switch8
透耶の傷が全快して、ヘンリーから外出許可が出た。
傷とはいえ、首の指の痕が問題だっただけだ。
手首の傷も、よく見ないと解らない程に傷は薄れている。
「さて、透耶。提案なのだが、恭をここへ呼んでもいいだろうか?」
朝の朝食で、エドワードがいきなりそう言った。
「え?」
すっかり屋敷へ戻るつもりでいた透耶だったのだが、変な提案に驚いて固まってしまう。
「どうしてですか?」
「たまには外食して、恭と酒でも飲みたいと思ったのだ。私は明日帰るし、ヘンリーも同様だ。私は午後まで仕事がある。夜も取引先と会談がある。とてもじゃないが、屋敷まで行っている時間は無い。透耶を屋敷へ一人で帰すのも心配なんで、成りゆきとやらをここでやって貰おう」
「は?」
どうもエドワードは自分中心に事を運ぼうとしているらしい。
確かに一番迷惑を被ったのは、エドワードである。
「あ、俺も透耶の彼氏見たい」
呑気に言ったのはヘンリー。
「はあ」
拒否権は当然ないよな……。
拒否どころか、これはもう決定事項であろう、透耶。
「たぶん、物凄く下らないと思いますけど……」
鬼柳との会話でマトモだったのは数える程しか無い。
たぶん、じゃなくて、絶対下らないに決まっている。
朝早くに屋敷に電話して、鬼柳を呼び出した。
来る時間は、一時間半かかる。
透耶は自分に与えられた方の居間で、熊のように動き回っていた。
「透耶、そんなに緊張するのか?」
英字新聞を読んでいたヘンリーが、可笑しそうに笑ってそう言った。
透耶は呼びかけられて、やっと止まった。
「あ、いえ、そうじゃないんです」
やたら真剣な顔をしていた。
「じゃあどうしてだ?」
「あの、殴った後、どうするか決めてなかったんです」
物凄く重要な事を忘れていた、という風に透耶は答えた。
飲んでいたコーヒーを吹き出すヘンリー。
「ヘンリーさん、汚いです」
「と、透耶が、変な、事、言うからだ!」
笑いの発作を押さえながら、ヘンリーは叫んだ。
透耶は困った顔をしてヘンリーを見ている。
「だってー。今日、考えようと思ってたんですー」
ヘンリーは笑いを収めて聞いた。
「そんなに難しい事なのか?」
「鬼柳さんに効果的な罰っていうのが、思い付かなくて」
透耶は真剣に唸った。
ヘンリーも少し考えて言ってみた。
「じゃあ、飯作らせるとか」
「いえ、それは趣味なんですよ。凝らせたらフランス料理でも出てきますよ」
「掃除とか」
「掃除も洗濯も喜んでやりますし……」
「買い物は?」
「何でも買ってくるでしょうし、寧ろ催促されそうです」
色々なかった時に透耶が呟いた足りない物さえもチェック入れていたくらいの執拗深さだ。
「何か買わせるとか」
「俺何にもいらないし。それも催促されます」
今までだって、散々言われている。ただでさえ、洋服一式を買わせている状態だ。
「透耶の身の回り世話とかは?」
「そんなの飛び上がって喜びます。俺の方が罰受けてる状態になりますよ……」
状況的に今までと何の変わりもない。悲しい事に。
「じゃ、近付かないようにさせるとかは?」
「ずっとストーキングしそうで……」
隠し撮りとかしてそう。柱の影とか扉を少し開けて覗いてそう。それこそ透耶が拷問だ。
「触らせない、とか……」
「うーん、それは考えたんですけど、ずっとってのは無理ですよねえ」
「無理だろうねえ」
「期間決めると、その反動が……」
「怖いねえ、解禁日が」
「そうなんですよぉ」
そこが一番の泣きどころ。鬼柳の事だ。いつまで、とか言いそうだし、しかもこっちが許そうなんて思っている事を勘付かれると、強行手段に出そうだ。
「八方ふさがりだねえ」
「ヘンリーさーん」
透耶は思わずヘンリーに縋り付いてしまう。
まさに考えることすら八方ふさがり。
>
「やだー。殴っただけで許すのはー」
少しヘンリーが考えてニコリとして言った。
「じゃあ、俺と浮気する?」
それを聞いた透耶は、ヘンリーを睨み付けて真剣に怒鳴った。
「あーのーねー。それやったら、俺、今度こそ殺される!! ヘンリーさん死にたいの!?」
「嫌だな……」
鬼柳は透耶を取り戻せればいいのであって、ヘンリーは無事では済まないだろう。どうなるかは、透耶の身に起った事を考えれば誰でも予想できる。
ヘンリーはもう投げやりになっていた。
「透耶、そんな完璧男の弱点なんて、見つからないよ」
そうなのだ。完璧なのだ。
「従わさせれば喜ぶし、遠ざければ反動が怖いし、他を巻き込んだら、他が危ないし。あーもー、どうにかなんないの、あの男は!!」
透耶は頭を抱えてしゃがみ込んで叫んだ。
「献身的な男だ」
「程々って言葉があるでしょ、ヘンリーさん」
透耶が怖い目で睨み付けている。思わず首を竦めるヘンリー。
「はあ、さようで……」
「……何で怒っている俺がピンチなんだー」
再び頭を抱える透耶。
もう時間はない。
透耶がうだうだやっている間に、鬼柳はホテルに到着していた。
SPの車から降りると、ホテルの従業員が駆け付けてきた。
上客がきたと思ったのだ。
「お荷物の方は?」
「ない。構わないで結構」
鬼柳は淡々と言ってホテルに入って行った。
部屋を取る事もせずに、エレベーターを目指す。
周りにいた従業員が皆振り返るが、声を掛けられない。客も振り返っているが、鬼柳はまったく気にしてなかった。
ちょうどエレベーターが来ていて、客が乗り込んでいる。ドアが閉まる寸前に足でドアが閉まるのを止めて、中へ入った。
入ってきた鬼柳を見て、女性客が顔を赤くして俯いた。
ボタンの側にいた男性がやっと口を開いて尋ねた。
>
「あの、何階でしょうか?」
鬼柳はふっと男性を見て一言言った。
「最上階」
「あ、はい」
エレベーターが動き出しても、乗っている客は一言も口を聞けなかった。
途中でエレベーターが止り、慌てて男女が飛び降りた。
鬼柳一人を乗せてドアは閉まる。
「ねえ、さっきの人」
「うん、すげーかっこいい」
「びっくりするくらいの美形だよね」
「ありゃ、女はすぐ転ぶ」
「うん。モデルかなあ?」
などという感想が飛び回っていることなど、鬼柳は知らないし興味もなかった。
最上階につくと、すぐにSPが駆け寄ってきた。ここは一室しかない。
「鬼柳だ」
廊下に出てそう言うと、SPが頷いて誘導した。
普段のだらだらした歩きとは違い、鬼柳はモデルの様に綺麗に歩いていた。
ドアの前にくると、手に汗を掻いている事に気が付いた。
物凄く緊張していた。
SPがチャイムを押して、中の人間を呼び出した。
すぐにドアが開いて、外国人が出てきた。
「ようこそ、鬼柳さん。俺はヘンリー。さあ、中に入って、透耶とエドワードが待ちかねているよ」
ヘンリーはそう言って鬼柳を部屋に案内した。
入り口の居間を通って、もう一つの部屋に入る。
「来たよ」
ヘンリーがそう言って中に入ると、丁度向い合せに透耶が座っていた。
透耶は入り口を凝視していた。
一瞬、入ってきたのは誰だ?、そう思ってしまった。
そこに立っている、モデルと見間違う美形の男。
無愛想な顔をしているが、やはりそれは美形の男の特権なのだろうか、美しさが増すというものだ。
鬼柳は、綺麗に頭を解かし撫で上げて、いつものボサボサのヘアースタイルではなかった。いつも綺麗で、見透かされると思ってる眼差しは鋭い。
そして、鬼柳はスーツを着ていた。
普段は絶対に着ないだろう高級品のスーツ。上から下まで一張羅だ。
ピシリと背筋を伸ばして、普段の流れるような豹の動きではない。洗練された動き。爪の先まで、スッと伸びている。
普段の洗いざらしのワイシャツにジーンズ姿も似合っているが、これはこれでまた、異様に似合っている。
待て、これは鬼柳なのか?
