switch20

「ん?」
 ぼやっとした意識の中で透耶は目を覚ました。
 だが、それがいつもの目覚め方でないのは、ぼんやりながらも解った。
 一番初めに思ったのは、匂いの事。
 あれ? ……恭の匂いがしない。
 それが最初の違和感。
 次に寝返りを打とうとして、身体がいやに重い事に気が付く。
 ダルイ……。
 無理矢理に身体を動かして、シーツに手が触れたとたん3つ目の違和感。
 感触が違う。
 こうじゃなくて……もっとさらっとしてて……。
 ぼやけたままで、思わずシーツの質感の言い訳をしてしまう。
 目蓋をしっかり開けようとしても重くて重くて仕方が無い。
 寝過ぎたんだろうか?
 そういう感覚。
 しかし、目蓋に意識を集中して、開き、何度か瞬きをしたところで視界がクリアになった。
 白い壁。
 瞬時に変だと感じた。
 ベッドで寝ているなら、壁はこんな近くには無い。
 そして、壁の色は、透耶が好きなブルーの色をしているはずだ。
「絶対、変!!」
 腕の力で上半身を一気に起こした。
 その時、自分の身体に纏わり付くものがあった。
「え?」
 視界に入ったそれを掴んでみる。
 ぎゅっとして引っ張ってみると自分の頭に繋がっているようだ。
 長い、真っ黒な髪。
 な、な、な、な、な、何!?
 握ったまま透耶は放心した。
 何だこれは?
 いや、この感触は二度目だ。
 ……鬘だ……。
 何で寝てる間に鬘なんか被ってるんだ?
 変だ、変過ぎる。
 俺、どうしたんだっけ?
 てか、ここ何処!?
 透耶はやっと自分が居る場所に感心を持つ事が出来た。
 クルリと部屋を見回す。
 丁度部屋は十畳程のフローリングで、ここには今透耶が乗っているベッドと、ソファテーブルに6畳の絨毯、テレビ、ビデオ、そして冷蔵庫がある。
 そしてベッドから右を見ると、ドアが二つある。
 一つは普通の木のドア。もう一つは木のドアなのだが、明り取りなのだろうか、中央に小さな擦りガラスが付いている。
 もう一度部屋を見回して、透耶は悩んだ。
 ま、また?
 蘇る記憶。
 気が付いたら何処だから知らない場所に運ばれているという現象。
 ここ数カ月、何度あった事か。
 だが、それが今までのものとは違う事は、もう一度部屋を見渡して感じた。
 ここには、外部を見る窓が一つも無いのだ。
 まるで、人を閉じ込める為に造られた空間としか思えない。
 どうして自分がこんな所にいるのか。
 透耶は自分が覚えている最後の記憶を辿った。






 ちょうど六月に入って数日経った頃。
 透耶の周りで妙な事が起り始めた。
 まず、透耶宛ての宅急便が来た事に始まる。
 書斎でいつものように仕事をしていると、宝田が大きな箱を持って入って来た。
「透耶様。宅急便が届いておりますが、どちらにお運びしておきましょうか?」
 そう言われて透耶はパソコンから視線を上げた。
「宅急便? 誰だろ?」
 宅急便といえば、ここ最近は、エドワードかジョージからの洋服や出張先からのお土産などが殆どな状況。
 もし宝田が知っている人物からなら、誰々からですと言うはずである。
「こちらで宜しいですか?」
「はい。ありがとうございます」
 透耶が礼を言うと、宝田は宅急便を書斎のソファテーブルに置いて下がっていった。
 透耶は仕事も一段落したので、その差出人を確かめてみる。
 差出人名は、田辺光子となっている。
「田辺? 誰だろ?」
 住所を見てみるが、横浜辺りの住所になっている。
 田辺光子で横浜辺り在住の知り合いには心当たりは無い。
 もしかしたら自分が忘れているだけなのかもしれないと思い、システム手帳を開いて探してみる。しかし、田辺光子の名前は見つからなかった。
 だが、ここの住所を知っているくらいの相手だから、光琉関係というのもあり得るかもしれない。光琉のスタイリストが変わって、自分の名前で送ってくるというのもあるからだ。
 十分程、宅急便の前で悩んで透耶はそれを開けてみる事にした。
 中に手紙かメッセージは入っている可能性もある。
 なるべく丁寧に包装を剥がし、箱を開けてみる。
 が……。
「どういうこと?」
 透耶が呆然したのも無理は無い。
 そこから出て来たのは、女性ものの服、それも真っ白なワンピースだったからだ。
 絶対俺にじゃない!
 絶対間違えてる!
 誰か別の人に送るのに、たまたま俺の名前が住所欄の下か上にあったから、頼まれた誰かが間違えて送って来たんだ!
 そう透耶は言い切ってみたが、そうではない事がすぐに判明した。
 添えられているメッセージには。

『透耶、君にはこれが一番似合うよ』

 そう書かれていたからだ。
 俺、宛てですか?
 何かの嫌がらせですか?
 目的は何ですか?
 これを俺に着ろと言うのか?
 思わず、ワンピースを投げ付けたくなる衝動に駆られる。
 だが、そのワンピースがブランドモノであるのは、いくら透耶が男でも知っている女性服の有名ブランドメーカーである。だから瞬時に怒りは収まる。
 汚れたりして弁償しろとか言われたら、どうしよう……。
 俺宛てなのは間違いないとして。でも田辺光子という人は知らないし、ましてや、女性モノの服なんて、どう考えてもおかし過ぎる。
 いろいろ考えてみたが、答えは一つしかない。
 鬼柳に相談する前に、まず宝田に相談する事にした。



 内線の携帯で宝田を書斎に呼んで、それを見せた。
 宝田もすぐに事情が呑み込めたらしく、すぐに包み紙にある住所氏名電話番号を控えている。
「すぐにお調べ致します」
 つまりそこへ電話を直接かけてみるという事だ。
 でも宝田の調査はこれだけではなかった。
 十五分程で宝田が書斎に戻ってくる。
「まず結果から申し上げます。この電話と住所は存在致しません。それから、こちらのブランド店に問い合わせた所、これを購入したのは20前後の男性で、雑誌カタログを持って来店し、頼まれたモノだと言って購入し宅配にしたそうです。残念ですが、現金払いをしたそうですので、男性の氏名などは確認出来ませんでした」
 たった十五分でそこまで調べてくるから、宝田には驚かされる。
 現金払いで残念というのは、ブランドモノだからクレジットカードを使っている可能性があるとみていたらしい。
 田辺光子は、男が使った偽名である事は判明した。
 もし田辺光子という人物が実在するなら、電話や住所を偽る必要がないからだ。
 では、これは一体何なんだろうか?
 透耶にはそれが解らない。
「これは悪質な嫌がらせかもしれませんね」
「え?」
 宝田の言葉に透耶はキョトンとする。 
 宝田は、大変失礼ですが、と前置きしてから言った。
 透耶を女性と見間違えたか、あるいは男性と解っていて、わざと送ってきているのかもしれないと言った。
 すると透耶は。
「随分、お金のかかる嫌がらせですねぇ」
 などと感想を洩らした。
 透耶の呑気な言葉に、宝田は思わず笑ってしまう。
 ただの嫌がらせなら、こんなブランドモノなど送っては来ないはず。
 余程のお金持ちが暇つぶしにやっているとしか思えない。
「でも、これどうしよう」
 送り返そうにも、相手が偽名を使っているなら送り返せない。
 店に送り返しても、店側も受け取る訳にはいかないだろう。
 当然、透耶が貰って着る訳にもいかない。
「こちらの方は私が処理しておきます」
「お願いします」
「恭一様には、私からお話しておきましょうか?」
 宝田がそう申し出たが、透耶は少し考えて首を振った。
「いいです。たぶん、これで収まると思いますし……あまり心配かけたくないから」 
 透耶はそう言って、取り合えず、この件に関しては黙っている事にした。
 こんなのは無駄に相手にするものではないと思ったからだ。


 だが、それは一回では終わらなかった。


 2回目、3回目となると、さすがに宝田は黙っている訳にはいかないと思い始めていたが、同じ差出人からの宅急便は受け取り拒否にしていたので、透耶はそれでいいと言って、鬼柳には黙っているように言い続けた。
 それを無視している間に、透耶は嫌な体験をした。
 ある日、眠っていると誰かが側にいる気配がしたのだ。
 鬼柳なのだろうかと思っていたが、何か違う気がした。
 覚醒して、上半身を起こした所で、透耶はここにはない、誰か違う人間の匂いが残っている気がした。
 だが、寝室のドアは閉じられている。
 バルコニー側は開いているが、風に揺れるカーテンしか見えない。
 そこへ鬼柳が乾いた服を片付ける為に入って来た。
 透耶がベッドに座っているのに気が付いて声をかけた。
「お、やっと起きたか」
 そう鬼柳が言ったのだが、透耶はバルコニーの方を向いたままで動かない。
 寝惚けているのだろうかと思い、服を棚に一旦置いてベッドに腰をかけてまた声をかけた。
「透耶、どうした?」
 鬼柳がもう一度そう言うと透耶はゆっくりと振り返った。
 その透耶の顔は寝惚けている顔ではなかった。
「……恭、さっきここにいた?」
 透耶が小さな声で言った。
「は? いや、今入って来た所だぞ。今まで下にいたが……?」
 鬼柳がそう答えると、透耶は今にも泣きそうな顔をして鬼柳に抱きついてきた。
「透耶、どうしたんだ?」
 抱きついてきた透耶は震えていた。
 こんな事は今までなかった事だ。
 どうも様子がおかしい。
「何かあったのか? それとも怖い夢でも見たのか?」
 鬼柳は優しい声でそう言い、透耶を抱き締め返して背中を撫でる。
 透耶は、自分が感じた感覚が、現実なのか、それとも夢なのか解らなかった。
 でも、ここに誰かが勝手に入ってくる事など簡単にできるはずもない。そうなると、透耶は自分は夢を見たのかもしれないと思い始めた。
 迷った末に透耶は夢を見たと言った。
「そうか、じゃ寝る時はずっと抱いててやる。そしたら夢なんか見ないぞ」
 鬼柳が笑って言うと透耶は苦笑して言った。
「そんなのいつもじゃん」
 そう言われて鬼柳はそれもそうかと納得してしまう。
 寝ている間、鬼柳は透耶を離さないし、透耶も鬼柳から離れない。
 これ以上何の夢を見ろというのだという状況である。
 透耶は納得してしまった鬼柳を見つめて真剣に言った。
「恭が起きる時、一緒に起こして」
 妙な事を透耶が真剣に言い出したので鬼柳は首を傾げた。
 普段、どんな事があっても、起こそうとしたって起きない透耶が、予定もないのに起こして欲しいというのは、珍しいどころの話ではない。
 眠る時はいつも一緒で、たまにどちらかが早くベッドで寝ているくらいなものだ。
 透耶が言っている意味は、一人で寝るのが怖いという風にしか聞こえない。
 どんな夢を見たらそうなるのか、気になって聞くと、透耶はここに誰か知らない人がいた気配がしたと答えた。
 夢だと透耶は言ったが、それはあまりにリアルで現実と区別出来なかったくらいだったのだ。
 それで透耶は恐がっている。
 気のせいにしては、透耶がこれほど気にするのも気になる。
 鬼柳は、透耶が起きて風呂に入っている間にバルコニーを調べて見たが、とくに何かあるわけではなかった。
 とにかく透耶が恐がる原因を減らす為に鬼柳は透耶に言われたように、朝起きる時は一緒に起こしていた。透耶も素直に起きてくる。だが、寝惚けているから書斎にいるようにと言うと、何故か嫌がって鬼柳の服を掴んで離さない。
 仕方ないので、そのままで鬼柳は朝の仕事、食事や洗濯を済ませる。
 一時間程すると、透耶は完全に目を覚ましていつも通りになる。
 それは変な事なのだが、鬼柳にはちょっと嬉しい事でもあった。いつもは鬼柳が透耶の後をついて歩いているから、透耶が鬼柳の後を必必死でついてくるというような事がなかったからだ。

 
 それから、4回目の服の贈り物が届けられた。
 受け取り拒否にしたのがバレたのか、今度は違う名前を使っている。
 それも、光琉の名前を使っていたのだ。
 光琉が冗談でもそんなモノを送ってくるはずはないと知っているだけに、これは悪質を通り越したストーカーみたいなものだった。
 榎木津で光琉の名前を使ってくるという事は、相手は透耶が光琉と双子である事を知っている人という事になる。
 さすがにこれは鬼柳には黙っておけないと、宝田が言った。
 透耶も無視するのは、無理だと悟って鬼柳に話す事にした。
 相手は、光琉と透耶の事を知っている。しかも光琉の最近引っ越したばかりのマンションの住所までしっかり知っている人物になるからだ。
 身近に相手がいる証拠だ。
 送られた宅急便の説明をして、宝田が一回目に送られて来た時に入っていたメッセージカードを差し出した。
 今回はカードは入っていない。
 それから、差出人についても説明がされた。
 それを全て聞いた鬼柳は、送られて来た真っ白なワンピースを箱から出して見ていた。
 黙っていた事を怒られるかと思ったが、鬼柳は怒っているようではなかった。
「もしかすると、アレの事で、誰かが当りをつけた奴が送ってきてるのかもしれないな」
 そう鬼柳は呟いたのだ。
「アレって?」
 透耶が聞き返す。
「女装のやつ。透耶と光琉を両方知っている奴なら、こういう芸当が出来そうだ」
 鬼柳がそう答えたので、透耶はああっと納得してしまう。
 どうして、白のワンピースにこだわるのかと思っていたが、あれが原因でこうなっているのかと今気が付いたのだ。
 透耶が女装していた事に気が付いているのかはともかく、相手はちゃんと透耶に送ってきているから、女装した事に関係しているのは確かだ。
 透耶が女装した写真がネットで公開されて一週間程経っている。
 ちょうど、服が送られて来た頃と一致している。だから鬼柳はそう言ったのだ。
「透耶。あんまり一人で出歩くなよ」
 鬼柳がそう言うと、透耶は少し困ったように鬼柳を見て言った。
「近所ならいいよね?」
 透耶がそう言うと、鬼柳が透耶を睨み付ける。
「何処へ行く気だ」
「何処って郵便局だけど……」
「俺も行く」
 鬼柳は絶対に透耶が断われないくらいの迫力で言い切った。
 まあ、これも仕方ないかと透耶は諦めていたが、一緒に行くという約束は果たされなかった。
 というのも、透耶が郵便局へ行く日の早朝に、光琉から鬼柳に電話がかかってきたのだ。
 光琉は丁度レコーディング明けだったらしく、こんな時間になったらしい。
 というか、内容が内容だっただけに、かなり急いでいたのだ。
 その内容は、事務所で保管してあった透耶の女装した写真が勝手に持ち出され、ネットで違法に販売されている事が解ったからだ。
 相手がネガを持ち出しているので、鬼柳の怒りもごもっとも。
 使用が終わったら、全て鬼柳のモノになるモノであり、著作権侵害に肖像権侵害もある。
 それを聞いた鬼柳は、即座に家を飛び出して行った。
 透耶は、それを黙って見送った。
 写真一枚ならともかく、ネガには、鬼柳が趣味で撮ってしまった普段の透耶と光琉の兄弟が仲良く談笑している場面が映っているからだ。それは取り戻さなければならない。
 それから、宝田がゴミ出しをしていたのを手伝った。宝田は自分の仕事だからと言ったが、透耶は出来るだけ手伝いたいと言って譲らなかったのだ。
 その時、近所に住んでいるという、同い年の男の子と知り合った。同い年の子と知り合うのは本当に久しぶりだったので、透耶自身嬉しかった。
「ピアノの音が何かおかしい気がして、少しでいいんで見て貰えませんか?」
 その男の子に透耶はそう頼まれた。
 ピアノが絡むと何となく断われない感じになり、透耶はそれを見てやる約束をしてしまった。
 郵便局へ行った帰りに少し寄って見てやれば、一瞬で済む事だと透耶は思っていたのでそれを宝田には話さなかった。
 宝田が忙しく家の中の事をしている途中で、透耶は郵便局へ向かった。
 途中で近所の主婦などと話したりし、帰りに男の子のマンションへ向かった。
 その時、つい3日前から家に上がり込んで住み着いてしまった猫が、透耶の後を付いて来ていた。
 さすがにマンション内に入れる訳にはいかないと、透耶は入り口で猫を止めた。
「クロト、この先は駄目なんだ。先に帰ってていいよ」   
 透耶はそう言ってマンションに入った。
 そして聞いていた男の子の家の前でチャイムを押したはず。
 はずだったのに。




「やっと起きてくれたね」
 いきなり声がして透耶は我に返った。
 すると、二つあるドアのうち、ただの木のドアの一つが開いていて、そこに男が立っていた。
 その男は透耶より、少し背が高いくらいで、体型も細い方に入るだろう。目は細めで、笑っているが目の奥で何を考えているのか解らない所がある。
 だが、その男を透耶はまったく見た事がなかった。
「だ……誰?」
 透耶は男を凝視して聞いた。
 この男は何なの?
 いくら考えても解らない。
 男は透耶をじっと見ると、満足したように微笑んだ。
「やっぱり、長い髪の方が似合うよ」
 男はそう言ってドアを閉め鍵を掛けると近付いてくる。
 透耶は反射的に後ずさった。
「誰!? ここは何処!?」
 透耶はパニックに陥った。
 この男は誰?
 ここは一体何処?
 そればかりが頭の中を回る。
 すると男はベッドの端に片足を乗せて座り、透耶を眺めながら言った。
「自己紹介がまだだったね。僕は佐久間孝。ここは父親が所有している別荘だけど、昔から使って無いから僕のモノと言ってもいいくらいかな?」
 男はそれは何でも無いとばかりに透耶の質問に答えていた。
 男がいきなり自己紹介といい、名前を名乗ったので透耶はすぐに冷静に戻れた。
 咄嗟の嘘にしては、案外あっさりと名乗ったのだ。
 偽名を使い慣れているか、それとも本当の名前を名乗っているのか。
 男は、ニコリとして透耶を見つめている。
「何故?」
 透耶はそう言っていた。
 一言に何故と言ったのか、もう何をどう聞けばいいのか解らなかったからだ。
 何故、自分はここにいる。
 何故、こんな別荘にいる。
 何故、こんな格好をしている。
 何故、恭が一緒じゃない。
 何故、佐久間は自分にこんな事をする。
 いろんな意味が含まれていた。
 意外に佐久間は頭の回転が早いのか、透耶が何を聞きたがっているのか解っているように答えた。
「君がいきなり僕の前に現れたから、咄嗟に連れて来てしまったよ。ずっと見てたけど、これほど近い距離で眺めたのは初めてだった」
 つまり佐久間は、ずっと透耶を知っていた事になる。  
 でも透耶が知らないのは当り前だ。佐久間は透耶の近くに姿を見せて無いから、まったくの初対面なのだ。
 ……連れ去った? 俺、拉致されたの?
 透耶は、その言葉に呆然としたのだが、佐久間に言われた言葉にハッとして聞いた。
「……まさか、服の……」
 送り主なのか。
 そう続けようとしたが声が出なかった。
 透耶がその事に気が付いた事に、佐久間は笑って答える。
「最後のはそうだよ。でも3回目までは僕じゃない。1回目はうっかり受け取っちゃったよね。でも二回目からは受け取り拒否してた。なかなかしっかりした執事さんを雇ってるね。だから、四回目は僕なんだ。確実に受け取って貰えるようにしたよね」
 佐久間は、まるであの家の中に潜んでいたかのように、内容を詳しく知っていた。
 自分が送ったものじゃないモノまで、そこまで詳しく言えるはずがあるわけない。
 透耶が目を見開いて佐久間を見た。
 ……どうしてそこまで詳しいの?
 透耶が驚いている意味を知っているので、佐久間は続けて言った。
「ずっと見てから知ってるよ。君の周りをこそこそと嗅ぎ回っている奴がいる事も、そいつが服を送りつけた事も。そして家に忍び込んで何をしたかも。随分と役に立ったよ。盗聴器を仕掛けてくれから……」
 佐久間はそこまでゆっくりと答えて、いきなりベッドの端に逃げている透耶に一気に近付いた。
 透耶はベッドから降りようとして逃げたがその肩を掴まれ、そのまま俯せにベッドに押し付けられた。
「離して!」
 透耶はもがいて佐久間から逃げようとしたが、細腕の佐久間の何処にそんな力があるのかと思ってしまう程、佐久間が押さえ付ける力は強かった。
 そのまま佐久間が透耶の上に馬乗りになり、暴れる透耶の頭を押さえ付けると長い髪を掻き分けて透耶の項に手を当てた。
「ほら、これの意味も知ってるよ」
 佐久間がそう言って指で撫でた場所。
 そこは、鬼柳がいつもキスマークを残す場所。
「……!」
 透耶はビクリと身体を震わせた。
 佐久間は透耶の耳に唇を近付けてよく聞こえるように囁いた。
「随分、いい声で喘いでいるよね」
 佐久間のその言葉に透耶は心臓が止まる程の衝撃を受けた。
 自分がそんな声を出している場所。
 それは、寝室しかないからだ。
 それに佐久間は盗聴器を誰かが仕掛けていると言っていた。ではその場所は寝室でしかない。
「……まさか……」
 寝室に盗聴器があるのかと聞こうとしたが、佐久間がそれを遮って答えた。
「そう、寝室にあるんだよ。半径500mなら受信可能なんだ」
 佐久間の答えに透耶は頭が真っ白になった。
 全部聞かれていた。
 一番安心できる場所だと、透耶も我を忘れて鬼柳に溺れていた。
 その時、自分がどんな声を出しているのかは解らない。
 だが、自覚している以上に、淫らな喘ぎだったに違いない。
 それが、家から半径500mで、受信可能な機材さえ持っていれば誰にでも聞ける状態だった。その事が透耶を放心させてしまう。
 暴れなくなった透耶に満足したかのように、佐久間は透耶が着ている服の背中のファスナーを一気に降ろした。
 佐久間はそこに手を這わせる。
 透耶の背中には、無数のキスマークがある。
「ほら、こんなにも印がついているよ」
 佐久間のその声で透耶は我に返る。
「嫌だ!触るな!」
 全身を動かして暴れるが、佐久間が馬乗りになっているので、透耶の力ではどうする事も出来ない。
 普段、鬼柳がしてくるのを嫌がった時、簡単に鬼柳を押し退ける事が出来ていた。
 それはいかに鬼柳が手加減してくれていたのかが解る。こういう風に圧倒的に押さえ付けられたのは鬼柳が本気になった時くらいなものだ。
「すぐに逆の事をいうようにしてあげるよ」
 佐久間はそう言って、透耶の背中にある鬼柳が付けたキスマークの一つに唇を付けた。
「嫌だ!!」
 透耶は必至に抵抗するが、佐久間はそのままキスマークの上に更にキスマークを付けた。
「これで一つ」
 塗り重ねたキスマークを指で撫で、佐久間は次のキスマークにも同じ事を繰り返した。
 鬼柳が印として付けているキスマーク。
 それは所有しているのが鬼柳であるというモノ。
 透耶は最近になってその意味を理解した。
 だから、他の誰かに同じ事をされたくはない。
 なのに、佐久間の力に逆らえない自分が悔しくして仕方がない。
 悔しくて、悔しくて、泣きたくも無いのに涙が溢れてきた。
「これで7つ。残りはいくつかな?」
 佐久間が言ってやっと透耶の背中から唇が離れた。
 透耶はもう暴れる程の気力がない感じに、身体の力が抜けていた。
 佐久間は透耶の顔を覗き込んだ。
「あれ、泣いちゃった?」
 佐久間の言葉に透耶は自分が泣いているのだと気が付いてた。
「大丈夫。全部塗り替えた頃には、僕のモノになってるから」
 佐久間が優しくそう言った。
 透耶は涙を押さえて、佐久間を睨み付けた。
「誰がなるものか!」
 透耶が力一杯叫ぶ。
 佐久間の機嫌を損ねたら自分がどうなるか解らない。
 だが、今はそんな事など冷静に考えていられなかった。
 それだけは絶対にないと言い切れる。
 鬼柳以外のモノになるなど、絶対にない。それくらいなら死んだ方がいい。
 透耶はそれくらいに思っている。
 佐久間は、その言葉を受け入れているらしく、苦笑して透耶の上から降りた。
「まあ、今はいいんだけどね」
 佐久間言って、下げた服のファスナーをきっちりと上げて直した。
 それ以上佐久間が何かするつもりはないらしく、ベッドからも降りて行く。
 透耶は佐久間を睨み付けたままで、目を逸らさなかった。
 佐久間から見れば、その透耶の強い拒絶は当たり前の事だった。それでも、尚更欲しいと言わせるくらいに透耶は魅力的だった。
 咄嗟ではあったが、やはり連れてきて正解だったと、自分の判断に間違いは無いと思った。  
 写真や画像で見るより、実物の方が何倍もいいというのは、佐久間にとっては初めての経験だった。
 絶対に自分のモノにしてみせる。
「とりあえず。君にはここで過ごして貰うね。少し不便だけど、もっといい場所を確保出来たら移動するから我慢してね。テレビは配線してないからビデオしか観られないけど、ないよりはいいよね。それから、冷蔵庫もあるから好きに使っていいよ。君の好きなものが入っているはずだから。えっと、こっちのドアはトイレとお風呂だから好きな時に使ってくれていいよ。でも内鍵はないから閉じこもるなんて出来ないから、無駄な事はしないでね」
 佐久間は一気に部屋の中の事を説明して、部屋を出て行こうとした。
 だが、ドアに手を掛けた所で、もう一度透耶の方を振り返る。
「逃げようとしても無駄だよ。入り口はここだけだし、鍵もしっかり付けてあるから出られないよ」
 佐久間はそう言って内鍵を開けてドアの外へ出た。そしてもう一度透耶を見て言った。
「それから、ずっと見ているから、何かやっててもすぐに解るよ」
 佐久間はそう言い残して出て行った。
 外から鍵を掛けているらしい音が幾つかして何も聞こえなくなった。
 透耶はそれを確認すると、ホッとすると同時にまた涙が溢れてきた。
 気持ち悪い。
 吐き気がする。
 本当に鬼柳以外の人に触られるのが、こんなにも気持ちが悪いものなのかと思った。
 身体全体で拒絶する程、鬼柳だけしか受け入れられない。
 それはいい。それでいい。
 だけど、鬼柳のモノだと解っていたのに、それを守れなかった。
 何も出来なかった自分に嫌悪するくらい。
 いつもそうだ。
 助けてもらうばかりで、自分では何もしていない。
 透耶はそこまで考え、顔を上げて涙を拭いた。
 泣いている場合か。
 助けを待っているだけじゃ駄目だ。
 自分で何とかしなければ。
 恭ばかり頼っちゃ駄目だ。
 何から出来る? 
 考えろ!
 透耶はそう自分に言い聞かせて、ベッドから起き上がる。
 そして身体にまとわり付いた鬘に気が付き、それを掴んで取った。
「こんなモノ」 
 鬘を壁に投げ付ける。
 今のは八つ当たりだ。
 落ち着け、苛々したり、焦ったり、動揺したりしては駄目だ。落ち着いて考えろ。
 透耶は自分にそう言い聞かせて、深く深呼吸をした。
 それからベッドから下りる。
 その拍子に、服の裾を踏んでしまい転びそうになってしまう。
「うわっと……!」
 何とか転ばずにすんで透耶はホッとする。
 ん? 何に引っ掛かったんだ?
 そう思って自分が今着ている服を見てみた。
 ……おいおい、これはどうよ。
 そう呟いてしまう。
 今、透耶が着ているのは、真っ白なワンピースなのだ。
 それもズルズルと裾を引き摺るくらいの長い裾のワンピース。これはあのネット連載用のスナップで使ったモノにそっくりなモノだった。
 どうでもいいが、こんなのは普段着れないだろう。
「よし、まずこれだ」
 透耶はまずこのワンピースをどうにかしないといけないと思った。
 こんな服を着たままでは、咄嗟の場合逃げ切れない。
 いや、それどころか、普通でも転ぶ可能性が高い。
 動きやすいように、そして、佐久間が触れないような服。
 そう考えて、透耶は、佐久間に触られた背中を今すぐにでも洗い流したくなった。
 そうしないと背中から腐っていくような感じがしてならない。
 そう考えしまうのを頭を振って振り払らう。
 今は服だ。
 服を探そうと思ったが、もちろんタンスなどはない。
 冷蔵庫の横辺りに、見覚えのある箱が積まれている。
 確か、あれって……。
 一番最後に送られてきた服が入っていた箱。それにそっくりだった。
 透耶はそれを開けてみる。
 中に入っているのは、やはり洋服だった。
 だが、それから出してみる服は、全部ワンピースだった。
「……マニアか」
 透耶は思わずツッコミたくなる。
 こればかりというのは脳が無いような気がする。
 佐久間がこだわっているのは、女装していた透耶の姿なのかもしれない。
 透耶がそう思っていると、下の方の箱から何とか着られそうな服が出て来た。
 チャイナ服だが、薄い布で作られたモノで、上着は複雑な着方をしないといけない感じで、下はちゃんとズボンだった。
「仕方ない。これで我慢するか」
 透耶はそれで手を打つ事にした。
 さすがに下着まで女性ものだったら怖かったのだが、そこまでは徹底してなかったらしい。
 というか、さすがに下着を買うのは恥ずかしいだろう。
 それを持って風呂に向かった。
 ただ風呂を使うのではなく、色々と調べたい事があったからだ。
 そこは、バストイレが共通だった。
 まるで、透耶の趣味まで把握しているかのように、歯ブラシやコップなどはブルー系で統一されている。ゾッとしたのは、ボディーシャンプーやシャンプーが、透耶が使っているメーカーのモノだった事だ。
 ……何でここまで知ってるの?
 それが謎だ。
 引っ越ししてから、一度しか買い換えをしていないから、その時に見られていたという事になるのだろうか?と透耶はそこまで見られていたと思うと、ゾッとする。
 風呂に使うモノは全部揃っていたが、戦える武器になるモノは見当たらない。
 剃刀などもない。
 そして透耶は天井を見上げた。
 そこを見て、透耶は少し笑う。
 やっぱりあった……。
 推測通りの唯一の逃げ道。
 すぐに逃げたい。
 だけど、これで失敗したら、二度と逃げられなくなる。
 それにここが何処なのかという問題もある。
 外へ出れたとして、もし凄い山奥だったら、逃げるという前に自分の体力の方に限界がきてしまう。
 それでは駄目だ。
 まず佐久間の行動から、ここが何処辺りなのか検討を付けないといけない。
 それから逃げても遅くは無いはずだ。
 闇雲に行動するのはやめよう。
 絶対に鬼柳の元へ戻りたいから、よく考えて行動する事にした。
 佐久間はいつも見ていると言っていた。
 もしかしたら、監視カメラか何か仕掛けているのかもしれない。
 だったら尚更、行動には慎重にならなければならない。
 そんな事を考えながら、透耶は佐久間が触った背中を念入りに洗った。
 ……恭、ごめん。
 そんな思いだけが、今は透耶の心の中を占めていた。




