switch外伝6 We can go14

 鬼柳一成が衝撃を受けたのは、楽しかったデートが彼女、榎木津柚梨のディナーの丁重なお断りからホテルへ送っていった後のことだ。
 柚梨は一成との観光をかなり楽しんだようで、一成に丁寧に礼をいってきた。
 一成も最初から気持ちが急ぎすぎていたようで、柚梨に警戒されたのだろうと思っていた。だが事実は別にあった。
 彼女はジャズピアニストとして、10年間トップで活躍をしている人だ。毎年決まった月にカーネギーホールを連日満員にし、実力と共に持ち合わせる独特の雰囲気、強い女性という姿を見せる美しさからジャズピアニストの間では尊敬される存在だという。
 だが、舞台を降りてしまうと、ピアノの力強さ、鮮麗さから見られるような強い女性には見えないから不思議だった。そこに居たのは、無邪気で可愛い人、話しかけてくる人たちに気さくに応じる姿はまるで少女に見える。実年齢は知らなかったが、それでも30歳はとっくに越しているというのだから、信じられない容貌だ。長い髪は漆黒で透き通った肌はきめ細やかで触り心地がよさそうで、彼女の姿をみながアジアンビューティーだと言う意味をはっきりと理解出来る姿だ。
 彼女に話しかけた時、一成は自分でも信じられない言葉を言っていた。
 デートしてください。そう言っていたと思う。
 彼女は少し驚いた顔をしていたが、すぐに返事は出来ないので、出来れば電話番号をと返してきた。
 体の良い断り方か。そう思うのは仕方ない。
 初対面の人間に話しかけられるなり、デートに誘われたら普通に警戒をするだろう。
 だが、どうしても諦めきれずに居た一成の元に、電話がかかってきたのはその夜のことだ。明日観光をしたいので案内をお願い出来るかというものだった。それに一成はデートに応じてくれたと嬉しくなり承諾していた。
 翌日、ニューヨーク中を回る観光をして、彼女との楽しい時間を過ごした。
 彼女はとても子供のようにはしゃいで、一成の手を引っ張って走り回るほどだった。
 だが、その観光もディナーに誘ったところで終わってしまった。
 その申し出は受けられない。ここまで親切にして貰ったのに、受けることは出来ないのだと彼女が言うので、ホテルまで送らせて貰った。
 少しショックだった。女性を誘って断られることはほとんどなかっただけに。
 しかし、そのショックを最大にさせたのは、ホテルに到着してからだった。
 車を降りて彼女と話しているところに、一人の青年が近づいてきた。
「彼方さん、ただいま帰りました」
 彼女はそう言って青年に抱きつくと、彼の頬にキスをしている。これは一体何なんだ? と一成は呆然とした。
「おかえり、柚梨。観光は楽しかったかい?」
「ええ、鬼柳さん、とてもニューヨークに詳しいのよ。彼方さんに前に頼んだ時は、地図持ってるのに散々迷ってちっとも観光出来なかったから」
「あはは……まあ、あれは不幸な事故で……というか、その状況でさえ柚梨は楽しんでいたじゃないか」
「そうね、乗った電車が郊外に出た時はさすがにびっくりしたわ。でも暢気にあれ間違えたみたいだなんて言う彼方さんが面白かったんじゃないの」
 彼女が彼方と呼ぶ人物は、困ったように笑って昔のことを思い出しているようだ。それからハッとして一成の方に進み出て頭を下げていた。
「今日は柚梨が大変お世話をおかけしました」
「……いや、私も楽しかったのでお互い様だ」
 にっこりと笑って一成を見る彼方という青年に一成は妙な後ろめたさが出てしまう。
 そして同時にわき上がってくる敗北感はなんだろうか。
「貴方は……?」
「あ、名乗っておりませんでしたね。私は、榎木津彼方と申します。柚梨の夫です」
「夫……!?」
一成は驚愕してそう言うと、彼方はあれ?という顔をして柚梨を見、そして一成を見る。一成の驚愕の顔からまた柚梨を見て彼女に言う。
「柚梨……また黙っていたんだね……なんで君はこう重要なことを……」
