうした?」
 鬼柳が聞き返すが、透耶はずっと人混みを凝視している。
 それからこう言った。
「あ、うん、ちょっと待ってて」
 透耶はそう答えるや否や、人混みを掻き分けて歩いて行く。
 待て、と言われた鬼柳は、犬のようにして待ってしまうが、もちろんSPの石山は付いていっている。
 遠目でも透耶の姿は一目瞭然だった。
 透耶が駆け寄って行ったのは、男女のカップルだった。
 同級生か何かだろうと鬼柳は思っていた。
 透耶は女性の方に話し掛けて、男は透耶に頭を下げている。
 女性が何か言った時、透耶が鬼柳を振り返り指をさしている。
 すると女性の方が何か言い、透耶は慌てている。
 どうも透耶は女性に押されているらしく、結局頷いた。
 二三、何か言葉を交わすと、透耶と女性達は別れて、透耶は戻ってくる。
 その時の透耶の顔が困った顔だったので、鬼柳は心配になる。
「何か言われたのか?」
 鬼柳がそう聞くと、透耶は更に困った顔をする。
「う、ん、まぁ……」
 端切れの悪い言い方。
「何を?」
「うーんとね、恭と話してみたいって」
 透耶がそう言うが、鬼柳はキョトンとしてしまう。
「は?」
 さっぱり訳が解らない。
 透耶は鬼柳との関係を同級生に話したりしてないはずだ。
 しかも、透耶と話したいのではなく、鬼柳と話をしてみたいと言って来たのである。
 妙な話。
「俺と話をしたいって言っているのは女の方か?」
「うん」
 透耶は頷いてから、はっとして付け足した。
「あ、さっきのは従姉。氷室斗織」
 透耶のその言葉に鬼柳は納得してしまう。
 向こうが用事を済ませてくるというので、ファミレスでいいから少し話をしたいとの事。
「解った」
 鬼柳は素直に頷く。
 光琉以外で、玲泉門院関係者に会うのは初めてだからだ。
 光琉とは違う話がきけるかもしれない。
 そう思ったのである。





 だが、会ってみて自己紹介をした瞬間。
 鬼柳と斗織は視線を合わせたまま、一言も喋らなくなってしまったのである。
 氷室斗織と一緒に同行していた玖珂大介には、斗織が何故そうするのかは解っているので、平常心でいた。
 その視線を合わせたままの鬼柳は驚いていた。
 まず斗織の顔だ。  
 それは透耶とよく似ていた。
 もしかしたら、光琉より透耶の方が双子と言った方が信じてしまうくらいによく似ていた。
 体つきも細く、少しの力で折れてしまいそうだ。
 身長は透耶とは遥かに違う。
 女性だからだろうか、透耶よりは10センチは低い。
 ちょうど、透耶が女装した姿とそっくりなのだ。
 だが、決定的な違いがある。
 それは、自分の周りを包むオーラと言った方がわかりやすいだろう。
 それがあまりにも違い過ぎる。
 透耶は柔らかな雰囲気で、斗織は研ぎ澄まされた雰囲気。
 こう言った方が解り易いだろう。
 透耶は触れ易いが、斗織は触れられない。
 そんな違いがある。
 見つめ合っていて、最初に動いたのは斗織の方だった。
 そして鬼柳は笑う。
「大変失礼をしました」
 斗織が謝って頭を下げる。
「俺は試験に合格したらしいな」
 鬼柳がそう言って透耶に向かって微笑んだ。
「どうして解ったの?」
 透耶が不思議顔だったので、鬼柳は透耶の頭を撫でて、意味ありげに笑って、すっと透耶の額にキスをした。
 いきなりだったので透耶は驚く。
 長いソファの端までえ逃げて額を押さえて、真っ赤な顔をしている。
 ……なんでいきなりそうなるんだ!!
 さすがに従姉の前では、他人より照れ、動揺してしまうらしい。
 少し面白くなった鬼柳が、透耶に近寄って、逃げられない所まで追い詰めた。
 わざと顔を急接近させて、キスが出来そうな所まで迫っている。
「あの……恭……」
 透耶は顔を背けている。
 ……一体何なの?
「ん? 何?」
 鬼柳はクスクス笑っている。
「ここでは、恥ずかしいんだけど……」
 透耶がそういうと鬼柳はとぼけた顔をして言う。
「何が恥ずかしい?」
 そう聞かれて透耶は更に顔を真っ赤にする。
 ……だって、これってキスする時のじゃないか!
 心の中で透耶は叫んでいた。
 鬼柳がキスしたがっているという顔は、もう透耶には解ってしまっている。
 普段の声ではなく、甘いとろけそうな声で誘ってくる。
 だが、従姉の前でそれに応じる訳にはいかない。
 困り果てている透耶。
 その状況を止めたのは氷室斗織だった。
「それ以上はお止しになられた方が宜しいですわ」
 斗織がそう言って来たので、鬼柳は斗織を睨む。
 もう少し攻めれば透耶はキスを承諾したはずだったからだ。
「あ?」
 不機嫌そうな顔の鬼柳に斗織は平然と答える。
「私は一向に構いませんが、周りの方々には、少々刺激が強すぎるようですわ」
 それを言われて周りを見ると、興味津々な女子校生と埴輪になっている一般 客であった。
 透耶は一生懸命鬼柳を押し退けようとする。
 もう既に押さえ込まれている状態で、ただ空しくもがいているだけなのだが。
「外でこういうのしないって言ったじゃないか!」
 透耶が小声で叫ぶと、鬼柳はニヤリとして言った。
「それなら、ホテルにでも直行するか? そういや、透耶とは一度も行った事がないな。一度行こうぜ」
 満面の笑みの鬼柳。
 鬼柳が言っているホテルは、通常のホテルではなく、ラブホテルの事である。
「アホか!」
 透耶は声を押さえるのも忘れて、鬼柳の頭を殴り怒鳴った。
 行くまでもない、家で十分やりまくってるくせに!