透耶は呆然と見愡れていた。
「うわ、何それ」
透耶の口から思わず出た言葉それだった。
透耶がそう言うと、鬼柳は少し驚いたようで、すっとエドワードの方に視線を向けた。
透耶もつられて見ると、エドワードがニヤリと意地悪な微笑を浮かべている。
鬼柳は視線を天井に向けると、首を掻いた。
やられた……である。
エドワードは、正装して来ないと、透耶が会いたくないと言っている、とでも言って脅したのだろう。
まんまと乗せられたのは鬼柳だ。
透耶の驚きを見ると、透耶がそれを望んでいた訳ではない事ははっきりと解る。
ソファに座った鬼柳を透耶はじっと見ていた。
透耶は、なんだか、すごく新鮮な気分になっていた。
「さて、ご両人が揃った所で話をしようか」
エドワードがそう言って透耶ははっと我に返った。
待て、この構図!
透耶の隣にはエドワード。鬼柳の隣にはヘンリー。そして透耶と鬼柳は向い合せ。
……見合いだ。
何だかぐったりとしてしまう透耶。
思わず発言する時に手を上げてしまった。
「すみません。エドワードさん」
「何だ。透耶」
「ちょっと、鬼柳さんと二人っきりにしてくれませんか?」
何だか話しにくいし、怒りにくい状況だ。
そう言われてエドワードは少し考えた。
じっと何か考えたらしく、エドワードは立ち上がった。
「解った。希望通りにしよう。ただし、ここの部屋のドアは開けておく。それでいいか?」
どうしても内容が聞きたいらしい。
言っている事とやっている事が違う気がした透耶だが、頷かないときっとそうさせてくれなさそうだ。
「構いません」
透耶が頷くと、エドワードはヘンリーを連れて部屋を出た。
出て行くのを見送って、透耶は鬼柳を見据えた。
さっきまで平然としていると思われた鬼柳だが、二人っきりになったとたん、瞳が泳ぎ、そわそわし始めた。
手が落ち着かない。
それを見ていると、透耶は何だか可笑しくなった。
勇気を振り絞ってきたのだろう。
ふっと目が合った。
透耶はニコリと微笑んだ。もちろん、物騒な微笑である。
「その……」
鬼柳が耐えられなくなったのか、先に切り出した。
「何?」
「物凄く怒ってる……よな……」
「うん」
にっこり微笑んで透耶は答える。
鬼柳は、はあっと息を吐いて口を手で隠した。
「言い訳するなら、聞いてあげる」
まだ物騒な微笑みを浮かべている。
「ごめん」
「それだけ? 何故ああいう事したわけ?」
「……俺以外の男と風呂入った事あるかって聞いたら。透耶、答えなかったから」
それを聞いて、透耶はやっぱり言っていた事はこれだったか、と思った。
「で、どうしてそんな質問が出たの?」
ここが一番解らないんだ。
「俺だって解ってなかったから」
「はあ?」
「俺か? って透耶確認しただろ?」
「そんな事したっけ?」
「した。あれ?って言った」
鬼柳はそう言い張った。
透耶は少し考えた。
あの時は考え事をしていて、気が付いたら、洗い場にいたはずの鬼柳が湯槽にいたのだ。
「ははー、あれか」
「やっぱり!」
「アホか。あれはさっきまで洗い場にいた鬼柳さんが、いつの間にか湯槽にいたからだ。てっきり出て行ったと思ったんだよ」
たくっ、そんな事であれほど怒ったのか?