 鬼柳が夕方に帰って来た時、玄関に宝田が出迎えに出なかった。
 今まで一度として、出迎えをしなかった事が無いので、鬼柳は不思議でならなかった。
 出迎え出来ない何かがあるのかという思いが働いて、鬼柳は書斎を慌てて覗いた。
 いつもいるはずの透耶の姿はそこにはなかった。
 また何処かでアイデア帳を広げているのかとも思ったが、机を見ると、やりかけだった仕事道具が広げられたままで、少しだけ中断して、また後でやろうとしている体制のまま置かれている。
 PCもスリープにしたまま。
 明らかに少しだけ中断するつもりだった。
 しかし、テーブルに置かれたままのペットボトルの水は、もう温くなっていて、普段ならこんなになるまで放置したりしない。
 何か違和感がある。
 鬼柳は慌てて携帯を取り出して、透耶にかけてみる。
 だが、透耶は携帯に出ない所か、電波が届かない所か電源が切られていると返ってきた。
 普段透耶には携帯の電源を切るなと言っている。
 一人で出かける事はないから、電車にも乗らないし、病院だって行っている訳が無い。
 もし、そうして出かけるなら、出かける前に鬼柳に連絡をしてくるはずなのだ。
 つまり透耶が電源を切る必要はまったくないのだ。
 それなのに電話に出られない?
 何度掛け直してみても返事は同じ。
 変だ。
 何かあったのでは、そう考えが向き始めた時、鬼柳の携帯が鳴った。
 見ると宝田の携帯からだった。
「何処にいる」
 多分透耶と一緒なのだろうと思って聞いたのだが、宝田からは信じられない言葉が返ってきた。
『申し訳ありません。透耶様を見失いました』
「え?」
『午後2時頃に、郵便局へ行かれたのですが、それからお戻りになられません。私が御一緒すればこんな事にはならなかったのですが……申し訳ありません』
 宝田は透耶が戻らないので、今も探しているのだ。
 透耶が黙って出かけるはずはないが、一人で出るなとあれ程言ったのに、透耶は近くだからと安心して一人で出掛けたらしい。
 宝田も片道三分とかからない郵便局で、昼間それも人通りが多い場所なので、こんな事になるとは予想もしてなかったらしい。
 それでもストーカーの事もあり、透耶がいない事に気が付いて宝田は慌てて郵便局まで探しに行ったのだが、その時にはもう透耶の姿は何処にもなかった。
「それで」
『それが、透耶様を見かけた方やお話になられた方は沢山いたのですが、家の前辺りまで、近所の方と帰ってきているのです。なのに、そこから見かけた方はいらっしゃいません』
 宝田は、透耶の足取りを追って、近所中を回っていたらしい。透耶は本当に家の目と鼻の先まで戻っていたのだ。それなのに、そこから忽然と消えてしまっている。
「いつから探している」
『午後2時30分からです』
 鬼柳は時計を見る。
「三時間も経ってやがる」
 透耶が自分で消えたのでなければ、これ程の時間、何の連絡も寄越して来ない事は有り得ない。
 伝言なり宝田にでも、いや、何かあったのなら自分に掛けてくるはずだ。
『透耶様が立ち寄られそうな場所は全て連絡をしてみました。もし電話の後で姿を見られたら折り返し掛けて頂くようにしています。それから気になる事が』
「何だ?」
『郵便局から戻られないので、電話を数度掛けたのですが、初めは呼び出し音が鳴っていました。かなり鳴った後で、留守番電話に切り替わったりしていましたが、3時20分頃に圏外に切り替わりました』
 つまり、それまで透耶の携帯は鳴っていたが、透耶はそれを取る事が出来ない状況で、その後、場所が変わったのか、透耶が切ったのか、それとも他の誰かが切ってしまったのかは解らないが、そこで透耶と連絡する方法が断たれた事になる。
「とりあえず戻って来い」
 鬼柳がそう言うと、宝田は畏まりましたと言い電話は切れた。
 電話を切った後、居間へ行くと、何かを引っ掻く音が聴こえた。
 何だろうと思って見ると、居間から外へ出られるドアに猫がいた。
 その猫は、透耶が庭で拾った野良猫で、今やこの家の飼い猫になっているクロトである。
 野良猫の割には人見知りはせず、人間を恐がらないどころか、少し馬鹿にしている様な感じで、何故か透耶の言う事しか聞かないという複雑な性格をしている猫だ。
 透耶はこっそりと宝田に、「恭がもう一人増えたみたい」と言っているくらいに、透耶が好きだという態度を崩さないし、鬼柳とは反りが合わない。
 とにかく透耶の行く先行く先を付いて回るくらいの執着ぶりだ。
 どうやら、今外にいるということは、透耶に付いて外へ一緒に出ていたらしい。
 鬼柳が窓を開けると、クロトは中へは入らずに、鬼柳をジッと見つめて一声鳴いた。
 そして門の方へ向いて歩き出す。
 鬼柳が何だろうと見ていると、クロトは振り返りその場に座り込む。
 意味も無くクロトがこういう事をするのを見た事が無いから、鬼柳はもしかしてと思い、答えが返ってくるとは思えない質問をしてしまう。
「透耶が何処へ行ったのか、知っているのか?」
 そう問い掛けると、クロトは鳴いて答える。
 答えているのかもしれないと鬼柳は思い、クロトの後を追って外へ出た。
 クロトは付いてくる鬼柳を確認して、先導して歩き始める。
 門を出た所で鬼柳は宝田と鉢合わせた。
「恭一様?」
 鬼柳が猫の後を追って歩いている姿を奇妙に思った宝田が鬼柳を呼び止める。
 しかし、鬼柳はクロトの姿を視線から外さずに言った。
「ちょっと待て」
 何か言いたそうな宝田を止めて、鬼柳はクロトの後を追う。
 クロトは寄り道などせず、目的の場所があるという風に真直ぐ歩いて行く。
 すると、近所のマンションの入り口で止り、鬼柳を振り返り鳴いた。
 クロトが座り込んでいる様子から、ここを目指していたのは間違い無い。
「ここへ入ったのか?」
 透耶がここへ入る理由が解らないが、クロトが鬼柳をからかっている訳でも無い。
 クロトは答えるように鳴いて、入り口に向かって歩き始めた。
 マンションの入り口は自動ドアで、クロトの重さでは開かない。
 鬼柳が後を追って行くと、ドアが開きクロトは迷わず中へ入って行く。
 側に管理人室があったので、鬼柳は中を覗いて管理人のオジサンに話し掛けた。
「ちょっと聞きたい事があるんだが」
 鬼柳がそう声をかけると、オジサンは観ていたテレビの音を下げて受付に顔を出した。
「なんだい?」
「この子を見なかったかと思って」
 鬼柳はそう言って自分の携帯から保存してある透耶の写真を出して見せた。
「ああ、やたらと綺麗な子だね。通ったよ。目が合ったら丁寧に挨拶してくれたから覚えてる」
 余程透耶が丁寧に対応したのだろう。管理人は笑顔で答えた。
「それで、ここから出てきたか?」
 鬼柳がそう聞くと、管理人はうーんと考え込んだ。
「ここにずっといたけど気が付かなかったね。でも、あの子なら帰る時に声でもかけて言ってくれそうだから、まだ出てきて無いのかもしれないね」
 管理人はそう答えた。
 ここへ透耶は入って行ったが、出てくるのを見ていないとなれば、透耶がまだここにいる可能性は高い。
「ありがとう」
 鬼柳はそう答えて、クロトを見ると、クロトはエレベーターの前に座って、ドアが開くのを待っているようだった。
 透耶がエレベーターに乗った所までは、クロトは外から見ていたらしい。
 鬼柳と宝田は、ここはクロトに託すしかない。
 唯一、透耶が消えた場所を知っているのは、この猫しかいないのだから。



 エレベーターのドアを開けると、クロトは乗り込んで匂いを嗅いで座り込む。
 鬼柳と宝田も乗り込みエレベーターを動かす。
 さすがに何階で止まったのかは解らないだろうと思っていたが、一階、一階止めてみるとが、降りようとはしない。
 そして五階に着くとクロトはすぐにエレベーターを降りる。
 入り口で匂いを嗅いで座り、鬼柳に向かって鳴く。
 ここで間違い無いらしい。
 犬程鼻は効かないが、それでも人間よりも何百倍モノ匂いを嗅ぎ分けるのは間違いない。
 まだ透耶が通った時の匂いがしっかりと残っているらしい。
 その匂いを追ってクロトが進んで行くのを鬼柳が追う。
 そしてクロトが止まったのは、ある一室だった。
 そのドアの下をずっとクロトは匂いを嗅いでいる。
 まるで、透耶の匂いがそこだけにこびり付いているかのようだ。
「ここか?」
 鬼柳はクロトがそこから動かないので、透耶はここまで来たのだと思った。
 そして鬼柳が名前を確認する。
「……小島?」
 鬼柳にはその名前に覚えが無かった。
 しかし、その名前を聞いた宝田がハッとして思い出した。
「小島と言えば、確か、透耶様が朝ゴミ出しを手伝って下さった時に、同年代の男の子と話をしてらっしゃいました。それが小島という名前でした」
 宝田の言葉を聞いて、鬼柳は嫌な考えが過る。
 急いでチャイムを押すと、すぐに中から反応があった。
 インターホン越しに会話もせずに、玄関ドアが大きく開かれた。
 出てきたのは、透耶と同じ歳くらいの少年だ。
 その少年は、鬼柳の顔を見るなに。
「何であんたがここにいるんだ!」
 そう叫んだのである。
 鬼柳はその言葉で、少年が透耶と顔見知りであると確認出来た。
 透耶の事を知らないなら、鬼柳の事も知らないはずだ。それをこの言い方である。透耶がここへ来る事になっていたのは明らかだった。
「ああ? やっぱりここへ来てたのか」
 そう言った鬼柳の顔は、はっきり言って宝田も直視出来ない。
 透耶が鬼柳に内緒でここを訪れたという事だけでも、鬼柳はかなり御立腹だったのに付け加え、出てきたのが透耶と同じ年代というのもあり、想像してはいけない事まで疑ってしまう。
 その鬼柳の顔を直視してしまった小島少年は、まるでメデューサに見られたかのように固まってしまっている。
 鬼柳はその小島少年に近付き、胸ぐらを掴んで最高に低い声で言った。
「透耶は何処にいる」
 答えなかったら容赦しないという様な声に、小島少年は叫んだ。
「しっ知らない! あんたが閉じ込めて来られないようにしたんだろっ!!」
 小島少年は、透耶がここへ来なかった事を鬼柳が止めてしまったので来られなかったと思っていた。
「あ? ここまで来たのに知らねぇってのか?」
 鬼柳の恐ろしい剣幕に、小島少年は、この廊下から塀を乗り越えて、突き落とされるのではないかと瞬時に思ってしまった。
 そんな事を玄関でやりあっているが、クロトは興味が薄れてしまったかのようだった。玄関で匂いを嗅いで、それから鬼柳を見たが、鬼柳は小島少年を問い詰めるのに必必死で、クロトの存在さえ忘れているようだった。
 宝田もどうしていいか解らずオロオロとしてしまったが、不意に足に何かが触れた。下を見ると、クロトが宝田の足に前足を当てて叩いている。
 クロトは宝田が気が付くと、フイッと向きを変えて、小島宅へ上がり込んで行く。
 宝田は、ここに透耶がいるのかいないのかは解らなかったが、クロトが何か訴えているのは解ったので後を追って、堂々と小島宅に上がり込む。
 クロトは迷わず、あるドアの前に座る。
 宝田が追い付くと、ドアに前足を当てて開けてくれと言っている。
 宝田がドアノブを回して開けると、クロトはスルリと部屋に入り込んだ。
 ここに透耶がいるのかと期待した宝田だったが、そこで見たモノはそれと同じくらいの衝撃を受けてしまう。
「これは……」
 部屋に入った宝田が見たのは、部屋一面に貼られている透耶を被写体とした写真の山であった。
 噂になっている女装した透耶の写真ならまだしも、そこにあるのは、普段の透耶で、それも何処から撮ったのだろうかと思われる、庭にいる透耶や、バルコニーにいる透耶など自宅を張ってなければ撮れない写真ばかりなのだ。
 つまり、盗撮のモノだった。
 決定的だったのは、ある一つの写真。
 引き伸ばされている新聞紙くらいのパネルに入った写真は、宝田を驚愕させてしまう。
「恭一様!!」
 宝田はいつもの冷静さを失って慌てて玄関で揉めている鬼柳を呼んだ。
 宝田の慌て振りに鬼柳は小島少年を玄関に放り投げて土足で上がり込んでくる。
「何だ」
「これを」
 宝田に言われて鬼柳が部屋に入る。
 さすがにこの光景には驚いたらしい。
 言葉を失って、暫く写真を見ていたが、やはり宝田と同じ写真で視線が止まった。
 ……これは、うちの寝室の写真じゃねぇか!!
 透耶が自宅のベッドで寝ている所を撮った写真だった。
 引き延ばされた写真には、初心者らしい日付けがそのまま入ったままになっている。
 それを見ると、ちょうど透耶が変な夢を見たと言って様子がおかしかった日の日付けだったから鬼柳は、奥歯をギリッと噛みしめてしまう。
 透耶が恐がっていた理由は、本当にそこに人がいたから感じたモノだったのだ。
 しかも寝室は二階で、庭側にある。
 忍び込んだ小島少年は、セキュリティの隙間を付いて、家に堂々と上がり込んでいた事になる。
 他の写真を見ていれば、透耶が庭とバルコニーに出ている写真ばかりだ。
 小島少年は、そこが透耶の部屋だと思い上がり込んでいた。それもカメラを持ってである。
 透耶が一番安心して居られる場所。
 それさえも他人が侵していた。
 透耶には、この世で安心して居られる場所すらないのか。そう思うと、鬼柳はこれすらも玲泉門院の呪いなのかと思ってしまう。
「宝田、写真を全部回収しろ。ネガもだ」
 鬼柳がそう言うと、宝田は頷いた。
「御意」
 頭を下げて、すぐに写真を剥がしにかかる。
 それを見た小島少年が慌てて叫んだ。
「なにをするんだ!」
 小島少年は宝田を止めようとしたが、後ろから肩を掴まれた。
 鬼柳が小島少年の肩を掴んでいた。
「離せ!」
「やかましい! てめぇ、不法侵入で訴えるぞ!」
 その手に力が込められて、激痛が小島少年を襲う。そして、振り返って見た鬼柳の形相は、直視すればまた石になってしまうくらいの怖さである。
 それ以上小島少年は何も言い返せない。
 しかし、鬼柳も不法侵入である。
「てめぇ、他に何をした」
 写真を撮るだけの目的で家に侵入したとは思えなかった鬼柳がそう聞いた。
 小島少年は、不法侵入した事を訴えられると困るらしく、正直に答えた。
「……盗聴器を」
「何処にだ」
「寝室に……仕掛けました……サイドテーブルの所に」
 小島少年がそう答えて、鬼柳は衝撃を受けた。
 そんな所に仕掛けられたら、透耶との性行為の状態が全部洩れていた事になる。
 自分はいいとしても、透耶にとっては耐えられたモノではない。それをネタに脅されたりしたら、透耶はどうなる。
 そう考えただけでもゾッとする。
 盗聴したモノを録音したのかと聞いたが、小島少年はそこまで玄人ではなかったようだった。ただ、透耶の声を聞きたかっただけで、それを脅しにするつもりなどなかったのだ。
 それを聞いて鬼柳はホッとした。
 その騒ぎを聞き付けたらしい、居間にいた小島少年の友達らしい数人が驚いた様子で廊下を覗いている。
 だが、その全員がカメラを持っている事に鬼柳は気が付いた。
 これで、小島少年が透耶をここに呼んで何をしようとしていたのかが解った。
 少年らは、透耶を被写体にしようとしていたのだ。
 だが、この少年らがこうしてカメラを持って待っているという事は、透耶はここには来ていないという事になる。
 鬼柳はハッとした。
 透耶は確かにここに来ようとしていた。そして、この部屋のドアの前までは自力できている。なのにチャイムを押す間もなく、誰か、透耶を付けていた誰かが連れ去ったに違いない。
 そうとしか思えない。
 透耶の行動は、昨日いきなり決めた事だ。
 事前に誰かが透耶の行動を知っていたとは思えない。
 だが、ここから透耶を連れ去るにしては人目が付き過ぎる。
 それに表からなら管理人が気が付かないはずはないし、何よりクロトが何時間もそこで待っているはずもない。
 そしてクロトが玄関の外の廊下でまだ匂いを嗅いでいるのを見て、鬼柳は別の方法があるのだと思った。
「おい、小僧!」
 鬼柳は部屋の入り口でまだ石になったままの小島少年に問う。
「は、はい!」
「ここのマンションに裏口はあるか? でなければ他に出口は!?」
 鬼柳の質問の意図が解らない小島少年ではあるが、その迫力には適わず、しっかりと答えた。
「ここの駐車場なら、地下にあるよ」
 その言葉に鬼柳は更に問う。
「エレベーターでか?」
「はい。それが地下まで降りるので」
 小島少年がそう答えたので、鬼柳はすぐに玄関を飛び出した。
「くそ! そっちだったのか!」
 道理でクロトがエレベーターで異様に反応するわけだ。
 エレベーターまでやってくるとクロトも付いてきた。
 一緒に乗り込んで地下まで一気に降りる。
 地下まで降りると、クロトは匂いがしなくなったのか、キョロキョロとして、そこら中の匂いを嗅ぎ回っている。
 地下を確認すると、ここは昼間でも蛍光灯の灯しかないくらいに暗い場所だった。
 透耶を連れ去った時間帯なら、ここは無人と言ってもいい時間帯である。
 連れ去った相手が、車を使用していたら、ここ程簡単に連れされる場所はない。
 匂いを嗅ぎ回っていたクロトが、ある車のボンネットの上で鳴いた。
 鬼柳が近付いてみると、汚れているボンネットの上に何か擦った痕がある。
 クロトの様子から、犯人はここに一旦透耶を下し、車を準備して乗せて連れ去ったと想像するには十分だった。
 だが、ここを使うには、マンションの住人、もしくは詳しく構造を知っている人間でないと、無理な計画であるのは鬼柳にも解った。
 透耶を一旦ボンネットに降ろした事から、連れ去った犯人は一人。
 そして、透耶をここまで抱えて連れてくる事が出来る人物。
 そうなると、対象は絞れる。
「恭一様。写真、ネガとも全て回収しました」
 宝田が鬼柳の後を追って写真やネガが入った箱を持って降りてきていた。
 鬼柳はジッとマンションの車の出入り口を睨んで言った。
「どんな手を使ってもいい。このマンションの住人、ここに頻繁に出入りしている人間を全て調べろ」
 鬼柳の言葉に宝田はどういう意味なのだろうと聞き返した。
「は?」
「50以上、高校生以下は対象外にしていい。それと体力がなさそうな女も除外にしていい」
 ここまで言われて、宝田はすぐに意図を理解した。
「畏まりました」
 そう言って、宝田はすぐに自宅に戻って行く。
 鬼柳は暫くそこで沸き上がる怒りと闘っていた。
 もうこの場所には用はないとばかりにクロトが歩いて行くと、鬼柳もその後をついて歩いて行った。
 だが、その時、ある呟きが洩れた。
「戻ってきたら、SP50人くらいつけてやる」
 ちょっと目を離したらすぐこれだ。
 いくらトラブル体質とはいえ、起こり過ぎだ。
 鬼柳は声には出さなかったが、頭の中で言葉を繰り返していた。
 俺の忠告を聞かないからこうなるんだ! 
 今度こそ解らせる為にお仕置きが必要だ!



