switch5

 昼になって、日光が部屋を照らしている。
 窓は開いていて、風が吹き込んでくる。カーテンが風に踊って、ユラユラと揺らめき、音もなくまた元の形に戻って行く。
 気温は暖かい、と言ってもおかしくないくらいで、窓を開けていられるくらいの暖かさ。
 ここが日本、今は4月半ば。
 そんな場所があるなら、それは南しかない。
 沖縄。
 気が付いたら、南の島。
 なんて、普通の人が考えれば嬉しい奇跡かもしれない。
 だが、透耶は怒っていた。
 来たくて来た場所ではないだけに、透耶はまた人に場所を教えない鬼柳に文句を言いたかった。
 寄りにも寄って、東京から更に遠い場所へ、監禁場所を移すとは、鬼柳の仕業とはいえ、明らかに他の力が働いている事は確かだった。
 しかし、文句を言ってやろうと思った相手は、すでにアメリカの空の下。たぶん優雅に笑っている、いやほくそ笑んでいるだろう。

 


「……あ、ん……もう……」
 透耶は頭を振って鬼柳の髪に手を潜り込ませ、耐えられないと訴えた。
 透耶の胸に頭を落としていた鬼柳が、透耶の胸の尖った物をカリッと噛み、舐め取る。
「ああ……」
 透耶の身体が反り返って、鬼柳は満足したように顔を上げた。
 透耶自身を握っているが、それが手の中ではち切れんばかりに大きくなり、白い液が零れている。
 身体をずらして、そこの先端を舌で舐める。
「やあ……!」
 息も絶え絶えな悲鳴が上がって、腰が揺れる。
 完全に快楽の虜になっている。
 一週間掛けて調べ上げた刺激に反応する場所は、前よりも淫らな反応をする様に仕込んだ。
 透耶自身を口に含んで、舌で舐め、口で擦ると、身体が震え甘い声が漏れる。
「ああん……いやあ……ん」
 達しないように根元を押さえ付け、先端に溢れる液を妖しい舌の動きで舐めていくと、顎を反らして反応する。
 余った手を孔に忍ばせ、襞を広げる。散々撫で回した後、透耶の身体を反転させて、腰を持ち上げる。
「やん……キョウ……!」
 うつ伏せになった透耶が一瞬我に返ったのか、抗議の声を上げる。だが、それも一瞬。すぐに解された孔に指を滑り込ませる。
「あああ……!」
 感じて反応すると、忍び込ませた指がぎゅっと締め付けられる。無理に指を捻る。出し入れをゆっくりと始めると、腰が動きに合わせて揺れ始める。
「ん……ん」
 慣した所で指を二本に増やす。また強く締め付けてくるが、暫く出し入れを続ける。
「は……あ……あん……ああ」
 指を出し抜きしながら、まだ足りないと求めている孔に舌を這わせる。
 出し入れする指の側の襞を舐めると、透耶が身体を跳ね上げた。
「い……やあ! ああん」
 背筋をぞくりとする感覚が這い、それが快感であるのは口から漏れる高く甘い声で解る。
 指の出し入れをしながら、鬼柳は透耶の背にのしかかって言った。
「どうして欲しい?」
 そう言いながら、背中へのキス。そして這うようにして、項に噛み付く。
「あん……は……」
「言えよ……、どうして欲しい?」
「……ん、いや……も……」
「いや? 何で? もういきそうなのに」
 後ろから指を一気に引き抜いた。
「あん……キョウ……」
 抜かれる衝撃で身体が崩れ落ちる。素早く鬼柳が腰を掴んで持ち上げる。スッと手が前に忍んできて、喜びに溢れ液を垂れ流している物を力強く握り締めた。
「んー? 入れて欲しい?」
「……やあん」
「強情だなあ、欲しいって言えよ。俺が欲しいって……」
 低いバリトンの声で耳を犯すとピクンを身体が反応する。
 声だけで犯せる。
 耳を甘く噛むと、甘い声が漏れた。
 それが鬼柳自身を熱くさせ、抑制出来なくさせるなどと、透耶はきっと気付いていない。組み敷かれた場所で淫乱な身体を見せつける。
 湿った身体が自分の身体に吸い付くように滑らかで、そうさせているのが自分だと思うと堪らなくなる。
「ちくしょう……、俺が我慢できねえ」
 鬼柳は身体を起こすと、すっかり先走りの液を零している自身を透耶の孔に押し当てて、グッと腰を進み入れた。
「んんん……」
 熱く大きな物が進み込んでくる圧迫感に、透耶は息を止めて受け入れようと堪えている。
「う……ああ、きつー」
 半分進めた所で、あまりにきつくて中へ進む事が出来ない。
「透耶……きつい、奥まで入れない……弛めて」
「あん……む、り……」
「しょうが、ないな……」
 透耶自身を掴んで、手で扱くと締め付けていた内部が弛んで、鬼柳はその隙に腰を進めて奥まで自分を押し込んだ。
「あああ!」
 進んでくる感触が、透耶の官能を刺激する。
 完全に入ってしまうと、透耶の内部が一層鬼柳を締め付けてくる。
「ん……はあ……はあ、はあ」
「やっぱ、中はいい……。なんでまだきついんだ…ちっとも俺の大きさに慣れやしねえ。締まって最高だ」
 卑猥な言葉で感想を述べる鬼柳に、透耶は荒い息を吐きながら抗議してくる。
「だ……れが……」
 その言葉を鬼柳が遮る様に動き始めた。
「ああああん!」
 甘い声が尚高くなって、透耶は鬼柳に追い立てられる。もう何も考えられなくなるほど、刺激と快楽を与えられる。
「ああん……はあ……キョウ……」
 いい時、快楽で我を忘れている時、透耶は、鬼柳が教え込んだ、恭、と名前を呼ぶ。
 名前を呼ばせる事で、鬼柳自身も高まっていく。
 動きを荒々しくして、一層透耶を攻める。
「あん……も……だめ……キョウ……ん」
「くっ……一緒に、行こう」
 耳もとで囁いて、所有者の印である肩へ食らい付く。それによって透耶は自分を放った。
「ああああん!」
 締め付けられ、鬼柳も達した。
「……!」
「……もう……いや…」
 まだ中に収まったままの鬼柳自身を嫌がって動いて逃げようとする透耶。
 後ろから抱き取り、身動き出来ないようにする。体力のない透耶は、セックス一回でも気力を使い果 たしてしまう。
 最初の頃は、達した瞬間に意識を手放していたが、最近はそうでもない。だから、する回数が増えてしまう。
 病院で、好きにしていい、と発言した事を鬼柳は真に受けて、本当に好きなようにしていた。
 だが、透耶の体力に合わせてセーブしている。本当に好き勝手にやってしまったら、透耶は壊れてしまうだろう。
「鬼柳……さん……」
「透耶、好きだよ」
 すかさず鬼柳が透耶の抗議を言葉で封じる。
 この言葉に透耶が反応する事を知っている。
 だが、言葉が返ってくる事はない。
 しかし、それは、否、ではない。
 行為に溺れるくせに、恥ずかしいから嫌だと言っているだけで、本気で自分は嫌われているとは思っていなかった。
 嫌いなら、透耶は嫌いだと口にするだろう。
