switch16

 夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言ったものだ。
 ヘンリーは諺に納得してしまう。
 あれ程の喧嘩をしておきながら、翌日にはもういつもの通りになっているのを、心配して様子を見に来たヘンリーが呆れた程だった。
 さすがに一度激怒して失敗している鬼柳は、二度同じ鉄を踏まない。
「話せば解るし」
 などと、鬼柳が飄々と言って退けたもんだから、ヘンリーはもうこいつらの痴話喧嘩など心配しないと心に誓った。
 
 結局、あの喧嘩の結末は、鬼柳が透耶に色々とやらせる事で、決着がついている。
 つまり、透耶に与えられたのは、ペナルティーな訳だ。
 どうせだからと暇そうな鬼柳を誘って、ヘンリーは出掛けていった。透耶はまだ新作の追い込みだったので、返事だけして見送った。
 夕方に仕事が一段落した透耶は、そろそろ覚悟を決めなきゃと書斎で一人で呟いていた。
「うー、電話は怖いし、引っ越ししたのもバレてるし、なのに携帯に連絡がないのは何故だろう?」
 携帯電話を握り締めて、ある名前を溜息と共に見つめていた。
 ある名前、それは弟の光琉だ。
 ずっと連絡を取ってない。
 2ヶ月以上。
 もうすぐ六月になる。
 さすがにこれはヤバイと思い始めた。
 中々言い訳が見つからず、何と話していいのか悩んだ。
 笑って済ませようにも、笑えない話で。
 何度目かの溜息を吐いた所で、鬼柳が話し掛けてきた。
「なあ、どうしたんだ?」
 その声に驚いて、透耶が顔を上げた。
「あ、恭、帰ってきたんだ。お帰り。いつからいた?」
 いつの間にか、鬼柳が透耶の横にいる。
「ただいま。いつからって、俺が来てから、透耶が13回溜息を吐いた」
 鬼柳は至って真面目に答える。
 俺は数えてねえ……。
 透耶は自分がそれだけ溜息を吐いていたのかと驚いてしまう。
 そこまで考えて透耶は、ふとペナルティーを思い出して、鬼柳のシャツを握って引っ張り自分に近付けると、自分から鬼柳の唇にキスをした。
「おかえりなさい」
 にっこり笑って言い直すと、鬼柳も笑って「ただいま」と言い、透耶の額にキスをした。
 これがペナルティーな訳だ。
 恥ずかしがって、宝田の前ですらキスをするのを嫌がる透耶に、いってらっしゃいとお帰りのキスを透耶からする事。
 鬼柳ならではの考えだ。
 ちなみにペナルティーの期間は、一生である。
 さすがに抜かりはない。
「何? なんか困ってる?」
 ひょいっと携帯を取り上げられた。
 どうせ中身は確認済だろうから、今更見られた所でどうってことない透耶である。
 しかし、そこにあるのは光琉(みつる)の携帯番号である。
「光琉?」
「うん、そろそろ話しとかないと思って」
「そうだなあ」
 鬼柳は言って、抱えていた箱を机に置いた。
 それを見て透耶が不思議そうな顔をする。
「これ、何?」
 指を差して聞くと、鬼柳が下を見る。
「ああ、ヘンリーとパチンコ行ってきた。それ景品で洋梨」
「え? パチンコやるんだ?」
 そういう娯楽に興味はないだろうと思っていたから、透耶は意外な事に驚いていた。
 だが、鬼柳から返ってきた言葉が鬼柳らしい言葉だった。
「いや、初めてやった。暇つぶしにはいいが、マジでやるもんじゃないのは解った」
「初めて行って勝ってるのって凄いんじゃない?」
「んー。ヘンリーが言うには、初心者をハマらせる手段で、わざと台を操作して出るようにする所もあるからって言われたけど?」
「それって犯罪じゃん……」
「そうなの?」
「うん。裏操作は法律違反だよ。摘発対象」
「ふーん、それで光琉は?」
 どうもそっちには興味はないらしい鬼柳が話を元に戻した。
 言われて透耶も鬼柳のパチンコ成果から自分の問題に意識が向いた。
「もうそろそろドラマ撮影が終わってるだろうから、時間を作らないとと思って」
 スケジュールは把握している透耶は、頃合は今だとは分っていた。
「どうする?」
 鬼柳に問われて、透耶は真剣に唸り始める。
「うーん、それで迷ってる。今回の事はちゃんと説明しないといけないから、電話じゃ埒があかないと思ってる。会いたいけど、いきなり会うのは怖いし」
「メールで取り合えず会う段取りすれば?」
 鬼柳は言って、携帯を返す。
「そっか。そうだよね。うん、そうする」
 透耶は受け取って、早速メールを打ち始める。
 その内容を見て鬼柳が言った。
「……何か、破局前の恋人の台詞だな」
 呆れたように呟やかれて、透耶はムッとして睨み上げる。
「あー、うるさいなあ。簡潔でいいだろ」
 透耶が書いたのは「会って話がしたい」である。
 送信すると、5分程で速攻返事が返ってきた。
『明日来い』
 である。
「何処だよ……」
 透耶は思わず溜息が出る。
『何処へ?』
 と送ると『迎えをやる。住所教えろ』となり『途中まで出向く。何処で待ち合わせ?』で『◯◯駅。9時』『早い』『10時』『もう一声』『11時。これ以上は譲れない』『連れがいる』『嘉納さんが行く』
 ここで連絡は終わった。
「簡潔だな」
 思わず鬼柳が呟く。
 あくまでもここの住所は教えず、透耶の有利な展開に持っていく所は流石だ。
「は? いつもこんなのだけど」
 自覚のない透耶。
「そう? 結局、明日な訳?」
「うん。明日11時に◯◯駅で嘉納(かのう)さんが車で待ってるって事だけど」
 車で、というのは話に出てなかったが、迎えに来る嘉納が車の所有者であるのが解る。
「連れって俺?」
「そうだけど、あ、行きたくなかった?」
「ううん、駄目って言ったら行かせなかった」
 鬼柳がそう言い切ると、透耶がクスリと笑った。
「そうだろうと思った」

 翌日、待ち合わせの駅へと向かった。
 駅まで鬼柳の車で行き、駅の近くの駐車場に止めてから、駅前で嘉納の車を探した。
 慣れたように行動する透耶に、鬼柳は言った。
「いつもこうなのか?」
「大体ね。光琉の心配性からくるんだけど、光琉と会う時は、必ず嘉納さんが送り迎えしてくれる。嘉納さんはマネージャーの一人で、ドラマ関係の時に付き添ってる人なんだ。何でかマネージャーが二人居て、音楽関係は別 にいるんだよ」
「ふーん」
 光琉の事には左程興味は示さない鬼柳。
 だが、内心は納得していた。
 道理で鬼柳が扱うやり方に妙に慣れているのかが。
 必要以上に透耶に構う事や、やる事なす事に手を出すとか、妙に最初から慣れているのは、こういう事だったのだ。
「あ、いた。恭、こっち」
 少し前を歩いていた透耶が、車を発見した。
 窓を叩くと、中の男が窓を開けた。
「どうぞ、後ろへ」
 それを聞いて透耶が先に乗り、鬼柳も続いた。
 乗り込むと同時に車が発進した。
「いやー、久しぶりだねえ、透耶君」
 懐かしいというように、嘉納が話し掛けてきた。
「すみません、お騒がせしました」
 嘉納には見えないだろうが、透耶が頭を下げる。嘉納はそんな透耶が分っているのか、笑って言った。
「いやいや、あれは久しぶりにびっくりしたけど。途中から光琉も落ち着いたからねえ。最近は特に何もないよ」
「すみません」
 再度透耶は頭を下げる。
「こっちこそ。そろそろ過剰反応も止めて欲しいけどねえ」
「同感です。今日は何処ですか?」