 深々とため息を吐いて彼方が彼女に言うと、彼女の方も驚いていた。
「えっと、あの、結婚していること知らなかったんですか? 私は知ってるんだと思ってて。コンサートに来るくらいだから、パンフレットくらいは読んでるんじゃないかと……でも違ったみたいね。ごめんなさい」
 柚梨は一成が一切柚梨の経歴を知らないことに気付いて、慌てて頭を下げてきた。
「知らなかったならごめんなさい。私、この人と結婚してますし、14歳になる子供が二人いるんです」
「……結婚……子供が14歳……」
 知らなかったとはいえ、これはなんの冗談だ。
 いくら東洋人が若く見えるとはいえ、子供が14歳……信じられない事実だ。
 だが、そうだとして、何故彼女はデートに応じてくれたのかという疑問が残る。
 それを柚梨に問おうとしたのを察したのか、彼方が柚梨に言っていた。
「柚梨、鬼柳さんにちゃんとお礼をして、部屋に戻りなさい」
 さっきまでの優しい顔とは違い、厳しい顔になった彼方が言い放つと、柚梨はショックを受けた顔をして素直に頷いた。
「……あの、今日は本当にありがとうございました。本当に楽しかったです。それから、ごめんなさい」
 少し泣きそうな顔をした柚梨の顔を見てしまったら、一成はそれ以上文句は言えなかった。
 柚梨は一成が当然知っていると思っていたし、あの業界の人たちはみんな知っていると思いこんでいた。経歴はきっちりパンフレットに書いてあったし、なにより一成を連れてきた友人の方は知っていたはずなのだ。一成の友人が少し面白そうにしていたのは、柚梨が結婚している女性であることを知っていたからに違いない。
「いや、私も今日は楽しかった。それから知らなかったとはいえ、それが原因で貴方に謝らせることになってしまったことはとても残念だ」
 一成が大人の対応をすると、柚梨は少しだけにこりとしてまた頭を下げた。
「それではおやすみなさい」
「おやすみ……」
 柚梨がとぼとぼとホテルに入っていくのを見届けると、残っていた彼方が一成に頭を下げてきた。
「今日は本当にご迷惑をおかけしました。まさか、妻が結婚していることを隠しているとは思いもよらず、こちらも鬼柳さんのお言葉に甘えてしまい、本当に申し訳ありません」
 あまりに謝られても一成としても気まずい。
「貴方は彼女からどう聞いていたんですか?」
「親切な方に観光案内をしていただけると……。失礼ですが、どう考えてもデートに誘ったんですよね」
 一成の反応を見ていれば、鈍い彼方でもこれが親切な観光案内だとは思わないだろう。そう思っていたのは、柚梨くらいだ。
「まあ、デートのつもりだったのは否定出来ないな。彼女がそう受け取ってくれなかったのは非常に残念だったが。だが、親切とはいえ、見ず知らずの誰かに案内を任せるのは問題ではないか?」
 せめてもの反撃とばかりに一成が言うと、彼方はその理由を一成に言う。
「鬼柳さんのお友達のノエイさんが身元は保証すると言っておられたので……そう解釈していたんです」
 そう彼方の口から一成の親友の名前が出てきたので、納得がいった。
 ノエイは一成が柚梨に一目惚れしたことは知っているだろう。普通に気に入った女性を食事に誘うことはあっても、デートという言葉を使って誘うような人間ではないのは知られているし、最近真面目に考えている結婚相手として選んだ可能性も考えていただろう。そこで知り合いである彼方に身元の保証をしてお膳立てをしたわけだ。
 そこでノエイを信用するのは彼方や柚梨の勝手で、その先一成がどうにかしたとこで自己責任となる。腹黒いノエイのことだ。何かあった方が面白いと考えたのは一目瞭然だ。
「ノエイには私から厳重注意をしておきます。ですが、貴方も彼女のことをもっと心配するべきではないですか? 彼女は無邪気なところがあって、とても綺麗だ。何か間違いがあるかもしれないだろう? 今まで無事だったからと言って、これからも無事とは限らない」
