Complicated-3

「そう言えば、何で俺があそこに連れて行かれたの知ってたんだ?」

 湯槽に浸かってやっと状況が掴めてきた杞紗(きさ)はそう聞いていた。貴緒(きお)は自分の身体を洗いながら、杞紗の方を向いた。

「たまたま教室から見えたんだ」

 本当にそうなのか解らないが、それだけで行き先まで解るのだろうかと杞紗は首を傾げた。

「それからあいつが考えそうな事が手に取るように解ったから後をつけた。それで見付けたんだ」

 これでいいだろという風に言い終えた貴緒はシャワーを浴びている。

 ……へえ、そこまで解るんだ。

 それが不思議だった。
 だが分っている事もある。

 啓介という後輩は、貴緒の事を慕っていて、いきなり現れた兄の存在が邪魔だったという事だ。

 それだけ貴緒の事を思ってたんだ……。
 だからあんな事しようとしたんだ……。

 そこまで思っている相手から、もう終わりだと言われたら、啓介はどうなってしまうのだろうか?

 だが、啓介がした事を杞紗は許す気は無かった。

 いくら貴緒を思っているからと言ってやっていい事と悪い事がある。

 嫌がらせなら自分が堪えればいいだけの事。
 でもあれは駄目だった。

 どうせなら殴られた方がマシだと思えたからだ。

 それ以上の屈辱を与えるつもりで啓介が思っていたとしたら、その嫉妬は恐ろしい。それを考えるだけでも今更ながら震えてしまう。

「ほら、少し寄れ」

「え?」

 ボーッとしていた杞紗だったが、いきなり抱え上げられてしまう。

「ちょっと!何だよ!」

 なんでこうも簡単に俺担がれる訳?

 だがそう言っている杞紗に貴緒は言い放つ。

「俺が入れないだろ」

 なるほど……じゃない。

「じゃあ、俺が出ればいいじゃないか」

 何で一緒に入らなくてはならないんだ……。

「いいんだ、一緒に入るんだから」

 杞紗を抱えたまま、貴緒は湯槽に座った。
 膝の上に杞紗を乗せて、二人は同じ湯槽に収まった。

「お前……何がしたいんだ?」
 杞紗には貴緒の行動の意味がさっぱり解らない。

 何なんだ?