 やめてくれとは言うが、離れようとはしない。
 いや、一時期は逃げようとしていたが、誘拐された事で何かが変わったらしい。それはたぶん良い方向へ変わっている。
「透耶、好きだよ」
 もう一度、透耶の胸に刻み込むように、繰り返して伝える。
 聴こえなくても、無視されても、無意識に心には残る。心の隙間に入り込むように、忘れられないように、感情の一部として、自分という存在を押し付け、逃さないように、絡め取り、刺激して、錯覚させる。
 何かが透耶の心を支配している。それは解るが何なのかは解らない。透耶は話したがらない。好きだという言葉に答えられない何か。
 項にキスをして、透耶の身体の前に回した手で、透耶自身を掴み取る。
「……や……」
 抗議するが、身体は反応して鬼柳を締め付ける。
 その刺激で収まっていた鬼柳自身が復活してしまう。
「んー、また良くなってきた。もう一回」
 もそっと動いて、自身を抜かないように今度は向き合って身体を重ねる。
「も……無理……」
 そういうが、しっかり反応している。鬼柳は透耶の足を広げて腕に抱えると、唇へキスをする。溜息が漏れた所を見逃さず、食らい付く様に深いキスをする。
 キスをしたままで、鬼柳は動き始める。先に放った物のお陰で滑りはよく、鬼柳は力強く腰を動かし、唇の向きを何度も変えて貪欲に唇を求めた。応じるように、透耶の腕が首に回りしっかりと鬼柳に抱きついてくる。
 聞こえるのは、キスの合間に漏れる甘い吐息。
 求めるだけ求め合って、透耶が気を失うまで鬼柳はセックスをやめなかった。

   


 見上げるばかりの大きな屋敷。だだっ広い部屋。
 庭も広く、石垣の向こうには海が見える。
 道路側は、大きな塀に覆われて、外から覗く事は出来ない。門にはSPが数人いて、警備にあたっている。
 外から侵入不可能だが、中からも脱出不可能だ。
 完璧な要塞である、この場所。
 透耶には、ここが沖縄というくらいしか解らなかった。沖縄の何処なのかは、相変わらず解らないままだ。まあ、地名が解った所で、どうにかなるものでもないわけだが。
 それは、透耶がここまでどうやってきたのか覚えてないからだ。
「……誘拐の上手い奴だ」
 透耶は溜息を吐いて、裸足で庭を散歩する事にした。
 透耶がここへ連れて来られる事は、透耶自身知らなかった事だった。
 病院を出たまでは覚えている。
 


 退院の日、鬼柳は先に支払いを済ませてきていた。
 そして荷物を纏め終わると、看護婦達にお幸せにーなんて言われて見送られた。
 もう、一週間も入院してれば、勘がイイ看護婦には、透耶と鬼柳がいい仲である事は、当然の事実として広まっていた。
 そりゃ、女性の多い職場となれば、これはいい獲物にしかならない題材だ。一向に気にしない鬼柳に対して、透耶は焦りまくり。
 散々鑑賞されて、解放された透耶は、車の中で鬼柳に進められたペットボトルのミネラルウォーターを飲んだ後、途中で眠ってしまった。
 で、次起きたら、見た事もない天井に驚き、ベッドから起き上がって外を見ると、そこには、青い空、青い海、暖かい空気、赤い南国の花。
 あり得ない光景。
 おいおいおい、まだ夢でも見ているのか? と一瞬自分の見るもの疑ったが、そうではなかった。
 上機嫌で部屋に入ってきた鬼柳を見付けて、透耶は胸ぐらを掴んで叫んだ。
「ここは、一体何処なの!?」
「ん? ここはエドの別荘だけど」
「何で!?」
「あの別荘、警察が入って現場検証してるから、帰れなかったんだ。そしたらエドがここを貸してくれた」
 素直に答える鬼柳。
 あーちくしょー、あの時、英語で何か話してたのは、この事だったのか!
「ここ何処?」
「エドの……」
「それは解った。俺が言っているのは、ここの家じゃなくて、場所の事!」
「うーん、そのうち解ると思うけど」
「はいー?」
 何なんだそれは……。
 待てよ、今は4月中旬だ。
 まだコートが必要なのに、この暖かさは何だ?
 まさか……。
「まさか、日本じゃないとか言わないよね?」
「だったらいいのにな……南の島にでもいれば……」
 なんかつらつらとまた馬鹿いいそうだ。
 透耶はそれを遮って一人で納得して言った。
「なるほど、日本なわけだ。当たり前か、俺パスポート持ってないし。外国へは出れないしな。偽造パスポートでも作ったのかって思ったよ」
 透耶がそう言ったものだから、鬼柳が真剣な顔になって呟いた。
「そうか、その手があったか……」
 やばい、こいつマジでやるぞ。偽造パスポートだって作ってくる。
「本気にしないでよ。俺、強制送還されて二度と海外出れなくなるのやだよ。アメリカだってロンドンだって行きたいんだから」
「大丈夫、俺が連れて行ってやるよ」
「詳しいの?」
「任せとけ、大体の主要都市は行った事はある」
「すごーい、それって仕事で?」
「ああ、まあな」
「そっか、カメラマンだからかー。……あれ?」
 待て、話題がずれてるぞ。
軌道修正。
「それは置いといて。で、ここは何処なわけ? 日本で南国? ちょっと待って。どうやって来たの?」
「飛行機」
「は? 俺、車にしか乗ってないけど……」
「透耶が寝てる間に乗ったんだ」
「え? どうやって?」
「俺が抱いて運んで乗せた。よく眠ってたから起こさなかった」
 おーい、俺、肝心な所で寝るか? 起きろよ、俺。
 待て。いくら俺でも、そんなには寝ないぞ。
 おかしい。
 あの時、車の中で俺に何があった?
 なんで寝たんだ?
 ………あれだ。ミネラルウォーター!
「鬼柳さん」
「何?」
「仕込んだね、薬」
 透耶がそう言うと、鬼柳はふっと目を背けた。
 やっぱり!やりやがったな、この知能犯!
「何でそんな事するわけ?」
「透耶、大人しく乗りそうになかったし、羽田だから……」
 はっはー、羽田で逃げられて、東京の街に入られたら中々見付けられないとでも思った訳だ。
 で、俺はまた誘拐された訳だ。
 まったく情けなくて涙が出るよ。
 はーん、短期間に俺程、拉致、監禁、誘拐される人間ってのもいないんじゃないか?
 もうギネスに挑戦してもいいかもしれない。てか、そんな項目ギネスに載るのか?
 という、馬鹿な事を考えていると、透耶は自分が空しくなってきた。
 なんのこっちゃない。監禁場所が変わっただけの話だ。
「解った、もういい」
 透耶は頭痛がする頭を押さえて、さっきまで寝ていたベッドへ戻り、タオルケットの中に潜り込んだ。
「透耶?」
 いきなり態度を変えた透耶を不審に思ったのだろう。ベッドまで近付いてきて透耶を見た。
「どうした?」
 どうしたがあるかよ!
