switch7

 その夜、屋敷は大騒ぎだった。
 玄関で笑っていたと思っていた、鬼柳と透耶が大喧嘩を始めたからだ。
 始め、夕食はどうするのか、という些細な事を聞きに行った使用人が、透耶が叫んでいるのを聞き付けた。
 痴話喧嘩かと初めは思った。
 聴こえていたのは、バスルームからだったからだ。
 しかし、部屋を出て行こうとした時、透耶が「誰か助けて」と叫んだのだ。
 慌てて他の使用人を呼んで部屋に戻ると、部屋には鍵がかけられていた。
 耳を澄まさなくても、ドアに耳を当てているだけで、透耶が必死に叫んでいるのが聴こえた。
 鬼柳の声は一言も聴こえなかった。
「誰か!嫌だ!やめて!いやあああ!!」
 こんな叫び声で痴話喧嘩とは思えない。
 しかし部屋には鍵がかかっている。
 確かめる術がない。
 途方にくれていると、SPが駆け上がってきた。
 外にも透耶の悲鳴が聴こえたからだ。
「一体、どうなっているんですか?! あれは透耶様ですよ!」
 富永がそう言って、何故部屋に入らないのか、そう使用人に聞くと、最初は鍵が開いていたのだが、今は中から鍵が掛けられていると説明した。
 そして一緒にいるのは鬼柳だと。
「鬼柳様が……透耶様に?」
 まさか、というのは石山だった。
 さっきまで笑ってたのに、どうしてたった数十分でそうした事が起こり得るのか。まったく訳が解らなかった。
 すぐに透耶の叫び声はピタリと止んだ。
 全員がはっとした。
 まさか、過って殺してしてしまったんじゃないか?!
 誰の中にもそれが過ったのだ。
「とりあえず、ノックしてみます。対応に出られなかったら、合鍵をお願いします」
 富永がそう言って、部屋をノックした。
 二度、三度。間を開けて、ノックを繰り返しては、呼び声をかけてみる。しかし、鬼柳は返事をしない。透耶の声もまったくしない。
 返答しないつもりなのか、返答出来なくなっているのか。
「駄目です。合鍵をお願いします」
 富永がそう言った時、階段を上がりきった所で、咎める声が飛んできた。
「おい、何をやっている。ここの使用人どもは、出迎えも出来ないのか?」
 そこに立っていたのは、ここの持ち主である、エドワード・ランカスターだった。
 この時程、全員が揃った事はないだろう。そういう勢いで全員がエドワードの前に転がるように駆け寄ってきた。
 口々に訳の解らない事を繰り返すものだから、さすがのエドワードも辟易して、一旦一階へ降りるように指示した。
 居間へ通されると、代表してSPの富永と、一部を目撃した使用人が説明をした。
「何? 恭が透耶を殺したんじゃないかって?」
 さっぱり状況が掴めないエドワード。
「ここへ来てから、初めてなんです。透耶様があんなに助けを呼んでらっしゃるのは……」
「それが外まで聴こえましたから、何かあったのではないかと……」
「で、中には入れない。鍵を占められたというわけだな」
「その通りです」
 エドワードはじっと考えた。
 鬼柳が透耶を殺す?
 いや、あり得ないわけではない。しかし、その条件が透耶には備わってない。まだ透耶はエドワードに準備した事を話していない。よって鬼柳が透耶を殺す事はないだろう。
 ここでは、透耶の知り合いはいないから、透耶が逃げ出そうとしたという話も当てはまらない。
 しかも、ついさっきまでは仲良く観光してただあ?
 ますますさっぱり理由が解らない。
 だが、一つだけ解る事がある。鬼柳が我を忘れている場合である。
 それが怒りなのか、喜びなのかが解らない。
 鬼柳が透耶とセックスする時、その時でさえ、鬼柳は鍵をかけた事はないという。
 鍵をかけた理由、それは透耶が逃げられないようにするため、としか考えられない。
「ちっ、私は一体何しにきたんだか……」
 思わず呟きが漏れる。
 透耶が現れてから、やたらと何か騒動が起きている気がしてならないエドワードである。当たっているだけに、笑えない。
「で、合鍵は?」
 どうやら仲裁役は自分しかいないと、エドワードは修羅場に行く決意をした。
「それが……さっきから探しているのですが……」
「恭だな……あいつは用意周到だ。透耶が鍵を閉めた時の対応にと、自分で盗んでおいたんだろう。あの馬鹿は」
 エドワードは舌打ちをした。
 これで部屋に入る手段がないわけだ。
 向こうから開けてくるまで、どうする事も出来ない。
「仕方がない、朝まで待とう」
 エドワードがそう言うと、使用人達が一斉に信じられないという視線を向けた。
 どうやら、透耶は、ここで使用人の心を掴んでいるらしい。
 雇い主より、客、そういう感じだ。
「恭が透耶を殺しているなら、とっくに出てきている。恭はそういう所で逃げ隠れはしない。それにもし殺したのなら、もう手後れだ。あいつが仕損じるはずはないからね」
 エドワードはそう言って、富永を呼んだ。
「朝一でドアを開ける準備だ。ドア一つ壊しても構わん。出てこないなら引きずり出してやる」
 エドワードはそう言って居間を出て行った。





 夜が明けてくる頃、鬼柳は目を覚ました。
 鈍い身体の動きに、暫く放心していた。
 隣では、透耶が疲れてよく眠っていた。だが顔色は良くない。
 当たり前だ。
 鬼柳は透耶が気を失うと、それを何度も起こしては犯した。
 こんな無茶苦茶な抱き方などした事はないし、誰にもやった事はない。
 途中から透耶は人形のように表情を無くしていった。
 拒む事も、声を出す事も、答える事も、全て止めてしまっていた。
 ただ身体全体が「どうして?痛い。恐い」と訴えていた。
 あんな聞き方をするべきではなかった。
 透耶には何の事だか解ってなかったに違いない。
 透耶が自分を確認した時の聞き方が、他に誰かいる気がした。それに透耶は常に何かを話たがっていた。もしかしたら、自分の元から去ってしまう話だったのかもしれない。そう思うと堪らなかった。誰にも渡したくなかった。それならいっそ、自分で壊してしまった方がよかった。
 だが、今、胸にある思いは何だ?