 頭に?マークが沢山浮かんでしまったが、貴緒は杞紗の腰に手を回した力を弱めてはくれない。

 ガッシリ掴んで離さないのである。

「お兄ちゃんと一緒に風呂に入っているんだ」
 真剣な声で馬鹿げた事を言う貴緒。

「はあ?」

 何なんだホントに……。

 貴緒は濡れた髪を梳いて満足しているようだった。

 昔はよく一緒にお風呂に入ったものだが、この歳で弟と風呂に入る兄がいるものなのか?と杞紗はまだ納得がいかない。

 それでも貴緒が優しかったから、杞紗は少し嬉しかった。

 そうしてやっと安堵したところで杞紗は眠くなって眠ってしまった。

「杞紗?」
 反応がなくなった兄を不思議に思った貴緒が顔を覗き込んだ。すると杞紗は気持ち良さそうに眠っている。

 安心したらすぐに眠くなって寝てしまう所は昔と変わっていない。

「変わらないな……杞紗」
 貴緒は昔のまま変わっていない兄の姿が嬉しくもあった。

 危なっかしい所や、嬉しそうな笑顔。
 どれをとってもまったく変わらない。

 そして思った。

 誰にも杞紗は渡さない。
 他の誰にも渡さない。


「杞紗……」
 自分の中にある疚しい心が沸き上がってくる。

 誰を抱いても杞紗の代わりにはなりはしなかった。
 杞紗以外の他の誰にもこんな心は生まれなかった。

 だから杞紗が戻ってくるのが恐かった。

 変わらない杞紗を見続けて、自分がどれだけ耐えられるのかが解らなかったからだ。

 でも限界が近付いている。

 杞紗の事を思うと、どうしても冷静ではいられなくなる。
 手に入れたくて仕方なくなる。

 こんな感情を持っている自分は異常だと貴緒は思っていた。だから離婚を期に離れた事は良かったと思った。

 けれど、杞紗の居ない場所には何もなかった。
 空しいだけで、父親とも上手くいかなくなっていた。

 やっぱり杞紗がいないと自分は普通ではいられなかったのである。

 杞紗がいてこその自分。
 だが杞紗にこんな自分を悟られまいと思った。




 風呂を出ると、杞紗の身体を拭いて、服を着せた。

 小さな兄は軽く、扱いやすかった。
 あの頃から変わって無い。

 すやすや眠る杞紗を抱え上げて、二階の部屋と運んだ。
 ベッドに寝かせると、布団をかけ、そこへ貴緒も座った。

 兄の寝顔を見るのは久しぶりだった。
 母親に似た顔。でも少し違うまだ幼さが抜けて無い顔。

 頬を撫で、そして唇を撫でた。
 キスをしたい。

 そういう衝動に駆り立てられ、貴緒はゆっくりと顔を杞紗に近付けた。

 眠っているなら気付かれない。

 そう思い、貴緒は杞紗の唇にキスをした。

 ただ触れるだけのキス。

 それだけでも貴緒には満足だった。




 翌日。

 杞紗が学校へ行こうとすると、既に貴緒は家を出た後だった。

「珍しい……」
 いつも一緒に出掛けていたので、貴緒がいないとなると不思議と寂しく感じる。

 何だ俺、やっぱブラコンなのか?
 そんな事で寂しさを感じる自分に驚く杞紗。

 でも、普通ならいない方が普通なのだと思い込んで、杞紗は家を出た。
 けれど、何故か学校への道が遠いと思ってしまった。





 学校に着いて、席に座ると同時に堤が声を掛けてきた。いつでも朝から元気な堤である。でも教室に入ってきた時にいつもいる弟がいない事に気が付いて首を傾げていた。

「あれ? いつもの弟は?」
 堤は、いつも自分の事を見下している弟に目だけで挑戦するのを愉しみにしていたので、拍子抜けしたらしい。

 杞紗は堤にそう聞かれて首を傾げた。

「解らないんだけど、用事があったみたいで先に家を出てたから今日は一人だったんだ」
 一応、貴緒の教室にも寄ってみたが貴緒は鞄だけを残して何処かへ行っているようだった。

