Complicated-4

 杞紗(きさ)が保健室から戻れたのは、その次の時間だった。
 貴緒(きお)はぐっすり寝ていたので起こさずに戻った。

「よう、弟どうだった?」
 教室に入ると、堤が話し掛けてきた。
 心配そうな顔をしている杞紗の顔を見て、少し心配そうになっている。

「どうした、悪いのか?」

「あ、いや、軽傷だよ。冷やしておいたから大丈夫」
 杞紗は力なく笑った。

 そんな杞紗の様子に堤は首を傾げた。
 一体何があったんだ?という風に。

 その時杞紗は考えていた。

 貴緒の事。
 貴緒はいつでも自分の事より杞紗の事を優先する。昔からずっとそうだった。

 自分もそうしてきた。
 自分のことより貴緒の事。

 だが、その感情はただの兄弟にしては何か違う気がした。

 この感情は一体なんだろう。
 貴緒を大事に思う。

 それだけではない感情があるような気がする。
 この感情は何なんだろうと……。

「都住、お前、顔色悪いぞ」

「あ、いや、ちょっと考え事してて……」

「俺にも相談出来ない事なのか?」
 堤はこっそりと杞紗に耳打ちをした。

「え? あっと……」
 どうしようか迷ってしまう。

 こんな気持ち、誰かが教えてくれるとは思えない。
 簡単に見極められる問題でもなさそうだ。

「あの、俺変なんだ」

「はい?」

「貴緒の事が気になって仕方ないんだ」

「はぁ……」
 堤は椅子の背に身体を預けて呆れた顔をしていた。

 この兄弟が異常に仲がいいのは見ていて解っていた。
 だが、それが悩みごとになるとは、さすがの堤も予想出来なかったのである。

 まるで恋愛相談でもされているかのような気がする。

 そんな事はおかしくないとは何故か言いにくいのだが、杞紗にそうしたホモの気配は感じられないから、ただ単に弟の事が心配なのだろうと堤は解釈した。

「まぁ、あれだけ沢山の噂がある弟だから心配事は沢山あるだろうな……」
 堤はそう言った。

「そうなんだ。だって今回の事も俺が原因で……」

「何があったんだ?」
 堤は身を乗り出して聞き出そうとした。

 杞紗は暫く悩んで、ぽつりと昨日の出来事を話した。
 小声で誰にも聴こえないように気を付けながら。

 全ての話を聞き終わった堤は深く溜息を吐いた。

「そりゃ、弟怒って正解だぜ」

「え?」

「それ、俺も怒って同じ事をするって事だ」

「そうなのか?」

「当たり前だ。そんな事、許せるわけないだろ?」
 堤は溜息の後、本当に怒っているようだった。

 杞紗が男にしては可愛い顔をしているのは解る。だが、それを力づくで犯そうとするなど、誰であっても許せない。

 兄思いの弟が切れて当然の出来事だったのだ。

「しかし、啓介だっけ、あいつも思いきった事するな」

「それだけ俺が邪魔だったって事でしょ?」

「そうかもしれないが、それでもやり方ってのがな」
 確かにそうだった。

 自分ではどうにも出来そうにないから、他人に頼んで犯してやろうと考えるのは、おつむは大丈夫か?どこか狂気じみている。

 それでもあの貴緒がよかったのだろう。

 貴緒もそれが解っていて、杞紗を守っていたのかもしれない。ただ隙があったのは杞紗の方だった。

 終わった事とはいえ、杞紗はあの事を思い出すだけで辛い。
 そのせいで、貴緒が喧嘩までする事も辛い。
 そうした事も含めて悩んでいた。

 自分に何かあったとしたら、今度は、貴緒がどんな行動にでるか解らない。
 それが不安でもあった。

「もしまた同じような事があったらどうしようと考えているんだな?」

「……うん」

「そうだな……とにかく弟を刺激する事を避けるしかないだろうな……」
 何が弟を刺激するのかは解らない。
 堤は思っていた。

 何がではなく、杞紗に関する事なら何でも弟を刺激するのだろうなあと。

 アレ程の噂の持ち主が、今やブラコンなのである。
 いい変化なのか、それとも悪い変化なのか見極めれない。

 ただ言えるのは、ただのブラコンではないから困る。

 完全に兄を好きな弟だ。
 気持ちもちゃんとしているし、敵意を向けてくるから自覚もしているのだろう。

 ただそれを杞紗が受け入れられるかといえば話は別になってくる。
 さて困った堤は答えを出す事が出来なかった。

「今まで通りでいいんじゃないか?」

「え?」