「フォトなんだけど。ネット用のフォト付き連載を最近始めてね。雑誌とかだとどうしても光琉の企画が通 らなくて。それで、前からやりたかった企画をネットでやろうという訳」
 それだけの説明で、透耶は眉を顰めて聞いた。
「もしかして、あの恋愛小説ですか……?」
「そう、あれ。相変わらず勘がいいね」
 嘉納はクスリと笑ってしまう。
 光琉がする事は、何故か透耶には筒抜けなのだ。こういうところが双子だと再認識してしまう。
「うわー、頭おかしいとしか思えないよー」
 透耶は頭を抱えて唸る。
「あはははは。あれは気に入っているから、どうしてもやりたいんだって聞かないんだよ。私も好きだし、今回参加している人は皆やる気だよ。ネットスポンサーもついたし」
「やめてくれって言ってもやめれませんか?」
 どうしても嫌という態度の透耶だが、半分諦めがある言い方だ。
「無理だよ。透耶君がいない間に企画が通ったからねえ。それに第一回目は今日掲載なんだよ、今更引き返しはきかないよ」
「嫌がらせだ……」
 はあっと溜息を吐いてしまう。
 嘉納は苦笑してしまう。
 とことん透耶に甘い光琉だが、透耶も光琉に甘い。
 こういう事なら、著作権問題が発生するのだが、透耶はそれを盾にしてやめさせようとはしない。
 結局、光琉の為になるならと妥協してしまうのだ。
 もちろん、光琉もそれを解っていて、わざと透耶が手を出せない段階まで、透耶には秘密にしておくのだ。その我侭が通 じるのはこの二人の間だけの事であるが。
「それってもしかして透耶が書いたのか?」
 今まで黙っていた鬼柳が言った。
 存在を無視されているとは思ってはいなかったが、どうも会話に参加する機会を失っていて今まで黙っていただけなのだ。
 透耶はまだ頭を抱えている。
「あう、その通り。高校時代に、同級生に頼まれて書いた恋愛小説。ああーあれは、早くどっかに埋めてしまいたかったのにー。コピー取りやがったなー」
 物凄い形相で光琉を恨んでいるのだが。
「読みたい」
 鬼柳の一言でそれが治まる。
 頭を抱えていた透耶がムクリと起き上がって、何処へしまったっけ?と首を傾げて考え込む。
「あー、原本は家にあるけど」
「読む」
「帰ったら探しておく」
 透耶はそう答えて、真剣に何処へしまったのかを考えていた。
 この会話を聞いていて、嘉納は驚いてしまう。
 最近出来た透耶の知り合いらしいが、その人物に過去の作品、それも闇に葬りたいモノを簡単に、探してまで読ませてやるのは初めてだ。
 光琉だって、こっそりコピー取っておかなければ、読む事すら出来なかったのだから。
「そちらは?」
 嘉納は、光琉から透耶に連れがいるが今は何も聞かないでくれと言われていたので、詮索するのも何だと思ったが、思わず聞いてしまう。
「同居人の鬼柳恭一さんです」
 透耶がそう説明すると、鬼柳がジロリと透耶を睨んだ。
「ふざけた事言ってると、このまま犯すぞ」
 凄んだ声で鬼柳が言った。
 その声に嘉納は関係ないのに震え上がってしまう。
「あのね、そういう事は広めるもんじゃないの」
 それでも透耶は平然として言い返している。
「あ? どうせバレんだろ? だったら先に言っといた方が面倒臭くなくていいだろうが」
 鬼柳は不機嫌そうに言って、透耶の腕を握り押さえ付けてから首筋に顔を埋める。
「ちょっと!何やってんだ!」
「有言実行の男だからな」
 言ってペロリと首筋を舐める。
「あ、阿呆か! そんなもん実行しなくていい!」
 空いた手で鬼柳の背中を叩くが、もちろん適う訳がない。
 そこで赤信号で車が止まって、嘉納が振り返ると、鬼柳が透耶の首筋と丁度肩との境目に噛み付いている所だった。
「……っ!」
 噛み付かれた透耶は、一生懸命声を上げまいと堪えている。
 それが終わると、鬼柳は噛み付いた所を舐めて、透耶の顔を覗き込んで唇に軽いキスをした。
 それから、見ている嘉納に気が付いていて、視線だけ向けてニヤリと笑った。
 これで解っただろう? という顔だ。
「信号、青だぞ」
 鬼柳の言葉で、嘉納は我に返り前を向いて慌てて車を発進させた。
 透耶が完全に沈黙した所を見ると、まだキスが続いているようだ。
 嘉納は思った。
 こんな所に悪魔がいる。
 せめてと思い、小さくかけていた音楽を大きくする事しか出来なかった。


 撮影所に着いた頃には、透耶は完全に脱力していた。反面、鬼柳は上機嫌である。
 さすがに人前であるから、キスだけで済ませたのだが、ここへ着くまでずっとでは、透耶はうんざりだ。
 阿呆だ阿呆だと思ってたけど、本物の阿呆だとは……。
 脱力した透耶を気遣うように嘉納が言った。
「ちょうど、撮影入ったばかりですから、ゆっくり……とはいかないんでしょうけど」
 嘉納がそう言うと、透耶が苦笑する。
「一段落するまで外で待ってましょうか?」
 さすがに中断させる訳にはいかないからと言うが、嘉納は頭を掻いて言った。
「いや、その、もう時間を逆算させて待ってるから、連れていかないと逆にキレるんで……」
「困った奴だ……」
 透耶はガクリとしてしまう。
 そこまで待たせているのだから、透耶が時間通りに来なかったら、今度こそ光琉を完全に怒らせてしまう。
 さすがに今の状況上、それは出来ない。
 透耶は諦めて、嘉納の後を追った。
 撮影所に入って、嘉納は不思議な事に気が付いた。
 途中で、色んな人と顔を合わせたが、誰も透耶と光琉を間違う人はいなかったからだ。
 それ違う人はやっぱり透耶と鬼柳を見て行くが、それが光琉に似ているからでなく、本人達の顔の良さやモデル並の姿に見愡れている感じなのである。
「あれ? やっぱり解るんだ」
 嘉納が呟いた。
「何がです?」
 透耶が不思議そうに聞き返した。
「あの、こう言ったら何だけど。透耶君、光琉と全然違うって事。なんか、こう、色っぽくなってて光琉に似てないよ」
 嘉納は少し申し訳ないような顔で、その意味を説明した。
 透耶は意味が解らず不思議な顔をしたが、鬼柳は断言して言った。
「色っぽいのは解るが、最初から似てないぞ」
 そう言われて嘉納は苦笑するしかなかった。
「最初からずっとそう言ってるよね」
 透耶は慣れてたから、笑ってしまう。
 もうこれは疑う余地無しな出来事だった。
 透耶と光琉の小さい時の写真を見ても鬼柳は一度も間違わなかったのだから。
 

 撮影室に入ると、ちょうど光琉が本番で写真を取られている所だった。
 ピーシュルルとカメラのシャッターが切れて巻き上げる音が聞こえる。カメラマンが色々注文を出して、光琉がポーズを取っている。
「こちらへどうぞ」
 嘉納に進められて、透耶と鬼柳は部屋の隅に用意されている椅子に座った。
 透耶は2ヶ月ぶりに見る光琉に見愡れていた。
 自分と似た兄弟なのに、今は殆ど似てない双子。
 顔形が似ていても、根本的に体つきが違うようになってしまっている。光琉は舞台やらの為に身体は鍛えられて、筋肉がついている。また少し逞しくなっている気がする。
 透耶は反対に、完全に家に引き蘢る感じになり、さらに痩せてしまったので、体つきはもう完全に違う。
 今までの中性的なイメージを高校卒業と共に捨てて、男らしさをアピールする作戦に出たのか、服装も髪型も変わっている。これなら、もう透耶と間違える事はないだろう。
 隣にいる鬼柳を見ると、珍しく真剣に撮影風景を見ている。
 興味があるのかな?