 部屋中を調べ尽して、透耶は一休みをしていた。
 眠られていた為、今日が何日で、何時なのかさえ解らない。
 ここが何処で、周りに何があるのかそれさえ解らない。
 しかも、この部屋がどの位置にあるのかも掴めない。
 物音もまったくしない。
 部屋の外には廊下があるだろうに、誰かが歩いている様子もない。
 さっき佐久間が入ってきた時も、物音がしなかった。
 透耶はそれで、もしかしてこの部屋は防音処理がされているのだろうかと思った。
 娯楽室か何か、映画鑑賞用とかカラオケルームとして使っていたのではないか?
 そう思い、背もたれにしている壁を叩いてみるが、素人に解るわけがない。
 窓が一つもないので、それで一つの考えが浮かんだ。
 地下、何だろうか?
 一応、開かないと言われたドアと鍵も確かめてみたが、透耶の力では壊す事は出来ない造りらしい。
 てか、閉じ込めてどうするんだろう?
 恭のような目的なら、目を離すのは違う気がする。
 そういえば、恭って、俺を監禁してた時って、こうやって一つの部屋にずっと閉じ込めるとかしてなかったよな……。
 透耶はふと、鬼柳が行った、監禁は監禁ではないような気がすると思ったのだ。
 そりゃ、最初は出かける時は寝室に閉じ込めたりしてたけど、本気で逃げようと思えば逃げられない状態でもなかったよな。最終的には俺が諦めてしまったし……。
 でも今は逃げるのには本気なのに、本格的に監禁されてしまっては逃げる道がない。
 諦める訳にはいかないから、何か方法を考えないといけない。
 うーん、あれは最終手段として、取り合えず、佐久間の出方を見てみるしかないんだよね……。
 ていうか、この女装はどうなんだろう?
 そういうマニアなの?
 でも、そういう人って、自分でやる方じゃないのかな?
 違うの?
 そもそも男に女の格好させてどうするんだろう?
 ?????
 わ、解らないよ。
 まあ、このマニアは置いておいて……。
 これって、身代金目的の誘拐じゃないって事だよね?
 ………。
 あああ、今頃、宝田さんが心配してる!!
 てかっ!もう数日とか経ってたら、恭だって心配して探してる!
 ど、ど、ど、ど、どうしよう!!
 俺、また、こんな事になってるし!
 恭、今頃、無茶苦茶怒ってるよねっ!?
 ど、ど、ど、ど、どうやって謝ったらいいんだろう!?
 一生、家に閉じ込められても文句言えないよねっ!!
 うーわーっ! 俺って、自業自得じゃん!!
 と考える前に、今の状況をどうにかするのを考えるべきである。
 はっ! こんな事を考えてる場合じゃなかった!
 透耶は、自分が今考えるべき事はこれではないと頭を振った。
 自分が戻ってからの事は、その時考えるべきだと思った。
 そうしていると、少し気が抜けたのか、透耶は自分がお腹が空いている事を思い出してしまった。
 ……こういう時に。
 何だか、悲しくなってしまう。
 身体の何処にも異常がないから、お腹が空くのは仕方がない。
 出来れば佐久間が用意した食べ物は食べたくはなかったが、食事をしない事で体力がなくなってしまうと、逃げる時に不利になるという考えもあった。
 どうしようと迷って、透耶は取り合えず、冷蔵庫の中を見てみる事にした。
 小さな冷蔵庫の中には、色々な食べ物が入っている。
 大抵は栄養補給の為の食べ物だったりするが、ちゃんとコンビニ弁当も入っていた。
 だが、それの日付けを見ようとしたのだが、ビニールカバーは外れていて、賞味期限が解らなくしてあった。
 それはどういう事なのだろうか? 
 日付けを解らなくさせるどころか、賞味期限が解れば、佐久間が食事を冷蔵庫に入れた段階で、今は何日で何時頃という予想が出来たのだ。
 透耶は一瞬それに期待をしたが、佐久間の方が考えが回っているらしい。
 何日なんか、何時なのか解らなくして、どうするんだろう?
 透耶にはそれが不思議でならなかった。
 まあ、これで、この別荘の近く、それも佐久間がここをあまり離れないで買い物に行けるコンビニが存在するのだと解った。
 そこまで考えて、透耶はコンビニ弁当から手を離した。
 開けられているコンビニ弁当を食べる程の勇気はない。
 そういえば、恭の手料理は何の疑いもなく口に入れていたよなぁ……。
 そう考えて気が付いた。
 鬼柳は作った食事を、いつも透耶と一緒に食べるようにしていた。
 まあ、沖縄に連れ去られた時は、水にしっかり仕込まれたんだけど……。あれは、俺が油断してたし、信用してたから……。
 う……いちいち、恭と比べてどうするんだ?
 恭は佐久間とは違う。
 やってる事は同じだとしても、恭は俺を守ろうとしてくれてた。
 俺をモノのように扱ったりしない。
 その些細な違いが、透耶には大きな違いに思えた。
 透耶は、絶対にここから抜け出すんだと心に誓って、目の前にあるカロリーメイトを手に取った。
 これなら、佐久間が中を開いた形跡がないから、安全だと判断した。
 ペットボトルの水も、全部確認する。
 蓋を開けた形跡もない。底から細工したようでもない。
 蓋を開けて、水の匂いまで確認し、更に一口含んで飲み、暫く体調に変化がないかまで様子を見てみる。
 もし、何か仕組まれているなら、透耶なら30分以内には何か変化が出るものだが、何も変化はないようだった。
 それからカロリーメイトを食べる。
 モグモグと食べながら、今までの調べた所の事を考える。
 うーん、一箇所しか見付けられなかったけど、あそこを使うのはやっぱり佐久間がずっと見ていると言った言葉が引っ掛かるよな……。
「意外にも用心深いんだね」
 その声に透耶はハッと我に返る。
 まただ。
 いつの間にか、佐久間がドアを開けて立っている。
「当り前だ。貴方なんか信用できる訳ないだろ」
 透耶は佐久間を睨んで言った。
 だが、佐久間の視線は透耶から外れて、積み上げられた透耶に着せる為に買っただろう洋服の箱の山に注がれている。
 そして、それを見た後、透耶を見つめる。
 透耶は警戒しながらも、佐久間の様子をしっかりと観察していた。
 何か、佐久間に隙があれば、自分の状況をどうにか出来るはずだと思っていた。
「気に入ったのは、それだけ?」
 佐久間はそう言った。
 別に機嫌が悪い訳ではなく、透耶が自分が買った服の中から一つでも選んでくれた事に満足しているかのようだった。
「男なのに、そんなの着られる訳ないだろう」
 透耶がそう言い切ると、佐久間はワイシャツの胸のポケットから何かを取り出した。
「この時には着てたのに?」
 佐久間が言って透耶に見せたのは、鬼柳が取った透耶の女装の写真だった。
「……それ」
 透耶はそれを見て愕然とした。
 それは、光琉がネットで使用しないはずの写真だったからだ。
 あの小説のイメージである、光琉を夢に引きずり込むという女性のイメージではない。明らかに、撮影の合間に鬼柳が撮っただろう、透耶が光琉と笑って写っている写真なのだ。
「まさか……。あんたが光琉の所から盗んだのか?」
 透耶は佐久間にそう聞いた。
 盗まれた写真は、確か、透耶の女装写真を売る為に盗まれた。
 光琉の普段の素顔の写真も売れるだろうが、透耶と光琉がセットになった写真を買う人間はそんなにいないはずだ。
 だから透耶はそう聞いたのだ。
「いや、盗んでないよ。それは他の奴。僕は少しだけ分けてもらったんだ」
「分けて?」
 ……どういう事?
 透耶には、盗んだ奴と佐久間の繋がりが解らない。
 すると、佐久間は物凄く簡単だとばかりに答えた。
「盗むのを見逃す代わりにね」
 その言葉に、透耶はハッとした。
「光琉のスタッフなの?」
 まさかとは思ったがそれしか考えられない。
 盗むのを見逃すという事は、その盗みの現場を佐久間が見ていなければならない。
 そして、それを条件に見逃すという事は、その場にいてもおかしくない人間でなければならない。
 つまり、光琉の事務所に簡単に出入り出来、写真を保管していた所に近付ける者でなければ、そんな言葉は出て来ないからだ。
「まぁね」
「だから、俺を知ってた?」
 だから、こんな事をしてる?
 男だと解っているのに、女装させるの?
 聞きたい事は山程ある。
「そう。あれから、ずっと見てたんだよ。だから、君の周りをうろついている奴等の事も全部知っている」
 佐久間はそう言っている。
 俺の周り?
「どういう事?」
 さっき、自分の家に忍び込んだ人がいるって言ってたけど。
 その他にも誰かいるって事?
 透耶には誰かに見られているという自覚はない。それより、鬼柳を見ている人がいる方が気になるくらいだ。
「僕みたいに、君をこういう風に欲しがっている奴が沢山いるって事だよ」
 佐久間がそう言った時、透耶は佐久間を睨み付けた。
「俺は恭のモノだ!」
 透耶は叫んだ。
 自分は鬼柳のモノになっている。今更他の誰かのモノになるつもりなど毛頭ない。
 佐久間を怒らせてしまうかもしれないと思って言ってはいけないとは思うのだが、これだけは譲れないと透耶は佐久間に言っていた。
 だが、意外にも佐久間は微笑んでいる。
「それでもいいよ。その方が、自分のモノにした時の喜びが何倍にもなるからね」
 佐久間はさらっと恐ろしい考えを口にした。
 透耶は目眩がした。
 ……ど、どうしよう。
 恭以上に変態だっ!!
 恭の方が、何倍もマトモだ!!
 透耶がそう困惑していると、頭にフワッと何かが被せられた。
 ギョッとして見上げると、いつの間にか佐久間が側に立っており、自分の頭にはまた長髪の鬘を被せられていた。
 透耶がムッとして脱ごうとすると、その腕を佐久間に掴まれた。
「そのままの方がいい」
 佐久間がそう言うが、透耶は睨み付けて言い返す。
「嫌だ」
 透耶は、これが佐久間の望む姿であるなら、変な気持ちが起きないようにしなければならないと思ったのだ。
「じゃあ、キスしちゃうけどいい?」
 佐久間は言って、透耶の腕を引っ張って自分の方へ近付けた。
 透耶は大慌てで叫ぶ。
「か、被ります!」
 透耶がそう答えたので、佐久間はニコリとして透耶に言った。
「いい子だね」
 佐久間はそれで満足したのか、腕を放して顔も遠ざけてくれた。
 とりあえずホッとする透耶だが。
 ああああ、何だかんだで、言う事きいちゃった……。
 どうすんだよー!佐久間なんかの言いなりになったりして!
 一人パニックな透耶。
「本当に、今まで出会った中で一番綺麗でいい子だよ」
 佐久間は透耶を見つめるとそう言った。
 満足したような笑顔の佐久間。
「え?」
 透耶には意味の解らない言葉だった。
 だが、佐久間はそう言い残すと部屋を出て行ってしまう。
 今の何?
 どういう意味?
 何か含まれた意味がある気がして、透耶は引っ掛かってしまう。
 うーんと考えてしまうが、すぐに顔を覆ってしまう長い髪が邪魔になってしまう。
 ムッとして髪を掴んで脱ぎ捨てようとしたが、考え直した。
 どうせ、また被せられてしまうだろうと思い、これはこのままにしておくべきなのだろうと考えた。
 とりあえず、佐久間の許容範囲を越えない程度に反抗して、顔色を伺いながら逃げるチャンスを見極める事にした。
 色々と考えを出していたが、さすがに段々と眠くなる。
 眠いが、眠るのも怖い。
 すると、いきなり部屋の明かりがいきなり消されてしまう。
「え?」
 ……どういう事? 
 真っ暗になって透耶は考えてしまう。
 これは眠れって意味なのだろうか?
 結局部屋の明かりを消してしまう意味は解らなかったので、眠れという強制なのだと思う事にした。
 しかし、眠っている間に何かあるかもしれない。
 透耶はそう思い、ベッドの下に毛布を持って滑り込む。
 幸い、ベッドの下は広くて、透耶でも寝返りが打てる広さだった。
 毛布を下に引いて、枕は引かずに耳を床に当てて眠る。
 こうすれば、部屋に入ってきた佐久間の足音くらいは聞き取れるだろうと思ったのだ。
 眠らないという方法も考えたが、いざという時に体力がないのも問題になる。
 それは、前の誘拐で身を以て味わった事でもあった。
 自分の体力を保つ為には、食事と睡眠を抜く訳にはいかない。
 佐久間が何かしてきたら、その時考える事にしよう。
 透耶はそう決めて、重くなった目蓋を閉じて眠った。
 偶然ではあったが、透耶が眠る事で、佐久間の行動の一つが理解できる結果になったのであった。





「ほう、それでまた私の所の捜査員を借りたいと?」
 エドワードは、そう鬼柳に聞き返した。
 絶対にエドワードに頼みごとをしない鬼柳が、電話ではなく、わざわざ日本本社に出張中のエドワードの所へやってそう頼み込んだ。
 今にも土下座しそうな程の気迫さえ感じられる。
「金は払う。必要経費は全部請求してくれ。貸してくれというより、雇いたい」
 いつもなら、勝手に借りていくと言い出す所なのだが、鬼柳はきちんとした契約をしたいと言っているのだ。
 エドワードはこれですぐに透耶に何かあったと悟る。
 こんな事を鬼柳が言い出す理由は、透耶にしかない。
「それで、透耶に何があったんだ?」
 エドワードにそう聞かれ、鬼柳は言いにくそうな顔をしていた。
 もう一度エドワードが聞き返すと、鬼柳は渋々答えた。
「透耶が行方不明なんだ」
 やはり。
 エドワードはそういう事だろうと思った。
 鬼柳は自分で出来る事なら人の手を借りずに何でもやってしまう。それが出来ない状況、それが透耶の行方の事だった。エドワードの手を借りてでも探し出したいと思ってここまでやってきた。
 鬼柳は自分が付いていながら、行方不明にさせてしまった事を後悔している。側を離れなければ、こんな事にならなかったのにと。
 押さえられない不安。
 隠し切れない動揺。
 鬼柳を知っている人間なら、すぐに解ってしまう程に、鬼柳は透耶が居なくなった事に耐えられないという表情をしていた。
「どうして居なくなったんだ」
 エドワードはその理由を聞く。
「近所のマンションの知り合いを訪ねるつもりで、そこへ行った。だけどいつまで経っても帰って来ない。知り合いの家も探したが透耶は来てないと言ってた。だから誰かに連れ去られたと思う。それを調査したい」
 鬼柳が正直に話すと、エドワードは溜息を洩らした。
「恭、それはもう警察へ通報した方がいい。前のように、攫われたという確たる証拠などがある訳じゃない。私の所の捜査員は確かに優秀だろう。だが、忽然と消えた人間を探し出すのは容易ではないんだ」
 エドワードは、そう鬼柳に言った。
「解っている。だが、警察は信用出来ないし、俺が動けなくなる。じっと家で身代金要求がくるかもしれないと待っているのは性に合わない。自分で動きたいんだ」
 前の誘拐で、警察よりもエドワードの捜査員の方が遥かに扱いやすい事を鬼柳は実感していた。
 だからこそ、時間はかかってしまうが、エドワードを直接訪ねてきているのだ。
 エドワードは、少し考えた。
 鬼柳が自分に対してこれほど真剣に頼みごとをしてきた事はない。
 そしてこれほど、弱い所を見せる鬼柳も見た事はない。
 全て曝け出しても構わないとさえ思っている。
 そこまでして、透耶を求める鬼柳。
 動かずに待てと言われた所で、この男はそうは出来ない。世界中を駆け回ってでも、透耶を探し出すだろう。
 エドワードの返事を待つ間、鬼柳の手は震えていた。
 透耶を失うかもしれない。
 その恐怖がそうさせる。
 もし、透耶を失ったら、鬼柳は今度こそ死人のようになってしまう。後追い自殺はしないだろうが、生きる気力を失ってやがて花が枯れていくように精気を失っていくだろう。
 この鬼柳を見て、手を貸さないとは言えないエドワードだった。
「解った。捜査員は貸そう」
 その言葉に鬼柳が顔を上げた。
 だが、エドワードはこう言った。
「ただし、契約料などはいらない。そのかわり、お前にやって貰いたい事がある」
「何を?」
 今なら、何でもやってやるという勢いで鬼柳は条件を聞こうとした。
「簡単だ。随分前にお前が作った企画書なんだが、あれが今回使えそうになってきた」
「そんなもの作ったか?」
 さっぱり覚えていない鬼柳。
 自分がどの企画をどれだけ手掛けたのかさえ鬼柳は覚えていない。なので、それ相当の報酬料を払っても、鬼柳には何の事なのか解らないくらいである。
 まだ使える企画は、本社に保管し、事あるごとに使おうとするが、応用が出来ないままになっている。
 鬼柳が時々エドワードの仕事を手伝っていたというのは、この企画書関連なのである。
 だがそれに鬼柳は気が付いてない。
「覚えてないだろうとは思ったよ。お前が作った100の企画書は、応用出来る様に組まれていた。だが、あれは誰にも応用が出来ないままになっている」
「そんな事があるか。誰でも出来る」
 鬼柳は本当にそう思っているようだった。
「それが出来ないから、こうして条件を出している」
 エドワードが何を望んでいるのかは鬼柳にはすぐに解った。
「それを作り直せばいいのか?」
「そういう事だ」
 友達が大変な時にこういう条件を出すのは、普通なら薄情とか、利用していると思われるだろう。
 しかし、鬼柳にエドワードから借りを作ったと思わせる方が、二人の関係が上手くいかなくなってしまう。
 何かをする時に何かを条件つける事。それが二人がこれまでにやってきた関係であり、当然の成り行きなのだ。
「……解った。透耶が戻ったら、全部やってやる」
 そんな事くらいで透耶が戻るなら、いくらでもやってやると鬼柳は思った。
 鬼柳がやると言ったら本気でやる。その言葉だけで、交渉になる。
「交渉成立だ。2時間以内に捜査員を揃える。だが、一応透耶の家族に連絡をして、警察にも通 報しろ」
「解った」





 そうして家にはエドワードから派遣された捜査員でごったかえしになっている。
 鬼柳は、まず光琉に電話をして事実を伝えた。
 すると光琉は、実家へは自分が知らせると言った。
「ほら、面識がない鬼柳さんが電話なんかしても、お祖母様は信用しないだろうし。大丈夫、お祖母様って豪傑だから、動揺はしないし、後は鬼柳さんが出来る事をやってくれればありがたいよ。俺は動けないし、もしもの為にはお祖母様には実家で待機してもらった方がいいから」
 動揺する鬼柳とは裏腹に、光琉は落ち着いた様子でそう答えた。
 まるで、そうした事には慣れているとばかりだ。
「悪い。俺がついていながら」
 鬼柳がそう謝ると、光琉が溜息を洩らしている。
「どうせ、透耶が悪いに決まってる。あれは自覚ないからな。何かあったらマネージャーの方へ連絡して欲しい。俺も仕事が一段落したら、また連絡するから」
「ああ解った」
 電話を切った所で地元警察がやってきた。
 さすがに、家の中にいる独自の捜査員を見て、驚いているようだった。
「貴方が責任者なんですか?」
 居間に通された刑事がそう言った。
「そうだ。あれらの事は気にしなくていい」
 鬼柳の落ち着いた声に、刑事は何か裏があるような気がした。
 そして透耶が行方不明になった状況を話すと、とりあえず実家と、ここに身代金要求があるかもしれないからと、逆探知の装置を取り付ける事になった。
 透耶が一人で遠出はしないし、知らない人間についていく事もない。殆ど自宅で仕事をしているという状況から、いなくなる理由がまったくない事が解ったからだ。
 だが、警察がするのは家出人捜索程度にしかやれない。
「申し訳ありません。今、抱えている連続女性行方不明事件というのを抱えてまして、捜査員が足りない状態なのです」
 たった2人しか派遣されなかった警察に鬼柳が批難したところこんな答えが返ってきた。
 すると、それを知っている宝田が言った。
「この辺りで起っている、帰宅するはずの女性が戻って来ないという事件ですね。確か、もう4人程行方不明だとか?」
 この近くで起っている事件だけに、宝田は情報は仕入れていた。鬼柳の態度より、宝田の大変ですねという気遣いに、刑事は言わなくてもいい情報を話してしまう。
「ええ、そうなんです。特徴が似ているので、同一犯ではないかと」
「特徴ですか?」
「髪の長い、大変綺麗な女性ばかりなのですよ。それも、絶対に行方をくらませたりしないという器量 のいい女性ばかりで、長い人で、もう3ヶ月行方が解りません」
 刑事がそう言ったとたん、鬼柳がその話に興味を覚えた。
「ちょっと待て、状況的に透耶の行方不明のと似てないか?」
 そう言われて、刑事はああそうかもしれませんとは答えた。
「ですが、榎木津透耶君は男でしょう? 関係はないでしょう」
 そう刑事が断言したが、すぐに鬼柳は自分が持っている透耶の女装写真を取り出して刑事に見せた。
 それを見た刑事は驚愕した。
「こ、これは!」
「ちょっと、行方不明の女性達と似てますよ! どういう事なんですか!?」
「この綺麗な女性は誰なんですか!?」
「まさか!」
 刑事は、まさかと思いながらも鬼柳に尋ねた。
 これが榎木津透耶だというのか?という驚きだ。
「これは透耶が仕事で女装した時のモノだ」
 男が女装して、ここまで女性に見えるのには刑事も驚いた。
 確かに普段の姿でも、まだ幼い顔つきで、女の子だと言われたらそう信じてしまいそうな顔つきをしている。それが完璧に女性に化けてしまっている姿があると、衝撃すら受けてしまう。
「女装……仕事とは?」
 透耶がそうした仕事をしているのかと聞きたいのだ。
「弟が芸能人をしていて、極秘扱いでやった、ネット上で連載されている小説のスナップだ。この写 真のネガが盗まれ、ネットのオークションで大量に出回っている事が昨日解って、今警察が介入して調査をしている」
 榎木津光琉の事は警察も知っている。透耶と双子だと解ると納得してしまった。
「という事は……女装した透耶君を連れ去った可能性があるという事ですか?」
 普段から透耶がこうした姿でいるのだと刑事は思ってしまったらしい。鬼柳がそれを否定して、仕事の内容を説明した。
 あの女装は、あの日一日だけのもので、ネットの連載用にしか使用していない。
「いや、透耶が女装したのは一日だけの仕事だ。その女装したのが透耶だと知っている人間でなければ、男の透耶を連れ去る事は出来ないだろう。あの場所で、榎木津透耶が女装していたと知っているスタッフは数える程しかいないはずだ」
 鬼柳は自分でそう言って、ふと考えてしまう。
 透耶が女装した写真がネットに出てから、奇妙な贈り物や小島少年のような人間が増えている。
 しかし、透耶が女装していたという事に気が付いた小島少年は、ただの思い込みから想像しただけで、透耶と女装した透耶が同一人物だという事には、あの場にいた少年らは気が付いてなかった。
 光琉のスタッフも、光琉の側近と言われる人物達しか透耶の女装の事は知らない。他のスタッフは架空の人物として作った外国人だと思っている。事実透耶の写 真を売っていた男も、榎木津透耶だとは気が付いてなかった。
「つまり、スタッフ関係者の中に情報を流した人間がいるか、事情を知っている人間という事に……」
「二つの事件が同一犯なら」
「可能性はあると思います。調べてみる必要がありますね」
「光琉に話が聞きたいなら、ここへ呼んだ方がいい。外では騒ぎになって犯人に嗅ぎ付けられる可能性がある」
「そうできれば、そうします」