「今までのように弟がいろいろ気を使ってくれて、それでお前達は上手くいっているんだろ。だったらそれでいいんじゃないか?」
 堤にはこれしか言えなかった。

 それを聞いた杞紗は、ほわーんとなって微笑んだ。

「俺達は上手くいってると思う。最初は心配だったけど。貴緒のお陰でいろいろ助かってるのは確かだし」

「じゃ、それでいいんじゃないか。そのうち、慣れてくればなんでもなくなるだろ」

「そういうもんなの?」

「さあ、こういう事例は始めてでね」
 こんな事を相談する人もいないだろう。

「そっかなんかすっきりした」
 杞紗の方はすっきりとした顔をして、悩みはなくなったようである。

 だが、堤の方に悩みが出来てしまった。
 このままいけば、杞紗には誰も親しい人は出来ないだろうなという事。

 堤は上手く立ち回っている方だが、その他の生徒は、貴緒の噂を知っているので、杞紗にはなるべく近付かないようにしているのが現実だ。

 あの弟が毎日睨みをきかせてきているのだから、逆らうのも怖いし、何が起こるのかも解らない。

 この三年の大事な時期に問題を起こさないようにとするだけで精一杯だったのである。

 都住(いずみ)杞紗には余計な事をするな、が、暗黙の了解なのだ。




 昨日の事があってから、毎日帰るのも貴緒と同じになってしまった杞紗である。

 誰が何を考えているのか解らないから心配している貴緒だが、杞紗はこれ以上何も起こらないだろうと思っていた。

「なあ、貴緒。お前部活あるんじゃないのか?」
 帰り道を歩きながら、杞紗は貴緒に聞いた。

 貴緒が学校で何部に入っているかは聞いた事なかったのを思い出したから聞いたのだった。

「いや、ないぞ」
 貴緒はキョトンとして答えた。

 それに驚く杞紗。
 だって……。

「え? だって今まで帰りは別だったじゃないか」
 別に責めるつもりではないが口調がそうなってしまった。
 すると、貴緒は頭を掻きながら答えた。

「そりゃ友達と帰るだろうと思ってたから」
 そう言われて杞紗はうーんと考えた。

 貴緒から見ての杞紗の友達とは、1人しか思い当たらない。

「堤の事?」

「ああ」

 やっぱりそうか……。
 予想が当たって杞紗はクスリと笑った。

「堤、部活やってんだ。最後の追い込みらしいから、一緒には帰ったことないし、第一方角が違うんだ」

 堤と一緒に帰るとしても校門までだ。
 それじゃ一緒に帰る事にはならない。

「そうだったんだ、なんだ」
 それは貴緒も本当に知らなかったらしい。

 少し驚いているようだった。

「気使わせたな」

「いや」

 杞紗に友達が出来た事は貴緒も知っている。帰りも杞紗を独占したかったが、それでは杞紗の為にならないと思い、杞紗が帰るのを見送ってから帰るようにしていたのである。

 あの事件のあった日たまたま玄関で杞紗と鉢合わせてなければ、あの事件は防げなかっただろう。

 気を利かせたつもりがそうではなかったと解って貴緒は少し落ち込んでいた。

 もし自分が一緒に帰っていれば、杞紗があんな目に合うこともなかっただろうと思ったのだ。

 でもそれはもう済んだ事。
 今更悔やんでも仕方ない。

「せっかくだから買い物して行こうぜ」
 今日の食事の当番は杞紗だった。

「そうだな。何作る?」

「父さんも食べるだろうからカレー辺りでいいかな?」

「いいな」
 そうして二人は帰りに買い物もしていくことにした。

 二人とも家事が出来るとあって、食事は当番制にしていた。その方がお互い楽だろうということで決まっていた。

 近所のスーパーで買い物をして、帰ろうとした時だった。

「あら、貴緒じゃない」
 そう声をかけてきたのは、高級車に乗った女性だった。

 グラサンをかけ、派手な衣装の香水が匂う成人女性。
 杞紗はキョトンとして女性をみていたが、貴緒は気まずい顔をしていた。

「久しぶりじゃない」
 女性は車を降りずに話し掛けてくる。

 貴緒は何とかポーカーフェイスを崩さずに返事を返した。

「お久しぶりです」

「貴方が来なくなって、寂しい思いをしていたわ。ここで会ったのも何かの縁かもしれないわ。乗りなさい」
 女性は貴緒に命令をして、ドアを開けた。

 後部座席に乗っている女性の隣に乗れということらしい。

 このやり取りに、杞紗だけが置いていかれていた。

 この女性、一体何者だろう?