頭を抱えたくなってきた。
「俺以外に誰がああやって透耶を抱くって言うんだ」
鬼柳の反論。
「……バカバカしい。俺が確認したから、他に男がいると思ったんだな?」
「いるのか?」
真剣に言い返してくる鬼柳。透耶は本格的に頭痛がしてきた。
「だからアホだっていうんだ。俺に鬼柳さん以外の男と風呂に入る趣味はない」
「だったら、どうしてちゃんと答えてくれなかったんだ? そう言ってくれれば……」
「質問の仕方が悪い」
透耶はまた物騒な笑みを浮かべる。
鬼柳がキョトンとする。
「鬼柳さん。そういう時はね。男と、なんて聞かないもんだ。その男は、どういう種類なわけ? 鬼柳さんみたいにする人? それともただ一緒にお風呂に入った事がある、男って、家族は入らないのか? 修学旅行の話覚えてる?」
透耶の質問に鬼柳が、はたっと考え込んだ。
「……あ」
そう透耶が、男、と認識する家族がいるわけだ。父親に弟光琉。そして、修学旅行。集団生活をするのだから、当然風呂も大浴場。10人近くの同級生とも風呂に入っている訳である。
つまり、家族を省いたとはいえ、日本人なら皆、同級生と風呂に入った事があるって事だ。
「そういう事。俺はバカバカしくって答えられなかったんだ。それを肯定したって勘違いした訳だ」
「だったら、そう聞いて……」
くれれば、とは言葉は続けられなかった。透耶がそれに被さるように言葉を吐いた。
「聞く暇があったと思う? 自分が何したか覚えてる? 首絞めたんだよ。おまけに一人で納得してくれちゃって。あの時、俺が怒ってないとでも思ってた?」
「だって、透耶。俺を嫌いだって言った」
「当たり前だ。訳の解らない事言って、首締めて殺そうとしている奴を嫌いじゃなくてなんて言う!」
透耶が凄い迫力で言い放って、鬼柳は黙った。
「鬼柳さん。本当に自分が何をやったか理解してる?」
「……透耶?」
「鬼柳さん。ちゃんと俺の話聞いてた?」
鬼柳が透耶を見ると、透耶の瞳から涙が零れて頬を伝った。
「鬼柳さん。俺がどんなに怖かったか解ってる?」
「透耶」
鬼柳が立ち上がって、透耶の側に寄った。
跪いた鬼柳の顔が近付いてきた所で、透耶は鬼柳の頬を思いっきり引っぱたいた。
乾いた音が響いた。
避けようと思えば避けられる攻撃だった。しかし鬼柳はそれを受けなければならなかった。
透耶が怒っているのは、そうした行為よりも、言った事よりも、その状況だった。透耶にとってその状況は二度目になるという事だ。
声楽の友人と同じ事。
「無理矢理犯した事なんてどうでもいい。そんな事どうでもいい。許せないのは、あいつと同じ事をしたからだ」
透耶は鬼柳を睨み付けて言った。
「あんな事、二度と許さない。二度とやらないと誓え。じゃないと一生許さない」
鬼柳は驚いた顔で透耶を見た。
許す許さない、その指導権を完全に握る透耶は、残酷なまでに美しかった。跪いたって、床に頭を擦り付けたって、何を誓ったって、許しを得て、この綺麗な人を手に入れたい。触れたい。
「誓う」
鬼柳は透耶に見愡れたままで言った。
「俺の一生をかけて誓う」
鬼柳は透耶の手を取って手の甲にキスをした。
手が透耶の頬に触れる。
透耶はそうする鬼柳を怒れなかった。
鬼柳は真剣に、そして真面目に誓っている。言い逃れで言っているのではない。許してもらえるから言っているんじゃない。
「俺は、透耶の為にしかこんな事はしない。他の誰にもしない。透耶だけ。それだけでいい。側にいてくれ。透耶しかいらない」
甘い声で囁いて、綺麗な瞳で見つめて、人をうっとりさせるのが上手い、そう透耶は思った。
透耶は頷いてた。
知ってる。痛いくらい解っている。今、この人が自分だけ求めているのは、解り過ぎている。
気持ちに答えてあげるだけの勇気がない。臆病な自分。
逃げてる?逃げてるのかな?
でもせめて、少しでもそれに答えてあげてもいいんじゃないか?
でもまだ引っ掛かる事はある。この人は何も話してくれない。それに呪いが、それがある限り、透耶は素直には答えられない。
「うん。鬼柳さんは嫌いじゃない。俺、こんな事しか言えない。ちゃんと答えられない。鬼柳さんの気持ち、嬉しい。許すとか許さないとか、偉そうな事言っているのに。俺、ちゃんと答えられない」
透耶は静かにそう言った。
本当にこんな事しか言えなかった。
なのに、鬼柳は嬉しそうな顔をしている。何がそんなに嬉しいのか、透耶には解らなかった。
「透耶が答えてくれた。嬉しい、最高だ」
答えてないんだけど……。
透耶が眉を顰める。
すると素早く鬼柳の顔が近付いてきて、顰めた眉の間にキスをする。
くすぐったくて透耶が顔を背けると、頬にキスをする。
「あのねー。鬼柳さん、俺、怒ってるの」
透耶はそう言って、鬼柳の顔を退かせようと手で鬼柳の口を押さえる。
鬼柳はキョトンとする。
「無茶苦茶痛かったんだからね。動かすと痛かったし、笑えなかったし」
「うん」
「大体、怒る前に、ちゃんと状況判断してよ」
「うん」
「なんか、罰ゲームしてやろうと思ったのに」
「罰ゲーム?」
「ペナルティー」
「ああ、で、何か決まった?」
「それが決まらなくて、困ってんだよ」
透耶が腕組みして真剣に考えていると、鬼柳が隣に座って煙草を吸い始めた。
あ、リラックスしてやがる……。
「あ、禁煙」
「ん? そんなんでいいの?」
今すぐにでも止めれるという顔をしている鬼柳。
「むー、何でもないって顔しやがって」
「何でもないよ」
「いい。それじゃ意味がない」
ふてくされる透耶。
待て、このまま鬼柳に何かを禁止した所で、何でも従いそうだぞ……。この男の弱点って何だ?
その弱点が自分であるという事に気が付かない透耶。
「そう、透耶。ずっと俺に何か話したいことがあるんじゃないか?」
鬼柳が真剣な顔をして言った。
鬼柳は気付いている。内容は解らなくても透耶がずっと言えなくて言葉を飲み込んでいる事を知っている。
いい時期かもしれない……。
そこで透耶は思い切って、あの話をする約束をした。
「鬼柳さん。あの、後で話したい事がある」
鬼柳はキョトンとして透耶を見つめる。
「今すぐって訳にはいかないけど、ちゃんと話したい事がある。だからもう少し待って」
透耶が真剣にそう言うと鬼柳は頷いた。
そうして会話が切れた。
「透耶、話は終わったようだね」
いきなり静かになったので、エドワードが部屋に入ってきた。ヘンリーは後ろで笑っている。
「あ、エドワードさん、ヘンリーさん」
「エド、てめー。嘘つきやがったな」
鬼柳はエドワードを再度見た瞬間、いつもの調子に戻っていた。
しかし、エドワードはそんな態度は慣れたもの。さらりと受け流す。
「一体、何の事だ?」
「正装しなきゃ、透耶が会わないって言っているとかぬかしやがって!」
鬼柳がそう怒鳴ると、透耶は吹き出してしまう。
やっぱり、エドワードに騙されていた。
「そうか? 透耶、どうだった?」
エドワードはいきなり透耶に話を振る。
は?と透耶が顔を上げると、エドワードがウィンクしている。はっはーん、話を合わせろというか、何かいいことをコメントしてくれっていう事らしい。
「まあ、普段見れないから、良かったですけど」
なるべく自分らしい言い方をすると、エドワードが勝ち誇ったように鬼柳に言った。
「ほら、私は嘘は言ってない。透耶は喜んでいるじゃないか」
「それを屁理屈っていうんだ」
ふてくされた鬼柳が「屁理屈」なんて単語を使ったものだから、透耶はびっくりしてしまう。
「へえ、鬼柳さん、屁理屈って知ってるんだあ」
「……透耶」
透耶の意外だという言葉に鬼柳は少し傷付いたらしく、恨めしそうに見られた。
「あ、ごめん。あ! 思い付いた!」
謝ったとたん、透耶には閃くモノがあった。
「何? ペナルティー?」
ヘンリーが真っ先に気が付いて聞いてきた。透耶はニヤリと笑って頷いた。
「そう! ふふふふ。鬼柳さん。翻訳しないで俺の本読んで、感想文を書く事。期間は、うーん、一ヶ月以内」
これならどうだ!と言い放った時、鬼柳が唸った。
「う……」
これはやはり罰になるらしい。
困った顔が固まっている。
「そうだな、恭は難しい日本語文章は読めないんだったな」
ははあ、とエドワードが納得したように頷いた。
「あはははは、それは確かにペナルティーだ。透耶、いいぞ!」
散々一緒に考えた仲だけあって、ヘンリーは全然関係ない鬼柳のペナルティーの内容が決まった事を喜んでいる。
透耶とヘンリーは手を繋いで、ブンブン振って大喜びだ。
一人、鬼柳だけが唸っていた。
「ううう……」
エドワードが午後の仕事を始めた前、透耶達は、昼の食事をホテル内にあるレストランで取る事にした。
そう言ったのは、意外にも鬼柳だった。
透耶がここへ来て一度も外へ出ていないのを聞いて、気を使ったらしい。
でもさ……。
少し恥ずかしい気がする透耶。
だってねえ……。
周りにいる客、ホテル客だけでなく、外から観光で食事だけここでという人が、沢山いるわけだが、いやに注目されていた。
これじゃあねえ……。
思わず自分の隣にいる男達を見上げてしまう。
美の王が三人。
これを見なくて何を見る、という感じだ。
それぞれにタイプが違う美しさを持つ男ども。
冷酷な美しさのエドワード。妖しい美しさのヘンリー。ワイルドさを持っているのに、謎が多い美しさの鬼柳。
さて、俺はここにいてもいいんでしょうか?