 次の日、さっそく光琉が呼ばれた。
 仕事の合間の僅かな時間だったが、光琉は開けられる時間を最大に開けて家にやってきた。
「え? 写真を盗んだ奴が犯人なのか?」
 話を聞いた光琉はいきなりの言葉に驚いていた。
「いえ、そうではなくて、可能性の問題です」
 刑事は慌てて可能性の説明をした。
「あー、そうか。あいつな訳ないよな」
 光琉はそう呟いた。
 写真を盗んだ犯人は、もうとっくに捕まっていた。
 光琉の事務所を調べた警察が、ネット販売をしていた連絡先から、光琉の事務所のアルバイトの男を窃盗などで取り調べをしている。
 つまり、透耶を誘拐したと思われる時間、その男は警察の調査対象になっており、透耶を誘拐する時間などはなかったのだ。
「あいつはただ金になると思ったからやった犯行だっただけで、透耶に関しては感心はなかっただろう」
「そう、アレが透耶だって気が付いてなかったし、ましてや俺の兄だなんてまったく思いもしなかったようだよ」
 そう透耶が女装した姿であるという事を窃盗の犯人は知らなかったのである。
「という事は、他のスタッフか。光琉、そのスタッフの中で、この近所にマンションや家を持っている奴はいるか?」
 二人は、刑事を無視して勝手に話を進めていく。
「んー。それは調べてみないと解らないけど。あ、そうだ。今日、一人スタッフが諸事情でやめたんだ。家族で引っ越すとか言ってたんだけど、おかしいんだよ」
 全然関係なさそうな話題を光琉は持ち出してくる。
 だが、鬼柳はそれを問う。
「どういう事だ?」
「そいつの実家って、東京なんだけど、親父は会社経営してているんだから、引っ越すなんて有り得ないだろ?」
「かなり大きい会社なのか?」
「たぶん。うちで貰ってる給料じゃ、外車は買えないし、ブランドの服なんて着れないよ。あれは親から金貰ってるんだって皆言ってる。二十歳過ぎた息子に多額の小遣いをやるなんて、相当な金持ちじゃないとしないはずだしね」
「そいつがどうして気になるんだ?」
「引っ越しの事は本当かどうか解らないけど。元々そいつの私生活って解らないんだよ。仕事が終わったらさっさと飛んで帰るし、飲み会とかも絶対出ないし。でも独身で一人暮らしとか言ってるのを聞いた人もいる。人当たりが良すぎるくらいだけど、こう見えないって感じかな?」
 光琉はうーんと唸りながらそう言った。
「それが怪しいんですか?」
 刑事には何が怪しいのか解らないという風だった。
 だが、鬼柳には解ってしまう。
 透耶も人を判断するとき、何か引っ掛かる事があると、端切れが悪い言い方をする。これが変だとははっきりとは解らないのだが、どうしても気になってしまうのだ。
 人当たりがいい光琉が関わってみてもなお、その人物が解らないというのは、そのスタッフが初めてなのだ。
「あのスタッフの中で怪しい人物を言えって言われたら、俺はそいつしか思い付かないよ」
 光琉はそう言い切った。
 だが、マネージャーは別に怪しいとは思わないらしい。光琉からそう言われたのも初めてだったので、困惑しているようだった。
「なら、窃盗した奴に聞いてみればいい」
 鬼柳がそう言ったので、刑事が何を言っているんだと首を傾げた。
「そいつが透耶に興味があったとしたら? そいつも写真を欲しがったはずだ。ネットで写 真を買った可能性もあるだろう。しかも、同じスタッフの中から写真を購入してくる奴がいたとしたら、名前を見ただけで、解るだろ?」
 誘拐犯が透耶の写真を購入したと考える方が妥当だろう。
「ああそうか。そいつがもし犯人だとしたら、まず写真を欲しがるよな」
 光琉は納得する。
「そいつが透耶を連れ去った犯人なら、透耶を手に入れた段階で、光琉の事務所にいるのは危険だと判断する」
「可能性としてはありだよな」
 鬼柳と光琉は推測で話を進めていってしまう。
 警察には、もうなんの事だか解らない。何を根拠にそうなるのだと半分呆れている。
 そう話していると、その話を聞いて調査をしていたエドの捜査員が、衝撃的事実を持って現れた。
「その人物ですが、透耶様の行方が途絶えたマンションに部屋を一つ持っています」
 鬼柳がマンション住人を調べろと言っておいたので、昨夜のうちにマンションの住人と持ち主を全て調べていたのだ。
「本当か?」
「はい。名義は父親のモノですが、住んでいるのは20代の息子だそうです」
 そう言って捜査員はその資料を鬼柳に渡した。
「名前は、佐久間孝……か」
 その名前を聞いて、光琉は叫んだ。
「そいつだ! そいつが今日辞めた奴だよ!」
 まさか、ここで名前が一致するとは、刑事も思ってなかったようで、驚いて鬼柳と光琉を見ていた。
 何も関係ない会話をしているかのように思えたが、それが微妙に繋がっている。
「佐久間ですが、ここ最近、マンションには戻ってないようです。近所の人の話では、週に一度戻る程度で、そこで暮らしている様子はないそうです」
 それを受けて、鬼柳は考えた。
「ということは、佐久間は別の場所に住んでいるんだな」
 マンションで人を監禁して暮らしていくのは、無理ではないだろうが、透耶の事だ、かなり無茶をして逃げ出そうとするかもしれない。
 佐久間がもし透耶に執着していて攫ったのであるなら、より完全な監禁場所を選ぶだろう。
 周りに住人がいないような場所。
 出入りを怪しまれない場所。
「よし、佐久間を徹底的に洗え。父親の持ち物で、普段使ってない別荘関係もだ」
 鬼柳がそう指示を出すと光琉が付け足した。
「それなら、東京近辺だよ」
 光琉がそう指摘した。
「別荘とかで遠い場所なんかだったら、通えないよ。そいつ仕事には一度も遅刻した事ないんだ」
 光琉の指摘に捜査員は頷く。これで、佐久間の行動範囲が限られてくる。
「それから、携帯が圏外になる場所だ」
 鬼柳がそう付け足した。これは宝田が言っていた事を踏まえてだ。
「ちょっと待て! お前ら勝手に!」
 勝手に話を進めて行動しようとしている鬼柳達を、刑事が慌てて止める。
「警察は警察の出来る事をやればいいんだ。こっちはこっちで勝手にやる」
 鬼柳は警察の捜査の方が遅いと踏んで、自分達で調べようとしていた。
「いや、待て。やって貰いたい事がある」
 鬼柳は何か思い付いたのか、刑事の方を向いて言った。
「佐久間の親父が居所に心当たりがあるかもしれん。そっちは刑事に聞き込みして貰った方が手っ取り早いかもしれん」
 いきなりそう言われて、刑事は戸惑う。
「ちょっと待てって! どういう容疑で息子を調べてるんだって言われて、誘拐容疑と言ったら大抵の親は自分の子供がそんな事するはずないと言うぞ! しかも手違いだったりしたら」
 刑事がそう叫ぶと、鬼柳は落ち着いた声で言った。
「じゃ、写真盗難の件で事情を聞こうとしたら、いきなりバイトを辞めて姿をくらましたので、事情を聞けなくなったとでも言え」
 鬼柳は命令口調で刑事に指示を出す。
「おい!」
「その時、息子が盗んだ容疑ではなく、犯人を目撃しているかもしれないとだけ言えばいい。そうすれば、捜査協力だから親父も油断するだろう」
 鬼柳はそう刑事に命令するように言った。
 刑事はもちろん反論したかったのだが、どのみち、佐久間孝は調べる対象の一人として名前が加えられていたので、鬼柳の言う事を完全に否定出来なかった。
「解った調べる」
 グッと怒声を呑み込んで刑事が言った。
「くそっ、あんな若造の捜査なんかに負けてなるものか! 急いでその佐久間とか言う奴を調べあげるぞ!」
 結局鬼柳の思惑通りに動く事になってしまった刑事は、玄関先でそう叫んでしまった。
「森刑事」
 見送る為に後ろにいた宝田がそう呼び掛けると、刑事は驚いて飛び上がってしまう。
「うあっ、あ、執事さん」
「申し訳ありません。恭一様は透耶様が行方不明になられてから、かなり気が立ってまして……」
 普段から誰に対しても同じなのだが、今回は有無を言わせないような圧倒感を与えているのは確かだった。
「しかし、あれではあんたも大変だろう?」
 あの言い様では、かなりの傍若無人で大変だと宝田に同情した言葉だったのだが、宝田はニコリと微笑んで言った。
「いえ。刑事さんも自分の一番大切にしている人の行方が解らなくなったとしたら、冷静ではいられないのではありませんか?」
 宝田のもっともな意見に、刑事はガシガシと頭を掻いた。
「そうだな……確かに冷静でいられなくなる」
 あれでも鬼柳は透耶を一刻も早く見付けたくて行動しているだけなのだ。その為には何を犠牲にしても、何を利用してもいいと思っている。
「けど、あの二人はどういう関係なんだ?」
「小説家とカメラマンねぇ。年令も違えば国籍も違う。何処にも接点がないようなのが、一緒に家に住むかねえ」
 そこまで考えて、刑事はそれ以上踏み込んだ事は言えなかった。どんな関係であろうが、彼等は被害者なのだ。
 偏見、差別で捜査方針を変える訳にはいかない。
 とにかく、佐久間孝という人物を調べあげる事が優先事項だった。


2

 二日。たぶん二回寝たから二日経っている。
 適当に合わせたビデオの日付けを見ても、二日経っている。
 眠らされていた最初の時に何日経っていたのかは解らないから、ここに来てからの日数は二日だ。
 この二日で解った事があった。
 さすがに佐久間も夜は眠らなければならない事が解った。
 透耶が眠っている間、佐久間が部屋に入ってくる事はなかったからだ。
 暗くなってからがチャンスなのだろうか?
 透耶はそう考え始めていた。
 昨日、佐久間に欲しい物はないかと聞かれた時に、透耶が真っ先に佐久間に強請ったのは、暗闇でも足下を照らす、ペンライトだった。
 佐久間は不思議そうな顔をしていたが、透耶がよく何もない所で転んだり、躓いたりしているのを知っているのか、すぐにペンライトを購入してきてくれた。
 透耶がそれを使うのは、逃走の為なのだが、夜にトイレに行く時などに使用していたので、佐久間も透耶の思惑には気が付いてなかったようだった。
 しかし、透耶は佐久間が何の目的で自分をここへ監禁しているのかが解らなかった。
 佐久間は必要以上に部屋に入ってくる事もなかった。
 目が覚めた日のような事もしてこなかった。
 時々、透耶をジッと見つめる事はあったが、手を出す事も、触れる事もしてこなかった。
 佐久間自身が食事をする為だとか、ビデオを観る為にわざわざ透耶を閉じ込めている部屋に通っているという感じなのだ。
 ただ透耶を見るだけの為に、そうしているとしか思えない。
 透耶には、佐久間が何を考えているのか、もう解らない。
 よって、透耶が必要以上に佐久間を恐れたり、怯えたりする必要がなかった。警戒をするだけでいいのだ。
「この服、返品すれば?」
 透耶がいきなりそう言ったので、佐久間はかなり驚いたらしい。
 透耶から佐久間に話し掛ける事はなく、佐久間が一方的に喋ってたりしていたのと、透耶はこんな状況なのに、日頃観る機会がないビデオ鑑賞に夢中になってしまうと佐久間を完全無視してしまうからだ。
 佐久間は、透耶を見つめたまま呆然としていたのだが、いつもの人をナメたような顔になり微笑む。
「君に着て欲しかったんだけど」
 真剣にそう思っているという風に佐久間は言った。
 透耶はゲンナリして言った。
 ……本気で言ってるから怖いよ。
「あのね。あんた、男にこんなものを送られて、嬉しがって着てみせるのか?」
 透耶がジトーッと佐久間を見て言ったので、佐久間はプッと吹き出して笑い出してしまった。
 ……何で笑う?
 透耶には、どうして佐久間が笑い出したのかが解らない。
「な、何で笑う!」
 あまりに笑いが止まらない佐久間に、透耶は叫んで言ってしまう。
 佐久間はやっと笑いを治めて、透耶の方を見て言った。
「悪い。そうくるとは思わなかったんだよ」
 んあ?
 普通、そう言うだろう?
 恭だって、そんな事言わないぞ。
 と透耶は不思議に思いながらも眉を顰めて言う。
「そ、そう?」
 そんなにおかしいことなんだろうか?
 透耶は困惑する。
 佐久間はクスリと笑って言った。
「解ったよ。あれは返品してくる。それでいいね」
 まるで透耶のお願いを聞き入れたという風な言い方に、透耶は慌てて言い返す。
「いいねって。ただ、使わないモノは勿体無いって思っただけで……」
 普通に考えれば出てくるはずの答えだろうに、佐久間は何か感動したかのような顔をして透耶を見つめている。
 ……何かマズイ事でも言っちゃった?
 一瞬、どうしようと思っていると、佐久間は透耶に触れそうな所まで近寄ってくる。
 ヤバイ!
 透耶は瞬時にそう判断して、座ったままで佐久間から逃げる。
 怯えて逃げるのでなく、まるで猫のように背中の毛を逆立たせての威嚇のような透耶の反応に佐久間はクスリと笑ってしまう。
「まったく、君の様な子がいるとは思わなかったよ」
 佐久間は、本当にそう思っているようで、満足した笑みを浮かべている。
 透耶はしまったと思った。
 うーわー、なんか解らないけど、俺の評価上げちゃった気がするんですけどー?
 俺ってやっぱり馬鹿なのかも……。
 透耶がそう思って落ち込んでいる間に、佐久間はさっさと箱を部屋の外に運び出していた。
「おやすみ」
 そう声がかかって透耶はハッとして顔を上げる。
 すると、佐久間が部屋のドアを閉める所だった。
 あっと声を上げる前に、佐久間はドアを閉めて出て行ってしまった。
 透耶はそれを呆然と見送って、ガックリと壁に縋り付いて壁を叩いてしまう。
 ああああー、逃げるチャンス、その一作戦をみすみす見逃してしまったー!
 そのまま透耶は床に転がってしまう。
 佐久間が荷物を運んでいる隙を狙って、一回くらい逃げ出してみようと思っていたのだが、いつもの透耶の考え込んでしまう癖のせいでそれを見逃してしまったのだ。
 ……やっぱ、俺って馬鹿の馬鹿なんだろうな……。
 透耶はそう落ち込んで、それから仕方がないと諦めた。
 失敗したものは後悔したってどうにもならない。
 そう透耶が思って起き上がった時、部屋の明かりが消された。
 溜息を洩らして、ベッドの下に潜り込む。
 そこから見えるビデオデッキの時計を見た。
 その時計はもちろん、本当の時間とはあっていないが、透耶が自分の想像で時刻を合わせているものだ。
 一日目の時に、適当に設定し、二日目に電気が消される時間に合わせて夜中0時に設定してある。
 三日目、今日のを見ると、やはり佐久間は決まった時間に消灯させている事が解る。
 佐久間には何か決まった時間に動かなければならない何かがある気がしていた。
 それが何なのか解らないが、佐久間が透耶が寝ている間にここへ訪れない理由と重なっている事に透耶は気が付いていた。
 こういう事を考えるのは、普段なら苦手なのに、全てを推理モノの小説に置き換えて考えてみると意外に答えが見えてくる気がした。
 この答えで合っているのか、それとも間違っているのかは解らないが、透耶は決意を固めた。
 今、やるべき事がある。
 恭の元へ戻る為に透耶は行動しなければならなかった。