 何で、ホテルまで行ってやらなきゃならないんだ!!
 透耶が本気で怒り出したので、鬼柳はこれまでかと諦めた。 
 だが、本気で今からラブホテルには行く気満々だったのである。
「ちっ、ちょっと雰囲気出て面白いと思ったのに」
 鬼柳は本音を吐いて舌打ちをすると、透耶から離れた。
 それを合図に、斗織が大介を見た。
 それだけで、大介は立ち上がって、離れたカウンターに行ってしまう。
 斗織は次に透耶を見た。
 言われなくても、斗織が何を言いたのかは透耶にも解っていた。
 さっきまで怒っていた透耶がいきなり立ち上がったので鬼柳は驚いた。
「透耶?」
 本気で怒って帰ってしまうのではないかという不安げな顔。
 ……だったらしなきゃいいものを。
 とは思っても口には出せない。
 鬼柳が不安げな顔だったので、透耶は笑って言った。
「怒った訳じゃないから」
 そう言い残して透耶はカウンターに座っている大介の元へと行ってしまった。
 状況は把握出来ないが、とりあえず透耶を一人にしておく訳ではないので、鬼柳も安心する。
「そんなに心配かしら?」
 ずっと透耶の方を向いていた鬼柳に斗織がそう言った。
 その言葉で鬼柳は我に返って、唯一残っている斗織の方を向いた。
「まぁ 一人にしとくと色々な」
 鬼柳はそう答えた。
 この前、街へ出て買い物をした時もそうだ。
 入り口で透耶を待たせていると、あっという間にナンパの男に取り囲まれていた。
 透耶を男だと解っているはずなのに、取り合いで揉めていた。
 なので、街では透耶を一人にさせては危険だと思い実行に移していた。
「大介はいいわけ?」
 鬼柳の独占欲は異常な程、それを斗織は見抜いている。
 だが、鬼柳はこう答えた。
「ありゃ、誰でも守りはするが、誰にも本気にはならない奴だ」
 鬼柳がそう答えると、斗織はクスクスと笑っている。
 大介への感想。
 それが一番正しい表現だったからだ。
「ある意味、昔の貴方という所かしら?」
 斗織の言葉を受けて、鬼柳は苦笑しながら煙草を吸い始めた。
「あんたには隠し事は出来ないな」
 鬼柳がそう言うと、斗織は笑って答えた。
「貴方は裏表の少ない方だから解りやすいのよ」
 斗織は平然として答えた。
 だが、鬼柳は妙な違和感を覚えた。
 それは、前に透耶に着いて出版社に行った時に会った作家から受ける感覚と違うからだ。
 人が気が付かない内に、斗織は人を観察してしまうのだ。
 だからこそ誰も気が付かない。
 鬼柳だからこそ、斗織が自分を観察していることに気が付いただけなのだ。
 それにしても裏表が少ないとは……。
 鬼柳は言われ慣れない言葉に苦笑した。
「そんな事言われたのは初めてだ」
 そう言った鬼柳に斗織は言う。
「裏表がなさ過ぎる分、他人は、貴方が本心を隠しているのではないだろうか?と考えてしまうのよ」
 斗織の言葉に鬼柳は納得してしまう。
 自分はいつも本音でやってきた。
 もちろん、人を喜ばせる事も、泣かせる事も、苦しめる事も、寂しくさせてしまうのも。
 それは全部本音だった。
 嘘をついた事はないとは言わない。
 だが、決定的な所で曖昧にした事もない。
 言葉は常に聞き入れていた。
 だが、鬼柳はそうしたモノが他人を不安にさせる要素だとは思いもしなかったようであった。
「そういうモノなのか?」
「ええ」
 斗織に言われて、鬼柳は感嘆してしまう。
 少ない言葉で自分を分析した人間は初めてだった。
 さすが、透耶の従姉と思ってしまう。
「そういうあんたは、見た目で判断するのは怖いな」
 鬼柳は斗織の印象はきちんとみた。
 この女は、見た目で判断するとヤバイ。そういう自分の中の何かが警戒をしている。
 透耶のは、これを少し柔らかくした感じだ。
 もし透耶の前にこの斗織に会っていたとしたら、絶対に手を出さないし、関わりに合いになりたくないと思っただろう。
 表現では、がけっぷち限界に立っていると言った方が解りやすかった。
 
 
 
「どうして透耶の事をそこまで気にかける」
 鬼柳はそう聞いていた。
 こういう種類の人間は、最小限にしか関わり合いにはならないだろう。
 それが例え従弟だとしても、この人間は血の繋がりすら切り捨てられるのだ。
 鬼柳の疑問に斗織は答えた。
「あの子は、私達の中で一番まともだから、羨ましいのもあるけれど、それよりも愛おしくて仕方ないの。私達でさえ、あの子には逆らえない。あの子の言葉に嘘はないから」
 斗織が透耶について答えると、鬼柳は納得した。
 透耶が何か重要な事を話す時、言葉を選ぶのは、本当に思っている事を確実に相手に伝える為だからだ。だからこそ言い淀むのだ。
 だから、嘘はないと言える。
「そんな、あの子が選んだ人だから、どんな人なのか少し興味があったの」
 斗織は鬼柳を話したかった訳を言った。
「感想は?」
 鬼柳はニヤリとして答えた。
「意外と言えば意外」
 斗織はそう答えた。
「こんなのだからか?」
 鬼柳は常に言いたい放題言われている。
 来る者拒まず、去る者追わず。
 それは自覚症状としてもあった。
 だが、斗織が言いたかったのは、そんな事ではなかった。
「いいえ。そうではなく、ここまで繊細な心を持った人とは思わなかったのよ」
 斗織がそう言った時、鬼柳は他では見せた事もない程のアホ面をしていただろう。
 繊細な心。
 そんな事言われた事はない。
 斗織から出てくる言葉があまりに新鮮で鬼柳は驚きっぱなしだった。
 ……さすが、透耶の従姉という感じか?