 ふと透耶が思った時、光琉の撮影が一段落した。
「じゃ、モデル待ちです」
 光琉と一緒に写真を撮るモデルが遅れているらしく、現場は一時休憩になった。
 ざわざわしている中で、仕事モードが中断した光琉が、目敏く透耶を見付けた。
「透耶!!」
 部屋中に響く大きな声で光琉が叫んで走り寄ってくる。
 満面の笑みを浮かべている。
 鬼柳は感動の再会か?と思ったのだが。
 光琉は透耶の前に来ると、急に険しい表情になって、透耶の胸ぐらを掴んで言った。
「てめー! ふざけた真似してんじゃねーよ!」
 そう怒鳴ったのである。
「あ、やっぱり?」
 透耶は至って平気である。
「あれは門外不出だって決めたじゃねーか!! ええ!?」
 猛烈に怒っている内容が違う。
 透耶もそれの方を怒られると思っていたらしい。
「いや、あれはちょっとね……」
「ちょっとだあ? ちょっとであれが出るってぇーのはどういう訳だ! たっぷり説明して貰おうじゃねぇーか?」
 光琉の豹変振りに驚いていた鬼柳だが、さすがに話にはならないだろうと止めに入った。
「おい、それくらいにしとけ」
 透耶を掴んでいる光琉の腕を捻り上げた。
「いてえ!」
 思いっきり力を入れて掴んだので、細い光琉の腕はそれだけで悲鳴を上げる。
 いきなりだったので、透耶は驚いたのだが、我に返って止めた。
「恭、駄目! 腕、離して!」
 腕にしがみついて離すように言った。
「ちょ! 何だよ!! 離せって!」
「恭! いいから離して!」
 光琉と透耶が同時に叫ぶと、鬼柳は渋々手を離した。
 腕を解放された光琉は腕を摩りながら座り込んだ。
「光琉、大丈夫?」
 透耶も座り込んで光琉の顔を覗き込む。
「何だよ、こいつ」
 光琉は言って鬼柳を見上げた。
 全然悪怯れてない鬼柳は、不機嫌な顔をしている。
「うん、ごめん。連れなんだ」
「こいつが連れ? 随分ガラが悪いの連れてるな」
「そうでもないけど……ちょっと過剰なんだ」
「あ? 何? 守ってるわけ?」
「独占してるんだ」
「透耶をか?」
「うん。俺もしてるけどね」
「詳しく聞くぞ」
「それを話そうと思ってきたんだ。いなかった間のと関係してるから」
「解った」
 光琉はそれで納得して立ち上がった。
「嘉納さーん、先に飯食っていいですか?」
 光琉は言って、駆け寄っていく。
 さっきの出来事など全く気にしてない光琉に、周りもホッとしたように作業に入っている。
 透耶は鬼柳を振り返って言った。
「光琉が何を言っても手を出したら駄目だよ。わざとやってるんだから」
 そう言う透耶が怒ってないのを鬼柳は確認してホッとした。
 しかし、その言葉に首を傾げる。
「あれがわざとなのか?」
「うん、本気だったら俺が殴られてる」
 殴られてるという言葉に、鬼柳の手が透耶の頬に触れる。
「殴られた事があるのか?」
 鬼柳がすごく心配した顔をするので、透耶は笑ってしまう。
「昔だけどね。光琉が本気なのかどうなのかは、それくらい見たら解るから」
「……解った」
 鬼柳は頷いて、透耶の頬を撫でる。
 怒っていた割には、妙に心配そうな顔をしている鬼柳に、透耶は何を考えているんだろう?と首を傾げる。
 確か、鬼柳は一度も手を上げた事はなかったなあ、と不意にそんな事を思い出してしまった。
 どんなに怒っていても、殴るような暴力に訴える事はない。そういう優しさを向けられている事に、透耶は嬉しくなってしまう。
「透耶、楽屋で話そう」
 後ろから光琉が声をかける。
 透耶は一瞬にして、現実問題に直面する。
「うん。恭、行こう」
 透耶は、頬を撫でている鬼柳の手を取って握って歩いた。
 その手が微かに震えているのを鬼柳は見逃さなかった。

 光琉(みつる)の楽屋に入って、限られた時間の中。
 どう考えても、鬼柳が不利な展開でしかない話なのだが、透耶は誤摩化して話していた。
 デビューで悩んで、ボケて海に直進した所を助けられ、そのまま世話になっていた。沖縄に行ったのは、透耶が行きたかったからで、鬼柳の事が気になって離れられなかったという話になったのだが、当然光琉が鵜呑みにするはずもない。
「それを信じろって? 透耶、無茶だ」
 透耶が話終わると、光琉はそう言った。
 鬼柳も思わず光琉の言葉に賛同してしまう。
「ボケて海に直進して助けられたという所までは信じよう。だけどな、そこからいきなり一緒にいるってのはおかしいだろう? 透耶、自分の性格考えた事あるか? 絶対、透耶はそんな事をしないんだよ。正直に話せ」
 光琉の凄みに透耶はうなだれてしまう。
 嘘を付いてない部分だけしか、光琉は信じてない。さすがとしか言い様がない。
 光琉は、話にくそうな透耶を見て、これは透耶が望んだ展開でないのは読み取れた。
 透耶が庇う程の何かが、この鬼柳との間にあったから、透耶は素直に話せないのだと。
「解った。透耶、出てろ。俺、この鬼柳さんに話がある」
 光琉がそう言うと、透耶が弾かれたように顔を上げた。
「恭は関係ない」
 透耶がそう言うや、光琉は透耶を睨み付けて言い切った。
「関係ないじゃないだろ。さっさと出てけよ」
 こうなると光琉は絶対に譲らない。
 それでも透耶が出て行かないので、見兼ねた鬼柳が言った。
「透耶、俺が話すから、出てていいよ」
 そう言われて、透耶は鬼柳を見る。鬼柳はニコリと笑って透耶の頭を撫でる。
「でも……」
 透耶は不安そうに鬼柳の服の袖を掴んでいる。
「大丈夫だから」
 鬼柳が安心させる様に言うと、透耶は渋々部屋を出ていった。光琉が嘉納を呼んで、透耶を見ているように頼んだ。
 透耶がいなくなると、とたんに態度が悪くなる二人。
 鬼柳は断わりもなく煙草を吸い始めるし、光琉もだらだらした姿で水を飲み始める。
 双方無言だったのだが、最初に切り出したのは光琉だった。
「随分と甘やかしてるな。いつもそうなのか?」
 光琉がそう言った。
 鬼柳は視線を天井に向けて、煙を吐き出す。
「どうも俺は透耶には弱いらしい。そういうお前もそうだろう」
 そう言う鬼柳の口元が笑っている。
 それが今まで見た、まるで今さっき2~3人人を殺してきたような容貌の男とは思えない、穏やかな微笑みだった。
「ま、俺も甘いとは思うけどね。でも、あんたみたいなタイプは、その場限りってのが普通 だろう。それはいいとして、で、海までは信じるが、その後、どうなった。透耶が言えないって事はあんたにとって不利な事だからだろ」
 透耶が隠しているのは、この後の出来事であるのは解っていたから、光琉はストレートに聞いた。
 鬼柳は躊躇もせずに真実を話した。
「無理矢理抱いて、監禁した」
 その衝撃の一言に、光琉の動作が止まる。
 この男が、透耶を無理矢理抱いた。しかも監禁していた。
 それなら、透耶が連絡してこなかった意味が解る。しなかったのでなく出来なかったのだ。
「……強姦したのか」
 光琉が声を押し殺して聞き返した。
 よく殴りかからなかったものだと、光琉は自分で驚いた。
 そんな事をした奴は誰だろうと許さないはずだった。それなのに、鬼柳の軽い口調の裏に、何か別 の心があるのを感じられたからだ。
「ああ、逃がすもんかと思った。言っとくが、そういうのは初めてだ。形振り構ってらんなかったんでね」
 これほどの男が、誰でも寄ってくるし、周りが放っておかないだろうの美貌を持つ男が、透耶の時だけ、自らを押さえ切れなかったというのだ。