 ……佐久間がここにいるとして、一時間くらいで眠ってくれるかしてくれているといいんだけど。
 透耶はそう考えて、眠った振りをしながらビデオの時計を睨んで一時間大人しくしていた。
 その間、頭の中でシミュレーションを繰り返し、大丈夫だと何度も言い聞かせる。
 何が何でも恭の所に戻るんだ。
 透耶はその言葉を繰り返した。
 一時間経った所で、透耶は動き始めた。
 バスルームに入り、そこで準備をする。
 幸いな事に、選んだチャイナ服には内履きだろうけれど、マトモな靴が付いていたのでそれを履き、ペンライトとペットボトルの水二つに、カロリーメイトを全て揃えていた。
 さすがにバッグはないので、バスタオルの中に全部を入れて、丸め、それを右肩から回して背負うようにしてみた。
 それが一番安定していて動きやすかった。
 ……何だか、昔々の学生みたいだ。
 そんな感想は置いておいて、透耶はバスタブの縁に上がり、壁に手を付いてバランスを取ると、天井を見上げて手を伸ばした。
 そこに蓋がある。
 透耶はその蓋を押し上げて開けた。
 そこを覗き込んで透耶はペンライトで照らしてみて、少し微笑んだ。
 大丈夫、通れる。
 そこは、この建物の配管が通っている空間だった。
 これを確認した透耶は、今自分が何処にいるのかが解った。
 どう考えても、これは一軒家である。
 そして、自分がいる場所は地下室。
 屋根を這う配管ってのは、少ないものだが、ここにあるのは、建物全体の配管が密集している感じなので透耶はそう思ったのだ。
 配管工事用なのか、人間が通れるスペースがあるだけ透耶にはラッキーだった。
 とにかく、そこへ入って行く。
 屋敷の広さは解らないが、配管自体が静かなのを見ると、佐久間以外の誰かがいるとは思えない静かさだった。
 外からの響きも聴こえない。
 それはそれで無気味な事でもある。
 ……何だろう? すごく静かなんだけど。
 透耶は床下の配管がはり巡らされた場所を這いながら、そんな事を考えてた。
 幾つか、上に開く場所があったが、そこは後回しにして、とにかく外へ出られそうな場所を探してみる。
 すると、家の隅まで行き着いたのか、そこに蓋らしきモノがあった。
 ……これは、何処に通じてるんだろう?
 今まで上と下に通じる所は発見したが、横というのは初めてだった。
 これが何処に通じているのか解らないが、透耶は迷った末に開けてみる事にした。
 ここで佐久間とはち合わせる危険性もあったが、かといって床下をいつまでも這い回っている訳にもいかない。 
 外から鍵がかかっているかもしれないと思ったが、幸いにもそこは中からも鍵が開けられるように出来ていた。
 うっかり閉じ込めちゃった危ないから防止にでも付けているんだろうか?
 そう思いながら開けてみると。
「!!」
 するといきなり目が痛くなる程の光が差し込んできた。
 透耶は顔を背けて目を瞑った。
 電灯の明かりの眩しさではない。
 ど、どういう事?
 透耶は困惑しながらも、何とか明るさに目が慣れてきたので目を見開いてしまう。
「え?」
 透耶がやっと光に慣れて見た物。
 そして驚いてしまったのは無理はなかった。
 透耶がそこで見た光、それは朝日の光だったからだ。
 ずっと透耶が思い込んでいたのは、夜の外の風景。
 なのに、広がって見えるのは、朝の風景。
「昼夜逆転してたんだ……」
 そう呟いて透耶は気が付いた。
 佐久間が何故自分が眠っている間に部屋に入って来ないのか。
 その理由が昼夜逆転にあったのだ。
 佐久間が夜になると部屋に入って来なかったのは、眠っていたのではなく、仕事に出ていたからだった。
 だが、自分が仕事に行っている事を知られてしまうと困るから、昼夜を逆転させ、自分がいない事を悟られないようにしていたのだ。
 閉じ込められている人間からすれば、佐久間も眠るだろうと考える。その時だけは佐久間が来ない事は学習するだろう。しかし、まさか居ないとは思わない。それどころか、その時間だけは安心して眠れると思い込んでしまう。
 まさに、人の恐怖の心理を逆手に取ったやり方である。
 なんてことはない、冷静に考えれば予想出来る事だった。
 ……やられた。簡単なトリックだったんだ……。
 思わず、これを考えた佐久間に拍手したくなる透耶。
「取り合えず、出られるよね」
 透耶は出口から外へ出る。
 外へ出て見ると、気温はまだそれほど高くないらしく、涼しいくらいだった。
 周りを見渡すと、そこはまさに山の中。
 家の周りは綺麗に掃除されているが、この家は家とは言えない場所にあるのは解った。
 ……別荘なのかな?
 透耶はそう思って家を振り返る。
 もしそうだとすれば、近くに同じように別荘があるかもしれない。
 そこへ駆け込むのもいいが、誰もいないという可能性の方が高いだろう。
 ……ってうだうだ考えている暇があったら、さっさと逃げる方がいいよね。
 透耶はそう思い、どっちへ逃げればいいのかを考える。 
 取り合えず、家の正面に回ってみる。
 すると、車が一台停まっているのが見えた。
 う、嘘。まだ中にいるの!?
 透耶は素早く隠れ、少し車を見ていた。
 よし、ナンバーは覚えた。
 表は危険だから、林に入った方がいいのかな?
 透耶がそう悩んでいると、林の少し奥の方から女性の悲鳴らしき声が聴こえた。
 え?
 透耶は自分の耳を疑った。
 今の何だろうと透耶が思っていると、また聴こえてきた。
 透耶は、頭で考えるより先に、そっちの方へ向かって歩き出していた。
 近付いて行くと、女性の声が段々と大きくなっていく。
「やめて! どうして!」
 女性がそう叫んでいる声がすぐ近くでした。
「悪いね。もう君等はいらないんだ」
 佐久間の声がする。
 ……どういう事?
 透耶はその場で立ち止まってしまう。
「お願い! 殺さないで! 言う事聞きます!」
 女性のこの言葉に透耶は目を見開いた。
 ……殺す?
「じゃ、言う事を聞いて貰うよ。死んでくれよ」
 佐久間はそう言った。
 そして女性が逃げようとしたのだろうが、抵抗する音が聞こえ、草がガサガサと大きな音を立てている。女性が必死に悲鳴を上げていたが、それもうめき声と共に聞こえなくなってしまった。
 何があったのか。
 透耶は解っているのに動けなかった。
 まさか、そんな事って……。
 透耶は頭の中が混乱して、どう動いていいのか、考えたらいいのか解らなくなっていた。
「後始末。あー、道具持ってきてないな。仕方ない、帰りに持ってくるか」
 佐久間がそう言った声で透耶は自分が今どういう状況にあるのかを思い出して、静かに木の影に隠れた。
「やっぱり、女はいらないな」
 佐久間はそう言い残して歩いて行く。
 透耶はそれを確認して、更に佐久間が戻って来ないのを確認しようとすると、車のエンジン音がして、それが遠離る音が聴こえた。
 佐久間が出掛けた。
 透耶ははぁっと息を吐いて、それから佐久間と女性がいた所を目指した。
 それは透耶が隠れてた所とは、目と鼻の先の場所だった。
 草むらに女性が仰向けで倒れている。
 透耶は駆け寄って女性が生きているのかどうかを確認しようとした。
 だが、女性はピクリとも動かない。
 胸の辺りを刺されている。
 どう見たって生きているとは思えない。
 それでも透耶は女性の口元に手を翳した。
 生きていて欲しい。そう願っていたのだが、女性の口元から生きている息を感じる事は出来なかった。
 透耶はそれ以上、女性には触れなかった。
 死んでいる以上、透耶が触れる訳にはいかない。
 現状保存しておかなければという意識が働いて、透耶はその場を離れようとしたが、足が動かない。
 今度は怖かったのではない。
 怒りが溢れてきたのだ。
 あいつ、俺の他にも人を監禁してたんだ!
 どうして、殺したりなんか……っ!
 邪魔って何!?
 どうして!?
 そう考えた所で佐久間の考えている事など透耶に解る訳がない。
 そして、結果として、自分も殺されるかもしれないと思った。
 すぐ逃げなきゃ!
 透耶はそう考えて、林の中を突き進んだ。
 取り合えず、別荘の前に一旦出て、車が通った後を突き進む。
 道をそのまま進むのは危険であるのは解っているから、道を確認できる所まで透耶は進んで行く事にした。
 だが、そこまで来て、透耶は佐久間の台詞を思い出して立ち止まった。
 さっきあいつ、「君等」って言わなかった?
 何故複数形になるんだ?
 まさか、他にも誰かいるって事?
 「いらない」って言ったよな?
 その人も殺すって事?
 そういう意味だったの!?
 そこまで考えて、透耶はクルリと踵を返すと家へと戻り始めた。
 他に人がいるなら、助けないと!
 透耶が助けを呼んできてって言っても、それまでに透耶が確実に助けを呼べるなんて確率は殆ど0に近い。
 それまでに殺されないとは言えない。
 それなら、助けて一緒に逃げる方が、その人が殺されない確率が高いし、守ってあげられるかもしれない。
 さっきの佐久間の慌て振りから、出勤する時間が迫っていたのかもしれない。
 だから、夕方までは戻って来ないと踏んで、透耶は別荘へ戻った。
 玄関を壊して入ろうとしたが、それではあからさまに逃げたとバレるから、出てきた所から入ってみる。
 そこなら佐久間はまだ気が付いていない場所である。
 中へ入って、通った場所にあった上に抜ける穴から出てみる。
 すると、そこは真っ暗な空間だったのでペンライトで照らしてみると、どうやら物置きらしい場所だった。
 家の中へと続くドアがあったので、開けてみるとそこは階段下だった。階段下の物置きが配管への入り口になっていたのだ。
 さて、何処から探していいのか解らないのだが、自分が地下にいたのだから、他の人も地下にいる可能性が高いと思った。
 地下室への入り口を探すと、やっとその階段を見つける事が出来た。
「あった」
 透耶はそう呟いて地下への階段を降りた。
 地下室は、上の敷地と同じくらいの大きさで作られているようで、一本の廊下には、数個の部屋のドアが存在したのだ。 
 さて、何処に人がいるのかと考えたが、几帳面な佐久間の癖なのだろうか、部屋のドアには、監禁している人間のネームプレートがあったのだ。
 ラッキーなんだろうけど……異常過ぎるよね、これは。
 透耶はそれを見て、更に佐久間が気味悪くて仕方なかった。
 現在プレートが付いているのは3つの部屋。
 透耶の部屋、そして女性の名前が書かれた二つの部屋。
 透耶は、一つ目のドアをノックしてみた。
 だが、透耶が感じていたように、外からの音は中に聴こえないのだろう。当然返事はない。
 ドアノブを捻ってみると、そのドアは簡単に開いた。
「え?」
 どういう事だと思って透耶が中に入ってみると、そこはさっきまで誰かが居た形跡のある気配があった。
 誰もいない。
 そう思って透耶は瞬時にハッとした。
 ここは、さっき佐久間に殺された女性の部屋だったのではないだろうか?
 という事である。
 そうであれば、女性を殺す目的で連れ出した佐久間が、部屋のドアの鍵を忘れる可能性が高いからだ。
 透耶は素早く部屋を出てドアを閉め、もう一つのドアを激しく叩いた。
 だが、それでも聴こえないのだろう。返事が返ってくる事はない。
「くそっ! どうしたら!」
 そこまで考えて、透耶はハッと思い出した。
 出てきた方法ならば、中へ入れる! 
 透耶はすぐに地下室の階段を駆け上がり、階段の下からまた潜り込んで、地下へ繋がっている蓋を所構わず開けて覗いて行く。
 下へ降りなくても、そこで誰かが生活しているかどうかは、バスルームなどを見れば予想は出来た。
 そうして一つの部屋のバスルームに明かりが付いている所があり、ここがそうだと思って、透耶は下へと降りた。
 かなり変な音がしたので、女性が警戒してるかもしれないとは思ったが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
 透耶は、バスルームから部屋へのドアを開けて、中を覗いた。だが、部屋の中へは入らなかった。
「……誰?」
 明らかに恐がっている女性の声がした。
「捕まっている人ですか?」
 透耶は優しく問い掛けた。
「貴方は?」
 女性が透耶を疑うのは当り前だ。
 なので透耶はこう返した。
「俺も捕まってる人です」
 こう返ってくるとは思わなかったのだろう。女性は驚いてしまっている。
「え?」
「うん。それはいいんだけど。一緒に逃げない?」
 透耶はそう持ちかけた。
 無理矢理連れ出そうとしても、女性が決心しなければ、逃げるのにも時間がかかる。
 でも、透耶は女性を見殺しにするつもりもなかった。
 時間はかかっても説得しなければならない。
「無理よ。逃げられないわ」
 女性はそう思い込んでいるらしく、冗談でも言わないでくれと思っている声だった。
「じゃ、俺だけ逃げるけどいい?」
 透耶の見放したような言葉に女性は驚いたらしい。
「本当に逃げれるの?」
 まさか、そんな方法があるとは思ってもないだろうから疑うのも仕方がない。それでも、透耶の自信ありげな声に、女性は逃げられるなら逃げたいという意志も含まれている。
「確率は解らない。だけど、俺はいつまでもこんな所にいるつもりはないよ。今なら逃げられるし、俺が君を絶対に逃がしてらげられる」
 透耶の自信満々の言葉に女性の心は揺れている。
 透耶は決定的な言葉を口にした。
「俺は絶対に帰る。君も一緒に帰ろう」
 帰る。
 この言葉は女性にとって諦めた言葉だったかもしれない。だが、いつでもそう思っていた。
「……帰りたい」
 女性はそう呟いた。
「じゃ、帰ろう! あいつはさっき出掛けていった。だから今、チャンスなんだ」
 透耶がそう言うと、女性はベッドから立ち上がった。
「私も帰る!」
 女性はそう言って透耶に近付いてきた。
 透耶は女性に手を出して、ギュッと握り締めた。
「絶対に帰ろう」
 透耶が本気でそう思っている事は、女性にも伝わってきた。本気で帰りたいと思っている。戻りたい場所がある。それだけの為に透耶が必死になっているのだ。
 透耶がどうやって部屋に入ってきたのかと女性は驚いていたが、透耶がその脱出経路を説明すると、そんな所があったのかと女性は驚いていた。
 そこまで考える余裕すらなかったのだ。
 透耶が進む後をついて行くと、外へと出られた。
 外に出ると女性は、驚いた顔をして空を見上げていた。
「どういう事なの?」
 女性はその説明を透耶に求める。
 透耶は、推測でいいならと前置きして、昼夜逆転の推理をしてみせた。
 すると女性は納得して頷いた。
 それから、自分の隣に立っている透耶を見上げて言った。
「あなた、そんな事考える余裕があったのね。あたしにはなかったわ」
 女性がそう言うので透耶は、ニコリと笑って答えた。
「ま、男だしね」
 ……ん、まあ、男なのにしっかり貞操の危機を迎えてたなんて言えないよ。
 などと透耶は内心思っていた。
 『男には見えないんだけど』と女性は思ったが、口には出さなかった。見た目はどうであれ、透耶が意外に男らしく力強いと感じる方が、確かな感覚だったからだ。



 二人で車道を歩いていたが、意外に車に出会わない事には透耶も驚いていた。
 本当にあそこは佐久間が言っていた通りの別荘で、周りには何もない場所だったのだ。
 車があれば、数十分で町まで出られるはずだが、曲がりくねった道では歩くだけでも半日はかかるだろうという距離だ。
 もし、車が通ったからと言って、それに助けを求める事は迂闊には出来ない。
 それが佐久間の車だったとしたら、逃げた意味が無くなるし、もし佐久間じゃなくても佐久間の仲間だったらと考えてしまい、簡単に助けを求められない。
 途中で地元の人が作っただろうけもの道を発見して、二人はそこを進んで行く。
 くねった道を進むよりも、こちらの方が直線で山を下れる。 途中で何度か休憩を取る。
 透耶も疲れていたが、女性の方が体力の消耗が早かった。透耶よりも先に佐久間に監禁されていた女性は、最後の力を絞り出して行動している。
 幸いだったのは、透耶が水を余分に持ってきていた事だ。
「用意周到ね」
 水を分けてもらっていた女性が透耶に言った。
 その隣に座った透耶は、クスリと笑う。
「元から逃げてやると思ってたから、下準備はしといたんだ」
 透耶がそう答えたので、女性は凄いと思ってしまう。
 そこで強い意志を保ってられたのは、最初の数日。後は完全に諦めてしまっていたからだ。
 透耶の頭には、ただ帰りたいだけしかなかった。
 鬼柳の側に帰るんだという意志だけしか持ってない。その為だったら自分が出来る事をやれるだけやるまでだ。
「あなたも口説かれて連れて行かれたの?」
 女性が透耶にそう聞いた。 
 女性は、佐久間と出会って、一緒に飲んでいる間に眠くなり、目覚めた時にはあそこに閉じ込められていたのだという。
「俺はさっぱり解らないんだ。知り合いを尋ねたマンションの所でいきなり殴られたし」
 透耶はそう答えた。
 はっきり言って、どうやられたのかは思い出せない。
 殴られたから、その辺の記憶が飛んでいるのかもしれない。
「いきなり?」
 女性が不思議そうな顔をする。
「向こうは俺を知ってたみたいだけど。俺は全然知らないから」
 透耶は佐久間の顔に見覚えはない。
 いくら忘れっぽいとはいえ、こんな状況でも思い出せないのは、透耶は佐久間自体には会った事がない事になる。
「なるほどね」
 女性は何故か納得した。
 透耶の姿を見ていれば、なんとなくではあるが、佐久間の趣味が解る気がしたのだ。
 透耶を見知っていたなら、咄嗟であれ、佐久間は透耶を攫ってきただろう。
「あいつって何者なの?」
 女性は透耶にも解らないだろうが、何か喋っていたかった。沈黙が耐えられないのだ。
「佐久間孝って名乗ってたよ」
 透耶がそう答えたので、女性は考えてしまう。
 あの男は、自分には名乗らなかったからだ。
「偽名かしら?」
 本名を名乗るは思えない。
「さあ? よく解らない。でも、咄嗟にしては簡単に名乗ったよ」
 透耶はそう答えた。
 もしかしたら、佐久間は本当に本名を名乗ったのかもしれないと、確信してしまっていた。
 今まで監禁した人に逃げられた事はないのだろう。
 そこから出た余裕なのかもしれない。
 その余裕を透耶は利用した。
 だから、逃げ切らなければならない。



 休憩をしてから、日が暮れ始めていたので、二人は先を急いだ。
 佐久間が戻ってくる時間になる。
 なるべく、車道へ出たくなかったのだが、一つ渡らなければならない道があった。
 そこを渡っていると、上から一台の車が降りてきていた。
 上から来る車。
 それで透耶は慌てた。
 佐久間が一旦家に戻っていたのかもしれないと。
「急いで!」
 透耶が叫んだので、女性も走って車道を渡った。
 けもの道へと走り、透耶も後を追う。
 斜面を下り終えた所で上を見上げると、車のライトがそこで停まっている。
 佐久間だ。
 そう思って透耶は女性に走れと言った。
「見付けた」
 後ろで、佐久間の声が聴こえた気がした。




 逃げながら、透耶は思った。
 このままでは、二人とも逃げ切れない。
 半日以上歩き続けてきた自分達と、今車から降りた佐久間では、体力からして差が有り過ぎる。
 女性の体力も透耶の体力も限界になっている。
 そう透耶が考えた時、目の前を走っていた女性が足を滑らせて斜面を滑り落ちてしまった。
 辛うじて女性は悲鳴を洩らさなかったのが幸いかもしれない。
 透耶は慌てて斜面を滑って降り、女性の無事を確かめた。
 だが、女性はかなり息があがっていて、もう走れそうになかった。
 ここまでか。
 透耶はそう思い、決意をした。
 女性は何とか立ち上がろうとしていたが、透耶はそれを押さえて言った。
「聞いて。君にお願いがある」
 透耶が真剣にそう言ってきたので、女性はこんな時にと思ったのだが、透耶の声が真剣だったので、大人しく聞いた。
「この先は、君一人で行って貰う」
 透耶の言葉に女性は目を見開いて驚いた。
 ここまで来て一体何?という感じだ。
 それでも透耶は次の言葉を言う。
「佐久間とじゃ、体力の差があり過ぎるから、このまま行けば二人とも捕まってしまう」
 透耶の言葉に女性は真っ青になる。
 またあの男に捕まる。
 それは恐怖以外の何モノでもない。
「……いや」
 女性はそう口にしていた。
 あんな思いをするのは二度と嫌だ。
 女性が絶望しかけた時、透耶が言った。
「俺が囮になる」
 その言葉に女性は驚いて透耶を見上げた。
 透耶は笑っている。
「俺が囮になるから、君はここに隠れていて。うーん、千、千を数えるんだ」
「千?」
「そう。千を数え終わったら、あっちに向いて歩いて。時間はかかると思うけど、次の道に出たら逃げられる。君に逃げ切られたと思った佐久間は、君の後は追わない。あの場所から逃げる事を考えるだろうから、大丈夫。時間は稼げる」
 透耶はそう説明をして女性を勇気づける。
 こう言われるだけで、女性はそれがそうなるのかもしれないと思えてきた。
 頷いて、言った。
「解った。でも、貴方は?」
 女性はここにきて、透耶がどうするつもりなのかが気になった。
 だが、透耶は笑顔で言う。
「何とかするよ。大丈夫、心配しないで」
 笑顔を見せる事で透耶は女性を安心させようとしていた。
「でも」
 女性がそう言ったので、透耶は言う。
「もう一つお願いがあるんだ」
 透耶は言って、女性の耳元でそれを伝えた。
 女性はそれを聞いても、何の意味なのかはさっぱり解らなかった。
「それでいいの?」
 聞き返されて透耶は更にそれに付け足した。
「聞き返されたら、「解るでしょ」と言って。それで絶対に解るから」
 透耶はそう言い切った。
 それだけ鬼柳には透耶が何を伝えたがっているのかは理解出来る。
「解ったわ。伝える」
 女性は透耶の伝言をしっかりと受け取った。
 透耶はふっと自分達が逃げてきた方を振り返り、それから女性を見て言った。
「千、だよ」
 そう言い残して、透耶は斜面を登った。
 その斜面は、暗くて誰かが滑り落ちたとは解らない場所だった。
 大丈夫見つからない。
 透耶はそう確信して、先を急ごうとした。
 その時、懐中電灯の灯がいきなり透耶を照らした。
 こんな所で灯を付けるのは、佐久間しかいない。
 透耶は灯がある方とは反対に、それも女性が逃げる方ではない方向へ向けて走り出した。
 息が切れるが、それでも女性から佐久間を引き離さなければならないと思い、力一杯走った。
 佐久間は透耶を追って走って来ている。
 だが、透耶の体力の限界も近かった。
「あっ!」
 何かに足を取られて透耶は草むらに転がってしまう。
 立ち上がろうとしたが、腕にも力が入らない。
 すると、佐久間がすぐ後ろに立っていた。
「……まったく、ここまで逃げるとは思ってもみなかった」
 佐久間はそう言って、透耶に懐中電灯を照らして言った。
 透耶はこれ以上逃げられないと諦めた。
 女性との距離はかなり外れたはずだ。
 透耶は何とか身体を起こした。
 佐久間は透耶の前にしゃがんで言った。
「もう、逃げられないよ」
 佐久間の言葉に透耶は目を閉じた。
 もしかしたら、殺されるかもしれないという気持ちもあった。
 佐久間が何を考えているのかも解らない。
 捕まった後の事など考えていなかった。
 だが、佐久間は逃げた透耶に対して怒っているとは思えない笑顔を見せていた。
 それだけで、透耶はますます佐久間が怖くなる。
「捕まえたのが君でよかった」
 佐久間はそう言って透耶の二の腕を掴むと立ち上がる。
 無理矢理立ち上がらされると、透耶はすぐに佐久間の肩に担がれてしまう。
 それでも透耶はホッとしていた、佐久間が自分を抱えるからには、女性の後は追えない。
 だから、透耶は身体の力を抜いて、精一杯、自分は重いのだと思い込ませた。
 佐久間は透耶が暴れないので、安心したかのように元来た道を戻り始めた。


 女性は、透耶に言われたように千を心の中で数えていた。
 その時、佐久間が上を走って行く音が聴こえて息を殺した。 
 透耶が言った通りに、佐久間は透耶を追って走り抜けて行ってしまう。
 それにホッとして女性は、数を数え始める。
 そしてまた誰かが上を通る音がしたが、もう女性には聴こえてなかった。
 透耶に言われた言葉と、千という数を数える事だけを考えていたからだ。
 数を数え終わると、女性は周りの音を聞いた。
 そこは静かで誰かがいるような音はしなかった。
 ゆっくりと立ち上がって周りを見回した。
 目が暗闇に慣れているから、よく見えた。
 透耶に言われた方を見ると、町の灯が近くに見えた。
 それを見ると勇気が沸いてくる。
 透耶に貰ったペンライトを付けて女性は走り出した。
 透耶が連れて行かれたとなれば、何をされるのか解らない。
 自分が助かったとホッと出来てしまう程、女性は薄情ではなかった。
 懸命に走り、早く警察に知らせなければと必死だった。
 家の光が近付いて来た所で、女性は車道に出る事が出来た。
 そこに出た時、女性は我が目を疑う光景が目の前に広がっていた。
 そこには、警察関係者の車が道を封鎖し、今、まさに出発しようとしている所だったからだ。


 その中に鬼柳達はいた。
 刑事が捜査した結果、佐久間孝がかなりおかしな行動をしている事が解った。
 そして、居所を探る為に佐久間の父親に尋ねた所、鬼柳の言っていた説明通りに居所を聞くと、父親は意図もあっさりと場所を幾つか教えてくれた。
 その中で、東京に近い場所を捜索し、ここが残りの一つになっていた。
 この近くで佐久間が何度も目撃されている事と、一人暮らしのはずの佐久間が、女性モノの服を大量に買い込んでいる事から、透耶に服を送った店に佐久間の写真を見せて確認すると、確かに佐久間が女性ものの服を買い込んでいるのが解った。
 そして、透耶にも服を送っていた。
 それが全て、白のワンピースだった事から、透耶を攫った犯人は佐久間以外ありえないと警察も認めた。
 佐久間が逃走するかもしれないと、道を封鎖し、これから別荘へ乗り込む所だったのだ。
 最初に女性を発見したのは、警備をしていた警官だった。
 すぐに救急車が手配されたのだが、女性がしきりに鬼柳という名前を繰り返していたので、刑事が呼びに来たのだ。
 鬼柳が女性の前に行くと、女性は鬼柳を見て少し驚いていた。
 まさか透耶が伝言を伝えたかった人がこの人だとは思いもしなかったのだ。
 だが、同時に納得してしまう。
 ああ、そうか、この人の所に帰りたかったんだと。
 そうまでして、透耶は必死になっていた。それなのに囮になって残ってしまった。
 女性は自分だけ、逃げて来てしまった事をこの時程後悔した事はない。
「透耶に会ったのか?」
 鬼柳の言葉に女性は我に返って透耶の言葉を伝えた。
「男は佐久間孝。名前が本当なのか解らない。光琉のスタッフで、写真の盗難の共犯。車は白のセダン、ナンバーは……」
 透耶に会ったのかという質問だったはずなのに、女性は淡々と男について説明をしている。
 最初意味が解らなかった鬼柳だが、写真の盗難という所ですぐに、これは透耶からの伝言だと気が付いた。
 透耶は犯人の事を伝えているのだ。
 それも確実な情報を持ってきている。
 自分達が調べてきた事と透耶が伝えたかった事はまったく一致していた。
 光琉のスタッフで、共犯の男がいたのだ。それを写真の窃盗した男が自供したのは昨日の事。
 それが佐久間孝だった。
「透耶は捕まったままなのか?」
 鬼柳がそう聞くと、女性は申し訳なさそうに謝る。
「ごめんなさい。あたしを逃がす為に囮になって……たぶん、別荘に連れて行かれたと思う。早く助けないと、殺されるかもしれない」
 女性がそう答えた所で、鬼柳にはもう女性と話をする必要はなくなった。
 すぐに救急車から離れて車に戻る。
「警察より、先に上がるぞ」
「ですが」
 そう言った、エドワードの捜査員だが、振り返って見た鬼柳の形相に驚いてしまう。
 運転しないなら、降りろという迫力。
 しかも、止めたりしたら何をされるか解らない。
 そういう迫力だ。
 喋らない分、余計に怖いのだ。
 捜査員は、慌てて鬼柳に言われた通りに車を発進させた。
 それを見た警察は大慌てだった。
 それでも全てを無視して、先を急いだ。
 透耶が殺されるかもしれない。
 その言葉で、鬼柳の制御する何かが完全に切れてしまった。
 宝田はそう感じた。
 鬼柳の世界は、透耶一人が占めている部分があまりに多すぎる。そこから、透耶が消えてしまうとなると、鬼柳はどうなってしまうのか。
 また、前の様な、いやそれ以上に何にも興味がなくなってしまうだろう。
 鬼柳の世界を動かしているのは透耶という存在なのだ。
 それを奪ってしまう事だけはしてはならない。
 だが、榎木津透耶という存在が鬼柳恭一という人間を破滅させてしまう要因になってしまうと宝田は感じてしまった。