 そんな事を思っていたが、斗織からはまだ言葉が出続けている。
「それに、あの子の事だから、もっと割り切った態度でいると思ったの。なのに、貴方の事をとても信頼している。そして、全てを許している」
 全てを許す。
 その言葉に鬼柳はドキリとした。
 自分が透耶にした事ではなく、心で思っている事で思い当たる事があったからだ。
 誰にも言えない心の闇。
 それは次第に透耶が癒してくれている。
 斗織はそれを見抜いていた。
「あの子の為なら、貴方は何でもしてしまう。だからこそ、やらなければいけない事も解っている。貴方は、それに甘えていいと思うわ」
 斗織がそう言った。
 その言葉に鬼柳は愕然とした。
 それこそ、ずっと自分が思っていた事。
 暫くでいい、透耶に甘えていたい。
 まさに斗織はそれを言っているのだ。
「………」
 鬼柳が返答に困っていると、斗織の方から謝ってきた。
「御免なさい。見透かす様な事を言ってしまって。でも、貴方の心は繊細だから、あの子に負い目を感じて欲しくないの。貴方がする事は決まっている。それはあの子が一番よく解っているわ。それを切り出すのは、あの子の役目。それだけはあの子に与えて上げて欲しい」
 斗織は一気にそう言った。
 これは、透耶の相手だから話をしたいのではなく、鬼柳が繊細だからこその意見なのだ。
 それを斗織は少し離れた所で見ただけで判断をしたらしい。
「あんた……本当に何でも解るんだな」
 鬼柳はもうお手上げ状態で苦笑してた。
 不快どこか、ここまで見透かされると何も言えない。
「少しはホッとしたかしら?」
「ああ、そうだな。だが、透耶がそう相談したのか?」
 鬼柳はそう言った。
 透耶に甘えている事を悟られたくないとは思う。
 それを透耶に悟られたくないし、負担にさせたくない。
「いいえ。でも、貴方の顔にそう書いてあるわ」
 斗織はそう言ってクスクス笑う。
 観察するまでもないという所だろう。
「それがあんたの能力なのか?」
 鬼柳がそう聞くと、斗織は即答した。
「いいえ。必要に応じて身に付いたものよ」
 斗織がどういう状況にあるのか、それは鬼柳にとって興味は無い。
 だか、この氷室斗織にだけは、自分の心を悟られても別に構わないとさえ思ってしまったのだ。
 そしてお墨付きに、甘えていい、とまで言われてしまっては、もう感謝したいくらいだ。
 しかし、鬼柳は自分の分析はもういいとして、別のそれも聞きたかった事を切り出した。
「聞きたい事がある」
「どうぞ、答えられる事でしたら何なりと」
 斗織がそう言ったので、鬼柳はさっそく質問をした。
「玲泉門院って何なんだ?」
 まずは遠回りな質問。
 それでも、これは答えられる範囲だったらしく、斗織は答えてくれる。
「一言で言えば、全てを与えられた者」 
 この答えは確か光琉も言っていた。
 だが、納得出来る話ではない。
「呪いがあるのにか?」
 それには。
「それは代償でしょう。人の力ではどうにも出来ないモノだから」
 そう答えられて、鬼柳は少し困惑する。
「人の力が加わるモノなら、何でもできるという事なのか?」
 生命までは人間の自由にはならない。
 しかも玲泉門院の場合、病で倒れた人はいない。
 全員、即死なのだ。
 それでは、誰も手の出しようがない。
「ただし、本人に興味がなくても自然と手に入るモノもあるわ」
「地位、金か」
 鬼柳はそう言っていた。
「その通り、生まれた瞬間から、それを手にしているわ」
「それでか……」
 通りで呪われた一族という割には、名家などに生まれ育っているわけだ。
 経歴も半端ではない。   
 玲泉門院自体が名門ならば、結婚する相手もかなりの名門なのだ。
 呪われようとも、それを手にしたいなら、玲泉門院の者を結婚相手に選ぶ輩も多かっただろう。