 罪悪感、消失感。前より透耶を手に入れたはずなのに、前より遠離った気がした。
 気を失ったままの透耶を風呂に入れ、ベッドは使えないから、ソファに寝かせて身体を綺麗にしてから傷の手当てをした。
 傷は思ったよりは浅かった。しかし出血は多すぎた。
 シーツは使い物にはならない位に汚れ、二人の証が刻み込まれている。
 首には鬼柳の手が付けた痣がしっかりと残っていた。
 手首には縛った後がくっきりと付いていて、それが擦れて血が滲んでいた。
 この手は、自分の為にピアノを弾いてくれると約束してくれた手だった。それを乱暴に扱った。もし折れたりしていたら、二度とピアノは弾けないだろう。
 鬼柳は、透耶の身体を抱いて、首筋に顔を埋めた。
「……ごめん。そうじゃないんだ……」
 自然と言葉が出た。
 悔しくて、そして自分の中にこんなどす黒い物があるなんて、今まで知らなかった。
「……どうしたの? なんで泣いてるの?」
 掠れた声が鬼柳の耳に飛び込んできた。
 合わせる顔なかった。
 肩が震えて止まらなかった。
「……良かった」
 透耶がそう言った。
 鬼柳は驚いて顔を上げた。
 頬を伝う涙が流れるままで、鬼柳は顔を上げた。
 良かった?どうして?
 透耶は微笑んでいる。
「透耶?」
「……いつもの、鬼柳さんだ……」
 ホッとした様に溜息を洩らして透耶は言葉を吐いた。
「透耶……ごめん」
「……何か、怒ってた?」
 軋む腕を上げて透耶は鬼柳の頬に手を当てた。
 流れる涙が伝わってきて、この人は後悔していると解った。辛そうな顔を見せる事はあっても、泣く人ではなかった。簡単に謝る人ではない。
「ごめん……こんなこと、するつもりじゃ……」
 鬼柳は頬に当てられた手を握り締めて、一旦目を瞑る。そして目を開けて透耶を見た。
 透耶は自分が何をされたのかは解っていた。
 たぶん、一番辛い、一番意味がない、一番屈辱な事。
 それでも透耶は、鬼柳を心配する事が出来た。
 それは不思議な事だった。屈辱は許さない、自分を侵害するのは赦さなかった。文句はあるのに、嫌いにはなれなかった。
「……うん、これは、かなり辛い……」
 透耶は息を吐きながらそう言って、ゆっくりと目を閉じて深く息を吸った。
 弱々しく添えられていた透耶の手の力がスッと抜けた。
「透耶?」
「うん……後で、怒るから……寝かせて……」
 もう眠くて、何も考えられない。
 透耶はそのまま深い眠りに入っていった。



 エドワードは、SPを従えて、透耶の部屋の前に集まっていた。ドアを壊す工具も揃えられていた。
「一度、私が呼びかける。出て来なかったら壊す」
 そう言って、ドアをノックする。
「恭、私だ。エドワードだ。使用人が心配している。今すぐここを開けて対応しろ。聴こえているか?」
 エドワードがそう言って、一分程、カチッと鍵を解除する音がして、ドアが開いた。
 そこに鬼柳が立っていた。
 バスローブ姿で、頭は濡れているから、風呂に入ったばかりであるのは誰にも解った。
「なんだ」
 不機嫌そうに言われ、エドワードが鬼柳を睨んだ。
「透耶は大丈夫なのか? 皆はそれを心配している」
 鬼柳は溜息を吐いて言った。
「寝てる」
 それ以上言うつもりないらしく、鬼柳は目を反らした。
 どんな状態なのか、そういう事は言えない顔をしている。
 エドワードは、にやりとして言った。
「解った。全員、取り押さえろ」
 そういうや早く、SP5人が部屋の内側にいる鬼柳を引きずり出し、全員で鬼柳を床に押さえ付けて取り押さえた。
 まるで、暴漢扱いだ。
「な、に、しやがるんだ!」
 いきなり押さえ付けられれば、プロのSPには適わない鬼柳。エドワードが寄り選んだ最強の護衛集団である。普通 なら鬼柳も大人しく取り押さえられないだろうが、朝方となれば動きも鈍くなっている。
 エドワードはそれが解っていたから、朝を狙ったのだ。
「恭が悪いに決まっている。屋敷内で騒ぎを起こして、立て篭り、助けてと悲鳴、物音がしなくなれば、誰でも心配する。恭が怪しい人物じゃなくて、何に見えるんだ」
 エドワードは言い放った。
 ここでの主導権はまさに持ち主、雇い主のものだ。
「解ったなら大人しくしているんだな」
 エドワードはそう言うと、部屋へ入って行った。
「エド!」
 今の透耶を見られては困る。
 鬼柳の態度を見れば、透耶が普通の状態ではない事は明らかだ。

 エドワードが部屋に入ると、まずドアを閉めた。
 鬼柳がうるさいからだ。
 部屋に入ると、少し空間があり、その横はソファが並べてある。
 そこに透耶がいた。
 長椅子にスッポリはまるように、横たえられている。
 何故、ベッドではないのか。
 そんな疑問が浮かんだ。
 部屋の隅にあるベッドに近付いた時、その理由は明白だった。
 悲惨だ。
 血と精液で汚れ、ベッドは現在使い物にならない。
 まさに犯るだけ犯った、という現状だ。
 血の量が多い。
「あの馬鹿、狂ったな」
 エドワードは呟いて、透耶の側に戻った。
 しゃがんで透耶を見ると、確かに眠っている。泥のように眠るというが、こういうのだろう。
 相変わらず、綺麗な顔をしている。
 入院していた時のやつれ方からすれば、完全に回復している様子だが、顔色は良くない。もともと日本人にしては色が白い方だが、今は色が抜けている感じに見えた。
 掛けられたタオルケットを剥ぐと、エドワードの手が止まった。口から舌打ちが出た。
 殺すつもりはあったんだ。
 透耶の首筋には、指の痕がくっきり付いている。一目で解る程の痕だ。殺すつもりで絞めたに違いない。
 お腹の上で重ねられた手。手首で脈を取ろうとして、また息を呑んだ。
 縛った痕だけでなく、透耶が暴れたのだろう、手首は何かで擦れて傷が出来ている。赤くなり皮が剥けている。血が出ただろう傷がある。
 なんて奴だ。縛り上げた上に、犯したのか。
 もしかしたら、透耶が思い切って恭にあの話をしたのかもしれない。それで透耶が出した結論にキレた。そういう可能性しか浮かばなかった。
 これは話し合い所ではない。このままにしておくわけにはいかない。
 鬼柳に任せたら、他の手を寄せつけないだろう。
 エドワードは、迷わず、透耶を抱え起こしてから抱き上げた。抱き上げてからエドワードはギョッとした。
 それなりの重さがあるものだが、その予想を裏切る軽さだった。透耶は身体の造りは華奢だが、女の子には見えるが、男の体型をしていないわけではない。
 しかし、身長に合わない軽さだ。
 そんな身体を組みして乱暴に扱った鬼柳の気が知れなかった。
 エドワードは、足でドアを蹴り、使用人にドアを開けるように言って部屋を出た。
 廊下ではまだ鬼柳が押さえ付けられていたが、SPの二人がやられていた。抵抗したので富永が、鬼柳の腹に一発入れたらしい。さすがに空手経験者のは効いたらしい。
 組み敷かれているが、暴れ出す元気はなかった。
 だが、出てきたエドワードが透耶を抱えているのを見て、怒りが沸いたらしく暴れ出した。
「てめえ! 透耶をどうする! 触るんじゃねえ!」
 鬼柳は叫んでいるが、使用人は透耶が無事なのを見て安堵した顔を見せた。
「お前、本気で殺す気だっただろう」
 エドワードが冷たく言い放った。
 その言葉に、廊下が沈黙した。
「殺してなくても、殺そうと思った、それを実行しようとした。その行為を、恥じるべきだ。透耶は傷が治るまで私が預かる。戻るかどうかは透耶の意志だ。解るな、恭。これはお前が招いた結果 だ」
 エドワードの言葉に、鬼柳は何も返せなかった。
 
 
 
 透耶が目を覚ましたのは、二日後だった。
 また見た事がない天井。
 あーもー、何度目だ?