 凄く綺麗な人であるのは確かだが、貴緒との接点が解らない。

「いや……しかし」
 貴緒ははっきりと断れなかった。

 貴緒と女性の間には杞紗の知らない何かがあるらしい。
 杞紗でもそれは解っていた。

 でも断るだろうと思っていた。

 しかし。
「解りました」
 貴緒はそう答えたのである。

「貴緒?」
 杞紗はポカンとして貴緒を見上げた。

 貴緒は少し気まずい顔をしたまま杞紗を見て。

「悪い先に帰ってくれ。遅くはならないから」
 そう言って車に乗ってしまったのである。

 女性は杞紗にはまったく興味を示さずに、運転手に先に行くように言い付けていた。

 貴緒と女性を乗せた車はゆっくりと杞紗の前から走り去って行った。

 一体なんだったの?

 1人取り残された杞紗は訳が解らなかった。

 ただ1人寂しく家路に付く事になってしまったのだった。


 


 家に帰り着いてから杞紗は機械のように着替えを済ませて、夕食用のカレーを作った。

 あの女性、貴緒と何の関係があるんだろうか。
 そんな事を考えながらカレーを作った。

 作り終えて、いつもの食事の時間になっても貴緒は帰って来なかった。

 それから一時間して、玄関が開く音がした。
 リビングにいた杞紗は走って玄関に駆け付けた。

「貴緒?」

「お、杞紗か」
 帰ってきたのは父親だった。

 そういえば、今日は早いって言ってたっけ?とそんな事を思いながらリビングへと戻った。

「貴緒はいないのか?」

「あ、うん。ちょっと出かけるって」
 何処へとは解らないから答えられない杞紗。

「また出かけ癖が出たか。杞紗が帰ってきてからはそれ程出かけなくなったのにな」

 父親にそう言われて杞紗はハッとした。

 杞紗が1人は寂しいと呟いてからは、貴緒は何かにつけて杞紗を1人にしておくことはしなくなっていた。
 夜出かけていたのもやまり、家にいるようになったのである。

 その間何処へ出かけていたのかは杞紗も知らない。

 もしかしたら、あの女性の所へ出かけていたのかもしれない。そう考えた時、杞紗は何故か妙な嫉妬を覚えた。

 俺よりあの女性を選んだんだと、何故か寂しくなった。

「今日はカレーか」

「あ、うん。食べよう。貴緒、帰って来そうにないし」

「そうだな」
 父親はさっと着替えに行って、杞紗は食事の準備をした。

 父親と食事を共にするのは久しぶりだったが、何故か楽しくなかった。

 一方的に父親が杞紗の学校の事を聞いてきて、杞紗はそれに答えるだけだった。

 ずっと気になっていたのはあの女性と貴緒の事。
 それを考えると、何故か寂しくなる一方だった。

 食事を済ませて、片づけを終え、杞紗はリビングで貴緒が帰ってくるのを待っていた。

 遅くなるけど帰るとは言っていたから帰ってくるはずと思っていたが、深夜になっても貴緒は帰って来なかった。

 仕方なく、部屋へ戻って布団に入ってもやもやした気分のまま眠りにつくことになってしまった。

 結局、杞紗が起きている間に貴緒は帰って来なかったのである。




 翌日。
 杞紗はいつもより早く起きて、食事を済ませると、貴緒を待たず家を出て学校へ向かった。

 何故か腹が立っていた。
 貴緒が何の説明もせずに出かけたのが何故か許せなくなっていたから会わす顔がなかったのである。

「どうした、都住(いずみ)」
 朝早くから部活の朝練があった堤はもう既に教室にいた。

「え? あ、おはよう」

「おはよう。どうしたんだお前」

「え? 何が?」

「顔怖いぞ。何に怒っているんだ?」

「俺が怒ってる?」
 杞紗にはその自覚がなかったので、自分でも驚いてしまった。

 怒った顔をしている。
 堤はそう言った。

 そう、杞紗は怒っていた。
 貴緒は、結局昨日帰って来てなかったからだ。

 約束したはずなのに、貴緒がそれを守ってくれなかった事に腹を立てていたのだ。

「いつもの弟もいないし」

「ああ、それね。昨日家にいなかったからどっかに泊まってきたんだろ」
 そう言うと、杞紗は椅子に座った。

 授業の準備をして、予習のふりをした。

 今は何も考えたくない。
 もう貴緒の事は考えたくない。

 そう思っていた。

 堤もこの兄弟に何かあったとは感じたが、それ以上突っ込んできくことはしなかった。

 杞紗が怒っている以上、マトモな話になりそうになかったからである。