switch101-65 冬の雀
「今日は先生なんか憂鬱みたい」
あたしがそう切り出すと、先生はキョトンとした顔をしてあたしを見つめた。
「え?」
本人はまったくそんなつもりはないみたいなの。
「今日は先生なんか憂鬱みたい、って言ったの」
あたしはもう一度言葉を繰り返していた。
今日は先生の家でのレッスン日。朝早くに寮を出て、この家にやってきた。昨日はやはり興奮して眠れなかったんだけど。
今、この家には、鬼柳さんはいない。
仕事を再開して、中東に仕事に出かけてる。
そうなってからもう3ヶ月経っている。
連絡手段はメールだけで、電話は使ってないみたいなの。
連絡手段を持ってしまうと、相手を頼ってしまうからというのが先生の言葉だったんだけど、どうせ、鬼柳さんから毎日電話がかかってくるんじゃないんだろうか。
そういう事を日課にしちゃうと、電話がない日に寂しくなってしまうからじゃないかってあたしは思ってる。
手段がなければ、遠くの空の下にいる人を思っているだけでいい。先生はそう思ってるらしい。
先生が決めた事は鬼柳さんも守ってるらしく、電話で連絡はしてこなくて、今はメールだけとなってるらしい。
らしいというのは、そういう感じであたしも鬼柳さんとメールしていたからなのよ。
そう、鬼柳さんは用意周到で、先生自体と連絡が取れなくても、他の人を使って様子を伺うような事をやってのける人なのよ。
メイドの司さんと執事の宝田さんなんか、毎日先生が何をやっていたかをメールで知らせているらしいのね。
で、あたしも気になる事があったら鬼柳さんにメールしているんだけど、あたしのは殆ど先生と遊んだというだけのメールなんだけどね。
つまり、離れてても鬼柳さんには、先生の事が手に取るように解るって訳。
ここまで徹底してるのも凄いんだけど、そうしないと先生って結構トラブルメーカーだから仕方ないのかもしれない。
まあ、鬼柳さんが出かけてからは、そんな事は起こってなくて、たまに出かけた先でナンパされるくらいに収まってる。
家の中に篭りっきりの先生を連れだせるのはあたしかランカスター氏くらいしかいなくて、困ってるんだけど。
まあ、SPついてるし、危険な事はしないから大丈夫なんだよね。
それでも鬼柳さんは心配らしいのよね。
そこまで心配しなくてもいいとは思うのよ。
長い間離れてるのは初めてだから心配なのは解るけど、それより、先生と出会う前は先生だって人並みの生活をしてた訳でしょ? それなら心配しなくてもいいんだけどなあ。
先生はメールだけでも嬉しいと思ってるから、安心してもいいんだよね。
その時の先生の嬉しそうな顔だったら、もう鬼柳さんじゃなくても抱き締めたい衝動にかられるんですってば。
でも今日の先生は少し憂鬱そうなのですが…。
「何かあったの? 鬼柳さんからメールが来なくなったとか?」
あたしはピアノの椅子から立ち上がって、先生がいるソファに座って尋ねた。
「え? 恭とは最近はちゃんとメールしてるよ」
先生は柔らかい声でそう答えた。
うーんじゃあなんだろうと思っていると、先生が立ち上がって、「ちょっと待ってて」と言って、キッチンの方に消えた。
何だろう?
あたしがそう思っていると、先生は何かいる鳥箱を持って帰って来たの。
「何それ?」
あたしは中を覗き込んだ。
すると、箱の中央に鳥がちょこんといるのよ。
たぶん雀だと思う。思うというのは、あたしがはっきりと雀を見た事があった訳じゃないからなの。
図鑑か何かでしかみたことなかったから。
「うん、雀なんだ。クロトがくわえて帰って来たんだよ」
「え?!」
クロトとは先生が飼っている猫の名前。これがまたなんというか、先生以外の人間には愛想がないという生意気な猫なのね。まるで犬みたいに忠実誠実、あーなんて言葉をあげたくなった猫。
その猫がこの雀をくわえてきた。
た、食べようとしたんだろうか?