 別荘に連れ戻された透耶は、無言の佐久間に元いた部屋に連れて行かれた。
 ベッドへ放り出されたと思うと、佐久間に肩を掴まれて押さえ込まれた。
 ここでこういう体制。
 その瞬間に透耶は最初の日を思い出してしまい、必死で暴れて抵抗をした。
 だが、佐久間は簡単に透耶の腕を後ろ手に縛り上げた。
「……痛っ!」
 手加減無しの縛り方だった。
 腕を動かしても外れない。
 透耶は必至で手を外そうとするが、布が食い込むだけで、まったく外れない。
「まったく、君には驚かされるよ」
 佐久間がそう呟いた。
 佐久間が何を言っているのか解らないが、透耶はそれを聞き返そうとは思わなかった。
 必至に紐を外そうとしている。
 佐久間はクスリと笑って、透耶の顎を掴み、自分の方へ向けた。
「今まで誰も逃げようとしなかったのに。それに、よく他に人がいるって解ったね。一言も言ってなかったのにな」
 佐久間がそう言った。
 佐久間は、透耶が女性を殺害した所に居たとは想像すらしてないだろう。
「僕としたことが、生きたまま逃がしてしまったよ」
 そう言う佐久間だが、脱出を手助けした透耶に対して怒っている訳でなさそうだった。
 ニヤリと笑い、それを楽しんでいる感じがある。
 それが透耶には怖かった。
 佐久間の思考が余計に解らないから、怖さが増してしまう。 鬼柳の場合、ストレートではあるが、自分がどれだけ透耶を好きなのかを伝えたりして、態度でも表していた。
 だが、佐久間のそれは、違う。
 得体のしれない何かがあるような気がするのだ。
 黙って佐久間を見ている透耶。
 言葉で、佐久間をどうにかする事など出来ない。
 言葉が通じない気がした。
「まあ、君が手に残れば、それでいいから、別にいいけどね」
 佐久間が言って、顔が近付いてきたので、透耶はすぐに聞いた。
「……殺すの?」
 透耶からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。佐久間は驚いた顔をしていた。
 佐久間は、自分がいらなくなった女性を殺してきた事を透耶が感じ、それで逃げたのだと思い込んでしまった。
「君を? まさか。殺すどころか、ますます手に入れたくなったよ」
 佐久間はそう言って、懐から折り畳みのナイフを取り出し、刃を出すと、透耶が着ている服を掴んだ。
 そしてその服にナイフを当て、服を切り裂いていく。
「何を!」
 透耶はビクッと震えてしまう。
 ナイフの背が肌に当たっている。
 佐久間は慎重にやっているのだろうが、透耶には恐怖しかない。
 ある程度切った所で佐久間はナイフを遠くへ放り投げた。
 それで透耶はハッとする。
「離せっ!」
 起き上がろうにも、佐久間が足を押さえ付けるようにして乗っているので身体が起こせない。
 暴れている透耶を見ながら、佐久間は一気に服を裂いた。
「何するんだ!」
 透耶がそう叫ぶと、佐久間は言った。
「じっくりと抱くんだよ」
 佐久間の言葉に透耶は目を見開き、すぐに抵抗する。
 力を込めて暴れているが、佐久間が本気なのだろう。いくら暴れても佐久間はびくともしない。
 佐久間は器用に透耶の上着を脱がして行く。
 前を曝け出しにされたが、腕を縛っているので、全部は脱げない。
 それでも佐久間には十分だった。
 複雑な着方をするチャイナ服では、脱がせるのも一苦労だからだ。
 脱がした所で、佐久間はスッと透耶の肌に触れた。
 透耶はビクリと身体を震わせた。
 一瞬で身体が拒絶する。
「最初もそうだったね。こんなに鳥肌たてて」
 佐久間はそう言ってクスクス笑っている。
 透耶が意識して鳥肌を立てているのではないと解っている。それを無くしていくのも楽しみなのだ。
「でも、それもすぐになくなる」
 佐久間は言い終わらないうちに、透耶のズボンを掴んで下着も一緒に脱がした。
 透耶の身体を押さえ付け、足を開かせると穴に指を這わせ、一気に指を押し込んできた。
「……っつ!」
 いきなり慣れても濡れてもいない状態で指を入れられると痛みが走る。
 だが、指はすぐに引き抜かれたのだが、何か違和感が残ってる。
「何……?」
 透耶は、その違和感が気持ち悪くて佐久間を見上げてしまう。
 すると佐久間はニヤリと笑う。
 それがどういう意味なのか透耶には解らなかった。
「気持ち良くなるクスリだよ」
 透耶はクスリと聞いただけで全身の力が抜けてしまいそうだった。
 嫌いなクスリ。
 それがセックスをする為のモノ。
 自分がクスリが効き過ぎると認識があるので、余計にそれが怖い。
「あの男よりも、もっと凄い快感が得られるよ」
 佐久間が耳元で呟いた。
「嫌だっ!」
 透耶はそう叫んでいた。
 絶対に嫌だ。
 恭以外に触らせたくない!
 佐久間の押さえ付ける手が弛んだので逃げようとしたが、この狭い部屋を逃げ回るだけになってしまう。
 縛られている手を解こうとするが、やはり無理だった。だが、透耶は必死になってやっていた。
 佐久間はその透耶を押さえ付ける事もなく、じっと透耶を見ていた。
 段々とクスリが効いてくる透耶を眺めているのだ。
 佐久間から一番遠くに離れたのはいいが、クスリの効果が出始めると、透耶は立っていられない程になり、床に倒れてしまう。
 身体の変調は、透耶にも手に取るように解る。
 身体の中が熱くなり、頭の芯が解けそうな感覚になる。
 ふと、何かに身体を撫でられた瞬間、透耶はそこに集中した感覚に悲鳴を上げそうになった。
「……っ!」
 驚いて目を開けると、佐久間が透耶の二の腕を掴んでいた。
「そろそろ効いてきたんじゃないか?」
 佐久間は言って、透耶の身体に手を這わせた。
 それだけなのに、さっきの気持ち悪さなどまったくなく、異常な程感じてしまったのである。
「……んん!」
 声を洩らすものかと奥歯を噛みしめて耐えるが、それでも声は洩れてしまう。
「十分過ぎるくらいに効いているね。ほら」
 透耶の反応に満足した佐久間は、すでに立ち上がって液を零している透耶自身に手を這わせた。
「あっ! やっ!」
 触られただけで達しそうになる。
「触れただけでも達きそうだね」
 透耶は佐久間の言葉にも答えられないくらいに、自分がおかしくなってしまっているのを感じていた。
 抵抗しようにも、佐久間に触られるだけで、理性よりも本能で反応してしまう。
 佐久間は透耶を抱え上げると、ベッドへと戻した。
 そして、透耶の顎を掴んで口から溢れている涎を嘗め取る。
「……んっ!」
 それだけでゾクゾクとした感覚が背中を走る。
 キスをしてきた佐久間だったが透耶はそれだけは許さないとばかりに抵抗を見せた。
 佐久間は唇に痛みを感じて離れる。
 手を口に当てると、そこから血が出ていた。透耶が噛み付いてきたのだ。
 大抵、クスリを与えた者は、快感に溺れて行くものである。抵抗する素振りを見せながらも、結局は求めてくる。
 なのに、透耶は抵抗してくる。
 その意志の強さに、佐久間は感激してしまう。
「そそるね。そこらの女なんか比べものにならないよ」
 佐久間はニヤリとして、唇を舐める。
 透耶は精一杯ではあったが、佐久間を睨み付けた。
 こんな状態になっても、透耶は佐久間には屈しない。だが、それが余計に佐久間の征服欲を誘ってしまう。
 透耶の抵抗を無視して、佐久間は透耶の身体を探り始める。
 透耶は、嫌だと否定したいのに、自分の意志とは反対に、這い回る佐久間の手を求めている身体がある。
 口から出るのは拒否ではなく喘ぐ声。
 自分の意志ではないだけに、透耶は悔しくて仕方がなかった。
 何度も射精を強いられるのだが、透耶はそれに耐えた。
 鬼柳がつけたキスマークの後を全て奪うように佐久間の唇が這う。
 透耶は、そこから自分が腐って行くかのような感覚に陥る。それなのに、身体がそれを求めている。正反対の感覚に透耶は気が狂いそうになる。
「んっんんっ!」
 喘ぐ声を洩らすまいと奥歯を噛みしめて耐えるが、それでも佐久間には十分なくらいに声は洩れてしまっている。
 佐久間は夢中で透耶の身体中を舐め回していた。
 飢えているかのように。
 その佐久間の唇が透耶の中心に達した時、透耶は激しく抵抗した。
 力では適わないのは解っているが、何もしないままなのは駄目だと思っていた。
 いくら、クスリを仕込まれたからと言って、言いなりになるつもりはない。
 足を使って力一杯蹴ってみると、その蹴りがちょうど佐久間の顔にヒットしたらしく、佐久間の力が弛んだ。
 透耶はその隙に身体を起こしてベッドから降りた。
 だが、クスリが効いている身体では、マトモに立っていられない。足に力が入らず、透耶は床に倒れてしまう。
 腕も後ろで縛られているから、素早く身体を立て直す事が出来ない。    
 何とか身体を起こしかけた時、上から力が加えられ、透耶は床に押さえ付けられた。
 佐久間がベッドから降りてきていて、透耶を捕まえたのだ。
 床に叩き付けられるようになった透耶が、ハッとして見上げると佐久間が透耶の股を割ってそこへ身体を滑り込ませていた。
「本当に意外だよ。征服欲を駆り立ててくれるとは」
 佐久間は言って、透耶自身を手で握った。
「嫌だっ!」
 びくりと身体が震えた。
 佐久間が激しくそれを擦り上げると、透耶は完全に抵抗が出来なくなる。
 気持ち良く感じてしまい、頭の中が真っ白になってしまう。
「や……あっ! んんっ!」
 透耶は大きく喘いで達ってしまう。
 それでもまだ透耶自身は熱を失っておらず、すぐに襲ってくる。
 佐久間は先を進めるように、穴に指を当ててゆっくりと侵入させる。
「……んっ!」
「どこが気持ちいいのかな?」
 佐久間はそれを楽しむかのように、中に入れた指を動かし始める。
 答えたくなくても、佐久間は透耶の反応を見ながら、確実に感じる場所を探り当てて行く。
「……っ!」
 指が出入りを繰り返し、いい場所に当たってしまうと、透耶は射精をしてしまう。自分の意志とは反対に身体の方が素直に反応してしまうのだ。
 指が増やされ、中を掻き回されると、透耶は気を失いそうになる。
 言いたくもない言葉が口から出てしまいそうになっては、我に返り奥歯を噛み締める。
 こうまでされても透耶が言葉にしないので、佐久間は先を急ぐ事にした。
「ここに僕のが欲しいだろう。中がひくついているよ」
 佐久間はそう言って指を引き抜いた。
 透耶はその言葉に恐怖した。
「……嫌だ……いや」
 我慢し切れなかった涙が出てしまう。
 抵抗する力がもはやなく、疲れ果ててしまった。
 だが、諦めてしまう事も出来ない。
 佐久間にいいようにされてしまう自分が悔しくて。
 鬼柳の為に自分の身体を守りたいと思うのに、もう泣く事しか出来ない。     
 泣いた所で佐久間が止まるとは思えない。
 それでも透耶には泣く事しか残されてなかった。
「いや……だ……」
 恭、助けて。
 ここにはいない鬼柳の事ばかりが頭を過る。
 こうなった自分を鬼柳が嫌ってしまうかもしれない。
 鬼柳はそれを許してくれないかもしれない。
 佐久間に抱かれたら、鬼柳が去ってしまう。
 それを考えただけで、透耶は身体が震えてしまう。
 佐久間は、そんな透耶を見下ろした。
 透耶が「恭」と言った瞬間に、佐久間はあの男だけには透耶を渡さないと思った。
 透耶の腰を上げて、自分自身を穴に押し付ける。
 透耶はもう抵抗が出来なくて、ギュッと目を瞑るのがやっとだった。
 恭……!
 そう心で叫んだ時、ドカッと大きな音が部屋に響いた。
 驚いた佐久間の動きが止まる。
「何だ、お前」
 その佐久間の言葉に透耶は音がした方を見た。
 涙でそこはハッキリとは見えなかったが、シルエットだけでもそれが何なのかすぐに解った。
「……恭……」 
 透耶は掠れた声でそう呼んだ。

 
 鬼柳がドアを蹴破って中を見た瞬間、全ての動きが止まってしまった。
 透耶の名前が書かれたドアを破って入ってみれば、男が透耶を押さえつけて犯している、というものだったからだ。
 頭が真っ白になるどころか、どす黒い何かが頭を支配する。
 殺してやる。
 そう本気で思った。
 だが、透耶の掠れた声、それも自分の名を呼ぶ声で我に返る。
「おい、どうなってる」
 後ろにいる警官がそう言った時、鬼柳は無言で部屋に入り込んだ。
 透耶に覆い被さっていた佐久間が身体を起こした所を鬼柳は狙い済まして足で佐久間の顔を力一杯蹴った。
 その蹴りが凄まじく、佐久間は反動で吹き飛び、遠く離れた壁まで吹き飛ばされた。
 壁に叩き付けられた佐久間は、そのまま気を失ってしまう。 鬼柳はそんな佐久間を無視して、透耶の前にしゃがんだ。
「……恭……やだ……見ないで……」
 透耶は今の自分を鬼柳に見られたくなくて逃げようとする。身体を起こそうとしているが、腕を縛られているので仰向けでは起き上がれない。
 鬼柳がそれに手を貸すと、背中に触れた手だけで、透耶は身体を震わせた。
「……あっ」
 思わず声が洩れてしまう。そして苦しそうに息を繰り返す。
 この透耶の反応だけで、鬼柳は透耶が今どういう状態にあるのかを悟った。
「透耶、少しだけ我慢してくれ」
 鬼柳はそう言って、透耶を抱き寄せた。
 背中に手を回して、紐を外していく。
 透耶は鬼柳の胸に顔を押し付けて、洩れる声を消そうとした。
 紐を外し終わると、鬼柳は上着を縫いで透耶に着せた。
 すぐに抱き上げて外へ向かう。
 透耶はギュッと鬼柳にしがみつき、鬼柳の肩に顔を埋める。
 入り口で呆然と成り行きを見ていた警官だが、鬼柳が近寄ると、慌てて道を譲る。
 透耶がここで何をされていたのかは、佐久間の様子を見ていれば予想は出来る。そしてそれに対して、鬼柳がかなり頭にきて最高に怒っている事だけはハッキリと解る。
 口出ししたら、佐久間と同じ目に会うかもしれないとも。
 それを見てなかった刑事が。
「おい! どうなってる!」
 そう声を掛けてしまった。
 すると、鬼柳がその刑事を睨み付けた。
 刑事はギョッとして固まってしまう。
 一瞬、殺されると思ってしまったのだ。
 実際、鬼柳は「邪魔するなら、殺す」という脅しを込めて睨み付けていたのだ。
 誰も鬼柳の行動を止められない中、一人の外国人が近付いて呼び止めた。
 一緒に付いてきたヘンリーだった。
「鬼柳さん、これって」
 ヘンリーは透耶の様子を見た瞬間に透耶がクスリを仕込まれている事に気が付いた。
「悪い。明日の昼まで時間を稼いでくれ」
「解った」
 ヘンリーはすぐに頷いた。
 鬼柳がこれから何をするのか解っているから、自分はここに残り、警察との折り合いを任されたのだ。
「後で透耶を診るから、場所は宝田さんに連絡させて」
「解った」
 それだけ会話をして二人は別れる。
 透耶にはそこにヘンリーがいる事さえ解っていなかった。ただ鬼柳がいる事だけしか解っていなかった。


 宝田が車で待っていると、鬼柳が透耶を抱いて戻ってきた。
 鬼柳の様子を見ていれば、何となくではあるが何があったのかは予想出来、宝田は急いで後部座席のドアを開けた。
 すぐにトランクから毛布を取り出して準備をする。
 一枚をシートに敷き、もう一枚を持ったままで待機する。
 鬼柳はシートに敷かれた毛布の上に透耶を寝かせ、宝田から渡された毛布を上にかけてドアを閉めた。
「宝田、何処か、ここに近いホテルを準備してくれ」
「御意」
 宝田は頭を下げて、エドワードの捜査員に指示を出す。
 鬼柳も後部座席に残り込み、透耶の隣に座る。
 すぐに宝田が運転席に乗り込み、捜査員は別の車に乗り込んで先に発進した。それを追って宝田も車を発進させる。
 車が走り出すと同時に、鬼柳は透耶に話し掛けた。
「透耶、もういい、我慢しなくていいよ」
 鬼柳がそう言うと同時に、透耶は鬼柳に縋って泣き出した。
「……ごめん、なさいっ」
 透耶は何度も謝っていた。
 全てに対して、鬼柳に謝らなければならない事があった。
 鬼柳が泣いている透耶に触れたとたん、透耶は身体を震わせた。
「悪い。クスリ、辛いだろ」
 その言葉に透耶は弾かれたように顔を上げて鬼柳を見上げた。
 鬼柳には今透耶がどんな状態なのかよく解っていた。クスリが効き過ぎる透耶にとって、そのクスリが通常の倍には効いているはずだ。
 それがどれだけ辛いのか、想像を絶する。
 透耶はそれに耐えているのだ。
「このままクスリが抜けるまで頑張るか? それか俺が手伝っていいか?」
 鬼柳の提案に透耶はどうしていいのか解らなかった。
 透耶が迷っているのが解って鬼柳は言った。
「抜けるまで、1時間くらいかかるかもしれない」
 たった1時間。
 しかし透耶にとってはとても耐えられる時間ではない。
 だが、このままの状態を鬼柳に手伝って貰うのは、鬼柳に申し訳ない気がした。
「透耶、俺に甘えていいから」
 鬼柳は透耶に甘えて欲しかった。
 透耶は鬼柳の顔を見上げて、真剣な鬼柳の瞳を覗き込んでいた。
 この苦しみから逃れるには、鬼柳の手を借りる方が早く終わるだろう。
 この苦しみに耐えられないと思った透耶は素直に頷いた。
 そして、また謝ってしまう。
「ごめんなさい……」
 そう言う透耶に、鬼柳は少し困った顔をして微笑んだ。


 近くのホテルに着くと、先に到着していた捜査員が部屋を既に確保しており、駐車場から直通のエレベーターで部屋に向かった。
 部屋を入った所で、鬼柳は宝田に何かを命じ、捜査員にも指示を出した。
 そして、奥の部屋に入ると、鬼柳は透耶を抱えたまま、バスルームへ直行した。
 中へ入ると、鬼柳はシャワーを出し、その下に透耶を横たえた。
 今まで我慢に我慢をしていたとばかりに、鬼柳は透耶にキスをした。
 それも激しく、食らい付くように何度も向きを変え、透耶と離れていた間の空白を埋めるかのようだった。
 透耶も鬼柳の首に腕を回して、自分でも求めるようにキスに答えた。
 それだけで、透耶は目眩がするくらいだった。
 透耶が苦しくなった所で離れても、瞳を合わせただけで、鬼柳は何度もキスを繰り返す。確かにここにいるのは透耶なのだと確認する様に、鬼柳は繰り返す。
「……はぁ……はぁ」
 キスがやっと終わると、透耶の息は完全に上がっていた。そして、キスだけで、透耶は何度も達してしまう。
 鬼柳はそんな事は気にせずに、佐久間が残してしまった痕を確認し、その上に自分の印を重ねて行く。
「……んっ……」
 鬼柳が触れていくだけで、気持ちが良くなり、何も考えられなくなってしまう。
 透耶の感じる場所を触りながら鬼柳が言う。
「気持ちいい?」
 普段なら透耶が恥ずかしがって答えない質問だった。
 しかし、透耶は頷いている。
「……はぁ、ぁん……」
「ここは?」
「……うん」
「ここも?」
 そう何度も聞いてくる鬼柳に、何か不安を感じ、透耶は薄らと目を開けて見上げた。
 ちょうど鬼柳と目が合った。
 この時の鬼柳の表情が、心なしか苦しそうに見えた。
 透耶は、自分がこうなっている事を鬼柳が苦しく思っているのだとすぐに解った。
「……恭……」
 透耶は手を伸ばして鬼柳を呼ぶ。
 抱き締めたい時の合図で、鬼柳は言われるままに身体を起こした。
 鬼柳が手の中に入ると、透耶はギュッと抱き締める。
 そして耳元で言った。
「……俺、大丈夫だから。気が狂うくらいにして。恭を感じたいんだ。何も考えられないくらいに……して」
 透耶の言葉を聞いて、鬼柳は驚いた。
 いくらクスリが効いているからと言って、透耶がそんな言葉を口にするはずがないからだ。
 だけど、透耶がそんな言葉を口にする理由は理解出来た。
 自分が苦しい顔をしてしまったから、透耶はそれを気にしている。
 自分が辛いというのに、透耶は鬼柳が辛い方が何より辛いのだ。
 荒い息をしながらも、透耶は大丈夫だと繰り返す。
 鬼柳は透耶を抱き返した後。
「すぐ楽にしてやるから」  
 そう言って、透耶の足を持ち上げると穴に指を忍ばせた。
「あっ!」
 その指の感触だけで透耶は達ってしまう。
 指が増やされて出入りを繰り返す。
「ぁん……はぁ……んっ」
 透耶は鬼柳にしがみついて、与えられる感覚を味わっていた。 
 物凄く気持ちがいい。
 だけど、何かが違う。
 そう思ってはいたが、その考えすらすぐに頭の中から消えてしまう。
 佐久間が十分に解していた場所は、鬼柳が解さなくても十分過ぎるくらいだった。
 鬼柳はそれに苛立ちを感じてしまう。
 さっさと透耶の中からクスリを抜いてしまいたかった。
 透耶は嫌がるかもしれないが、このやり方が一番クスリを抜くには早くて済む。
 鬼柳は己を出し、扱いて立たせると、すぐに透耶の中へと押し入った。
「……っ!」
 鬼柳が中へ入っただけで、透耶は鬼柳の背中へと回していた手が爪を立てて引っ掻いてしまう。
 かなり深く刺さってしまっていたが、鬼柳は痛みを感じなかった。
 中へ入ると、二三度動かし動きを確かめた後、鬼柳は一気に奥まで突き上げた。
 翻弄するように、感じる場所だけを狙って攻め、深く奥まで突き続ける。一緒に愛し合うという抱き方ではなく、ただ快楽を求めるだけの抱き方。
 昔はこうした抱き方しかしなかった。
 透耶を抱いた時は、こんな抱き方をした事はなかった。
 鬼柳は、透耶をこんな抱き方で抱きたくなかった。
 こんな抱き方をしたら、透耶に嫌われるとさえ思った。
 それでも透耶を楽にするには、こんな抱き方が一番なのだと自分に言い聞かせる。
 透耶を狂わせるように鬼柳は快楽だけを与える抱き方を続けた。
 確かに自分も感じているのに、心が痛い。
 これが愛のないセックスなのだと思い知らされる。
「あ……あぁっ……もう……ん」
 これ以上の快楽には耐えられないと透耶が根を上げた所で鬼柳は尚を激しさを増して突き上げた。
「あぁぁっ!!」
 透耶は達した瞬間に気を失った。
 締め付けられた鬼柳だったが、透耶の中から素早く抜いて外で出した。
 完全にクスリの効果がなくなり、気を失っても荒い息をしている透耶。
 鬼柳は投げ出された透耶の腕を取って、手首にキスをした。
 佐久間が縛り上げた箇所は、完全に擦れて血が滲み、クッキリと痕が残っている。
 透耶が必死に抵抗したのが解る痕だ。
 透耶が佐久間に屈しなかったから、佐久間はクスリを仕込んだのだ。
 透耶の顔を見ると、涙を流し過ぎて目蓋や目頭などが赤く腫れている。そこにもキスをする。
 それから身体中を調べた。
 腕などに何処かで打ちつけたような青い痣。
 何より酷かったのは、足の裏だった。
 きちんとした靴ではなかったのか、足の裏は真っ赤に擦れ、マメが出来、それが潰れている。
 これでは相当痛いはずだ。
 自分で立って歩けない程になっている。
 鬼柳はそれを見て、壁に八つ当たりしてしまう。
 あんな女なんか置いて、さっさと逃げればよかった。
 連れて逃げなければ、あそこで偶然会ったのは女でなく、透耶だったはずだ。
 身体中を陵辱されたりしなかった。
 どうして……!
 そこまで考えて、鬼柳は溜息を吐いた。
 今の考えは、自分の願望だ。
 透耶がその通りに動くはずはない。
 自分だけ助かろうなどと考えるような透耶は透耶とは言えない。
 鬼柳はそう考えて、これについて考えるのをやめた。
 いくらこうすれば良かったと考えた所で、もう済んでしまったから後の祭りだ。
 透耶の身体を起こして、身体中を綺麗に洗った。
 それが終わるとバスローブを着せてベッドへと運んで寝かせる。
 自分もベッドに座り、透耶を抱き寄せて頭を乾かしていた。
 抱いた瞬間に、透耶が痩せているのが解った。
 ただでさえ、痩せやすいのにきちんと食べてないのが解る。
 肌も微妙に触り心地が違う。
 鬼柳が自分で管理してきたから、ただのこだわりなのだが、それを乱されたのは許せない。
 ……ちくしょう。せっかくいい具合に太らせたのに。
 思わず違うところで舌打ちをしてしまう。