などと馬鹿な事を考えてしまう透耶。
エドワードが率先してレストランの主任と話している。ホテルの最上級ロイヤルスイートに泊まる上客だ。現在昼時とあって満席状態だが、主任が慌てて席を用意させている。
鬼柳がエドワードの側に立って何か話し掛けている。それでエドワードが主任に指示すると、ボーイが慌てて裏に走って行く。
透耶は、ぼーっと立ち尽くしてたが、ヘンリーに話し掛けられた。
「透耶、ちょっと時間かかりそうだ。あっちに座ってよう」
「あ、はい」
ヘンリーに促されて透耶は、待ち合いらしい椅子がある所へ案内された。
ヘンリーと一緒に座っていると、待ち合いにいる他の客が見愡れている。
「ん? どうした?」
あんまり見つめていたのでヘンリーが不思議そうな顔をしていた。透耶は、じっとヘンリーを見つめて言った。
「ヘンリーさん、綺麗だよねえ。ほら、皆見とれてる」
などと感想を洩らすから、ヘンリーがクスクス笑い出した。
「透耶、君は自分を解ってないねえ」
「え?」
キョトンとする透耶。
「いや、いいや。面白いから。でも、今まで俺が綺麗だなんて言わなかったよな」
「思ってたんですけど。言いそびれてました」
すごく真剣に透耶が返すものだから、ヘンリーはウケてしまう。
そうしていると、鬼柳がやってきた。
目の前に来ると、手に持っていたメニューを手渡してくる。
「透耶。メニューから何食べるか決めておけ」
「うん」
透耶は受け取って開いたが、はっきりいってさっぱり解らない。
「これってフランス料理なの?」
「ん? そうだな」
メニューを覗き込んだ鬼柳がそう言った。
「全然どんなのか想像も出来ないんだけど……」
そう言って透耶は途方に暮れる。
「単品で頼んだら、無茶苦茶になるぞ。下のコースとかにしておいたらいいんじゃないか?」
鬼柳がそう提案するが、透耶をそこを覗いてまた途方に暮れる。
「で、このコース。何が出る訳?」
「さあ?」
鬼柳はそういうのには詳しくないらしい。
ヘンリーもメニューを覗き込んでいたが、意味が解らないと言った。
「俺もエドワードの付き合いでは食べるけど、いつもお任せだしなあ」
普段は日本食派の三人がいくらメニューを見たからと言って解るものではない。
そこへエドワードがやってきた。
「5分で席が空くそうだ。どうした?」
メニューを真剣に見て、どういうのかを検討している所だったので、エドワードが不思議な顔をしている。
「エドワードさん、これって何でしょうか?」
透耶がメニューを膝において、指差すのでエドワードが身体を折ってそれを覗き込む。読んでいるのは日本語メニューではなく、フランス語メニューの方。
いろいろ説明して貰って、何とか皆コースが決まった。
はっきり言って、この美形集団、端から見たら皆の妄想を増徴させる出来事である。
待ち合いでそれを見た人は、最初に現れたエドワードの姿に惚けた。貴族の様に優雅な姿、無駄 のない動き、そういう人に中々お目にかかれるものではない。
続いてヘンリーが現れ、鬼柳が現れると、もう顎が落ちそうな程口を開いて見愡れてしまう。
なんで、そこだけ世界が違うのか!