「はい、おっしゃるとおりです。次からは気をつけます。ノエイさんにお会いになられたらでよろしいので伝言をお願いできますか?」
一成の言葉に彼方は厳しい顔をした。
「あ、ああ、なんだ?」
「今後、楽屋への出入りは控えて貰うようお願いしますと。こちらとしては強制的排除は出来ればしたくないのですが……そうしたことも視野にいれていると考えていただいても結構です」
 話が飛躍した。いきなりノエイを排除をしようとしているのだ。ノエイは10年、彼女の援助を行ってきた人間だ。その人間が起こしたたった一回の悪戯で、完全に排除してしまおうとしているのだ。
「い、いや、それは……そんな重要な話なら、直接本人に謝らせればいいのではないか?」
「すみません、ですが、ノエイさんとまともに会話出来るとは思えないので……はっきり言って今嫌悪しか浮かびません。罵詈雑言を言いそうな気がするので、直接何か話すには時間が必要になります」
 どれだけ嫌うんだ……。
 文句なら言っても構わないが、ノエイは完全に彼女の傍に近寄る権利すら失ったようだ。
「ノエイさんは知っているんです。彼女が如何に危険な目にあってきたか。それを知った上で悪巧みの手助けするような人間だと見抜けなかった私も問題なのですが……」
 彼方はそう言って落ち込んでいる。10年信頼してきた相手にだまし討ちにあったようなものなのだろう。今回は一成が知っているのが条件での承諾だったはずだ。
「その一体、彼女はどんな危険にあってきたんだい?」
 そこまで警戒するほどの危険も分からないし、柚梨のことは何も知らない一成が尋ねると、彼方は幾つか話してくれた。
「ヨーロッパのある貴族の方に監禁されたりしたことが数度。この方には段々慣れてきたので、対応は簡単なのですが。アラブの王族の方にもハーレムに入れられかけたり……これもその国を訪れるにあたって対策を練っていたので、回避は出来ましたが。とにかく食事などに誘う方は、みな似たように家に連れ込もうと画策したりしてきて、非常に迷惑ですね」
 ちょっとどころか、規模が大きすぎて信じていいやらなんやらだ。
 そこまでされていたことはノエイも知っているのだというと、彼のした悪戯は彼女らにしてみれば、その人たちとなんら変わらないものだろう。食事をした後に家に連れ込む打算の人間が溢れんばかりだというなら、一成のディナーの誘いを断る理由も納得できるものだ。
 ただ一成を信じたのは、彼が公の場でデートを申し込み、更にその彼の身元や素性を保証する相手がいたから信じるに値すると判断した。
「それほど危険なら、家に大人しく閉じこめておくしか方法はなさそうだな……」
 どこへ行っても危険が伴うなら、いっそのこと家で大人しくしている方が安全だろう。
「そうして、柚梨の世界を小さくしてしまうのは……何か違うことだと思うんです」
 一成の言葉に彼方は少し悲しい顔をしている。
 冗談みたいに言った言葉に反応する。その様子があまりに気になって一成は聞いていた。
「何故それじゃいけない?」
「そうすることは確かに柚梨の為だとは思いますが、それって私が安堵するだけの自己満足にしか過ぎないんでは? そう思うんです。柚梨の世界は無限に広がっているのに、私がその世界の全てになるのは、柚梨の為にはならないし、私が居なくなったとしたら、柚梨はどうやって生きていけばいいんでしょうか?」
 そう言われて、一成は黙る。
「例えば、彼女を屋敷に閉じこめて、ここを出ることなく暮らせと私が言ったとします。最初は柚梨も文句を言ったりしますが、そのうち彼女はその狭い世界に自分を合わせるようになるんです。まるで外の世界なんてないように……外の世界なんて知らなくていいと言わんばかりにその狭い世界に完全に適応してしまうんです。柚梨はその為だったら、持っているもの全て捨ててもいいと考える人間なんです。貴方には柚梨は無邪気で可愛く見ていると思います。でもあの内側の激しさはご存じない」
 彼方は一拍おいて、告げた。