 そこへドアがノックされて宝田が入ってきた。
「失礼致します」
 ここで髪を拭くのを中断して透耶を寝かせる。
 透耶が眠っているのを見て、宝田は安堵する。
「こちらに着替えをお持ちしました」
 宝田はそう言って、側にあったテーブルに服を置いた。
「透耶様がお怪我をなさっておいでだと、ヘンリー様が向こうの部屋でお待ちになれています」
「呼んでくれ」
「はい」
 宝田が頭を下げて下がると、ヘンリーが代わりに入ってくる。
「クスリは抜けた?」
 ヘンリーがそう尋ねると鬼柳は頷く。
「見た目で解る怪我は?」
「足の裏と両手首に怪我をしてる。他は痛がりはしなかったから、酷い怪我じゃないと思う」
「解った」
 鬼柳の見解を聞いてヘンリーは手当てをする。
 やはり鬼柳が思った通り、透耶の足の裏の怪我は酷いものだった。
「手首の擦り傷は治りは早いとは思うけど、あまり激しくすると塞がった傷が開いてしまうから気を付けて。足の裏は、ちょっと酷いね。応急処置はしておくけど、後でちゃんと病院に行った方がいいね」
「そんなに酷いのか?」
「塗り薬が必要だから、専門が診て貰った方がいいという見解だよ」
「……そうか」
 ホッとする鬼柳を見てヘンリーは笑ってしまう。
 鬼柳の言い方が、自分の方が辛いという感じだったからだ。本当に透耶が大切で溜らないという態度を崩さない。
「一週間くらい、歩かせない方がいいよ。透耶はすぐに無理するからね」
 ヘンリーにそう言われて鬼柳は頷く。
 透耶は痛いとか辛いとか、そういう事さえ我慢してしまう。
 こっちが気を付けないと、透耶自身さえ怪我をしている事を忘れてしまうのである。
「警察には診断書出しておくよ。早く事情聴取したいらしいからうるさかったしね」
「頼む」
「それから、エドワードから10人ばかりSPが送られてきたよ。後は宝田さんがやってるから」
「ああ」
「じゃ、俺は一足先に帰るね」
「ああ、助かった」
「いや。透耶、無事でよかったよ」
 ヘンリーは心からそう思っていた。
「そうだな」
 鬼柳はそう言って、初めてヘンリーの前で安堵した顔を見せた。
 
 
 透耶が気が付いた時、薄らとした灯しか見えなかった。
 一瞬、まだ自分はあの地下室にいるのかと思ってしまった。
 隣に誰かがいる気配がして、ハッと目を覚ます。
「透耶? 目が覚めたか?」
 声がした方を見ると、鬼柳が肘を付いて自分を見つめている姿が目に入った。
「まだ寝てていいぞ」
 鬼柳がそう言って微笑み、透耶の頭を撫でた。
 透耶は、自分の隣で鬼柳が笑って喋って動いている姿を見て、自分を撫でている手を取り、ギュッと握り締めた。
「ん? 何?」
 鬼柳がキョトンとしていると、透耶は鬼柳の手を頬に当ててニコリと微笑む。
「本物だぁ……」
 そんな事を起き抜けに言われて、鬼柳は首を傾げてしまう。
「ずっと夢ばかりで、目が覚めたらいなくて……」
 透耶はホッとした顔をして鬼柳を見つめて言った。
「ずっと恭の事ばかり考えてた」
 そう言った透耶の瞳には涙が浮かんでいた。
 泣きたい訳ではないが、涙脆くなってしまっているのかもしれない。
「俺も、ずっと透耶の事ばかり考えてた」
 鬼柳がそう答えると、透耶は本格的に泣いてしまう。
「……ごめんなさい」
 透耶はやはり謝る。
「俺……全然解ってなかった……。恭が言った意味も、宝田さんが言った意味も全然解ってなかったっ!」
 何度も言われ続けた言葉。
 家の警備の事もセキュリティーの事も、そして鬼柳が透耶を一人で外へ出したくないという事も。
 全てが透耶の為だった。
 ただ過保護過ぎると透耶は思っていた。それが、こういう事が起る可能性があるから、用心していたのだと理解出来なかったのだ。
 佐久間の言葉で自分がどれだけ危険な状態にあるのかを初めて理解した。
 自分が思っているよりも、周りが放っておかない。
 自分がそんな状態である事さえ理解していなかった。
 いくら他人が自分の事をどう思っているかという事に無関心とはいえ、無知でいるのは愚かである。
 誘拐され監禁されたのは自業自得。
 しかし、周りの忠告を素直に聞いていれば、それは回避出来た事なのだ。
 しかし、透耶は自分の自由よりも、何よりも、鬼柳にあんなに辛い顔をさせてしまった自分の緒行動をした事を本当に反省していた。
「こんな事になるなら、ちゃんと言う事を聞いておけば良かったっ! 俺、馬鹿だから、こうなるまで解らなかったっ!」
「透耶っ!」
 掠れた声で透耶は謝り続ける。
 鬼柳だけだと、自分に触れるのは鬼柳だけだと思っていた。それなのに、状況を理解してなかったばかりに、あんな男に自分の身体を自由にさせてしまった。
 もしかしたら、鬼柳はそれで自分を嫌ってしまうかもしれないとさえ思った。
 あんな辛い顔をした鬼柳は見た事がない。
「……ごめん……恭に、あんな、顔、して欲しく、なかったのに……」
 透耶にとって鬼柳という存在がこの世で一番大切だ。
 自分が隣にいる事で、笑ってくれる顔が大好きだ。
 それをあんな悲痛な顔をさせてしまった。
 透耶はそれが苦しくて仕方がなかった。
 全部自分のせい。
 鬼柳は透耶が謝る言葉を全て聞いていた。
 透耶が何に対して謝っているのか、それは解っている。
 心配をかけた事、佐久間にいいようにされてしまった事。勝手に行き先も告げずに家を出た事。
 そして、鬼柳に辛い思いさせてしまった事が何より透耶には辛い事だった。
「俺も透耶にそんな顔をして欲しくない。泣かれるとどうしていいか解らなくなる」
 鬼柳は困った顔をしていた。
 透耶が思っている事を否定する事は出来ない。
 いくら透耶のせいではないと言ったところで、透耶が頷くはずはないからだ。
 まさか、いきなり家の近くで誘拐されるとは、鬼柳さえ予想出来なかった。それでも、一人で行動する事を許していたのは、鬼柳も同罪だった。
 これほど、透耶という存在を見る周りの目が異常だとは想像も出来なかったのだから。
 鬼柳が気を付けている以上に、宝田も気を付けていた。それでも目の前に落とし穴があった。
 鬼柳に泣かれたらどうしていいか解らなくなると言われた透耶だが、涙腺は言う事を聞いてくれない。
 鬼柳は身体を起こして透耶に覆い被さると、涙を唇で吸い取っていく。
 そして頬や額に優しくキスをしていく。
 泣いている透耶を落ち着けるには、最高に優しいキスをして安心させてやる事しかない。
 監禁されている間、透耶は怖い思いをしたはずだ。
 それを一切口にしない。
 それどころか自分ばかりを責める。
 こういう所は透耶らしい。
「透耶は馬鹿じゃないよ。そりゃ、自分で思ってるより、周りから思われているって解ってないけど」
 鬼柳の言葉に透耶は顔を上げる。
 ……それを馬鹿って言わないか?
「自覚したなら話は早いな。さっそくエドのところからSPを雇うようにしたからな。さっき揃ったらしい」
 鬼柳がニヤリとしていきなりそう言ったので透耶はキョトンとしてしまう。
「え?」
 どういう事だろうと首を傾げていると、鬼柳は更に続けて言う。
「セキュリティーも甘過ぎるから、最新型のに変えるようにしたし」
「え? え?」
「とりあえず、透耶にはSP10人付けるからな」
 にっこりと微笑まれて言われ、透耶はあまりの数の多さに反論してしまう。
「そ、そんなにいらないよ!」
 透耶がそう叫んだのだが。
「10人付けるからな」
 そう言う鬼柳は笑っているが目が真剣だ。
 ……怖い。
 笑ってるけど、問答無用なんだ……。
 透耶は困り果ててしまうが、最終的には頷くしかなかった。
「……はい。でもやっぱり多すぎると思うんだけど……」
 移動するたびに、ゾロゾロと黒服の男達が付いてくると考えたら、とてもじゃないが、表は歩けない。
 浴びなくてもいい注目を浴びてしまうのは確実。
「透耶が誘拐されたという話が何処からか洩れたらしい。暫く周りがうるさいから、SP10人いても足りないくらいだ」
 そう透耶すら忘れているかもしれないが、いくら鬼柳や光琉、それにエドワードが箝口令を布いた所で、透耶が注目の新人作家となれば、ただでさえ光琉の兄で、双子、それだけで記者達は取材合戦をしているのだから、この話題は格好の記事ネタになっている。
 それだけでも鬼柳の周りには迷惑をかけているのだ。
 それに鬼柳との関係が表に出れば、それはそれでスキャンダルとなり、光琉にも迷惑をかけてしまう。
 自分の行動一つが、周りにマイナスとなってダメージを与える結果になってしまうのだ。
 それを考えると透耶が反論出来るはずもない。
 しょんぼりとしてしまっている透耶の頭を鬼柳が撫でて付け足した。
「落ち着いたら、人数は減らすよ」
 元からそう考えていたように鬼柳は言う。
 その気の使い様に、透耶は自分が大事にされているのだと再認識する。
 これほど自分の事を思ってくれる相手はいないだろう。
 無償の愛を惜しげもなくくれる。
 それに答えたいと透耶は思う。


「そういえば、エドワードさんの所って、そんなにSPがいるの?」
 透耶の為に貸し出すというが、エドワード自身にとっても大事なSPのはずだ。それを簡単に貸し借り出来るとは思えない。
 その透耶の質問に鬼柳は簡単に答えた。
「あいつんところ、そういう養成所みたいなのも経営してんだよ。自分の所に優秀なのが欲しいと思ったけど、あんまり質がよくないし、信用出来ないから自分で仕込めばいいんじゃないかってな。結構、優秀なのがいるから、商売としても成功してるぞ」
「なるほど。道理で簡単に自分のSPを貸すなぁって思ってたんだ。納得」
 自分が雇っているSPをそんなに簡単に貸したり出来る訳がない。エドワードが商売としてやっているなら、安心出来ると透耶は思った。エドワードは、仕事に関しては厳しいと評判だからだ。 
「最終的には、富永と石山をつけようと思ってる」
 鬼柳がそう言ったので、透耶は驚いた。
 まさか、ここでその名前を聞くとは思わなかったからだ。
「え? 富永さんと石山さん、来てるの?」    
「ああ」
「なんで早く言わないんだ。会いたいよ。沖縄から帰ってきて以来じゃないの」
 透耶がそう言って、二人に会えるのが嬉しいという顔をしているので、鬼柳は深く溜息をついて起き上がった。
 透耶も身体を起こして床に降りようとした所で鬼柳に止められてしまう。
「え? 何で?」
 ギュッと腰を掴まれてしまい、透耶は驚いて鬼柳の方を振り返った。
「透耶、今、自分の足の裏がどんな状態なのか解ってないな?」
「はい?」
 ……足の裏?
 まったく解ってない透耶に鬼柳が説明をする。
「足の裏、マメが潰れて、しかも他も靴擦れとかしてるから酷いんだぞ」
「え? 嘘?」
 全然痛くないので、そう言われても実感がない。
 だが、両足を見ると、見事に包帯を巻かれている。
「本当。さっき医者呼んで見せたら、一週間、歩くの禁止だってよ。歩くと皮膚の再生が遅れて、傷が残るからって」
 ……結構、重傷?
 透耶はそう思って、更に歩きを禁止されてハッとする。
「……俺、どうやって移動すんの?」
 歩けなければ何処にもいけないのだ。
「俺が当分人間車椅子」
 鬼柳がニコリとしてそう言った。
「え?それだったら、普通に車椅子でも」
 いいのに、と透耶は続けたかったのだが、それを鬼柳が遮った。
「いいと思うか? 慣れないもん使うと余計な怪我するし、家帰ったら一階と二階の移動は車椅子じゃ出来ないだろ」
 確かに慣れないモノを使ったら、絶対余計な怪我をしてしまいそうだ。一階、二階の移動はどうやっても無理だ。
 そうなると、鬼柳の手を借りるしかない。
「あ……うん。人間車椅子、お願いします」
「それでいい」
 透耶が素直に頷いたので、鬼柳はニコリと微笑んで透耶の着替えを手伝う。
 着替えさせるのが嬉しいのか、殆ど透耶にさせずにやってしまう。あまりに嬉しそうにしているから、透耶は着替えを鬼柳に任せてしまう。
 それが終わると、鬼柳が透耶を抱き抱えて寝室を出た。
 もはや、ここが何処などと聞けない透耶。
 知らない間に知らない場所にいる、という現状はもう追求しても仕方がないと諦めてしまっている。
 部屋を出たとたん、いきなりSPの整列があった。
 ギョッとして、透耶は固まってしまう。
 だが、ここで透耶が最初にする事は決まっている。
「あ、おはようございます。お世話になります」
 取り合えず挨拶をしてみる。
 SP達は落ち着いた様子で、「おはようございます」と答えた。
 …」…この人達、全員の名前、覚えられるかな?
 透耶は変な所で変な心配をしてしまう。
 どのSPも鬼柳くらいの背の高さで、透耶が普通に立っていても捕まった宇宙人のようになってしまう。
 鬼柳がゆっくりと透耶をソファに下し、透耶は富永と石山に会う事が出来た。
 二人も透耶に会える事を喜んでいるらしく、宜しくお願いしますと言って再会を嬉しく思っていた。
 

 その透耶から離れて、鬼柳は宝田と話をした。
「犯人を訴えるかは透耶様次第なのですが」
「強姦については訴えないと思う。そうなると向こうの弁護士が俺との事を持ち出してくるだろうしな。俺は構わんが透耶が困る事になる、それは避けたい。だが、誘拐、監禁は見逃す訳にはいかん。透耶は、殺人現場も見ているからな。どうしたって裁判には引きずり出される」
「それについては、透耶様側の弁護士の方と連絡が取れました。朝9時にはこちらへ到着する予定です。それから、余計な事とは思いましたが、鬼柳家の専門弁護士の方にも連絡をしまして一人呼び寄せてあります」
「それはいい。透耶の弁護士は後継人のようなモノらしいからな。あのクソ男の弁護士が接触してくるかもしれないから、注意しろ。証人尋問とか言うのには絶対出廷させないからな」
 透耶が大丈夫だと言おうが、鬼柳は佐久間がマトモな神経だとは思っていない。
 裁判では、どうしても佐久間と顔を合わせる事になってしまう。そうなると、透耶への負担が大きすぎる。
 それに透耶が出廷しなくても、佐久間の犯行は殺人だけでも十分。そして、拉致、監禁となれば、日本の法律で最高刑、死刑もしくは、懲役でも15年は出るだろう。だが、佐久間の精神鑑定で異常性が主張されるとなると、状況は変わってしまう。
 裁判では、弁護側がそこを主張してくるだろう。
 佐久間がどうなろうが鬼柳には興味はない。
「後は犯人の出方次第ですね」
「ああ。くそ、こんな事なら、あの野郎、二度と口が聞けないようにしとくんだったな」
 そうすれば、余計な事を言わせないで済むと思ったのだ。
「死人にくちなし、ですね。非常に残念です」
 普段なら物騒な事を言う鬼柳をとめるはずの宝田が賛同したのに鬼柳は驚いてしまう。
「恭一様のお気持ち程ではございませんが、私もこの度の事は膓が煮えくり返る気分でございます。密かに暗殺しても宜しいのですが、それが透耶様に知られてしまいますと私の方が困ってしまいますので、止めておきます」
 宝田は最後の方はニコリと笑って言ったのだが、宝田がこういう冗談を言うはずもなく、あくまで本気の言葉だった。
 もし、絶対に透耶に知られないとしたら、宝田は裏で手配してやってしまうかもしれない。
 鬼柳が透耶を大事にしているから、宝田が大事にしているのではなく、宝田自身が透耶という存在を大切だと思っているからこそ出てしまう言葉だった。
 透耶に関わる人で、透耶を良く知っている人間は、必ずといっていい程同じ台詞を口にする。
 こういう過激な事を言わせてしまう力が透耶にはあるのだろうか?
 鬼柳はふとそんな事を考えてしまった。


 警察署に出向いた時、周りの視線が痛い透耶。
 やっぱり変だよね……。
 あんぐりと口を開けている警察官達を見ていると、そう思ってしまう。
 鬼柳が歩けない透耶を抱いて、その周りを10人もの黒服の男が2人を囲むようにしているのだから。
「何処の御曹子なんだ?」
「身元調査をしましたが、小説家とカメラマンなんですけど」
 どう考えても不釣り合いな状況である。
 だが、鬼柳に抱えられてる透耶を見て、佐久間が拉致、監禁した意味が理解出来た。
 男だと解っていても、透耶はそこら辺りの女よりも綺麗で人目を引き、初めて透耶を見たら、一瞬目を奪われてしまうのだ。
 人目を引き過ぎるから、事件に巻き込まれる。
 SPがついてきた意味も解ってしまった刑事達であった。


 透耶は全て話した。
 見た事聞いた事、佐久間が何をしたのかまで、透耶は落ち着いて話した。
 強姦については訴えないと透耶はハッキリと言った。
 鬼柳と透耶を見ていれば、どういう関係なのかは刑事にも解る。それを持ち出されれば、裁判で拗れるのは容易に想像出来る。
 関係を知られたくないのではなく、それによって被る周りの人間の心配を透耶はしていた。
 刑事も、佐久間が透耶を強姦した事については目を瞑る事にした。佐久間の罪状は、殺人、死体遺棄だけでも十分だったからだ。
 それに佐久間は淡々と犯行を認めている。
 いや、認めているよりは、ただ自分がした事を犯罪とは思っていない節がある。そういう供述の仕方なのだ。


 全て話し終わった時、透耶の顔色は真っ青だった。
 思い出すのも辛い。
「透耶」
 鬼柳の呼ぶ声で、透耶はやっと現実に戻る事が出来る。
「顔色が悪い。大丈夫か?」
 椅子に座っている透耶の前にしゃがんで鬼柳は透耶の顔を覗き込む。
「……うん」
 笑って答えたつもりだったが、透耶は鬼柳の方に向いて倒れてしまう。それを鬼柳が抱きとめる。
「透耶……気分が悪い時は悪いと言ってくれ」
 鬼柳に懇願するように言われて透耶は頷いた。
 透耶の癖は、自分が具合が悪くても倒れるまで我慢してしまう事だ。
「大丈夫ですか?」
 事情聴取をしていた刑事が心配して尋ねたが鬼柳が速攻答えた。
「大丈夫な訳ないだろ。無理してるに決まってる」
 鬼柳はそう言って透耶を抱き上げた。
 ただでさえ、満足に食事をしていない。それに疲労と思い出すのも辛い事をしている。
 透耶が大丈夫だと言っても、誰が見ても透耶自身の体力、精神面でも限界がきている。
「申し訳ありません。今日はこれで結構です。また後日、確認したい事があれば伺います」
 刑事がそう言った時、鬼柳が言い返した。
「もう全部話した。これ以上、話す事は何もない」
 きっぱりとした口調で言い切る。
 すると透耶が鬼柳を見上げて言った。
「……駄目だよ。刑事さんも仕事してるんだから……」
「いや駄目だ。透耶に何度同じ事を聞いても、同じ答えしか出ない。聞くだけ無駄だ。今度からそっちの弁護士を通して貰う」
 鬼柳の威厳ある口調に透耶はそれ以上反論出来なかった。
 こうなると鬼柳は透耶の言う事など絶対に聞かない。
 これだけは譲れないと意地でもそうする。
「透耶、家に帰ろう」
 鬼柳が優しく言った。
 透耶は「うん」とだけ答えた。


 部屋を出た所で、透耶は二度と見たくもなかった佐久間の姿を見てしまう。
 ちょうど留置所への移動中だった佐久間と鉢合わせしてしまったのだ。
 透耶にとって佐久間は、もはや恐怖以外の何者でもない。
 佐久間は透耶の姿を見つけると、刑事を振り切って透耶の方へ走ってきた。
「佐久間!」
「取り押さえろ!」
 刑事がそう叫んだが、それより素早く、SPが行動をしていた。
 数人が走ってくる佐久間を取り押さえ、残りが透耶を抱いた鬼柳の前に壁を作る。
 佐久間はすぐに取り押さえられたが、視線は透耶の方を向いている。
 透耶はそれを見ていたくなくて、鬼柳の肩に顔を埋めた。
 怖い。
 鬼柳にしがみついた透耶は、今まで見た事もない程怯えていた。
 鬼柳は佐久間を睨み付けた。
 佐久間はニヤリと笑う。
「透耶……君の抱き心地は最高だよ」
 その言葉に透耶は更に震えた。
「僕を忘れるなよ。また抱いてあげる」
 佐久間の声が今でも自分を抱いているかのような錯覚に陥いる。あの気持ちが悪い感触が蘇ってきてしまう。
「嫌っ! 恭! 恭!」
 透耶は耳を塞いで叫んだ。
 透耶がここまで鬼柳に助けを求めた事は今まで一度もない。
 パニックを起こしかけている。
「そいつを黙らせろ!」
 鬼柳が叫んでSPが佐久間を殴り失神させた。
「おい! 早く、佐久間を連れて行け!」
 刑事が慌ててSPから佐久間を引き受ける。
 ダラリとした佐久間は、数人の刑事に連れられて目の前から消えた。
「透耶……?」
 鬼柳が透耶に呼び掛けたが、透耶は中々返事をしない。
「透耶、大丈夫だ」
 鬼柳がそう呼び掛けると、透耶はやっと目を開いて鬼柳を見上げた。
 真っ青な顔で、瞳には涙が浮かんでいる。
 本当は泣叫びたい程のパニックになっているはずだが、透耶はそれに耐えている。
 だが、悲鳴を上げてしまったのは、やはり体力、精神的に限界の透耶には、佐久間と対峙するのに耐える気力は残ってなかったからだ。
 まさか、あんな所で佐久間とはち合わせるとは思いもしなかった。
 透耶にとっては想像もしてなかった事だろう。話をするだけでもあれだけ辛かったのに、もう会う事もないと思っていた佐久間に会ってしまうとは誰も想像してなかった。
「……もう、大丈夫」
 透耶はやっとホッとした顔を見せた。
 けれど、鬼柳を掴む手には力が込められ、まだ震えている。
「……早く、帰りたい。恭、家に帰りたい」
 ここには居たくない。それが透耶の本音だった。
 佐久間が同じ場所にいるというだけで、壮絶な恐怖が襲ってくる。
「うん、帰ろう」
 鬼柳はそう言って、謝罪している刑事を無視してSPに先導させて警察署を出た。


 すぐにSPが用意した車で自宅へ向かった。 
 自宅は自宅で、事件の事を嗅ぎ付けた記者やテレビが屯っている。だが、それを規制するように警察が出てきている。
 世程の騒ぎになっていたのだろう。
 それを目の当たりにした透耶は、更に落ち込んでしまう。
 これでは、光琉の所にも記者などが殺到しているはずだ。
「光琉の事なら気にするな」
 透耶の心配を悟ったのか、鬼柳がそう言った。
 意味が解らないと首を傾げている透耶に鬼柳は付け足して言う。
「事件の事は光琉を通して説明すると言っていた。それから、あの従姉からの伝言で透耶に伝えてくれと言われたんだが、「後は任せて」だそうだ。意味解るか?」
 鬼柳はさっぱり意味が解らない伝言なのだが、透耶はそれで理解したらしく頷いた。
「うん、解った。今回は甘えるよ」
 透耶がそう答えたので鬼柳が聞き返した。
「どういう意味なんだ?」
「……従姉の家、氷室って言うんだけど、日本では知らない人はいないってくらいの巨大企業の一族なんだ。それで、色々な所に圧力を掛けられるんだと思う」
「氷室? ああ、エドの所よりデカイ企業だな」
「それはどうか解らないんだけど。親戚関係が結構政治とかいろんな方面で活躍してる人がいるから、頼んでくれたんだと思う」
「頼んでどうなるんだ?」
「うーん、いろいろとするんだろうけど、よく解らない」
 透耶は笑って誤摩化す。
 まさか、圧力に屈しようとしなかった者がいたら、その会社ごと潰し工作をするとは言えない。
 実際に潰れた会社が存在していた。
 どうやってやっているのかなど、透耶には解らない。
 それでもそれをやってしまう力が氷室にはあるのだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。斗織が任せてと言ったんなら、本当に任せていいから」
 透耶はそう言ってそれ以上、氷室関係については説明をしたくなさそうだった。
 鬼柳がきけば透耶は答えるだろうが、鬼柳にはそれにはまったく興味はなかった。
 透耶を守る為にやっているなら口を挟むつもりはまったくないからだ。