「たくっ、なんて事してくれたんだ……合意ならまだしも、助けた恩使ってやりやがったんだな」
 光琉はそう言ったが、鬼柳は助けた恩を使って透耶を脅したりした事はなかった。それでもそれを弁解しようとは思わなかった。
 その方が透耶に落ち度がないと言えるからだ。
 あくまで、鬼柳一人が悪人で話が収まるだろうとの判断からだった。
「そうだな。それしか透耶を手に入れる方法なんて思い付かなかったんだ」
 これは本当だった。手段など選んでいられない位に自分を制御出来なかったからだ。
「……あいつはノンケなんだぞ。それをあんたの欲望だけでいいようにしたってのか?」
「そうだ。それについては弁解もない」
 本当に弁解をするつもりのない鬼柳の態度に、光琉は頭を抱えた。
 犯罪になる強姦や監禁をあっさり認め、それについての批難は甘んじて受ける覚悟があるという態度には、正直、こいつはおかしいんじゃないかと思えてくる。
 なんだって、透耶はこれがいいんだ? 何故納得してるんだ? こいつ凶悪ストーカーの素質あるんじゃねえか。
 本気になった事がない奴が本気になると怖いと聞くが、そのいい例が目の前に居る訳だ。
「あーもー、だったら、何で透耶はそんなの庇うんだ!」
 光琉は真剣に悩んだ。
 透耶が最初に話した内容では、透耶が気になって一緒についていった事になっている。
 あながち気持ち的には嘘ではないだろうが、何がそうさせるのかは光琉には理解出来ない。
 そんな光琉に鬼柳は当然だと言い放った。
「そんなの決まってる。透耶が俺を好きだからだ」
 決定的な最終解答を言われて、光琉は鬼柳を睨み付けた。
「さらっと嫌な事口にするなよ……」
「事実だからな。俺がいくら脅したって、身体が思い通りになったって、透耶の心の中までは手に入れられない。透耶が受け入れてくれなければ、意味がない。そういう事だろ」 
 強姦した割には、妙に常識的な言葉を吐く鬼柳。
 思わず、光琉は頷いてしまった。
 ああ、そうか、こいつは透耶の身体が目当てではなく、全部が欲しかったんだ。
 焦った挙げ句、やり方を間違えただけで、最初から透耶が欲しかったんだ。それは透耶にも伝わっていただろう。答えなきゃいけない、何かで結論を出さなければいけない。そう悩んで、逃げ出す事を諦めたんだろう。
 真面目過ぎる兄なら、それはあり得ると光琉は思った。
 それが行方不明の間、警察にすら駆け込まなかった理由。
 本当に嫌だったとしたら、とっくに結論を出して逃げ出してたはず。少しでも気になっていたからこそ、本気で逃げなかったのだ。
 だが、透耶が呪いを自覚している以上、答えは決まっていたはずだ。
 じゃあ、どうやって落としたんだ?
 光琉はそれが気になっていった。
「しっかし、あんたそれだけでよく透耶を攻略したな。あれは難攻不落だぜ」
 いきなり、光琉の口調と調子が変わったので、鬼柳は少し驚いた。
 ちゃんと自分の言いたかった言葉が伝わったのだろうか?
 不安だったが、光琉の質問に答えた。
「ん、まあ、ストレートに攻めた割にはなかなか落ちなかったけどな」
 5分でノンケを落とす男が、実に2ヶ月もかかってしまったのだから。
「それで、沖縄くんだりまで拉致したのか」
 呆れ顔の光琉は、最初に出会った頃の透耶の反応によく似ていた。鬼柳は苦笑してしまう。
「いや、それはただの偶然だ。別の場所にいたんだが、透耶が強盗に誘拐されてな」
「誘拐? 何だそれ。もしかして4月上旬頃の事か?」
 キョトンとしている光琉の様子で、本当にこの事件が表沙汰にならなかったのだと確証を得た。だが、さすがというべきであろうか、光琉は時期を言い当てていた。
 鬼柳はそれに頷いて話を続けた。
「別荘の持ち主の息子だと勘違いされての事だったが、身代金誘拐。ああ、内々で処理したから、お前の耳には入らなかっただろう。やっぱり、話すだけでも煮えくり返るな。アイツは殺しとくんだった」
 最後は完全に怒った地を這うような低い声で、光琉は思わず固まってしまう。
 こりゃ、本当に透耶に危害を加えようとしたら、死ぬ覚悟でやらなきゃいけないだろうなあ……。
 そこで何があったのか。
 それは光琉も怖くて聞けなかった。
 だが、大体の予想はついていた。
 双子ならではの繋がりとでも言うのだろうか、透耶が誘拐されたであろう頃、光琉は体調を崩してしまっていた。
 これが、自分のものではない事は、自分がよく知っている。
 しかし、それ以外の時は、まったく何も感じなかったのだ。
 だから、鬼柳がどれだけ透耶を大事に扱っていたのかは解る。
「怖い事いうなあ。で?」
「その別荘が使えなくなって、沖縄の別荘を代わりに借りたんだ。まあ、透耶が納得するとは思わなかったから、眠らせて連れていったけどな」
 そう薬を仕込んだ。薬がすぐに効いたのには驚いたが、その後びっくりするくらい透耶は眠っていた。
 鬼柳がそう言うと光琉は信じれないと言う顔をした。
「あんた、チャレンジャーだな……。つくづく思うよ」
 光琉は完全に呆れていた。
 こいつ、すげー……。が感想だ。
「はあ? 何が?」
 光琉の呆れ様が、ただ沖縄まで拉致した事ではないと感じて聞き返していた。
「透耶は、薬嫌いなんだ。アレルギーはないんだけど、通常量でも効き過ぎるんだよ。風邪薬でもびっくりする位 寝るし、簡単に意識が飛ぶ事もあるんだ。あ、もし薬飲ませる時は、成人じゃなくて、お子様の分量 でやらなきゃ駄目だよ。こっそり薬を飲ませて、あんたよく許してもらったよなぁ」
 光琉が説明すると、鬼柳は納得してしまった。
 道理で、透耶が眠剤ごときで、2日も眠っていたのか、それにドラッグで過剰に症状が出たのか。耐性が少しはあるにせよ、あのメイドの事件でもそうだ。ヘンリーも透耶は薬が効き過ぎる体質かもしれないと言っていた。
 それを口に出さなかったのがどういう意味なのかは解らなかったが、透耶は自分でも薬が効き過ぎる体質であるのは理解しているようだった。
 でも、薬を使った事に関しては、それほど怒られはしかなったよな……それどころか、眠らせて知らない場所に居た事を怒ってたよな。
 と鬼柳は考えてしまった。
「それに透耶は人に触られるのが嫌いだ。俺だって抱きついたりとか出来ない。それくらい、あいつは人が自分に触れる事を嫌ってる。酷い時には気を失うくらいに拒絶する」
 それを聞いて、鬼柳は首を傾げた。
 どういう事だ?
「? 何で? 俺、最初から結構触ってたけど、嫌がられはしなかったぞ」
「あー、何でだろう? それが不思議だ」
 双方とも解らない。
 確かにベッドで隣に寝ている時は怯えていたが、それは性行為を恐れてただけで、触れる事自体は嫌がってはいなかった。
 やたらと抱き締めたり、くっついて触ったりもしたのだが、透耶に鳥肌を立てられたりしなかった。
 最初は抵抗するが、最後には諦めてくれていた。
 それは初めから嫌われていなかった証拠ではないだろうか?そう思うと、鬼柳は思わず顔がにやけてしまう。だが、薬と触られるのが嫌い、この符合点は何かを意味しているのは確かだ。
 光琉も鬼柳の言葉を聞いて、不思議に思い考えていた。
 ……もしかして、最初からこいつの事、嫌いじゃなかったとか? 透耶にとって、男と関係を持った事なんてどうでもよかったのかも……。それが触られる事すら、薬をもられた事すら許せるくらいに思っていた事にならないか?