「へぇ、やっと兄離れか?」
 堤が声を大きくして言った。

「はあ?なんだそれ?」
 その言葉に眉を顰めてしまう杞紗。

「だってあいつ、俺にさえ兄に何かしたら許さないって目でみていたんだぜ」
 堤は正直に話した。

 あれが噂の人物だとは認識していたが、この杞紗の弟というのが意外過ぎて、それで杞紗に興味を持ったのも事実だった。

「嘘~。そんな事ないよ~」
 杞紗は笑ってそれを否定した。

 貴緒はポーカーフェイスだからそんな表情顔に出す訳無い。有り得な過ぎて笑ってしまう事だった。

「俺が馴染めないかもしれないから、心配してくれてたんだよ」

「そうか? いや、そうは見えなかったぞ」
 堤はそこは譲らなかった。
 だが言わなかった事もある。

 あの弟の兄を見る目は、兄弟だから心配ている顔ではない。まるで恋人にでも手を出す誰かを脅している風にしか見えなかったのである。

 だから今日いないだけで、お兄ちゃん離れ出来たとは思えない。

 堤は何かあるのだろうと思ったが、それ以上突っ込んで聞く事をやめ、昨日面 白かったTVの話をして誤魔化した。



 案の定、堤の読み通りなのか、一時間目が終わった時、すぐに貴緒が教室に現れたのである。

 ちゃんと杞紗が登校しているのか確認しにきたのか、顔を覗かせていたのを杞紗に発見された。

「貴緒! その顔どうしたんだ!?」
 すぐに貴緒を見付けた杞紗が駆け寄った。

 貴緒の顔は少し腫れているのである。

「いや、ちょっとな」
 貴緒はさっと頬を隠した。
 だが、その手を杞紗が剥がす。

「ちょっとってなんだよ!腫れてるじゃないか! 保健室!」
 杞紗は真っ青な顔になって、貴緒の腕を掴むと教室を出て保健室に向かって歩き出した。

「いいって」

「よくない」
 これくらいなんでもないと思っている貴緒だが、すぐに杞紗に否定されてしまった。

 ズンズンと勢い良く保健室に向かって歩き出したのだが、ふと杞紗が立ち止まった。

「どうした?」
 不思議そうに貴緒が尋ねた。

「保健室ってどっちだっけ?」

 不安な顔をして杞紗が貴緒を見上げた。
 貴緒は思わず大笑いをしてしまったのだった。

 そんなに笑わなくても……。
 真っ赤になってしまった杞紗だった。




 保健室には貴緒に案内されてやってきた杞紗。

 ここはまだ案内されてなかったので場所は知らなかったので当然の事だった。

「あれ、先生いないね」
 広い保健室には人がいる気配すらなかった。普通保健医が駐在しているものなのに、その気配もない。

「ここの先生は大抵職員室で屯ねてる」
 ここの保健医がそうなのは誰もが知っている事だったが、杞紗は知らなかったので、慌てて廊下に飛び出した。

「じゃ、呼んで来なきゃ」
 そういう杞紗を貴緒が呼び止めた。

「いいって。どうせ冷やすだけだろ」

「それもそうか。じゃ、氷っと」

 保健室にある冷蔵庫をまず探し、そこから氷を取り出した。 タオルはいつの間にか貴緒が見つけ出して持っていた。
 それを氷水にしてタオルを冷やして傷に当てた。

「痛く無い?」

 そっと手を添えてみるが、少し青くなっている。でも重症という程ではない。よく見なければ解らない。

「殴られた時よりは痛く無い」

「殴られたって?」
 思わず口を滑らせてしまった貴緒。

 喋るつもりのない怪我の事だったのだが、杞紗が貴緒を睨み付けていた。

「朝早くに出掛けたと思ったら、喧嘩なんかしてたのか!?」
 信じられないという顔で杞紗は貴緒を見た。

 貴緒はぶすっとした顔でそれを話そうとはしなかった。何故貴緒は黙っているのか。

 ベッドに腰をかけて、そっぽを向いている。

「何で言えないんだ?」
 なかなか言いそうにない貴緒に杞紗は挑むように言い出した。

 思い当たる事があったからだ。
 まさかという思いがあったので、杞紗はそれを聞いてみた。

「まさかと思うけど。昨日の奴らか?」

 昨日、杞紗を襲った柔道部の男達のことだ。

 貴緒は昨日は杞紗の事が心配で放って置いたのだが、報復の事を考えてなかった訳では無かったのだ。

 だから今朝、早くに出かけ、あの男達を捕まえて喧嘩を吹っかけたのではないかと杞紗は思ったのだ。

 いくら喧嘩が強くなった貴緒でも、柔道部の男数人相手では怪我しないで済むはずはない。

「そうなのか?」

「……ああ」

「何でだ?」

「杞紗にあんな事した奴、許せる訳ないだろ」

「もう関係ないんだから放っておけばいいのに!」

「それが出来たら喧嘩なんかしない」
 これだけは譲れないとばかりに貴緒は真剣だった。

 その真剣な眼差しに杞紗はドキリとした。

「杞紗の事だけは譲れないんだ」
 そんな事を言い出す貴緒。
 冷やしていたタオルを外して、杞紗の腕を取ると引き寄せて抱き締めたのである。

「え? 貴緒?」
 杞紗は一体何が起ったのか解らなかった。

 何で?

「貴緒?」
 何度呼び掛けても貴緒は何も言わず、杞紗を抱き締め続けていた。

 どうしたんだろう?

 何故貴緒がいきなり抱き締めてきたのか解らなかった。
 でも嫌ではなかったので、そのまま抱き締められ続けていた。

 やがてチャイムが鳴って次の授業が始まったのだが、それでも貴緒は離してはくれなかった。

「貴緒、チャイムが……」
 慌てて離れようとするが、貴緒はガッシリと掴んでいてそこから抜け出す事は杞紗には出来なかった。

 馬鹿力……。

「もう少しこのままで……」
 貴緒は小さく呟いて離そうとはしなかった。

「仕方ないなぁ」
 杞紗は少し笑って、貴緒を抱き締め返した。

 小さい頃、不安になった貴緒をよく抱き締めていた。  
 不安になると必ず貴緒は杞紗に抱きついてきて離れなかった。子供の不安、それを慰めてやるのが兄である自分の役目だと杞紗は思っていた。

 今でも貴緒は変わって無い。
 何か不安な事があるのだろう。

 だったらそれを慰めてあげるのが自分の役割だと思った。

「もう喧嘩した事は、終わった事だから仕方ないけど。無茶するなよ」

 杞紗は貴緒の頭を撫でてそう呟いた。
 貴緒は頷いていた。

 やっと貴緒が杞紗を離してくれたのは、それから数分経ってからだった。

「悪い、授業サボらせた」
 やっと我に返った貴緒は慌てて謝った。
 それに杞紗はクスリと笑って言った。

「いいよ。こっちの方が大事だし」

「え?」
 貴緒は驚いた顔で杞紗を見上げた。

「貴緒の方が大事だって言ったんだよ」
 もう一度冷やしたタオルを貴緒の顔に当てた。

 腫れの方はかなり引いてきて、なんとかマシになっていた。

 貴緒ははあっと溜息を吐いて、ベッドに寝転がった。

 まさか自分の方が大事だと言われるとは思わず、動揺したのもあった。杞紗がそういう意味で言ったのではないとは解っていても貴緒は嬉しかった。

 杞紗が大事だと言ってくれるのは嬉しかった。
 自分が特別なんだと思えるから。

「このまま寝とく?」
 寝転がった貴緒に杞紗は聞いた。

 けだるそうにしている姿をみていると、喧嘩は余程壮絶だったらしい。
 だが、貴緒が勝ったことは間違い無かった。

 でも自分の為に貴緒が傷付くのは嬉しくなかった。

 もう、昔からこういう所は変わって無いんだから。

 兄を苛めた奴は全員やっつけてしまうという事を貴緒はやってきていた。普段は自分の後ろをついてくるくせに、喧嘩早いのは変わって無い。

「うん、寝る……」
 もぞもぞしていた貴緒は、力無く答えてブレザーを脱いで布団に潜ってしまった。

 そのブレザーをハンガーに掛けて壁に吊るす杞紗。
 自分も暇なので、貴緒に付き合うことにした。

 椅子に座って眠っている貴緒の隣に座って、貴緒の顔を覗き込んだ。

 せっかくの綺麗な顔に傷がついてしまった。
 それも自分の為。
 無鉄砲な所は変わっていない。

「あんまり心配させるなよ……」
 杞紗は呟いて貴緒の頭を撫でた。