 疲れている透耶を寝室に運んで寝かせると、鬼柳は部屋を出て行こうとした。
 しかし、透耶は自分を撫でていた鬼柳の手が離れそうになった瞬間、思わず掴んでしまう。
 驚いた鬼柳が振り返ると、鬼柳以上に驚いた顔の透耶が慌ててその手を放した。
「あ、ごめん……」
 ……何で引き止めてしまったんだろう。
 透耶は自分でも解ってなかった。
 驚いていた鬼柳だが、すぐにベッドに腰をかけた。
「眠るまで、ここにいるよ」
 鬼柳は笑って透耶の頬を撫でた。
 透耶が寂しがっているのは鬼柳には解った。
 離れたくなくて、思わず引き止めてしまったのだ。
 そして透耶が言った。
「……恭、キスして……」
 こんな事を言う透耶は初めてだった。
 いつも鬼柳からキスをしたい、もしくは勝手にしてしまう。
 透耶も鬼柳がせがめばキスはしてくれる。
 だが、して欲しいと言ったのはこれが初めてなのだ。
 その言葉だけで、鬼柳は幸せになる。
 透耶が求めてくれるなら、場所が何処だろうとキスをする。 透耶が本気でそうして欲しいと望んでいる。
 鬼柳はゆっくりと透耶の頬を両手で掴んで、優しくキスをした。激しさは変わらないが、それでも透耶には十分優しさが伝わってくる。
 こんな事だけで鬼柳は喜んでくれる。
 透耶は鬼柳の首に腕を回し、もっとして欲しいと求めた。
 このままずっとそうしていたいとばかりに。
 十分過ぎる程キスをした後、透耶はニコリと微笑む。
「……やっぱり、恭のがいい……」
 どういう意味で言われたのか、それを鬼柳が問う前に透耶は眠りに落ちてしまう。
 安心しきった顔で眠っている透耶を見ると、鬼柳はその意味を問うてはいけない気がした。
 それは、佐久間が透耶にした事に関係しているのだと予想がついたからだ。
 そこで鬼柳は自分がいつものように強引にキスしていた事を思い出す。透耶を大事に扱うのは当然だが、傷物を扱う様なやり方では、余計に透耶が不安になってしまうのだ。
 いつも通り。自分が今までしてきたように透耶に接する事が透耶を一番安心させてやれる事なのだ。
 鬼柳は自分の対応が、透耶を不安にさせてしまったのだと反省してしまう。
「……いかんな」
 鬼柳はそう呟いて、透耶の頬を撫でると額にキスをして寝室を出た。

 家に帰ってから、事件の事には触れないというのが鬼柳からの命令になっていた。
 透耶がそれを話し出したら対応しても構わないが、透耶に気が付かせないように、いつもと何も変わらない様に勤めるようにしていた。
 透耶も家に帰ってからは、みるみる元気を取り戻して、一週間後には一人で歩けるようになり、いつも通りに過ごしていた。
 事件の事はテレビでもやっていたが、光琉の会見と上層部からの圧力があったのか、透耶の事に触れるような内容はまったくなくなっていた。
 それについて透耶は苦笑するだけである。
 二人の家の新しい住人になった、富永と石山は、宝田と共に警備の強化に務めていた。セキュリティーに関しては、もう透耶も鬼柳も口出し出来ないくらいに宝田の独壇場である。
 門には専門の警備員が24時間立っているし、周辺地域は警察の巡回コースになっている。
 周辺住民から苦情が出るかと思ったが、そういう人や警察が巡回する事で、自分の家の安全も保障されていると感じて、逆に感謝されてしまったくらいだ。
 透耶本人には自覚はないのだが、世間からみれば透耶は富豪になるのだから、これくらいは当然の設備なのだ。


 その中で、鬼柳といえば、あのエドワードとの契約を破る訳にはいかず、朝早くから夜遅くまでエドワードの会社で、自分が作った企画書を一から練り直しをさせられていた。
 仕事がハードなのか、帰って来た鬼柳はいつも疲れており、ベッドでも倒れ込むように寝てしまう。
 透耶は、自分を探す為に呼ばれた捜査員を雇う為に鬼柳がエドワードと交わした契約の事は知らないので、頼まれてやっているのだと思っていた。
 その鬼柳が夜遅く帰って来た。
「……恭、この手は何?」
 少し怒った透耶は鬼柳の手を掴んで言った。
 鬼柳の手は透耶の服の中を這いずり回っている。
 透耶は今、書斎で仕事の最中。
 もう少しで、再来月の連載分の小説が終わりそうな所なのだが、部屋に入ってきた鬼柳がいきなり後ろから透耶に覆い被さって首筋にキスをするわ、手はいつの間にか服の中に入っている状態。
 さすがに集中していた透耶でも、これに思考を遮られてしまう。
「何って、エロい事してんの」
 平然と答える鬼柳。
「俺、仕事中なんだけど」
 透耶が鬼柳の手を止めようとしているが、鬼柳には放す気がないらしく、どんなに止めても手は動き回っている。
「うん、知ってる」
「だったら、今はやめてくれる?」
「やだ」
 即答で返されてしまう。
「……やだって」
 一体、どうしたんだ?
 鬼柳の行動の意味が解らなくて、透耶は首を傾げてしまう。
 すると。
「透耶に触りたい時に触る。キスしたい時にキスする」
 鬼柳はそうキッパリと言い切った。
「……はぁ?」
 何だって、いきなりこんな事言い出したんだろう?
 透耶にはさっぱりである。
 それもそのはず。
 鬼柳は元々そういう風にしてきたのだから、今更断言されても混乱してしまう。
「ちょ、ちょっと! やっ!」
 透耶の止める手をかいくぐって、鬼柳の手は透耶自身に伸びている。
 家の中だからと、透耶はラフな格好をしていたのが徒になってしまった。
     
「……あっ」
 軽く手で扱かれると、それだけで耐えられない。
 だが、それと同時に恐怖が襲ってくる。
 今、鬼柳にされている事が、どうしても佐久間のモノと重なってしまう。
 身を固くしてしまった透耶に鬼柳は言う。
「いいねぇ、オフィスラブみたいだ」
 鬼柳のその言葉に透耶は怒鳴る。
「ばっ、馬鹿っ!!」
「俺、馬鹿だもん」
 訳の解らない言い訳をして、鬼柳は本気でセックスしようとしていた。
 だが、自分の仕事場でそんな事はしたくない透耶は、首筋を舐めている鬼柳の髪を掴んで思いっきり引っ張った。
 さすがにそれは痛かったのだろう。鬼柳は透耶から手を放した。
「……髪をそんなに引っ張ったら、ハゲるだろ?」
 引っ張られた所を掻きながら鬼柳が不満そうに言うと、透耶は更に鬼柳の頭を叩いて怒鳴る。
「大馬鹿! ハゲちゃえばいいんだっ!」
 透耶はそう叫ぶと、書斎を飛び出して行ってしまう。
 鬼柳はそれを黙って見送って、溜息を吐いた。
 やり過ぎた、が本音である。


 書斎を飛び出した透耶は、宝田を探して中庭を抜けて、今は警備室になっている部屋に向かった。
 物置きとして使っていた場所を改造して、監視カメラや警備装置などが置かれている場所に宝田はいつも待機している。
 そこをノックもしないで透耶はドアを開けて中に入った。
 宝田はちょうど何かの書類を広げて作業をしていたらしく、いきなり入ってきた透耶を見て少し驚いた顔をしていた。
「透耶様、どうかされましたか?」
 透耶の様子がおかしいのに気が付いて、宝田は席を立つ。
 いつもなら、宝田に用事があるときは、内線を使うからだ。
「宝田さ~ん」
 透耶はそう言って、宝田に縋り付く。
「恭が変なんだ~」
 透耶がそう嘆いているのを聞いて、宝田はすぐに理由が解った。
 とはいえ、鬼柳が変なのはいつもの事。いや、それどころか変ではない鬼柳は鬼柳ではない。
「何が変なのですか?」
 宝田がそう聞き返すと透耶は素直に言う。
「仕事してるのに、書斎にいたのに、いきなりHしようとするんだ。絶対変だよ!」
 透耶は必死に訴えているが、宝田からすれば、それもいつもの事ではないだろうかと思ってしまう。
 鬼柳にとって透耶を押し倒せる場所さえあれば、何処でも構わないと思っているからだ。
「申し訳ありませんが、透耶様。もしかして、この家にお帰りになられてから、恭一様と性的な行為をなされていらっしゃらないのではありませんか?」
 ストレートな宝田の質問に透耶は固まってしまう。
 な、な、な、何で解るんだ……っ!
 そうした事まで管理している宝田には、鬼柳の機嫌を見ていれば簡単に解る事なのだ。
 すっかり固まってしまった透耶に宝田は優しく話し掛ける。
 椅子に座るように言われて透耶は大人しく従った。
「何か気になる事でもおありになりますか?」
 鬼柳が性行為をしないのは、透耶が無意識ではあるだろうが拒んでいる所にあると宝田は睨んでいた。
 透耶は宝田が言っている事は理解していた。
「悪いと言っているのではありません」
「解ってます。俺が……悪いんです」
 透耶はそう答えてから、宝田を見上げた。
「でも、色々思い出してしまって……考えてしまって。それで恭は優しいから、やめてくれるけど」
 透耶はそう言って、目を伏せてしまう。
 佐久間の最後の台詞を思い出してしまう。鬼柳に抱かれているとは解っていても、身体が拒否してしまうのだ。
「透耶様、御自分の気持ちを最優先になさって下さい」
「え?」
 宝田にそう言われて透耶は驚いて視線を上げる。
「恭一様の事を一番にお考えになられるのは解ります。ですが、御自分のお気持ちはどうなのですか? ここは一つ正直にお話になられてみては如何でしょうか」
「正直に、ですか?」
「はい。怖いと思われるなら、そうおっしゃって構いません。恐がる事は悪い事ではありません。それを伝える事も必要だと思います。我慢なされる必要はありませんよ」
 確かに透耶は、セックスをする事を怖いと思っていた。
 けれど、それでも鬼柳と愛し合いたいとも思っている。その双方の思いが入り乱れて、どうしていいのか解らなくなってしまっていた。
「それでいいんですか?」
「構いません。恭一様はそうした事も全て受け入れたいと思っています」
 鬼柳が今まで透耶がしてきた事を受け入れなかった事は一度としてない。
「恭一様もそろそろ限界でしょうし、それを我慢なさっているのは、透耶様からちゃんとした言葉をお聞きになりたいと思ってお待ちになられているのだと思いますよ」
 鬼柳が本気で透耶を抱こうと考えているなら、それは簡単に出来る。それをしないのは、鬼柳の優しさだ。
「……そう、ですよね。解りました。今から恭とHしてきます!」
 透耶はそう言って立ち上がった。
 そこまで言い切って決意する問題でもないのだが、宝田は笑ってしまう。
 透耶らしい決意の仕方だったからだ。
 しかし、透耶からセックスしたいなどと言ったら、当然鬼柳は自分を制御出来なくなるだろう。
 これは、明日また大変だなと宝田は思って、足取りが軽くなって歩いて行く透耶を見送った。



「恭、今からHしよう」
 いきなり透耶にそう言われて、さっきの行為を反省していた鬼柳は驚いて透耶を見上げた。
 さっきのはやり過ぎたと思って、どうやって透耶に謝ろうかと考えていただけに、この言葉は衝撃的過ぎた。
 何がどうなってこういう事を言ったのか。
 呆然としている鬼柳に透耶は意味が通じなかったのだろうか?と首を傾げてしまう。
「あの、意味解った?」
 いつもなら飛びついてきそうな言葉なのだが、鬼柳は動かない。
 俺、変な言い方しちゃったかな?
 日本語おかしかったかな?
 透耶は鬼柳を見下ろしたままで首を傾げていたが、いつまでも鬼柳が動かないので、宝田に意味が通じなかったと言いに行こうとして前を離れようとすると、鬼柳がその透耶の腕を掴んだ。
「本気?」
 鬼柳がそう言った。
 透耶は鬼柳を見つめて笑って頷く。
「嫌だって言ってもやめないぞ」
 確認するように鬼柳は言う。
 ……やっぱり限界なんだ。
「ちゃんと抱いて欲しい」
 透耶ははっきりと意志を伝える。
 そうすると、鬼柳は立ち上がって、透耶を抱き上げると書斎を出て二階へと向かう。
 寝室に入ると、すぐにベッドへと直行。
 ベッドに腰をかけるように透耶は座らされる。
 鬼柳は、透耶の靴を脱がせ、自分も脱ぎ、Tシャツを素早く脱いでいた。
 その仕草を透耶はジッと見ていた。
 鬼柳が何かで身体を鍛えているのは見た事がないが、それを維持しているのは解る。
 無駄のない筋肉で、動く所を見ると綺麗だとさえ思う。
 鬼柳が服を脱いでいたので、透耶も自分で服を脱ごうとすると、それを止められた。
「駄目。俺が脱がせるから」
 などと言うので透耶は笑ってしまう。
「どうせ脱ぐんだから一緒じゃん」
 透耶がそう答えると、鬼柳がニコリと笑って言い切る。
「着せるのも楽しいけど、Hする時脱がすのが一番楽しいの」
 ……変だよ、それ。
 鬼柳の答えに透耶は苦笑してしまう。
「自分は先に脱いじゃうのに?」
「透耶が脱がせてくれるの?」
 こう返ってくるとは思わなかったが、期待されてしまってはやるしかない透耶である。
「……あ、うん」
 透耶は頷いて、鬼柳のズボンに手を掛けて脱がしていく。
 鬼柳の服を脱がし終わると、透耶はその肌に触れる。
 少し冷たい身体を撫でると、自分の熱がそこから伝わっていくように暖かくなる。
 透耶は鬼柳の胸に唇をつける。自分の印を残すようにキスマークをつけてみる。
 心臓の近くを触ると、鼓動が早い。透耶の鼓動と同じ様な鼓動の早さ。
 透耶がそうしている間、鬼柳は動かなかった。
 だが、透耶にそういう事をされると、我慢するのも大変だ。
 さすがに、これだけで自分自身が反応してしまうから、とうとう鬼柳は我慢出来なくなる。
「透耶、触っていいか?」
 鬼柳がそう言った所で透耶は鬼柳を見上げた。
「うん」
 透耶が頷いた所で鬼柳はゆっくりと透耶をベッドの中央に運んで覆い被さると頬に触れ、唇を辿るように撫でる。
 唇が開いた所で指を口の中へ入れ、舌を撫でる。
「……ん」
 その指を透耶が吸い付いて舐める。
 指が離れると、鬼柳の唇が被さってくる。
 最初は確認するように、次は優しく、最後は激しくキスを繰り返す。透耶もそれに答えながらも、もっとと強請った。
「……ん、はぁ」
 キスがやむと、透耶の息は荒くなってしまう。
 鬼柳はその間に透耶の服を脱がしていく。
 帰ってきてから触ってなかった透耶の肌には、もう鬼柳が付けた印は消えてしまっている。
 撫でるように触ると、透耶の身体が一瞬硬直してしまう。
「怖い?」
 鬼柳がそういうと、透耶が不安げな顔で鬼柳を見ていた。
 セックスの前、ただ身体を触れあうだけで、透耶は恐がってしまう。透耶が何を恐がっているのかは、解っている。
 佐久間にされた事を思い出してしまうからだ。
 鬼柳と佐久間が違うとは解っている。解っているけれど、身体が拒否をしてしまう。
 その拒否を感じてしまうと、鬼柳は、透耶が犯されていた場面を思い出し、それ以上強引に出来なくなってしまった。
「怖い?」
 鬼柳はもう一度聞いた。
「……怖い……凄く怖い……」
 透耶は素直に答えた。
「うん。怖いよな。でも、俺も限界。透耶に触りたい、セックスしたくて溜らない」
 ストレートに自分の欲望を伝える鬼柳。
 透耶は苦笑してしまった。
 本当にしたくて溜らないという欲情した顔。
 この一週間、相当我慢させていたのだろうと思ってしまう。自分が恐がった為に、それを抑え、無理矢理やろうとはしない。それが自分が襲われた事に関係しているのは解っている。
 その優しさが泣きたくなる程嬉しい。
「見てて。俺がどうやって透耶を抱いてるか」
 鬼柳はそう言って、透耶を手を取ると、指の一本一本にキスをしていく。
 愛おしそうに、大切に、大事に扱っている。
 そんなに大事にしなくていいのにと透耶は思ってしまう。
 ふと鬼柳と目が合う。
 鬼柳の瞳は鋭いのに、その奥は優しい。 
 透耶の視線から、鬼柳の姿が消える。
 胸にザラリした感触があり視線を移すと、鬼柳が透耶の胸の突起を舐めている。
「あっ……ん」
 舐めて吸い、舌で弄ばれ、もう一つの突起は指で転がされている。
 執拗に攻められると、透耶自身が反応してしまう。
 鬼柳は急ぐことなく、ゆっくりと透耶の緊張を解していく。
 透耶が自然と身体を開いてくれるようにしなければ意味がない。無理矢理抱くのは簡単だ。それでは、透耶に恐怖しか与えない。佐久間がした事はしてはならない。
 自分とのセックスが、それとは違うという事をゆっくりでもいい、教えて上げなければならない。
 身体中を愛撫していると、だんだんと緊張が解れ、自然と鬼柳が与える快楽に溺れていく透耶。
「は……あん……ぁあ」
 透耶自身を扱いて舐め、更に穴にも指を入れて解していく。
「あぁっ!」
 透耶が達したモノを手で受け取り、穴に流し込む。
「はぁ……ん……はぁ」
 鬼柳は既に立ち、液を零している自分自身を透耶の穴にあてがう。
「んんっ!」
 入ってくる圧迫感に透耶は眉を顰めて耐える。
 ゾクリと全身を駆け巡る感覚。
 自分がこれを望んでいるのだと、透耶は解っている。
 けれど、余裕がなくて翻弄されるだけになってしまう。
 でも、後で考えれば、鬼柳の方にも余裕がないのが解る。いつも何か言って自分を抱くのに、何も言わないで挿入してくるということは、まったく余裕がなかったのだ。
「はぁ……透耶、見て……」
 中へ入り切った鬼柳が動きを止めてそう言った。
 なんとか呼吸を落ち着けた透耶が目を開くと、鬼柳が透耶の顔を覗き込んでいる。
 薄らと汗を掻いた鬼柳の表情は、欲情した顔。
 自分だけを欲しいという、この男は、本当に優しすぎる。
 透耶だけが快感に溺れているのではないと、自分の表情を見せることで安堵させようとしている。
  
「透耶、気持ちイイ?」
 こういう卑猥な質問、どうにかなんない?
 そう思いながらも透耶は鬼柳に問う。
「……キョウは?」
 すると即答で答えが返ってくる。
「最高。透耶の中、熱くてギュウギュウ締め付けてくるし、入れただけでいきそうなのを我慢するの大変だ」
 ……最初の一言だけでいいのに……どうして余計な台詞までついてくるの?
 何を馬鹿な事言ってるんだ、とは口に出して言えなかった。
「あっ!」
 鬼柳が少し動かしてしまったから、透耶は高い声を上げてしまう。
「いい声、それだけでいけそう」
 透耶の耳でそう囁き、耳を噛み舐める。
「んっ」
 感じてしまった透耶は、鬼柳の首に腕を回してギュッと抱き締める。
 早く動いて欲しいと鬼柳の肩にキスをする。
 それを合図に鬼柳が動き出す。
 その衝撃に透耶は圧迫感で苦しくなってしまう。だが、その後にやってくる快感があるのを解っているから、透耶は必至に耐える。
「……あ……ぁあ……んっ……キョウ……」
 透耶がそう呼ぶと鬼柳は透耶にキスをする。
 今までで一番激しいキス。噛み付くように鬼柳は透耶にキスをしてくる。透耶は必死にそれに答える。
 どれだけ自分が鬼柳恭一という人を愛しているのかを再確認してしまう。
 この人だけでいい。この人だけしかいらない。
「はぁ……ん」
「……とおや」
「もう……ん、キョウ……」
 透耶がそう言った時、鬼柳も限界を迎えていた。
 透耶が悲鳴のような声を上げて達した時、鬼柳も同時に透耶の中に放った。
 しかし、この一回では止まらなかった。
 久しぶりに透耶を抱く鬼柳は暴走するし、透耶は透耶で、それに答えてしまったから、もう何度したのかさえ解らないくらいに、二人は抱き合っていた。
 荒い息を繰り替えしながら、透耶がグッタリとしていると鬼柳は透耶の顔中にキスをしまくる。
「透耶、大丈夫か?」
 頬を撫で、流していた涙を拭き取る。
 誰も止める人がいない上に、透耶さえもが止まらなかったので、ベッドの上は酷い有り様だ。
 身体中精液まみれになり、到底ベッドは使用不可能状態。
 透耶は喋ろうと思うのだが、声が出ない。
 喉が完全に枯れてしまっていた。
 パクパクと口を動かして、文句を言いたいのだが、声にならない。
「ん? 良すぎて駄目? もう一回したい?」
 鬼柳がニヤリとして言うと、透耶は鬼柳を睨み付ける。
 馬鹿か!と怒鳴ったつもりだったが声が出ないどころか、喉を酷使してしまったので、咳が出てしまう。
 咽せ返っている透耶に鬼柳は謝って背中を摩る。
「ごめん、嘘。大丈夫か? 声出なくなった?」
 鬼柳の言葉に透耶は頷く。
 もう指先一本動かす事が出来ない。意識もやっと保っているという感じの透耶。
 それでも透耶の中の気持ちには迷いはなくなっていた。
「じゃ、風呂入って、今日は和室で寝よう」
 これ以上透耶を怒らせてはいけないと、鬼柳はさっさと透耶を抱いて風呂に入る。
 お風呂に入る頃には透耶は完全に眠ってしまう。
 宝田を呼んで和室に布団を敷いて貰おうとすると。
「御用意出来ております。寝室の方はさっそく掃除しても宜しいでしょうか?」
 と言われてしまった。
 何故解ったのかと不思議顔の鬼柳に、宝田は笑って答える。
「透耶様から相談をされまして、僭越ながらアドバイスをさせて頂きました」  それを聞いて、鬼柳は納得してしまう。
 透耶がいきなりあんな事を言い出したのは、普段そういう事に関して口を挟まない宝田が言った言葉だったから、透耶が素直に聞き入れたのだ。
「悪いな。お前にまで手間かけさせて」
 珍しく鬼柳が謝り、感謝してると告げると、宝田は自分がした事は間違いではなかったと確認出来た。
「いえ。私は、恭一様と透耶様がお幸せでいられる為でしたら、どんな事でも致します」
 鬼柳が幸せになる事が、宝田の一番の願いだ。
 その為には、鬼柳が一番大切にしている透耶を守らなければならない。そう思っていたのだが、透耶と一緒に暮らし出して宝田は、透耶の幸せの事も願い出した。
 透耶の経歴や周りで起こる事件、環境、様々な要因で透耶が自分で幸せを拒否しているように見えた。それが鬼柳と出会った事で自分で幸せを作ろうとしている。
 その姿を見て、この人も守らなければと思ってしまったのだ。
 そして、二人が自由でいられる場所を守りたいとも思った。それが今の自分の指命であるかのように。
 そうした宝田の意志が伝わって、鬼柳はふとこんな事を口にした。
「もし、俺が透耶の側を長く離れてしまったら、それでも透耶を守ってくれるか?」
 この鬼柳の言葉は、宝田に対する願いだった。
 宝田は深く追求することはしなかった。
 誰よりも二人を近くで見てきた。そして鬼柳の考えている事は、鬼柳の父親よりも解る。
 宝田はニコリと微笑んで答えた。
「それはもちろんでございます」
 断言した宝田の言葉を聞いて鬼柳は安心したように微笑んだ。