 光琉はそう考えて、あの兄には珍しい反応であるのを更に不思議に思った。
 同時に、鬼柳でなくては駄目な事も不思議でならなかった。
 こいつに一体何があるってんだ?
 どう考えたってただの犯罪者じゃないか?
 透耶ー! 一体何があったんだー!?
 光琉は一人で頭を抱えて唸ってしまった。
「なあ、透耶が薬嫌いで触られるのが嫌いなのは、何か原因があるのか?」
 鬼柳が鋭い所を突いてきた。
 光琉は、少し目を見開いて鬼柳を見て、それから溜息を吐いた。
 喋らないと殺される、そして、これだけは透耶に深く関わる男には話して置かなければならないと思って話をする事にした。
「うん、まあ、あれは俺が原因なんだけど。俺、こういう仕事してるだろ? だから周りに人がいっぱいいるわけよ。で、色んな奴がいるだろ。その中にショタが趣味なのがいてよ、やたらと俺にまとわりついてたんだ」
「そいつが何かしたのか」
 底冷えするような声で鬼柳が言った。
 こえーよ!マジで!
 まだ、事件の事話してないのによー。
 こいつ、本当に透耶の事好きなんだな……。
 透耶の事に異常に反応する鬼柳の姿を見て、自分以上に過剰反応する男が妙に頼もしい存在と思えてしまうのは、鬼柳があまりにストレートで、嘘を付かないという所にあるのかもしれない。
 光琉は、まあまあと鬼柳を宥めてから話を進めた。
「俺に怒らないでくれ……。その日、透耶は熱を出してたんだ。風邪薬飲んで寝てた、そこへショタ野郎が、家まで押し掛けてきた。ちょうど柚梨(ゆり)さん、母さんね、買い物に出てた隙に家に入ってきたらしい。前の日に、俺がそいつにショタが趣味なんだろう、変態って言って罵ったから、そいつ、仕事干されたんだよ。その仕返しに、俺をどうにかしてやれって思ったらしい。で、そいつ、寝てる透耶と俺を間違えて、透耶に手を出した。もちろん、未遂だよ。ちょうど、透耶の服を脱がせて身体を触っている所で、彼方(かなた)さんが帰ってきて、取り押さえたんだ」
 今思い出しても鳥肌と怒りがある内容だ。
 小さな子供を40を過ぎた男が犯そうとしているのだから。
「………殺す」
 鬼柳がうなり声を上げて言った。
 光琉も頷いてしまう。
 二人の怒る所は同じなのだ。
「うん、俺も思った。けど、そいつ、社会的に抹殺されたも同然だからね。ただ、透耶はその時の事を覚えてない。なのに、身体が覚えているんだ。両親が抱き締めると狂ったように暴れるし、俺でも同じ。最後には奇声を上げて気絶する始末。もうお手上げさ。薬だって吐き出すし、粉末を水とかジュースに溶かして、騙して飲ませるしかないんだ。たぶん、薬を飲んだ後にそういう事があったのを無意識にでも覚えてるからだと思う。抱き締めるのも同じ理由だろうって」
 光琉の話を聞いて、鬼柳は少し考えた。
 確か、光琉が透耶のアルバムの中で映らなくなっていったのは、小学校高学年からで、中学校は映ってなかった。
 つまり、光琉は光琉なりにこの事件の事を考えてたのだろう。
「だから、透耶の側から離れたのか?」
 鬼柳がそう言うと、光琉はニコリと笑った。
 その笑い方は、透耶の話が鬼柳に通じた時に出る笑顔と同じだった。
 鬼柳は、透耶と光琉を見間違えないとは言い切ったが、こういう些細な仕種や表情がこれほど似ているのには少し驚いていた。
「あ、解る? 理由はそれ。俺が目立つと透耶も同じように目立つ。だけど仕事を辞めたら透耶が怪しむし、お祖父様の期待を押し付けたのに、今更辞めますなんて言えないよ。だから、側にいない方がいいと思ったんだ」
 光琉は少し寂しそうに言った。
 その表情は、透耶がピアノを辞めた事件の事を話す前の、寂しそうな表情とよく似ていた。
「……それで、透耶は触れるのには慣れなかったのか?」
「ううん、そうでもないよ。あれだけ拒絶してたのにさ、斗織とか葵さんとかなら触れるんだ。ひでーと思わないか?」
「その基準は何なんだ?」
 斗織、葵、その名前は玲泉門院関係でよく出てくる名前だ。
 どういう共通点があるんだろう?
「さあ? 未だに解らない。あんたと斗織と葵さんに共通点は見えないしな。で、それから自分からなら人に触れるようにはなったけど、こっちからのスキンシップは出来ない。特に透耶と同じ歳以上の人だと駄 目だな。子供とかなら向こうから抱きついたりしてきても大丈夫みたいだけど」
 光琉は言って水を飲んだ。
 鬼柳は、何本目かの煙草に火を付けた。
「ああ、だから今日、あんなことになったのか」
 道理で、感動の再会にはならなかった訳だ。
 鬼柳は納得してしまう。
 透耶の話では、光琉の異常なまでのブラコンぶりが発揮されているように見えるが、実際はそうではない。透耶が知らない原因があるからこそ、光琉は細心の注意を払って、透耶を気遣っているのだ。
 光琉は笑って、両手を広げて掌を見つめながら呟いた。
「解った? 本当は抱き締めたかったんだけど」
 それは出来ないから、と寂しそうに言う光琉に鬼柳は言った。
「やってみればいい」
 鬼柳が唐突にそう言ったので、光琉は驚いた顔になり鬼柳を見た。
「え?」
「抱き締めてやったらいい。透耶はもう大丈夫だ。人に触られても暴れたりしない」
 鬼柳がハッキリと言った。
「本当か?」
 光琉は信じられない事を言われた気がした。
 今まで10年も叶わなかった事が、いきなり叶ってしまうのだ。何度も確認してしまう。
「ああ、結構人に触られてたが、暴れた様子はなかったぞ」
 最初の一週間は鬼柳しか触れなかった。誘拐されて帰ってきてから色んな他人と関わった。それでも透耶はそんな素振りはしなかった。一度として。
 それは、透耶が鬼柳に触れられる事で、他人に触れられる事はそれほど嫌な事ではないと、誰かを抱き締めるのは、その人が好きな証拠だと理解したからとは、誰も気が付いてなかった。
「……嘘。いや、本当なら、あんたに感謝しなきゃならないな」
 光琉はまだ信じられない顔をしていたが、それが本当なら、この憎いはずの男に感謝しなければならない。
 唯一、透耶が自分に触れる事を許した他人に。
 光琉はそこまで考えて、透耶がどれほど鬼柳を信頼しているのか試したくなった。
「そうだ。透耶はアレを話した?」
「ああ、呪いか」
 鬼柳は何でもない事のように即答で言い返す。
 アレと言って、呪いという言葉が出てくるということは、透耶がきちんと話をし、鬼柳がそれを受け入れて、それでも透耶と一緒にいる事を選んだ事になる。
 やっぱりこいつ何でも知ってる。
 光琉は更に質問を続けた。
「話してるんだ。なーんだ。それじゃ手首の怪我の事もピアノの事も全部か」
「変な歌もな」
 ニヤリとして言われたので、光琉は苦笑してしまう。
「やっぱり、あいつ歌いやがったんだ。たくっ、それじゃ俺が何言っても駄 目じゃんか」
 反対する理由がない。
 全部知っても受け入れて、更にまだ守ろうとしている。
 そういう奴、他にいやしない。
 出来れば、透耶全てを受け入れてくれる人が現れないだろうかと、光琉は思っていた。それが今目の前にいて、それは透耶が選んだ人なのである。
 それを認めないといって反対する権利は光琉にはない。
「じゃあさぁ」
「ん?」
「あいつさ、家の事とかも話すだろう?」
「まあ、聞けば話してくれるけど。大体は透耶から話して聞かせてくれる。状況に寄りけりだから、俺もまだ知らない話はあるだろうな」
「あんた聞き上手なんだ。話したくなる雰囲気を作るのが上手いんだ」
 光琉がそう誉めると、鬼柳はスッと視線を逸らした。
 その行動に光琉は首を傾げた。
 この男にしては、珍しい反応だ。自信満々で、犯罪な事までやってのけても平然と話す奴が、こうして黙り込む。
 光琉がジッと見ていると、鬼柳は溜息を吐いて呟いた。
「そうでもない。一度失敗したからな」
 それを思い出したから、鬼柳の表情が暗くなる。
 光琉はその様子で、鬼柳が何をやったのかすぐに理解した。
「ん? 何だ? もしかして、あんたもハマったんじゃ……」
「ハマる?」