 とりあえず、状況を把握しようと思って、透耶は考えた。
 鬼柳がいきなり怒り出して、乱暴したのは覚えている。凄く恐かったし、屈辱だった。泣いたけど赦してくれなかった。
 殺されると思って恐かったのは初めてだった。
 ナイフを向けられた時も恐くはなかったのに。
 死ぬのは怖くなかったのに。
 んー、で、気が付いた時、鬼柳が泣いてた。
 そう、泣き顔が見えたんだ。
 それを見たら、殺されそうになった事や乱暴にされた事なんかどうでもよくなった。
 変だぞ、俺。
 それで、ああ、そうだ。結局鬼柳が怒った理由が解らなくて、後で怒ってやろうと思ったんだ。
 怒った時、なんて言ったっけ?
 俺以外の奴と風呂に入った事があるのか。だったっけ?
 バカバカしい……。
 そんなの答えなくたって考えれば解るだろうに。
 だけど、今まで聞いた事もない、この質問がなんであの時出てきたんだろう?
 まったく、思考回路が解らない奴だ。
 そこまで透耶は考えて、解らない事は聞けばいい、と思った。
 さてと、ここは何処でしょうか? と現実問題だ。
 ベッドが上質なのは解る。肌触りがいい。
 首を動かすと、少し痛かった。だから、手を首に当てようとしたが軋んで痛かった。
 恐る恐る動かして、何とか布団の中から腕を出した。
 だが、出てきた腕を見てぎょっとした。
 手首に包帯。
 うーん、と考えて、縛られた事を思い出した。
 左手も同じように出して見て確認した。
 自殺に失敗したみたいだ……。
 今度は起き上がろうとしたが、想像以上に身体が軋んで痛かった。
「あたたたたた……」
 腹筋なんか出来やしない。
 仕方ないので、転がってベッドの端までいって、足を先に出してから腕の力で起き上がろうとしたのだが、腕に力が入らなかった。
「なんだよ、これ……」
 なんだか、俺、起き上がれない状況ってパターンになってないか?
 四苦八苦していると、何とか身体の痛みにも慣れてきて、とりあえずベッドに腰を掛ける事に成功した。
 それから部屋を見回すと、豪華な調度品の部屋。
 これもパターンじゃないかい?
 でも良く見ると、ここが屋敷ではない事は明らかだった。
 だってねえ、ベッドから窓を見て、海と空が見えたら、ここが普通の地面 にある家だって思えないでしょ。
 どう考えてもホテル最上階あたり。
 しかし、何故こんな所にいるのか、それは謎だった。
 腕や足を動かして、軋みを慣れさせていくと、何とか立ち上がる事が出来た。
 着ている物は、シャツローブというものだ。バスローブよりは恥ずかしくない格好。
 とにかく誰がここへ連れてきたのかを確認……の前にトイレだ。
 二日も行ってなければ行きたくなる。
 でも、どのドアなのかさっぱりだった。
 一番大きなドアを開けた。
 まさか寝室にはトイレはないだろうという判断だ。
 寝室を出ると、居間らしい部屋。こちらもゴージャス。ふらつく足で何とか扉を探し当てて開ける。
「……また部屋だ」
 今度は応接室みたいな部屋だった。もちろんゴージャス版である。 
 このままトイレって見つからないんじゃあ……。
 と思いながら次のドアを開けると、そこにも居間。
 だが、そこに人がいた。
 透耶がドアを開けた事で、その人達も透耶に気が付いた。
「やっとお目覚めかね、お姫様」
 そう言ったのは、アメリカにいるはずのエドワード。
 なんでえ?どういうこと?