どう見ても外国人軍団。
そこに明らかに日本人の少年が付き添っている。
透耶がぼーっとしている姿は、端から見れば、美少年が美形を引き連れているとしか見えなかった。
一人が主任らしき人と話をし、もう一人が何かを命令し、もう一人は少年を気遣って席を勧めている。
近付いてくると、その少年の美しさを目の当たりにしてしまった。
少年だろうに少年に見えない、綺麗な顔立で、男とは思えない程、細い造りの身体、猫毛の髪がさらりと流れて、笑う顔が見えると、天使かよ、とツッコミたくなるくらいに無邪気で無防備な様子を見せる。手が動くと、白く細く長い指が見える。あまりに綺麗に動くから、見とれてしまう。
全員が待ち合いに集まると、もう何が何だか解らなくなってきた。
明らかに少年中心にコトが運んでいる。
何かを覗き込んで、皆が顔を突き合わせている。
少年が皆に向かって微笑むと、皆が微笑む。
「ああ、どうしよう。今死んでもいいわね」
一人の女性が呟いた。
一緒にいた友達も頷いた。
「そうね、ホテル崩れても別にいいや」
「地震でも、戦闘機でも何でもこいって感じ」
別の所では、おばさん軍団が呟いていた。
「目の保養ってきっとこういうのを言うのよねえ」
「南国でこういうのを見るとは思わなかったわね」
などと呟かれているなんて当の本人達はまったく知らない。
でも、誰も透耶と光琉が似ているとは気が付かなかった。
「なんか、すごいなあ」
食後のコーヒーが出た所で、透耶が呟いた。
「ん? 何?」
そう言ったのは隣に座っている鬼柳。
「周りの視線」
「そうか?」
全然気が付いてない。それどころか。
「透耶を見る奴が多過ぎるから、脅しておいたのになあ」
と鬼柳が言い放った。
「はあ? 何言ってんの。鬼柳さん達を見てるんだよ」
透耶が鬼柳を見て言い切った。
とたんにエドワードとヘンリーが笑い出した。
「ホントに似た者同士だな、エドワード」
「どっちも正解なのだが」
そういうエドワードとヘンリーを不思議そうな顔で見る透耶と鬼柳。二人で顔を見合っているから、またエドワードとヘンリーが笑ってしまった。
レストランを出ると、エドワードが言った。
「ホテルの周辺でも観光してくるといい」
そう言われたので、透耶は鬼柳とヘンリーとでホテルの近くにある街へ出掛けた。
最近出来たらしい、観光地的な街並を抜けると、沖縄の街並に続いている。
途中で透耶は楽器屋を発見して少し寄りたいと言い出した。
「ジャズ用の楽譜を見たいんだ」
わざわざ買うという意識はないらしく、ヘンリーが笑ってしまう。
店はかなり大きな所で、ピアノ教室も一緒に経営しているらしい。お陰で楽譜は思った以上に揃っていた。
「すげーな、こんなもん見てピアノ弾けるんだ」
楽譜を見ていた鬼柳が呟いた。
何の事だがさっぱり解らない、という顔をしている。
透耶は幾つか本を選んで、暗譜を開始した。
そうしていると、店に客が入ってきた。
「もう! 言ってる意味が解らないの!」
中学生の女の子を大きな声で叫んで、後ろを付いてきた男性に怒っている。その後ろに女性がいた。
「綾乃ちゃん、先生に失礼だよ」
「うるさいわね。何処が違うのかさえハッキリしないから怒ってるんじゃないの! 付いて来ないで一人で練習するんだから!」
綾乃はそう叫ぶと二階へと上がって行った。
ぎょっとしている透耶達を見つけると、男女は頭を下げて謝った。
「すみません、お見苦しい所を」
女性が謝って頭を下げると、女性が持っていた封筒の中から楽譜が滑り出て床を埋め尽くした。
「きゃあ! すみません、今拾います」
そう言って慌てて拾おうとするので、透耶も鬼柳もそれを手伝った。
「ああ、G線上のアリアですね」
楽譜を数枚返した所で透耶が女性に言った。
「え? あ、これだけで解りますか? ああ、ピアノやってらっしゃる方ですか」
「ええ、少しだけですけど……あ、弾いてますね」
さっきの女の子が練習を開始したらしく、店にはピアノの音が響き出した。
「いやだ、あの子。また部屋のドア開けっ放しで。防音の意味がないわ」
女性がそう言ったが、店の主人が構わないと言った。客引きになるからという事。
透耶はじっとそれを聞いていたが、ふと顔を上げて鬼柳を見上げた。
「鬼柳さん、あそこのバッハの楽譜取って」
びっくりした鬼柳だが、透耶がまた考えるように顔を伏せたのでそれに従った。手渡すと、「ありがとう」と言って楽譜を開き、目的の物を見つけると音を追い始めた。
全部弾き終わったらしく、音楽が止むと、透耶が呟いた。
「ははー。そうか、迷ってる」
「何が?」
鬼柳が覗き込むと、透耶が顔を上げて言った。
「さっきの子、弾き方、ううん、意味が解らないって言ってたでしょ? ここと、ここ。どう表現していいか解らなくて音が迷ってる。だから、全体的にバランスがおかしいんだ。途中でミスはないけど、正確さがなくなってる。迷ってるから、余計にそうなんだろうけど……」
とそこまで言って透耶は喋るのをやめた。鬼柳が全然意味が解らないという顔をしていたからだ。
「あ、ごめん」
「ん、俺はいいけど、そっち凄く期待されてるぞ」
「へ?」
鬼柳に指差された方を見ると、さっきの女性が目を輝かせて今にも飛び付きそうな顔をしている。
「あのお願いします! 綾乃に、あの子にそれを教えて上げて下さい!」
「ええ!?」
「お願いします! 私じゃもうあの子の実力には追い付かなくて!」
「あのー、俺、教えるのは出来ないです。さっきのは俺の勝手な個人的意見ですから……」
「そ、それじゃ、さっきの注意点だけでも教えて下さい!」
女性は物凄い勢いで、さっき拾った楽譜を透耶に差し出して頭を下げた。
透耶は何度も断わったが、利き目はなかった。
あちゃあ、どうしよう……。
すっかり困りきった顔で鬼柳を見上げると目が合った。
鬼柳は少し笑って言った。
「注意点だけ楽譜に書いてやったら? 時間はあるし、ヘンリー、大丈夫だよな」
ヘンリーはピアノの椅子に座って、音楽情報誌を読んでいた。呼ばれたので顔を上げて言った。
「全然大丈夫」
寧ろ面白がっている口調だ。
透耶は少し考えて、それから溜息を吐いてから楽譜を受け取った。
「あくまで、これは俺の私観です。後で誰かに注意されるかもしれませんけど、それでもいいんですか?」
「あの子が納得するなら、それでいいんです!」
「じゃあ、すみませんが、もう一度弾いてくれるように頼んで貰えませんか?」
「解りました!」
女性は物凄い勢いで二階へ駆け上がって行った。
透耶は楽譜を綺麗に整頓すると、ピアノの前に座った。
「鬼柳さん、ごめんね。余計な事いっちゃったから」
座った状態で見上げると、鬼柳は笑っている。
「大丈夫。透耶、好きな事やる時、すげー色っぽいし」
なんとも的外れな事を言う鬼柳。
「何言ってんの……」
透耶が呆れて言った時、ヘンリーが隣で吹き出した。
まったく……。
暫くして、また綾乃が弾き始めた。透耶は女性にペンを借りて、楽譜と睨めっこしながら、チェックを付けていた。チェックの多さ、それは全て綾乃の迷いがある所。後は透耶的な指摘。ピアノ演奏が終わった所で、透耶は女性に向かって指摘した所の説明をした。
「あ、ありがとうございます!」
「いえ。でも、あの子くらいのレベルなら、誰か有名な講師がついているんじゃないですか?」
「え? あ、解りますか?」
「ええ、弾き方が綺麗なんです。プロの方に習っている感じがしたもので。あ、すみません、余計な事でした」
「いえ、あの子は今スランプなんです。弾ける子なんですけど。元々は私の生徒でここ出身なんですよ。上手いから見込まれて東京に行ったのですが、競争相手がいる中で弾いて行く事に疲れてしまったみたいです」
女性が寂しそうな顔で語ったから、透耶も少しそんな時を思い出した。
「そうですね。解ります。あの、あの子に聞いてやって下さい。「ピアノは楽しい?」って。きっと、昔は楽しくて仕方なかったんでしょうね」
「鬼柳さん、ごめんね」
ホテルへの帰り道で、透耶が鬼柳の腕を引っ張って謝った。
「ん? 何で?」
「せっかくの観光なのに」
「別に透耶と一緒なら、どこでもいいよ」
「何でそうなる……」
「強いていうなら、ベッドだけでいいんだけど」
「鬼柳さん!」
覗き込んで耳打ちされるように言われて、透耶は耳を手で押さえて飛び跳ね怒った。
もう透耶の顔は真っ赤だ。
「やっぱり、可愛い」
鬼柳はニコリと微笑んでそう言う。
その笑う鬼柳の顔を透耶はマジマジと見つめてしまった。
うわ! 凄い綺麗……。
あ、瞳って少し青みがかってる。綺麗な色だ。
その瞳が瞬きする。
あー、睫毛長い。
綺麗だなあ。
顔はやっぱり色々血が混ざっているからか、エキゾチックな雰囲気だし。恐ろしく整った顔。こうして綺麗に正装していると、それが良く解る。
この人は、きっとこういうのを着慣れている。
こんなに綺麗な人が自分だけだと言ってくれる。もし嘘だとしても有頂天になる自分がいる。
「……透耶?」
「え?」
随分惚けていたのだろう。鬼柳が不思議そうな顔をしている。
「どうした?」
「いや、その」
透耶はしどろもどろとしてしまう。
まさか、見とれてましたとは素直に言えない。
更に真っ赤になって透耶は下を向いた。
うううう、鬼柳さんってこんなに綺麗だったっけ?