 だが、場所を聞いたところで鬼柳がそれを教えてくれるとは思えなかった。
「だから、もういいってば!」
「怒ってる?」
「当たり前だ。何処だか解らない場所へいきなり連れて行かれて、しかも眠っている間に運ばれて、目が覚めたら知らない所だ。連れてきた奴は場所を教えないし、最悪、最低、非常識。鬼柳さんだって、薬で寝ている間に勝手にどっか知らない所に運ばれてたら、喜んで感謝するのかよ。俺はしない、気分が悪い」
 いい気はしない。いつも透耶の意見なんて聞きもしない鬼柳の態度が、やっぱり透耶は許せなかった。
 一言言ってくれれば、ちゃんと付いてきたのに……。
 そう透耶が思っていると、鬼柳がベッドに腰を掛けて、透耶の肩を抱いて引き寄せた。
 はっとした時は、もうすでに鬼柳の腕の中。
 タオルケットの上から、鬼柳がキスをする。
 これ以上、何かするつもりはないらしく、ただ怒っている透耶を気にしているというふうに、黙って背中を摩ってくる。
 撫でられているうちに、透耶はふっと力を抜いた。
> 「沖縄」
「……?」
 いきなり、鬼柳がそう言ったので、透耶は何の事か解らず、もぞもぞと動いて、顔だけ外へ出した。出たら、そこは鬼柳の胸で、見上げると鬼柳は何処か違う所を見ていた。
「ここは沖縄。でもこの場所の詳しい地名は知らない。俺もエドのSPに連れてきて貰ったから」
「……SP?」
 一体何の事だ?と透耶が問うと、鬼柳と目が合った。
「エドが置いて行った」
「SPって、どうするの?」
「さあ、どうしようかなあ。運転手にでも使えって言われたしな」
「運転手?」
「ここは土地感ないしな。暫くは運転手兼道案内だろう」
 当然だ、とばかりに言った鬼柳だが、本当に運転手代わりにSPを使っている。
 当然と言えば、透耶も当然とばかりに監禁されている。
 屋敷の外へ出る事も許されなかった。そう庭さえもである。さすがにそこまでされると、ノイローゼになる、と訴えて三日目。見兼ねたエスコートの富永が、庭なら一人SPつけますが、と言ってくれたお陰で庭に出る事を許可された。

 
 
「俺って、そんなに頼り無いですか?」
 隣を歩いている石山というSPに、透耶は聞いていた。
「そういうわけではございません。ただ心配なされているだけでしょう」
 にこりと微笑まれて、透耶は頭を掻く。
「過保護だと思いませんか? だって俺は今まで普通に暮らしてきたんですよ。こんな豪華な家なんて知らないし、SPなんて、とんでもないです。普通 に買い物するし、映画だっていく、電車も乗るし、その前に自分の足で歩きます」
 まるで置き物の様に扱われている透耶。さすがにこれは不満である。
 しかし、石山は言った。
「何をおっしゃいます。鬼柳様に聞きましたよ。海に直進なされたそうですね」
「う……」
「考え事をなされると、前後左右も解らなくなられる」
「うう……」
「いきなり倒れられる」
「ああ、石山さーん、降参ですー」
 どれも事実で、否定しようがない。
 透耶が手を上げて降参すると、石山はくすりと笑った。
「いえ、鬼柳様が心配なされているのは、ここが米軍基地がある所だからと思います。大変失礼ですが、透耶様は外見が少し女性に見える所があります。そうなると、米兵というのは悪さをする時があります。事件も起ってます。だから心配なのでしょう」
「……女の子がね」
 ははーん、俺、言っておきますが男です。なのに完全に女扱いかよぉ。
 透耶はそう言って、庭の真ん中辺りにきたので座った。
「もうすぐ、スプリンクラーが作動しますが」
「うん、いいよ。濡れても寒くないから。石山さん、濡れない所にいてください。いくら何でも俺、ここで消える事は出来ないですよ」
 苦笑混じりで透耶が言うと、石山は周りを見回してから下がっていった。だが、完全に離れている訳ではない。
 監禁、監視。完璧だ。
 しかし、エドワードはいつもSPに囲まれて生活しているんだ、と思うと、窮屈じゃないのかあ?と思ってしまう透耶。
 そう考えていると、鬼柳の声がした。
「透耶! 何してる」
 起き上がって声がした方向を見ると鬼柳は二階にいた。
「日光浴」
「濡れるぞ」
「うん、解ってる」 
「あ? 濡れたいのか?」
 鬼柳がそう言った時、スプリンクラーが作動して水が吹き出してきた。
「うわああ、こうなるんだー!」
 スプリンクラーで水が吹き出した中というのは入った事は普通ない。透耶はちょっと面 白そうと思ってやってみただけである。
 暇だとこんな下らない事思い付くんだよなー。
 そう思いながら水を浴びていると、二階から鬼柳がまた呼んでいる。
「透耶!」
「何?」
 見上げると、鬼柳がカメラを構えてシャッターを切っている。鬼柳がカメラを使っている所は初めてみる。
「……何で撮ってんの?」
「いい構図だから」
「俺、モデル料高いよ」
「身体で払ってやる。オプションで奉仕もするぞ」
 絶対、本気だ。
 げんなりしてしまう透耶。
「……最低」
「ほら、動けよ」
 クスクス笑いながら、鬼柳がカメラを向けてくる。
 ちくしょー、現像したら写ってないくらいに動き回ってやる。
 透耶は素早く動いて逃げ回るが、鬼柳は正確にカメラを動かして撮りまくる。
「透耶、遅いぞー」
 ぜーぜー息をしながら逃げ回っていた透耶が、息が切れて座り込むと、その隙に鬼柳はフィルムを変える。
「あーもー駄目ー。走れないー」
 濡れた芝生に寝転がっていると、スプリンクラーが作業を終えた。水がぴたりと止んだ。目を開けると、やっぱり空が青い。
「綺麗……」 
 暫くそのままでいると、いつの間にか二階から降りてきた鬼柳が側に立っていた。まだカメラを持っている。
 すいっと起き上がって見上げると、鬼柳にその顔を撮られた。
 カメラを持ってて、しかも見た事もない真剣な顔で撮られると、透耶は何だかおかしくなって微笑んでしまう。
「俺なんか撮って楽しいの?」
「最高。仕事なんかより透耶撮ってる方が幸せだ」
 本当に楽しそうにしているから、シャッターを切る鬼柳を止める事は透耶には出来なかった。
 仕事の写真が楽しくないって、事なのだろうか。鬼柳の仕事の写真ってどんなのだろうか?聞いた事ないな。
「そういえば、仕事って、何撮ってるの?」
「報道だから、世界情勢、殆ど中東だな」
 報道カメラマンと聞いて、思い出すのは普通の国内の週刊誌程度しか透耶は思い付かなかったので、いきなり中東と聞いて種類が違う事を初めて知った。
 しかし、中東といえば、危険な事しかない。
「中東? 戦争とかそういう紛争とか?」
「まあ、そんなもんだ」
 そんなの何でもないという鬼柳。