「柚梨という人間は、私といることを選ぶ為なら、実の子であろうが利用してしまう、そんな人間なんです」
 そういう彼方は少しだけ困ったような顔をしていた。
 彼方が柚梨をそういう風に見ているのは残念だった。
 だが、彼は続けて言う。
「柚梨の世界は私で完結しています。実の子を愛していないわけじゃないんですが、私を父親の束縛から反らす為なら、実の子を間に置くようなことまでやってのける……やってのけてしまった。私の存在が柚梨の世界を閉じてしまっていたことに気付いた時は、もう取り返しのつかないところまで来ていました。そうした柚梨の世界を広げるには、こうして世界を回るしかない。世界は私だけではないのだと教える為に私は多少危険があったとしても、子供の傍に柚梨を置いておくよりは安全だと思ってます」
 彼方の言葉の端々から、過去の後悔が見えた。
 彼方は柚梨を愛している。しかし、自分の子も愛している。
 全部を取ろうとすると、何処かが破綻する。修正しようとしてもまた何処かが破綻してしまう。
 そうして彼方が考えた最終手段が、柚梨の世界を広げることだった。閉じた世界にいると悪循環をするだけで、柚梨にも子供にもよくない。
 今の一成なら理解出来る。柚梨の血族は近づき過ぎれば過ぎるだけ、お互いを傷つけるような関係になってしまうのだという。親が子を愛していても、距離を取らなければいけないほどなのだ。
 柚梨自身も親と一緒に過ごした記憶はほとんどないのだという。ほどよい距離を保ちながら、他人との距離を取らなければ待っているのは不幸ばかり。そうして身内を亡くした親戚もいるような環境だった。
 その柚梨が唯一愛したのが、彼方だ。その彼を手放さないように、柚梨は一生涯をかけて彼を思い続ける。彼方の為なら、世界も捨てた。ピアノで世界に認められたというのに、柚梨はそれさえも簡単に捨ててみせた。
 手段を選ばない激しい愛情に答える為に彼方は柚梨に世界を見せる。
 その為に危険なことが起こったとしても、彼方の覚悟はとっくに出来ている。万全の体制で挑めばいい。そうすることで、柚梨の生きやすい世界を作ってやれる。
「柚梨が我が儘を言うようになったのは、世界に出てからなんです。いい傾向なんですよ。それまでの柚梨が私の思うがままだったと思うと……観光したいなんて我が儘、可愛いモノです」
 彼方は未だに柚梨の激しい愛情に振り回されているのだろう。
 我が儘だってきっと、柚梨が彼方の気を惹きたいが為にやっている可能性がある。その我が儘をどこまで彼が許し、そして彼の怒りに触れるのか。それを試しているような気がする。
 彼方と柚梨はそうやってお互いを思うが故に、お互いを試して行くしかない。愛情だけで世界が作られるなら安い方だ。しかしそれだけでは世界が閉じてしまう。その危険性を彼方はいつも気にしているようだ。
 もはや、結婚しているからとか子供がいるからという話の問題ではない。彼らの間には何者も入ることが出来ない複雑な愛がある。
「……彼方さんは、彼女を愛してますか?」
「ええ、もちろんです。柚梨を愛してます」
 一成の言葉に彼方は笑顔で即答した。
 その答えに一成は満足してしまった。
 なんのことはない、今までの話は全部ただの惚気なのだ。深刻な話のように聞こえるが結局は惚気られただけ。


 こんな出会いがあったのだと一成に聞かされた透耶と鬼柳は二人して天井を見上げていた。
 どうも何処かで聞いたような内容だ。
 それが鬼柳の最初の感想だ。
 例えに出された話などは、鬼柳が透耶を監禁していた時の話を見てきたかのような例えだ。
 確かに透耶は最初こそ文句を言って暴れたり逃げだそうとしたりしていたが、そのうちすっかり諦めてしまった。あれは何か思惑があってのことかと思っていたが、なんのことはない、透耶が鬼柳から与えられた環境に慣れてしまったということなのだ。透耶の生活環境に関する適応能力だけはずば抜けているとは思っていたが、まさか……そこには愛があった?