鬼柳はそんな透耶を見た事ないので、変だと思った。
顔を見ようと下から覗き込むと、透耶の顔が赤い。
「どうした? 顔が赤い。熱でもあるんじゃないか?」
手で顔を触ろうとすると、抵抗された。
透耶は思わず鬼柳の手を叩いてしまった。
う、そんな事するつもりなかったのに……。
しかし鬼柳の顔が見られない。
「……透耶?」
鬼柳には訳が解らない。
怒っている、訳ではなさそうだ。
「どうしたんだ? 何? 透耶どうした?」
前を歩いていたヘンリーが戻ってきた。振り返ったら二人がいなかったからだ。
見ると鬼柳がおどおどしている。透耶は俯いたまま。
「ヘンリー、透耶が変だ。顔が赤いんだ。どっか悪いんじゃないか?」
「え? またどうして」
ヘンリーはずっと透耶を見ていたから、具合が悪くなればすぐに解る。今日は体調はいい方。
なのにいきなり具合が悪くなる?
「透耶、具合悪いなら、言わないと解らないだろ?」
ヘンリーがそう言って、透耶の顔を覗き込んだ。
透耶はまだ赤い顔をしていた。
「あ、あの、俺。先帰る」
透耶はそう言ってホテルの方へ走って行った。
呆然として二人はそれを見送ってしまった。
ヘンリーはすぐに察しが付いた。
「あ、鬼柳さん。あれは追いかけた方がいいよ」
「ヘンリー?」
「うん。必勝法を教えよう」
そう言ってヘンリーは鬼柳に耳打ちをした。その瞬間鬼柳は透耶の後を追って走り出した。
ヘンリーはそれを見送って、クスクス笑った。
「まったく、下らない事でもめるよなあ」
さて、夕方まで何処で時間を潰そうか。ヘンリーはそう思いながら、ホテルとは反対の方向へ歩き出した。
透耶はホテルに入ると走るのを止めて歩いていた。
「あー、ちくしょー。俺、何照れてんだ」
手の甲で頬を擦って、透耶は立ち止まった。
今更照れた所でどうする。
散々見ておいて、いろんな事をされているのに、顔を見ているだけでこれほど照れるか?
エレベーターに乗って最上階を押そうとしてドアが閉まるのを待っていると、閉まりかけたドアに誰かが手を入れて閉まるのを止めた。
「え?」
ドアが開いて、そこに鬼柳が立っていた。
透耶が呆然として見ていたが、鬼柳は真剣な顔をして乗り込んできた。
向かい合った状態で、鬼柳は後ろ手に閉めるボタンを押した。
ゆっくりとドアが閉まってエレベーターが動き出す前に鬼柳が動いた。
壁に寄り掛かっていた透耶の前に来て、透耶を挟む様にして両手を壁につけた。
顔の距離が近くなって、透耶は顔を伏せた。
うわ!うわ!駄目だ!