 確かにカメラマンにしては、身体の筋力とか造りが違う気がしていたが、物凄く体力を使うのだろう。
 だが、鬼柳の言い方は、仕事が好きという感じではない。望んで始めたのじゃないんだろうか。透耶はふとそう思った。
「報道の仕事は好きで始めたんじゃないんだ。楽しいって言ったらあれだけど、やりがいがあるとはあまり思ってない?」
「んー? 何で?」
 鬼柳は呑気に聞き返したつもりだったが、内心は驚いていた。透耶は真剣に見ていた。
「だって、あんまりカメラに固執してないというか……」
「コシツ?」
 あーボキャがないんだ…。
 完全に日本人ではない鬼柳には、難しい言葉は通じないらしい。透耶は言葉を変えて言い直した。
「そういう人ってカメラが命より大事とか言うじゃん。鬼柳さん、あんまり大事にしてなさそう」
 出会った頃から、カメラを投げてしまうし、どうでもいいみたいな言い方しかしなかった鬼柳。透耶にはそれが不思議でならなかった。
 すると、鬼柳はファインダーから覗くのをやめて、カメラを抱えて視線を海の見える方へ向けた。真剣な顔をしている。
「透耶、知ってるか。カメラマンが何で一度に幾つものカメラをぶら下げて動き回っているか」
「フィルム替えている間にシャッターチャンスを逃さない為じゃないの?」
 透耶はいきなり鬼柳がそんな事を言い出したので、不思議そうな顔をして答えた。こんな話を鬼柳がするのは珍しい。いつもの甘えた口調などがまったくない。
「それもあるが、命を守る為なんだ。丁度心臓の場所にカメラがあることになる。そうすると心臓を狙われたらカメラが犠牲になって心臓が守られる。実際、そうして助かったカメラマンもいる。だから、カメラが命より大事って訳じゃない。命を大事にしないカメラマンが撮った写 真なんて、そこには何も意味はない」
 こんな話しは聞いた事はない。
 命を大事にしないと、意味がない。戦争地域にいったとしても生きて帰らなければ意味がない。
 命をかけてカメラを向ける人は、カメラを大事にしてはいるが、写した事実を何よりも大切にしている。
 だが、そうした戦争で傷付いた人を撮る暇があるなら、何故助けないと批難される事もある職業だ。
 だけど、そこに心がなければ、駄目なんだと言っているのだ。
 そうした写真を撮るカメラマンは、たぶん純粋だ。
 そして強く、でも傷付きやすい。
 そこまで思ってはっとした。
 報道カメラマンには、休暇はないはずだ。中東はいつも緊迫していて目が離せない。その中で一ヶ月以上も休暇を取るなんて、あり得ない。
 鬼柳は何も言わないが、そこで何かあったのかもしれない。
 鬼柳は最初に言っていた。カメラは大事じゃない、写した物が無事ならそれでいいと。そこに真実が写 っているなら、それだけでいいと。
 それって、実際に何かあったんじゃないの?
 でも、それは聞けなかった。そこまで踏み込んだ、プライベートな精神的部分まで、透耶は踏み入る事は出来なかった。
 そこが、エドワードが言っていた、鬼柳の闇の部分の一つなのだろう。
「……透耶!?」
 不思議そうな声で鬼柳が呼んでいた。
 何度も呼んだらしく、いつの間にか鬼柳が膝をついていて、透耶は肩を掴まれていた。
「あ、うん。ごめん」
「なんか、難しい話しした?」
 透耶は首を振った。
「どうして、そんな不安な顔をするんだ? 俺が仕事の話をしたからか?」
 鬼柳はどうやら自分が悪かったと思っているらしい。
「そうじゃない……。ごめんなさい、聞いたのは俺だもん。話したくない話だったでしょ。興味本位 で聞く話じゃなかった。だからごめんなさい」
 掴まれた腕に手を当てて、思わず握り締めてしまった。
「なんで、透耶には解るかなあ。別に話したくないって訳じゃないんだ。ただまだ整理がつかなくてな。俺の不安が伝わっちゃったか」
 鬼柳はそう言って、透耶を引き寄せて抱き締めた。
 透耶は胸に顔を埋めて目を閉じていた。
「不安って伝染するんだ……近付けば近付く程、伝染するんだ」
「伝染? 病気じゃないだろ?」
 なんて真面目な解答が返ってきたから、透耶は苦笑してしまった。
「違う違う。伝わるって事。それも病気みたいに相手に伝わって染まるんだよ。だから伝染」
「へえ、いいなあ。透耶と同じ病気かあ」
「よくないよ。不安だよー」
「そうだなあ、同じなら、幸せとか、快感とか……」
 なんかやばいこと言いそうだ。
 透耶は慌てて鬼柳の口を手で封じた。
「それ以上はいい!」
 塞いだはいいが、その手を舐める鬼柳。逃げようとする手を掴んで、鬼柳は透耶の指先を舐める。
「き、き、き、鬼柳さん!」
 最初に二人が触れたのは、確か指先だった。
 大事な物を扱うように、鬼柳は指先にキスをする。何か神聖な儀式のようなで、快感を誘うものではなかった。
「綺麗な指だな。何かやってた?」
 それは鋭い指摘だった。
 殆ど何もやった事がない指。重い物を持つ事や、包丁すら持たせて貰えなかった、唯一の作業しか出来ない指。傷つけられ、そして、それをやめてしまった指。
「この指は、何も出来ない指だったんだ。なのに唯一の事も出来なくなった、馬鹿な指。嫌いだった。あの時に指なんてなくなればいいって思った」
 知っている人は仕方ない。でも知らない人には、たぶん言わないだろう。そうした秘密が透耶の中にあった。
 だけど、それをこうして鬼柳に言えるとは、透耶は自分でも驚いていた。あの話は切り出せないのに。
「もったいない。指切ったら俺に頂戴」
「何で?」
「ホルマリンに漬けて毎日眺める」
「それってマニアで変態だよ……」
「マニアでも変態でも何でもいいよ。透耶の一部が貰えるなら。でもここから無くなるのは、やっぱ嫌だ」
 そう言って、手首にキスをする。そこにあるモノ。鬼柳は気が付いている。
 濡れているから、雫を舐め取っていく。
「今はこの指が物語を作ってるんだな」
「そうだね」
 鬼柳は何があったかなんて聞かない。話したくないなら、話さなくてもいいと、無言で言ってくれている。
 そういう所は繊細で優しい。
 物語は口答でも伝えられる。
 でも、指でなければ出来ない事がある。
 確か、この屋敷にもあったよな……。
「後で、この指が何をやってきたのか教えてあげる」
 透耶はそう言って立ち上がった。
 鬼柳は不思議な顔をしていた。
 その言葉には、悲しい響きがあるのを鬼柳は見逃さなかった。
「さて、お風呂入ってこよう。ぐしゃぐしゃだ」
 透耶がそういうのを待っていたかのように、石山と富永がバスタオルを持ってやってきた。


 

 
>  風呂から出ると、鬼柳が夕食を用意していた。