 と透耶がポカンとしていると、もう一人がじっと見ていた。
 エドワードが金髪碧眼の美青年なら、もう一人は、ブラウンの髪に緑の瞳。外国人だ。
 エドワードが美の王なら、もう一人は妖の王だ。
 そう妖しい美しさがあるのだ。だが、見つめる眼光は鋭い辺りがエドワードに似ている。同種族だとはっきり解る。
 しかし、当の透耶はそんな事は思ってない。
 エドワードがいる事に驚いた、でも見知らぬ客がいる、となれば透耶が言う事は一つしかない。
「エドワードさん、挨拶は英語でいいんでしょうか?」
 である。
 それも無茶苦茶真剣な顔と声。
 吹き出したのは、エドワード。
 透耶と最初に会った時の事を思い出したのだ。
 いきなりエドワードが笑い出したものだから、目の前にいる外国人は呆気にとられている。
 一頻り笑うとエドワードは咳払いをして、何とか笑いを収めようとしているが、顔が眼が笑ってしまっている。
「……すまない。ヘンリー、この少年が透耶。透耶、ヘンリーだ」
 エドワードらしく、それがどういう関係なのかは説明しない。
 でも透耶はそんな事気にしない。日本語で通じるという事を確認出来たからそれでよかった。
「こんにちは、ヘンリーさん。俺、榎木津透耶です。あの、こんな格好ですみません」
 透耶はそう言って、深々と頭を下げて、自分の格好が寝巻き同然である事を思い出し、慌てて身体を扉に隠して顔だけ出した。
 このまま逃げる訳にはいかない。トイレは何処だ、を聞かなければならないからだ。
 ヘンリーはじっと透耶を見たまま固まっているみたいに動かなかったのだが、ふっと笑って挨拶をした。
「俺はヘンリー・ウィリアムズだ。宜しく。透耶、何か用事があったんじゃないのか?」
 と、ヘンリーは話す切っ掛けを透耶に与えた。
「あ、はい。あの、エドワードさーん」
 透耶はエドワードに手招きして呼んだ。
「ヘンリー、少し待っててくれ」
 エドワードはヘンリーにそう言って、透耶の方へ近付いてきた。少し身体を傾けて、透耶の顔色を見ている。
 すっと顎を持ち上げられて、繁々と見られると、逆らっては駄目だなと透耶は思った。エドワードが透耶の体調を見ているからだ。
「顔色は大分いいな。どうだ?」
「身体が軋むだけです」
 透耶がそう答えると、エドワードが聞いてきた。
「で、どうしたんだ?」
「お話邪魔してすみません。あの、トイレって何処ですか?」
 透耶は真剣だが、エドワードはクスクス笑って言った。
「案内しよう。少し入り組んでいるから」
 エドワードに案内されたトイレは、到底透耶には見付けられない扉じゃない扉の奥にあった。
「透耶はここを使うといい。私はさっきの居間の向こう側の部屋を使っているから、用がある時は訪ねてきたまえ。私がいない時は、外にSPを一人置いておくから、彼に聞くといい」
「はい、ありがとうございます。あの、後でいいんで、どうなってるか聞いてもいいですか?」
「夕食の後で話そう」
 エドワードはそう言って居間へ戻って行った。
 状況を把握するのは、後でもいい。エドワードが意味なく自分を屋敷から連れ出すはずないと透耶には解っていた。
 ともあれ、当初の目的は達成出来た。
 トイレを済ませて、最初の居間に戻ると透耶はやっと周りの状況が掴めてきた。
 エドワードが何故来ていたか、より、ここはまだ沖縄だ。
 居間から外を眺めると、南国の海が見える。
 透耶はそのまま、そこに力が抜けた様に座り込んだ。
「疲れた……」 
 軋む身体を動かすのは思った以上に疲れる事だった。
 振り向くと、そこに鏡があった。
「うえ? 何これ」
 首に巻かれた包帯。
 首に怪我なんかしてないのに、と思ったが、思い当たる事は一つしかない。
「はあ、痕ついちゃったんだ」
 こういう痕って暫く残るんだよねえ。
 考えてると減り込んでくる。
 透耶はそのままゴロリと寝転がった。
 普通なら、靴で歩く所だから汚いとは思うが、こんな上等な部屋で、こんな隅っこにまで足跡をつける人といえば、清掃の人くらいだろうと透耶は思った。
 鬼柳は、こういう状況に納得したのだろうか?
 あの時、あの人は。
「泣いてたのに……」
 傷つけた事、あんな事。
「ごめんって言った……」
 傷付いたのは、どっちなんだ?
 状況的には俺なんだよな。なのに、鬼柳の方が傷付いている、と思う自分はおかしいのか?
 俺には怒る権利がある。
 だけど、鬼柳は自分の怒りも過ちも、全て自分に向けるしかないのだ。いくら怒りに任せた行動であっても、我を忘れた行動でも、それを内にしまってしまうのは辛くないか?
 うん、自分を責めるのは簡単だ。
 でも、それを赦してやれるくらいに、自分は鬼柳を大事だと思ってる。
 だから、怒るだけ怒って、反省させて、二度とやらないと約束させて、それで赦してやろう。それからあの話をしよう。
「やっぱ、甘いのかなあ」
「何が?」
「うん、俺が」
 と答えて、透耶ははっとした。
 誰が答えたんだ?
 ふと目を開けると、目の前に靴がある。
 エドワード?と思って視線を上げると、そこにはヘンリーが立っていた。
「あれ? ヘンリーさん?」 
 何でヘンリーがここにいるんだ?と、透耶が身体を起こすと、ヘンリーが跪いていた。
「どうした、具合が悪いのか?」
 という問いに答えようと透耶は思ったのだが、それより早くヘンリーが透耶を抱え上げた。
「ちょ、ヘンリーさん……あたたたた」
 少し驚いて抵抗しようとした透耶だが、身体を反らした所で全身に痛みが走った。
 あまりに痛かったものだから、透耶は息を呑んでお腹に手を当てて蹲った。
「ひーん、今のは強烈だったー」
 涙が浮かんでしまった。
「すまん……」
 ヘンリーは驚いて、透耶をソファに降ろした。
 透耶は自分の身体を摩りながら、ヘンリーを見た。
「いえ、すみません。俺が変な事してたから。心配かけました」
 ニコリと笑って言ったのだが、ヘンリーの表情は固かった。
 また変な事言ったかなあ?
 と透耶が思っていると、ヘンリーが言った。
「それは……エドワードがやったのか?」
「え? これ?」
 ヘンリーは指差した。
 おおお、手首と首かあ!
「いえ、全然関係ないです。これは、ちょっと別の人と喧嘩して、そのーなんて言っていいのか……」
 まさか、殺されそうになったとは口が裂けても言えない。
「エドワードさんには、手当てして貰っただけです」
「見ていいか?」
「え?」
「傷。エドワードの事だ。一応医者には見せただろうが……」
「ヘンリーさん、お医者様ですか?」
「まあ、そうだが」
「へえ。でも、これは多分大丈夫です」
 透耶はエドワードが医者に見せただろうと思っていたので、大丈夫と確信していた。
「そうか……。何か飲むか?」
「あ、はい」
 ヘンリーはそう言って、部屋にある冷蔵庫から飲み物を取り出して、コップに入れて持ってきた。
「刺激物は良くないから、牛乳で構わないだろう」
「え、はい。ありがとうございます」
 透耶はそれをもらって飲み干した。
 その後、傷の話には触れず、透耶はヘンリーの事を聞いた。
 今は、東京にいて医者をしていて、今日はエドワードが沖縄にいるから、休暇ついでに遊びにきた事。エドワードとは、アメリカの大学で同期で、学部は違うが、共通 の友人から知り合って、それ以来の付き合いであること。
 そんな事を話していると、透耶は眠くなってきた。
「透耶、眠い?」
 ヘンリーが聞いてきた。
 だけど、透耶はそれに答える事が出来なかった。



 透耶が次目を覚ました時、またもやベッドだった。
 起きた瞬間に溜息が出た。
「起きたのか?」
 声がした方を見ると、ベッドの脇で、ヘンリーが何かしていた。
「……ヘンリーさん……何かしたでしょ」
 透耶はふてくされて布団から頭だけ出して睨み付けた。
 ヘンリーは、少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「案外、鋭いんだな」
「何度も仕込まれたら、いい加減解ります」
「何度も?」
「それはいいんですけど、何をしたんですか?」
「治療だよ。クスリを使ったのは悪かった。大人しく傷を見せてくれるとは思えなかったんで、あえて使わせて貰った。その方が恥ずかしくなくていいだろうと思ったんだ」
「恥ずかしい?」
「君がセックスした痕跡の治療だよ。大丈夫、思ったよりも傷はついてなかったし、殆ど塞がっていた。だけど、行為は一週間は禁止だよ。彼にもそう言っておくように」
 ヘンリーは平然として治療した結果を伝えてきた。
 透耶は赤面して、目を伏せた。
 な、な、なんの治療だあ!!