 透耶は既に相当な金を手にしてしまっている。
 光琉は、地位、金と双方を手にしている。
 斗織は氷室という名を継ぎ、相当額の財産を受け継いでいる。
 その兄、馨は、氷室の重役まで上りつめ、活躍している。
 そして本家の玲泉門院葵は、玲泉門院の全てを受け継いだ。
 一人として地位や名誉、そして金を持っていない人間はいないのである。
 それが玲泉門院の血を継ぐ為に受けた恩恵。
 まるで座敷わらしである。
 ただし呪いさえなければであるが。
「忠告しておくわ。貴方があの子といる限り、貴方もその恩恵を受けるという事」
 斗織がそう言った。
 地位や名誉、そして金。それが全て手に入るのだ。
 だが、鬼柳はとたんに不機嫌になる。
「そんなやっかいなもんはいらねぇ。俺は透耶さえいればそれでいいんだ」
 これは本心だった。
 本当に透耶だけでいい。
 地位や金がなくても、透耶さえ側にいてくれれば、鬼柳は何もいらなかった。
 鬼柳の言葉を聞いた斗織は、ニコリと微笑んだ。
 今までの作った表情ではなく、本当に自然と出た笑顔だった。
 心の底から嬉しくて微笑んでいるのだ。
「あんた、そうやって笑ってればいいのにな」
 鬼柳は思わず余計な言葉を言ってしまった。
 だが、透耶と同じ顔で人形みたいにして欲しくないという感情も含まれていた。
 もしかしたら、昔透耶はこうだったのではないだろうか?と思ってしまう表情。
 高城と言い合っていた時、透耶には表情がなかった。
 それと斗織は瓜二つなのだ。
「それは無理だわ。私はあの子のように人に関わる、人に好かれる訳にはいかないの」
 そう言った斗織の表情は、もう元の人形に戻ってしまっていた。
 余程の事がない限り、まだ成人もしていない少女がこんな表情をする訳がない。
「周り、物騒だな」
 鬼柳がそう言うと斗織は驚いた顔をして鬼柳を見た。
「あら? 解ってました?」
 鬼柳に気付かれないとは思わなかったが、そこまで神経が行き届いているのは斗織には驚きだったのだ。
「いや。さっき透耶を見てた奴の中で異様なのがいたからな。アレはあんたの方だろうと思っただけだ」
 異様で物騒なという人物は、もう店内にはいなかった。
 斗織がここへ入ってきて、透耶が席を外したとたんにいなくなってしまっていた。
「アレは無害よ。ただ私を監視しているだけなの」
 斗織はそれが日常茶飯事だと言った。
 あんな異様な者に関わり合いになるのは、かなり危ない位置にいる事になる。
「あんた、死ぬのか?」
 鬼柳がそう言った。
「ええ」
 斗織は即答した。
「約束を破ったのはあんただったな」
 鬼柳はそう言った。
 死ぬのかと聞かれて、ええと即答する相手。
 それは以前透耶が話してくれた、従姉だけだからだ。
「約束ね。ええ破ったわ。でもそれは必要だったのよ」
 斗織は目を初めて背けた。
 暫く言葉を待っていると、斗織がポツリと話し出した。
「これは、もしかしたら透耶にも影響が出てしまうから言うわ。私はある男と死ぬ の」
 斗織は真剣に言った。
 妄想でもなく、はっきりとした意志。
「透耶に影響とは何なんだ?」  
 透耶に関わる事なら、何でも聞くという体制で鬼柳は言葉を待った。
「ないとは言えない。だから、来年の3月4月。ちょうど桜が咲いている時期にはあの子から離れないでいて欲しいの」
 斗織の言葉に、鬼柳は奇妙な顔をした。
 斗織は時期を限定にしていた。
 つまり、死期を知っているのだ。
 だが、それは追求しない。
「離れないだけでいいのか?」
 鬼柳がそう聞くと斗織は頷く。
「ええ、その時、側に居てあげて。そして、何があっても邪魔しないで見てて欲しいの」
 更に奇妙な提案に、鬼柳は混乱する。
 一体どういう意味なんだ?