そのあたしの問いに、先生は首を振った。
「すぐに俺の書斎に持ってきて置いていったんだ。だから食べようと思ったんじゃないと思う」
なるほど。ということは、先生の為に取って来たというのが正しいのかも知れない。
猫って自分の主人に獲物を取って来て見せることがあるから。あたしがそう言うと先生も困った顔をしたのね。
「俺が食べる訳にはいかないし、第一、この子羽を怪我して飛べないから空にも帰せないし」
「でも雀食べる所もあるんだよ」
「え?やだ」
先生もそれは知ってたらしく物凄く嫌な顔をしたのね。
「取りあえず、飛べるまでは飼ってあげてもいいかなって思ってるけど。でもこの冬空に離しても食べていけるのかどうかも心配で…」
なるほどとは思ったけど、この冬空でも雀は要領がいいはずだから何処かで上手く生きて行くと思うんだけどと、あたしがそう言ったら先生の憂鬱さが少し抜けたようだった。
「そうだよね。大丈夫だよね」
先生はホッとした顔をして雀を眺めた。
雀は箱の中で大人しくしていた。
それから。
数日経って、あたしが先生の家を訪ねると、先生は庭にいると宝田執事に言われた。
庭へ回ってみると、先生は必死に何か叫んでいる。
「クロトダメだよ!」
どうやら先日の雀を空へ帰そうとしているようだった。
「先生。傷治ったの?」
あたしがそう声をかけると、先生は振り返った笑った。
「うん、もう大丈夫だって。でもね、この子、全然飛ぼうとしないんだ。家の中だと飛ぶんだけどね、外に出したら飛ばないの」
先生は困った顔をしていた。
どうやら餌付けし過ぎたのか、雀の居心地が良かった家からは飛び立たないらしい。
「強引に投げたら飛ぶかもよ」
あたしはそういってみた。
投げ出されたらさすがの雀も飛ばなきゃならないだろう。
「あ、そっか。飛ぶの待ってても駄目なんだ」
先生は納得したようで、手の平に乗せている雀を空へ向かって放り投げた。
すると、雀はパッとツバサを広げて庭の大きな木に向けて飛んで行った。
「飛んだ!」
先生は大喜び。
先生の側にいた猫は「やっと厄介物がいなくなった」とばかりにあくびをしていた。
どうやらこの猫は、傷付いた雀をどうにかしようと先生に託したのだが、先生があまりにそっちばかりに構うので、食べてしまおうとしたらしい。
嫉妬というわけ。
雀は大きな木に止まった後、やっと決心したかのように、今度は大空に向けて飛び立っていった。
「飛んでいっちゃったね」
「そうだね」
あたしと先生は、雀が飛んで行った方を見つめて、暫く動かなかった。
青い空は何処までも晴れ渡っていて、今日、雀を離したのは正解かもしれなかった。
「元気でやってくれるといいけど」
「雀の恩返しとかきちゃったりして」
あたしは冗談まじりにそう言ったけど、それでもいいと先生は思っているはずだ。
いつか元気な姿でまたこの家を訪れてくれるなら嬉しいと。
そうだね。
あの雀が恩返しにきてくれた方が先生は嬉しいはず。
自分が看病して治したのだから余計にそう思うんだろうな。
「さて、今日はレッスン日だったね」
「そう、明日から冬休みなの」
「そうだったね。じゃ、来たい日に来てもいいよ」
「本当?」
「うん。俺年末進行、殆ど終わりかけてるからね」
「やった。じゃ、遊べるね!」
あたしは喜んだ。
先生と遊べる~って。
この所、コンクール関係で遊んだ記憶はなかったから。
「そうだね。どっか遊びにいこうね」
「うん!」
あたしは大喜びよ。先生と遊ぶのは好き。
だって先生ってあまり世間の遊びを知らないみたいだし、やった事もない事も多いから教えるのが楽しいの。
二人でもう一度雀が飛び去った方を眺めてから、笑いながら暖かな家の中へと戻っていったのだった。
これも鬼柳さんに報告なんだろうか?
ちょっと悩んだあたしであった。