 セックスした痕跡の治療、といえば、もう孔しかないわけだ。
「俺はそういう専門だから、気にする事はない」
 ヘンリーが医者であるのは間違いないだろうが、それでもこういう行為をした人間の、しかも孔を治療されたと思うと透耶は恥ずかしくなる。
 最近はそういう人も多くて、公にもなっているだろうが、透耶は元からそういう人ではないから、抵抗がある。
 ん、待てよ。こういう治療をする専門ということは、偶然彼がここにいるということは、おかしくないか?
「あの、ヘンリーさん。もしかしてエドワードさんが呼んだんですか?」
 透耶がそう聞くと、ヘンリーは懐から煙草を取り出して、吸っていいか?と聞き、透耶が頷くと一服して答えた。
「……ああ。元々こっちに来ていたんで、呼ばれたんだ。エドの頼みなら断われないんでね」
 やっぱり。
 まあ、普通の医者に見せるくらいなら、専門で口の固い相手に頼む方が安心できるのだろう。
「ありがとうございます」
 透耶は感謝を込めて笑顔でお礼を言った。
 恥ずかしいが、そういう専門ならヘンリーは気にもならないだろう。
 ヘンリーは透耶が笑った顔をじっと見ていた。
 煙草の灰が落ちそうになっていたので、透耶があっと声を上げた。
「ヘンリーさん、灰が落ちる」
「あ、ああ」
 ヘンリーは慌てて、灰皿に煙草を押し付けて消した。
「なあ、聞いてもいいか?」
「何です?」
「その傷は、彼にやられたのか? 喧嘩したとか言っていたが」
「ええ、まあ。些細な事なんだろうと思うんですけど」
「些細な事で、そんな目に合されるのか? 彼はそんなに暴力を振るう相手なのか?」
「いえ、そうではないんです。いまいち理由が朧げなんですけど。暴力を……こういう事をされたのは初めてです。でも鬼柳さんは……彼は今凄く後悔をしていると思います」
「後悔している? 何故解るんだ?」
「俺を、連れ戻しに来ないからです。いえ、エドワードさんに俺を任せているから、と言った方がいいかもしれませんね」
「それだけ思われていると、確信があるんだ」
「ええ、それはもう。拉致して、監禁して、監視するくらいですから」
「? どういう事だ」
 ヘンリーにはさっぱり意味が解らなかった。
 透耶は笑いながら、経緯を簡単に説明した。
 笑って話せる内容ではないだろうが、透耶には可笑しくなってしまう事柄だった。
 その説明を聞いたヘンリーが、ますます訳が解らないという顔をした。
「その、君は、そうした行為を全て許していると?」
「鬼柳さんには言わないけど、許してますね。我侭だし、融通は利かないし、無茶は言うし、頭に来る事もあるんですけど、肝心な所は優しいんです。俺、甘やかされてるって思うんですよ。鬼柳さんは、凄く強い、精神面 ですけど。でも内心、深い所は弱い。俺の一挙一動に反応して、不安を感じてる。そういうのが解ってきて、でも俺がいると笑ってくれる。ずっと笑ってるのを見ていたいって思ったんです」
 透耶は笑顔でそう言った。
 本心からそう言っているのは、すぐに解る。思いが溢れていて、透耶が幸せなのは誰が見ても明らかだった。
「今回の事も許すと?」 
 ヘンリーがそう言うと、透耶が物騒な微笑みを浮かべて言い放った。
「誰がそれを許すっていいました? 俺が怒らなければ誰が怒るんですか? 俺、無茶苦茶怒ってますよ。反省していようがなかろうが、俺にはこの行為を怒る権利があるんですよ」
 笑顔で怒る。
 感情をむき出しで怒る人、無表情で怒る人。様々いるが、透耶は本気で怒っている時は、怒鳴ったりしない。静かにしかも微笑みながら怒る人なのだ。
「殴ってやりたいんですけど、ウェイトの差がありすぎるんで、一発叩いて、それからどうしようか考えてます」
 可愛い顔でにこりと微笑んで言う台詞ではない。
 ヘンリーはそれをじっと聞いてたが、吹き出してしまった。
「いいねえ、その考え方。君は見た目程弱くはない」
「俺が強気でいられるのは、鬼柳さんが俺を好きだと言ってくれている間だけですよ」
「好かれる事に慣れている様に見えるけど」
 ヘンリーがそう言うと、透耶は少し目を伏せた。
 まずい事でも言ったのかと、ヘンリーは思ったが、透耶は少し考えるようにして起き上がった。
「好きだと言葉に出すのは簡単です。友達を好きだって言えるのに、鬼柳さんを好きだと言えないんです」
「言えない?」
 だって、話を聞いている限りでは、そう思っている風にしか聞こえない。それなのに言えないとは? ヘンリーはそう言いたかった。
 だけど、言えなかった。
 透耶の手が震えていた。
 聞くのも、言うのも出来る。しかし、本当に自分を必要とし、欲している相手には、軽々しくて言えない。
 その言葉は、意味あいが違って、重くなってしまう。
 答えない自分。言えない自分。
 憎らしくて、情けない。
 与えられた言葉を嬉しく思う、力強く感じる、勇気にもなる。
 なのに、自分からはやはり言えない。
 何か、身体が鎖で縛られるような感覚に陥り、口はその言葉を封印してしまう。あの呪いがある限り。
「本当に大切だと思う人に程、俺は怖くて言えないです」
 ヘンリーには、透耶が言う意味は理解出来なかった。




 夕食を取った後、エドワードと透耶は話をした。
 ヘンリーが同席する事を透耶は承諾した。
 今更、知られては困る事はなかった。
「恭には、暫く反省して貰う事にした。あいつが君を本当に殺そうと思ったのは事実で、恭は認めている。反論しなかったのがいい証拠だ。何故そうなったのかは、聞かない。それは恭と君の問題だ。どうするかは君が考えるんだ。ここへ残るも、屋敷へ帰るも、東京へ帰るのも君の自由だ」
 エドワードは簡潔にそう言った。
 いつでも物事をはっきりと述べるのが、エドワードの性格なのだろう。
 しかし、こういう問題だ。はぐらかしても仕方がない。