 まるで暗号のような言葉。
「見てるだけでいいのか?」
 鬼柳がそう問い返すと、斗織は頷く。
「あの子の言葉には絶対に逆らえないから。あの子ある特殊な言葉を持っているの。だから見ているだけでいいの」
 それこそ意味不明。
 透耶が特殊な暗号を持っているから、何かあっても大丈夫だと言っている。
 だが、鬼柳には解ってしまった。
 透耶は斗織がどうやって死んで行くのかを無意識的に知っている。
 そしてそれには口出ししてはならない。
 確かに透耶は、「自殺は容認する。必要だから」とは言っていた。それが関係しているのかもしれない。
 だが、いくら死期が解っていても、理由に納得しても、斗織が死んでしまうのを寂しく思っている。
 そんな時に透耶を一人にしておくのは良くないと斗織は言っているのだ。
 それが精一杯の斗織から透耶へのお礼。
「解った。後は任せろ。あんたはあんたの好きなようにやればいい」
 鬼柳がそう言うと斗織は頭を下げて礼を言った。
「ありがとう。これを言いたくて、わざわざ待って貰ったの」
 斗織は鬼柳と話したかった理由はこれにあると言った。
 残して行く者、それも双子のように仲が良かった透耶を思い遣っての行動だった。
 それは、斗織を知る人物達からすれば、驚きな状況である。
「だが、あんたら、俺と透耶の関係を反対しないんだな」
 鬼柳がそう切り出すと、斗織はその言葉が不思議な言葉に聴こえたらしい。
「反対? 何故?」
 拍子抜けな問いかけに鬼柳は驚いてしまう。
 ここまで関心がないのもおかしすぎる。
「寛容過ぎて、拍子抜けしたんだ」 
 鬼柳が正直にそう言うと斗織は納得して理由を話してくれた。
「私達は、あの子が幸せならそれでいいだけなの。今、あの子とってもいい顔をしてるわ。そうさせているのは貴方でしょ? それなら反対などしないわ。私達は安心して見ていられるもの」
 斗織がそれが反対をしない理由と鬼柳は納得した。
「そうだわ。玲泉門院について、何か知りたいのなら、本家にいる葵さんを訪ねるといいわ」
 斗織がそう言った。
 確か、光琉も同じ事を言っていた。
 もしかしたら、葵という人物以外は、呪いの事以外あまり知らないのではないだろうか? そう思えてきて仕方ない。
 ……はあ、やっぱり京都だな。
 鬼柳は溜息を吐いた。
 斗織でさえ、この雰囲気なら、本家にいるのは化け物としか思えないのだ。
「まあ、京都へは行く予定があるから、ついでに本家とやらにも寄るだろう」
 鬼柳はそう答えたが、内心、絶対全部聞き出してやる!である。
 なんとか話も終わって、先に斗織が席を立った。
 するとそれに気が付いた透耶が戻ってくる。
「斗織……」
 鬼柳に何を言ったんだろうと気になっているような顔の透耶に、斗織は柔らかい笑顔を見せた。
「大丈夫よ、何もしてないわ」
 斗織はそう言って、透耶の肩を撫でた。
 それだけで斗織の言葉を信じたのだろう、透耶は別の事で不安げになっている。
「元気で。幸せに生きなさい」
 まるで最後の別れの様な言葉。
 だが、透耶もそれを受け継いで頷いた。
「うん、俺大丈夫だから、もう心配しなくていいよ」
 透耶は微笑んで言った。
 自分は今凄く幸せだから、残していく事を心配しなくいいという意味だった。
 それは当然斗織に伝わっている。
 透耶と斗織がそれだけ会話を交わせると、斗織達の方が先に店を後にした。
 透耶はそれを見送ってから、鬼柳の隣に座った。
 そして鬼柳にもたれかかる。
「透耶があいつの分も幸せに生きてやればいい。それだけであいつは、嬉しいだろうよ」
 鬼柳が何気なく言った言葉に透耶は「うん」とだけ頷いた。
 まだまだ先ではあるけれど、いつかは先にいなくなる人。
 それはとても悲しい事である。
 鬼柳にとって、氷室斗織という存在は、ある意味特種でそして異質。
 だが、不快感をまったく感じない相手だった。
 もう話す機会はないだろうが、それでもこの機会に会えた事は良かったと思えた。
 

 しんみりとしてしまった雰囲気をどうにかしようと透耶は顔を上げて微笑もうとした。
 その時、意外な人物が目に入ってきた。
「あ、平治さんと鏡花さんだ」
 ファミレスに入ってきた二人は何故か透耶達以上に浮いている。
 おやっさんは夏だから暑いのだろうが、タンクトップにジーンズに草履。鏡花は流行りのファッションで決めている。それが並ぶと妙としかいいようがない。
「珍しいな、二人一緒にこんな所に」
 二人を見知っている鬼柳でさえ変だと思ってしまう行動だったようだ。
 手を上げて二人に合図すると、二人も気が付いて透耶達の席にやってきた。
「久しぶりじゃないの、鬼柳。それに透耶君」
 鏡花はそういうや否や、透耶の隣に座ってくる。
「久しぶりだな」
 おやっさんは立ったままで鬼柳に挨拶をした。
「ああ、久しぶり。ちょっと悪いが暇なら、少し透耶を見ていてくれないか?」
 鬼柳は適当に挨拶をすると、二人を呼んだのには意味があるという風に言った。
「ああ? なんか用事か?」
 おやっさんは不思議そうな顔をしたが、取りあえず透耶を連れて行けない訳を知りたがった。
「まあ、透耶を連れて行く場所じゃないからな」
 鬼柳がそう答えると、立ち上がった。
「恭?」
 鬼柳がいきなり立ち上がったので透耶は不安顔で鬼柳を見上げた。
 鬼柳はそんな透耶を安心させるように頭を撫でて言った。
「ちょっとおやっさん達と話してな。残りの買い物済ませてくるから」
 鬼柳はそう言ったが、残りの買い物と言われても、今日の買い物は全て終わっているはずだった。
「残り?」
 一体、何が残っているのだろうと不思議顔の透耶におやっさんが耳打ちをしてそれを教えてくれる。
「そんなの、セックスする時のローションとかに決まってるだろうが」
 そのおやっさんの言葉に、透耶の思考は止まってしまう。
 ……え?