 ここへ来てからも、鬼柳は食事に関しては料理人は使わず、掃除だけやらせている。
 鬼柳は異様に料理が上手いから、口出しする人はいないし、使用人やら、SPの人の分も作り、美味しいと評判なので誰も文句は言わないどころか、食事を心待ちにしている人ばかりだ。
 テーブルの上には日本食が並べられていて、二人で食事を取る。ただ、この食事のルールが問題だ。
 透耶が座って、いただきます、をして食べ始める。
「うん、美味しい。これ何?」
「んー、これはなー」
 てな会話が始まらないと、使用人達が食事が出来ない有り様だ。鬼柳が、この食事は透耶の為に作っている、という言葉があって、それに皆が従っているのだ。
 だが、さすがにエドワードが選んだ人材だけあって、厳しい 規律を守っており、どんな事にも口出しはしない。
 鬼柳と透耶の関係が、そういう関係である事は解っているだろうに、見る目は変わらない。
 食事が終わって、食器を下げに来た使用人に透耶は問い掛けた。
「すみません、さっき頼んだ事ですけど……」
「はい、御用意出来ております。いつでもお使い下さいませ」
 使用人に礼を言って、透耶は席を立った。
 その会話を聞いていた鬼柳が不思議な顔をした。
「透耶、何?」
「うーん、ちょっとね」
「ちょっとって?」
「後で呼ぶから少し待っててくれる?」
「待ってればいいのか?」
「うん」
 透耶が笑顔で頷くものだから、鬼柳も頷くしかない。
「解った。コーヒー用意してる」
 鬼柳がそう言ったので、透耶は安心して用意された部屋へ向かった。
 そこは防音の部屋らしく、誰が使うのか知らないが、完璧な部屋だった。
「エドワードさんが使ってるのかな?」
 そんな事を思いながら、それに触れてみた。
 懐かしい、そんなに経ってないのに、そんな事を思った。
 きっと、これから一生触らないだろうと思ったのに、鬼柳の話を聞いていて、逃げてはいけないのだと思った。
 好きで始めたものではないにしろ、今までやってきたのは、少なくとも好きな気持ちがあったからだ。
 捨てようと思った。だけど、今はやらなきゃと思った。
 座って、軽くやってみる。
 怖かった物が今はそんなに怖くはない。
 大丈夫、ちゃんと話せる。
 


「透耶? 出来るのか?」
 鬼柳が透耶に呼ばれて行った部屋に入ったとたん、そう言った。
 そこにあるのは、グランドピアノ。
 最上級のピアノ。
 手入れも調律もされていて、音も美しかった。
 透耶は椅子に座って、鬼柳を見上げた。
「リクエストは?」
 クラシックなんて解るかな?などと思っていた透耶だが、鬼柳は少し考えて口を開いた。
「トロイメライ」
「ははー、シューマンだね」
 透耶は笑ってピアノに向かった。
 息を吐いて、指を乗せる。
 指は練習をしなくなってから、もう一年と半年以上動かしてなかった。プロ並とはいかないが、それでも素人が聞けば聞ける音は出せる。
 忘れたはずの楽譜も、今は頭の中に蘇っている。
 この曲はそれほど長い曲ではない。どちらかと言えば短めの曲だ。
 鬼柳は滑らかに動く、透耶の指を眺めて動けなかった。
 どうして?それが口から出そうだった。
 これだけ綺麗な音を出せるのに、指だって動いている。透耶はピアノでプロを目指していたんじゃないか?なのに今は物書き? 
 短い曲はすぐに終わってしまった。
 それでもピアノを弾くという事は体力を使う。
 透耶は間違えずに、指もちゃんと動いた事に、安堵していた。
「透耶、どうして?」
 不思議そうな鬼柳の声が降ってきた。
 どうして?は、何故ピアノをやめたのか、という意味だ。
 透耶は軽い曲を力を入れず弾きながら話し出した。
「うん、俺、ずっとピアノやってたんだ。高校もそういう学校で、ずっとやっていくんだと思ってた」
「……どういう流れでって聞いてもいいのか?」
 少し不安そうな鬼柳の声に透耶は頷く。
「うん、鬼柳さんには話そうと思って、ピアノ弾けたら言おうと。でも、まだ怖い。聞きたく無くなったら言って、やめるから。あまり人には聞かれたくない話だからさ」
「解った」
 鬼柳は頷いて、近くにあった椅子を持ってきて座った。
 それを確認して透耶は話始めた。
 


「物心ついた時には、もうピアノやらされてて。母親がね、ピアノのプロだったんだ。父親は調律師っていう音楽一家。しかも父親の実家もピアノ一家で、調律師になった父を許してなかったんだ。お祖父様が子供にピアノをやらせる事で、何とか認められてた感じ。こういう家で、しかも双子だったから、変に注目されてさ。妙な取材とか受けさせられたりして、そのうち、光琉の方が、モデルの方に興味を持って、ピアノをやめたいって言い出した。俺は特にそういうのはなかったし、その時にはもう物語を書いてたから、それが出来る時間があれば、ピアノも悪くはないって思ってて。もちろん、親は何も言わなかったけど、お祖父様が干渉してきて、光琉がピアノを辞める条件で、俺がピアノを続けてお祖父様が決めた道を行くって約束をしたんだ」
「それじゃ、透耶が損してる」
「ははは、皆そう言うね。光琉もそう言った。でも俺はそう思わなかった。ピアノをやっててもお祖父様が期待している様なプロになれる訳でもなかったしね。俺のペースでやってたら到底無理なのは解ってたから。それからはもうお祖父様の干渉に接ぐ干渉。物語なんてやってる暇なくて、一日中ピアノかお祖父様の用事。中学の頃は段々ピアノが嫌いになって、辞めたくて仕方なかった。身内の期待っていうのかな?とにかく凄くて、お祖父様や母親がプロだから、周りからは嫌み言われて、何で俺ピアノやってんだろう?って真剣に悩んでた」
「……だから、指無くなればって?」
「うん、そう。いっそのこと指が駄目になれば、ピアノ辞められると思った。でも習慣で指かばっちゃうんだ。高校もお祖父様が決めた所で、東京の学校だった。条件で、独り暮らしさせてもらって、でも家事は駄 目だったけど。そこは皆プロになろうとしている人ばかりで、俺には、その蹴落としてもってのについていけなくてさ、それでもコンクールとか出るような実力があって、矛盾しちゃってた」
「透耶が上手かったんだ。実力だ」
「ありがとう」
 透耶は微笑んでいたが、手が震えていた。
 ここからが話の重要な部分だった。
 だけど、思い出しても怖い。
「透耶。話すのが怖かったら、もういいよ」
「……指が無くなったら……その意味はもう一つあるんだ」
「解った、聞くから、深呼吸して。ちゃんと息を吸うんだ」
「うん」
 透耶は深く息を吸って、心を落ち着けた。
 大丈夫、この人は聞いてくれる。