「うーん、それは俺の言い方なんだけどさ。相手に溺れるって事で、それしか見えなくなるんだけど、ある日、ピンってどっか切れるんだ。感情でも何でもいいんだけど、人間としての一部がイカれる、タガは外れると言った方がいいのかな? だから、あんたの場合は、透耶しか見えなくなって、こいつがモノにならなきゃこの手で殺してしまおうと思ってしまう事を、俺はハマるって言っている」
 光琉の説明は、まさにそれだった。
 鬼柳の症状と同じだ。
「……なるほど。解る。俺もそう思った。そういう事はよくあるのか?」
 鬼柳がそう聞くと、光琉は即答した。
「よくある。とはいっても、これは玲泉門院(れいせんもんいん)関係なんだけどな。この家系で多いのは事故死だけど、殺される事も多いのは知ってる?」
「3代前までなら聞いた」
「うん、それくらいまでなら、事故死だな。その前までは、結構恋愛沙汰で殺される事も多かったんだ。時代が時代だから、異様な執着を持つ奴が多かったんだろうけど、独占したくなるんだ。こいつを誰にも渡さない、他に取られるくらいなら殺してしまおうってね。うちが親族が少ないのは、その辺にも原因があるんだよ」
 苦笑するように光琉はそれを話した。
 透耶からは、そんな話はされなかったので、鬼柳は聞き入ってしまう。どうやら、玲泉門院関係でも、透耶が知る話と、光琉が知る話は色々と別 にあるらしい。
 こうなると、唯一玲泉門院の名を語る、葵(あおい)という人物に会わなければならないと思った。
「この話は透耶は知らない。あんただから話すけど。実際、斗織も葵さんも、命を狙われる事は多い。その原因が、誰かを好きになったり気にかけたりしている時が多い。透耶があんたを思ってれば、それだけ周りが放っておかないって事。それに透耶みたいなのはタチが悪い。あれは、異常に人を引き付ける力があるから、はっきり言って俺よりヤバイよ。今の透耶は特にそうだ」
 光琉の説明で、鬼柳は険しい顔をした。
 ハッキリいって、まだ何かあるのか玲泉門院!という所であろう。
 今までの騒ぎも全部透耶が被害者になっている。それが全部玲泉門院の血のせいだとは言えないが、それでもこう言われると妙に納得してしまうのも事実だ。
「……まったく、面倒臭い呪いだな」
 鬼柳は舌打ちをして言った。
「それが全てを与えられた者への宿命って所かな? でさ、あんたよく透耶を殺さなかったね」
 感心したように言われたが、鬼柳はバツが悪そうに言った。
「出来なかったんだ。そのかわり、滅茶苦茶怒られたし、泣かれた。あんな事は二度と御免だ。だから、透耶の話はちゃんと解るまで聞く事にしている」
 鬼柳の台詞の中で光琉は口をあんぐり開けて、鬼柳を指差した。
「怒って、泣いた!? 透耶が!? うわ!あんたよく捨てられなかったねえ!!」
 本当に、そう思っている口調だった。
「……何だそれは」
「あいつ怒ると怖いよー。だって笑顔だぜ? 笑って怒ってて言葉が刺さるんだぜ? あいつ怒ってる時、最高に優しい顔して怒るんだぜ!! 油断したら、ザックリ人の心臓掴むような言葉吐くし! いつまでも覚えているし! それで嫌いになったら完全無視するんだぜ! そいつがもう自分の世界には存在してないってみたいによ!」
 鬼柳は、確かに怒った時の透耶は怖かったよなぁと思ってしまう。
 だが、それ以上に綺麗だと思ってしまい、跪いてでも何をしてでも、自分という存在を否定しないで欲しいと、真剣に思ったものだ。
 鬼柳がそう思っている前で光琉はまだ信じられないと、鬼柳を指差して叫んでいる。
「しかも泣かせた!? 俺、あいつが泣いたのなんか小学生時代しか知らないよ」
 透耶は昔は泣き虫だった。事あるごとに泣いていたのだが、ある日いきなり泣かなくなった。それから両親が死んでも、何があっても透耶は泣かなくなった。でも怒る事はする。ただしそれは光琉に対してだけの事だった。
「そうか? まあ、最初は泣きそうな顔はしてたけど、なかなか泣かなかったなあ。最近はよく泣くけど」
 まさか最近も泣かせたとは言えない。
「あんたの前なら泣けるんだ……なんだ、結局そういう事か。ああもういいや。勝手にやってくれ」
 光琉は手を振って、呆れ顔で言った。
 抱き締めても平気で、鬼柳の前では平気で泣ける。そんな人物が現れるとは思わなかったが、実際に目の前にいる。
 透耶が選んだ、最初で最後の愛しい人。
 それを光琉に反対する権利はなかった。
 光琉が願ったのは、透耶が幸せになる事、それだけだったのだから。
 呆れ果てた顔をしている光琉を鬼柳はジッと見て言った。
「お前は、約束の一人じゃないのか?」
 鬼柳が言った言葉が解らなかった光琉は、キョトンとして見返した。
「何の?」
「呪いの」
 その言葉だけで、光琉は鬼柳が何を言いたいのか理解した。
「ああ、それは俺じゃない。んー、話の中には何度も名前出てきてるけど、それが誰なのかを教えるのは簡単。だけど、直接会った方が面 白いぜ。どうせ、向こうも会いたいとは思ってるだろうし、必然的に会う事になるよ」
 光琉がそう言った所へ、ドアが開いて嘉納がやってきた。
「光琉、モデルの子がどうも事故に巻き込まれたらしくて、こっちへこれなくなったそうだ。今日は、先にモデルを使わない所をやるから、着替えて」
「解りましたー」
 鬼柳はそれを聞いて、立ち上がった。
 嘉納の横を通って、部屋を出て行く。
 嘉納は、鬼柳をジッと見送って、呟いた。
「いやー、凄い迫力だなあ。光琉、よく二人っきりで話してたな」
「話し方を間違えなきゃ、割に話しやすいぜ」
 光琉は何でもないという風に言って、着替えを始めた。
 内心、あんな危ないのをよく制御してるなあ、透耶……である。

 鬼柳が撮影室に戻ると、透耶はさっきの椅子に座って、いつの間にか設置されたテーブルに凭れて顔を伏せていた。
 隣に座ると、透耶は瞑っていた目を開いた。
「どうだった?」
「全部話してきた。光琉の話し方、透耶に似てる」
 鬼柳はそう言って笑っている。
「そう……だね」
 鬼柳の様子を見ていれば、話し合いは結構上手くいったのは、一目瞭然だ。
 ただ鬼柳の事だ。
 透耶のように誤魔化して嘘を言ったりはしないで、何をしたのかを全部話してしまっただろうと透耶は思った。
「ごめんね」
 透耶がそう言ったので、鬼柳はキョトンとしている。
「何で謝るんだ?」
 本当に意味が解らないという顔だ。
「……うん、全部に」
 透耶は言って目を瞑った。
 
 透耶が何で謝っているのか、鬼柳には解っていた。
 自分で真実を話す勇気がなかった事を、透耶は後悔している。
 男を好きなったという事だけでも、光琉からすれば怒るポイントなのだろう。透耶はそこだけ認めて貰えれば、自分に起こった事は話す必要ないと考えていたらしい。
 透耶らしいといえば透耶らしいのだが、光琉のブラコンは度が凄いという事を忘れているのか気が付いてなかったのが誤算だろう。
 ……いかんなあ。また減り込んでる。
 鬼柳は頭を掻いてから、思い付いたように透耶に言った。
「なあ、あれ見てきてもいいか?」
 鬼柳が指を差しているので、透耶は身体を起こしてそっちを見た。
「ポラロイド? いいんじゃないかな?」
 透耶は言って立ち上がった。鬼柳も後ろを付いてくる。
 ちょうど、光琉を試しに撮ったポラロイドがあるテーブルに、女性達が溜っていたので透耶が話し掛けた。
「すみません、これ、見てもいいですか?」
 透耶の話し掛けに、話をしていた女性達が一斉に透耶と鬼柳に視線を向けた。
「あ、光琉のお兄さんだ。どうぞ」
 さっきの騒ぎを見ていたので、透耶が光琉の兄である事は、ここでは知られているらしい。
「ありがとうございます。恭、見てもいいって」
 透耶がそう言うと、鬼柳は少しだけ女性達に頭を下げてから写真を手に撮って見始めた。
「双子って言ってたけど、なんか雰囲気が違うね」
 女性は透耶をジッと見つめてそう言った。
「え?」
 透耶は自分に話題が向いていたいので、驚いて女性達を見下ろした。
「言い方悪くてごめんねだけど。何か、色っぽいのよ……」
「はあ……」
 その色っぽいってのは何な訳? 