また顔が熱くなってきた。
「透耶」
「……」
「透耶、セックスしたい」
いきなり耳元でそんな台詞を言うものだから、透耶は顔を上げて睨み付けた。
すると、鬼柳が笑っている。
「チャンス」
そういうと、鬼柳がいきなりキスをしてきた。
一週間振りのキス。
軽いキスで終わる訳なかった。
深く口付けられ、舌が中へ入ってくる。透耶は思わず逃げようとしたが、鬼柳がそれを許す訳はない。
壁についていた手を透耶の頭を抱え込むようにして、更に深いキスをしてくる。口内を犯し、舌を吸い上げ、絡めて答えろと要求してくる。
「……んん」
息苦しくなっても抵抗する事は出来ない。それを許さない。激しく口づけをされると、透耶は頭の中が真っ白になってくる。朦朧としてくると、覚えている快楽を懐かしがって鬼柳の舌に自分の舌を絡ませて求めに応じてしまう。
何度も向きを変えながら、エレベーターが最上階に着くまでキスは続いた。
エレベーターのドアが開くと、やっと鬼柳が唇を離した。
「……はあ、はあ……」
やっと酸素が吸える状態になって、透耶は崩れ落ちそうだった。それを鬼柳が支えるようにして、それから抱き上げた。
抱え上げられても透耶は暴れはしなかった。
鬼柳は早足で部屋に戻ると、エドワードが入り口居間で仕事をしていた。ちょうど出ようとしていた所らしい。
「恭? どうしたんだ?」
「欲求不満」
それを聞いたエドワードには意味は通じた。
答えるのも馬鹿らしい、とばかりに、指を差してあっちへ行けとやった。
透耶の使っていた寝室だ。
鬼柳はそのまま進んで行く。
その途中で透耶が我に返った。
「ちょ、ちょっと鬼柳さん、待って」
暴れても無駄だが、透耶は腕を擦り抜けようとして身体を動かすが、鬼柳が離す訳もない。
ベッドへ放り込まれて、あたふたしている間に鬼柳が上に覆い被さる。
「待って!」
「駄目。やりたい」
「俺はやだ」
「じゃあ、何で逃げたんだ?」
押さえ付けられて質問された。真正面から鬼柳を見る形になって、透耶はまた顔を赤くして背けた。
「何故、俺を見ない?」
少し笑いを含めた声だった。怒っている訳ではない。
透耶は横を向いていたので、鬼柳は頬へとキスをする。透耶は我慢するように眉を顰める。
耳を舐め軽く噛むと、透耶は身を縮める。反応しているのだ。
鬼柳は素早く背広を脱いで、隣のベッドに投げた。その音で透耶が顔を上げる。
シュッと音がしてネクタイを乱暴に外し投げ捨てる。
ワイシャツを引き出して、前のボタンを外していく。
なんか、ストリップ見てるみたいだ……。
鬼柳が見てない事をいいことに、透耶はじっと見てしまう。
ふっと鬼柳の視線が戻って目が合うと、透耶はまた顔を背ける。
鬼柳が再度乗り掛かって、クスクス笑っている。
「何が可笑しいんだよ」
透耶は向き直って、鬼柳の顔を退かせようとするが、すぐに腕を掴まれた。
「腕見せて」
何だか意味が解らない事を言って、透耶が着ているワイシャツの腕のボタンを外している。
シャツを捲り、手首を繁々と見ているのを見て、透耶はやっと納得がいった。手首の傷を気にしていたのだ。
首は見れば解る状態の、ワイシャツのボタンは二つ目まで開いているが、手首は長袖で隠れて、しかもワイシャツだから、締まってて見えなかったのだ。
今までそんな事を言わなかったのは、他に人がいたからだ。
ずっと、傷はどうなってるだろうか?と気にしていたのだろう。
そう考えると、透耶は今度は可笑しくなってしまった。
鬼柳はボタンを外して、繁々と手首を見ている。
もちろん、もう傷は殆ど解らない。
「まだ、少し残ってる。ごめん」
凄く真剣に謝られた。
手首に口づけして、舌を這わせる。
うわ、何でそんな大切な物を扱うようにするのかな?
大切な物?
俺にとって、何が大切なんだろう?
でもこの人は何も話してくれない。話さないのは話したくないからなのか、それともその場しのぎの付き合いだからなのか。その場しのぎだったら。
もし、この人がいなくなってしまったら……。
お前なんかいらないって言われたら。
「いらないって言ったら……」
「え?」
鬼柳が身体を起こした時、透耶が隙間から抜け出した。身体を起こしてそれから鬼柳を突き飛ばした。ふいを突かれた鬼柳がベッドに倒れると、その腹の上に透耶が馬乗りになる。
「……許さないから」
まったく何を言いたいのか解らない。
鬼柳には、透耶がどうしたいのか、何を言いたいのか解らなかった。
さっきから様子がおかしい。
いつも通りだと思っていたら、顔を赤らめ逃げ回る。逃げ回っている意味も解らない。そしたらこれだ。
具合が悪いのかと思っていたが、ヘンリーは違うと言った。
必勝法。「いつも通り、甘く言って押し倒せばいい」。
甘く言って押し倒したら、許さないとか言われて押し倒された。これはどうすればいいんだろうか?
透耶は言ったまま、目を伏せている。
どうしたんだ? そう思って触ろうとすると睨まれた。
「動くな」
美しい声で命令され、妖しい視線で見つめられた。
あまりに綺麗だったから、見とれてしまう。
元々綺麗な顔だと思っていた。無垢、だとか、純粋、そういう意味で内側から出たモノで美しさを作っているのだと思った。だけど、最近は違う。そこらの女以上、男のむさ苦しさなど一切なくなり、動き一つ一つが目を離せない、それくらいに妖しい美しさを身に付けてしまった。
妖しいのに、純粋、無垢、無邪気な所は変わらない。
伏せた目、睫が長くて手入れをしている訳でもないのにカールしていて形がよく、瞬きすると綺麗に動く。茶色の瞳は日本人らしくない。大きく見つめる視線は、自分を射竦める。なのに時々、遠くを見つめて自分の世界に閉じこもってしまう。
そういう時、どこかへ行ってしまいそうだと感じてしまう。
捕まえているのに、抱き締めているのに、ここにいない感覚が襲ってくる。
白くて細くそして長い指が、ゆっくりと動いて、鬼柳の頬に触れた。透耶を見ると官能的な表情で、身体を伸ばし、顎を上げて首を伸ばして、鬼柳の顔を見ている。
手がゆっくり動いて、顔を撫でていく。頬を撫でて、額、鼻梁、最後に唇をなぞるように触れる。
透耶の綺麗な唇が少し開いている。
それだけで、鬼柳は透耶に犯されている感じがした。
このままキスをしてくれたらいいのに……。
鬼柳がそう思った時、透耶が動いた。
唇が近付いてきてキスをしてきた。最初は確かめるように触れるだけだったが、口を閉じていた鬼柳の唇を舐めて、開けと命令してくる。
要求に応じて少し開くと、深い口づけになった。
こんなキスは透耶からされた事はない。
たぶん、いや絶対、このテクニックは、自分と知り合ってから覚えたものだろう。透耶の生活には無用のモノだったに違いない。
随分長いキスだった。
透耶は唇を離すと、そのまま鬼柳の肩に顔を埋めた。
どうやら、ここまでらしい。
鬼柳はそう判断して、手を透耶の背中に回して撫でた。
抵抗はされなかった。
「いきなり積極的になったけど、何で?」