「俺は、声楽の友人の練習の為に、練習室に深夜まで残ってたんだ。そこは、部屋の内側から鍵がかかる部屋で、誰にも邪魔されない所なんだけど。ピアノを弾いてあげて、練習してた。そしたら友人が……。いきなりナイフを出して、こう言ったんだ。『恋人になってくれ』って。意味が解らなかった。どういう事だって思った。だけど、向こうは真剣で、俺の断わりの言葉なんて聞いてなかった。腕を押さえ付けられて、馬乗りになって、『誰も来やしない。騒いだりしても無駄 。いうことをきかないと、指を切るぞ』。そう言われて、俺、何を思ったんだろう。別 に無くなっても構わないって、そう思ったんだ。どうせ指が無くなれば、ピアノ辞めれるし、死んでもいいや、そんな考えだった。だから、ナイフに向けて腕を振り上げたんだ」
 透耶は言って、自分の腕を上げて、手首を見せた。
 そこには深い傷痕がある。一本の赤い筋。
 もちろん、鬼柳も気が付いている傷。
「ナイフはここを切った。びっくりするくらい血が出て、友人はまさかそんな事が起こるとは思わなかったらしい。気が動転して、ナイフを投げて逃げ出した。俺は血が流れ過ぎて動けなかった。まあ、これも寿命かって思ったけど、見回りの先生が来て、俺を発見して病院に連れていってくれた。でもね、こういう事が起ったって事は内密にしてくれって言われた」
「何故だ?」
 鬼柳はまだ手首の傷を見ている。
「その友人はね、声楽ではホープだったんだ。コンクール前で。親御さんにはそんな事言える訳ないよね。息子が男に迫って怪我させただなんてさ。それに学校ってのは、事なかれ主義。えっと、学校では問題は何もない、って言い張りたいんだ。そういうのは日本の学校の典型だけどね。だから、この傷は俺が不注意でやった事にしてほしいって。俺も事を公にはしたくなかったから頷いたんだ。俺が動かなければ、怪我しなかっただろうしね」
 自虐的な自分を嘲笑うように言うと、鬼柳と視線があった。
「透耶、それは違う。抵抗して当たり前だ。怪我させて逃げるなど、そいつは本当にお前の事を好きだったのか? 矛盾している。責任は取るべきだ。それくらいの覚悟もなかったのか」
 鬼柳はそいつ頭大丈夫か?と言わんばかりの口調だ。
 透耶は少し笑った。鬼柳なら責任を取るだろう。この人は自分に触れる為に、そうした事も含めて考えていてくれているのだから。こういう言葉が出てきても何ら不思議はない。
「鬼柳さんはそうだろうね。でも、そいつは弱かったんだ。俺は何も言わない、何もしない。ピアノを一時的に辞めるには好都合だった。そのお陰で自業自得の怪我をしているって騒ぎになって、周りは笑ったよ。けどそんなのは気にもならなかった。だけどね、人の口には蓋はしにくいもので、そいつが俺に迫って、腕を傷つけたって噂になった。噂はただの噂で、誰かがそれを見た訳じゃなくて、俺とそいつの態度で予想したんだろうね。実に的を射てたよ」
「……」
「そいつは、謝りにきた。傷つけたのは悪かったって。でもそいつは噂になったから、それを本当にしようってまた迫ってきた。馬鹿じゃないのか?って正直思った。噂を本当にする為に俺をどうにかしようなんて、俺を馬鹿にしてないか?って。だから、言ってやったんだ。『そんな下らない理由で俺に触るなら、俺は自分の指を全部無くす。ピアノも辞めて学校も辞める。お前の前から完全に消えてやる』って。俺さえいなければ全部収まると思ってた。今度は俺がナイフを持ってた。そいつが前に持ってたナイフを護身用に持ってたんだ。ナイフを振り上げて指を切ろうとしたら、そいつがナイフを取り上げた」
 透耶は一旦言葉を切って、深呼吸をした。目を瞑り息を吐いて続きを話し始めた。
「そいつは取り上げたナイフを俺に突き付けて言った。『そんなに俺が嫌いなのか?どうすればいい、どうすれば俺の言う事を聞いてくれる』って。俺は『何を言っても聞けない、目障りだから消えてくれ、それだけでいい。もう一度でも同じ事を言ったら俺が死んでやる』とハッキリ言った。これでもう俺に構わなくなると思った。俺さえ居なくなれば、こいつはそんな馬鹿な事はしないって。それなのに……」
 透耶はまた言葉を切った。気を失いそうな感覚が襲ってきて、いっそ話を止めようかと思った程だ。目を開けると鬼柳が無表情で見つめていた。静かな目。
 透耶はまた目を瞑って話を続けた。
「部屋を出ていこうとしたら、そいつは追ってきて。皆が見ている前で……『俺の為だけにピアノを弾いてくれ。お前の音が好きだった』そう言って、ナイフで自分の喉を突いたんだ!」
 人がなんの迷いもなく、自分の喉を刺す。
 自慢であるはずの声を出す場所。何より大切なもの。
 それを壊してしまう人。
 今でも鮮やかに思い出す事ができる。忘れたくても忘れられない光景。
 透耶は震える声で続ける。
「血を……口から血をいっぱい吐いて、もがきながら、俺を見てるんだ……。口が動いて、声にはならなかったけど、そいつは言ったんだ! 『これでいいんだろ。だから好きになってくれ』って!」
「透耶! 落ち着け! もういい!」
 崩れ落ちそうな透耶を鬼柳は抱き締めた。
 抱き締める腕が震えている。
 やっぱり、この人は優しい。俺の為に身体を震わせている。俺はそんなに思ってもらえる程、綺麗じゃないのに。
 鬼柳の胸に顔を埋めたままで、透耶は話を続けた。
 指が無くなったらいいのに、と思っていた、もう一つの訳を最後まで話す為に。
「俺は、そいつが、死んでいくまで見ているしか出来なかった。……最後に手を差し伸べる事も、助けを呼ぶ事も。誰かが叫んでいるのも、誰かが何か言っているのも、何も聴こえなかった」
「………」
「学校側から色々聞かれたけど、俺は知らないって言い張った。意見の食違いはあったかもしれないけど、俺が怪我したのは自分でやった事だし、そいつがどうして自殺したかなんて知らない。でも知ってた。俺が追い詰めたんだ。俺の指がもっと早くに無くなってたら、俺がもっと早くピアノを辞めてたら、こんな事にはならなかった! 俺があんな事言わなければ、もっと気の効いた事言ってれば! 俺は自分の事しか考えてなかった! ピアノを辞めたかったから、俺はそいつを利用したんだ! 俺、さっさと死んでしまえばよかった!」
 苦しくて、今まで誰にも言った事のない言葉を吐き出していた。きっとこんな言い訳、誰にも通 用しない。そんな事自分が一番良く解っている。
「利用してない。透耶が透耶自身の事を考えているのは当たり前だ。そいつは自分で自分を追い詰めたんだ。そいつこそ、透耶の事を考えてなかった」
 鬼柳がそう言った。慰めているのではなく、率直な意見として。