 さっきから、妙にそう言われる透耶には、自覚はない。
「ねえ、君は光琉みたいに芸能人とかやらないの?」
 やればいいのにとは進めない所が、さすが光琉関係のスタッフという感じだろう。
「いえ、俺は苦手なんで……」
 透耶が苦笑して、やんわりと断わろうとしたが、女性達は透耶を放っては置かなかった。
 椅子から立ち上がって、4人全員で透耶をペタペタと触り始める。
「あらら、咲ちゃーん、この子、光琉みたいに肌が綺麗よー」
「うわ! これ、波崎さんが燃えるわよ」
「きゃー、髪も柔らかいー」
「ねえねえ、目が綺麗よー。こっちは光琉と違うー」
 その触り方が、どうも商品を扱うやり方だったので、透耶は殆ど抵抗出来ずに玩具にされていた。
「なあ、これ使っていい?」
 散々触られている透耶を少し庇いながら、鬼柳が側に置かれているポラロイドカメラを指差して女性に聞いた。
 いきなり話し掛けられて、女性達はポカンとしてしまう。
 そりゃ、190センチもある男が上から鋭い視線で言ってきたら固まるだろう。
 一人が意外に早く我に返って言った。
「え、ええ。これなら大丈夫。あたしが使ってる奴だから」
 いくつかあるカメラの中から、女性がポラロイドと取り、鬼柳に渡した。
「ありがとう」
 鬼柳はカメラを受け取ると、女性がうっとりするような微笑を浮かべて礼を言った。
「あ、いえ。あの、何に使うんですか?」
 ポラロイドをいきなり使いたくなる理由が解らず、女性は尋ねた。
「ん? あそこも借りていい?」
 鬼柳はさっきまで光琉が使っていた撮影場所を指差して言った。
「え、ええ、今は使ってないからいいですけど……」
 女性は、鬼柳が何をやりたいのかがさっぱり解らない。
「そうか。透耶、あそこに立って」
 使用許可が出て、鬼柳はニコリと微笑む。
「は?」
 いきなりあそこに立てと言われて、透耶はキョトンとしてしまう。
「何? 撮影するの?」
「うん。駄目?」
「いや、駄目じゃないけど……」
「じゃあ、立って」
 鬼柳は撮影場所を指差してニコリとして言う。
 何か、問答無用って感じなんだけど……。
 透耶はそう思ってハッとした。
 もしかして、こういうのに興味を示したんじゃないか。という事である。
 鬼柳がこういう仕事に、しかもカメラに興味を示した事は、透耶にとっても嬉しい事である。
「うん、解った。立てばいいんだね」
 透耶は鬼柳について撮影場所へ向かった。
 当然、これを見逃すはずがないのが女性達。
「咲ちゃん、照明やって!」
「らじゃ! 美佐さんカメラ補助!」
「オッケー」
 女性達も二人の後を追って撮影場所へ向かう。
「あの、これ靴脱いだ方がいいですよね?」
 透耶は撮影場所を見つめて、どうもこれは土足はマズイだろうと思ったのだ。
 光琉が使っていた時は裸足だったからだ。
「うん、そうね」
 女性が頷いたので、透耶は靴を脱いで上がる。
 咲は、鬼柳がカメラを構えているのを見て、照明がこれでいいのかという指示を受けていた。
 透耶は取り合えず立って、鬼柳の方を見つめていた。
 フッと目が合うと、鬼柳がいつも以上に真剣な顔をしているのに気が付いた。
 あの沖縄で空の写真を撮っていた時のような眼差し。
 鬼柳は本気だ。
 透耶は瞬時にそう感じた。
「透耶、こっち見て笑え」
 鬼柳がいきなりそう言った。
 周りにいた女性は、いきなりそれは無理だと思ったのだが、次の瞬間、透耶がニコリと笑ったのである。
 物凄く優しい笑顔。
「うわ。凄い」
 見ているだけになった照明の咲と、残りの二人は驚いて声を漏らした。
「ねえ、あの子素人よね?」
「う、うん。そう思うんだけど……」
「だったら、あれなによ。撮られ慣れてるじゃない」
 そう言った先では、鬼柳の指示に従って色んな表情をする透耶がいた。
 鬼柳が真剣であるのは解っていた透耶だが、途中から会話が英語になっているのに気が付かない程だった。
 変な撮影が始まって、食事を取りにいっていた人達が戻ってきたが、その人達も何も言わずにそれを見つめていた。
 その中に光琉もいた。
 内心、ちょっと待てよ、である。
「透耶……写真嫌いなのに……」
 透耶が光琉と同じ道に進まなかったのは、ピアノの事もあったが、何より写 真に撮られる事が嫌いだったのが一番強い。
 家族とか、光琉が撮る分には嫌がりはしないのだが、その他の写真はすごく嫌がった。
 まるで、自分が写っているモノが残るのを嫌がるかのようだった。
 それが平気で写真を撮ってもらっている。
 鬼柳は真剣だが、透耶はリラックスしている。
 たぶん、これが初めてではないと光琉はすぐに解った。行方不明の間、透耶はずっと鬼柳に写 真を撮ってもらっていたからこそ、こういう所でも簡単に撮らせるのだ。
 いわば、慣れ。
 何だ、結局、そいつならいいんだ。
 光琉はそんな感想しか浮かばなかった。
「でも、透耶はいつから外国人になったんだ?」
 英会話をしている二人を見て、光琉は呟いた。


『Is this what you want to do?(こういうのをやりたいの?)』
 透耶は鬼柳に聞いた。
 少し期待をした言い方だったかもしれないが、鬼柳は何でもないとばかりに答えている。
『It’s a bit interesting but I’m not gonna do it for living.(ちょっと興味はあるが、仕事にしようとは思わないな)』
 鬼柳はファインダーから覗いたままで、シャッターを切るのを忘れない。
『 Because?(何故?)』
 ……仕事にしないのに撮ってみてるのかな?