 透耶は黙ってそれを聞いていた。
「傷が治るまでは、私が預かる事になっているから、気にしなくてもいい。東京へ帰るなら、私と一緒に帰る手配をしよう。今すぐに決めろとは言わない。考えてくれて構わない」
 エドワードは、鬼柳のした事の後始末をしようとしているのだ。
 この人は、鬼柳の絶対的味方なのだ。
 そう思うと、透耶は嬉しかった。
 透耶はエドワードを見つめて微笑んだ。
「ありがとうございます。色々とすみません。でも、俺、東京へは帰れません。まだやるべき事があるんです」
 透耶のはっきりとした言葉に、ヘンリーが吹き出した。
 驚いたのはエドワードである。
「ヘンリー?」
「いや、透耶はね。怒っているんだそうだ。怒って一発殴って、それからどうしようかって、もう考えているんだ」
 ヘンリーがそう言ったから、エドワードは驚いて透耶を見た。
 透耶は苦笑している。
「恭と一緒にいる事を選んだのか」
 エドワードはそう思った。
 だが、透耶は少し困った顔をして言った。
「前の答えが出ないんです。やっぱり、こういう事があったからって逃げても駄 目かなあって。俺、逃げてばかりだったから、少しでも鬼柳さんと向き合いたい。まだ俺しか話してないし、鬼柳さんの話を聞いてないんです。あの話もしなきゃいけないしですし」
「とりあえず、向き合う事にしたのか」
「はい。鬼柳さんは、俺が質問したら何でも答えるって言ったけど、聞かれなきゃ話さないってのは、何だかムカつきます」
 いきなり観点が違う事を言う透耶。
「ムカつくのか……」
 呆れたエドワードとヘンリーがハモる。
 意外に独占欲がある透耶。
 独占されているのに、独占したい。
 そうした独占欲があまりない透耶には、珍しいくらいの欲だった。
「とりあえず、先の事はあまり考えない事にしました。俺のやるべき事は、まず鬼柳さんを殴って反省させて、話を聞く事にしました」
 透耶がそう言った事で、エドワードは納得した。



 数日経って、透耶はやっと身体が自由に動かせるようになった。まだヘンリーの許可がない為、外へ出る事は出来ないが、部屋中を探検しまくった。
 初めてのロイヤルスイート。しかも極上品とくれば、物書き魂が疼く。取材だ!とばかりに、エドワードの部屋の方も見せてもらう。
 奥の部屋の取材を終えた透耶は、部屋に戻る時、エドワード側の部屋にピアノがあるのを発見した。
 見事なピアノ。
 近付いて見ると、一般的なグランドピアノ。
 屋敷にあるのよりは質が大分落ちる。
 じっと眺めていると、ヘンリーがやってきた。
「ピアノがどうかした?」
「あ、これ。エドワードさんが弾くんですかね?」
「ああ、エドは嗜み程度に弾くし、暇がある時はやってる。最近は事業が忙しいから弾いてないらしいが」
「へえ、だから、屋敷にあるんだ。スタインウェイ級だったから、インテリアなわけないと思ってたんですけど」
「スタインウェイなんて良く知ってるね。もしかして弾ける?」
「まあ、ちょっとやってた程度ですけど。うーん、久しぶりに触っちゃったから、練習したいなあー」 
 透耶はピアノに齧り付いている。
 うーんと散々悩んだ挙げ句、エドワードがいる部屋へ入って行った。
「エドワードさん。あのピアノ、ちょっと試していいですか?」
 ソファで仕事らしき書類と睨めっこしていたエドワードが顔を上げた。
「弾けるのか?」
 それがピアノを弾けるのか、ではなく、弾く事が出来るようになったのか、という意味である事には透耶は気が付いてない。
「少しだけですけど。練習したいんで、邪魔なら止めます」
「いや、構わない。ああ、そこのドアは開けておいてくれ」
 了解を得てドアを閉めようとしていた透耶をエドワードが止めた。
「え、でもうるさいですよ」
「構わない。どれだけの腕前か聞きたいんだ」
「へたくそですよ。うるさかったら言って下さい。閉めますので」
 透耶はそう言って出て行った。
 エドワードはそれを確認してから、ドアまで近付いた。
 透耶は許可を貰った事に喜んで、ヘンリーが見つめる中、蓋を開けて、椅子に座り、目を閉じて深呼吸をした。
 ゆっくりと目を開いて、鍵盤に指を乗せる。
 まずは指の運動とばかりに、鍵盤に指を走らせる。
 最初は音を確認するようにゆっくりと、そしてテンポが速くなっていく。
 正直、エドワードは驚いていた。
 透耶はブランクが一年半もあるのだ。
 長年積み重ねてきたものがあるから、指が覚えている事もあるだろう。しかし、透耶の音は、玄人が聞いても澄んでいて美しい。
 まるっきりブランクがないように聞こえる。
 一頻り指の練習を終えてピアノが止まると、ヘンリーが透耶に言った。
「リクエストをしてもいいかな?」
 すると透耶は首を横に振った。
「すみません。それはちょっと出来ないです」
 と意外な返答をした。
「何故だい?」
「ピアノの曲のリクエストは、鬼柳さんからしか受けない事にしてるんです」
 信じられない言葉だった。
 透耶がピアノを辞めた理由は、エドワードが調査した時に解っていた。
 その理由で、透耶はピアノを捨てた。
 それをまた再開する切っ掛けが、鬼柳なのだ。
 鬼柳の為にしか弾かない。
 そんな言葉、最高の言葉じゃないか。
「聴くのはいいけど、リクエストは駄目なんだ」
「すみません」
「いいよ。君が決めたルールだ。私は大人しく練習を聴いている事にしよう」
 ヘンリーがそう言ってソファに座った。
 透耶は申し訳なさそうにしていたが、すぐにピアノに向き直った。
 この時の集中力は、あの別荘の書斎で見た、透耶くらいだった。
「では、カノン」
 透耶は誰に言うでもなく呟いてピアノを弾き始めた。
 バッヘルベルの「カノン」。
 美しい曲ではあるが、これは桁違いだ。
 これがブランクがある人間が弾いて出せる音なのか?