 今、なんて言った?
 え?え?
 パニックになってしまった透耶。
 鬼柳はおやっさんを睨み付ける。
「余計な事を言うな」
 鬼柳が怒って言ったのだが、おやっさんはふふんと笑って言い返した。
「本当の事だろうが」
 確かにそれは事実だった。
 買い物帰りにいつもの店に寄るつもりだったのだが、そういう時はいつも透耶を車で待たせてからにしている。
 だが、今回は丁度透耶の沈んでいる心を浮上させるには自分以外の誰かと会話した方がいいと判断したから頼んでいるのだ。
「本当でも言うなって言っているんだ」
「今さら何言ってんだか」
 鬼柳とおやっさんが頭の上で言い合いをしていると、やっと思考が戻って来た透耶が真っ赤な顔をして俯いてしまった。
 それはもうゆでダコのように耳まで真っ赤になってしまっている。
 鬼柳からの行為には慣れてはいても、さすがに面と向かって言われた言葉には弱かったのである。
「いやーん、可愛い、照れてる~」  
 鏡花がそう言って透耶を抱き締めた。
 まるでお気に入りの人形でも抱き締めるかのように、スリスリとさえしてくるのだが、透耶はそれどころではない。
「やる事やっといて、今さら照れる事か?」
 鬼柳以上にデリカシーのないおやっさんがそう言い放つと、透耶はますます顔を赤らめてしまう。
 だが、そこは鬼柳が言い返した。
「透耶はウブなんだよ。だから余計な事を言うなっていってんだ」
 とはいえ、一番余計な事を言っている鬼柳が言っても説得力がまったくない。
 少し思考が回復していた透耶はそう思っていた。
 ……恭だって似たようなものじゃないか……
 通りで平治さんと馬が合うはずだ。似た者同士なんだもん。当たり前だ。
 言いたい事をありのままに言う所は、鬼柳もおやっさんも変わらないのだった。
 喧嘩腰な話し方だったが、これがいつもの鬼柳とおやっさんなのである。
「鬼柳の事だから、しつこいでしょ? マンネリにならないようにおもちゃ送ろうか?」
 と、いきなり鏡花がそう言った。
 それこと透耶はまた固まってしまう。
 おもちゃって……あれの事……?
 以前、お仕置きだと言われて無理矢理入れられたディルド。その記憶が蘇ってくる。
「い、い、い、いりません……」
 消え入りそうな声で透耶はなんとか断った。
 あれは透耶が嫌がって以来使った事はないし、それ以来見かけない。鬼柳は鬼柳で、透耶が嫌がった事よりも、あんなものでは嫌だと言い、鬼柳でなければと言った透耶の言葉を嬉しがって、二度と使おうとは思っていなかった。
 透耶が必死で断っているにも関わらず、鏡花の障り攻撃は止まらない。
「あらあら、こんな所にキスマーク」
 そう鏡花が言って透耶の服の襟を引っ張って中を覗き込んでいる。
「きょ、鏡花さん!」
 透耶はなんとか鏡花を押し退けようとするのだが、鏡花の何処にそんな力があるのだろうかと思う程の力で透耶は押さえ付けられていた。
 なんで、俺、女の人に押さえ付けられて、身動き出来ない訳???
 透耶は自分の非力さを嘆いてしまう。
 まあ、コツさえ解れば、人間を簡単に押さえ込む技を鏡花が持っていただけに過ぎない。
「呆れたぁ。歯形までついてる~」
 鏡花は本当に呆れていた。
 鬼柳が透耶に御執心なのは分っているが、ここまでだとは思っていなかったようだった。
 首筋にあるのは、キスマークだけではなく、歯形の印も付けられている。
 鬼柳はキスマーク以外にも歯形をあちこちに残している。何故そうした印を残そうとしているのかは解らないが、少し噛まれただけでも一週間は綺麗に歯形は残ってしまう。透耶の身体は痕が残りやすく、消えにくいのである。
 その歯形を見た鏡花がさらに呟く。
「食べちゃいたいくらいにいいって事なのかしら?」
 そう問われても透耶が答えられるはずはない。
 鬼柳が何を考えて歯形まで残すのかも分っていないからだ。
 食べたといえば食べたといえるのだろうが。
 更に透耶の身体を調べようとする鏡花。それに何とか抵抗している透耶。
 鬼柳が爆発して怒らない前に、おやっさんがそれを止めた。
「鏡花、脱がすんじゃないぞ」
 あくまでも人前であるという常識はおやっさんにはあったらしい。
 脱がす事を禁じられた鏡花は素直にやめてしまう。
「はーい、ボス」
 おやっさんの言う事なら何でも聞くとばかりに、鏡花はさっと透耶の服から手を離した。
 一応これで助かったと透耶はホッと息を吐いたのだが、そうは問屋が卸さない。
「肌の艶いいわねえ。大事にされているってすぐ解るわ~」
 鏡花は言って、透耶の頬を両手で包んで撫でてくる。
 攻撃が終わったと思っていた透耶はまた何かされると怯えてしまう。
 どうして、鏡花さん、俺にそんなに触るの!?
 何? 何なの!?