 だけど、透耶は首を振った。
 そうじゃない、少しでもそいつの事を見ていたのなら、少しでもそれに気付いてやるべきだった。
 だが、それは向こうにも言える事だった。好きなら、透耶がピアノを辞めたがっている事に気付くべきだった。けれど二人ともそれに気づける程、深く付き合っていた訳ではなかった。そして幼すぎた。それ故に起った悲劇。自分より確実に長生きするだろう相手を、そういう事で殺してしまった。
「そこまで考えてたなんて知らなかったんだ。自分を殺す程、俺を思っているなんて知らなかったんだ。ピアノを前にすると、そいつの声にならなかった声が聴こえるんだ。そしたら、ピアノが怖くなった……」
 透耶は震える声で言った。
 鬼柳は、やっと透耶がここを見た時に凍り付く様にピアノを見ていた訳を理解した。
 亡霊を見たのだ。
 今、透耶は懺悔している。
 誰にも言わなかった声を、心を、それを自分にだけ伝えようとしている。
 そして、それを乗り越えようとしている。
 しかし鬼柳は気が付いていた。
 透耶は自分が死ぬ事に関しては無頓着なこと。むしろそれを望んでいる事。他人が自分の事で死ぬ 事を何より恐れている。それなのに、自分の死は恐れも感情も死にたくないと思う事もなく、当り前であると受け止めている事。どうしてそんな考えをしてきたのか、鬼柳には解らなかった。
「怪我が治っても指は動かなかった。ピアノを弾けなくなったピアニストは用済。学校へも行けなくなった。ちょうどいいって光琉が、自分が通 っている学校へ転校してこいって言ってくれた。ピアノを辞めるって両親に言おうとした時、両親が乗っている飛行機が海外で落ちて、死亡者に名前が載ってた。学校から、事件の事で連絡があって、両親は慌ててその飛行機に乗ったんだ。その翌日にお祖父様が死んだ。俺の所へ来る途中で車にトラックが突っ込んで即死だった。俺がピアノを辞めようとすると、それを止める人が皆死んでいく。だからピアノは怖い。もう二度と触れないと決めた。俺が迷ってるから駄 目なんだと思ったから。やっぱり俺は呪われてるんだ」
 そこまで言って透耶は顔を上げた。
 泣き笑いのような顔で、鬼柳を見上げた。
「ごめんなさい、こんな話しちゃって……」
 そう言って立ち上がろうとした透耶を鬼柳が引き寄せた。
 顔中にキスを降らせて、その泣き笑いの顔をどうにかしたいと思った。
 このまま一人にしたら、透耶はまた自分の中にこの事を押し込めてしまう。そして一人で泣いてしまう。その泣き声は誰に聞かれることなく、深い闇の追いやられてしまう。
 それだけはさせてはならない。
 辞めたピアノ、怖いと言ったピアノをまた弾こうと思ったのは、自分の為だと鬼柳には解っていた。
「俺の為に、ピアノ弾いてくれたんだな」
 嬉しくて泣きそうだった。
 すると透耶は顔を真っ赤にさせて頷いた。
「誰かの為に、弾きたいって思ったの、初めてだったから」
「ありがとう。良かった……透耶の指が無くなってなくて」
 愛おしくて、透耶の指にキスをした。
 一本一本、自分の為に動かしてくれた指にキスをした。
 透耶はそれをジッと見ていた。
 まるで洗礼されているかのように。
「たぶん、俺がこれから先、ピアノを弾くのは、鬼柳さんの為だけなんだと思う。それだけの理由でしか弾かない、弾けない」
 透耶は真剣にそう呟いていた。
 喜ばせようと思ったのではない。本当にそれだけの理由でしか、ピアノの前に立てない。
 この人の為に弾こう。そう思っただけだった。
 いつか離れなければならない人なのに、透耶の中ではもう鬼柳は特別な存在以外の何物でもなかった。
 それを聞いた鬼柳は、それは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
 好きだと言われるより、愛の言葉を聞いた気がした。
「最高の言葉だ」
 透耶はにこりと微笑んだ。
「ありがとう、俺の話を聞いてくれて」
「それは俺の言葉だ。ありがとう、誰にも話してない透耶の話をしてくれて。俺、ちゃんと頼りにされてるって自信持っていいんだな」
「なんで、話そうと思ったのか解らないんだけど」
「いい、いい。俺に話したいと思ったら、いつでも何でも聞くから。透耶の話をして」
「俺の話なんか楽しくないよ」
「そんなの関係ない。透耶の事が知りたいだけだよ。ピアノ辞めた後の話もして」
「まあ、いいけど」
 何も面白くもないのになあ。
 と呟きながら、さっきの話の続きを始めた。




 台所でコーヒーを貰ってきて、またピアノのある防音室で話をしていた。
 ここなら、話が漏れる事もない。誰も聞けない。二人だけの世界だった。
 三人掛けのソファに寝転がった鬼柳が、透耶を抱き寄せて身体の上に乗せる。普段なら透耶は抵抗しただろうに、今はくっついていたかった。
「お祖父様に、両親が一気に死んじゃって、俺暫く思い通りに動く人形みたいにさ、光琉の言う事しか聞かなくて、あっち座って、こっち来て、ご飯食べて、風呂入ってって、言われないと何も出来なくて。全部光琉がやってくれてた。あいつだって仕事とかあって忙しいのにさ。俺は俺でお祖父様方の方の処理をやってた。忙しくて、弁護士、税理士、他も色々あったけど、複雑過ぎるから省くね。とにかく身の回りの事は光琉に言われないと何も出来なかった」
「言う事を良く聞く透耶も可愛いだろうけど、目が死んでるのは嬉しくないなー」
 鬼柳なら喜んで世話しそう。などと思って透耶は笑ってしまう。
「はははは。まあ、色々あって、地元にあった両親の家は処分して、俺達は東京にあるマンションで暮らす事にしたんだ。親戚 とかが面倒見たがってたらしいけど、光琉が言うには、財産目当ての犬なんだってさ。お祖父様の遺産は、俺だけが相続人だったんで、詳しい内容は省くけど、貰えないはずの親戚 にも相当な額を相続させて、すんなりいった。それだけでも凄いのに、両親のも相当な財産が残ってた。今見るとびっくりだよ、よくあんなに残してたって思うくらいでさ」
 本当に凄い額だった。そんなにプロって儲かるの?と思ったくらいだ。だから皆あんなに真剣で、認められようとして、相手を蹴落としてでも頑張る訳だと、初めて透耶は納得したくらいだ。
「そりゃ、本物のプロだったんだよ。そういう人は、色々な所から呼ばれる。金額も相当なもんだって言ってた。透耶達が小さい頃から注目されてたのも、母親がやっぱり凄かったからだよ。コンクール総嘗めしたとかな」
 そう言われて、透耶はふと考え込んだ。