鬼柳は聞いた。
透耶が少し動いて、溜息が鬼柳の首にかかった。
「ん……解んない」
朦朧としているのか、眠くなっているのか、あまり考えてないような解答が返ってきた。
「逃げたのは?」
「……それは」
「何? 俺に見愡れてた?」
これは冗談のつもりだった。
「……うん」
透耶は素直に答えていた。驚いたのは鬼柳だ。
「え!?」
身体を起こして、今度は透耶を下にした。
「何!?」
上から覗き込むと、透耶は潤んだ瞳で鬼柳を見上げていた。
「いつもと違うから、何か意識した。いつもと同じなのに、恥ずかしかった」
格好が変わっただけ。中身はいつもと変わらない。
鬼柳は鬼柳なのに、知らない人を見ているようだった。
「ああ、この格好か。ははー、なるほど」
「エドワードさんとかと同種だって思った。そう思ったら、いらないって言われるかもって……」
支離滅裂だ。
「だから許さないのか?」
「……よく、解んない」
「はあ? ……まあ、俺がエドと同じってのは違うな。あいつは生まれながらの富豪で優等生だ。俺はその反対。透耶が心配する事なんて何もない。大体、何で俺が透耶をいらないなんて言うんだ? この耳は飾りか? 透耶しかいらないって言わなかったか?」
鬼柳は透耶の耳を引っ張ってそう言った。
「解ってる、けど、色々考えるんだ」
「難しい事ばっか考えてないで、俺を信じてればいいんだよ」
そう言われて透耶が鬼柳を見上げると、鬼柳がつかさず唇を奪っていく。透耶が自分でしたよりも、激しく深いキスだ。
「……んん……」
唇から離れると、首筋へと滑らせる。そのまま鎖骨に吸い付きながら、ワイシャツのボタンを外していく。外し終わると透耶の肌に手を滑らせ撫でていく。
「う……ん……」
胸の突起を撫で、そして吸い付くと透耶の身体が反り返った。胸を吸いながら、靴を脱がせ靴下も脱がせた。すぐにベルトを外してズボンとパンツを剥ぎ取る。
身体を起こして、ワイシャツも剥ぎ取る。
わずかに抵抗する腕を取り、指を舐めると感じるのか透耶が声をあげる。ウエストを摩り、そこをまた口づけていく。
「あ……ん……」
透耶自身を握り、軽く擦るとすぐに立ち上がる。
口に含んで扱くと先走りが溢れ、それを舐め取る。
「いや……ん……あん……」
イキそうなのをわざと塞き止め、いかせないようにして根元を握り締め先だけを攻める。
「あぁ……あ、ん……キョウ……」
イキたくて仕方がないという催促に、名前を呼ぶ。久しぶりにやったのに、透耶はそれを忘れてない。鬼柳の髪に手を入れて押さえ付ける。
仕方ないのでいかせてやる。
「達けよ」
銜えたままで喋ると、透耶は言われるまま自分を放った。
「ああぁんん……!」
甘く高い声を上げて透耶はぐったりとする。
その隙に鬼柳は自分の服を全部脱ぎ捨てた。
まだ放った余韻に浸っている透耶の孔に指を這わせる。
入り口に触れたところで、透耶の身体が跳ね上がる。
「いや……」
抵抗する声を上げるが、先に放った精液を塗り込めて指を一本忍び込ませる。
「んん……」
忍び込んでくる指に抵抗する内部を鬼柳が犯していく。ゆっくりと指を回し、官能の箇所を突くと甘い声が上がる。
傷付いていた内部は完全に治っているようだ。
指を二本にして、更に内部を広げる。ゆっくり出し入れをすると腰が逃げようとしている。
押さえ付けて更に続ける。
「あぁ……ん……いや……」
どんどんと押し寄せる快楽の波に呑まれるのを拒むようにしていたが、その波に呑まれていく。
悶える透耶を見ていると、鬼柳も我慢が出来なくなった。
「もうちょっと、解したいけど、俺が我慢出来ねえ」
そういうや早く、鬼柳は指を引き抜き、自分自身を透耶の孔に押し付けた。
足を抱え上げ、腰を進めるとスムーズに内部に入り込んだ。
「んんん……」
耐える声を上げて、透耶は鬼柳を受け入れた。
「ん……やっぱ、キツイ……」
はあっと甘い息を吐いて、鬼柳は透耶にキスをした。
すぐに透耶の腕が首に周り、抱きついてくる。
激しく舌を吸い、何度も向きを変えてキスをすると、透耶の身体の力が抜けて鬼柳が動きやすくなる。
二三度試しに動いて、透耶が痛がってないのを確認してから、鬼柳はその動きを速めていく。
「ああん……あ……あぁ……!」
透耶は腕に力を込め、鬼柳に力強くしがみつく。
甘い声が丁度耳元で漏れて、鬼柳を高めていく。
「ちくしょう、もちそうにない」
鬼柳はそう言うと、透耶自身を掴んで荒々しく扱いた。
「あぁ……ん…っ」
「透耶、一緒にいこう…」
耳元で囁くように言うと、それが最後の刺激になったらしく透耶は自分を放った。
「ああああっ!」
「クッ……」
締め付けられて鬼柳も放つ。
荒く息を付く透耶に、鬼柳は口づけをして顔中にキスをした。
透耶の潤んだ瞳が鬼柳を見上げている。
その姿は、また鬼柳を高めてしまう。
官能的で、淫らで、それでも綺麗で。そうさせているのが自分だと思うと、嬉しくて堪らなくなる鬼柳。
「やば、透耶、もう一回」
「ん……もう、やだ……」
透耶は抵抗はしなかったが、明らかに疲れて次のラウンドは持たないと思った。
欲求不満の鬼柳の体力に透耶がついていけるわけもなかった。
あーもー、やっぱりお預けペナルテーにしとけば良かった。などと透耶は思ってしまった。
鬼柳が三回目を終えた時に透耶は疲れて眠ってしまった。
眠っている透耶を起こさないように風呂に入れてから、使ってなかったベッドの方に寝かせた。
ベッドに腰を掛けて、透耶が静かに寝ているのを見ていると、自然と顔に笑みが浮かんでしまう。
いらないって言ったら許さない。
それは自分が言うのだと鬼柳は思っていた。
なのに、透耶の方もそう思っていた。
こんなに誰かが欲しくて、求めた事がないから、無理をさせているとは思う。それでも透耶は透耶なりに考えて、迷う答えを先延ばしにしてくれる。
それだけ、鬼柳には有利であるが、透耶が確実に手に入る保証はない。
抱けば抱く程、絶対に手放したくない。
これほど自分を狂わせる存在に出会えるとは思わなかった。
嬉しい誤算だ。
神に感謝したくなる程に。
微笑んで透耶を見ていると、ドアがノックされた。
「ち、邪魔しやがって……」
タオルで頭をガシガシと掻いてドアを開けると、エドワードが立っていた。
「邪魔すんな」
鬼柳が睨み付けて言うと、エドワードはニヤリとして言った。
「本当の仲直りはしたわけだ」
「大きなお世話だ」
鬼柳が大きな声で言うと、透耶が寝返りをうって起きてしまった。まだ寝転がった状態だったので鬼柳が素早くベッドに戻った。
「……誰?」
「ん、誰でもない。もう少し寝てていいぞ」
「……ん」
透耶は二三回瞬きをして、ベッドに凭れ掛かっていた鬼柳の腕を手で一回撫でて、ほっと息を吐いてまた眠ってしまった。
そんな事をされると、鬼柳の顔が嬉しさで歪んでしまう。
「ち、もう一回やりたくなった……」
などと呟いてしまう。
起きてなくてよかったな、透耶。
エドワードは内心そう思ってしまった。