 エドワードは自分の耳を疑った。
 透耶がかなりのピアニストである事は知っていた。音源も映像も残っている。どれも確認した。その腕は評価が高く、留学の話も出ていた。
 しかし、透耶は日本で弾く事を望んだという。
 母親は世界的にも有名なジャズピアニスト。祖父は神童と言われたクラシックピアニストで作曲家、そして音楽学校の理事にして地元の資産家。音楽界において、榎木津の家系を知らないものはいない。その孫という事もあり、注目されていたが、透耶はそれは別 だと考えていたらしい。
 競争して弾く事を嫌い、言うがままにピアノを弾き続けていたが、頂点を極めようとは微塵も思っていなかった。
 高校までは日本で。それが親の意向でもあった。
 いや、そこまでが透耶の自由になる時間だったのだろう。
 孤高のピアニスト。そう呼ばれていた事を透耶は知らないだろう。
 恐ろしい程の正確さ、タッチ。深みがある音。誰の物でもない新しい音。そうしたモノが、俗世とはかけ離れている存在として、ピアニストの中では有名だった。
 認められているのに、自分の音を認めない。
 妥協を許さない、独自の世界を持っている。
 海外の有名ピアニストが目を付けていたが、いきなり音楽界から忽然と消えた。
 祖父と両親の死と共に消えてしまった。
 透耶は指が動かなくなってしまったので、辞めます。と言ったらしい。
 学生のピアニストの間では有名な話で、噂では実家の事業を継いだと言われている。
 実際は、声楽の同級生に迫られ、目の前で自殺された。そして、動かなくなったと言われている指は、その事件の前に、その同級生に手首を切られてからの事であると。
 一年も経てば、そんな話しは昔話になる。
「ハバネラ」
 カルメンの「ハバネラ」。
 情熱的な曲。それさえも透耶は弾きこなす。
 深く、切れ味あって艶やか。
 これも音が更に深くなっている。
 リクエストに答えられない代わりに、過去コンクールで弾いた曲を弾いている。いや、確認している。今、どう弾けるのか。これで練習だと言うのだから、本気で弾いた時、それを考えると恐ろしい。
「軍隊ポロネーズ」
 ショパンの「ポロネーズ」。
 これまたコンクールの曲だ。
 それが終わると、曲調がジャズに変わる。
 ジャズ? 透耶がジャズを弾けるのか?
 完全なクラシック派だとエドワードは聞いている。母親は確かにジャズを専門にやっていたが、透耶がやっている、もしくは弾いているという話は一度として聞いた事はない。
 いきなり、透耶はジャズの曲を始めた。
 さっきまでの緻密、繊細さは何処へ、そういう弾き方だ。
 たぶん、こっちの方が身体に染み付いているのだろう。ジャズは弾き方なんてない。好きなようにアレンジして、好きなどんな曲でもやってしまう。
 透耶が選んだ曲は。
 「楽しみを希う心」-THE HEART ASKS PLEASURE FIRST-。マイケル・ナイマン。映画「ピアノレッスン」のイメージで、冬と海のイメージがある、と言われる曲。
 透耶の母親が好んで弾いていた曲でもあった。
 光琉だけが知っている。透耶は家ではクラシックはまったく弾かない。ジャズばかりを弾いていた。だがそれは趣味の範囲であって、誰かに聴いてもらうモノではない、と透耶は思っていた。光琉に聴かせる為だけに弾いていた。
 それを解禁したのは、鬼柳のお陰だろう。
 全て弾き終わった時、透耶はぐったりしていた。
「はあ、久しぶりに全力で弾いたー。あー疲れた」
 ピアノの椅子に凭れ掛かって、深呼吸をしていた。
「ブラボー!」
 ヘンリーが拍手をしていた。
 エドワードは拍手出来なかった。
 これがブランクのある人間が弾いて出せる音なのか?
 疑問はやはりそこだった。
「上手いねえ。最後のジャズは良かった。ジャズもやってたのかい?」
「母がやってたんで、興味があって独学でやってたんです。弟が好きで、弾けって言うから。母はジャズの前にクラシックを弾きこなす事を勧めてたので、これ弟以外の前で弾いたのは初めてです」
「そっち方面でやっていけるぞ」
「いえ、これはやっぱり趣味でいいです。ジャズやってる人が聞いたら大笑いですよ」
「そうかあ? そうは思わないけどな」
「それに俺、物書きですから」
「そっちの方がいいんだ」
「物語を作るって、全部自分の考え出した物でしょ。俺はそういう方が好きです。それに今、一応プロですから」
 透耶はそう言いながら、ピアノを片付け始めた。
 エドワードは硬直していた。
 あれが独学だって?
 はっきりとクールジャスと解るナンバーだった。
 エドワードは頭を抱えたくなった。
 透耶には、人を惹き付ける力がある。
 透耶は自分の才能を知らない。知らなすぎる。
 ピアノもそう、本の事もそう、その容姿も。持っているもの全てに才能がある。
 純粋さや無垢な所。全てにおいて、そうした魅力が出せるのだ。弟の光琉の人気も似た所があるのだろう。
 あの呪われた一族と言われる特徴であってもだ。
 あの鬼柳でさえ、惹き付けられたくらいだ。
「それは、欲しくて堪らないだろう」
 エドワードは呟いていた。
「エドワードさん、終わりました。あの、うるさかったですか?」
 振り返ると透耶が立っていた。
 エドワードがうるさくて扉を閉めにきたと思ったのだ。
「いや、見事だった」
 素直な感想だった。賛辞なんて思い付かなかった。
 一言で言えと言われれば、これしかなかった。
「えへ、ありがとうございます。ちょっとミスっちゃったけど」
 透耶は笑いながら言った。
「あれでミスった?」
 何処が!?と聞きたいくらいだ。
「ジャズの方。即興アレンジで誤摩化しました。良く聞けば無いフレーズ弾きまくってます。さすがに忘れてますねえ」
 透耶は真剣に唸っていた。
「クラシックは完璧?」
「あれは楽譜が完全に頭にあるんで大丈夫なんですけど。ジャズの方は耳コピーなんで、結構怪しいです」
 さらっと凄い事を言って退ける透耶。
 暗譜が得意で、一度見れば覚え、一度弾きこなせば、それ以降楽譜要らずとは聞いていたが、辞めた今でも覚えているとは凄い記憶力だ。
「でもやっぱり練習とはいえ、それだけでも指が思い通りには動きません。弾くイメージはあるんですけど、ブランクあると酷いですね。ボロボロだ。あ、明日も練習していいですか?」
 エドワードはクラクラしてきた。
 あれで?あれでか!?