 とパニクッてしまう。
 拒絶しようにも、鏡花を無下には出来ない透耶。
 いい加減触られるのが嫌になってきてしまった。
 元々他人にベタベタと触れられるのは苦手なだけに、どうしていいのか解らなくなってしまっていた。
 見兼ねた鬼柳がそれを止めに入る。
「いい加減、人のモノに触るのをやめろ」
 普段なら、速攻止めているはずの行動でも、鬼柳は日本で世話になったこの二人には滅法寛容な所があったらしい。
 鬼柳は止めに入った際、透耶を触っていた鏡花の腕を捻り上げていた。
 さすがにこれは痛いらしく、鏡花もパッと透耶から離れた。
「痛いって! 冗談だってばぁ!」
「お前の冗談は度が過ぎるんだ。次やったら骨折るからな」
 鬼柳は今まで耐えていたんだとばかりの低い声で鏡花を脅した。それは本気の言葉だった。
 鬼柳の本気が分った鏡花は言葉なく頷いた。
 これ以上の冗談は通じない。
 特に、透耶を絡めた冗談は、初めから鬼柳には通じないのかもしれない。
 寛容に見てもらっていたのは、ただずっと知り合いだったから、世話になったからというだけの恩なのだ。
 鏡花が透耶から手を離した所で、鬼柳も鏡花の手を離した。
「とにかく預けて行くから、しっかり見ててくれ」
 鬼柳はおやっさんにそう言った。
 だが、おやっさんは少し離れた席に座っている黒服の男二人をちらりと見てから言い返した。
「何言ってやがる。SPまでつけておきながら」
 透耶達から少し離れた所で、富永と石山がずっとこっちを見ている事は鬼柳も解っている。
 鬼柳と一緒の時は、少し離れた位置で彼等は待機して透耶を守っているのだ。
「あいつらは、あいつらだ」
「へぇ」
 おやっさんはニヤニヤしながらそう言う。
 つまり、鬼柳が言いたいのは、透耶の話相手になる相手が欲しい訳で、いつも一緒にいるSPではなく、懐かしく出会ったおやっさんと鏡花に透耶の話し相手になって欲しいと思っていたのだ。
 その方が透耶の気が紛れると思っていたからこその願いなのだ。
 もちろん、おやっさんもそれは解っている。
 ムッとして鬼柳はおやっさんを睨み付けた。
 それが今まで見てきた鬼柳の表情ではなく、可愛らしい怒り方だったので、おやっさんは可笑しくなってしまう。
 こりゃ、かなり透耶に影響されて少し子供っぽくなってやがるな。
「分ったってば。しっかりと見てるから、さっさと行ってくれば?」
 さっきの事などまったく気にして無い鏡花が鬼柳にそう言った。
 さっきはやめろと言ったのに、さっき程ではないが、鏡花は透耶の頭を撫でたりしている。
 透耶はどうしていいか解らない顔をしている。
「……行って来る」
 任せていいのか不安になりながらも、このまま言い合っていても埒があかない思った鬼柳はファミレスを出て行った。
 一人残されてしまった透耶は不安になってしまったが、鬼柳がいなくなると、すぐに鏡花の触り攻撃はやんでしまった。
 どうやら、本当に鬼柳をからかう為に透耶に構っていただけだったようだ。
 立っていたおやっさんが、透耶と向かい合わせになる席に座って、じっと透耶を見つめてきた。
 すると、鏡花はさっさと別の席に移ってしまった。
「……あの?」
 何か変な感じがして、透耶は鏡花を見てそれからおやっさんに視線を移した。
 おやっさんは何も言わずに、鏡花に自分用のコーヒーを注文させると、タバコを一服吹かせてから透耶に言った。
「あいつ、まだ仕事してねぇのか?」
 いきなりのおやっさんの言葉に透耶は驚きながらも聞かれるだろうと思っていた。
「え、あ、はい……」
 最後の「はい」は小さな返事になってしまった。それもそのはず。鬼柳が仕事をしない事は透耶もずっと気に掛けていた事だからだ。
 いつか誰かに言われる。
 それも解っていた。
「透耶がいやぁ一発でやりそうなのにな」
 おやっさんは本気でそう思っているらしく、透耶をけしかけるように言った。
 だが透耶はそれに首を横に振って答えた。
 それだけはないと、はっきりと言えるからだ。
「それは、今は無理です。俺の言葉なんて今は通じないんです」
 透耶はそう答えた。
 ことあるごとに透耶は鬼柳に仕事の話を持ち出してやる気になるように仕向けてはいた。
 それでも鬼柳の中にあるモノが納得しない限り、何かきっかけがない限り、透耶の言葉でさえ鬼柳は受け付けないのだ。
「何故だ?」
 おやっさんは不思議そうに訳を聞いた。
「恭の心の問題です。確かに俺の方もそうですけど、恭の方にも何かきっかけが必要だと思うんです」
 透耶はそう答えた。
 ずっと一緒にいたい。
 それはずっと側にいることではないと、透耶も鬼柳も解っている。
 透耶は、鬼柳に元の仕事に戻って欲しいとは願ってはいても、心では離れて欲しく無いと思っている。
 鬼柳も、このままではダメだと解ってはいても、透耶の側で甘えていたいと思ってしまっている。