 基本的に透耶は鬼柳の言うことを聞く。透耶に納得が出来ないことでも、鬼柳が危険と判断したことには文句を言いながらでも従う。その従順性は一体なんだと思っていたら、何のことはない、透耶の世界が鬼柳を中心に回っているという証拠なのだ。
 思わずニヤニヤしたくなってくる。
 透耶の方は、父親の彼方がそんなことを思っていたとは思わず、そうだったのかと当時を思い出していた。
 確かに母親の柚梨の彼方に対する愛情は、はっきり言って一直線で激しかった。
 彼方は祖父の出した条件に初めのうちは適当に答えていたようだが、柚梨の方は本気で彼方を救いたかったようだ。まあ、あれだけのことをしてくる祖父にあの優しい彼方が耐えられるわけもないのは、透耶でも理解できる。あれは透耶だったからまだ耐えられたものだ。
 透耶自身は誰かに道を示して貰うと、その通りの場所を歩いていけるような器用なことが出来た。光琉には絶対に無理なことだろうし、何より透耶には割合どうでもいいことだった。
 だってその時透耶には何もなかった。空っぽで、空虚で、誰かを思いやって、誰かの為にという気持ちが一切なかった。
 透耶はその空っぽなことが苦しくて仕方なかったのだ。生きて息をするのも辛いくらいに。苦しいことは自分で選んだことでもあったから誰も恨む気もなかった。
 腕に怪我をした後は、一気に不安定になった。唯一出来たことさえ出来なって不安定なまま透耶は友人の自殺、その後の両親や祖父の死を知った。
 その空虚は光琉やお祖母様がいたことでなんとか広がることはなくなったが、広がったままの穴は埋まることはなく、透耶は高校を卒業したことや作家としてやっていくことの不安で、更に広がりを見せ始めていた。
 もう何処へ行けばいいのか分からなかった。
 だが、鬼柳に出会ったことで世界が一変した。
 そんな空っぽで乾いた透耶の心に愛情という大きなものを注ぎ込んできたのが、鬼柳だ。
 ストレートに伝えてくるそれは、透耶の心の穴をいつの間にか埋めてしまっていて、例の約束さえも吹き飛ばしてしまう威力を持っていた。だが、それに答えてしまった後透耶は彼方を同じ怖さを味わうことになった。
 彼方が心配していた世界が閉じること。彼方がそれを怖がっていた気持ちが分かる。
 今でも基本的に透耶の世界は鬼柳を中心に回っている。それが急になくなったとしたら、きっと生きてはいけない。考えるだけで足下から何もかもが崩れ去っていく恐怖がある。
 透耶でさえこうなのだから、柚梨の場合、たぶん生きていけないだろう。あれほど彼方のみを愛し続けた人が、彼方なしで生きていけるとは思えない。
 その危険性を彼方は感じ、なるべく柚梨に世界は一人を中心に回っているのではないと教えようとしていたのだろう。けれど、努力は空しく柚梨のありったけの愛情で空回りしていたようだ。
 そもそも彼方だって柚梨のことを愛するがあまり、自分だってあった世界を捨てて、柚梨の為に生きていたのだから、はっきり言って意味はあまりなかったような気がする。
 ただ、子供と暮らすことは柚梨には向いてなかったことだけははっきりしている。そこは正しい。
 ご飯は作れないわ、子供を放って自分が真剣に遊ぶわ、さすがお嬢様だったことだけはあり、家のことは何一つまともに出来ないどころか、ピアノの部屋に閉じこめて、ここから動かないでくれと言われるくらいの邪魔をしてくれた。
 光琉があれほど世話焼きで心配性だったのは、この母のせいだ。
 その子供がすることには、母として柚梨が何か口出しをしたことは一切無い。元々放任主義の両親に育てられた柚梨が、親とは子供がすることを黙って見て、おいたが過ぎると怒るものだと信じている風だったし、祖父の言ってくることで柚梨がその通りにしなさいと言ったことは一度もない。
 実際光琉の時だって、透耶はしたいことはないのかと聞かれたくらいだから、当時の透耶は余程空虚が大きかったのだろう。


 だが柚梨が彼方の言うとおり、子供を祖父に差し出すことで彼方の自由を得ていたとしても、透耶はなるほどと納得するくらいだ。
 さすが彼方中心に世界が回っている人のやりそうなことだと。
 性格的に、透耶は母親に似ていて、光琉は父親に似ているのだろう。