 あれが練習で、しかもボロボロで酷い!?
「ああ、構わないよ。好きな時に弾きたまえ」
 そういうのがやっとだったエドワード。
 透耶は礼を言って部屋を出て行った。
 それと入れ違いにヘンリーが酒を持って入ってきた。
「エドワード、あの子、何者なわけ?」
 それを聞きたいと思ったのはエドワードの方だった。



「じゃ、何? 透耶はあれでブランク一年半なわけ?」
 ヘンリーはエドワードが調べた調書を見ながら叫んだ。
 エドワードとヘンリーはナイトキャップを洒落込んでいた。
「そう。信じられない事に、週に一度は弾いている私より上手い訳だ」
「ひえー、詐欺だ。あれでピアニストじゃなくて小説家? 詐欺だ」
 ヘンリーは調書をテーブルに投げた。
 本当にやってられないという態度だ。
「元々好きで弾いてた訳じゃないらしい。親がそうだからそうなっただけとよく言ってたそうだ」
「今日は楽しそうだったぞ」
 ヘンリーは意外そうな顔をした。調書には、透耶がピアノを辞めた本当の理由の部分は省いてある。
 これは知らなくてもいいだろうとエドワードが判断したからだ。
「心境の変化。恭のお陰だな」
「ああ、例の彼氏ね。影響力あるんだな。辞めたのをやらせてる」
「いや、恭は嫌がっているのを無理矢理やらしたりはしない。透耶が自分で弾こうと思ったんだろう。恭は透耶がピアノを弾くか、その話をするまで、やっていた事すら知らなかったはずだ」
 それしか考えられない。辞めたものに固執する透耶ではない。何があったのかは知らないが、鬼柳に聴かせたいと思ったのだろうとエドワードは予想していた。
「それがリクエスト拒否ルールなわけだ」
「勿体無い。あれだけ弾ければ、私ならピアノをやらせるのに」
 バックアップが必要なら、いくらでもやってやるつもりのエドワード。ヘンリーはクスクス笑う。
「それをしないのが彼氏」
「そういう事。透耶が小説家でいたいと言えば、恭は強制しない。ピアノも聞きたいと言えば透耶は弾くだろうが、名前を出してまで弾かせる事はさせないだろう」
 鬼柳もそうした名声に興味は無い。透耶が作家なのは、出会う前からだったので、認めてはいるが、必要以上に人前に出ていく職はさせないだろう。
「で、小説家としての透耶はどういう評価なわけ?」
「何故私にきく」
 エドワードは憮然とする。
 ヘンリーはニヤリとして言った。
「全部調べているくせに。あの彼氏は古い知り合いなんだろう? お前は何でも把握したがるしな。こんな調書まで持ってるんだから当然だろう」
 そう言われると、反論出来ないエドワード。素直に調査報告をする。
「売れ行きは上々。新人にしては売れていて、今はベストセラーランキング7位 。弟が宣伝したから、その反響が今は大きいらしい」
「あー、榎木津光琉ね。出版社らしい宣伝方法だな。まあ、本自体が面白く無ければ、口コミで広まってすぐに売れなくなるもんだ。そういうのはシビアだぜ」
 ヘンリーがそう言ったが、エドワードは酒を煽って呟いた。
「それが、面白いから困る」
「読んだのか?」
 驚いてしまうヘンリー。そういう日本の小説などエドワードが読まない事を良く知っているからだ。
「そりゃ、友人の本が出ると言われれば、一応は読んで感想を言うべきだろう」
「律儀なことだ。で、どう面白いわけ?」
「推理小説なのだが、堅苦しく無い、読みやすい文章。だが謎もいい具合だったし、犯人も意外だった。私は途中で騙された。アメリカで出せば、学生ウケするだろうな」
「ベタ誉めだな」
 しかし、エドワードが誉めるには訳がある。
「すぐ商売に結びつけてしまう。向こうで売れれば、テレビドラマ化。なんて一瞬でも考えた」
「お前に見込まれたら、骨まで食われる。可哀相に」
 対して可哀相とは思って無い口調。
「ピアノを聴いた時は、恭を一瞬、葬ってでもとか思った」
「おーそろしいー。なんて、お前の事だ、両方欲しいと思ったんじゃないのか? あの彼氏の手腕を欲しがって、穴を追い回しているって有名だぜ」
 ニヤリとして言うヘンリーに、エドワードは眉を顰めた。
「下品な。手腕は欲しいさ。恭もそうだが、透耶も自分の価値を全然理解して無い。才能の持ち腐れだ。元々やっていた事にさえ才能があるのに、今やっている事でも才能を発揮している」
「似た者同士かよ」
 呆れてしまうヘンリー。
 やなカップルである。
 このやなカップルは現在喧嘩中。
 さてさてどう収拾するのか、ヘンリーは興味が沸いてきた。



「でさ、この項目は何な訳?」
 気になる項目を調査書から見付けたヘンリーが尋ねた。
「ああ、これは透耶の母親の実家の話だ。信憑性があるのかどうか解らないが、透耶はこれにこだわっている」
「呪いねえ……京都らしいって言えばらしい。でもさ、この統計はありえないぞ?」
「そこだ。そこなんだ。これこそが呪いの正体なわけだ」
「残っているのは、もう5人。透耶達が一番若いんだ。しかし、全員凄い容姿に経歴だな。これが報酬なのか」
「そう言われている」
「女系なんだな。しかも直系の相手は養子が多い。ん? これ嫁いでも駄目って事なのか? おいおい、夫や嫁も駄 目なのか? 嘘だろ? ありえない! 医学的に問題があるわけでもないんだろ?」
「だから、呪いだって言われてるんだ。こんな統計が出たら誰でも信じる。現にこの5人は信じている」
「そりゃ、透耶が怖いと言う訳だ」
「愛さなければいい、好きにならなければいい。そんな考えをしながら生きてきたんだ。透耶には酷な願いをしてしまったかな?」
「結局お前が考えたのは、こいつの事だけだろう?」
「今は少し後悔している。でも来る所まで来ているからな。私は出来るだけの事をしてやるしかない」
 エドワードはそう言ってブランデーを飲み干した。