 それではダメだと解っているのに、双方が踏み出せないでいる。
 透耶はそのきっかけとして、鬼柳を良く知っている人物、もしくは透耶の事を良く知っている人物の助言や言葉が必要だと思っていた。
「それが、この旅行なのか?」
 透耶達が旅行に行く事は伝わっているらしい。おやっさんはそれがどんなきっかけなのかさっぱり解っていなかった。
「はい。京都は俺の実家があります。それから、俺の事を良く知っている人がいるんです。そこでアドバイスをくれる人が二人います」
 透耶はそう答えた。
 その二人に会わせる為に、透耶は京都行きを決めたのだ。ただの旅行ではない。意味がある旅行。
「その二人の言う事なら聞くってのか?」
 おやっさんは鬼柳が透耶以外の誰かの言葉を素直に聞いて仕事に戻るとは思っていない。
 もちろん、透耶もそれは解っている。
「いえ、ただきっかけになればいいと思っています」 
 透耶はそう言って微笑む。
 確証はない。けれど、何かの原動力にはなるかもしれない。そういう話が京都では聞ける。
 特に鬼柳の為になる、自分が関係している話はそこで全て解るはずなのだ。
 透耶の事で心配がいらなくなれば、鬼柳も自分の事に向き合うようになるかもしれない。
 そうした期待を透耶はしていた。
 そして、自分の背中を押して貰う為にも京都へ行く事は必要だとも思っていた。
「そうか、そこまで決めているなら、俺が口出しする事じゃないな」
 おやっさんはそう言って微笑んだ。
 鬼柳が仕事をしない事を責めているのではなく、その理由を透耶のせいにしている鬼柳に苛立っていただけなのだ。
 だが、透耶が強く勧めても出来ない理由が鬼柳の中にあるのなら、それは自己解決するしか方法は無い。
ただ、透耶に出来るのは最後の一押しだけなのだ。
 その一押しさえ、透耶は誰かにして欲しいと思っていた。
 決断する勇気。
 それが今は無い。
 誰も愛さないと決めてから、鬼柳を愛してしまったので、引き際が解らないのだ。
 誰かの言葉を鵜のみにするつもりはないが、信用出来る人の言葉なら、自分は前に向いて考えられる。
 その言葉が欲しいだけなのだ。
「心配掛けてすみません。でも、恭はちゃんと考えてます。俺も恭の支えになれればとは思います」
 弱そうに見えて、透耶はちゃんと先を考えている。
 それはおやっさんにも意外な事だった。
 先を見ないようにしているのは、鬼柳の方だったのだから。
 ……あいつも恋すると弱くなるんだな。
 おやっさんは鬼柳になかった弱さを見て、あいつも人間だったのだと再認識した。
 そこへ買い物を済ませた鬼柳が帰って来た。
 余程急いだのだろう、少し汗をかいていた。
「恭、汗かいてる。外暑かった?」
 透耶は慌ててハンカチを出すと、汗をかいている鬼柳の額や顔を拭いていく。
 鬼柳は鬼柳でされるがまま。それどころか、にこにことして透耶に汗を拭かせている。
 これが幸せだとばかりの表情に、おやっさんも鏡花も呆れ顔だ。
 透耶と出会う前の鬼柳を知っているだけに、鬼柳が出入りしていた店などの人間がこれを見たら別 人だと思うだろう。
「買い物終わった?」
 透耶はなにげなしにそう言ッてしまったのだが、鬼柳の買い物の内容を思い出して、はたっと止まッてしまう。
 ヤバイ……。
 透耶がそう思ったのと同時に鬼柳が言い放った。
「これで、痛く無いから、透耶といっぱいセックス出来るぜ」
 そう返ってくるとは思っていただけに透耶は脱力してしまった。
 聞いた俺が馬鹿だった……。
 とほほとしている透耶をおやっさんと鏡花が見て笑っている。
「じゃ、俺らは帰るな。透耶を見てくれてありがとう」
 透耶に手を出して席から立たせると、鬼柳はそう言った。そんな言葉が鬼柳から出てくるとは思わなかったので、おやっさんも鏡花もキョトンとしてしまった。
「お世話になりました」
 透耶も頭を下げて礼を言った。
「ああ、またな」
「またね」
 そう挨拶をして二人と別れて透耶達はファミレスを出た。



「透耶何話してたんだ?」
 鬼柳にそう聞かれて透耶はクスリと笑って言った。
「恭の事だよ」
「俺の事?」
「色々とねぇ」
 と透耶は言ってクスクス笑っていた。
 鬼柳の仕事の事を話したのは秘密だった。もちろんそれが聴こえていたはずの富永も石山もそれを話したり告げ口したりしない。
「本当に俺の事なのか?」
 鬼柳は運転をしていない富永に聞く。
 富永は笑って「その通りです」と答えただけだった。確かに鬼柳の事を話し合っていたので嘘の報告では無い。ただ内容を言わないだけだった。
 それが富永や石山の気遣いだと、透耶は気付いていた。ちゃんと透耶の内情を解ってくれている二人に、透耶は心の中で頭を下げていた。
 本当に頼りになる人達でよかった。
 鬼柳は鬼柳で何を噂されていたのか気になっていたが、透耶が楽しそうにしているから、大した事ではないと思ってそれ以上追求はしなかった。