 しかし、世界が閉じたまま、あの鬼柳に監禁された屋敷に居た間、透耶はまったく生活に困っていなかったことや、沖縄で財布や手帳、携帯電話を返して貰った時に思った感想を思い出すと、つくづく自分は鬼柳を中心に世界を合わせていたのだなと実感するばかりだ。しかもあの環境になれて現在に至る始末だ。
 ふと隣を見ると、鬼柳がニヤニヤしている。
「な、何?」
 透耶がびっくりして聞くと、鬼柳が言う。
「透耶、あんな状況でも俺の世界に合わせてくれてたんだな?」
「……う」
 自分でもあれは変だし、慣れるにしてもどうかと思っていたが、順応するには、その世界が如何に透耶にとって心地よく過ごしやすかったかという点も重要な問題だ。
「なあ、透耶、認めようぜ」
「あーやーあのー……」
 つまりのところ、初めから鬼柳のことは嫌いではなかったのは認めるにしても、もしかしなくても自分は鬼柳に一目惚れしていた事実を、約束のことがあるから認められなかっただけなのかもしれない事に気付いてしまった。てっきり最初は気になって、そのうち鬼柳のいいところが見えてきて好きになってきたのかと思っていたら、なんのことはない今更ながらあれは一目惚れだったというわけだ。
 一目惚れをして気になって、そして鬼柳の非常識に振り回されながら自分の世界を変えて、鬼柳の温かさや、そこにある優しさを溢れんばかりに浴びながら、どんどん好きになっていただけなのだ。鬼柳恭一を全部欲しいと思い、愛するまでに成長させたのだ。
「照れることはない、俺と出会った時、俺と同時に一目惚れしたんだな?」
「……………………………………たぶん」
 散々迷った後、透耶はたぶんと認めた。
 恥ずかしい、無茶苦茶恥ずかしい。今更ながらに気がつくこともそうだが、あれだけ拒否していながら実は一目惚れという自体も恥ずかしい。
 よく考えれば、透耶は恋愛というものに関してはど素人だ。昔叔母さんに初恋をした自覚はあるが、それも今考えると本当に惚れてたわけでもなかったし、一目惚れというわけでもなかった。そういう一目惚れという感覚自体が透耶にとっては夢の話であり、物語の話のような存在だった。
 それにだ。あれだけの変態行為を許している時点で、透耶がただ鬼柳を口で拒否しながらも、体だけでも許している時点で、油断どころではなく、最初から惚れていて許していたということの方は説明がついてしまう。
「透耶が俺と同じなのが嬉しい」
 真っ赤になって顔を伏せていた透耶に、鬼柳が透耶を覗き込んでニコリとしてそう言った。
 顔を上げてみると、鬼柳がそれはそれは神々しい笑顔を見せている。
 この顔は透耶が好きで好きでたまらない顔だ。普段だって優しいし、いつも透耶を見て微笑んで甘い顔をしてくれるのだが、この顔は鬼柳が透耶のことや透耶の心がはっきりと鬼柳に伝わった時によく見せる笑顔なのだ。その時はもう透耶でも黙ってしまうくらいの優しさと甘さ、そして鬼柳が安堵している顔。
見つめられるだけでノックアウトものなのだ。
 その表情を見ていた一成もフリーズしそうになっていた。
 息子がこんな顔をしたことは一度もなく、誰かを慈しんでいる姿にもお目に掛かったことはない。透耶と一緒にいる時の息子は、普段と変わらずであるが、時折透耶にだけは優しい顔をしていた。それは一人の人間として誰かを愛することを覚えた者なのだなと納得できてはいたが、この顔はあり得ないくらいの笑顔だ。
 息子の昔を知っている者達は、たぶんここでフリーズしてしまうだろうし、絶対に見たものを信じやしないだろう。そんな奇跡の表情が目の前にあって、一成はホッとしてしまった。
 心配することはもうない。グレースとあの人の子は、人を愛することや慈しむことを知っている。もう無茶をしていた頃とは違うのだ。
 だが、ちょっとだけ凶悪なのは変わりない。
 透耶はきっと、この後、何日かいや何週間、何ヶ月、年単位で、きっとこの事実を何度も突きつけられて、息子の罠にかかりまくるに違いない。そして息子はそれを知っていてやっている。
 まったく、柚梨、彼方、君たちの息子はとんでもない相手に捕まったようだよ。
 一成はそう心の中で呟いていた。