 鬼柳がいきなりこういう所で写真を撮ろうとした意味が透耶には解らない。
『’Coz I’m not gonna be able to do it by myself.(だって、一人じゃ出来なさそうだし)』
『Yes. you can. with proper instruments. There are some who have a home studio.(出来るよ。機材さえ揃えれば、自宅撮影所を持ってる人もいるし)』
『 Is that so? (そうなのか?)』
『Yeah.Mitsuru told me that. Sometimes there are many people around like this. and sometimes there aren’t. with only two people. a model and a photographer. Do you wanna have a try?(うん。光琉が言ってた。こういう風に人が沢山いる所もあるけど、カメラマンと二人っきりなんてのもあるよって。恭もこういうのやってみる?)』
 透耶はもう一度同じ質問をした。
 だが返ってくる答えは同じだった。
『I don’t think so..(いや、やらない)』
『Why not?(何で?)』
 思わず食い下がってしまう透耶。
『 I’d love to take photos of you. Otherwise. I don’t wanna take any except for news. (透耶が映ってない写真なんて、報道以外じゃ撮りたくない)』
 鬼柳はいつもと変わらない答えを返してくる。
 風景を撮るプロにならないのかと聞いた時も、やはり鬼柳は同じ言葉を言った。
『Well… I always wonder if it is fun to take pictures of ME.(ふーん。いつも思うけど、俺なんかとって楽しいの?)』
 透耶もいつも聞いてしまう質問をした。
『Yeah.It’s fun whatsoever.(うん、無茶苦茶楽しい)』
 鬼柳は初めてファインダーから目を離して透耶を見ると微笑んで答えていた。
『You must be the only one who says so.(変なの)』
 透耶はそう言って苦笑してしまう。
 いつもと変わらない会話である。

 ちょうどポラロイドのストックが無くなった所で撮影は終わった。
「何枚撮った?」
 撮り終わった写真の数を見て、補助をしてくれた女性に鬼柳が問う。
「全部で60枚です」
「じゃあ、後で精算してくれる?」
 カメラを返しながら鬼柳が言うと、女性が何を言っているのか解らないという顔をした。
「は?」
「フィルム代。写真持って帰るから」
「え? あの、これ欲しいんですけど」
 女性は、その中の一枚を差し出して、欲しいと訴えたのだが、鬼柳はにこりと微笑んで言い切った。
「あげない」
 鬼柳は言うと、他の女性が持ってきた封筒にその写真を無造作に入れていく。
「鬼柳さん、俺にはくれない?」
 光琉が並べられた写真の一枚を取って言う。
 鬼柳が透耶を見ると、透耶は仕方がないという顔をしていたので、鬼柳は渋々という風に言った。
「……どうしてもと言うなら仕方がない」
 光琉は笑って、その中の気に入った写真を数枚取ってから鬼柳に尋ねた。
「じゃあさあ、透耶と一緒の写真は撮ってくれる?」
 どうもこの男は、透耶以外には興味がないという風なので、ただ写真を撮ってくれと言ってもやってくれないだろうという判断からだった。
 もちろん、鬼柳がカメラに精通しているのは、見ているだけで解っていた。
 光琉の頼みに鬼柳は少し考えてから答えた。
「まあ、撮らない事はないが……」
 透耶が写っていて、それで透耶が楽しそうにしているなら、という条件がつくのは当たり前だ。
 そういう鬼柳の反応とは余所に、透耶が不思議そうに光琉を見た。
「光琉?」
 光琉は何かを考え込んでいるようで、写真を見つめたまま。暫くそうしていると、ニヤリとして透耶を見た。
「いいこと思い付いた。透耶、明後日もう一回来いよ」
 いきなりそう言われて、透耶はキョトンとしてしまう。
「え? 何で?」
「あのなー。俺はまだ怒ってる訳で、お仕置きもしてねえんだよ。解るか? ああ?」
 凄みのある声で言われて、透耶は頷いてしまう。
「……はあ、解りました」
 こう答えるしか道はない。
「よし。次来たら、そいつとの事、チャラにしてやる」
 光琉は笑ってそう言った。
「光琉?」
 どういう流れでこうなるのかが解らなくて透耶は困惑してしまう。
「そういう事にしておいてやるよ。だから……」
 光琉は言って、少し泣きそうな顔になって、透耶に抱きついた。
「? 光琉、どうしたの?」
 光琉の思いも寄らない行動に驚いた透耶は、何があったんだとろうと首を傾げてしまう。
 光琉は、10年振りに透耶を抱き締めた。
 鬼柳が言った通りに透耶は光琉を拒否しなかった。
 それどころか、抱き締め返してくれる。
「どうした、じゃねえ。もう、こんな心配、かけるなよ。どれだけ、心配したと思ってやがる。俺は、あの人達みたいに、割り切って考えられないんだ……」
 光琉の切羽詰まった声に、透耶はどう答えていいのか解らなかった。
 この弟が、自分が行方不明の間、どれだけ心配していたのかを考えると、ちゃんと言わなければならなかったのだが、それに答える言葉がなかった。
 ただ、当たり前の言葉が出てきてしまう。
「光琉……ごめんね」
「……謝って済むと思うなよ」
「うん、ごめん」
 もう一度透耶が謝ると、光琉が透耶の身体を離した。
「……たくっ。そういうところがムカつく。いいか、明後日、絶対来いよ」
 本当にムカつくと吐きすてる様に光琉は言った。透耶はただ頷いた。
「うん」


 光琉との再会が終わった帰り道。
 嘉納に送って貰った駅で鬼柳が少し難しい顔をしていた。
 鬼柳には珍しいくらいの無口だったので、透耶が鬼柳の顔を覗き込んで聞いた。
「どうしたの?」
「ん、いや、ちょっとな」
 鬼柳は少し苦笑するようにそう言うが、透耶には意味が解らない。
「?」
 キョトンとしている透耶を見て、鬼柳は溜息を吐いた。
 どうもこれは光琉にハメられたな……。
 明後日の事。
 光琉があれだけで透耶を許すはずはないと、妙に深く考えてしまうのだ。何をやろうとしているのかは解らないが、光琉は何かを企んでいるはずだ。
 透耶の小説を勝手に使う辺りからすると、もう既に何があっても透耶と鬼柳には断わる権限すらないはずだ。
 そんな事を鬼柳が考えてると。
「恭。あの、ありがとう」
 透耶がそう言った。
「ん?」
 鬼柳が思考を切って透耶を見ると、透耶は視線を前に向けたままで、鬼柳の袖を少し引っ張って言った。
「光琉にちゃんと話してくれたでしょ? 俺、誤摩化してしか話せなかったから」
 光琉に対して、嘘しか言えなかった透耶は、後悔していた。
 そんな透耶の心を悟って、鬼柳が透耶が掴む手をポンっと叩いた。
「気にするな。礼を言われる事じゃない。透耶が嘘しか言えないような事を俺がしたってことだしな。誤魔化しなのは仕方ない」
 鬼柳は笑って言った。
 まさか、強姦されて監禁されて、拉致されて、それでも好きになりました、なので付き合ってます、と言い、それを光琉が認めたら奇跡に近い。
 それに、あの光琉を誤魔化せるとは思えない。
 透耶からその事実を聞いたとしたら、光琉は即座に二人を引き離そうと考えただろう。
 ある意味、鬼柳から真実を話した方が、光琉には通じたはずだ。
 鬼柳はそんな事を考えて、次に透耶が誰かにこの状況を素直に話さなくてはならない場合は、自分が全部話しをつけようと思った。
「でもさ、透耶。明後日覚悟しといた方がいいと思うぞ」
 鬼柳がそんな事を言ったので、透耶は何の事だと顔を上げて鬼柳を見上げた。
「え?」
「あー、俺も覚悟しとくか……」
 鬼柳は謎の言葉を呟いて、透耶と手を繋ぐとさっさと歩いて行く。
 引きずられながら、透耶は一体何の事?と、何度も聞き返したのが、鬼柳は答えてくれなかった。
「え? え? 何?」
一人困惑する透耶である。