 母親は確かにプロだった。だが、透耶は、どれほど凄いのか、そんな事聞いた事はないし、母親も言った事はない。母親の評判は、周りのピアニスト志望のライバルから聞かされたくらいだ。だから、世界でどれほど認められているのか、そういう事には一番疎かった。
「うーん、どうだろう? そういうコンクールの話しはした事ないけど、家の納屋にトロフィーとか賞状がやたらあったのは覚えている。部屋に飾る趣味はなかったらしいよ」
 それも無造作に、さすがに賞状は額に入っていたが、箱の中に押し込められていた。居間には、光琉が学校で貰った図工の賞状なんかの方を家に飾ってあったくらいだ。透耶の賞状は押し入れに押し込んでた。透耶はそういう物を飾るのを嫌がったからだ。
「はっはー。透耶そっくりだな。そういう賞状とか、栄誉とか、そんなのより、実際にやれてればいいって所。過去の栄光より今何をやるかって事だな。そういう所はカメラと似ている」
 鬼柳にそう言われて、透耶はそうか、などと気が付いた。
 母親と似ている、それは良く言われた。それは顔形の話で、性格とか、行動とかは言われた事はなかった。
 こういう些細な所も似ていたんだ。
 それは面白い発見だった。
「それから?」
「うん、光琉は一緒に住みたがってたけど、俺は別の方がよかったから、マンションだけ移った。前のマンションは、ピアノ用の防音、ピアノ付きの部屋だったし、賃貸だったから、お金もかかる。財産ってそうすぐに使えないらしいから、光琉に借金して、マンションを買ったんだ。本当はアパートでも良かったんだけど、許してくれなくて。その時くらいからかな? 考え事すると周りが見えなくなって、気が付いたらここ何処?とか言い出したのは」
「ああ、そうか。今までピアノという物しか見てなかったから、ピアノしながら考え事してたな。それが無くなったから、抜けた感じになって、暇になった分、普段でも出始めたんだよ。元から考え込む性格だったけど、対象が違うようになったのさ」
 明確な説明を鬼柳がしてくれたので、透耶は初めてそれに気が付いた。
「なるほど、そうなのかあ。確かにピアノ弾いてる時、色々考えてたけど、ピアノをどう弾くとか、この曲はこうしようとか、そういうのは考えてなかったなあ。気が付いたら終わってるって思ってたから、そんなもんなんだーってずっと思ってた」
「さっきは、どうだった?」
「うーん、凄く緊張してた。上手く弾けるかな?失敗しないか?音は大丈夫か? 後は、鬼柳さんが気に入ってくれるかなあって事だけ」
 小首を傾げている透耶を見て、鬼柳ははあっと息を吐いた。
「あんまり可愛い事言うなよ」
「は?」
「立ってきた」
 何が?とは聞かなくても、鬼柳がそういう言い方をするのは、あれしかないわけで。
 透耶は慌てて身体を起こした。
「うわ!ちょちょっと!」
 だが、やっぱり逃げれる訳ない。腕を掴まれて引き戻される。
「嘘。キスだけさせて……」
「んーもう、キスだけだよ」
 キスだけで済むなら、鬼柳相手には一番安い対処の仕方である。透耶は学習していた。
 仕方ないと、下になっている鬼柳に、透耶からキスをする。
 軽いキス、触れて離れるだけのキスだった。鬼柳は無理に求めようとはしなかった。
 唇が離れると、鬼柳は幸せそうに微笑んだ。
「どうしよう、幸せで死にそうだ」
「何言ってんの……」
 苦笑してしまう透耶。
 
「で、それから?」
「うん。学校辞めたのは、2年が終わってからだけど。事情が事情だったから、考慮してくれたらしくて。半年、まったく行ってなかったけど、行っている事にして、家庭の事情で辞めたことになってた。その半年の間に、物語を書く事を始めたんだ。すごく面 白くて、楽しくて、ずっと書いてた。下手だけど、光琉がそれを勝手に印刷して学校へ持って行ったりして、人に読んでもらってた。俺はそれ知らなかったけど。で、3年になって編入したら、俺、そこで物書きさんって言われてたよ。光琉の兄で、物書きさん。誰も俺がピアノをやっているのを知らなかった。うーん、知ってたかもしれないけど、誰も言わなかった。色々言いたがる人もいそうなのに、光琉の友達は何か俺を守ってくれてた。俺もボケた性格だからさ、事件の事がバレても同姓同名じゃない?とか言ってたし。ほら、実家が東京じゃないし、親が死んだ事は皆知ってたから、転校してきてもおかしくはなかった状況でしょ。一年くらいは誤摩化せた。学校は楽しかった、俺、普通 じゃない所ばっかり行ってたから、学園祭とか体育祭とか知らなかったし、学校行事も面 白かったよ。でも、修学旅行は行けなかったな」
「ガクエンサイ? タイイクサイ? シュウガクリョコウ?」
 おーっと、カルチャーショック。
 外国人さんには日本の風習は解りません、とばかりな、カタカナ発音の鬼柳。
「あー、アメリカとかにはないのかな? 学園祭ってのは、学校全体で、出店、解るかな? お祭りに行くと、道ばたにお店出てるでしょ。たこ焼きとか、焼そばとか、金魚すくい。そういうのを、学生が学校内でやるわけ。もちろん、一般 客も入れて、お金も取って。演劇とか出し物をやるんだ。三日間ね。その準備とかも一ヶ月まえからやりはじめて、その準備も楽しいんだ」
 そう説明すると、鬼柳は不思議そうな顔をした。祭りを学校内でやり、しかも一般 客も呼ぶ。凄いイベントだ。
 だけど、内部に入るには前売りチケットが必要で、一般客でも学校関係者から買わなければ入れない、と透耶が説明すると、納得したようだった。
 まさか、通りかかった人が、ひょっこり入れると凄く危険じゃないかと思ったのだ。
 そういう場合は、トラブル処理の学生警備員が巡回している訳なんだが。
「学生がやるって事は、売る人も学生で、作るのも学生なわけだ。透耶は何をやったんだ?」
「俺? クレープ店の呼び子」
「ヨビコ?」
「あー。いらっしゃいませー、クレープどうですか?って通るお客さんを呼ぶんだよ」
「エプロンとかして?」
「う……」
 いい淀む透耶。勘付く鬼柳。
「はあー、何かされたな。女装か?」
 図星。
 隠しても仕方がないと、透耶は力なく薄情した。
「定番中の定番で……。フリフリフリルのピンクハウス……ウェーブした胸くらいまでの髪のカツラにリボン。フリフリなエプロン。化粧とかされて……。でもクラスの売り上競争で、トップなら商品、打ち上げ費用が貰えるから、誰も妥協してくれなくて。しかも笑って愛想よくしないと、後が怖かったし、三日だけだったから我慢した。思い出してもかなりブルー……」
 鬼柳はその姿を想像して、決定的な言葉を言った。
「男にモテたな」
 鋭すぎる。
「う……。悲しいことにもてまくりだよ。俺の女装写真、4桁いったってさ」
 不名誉な記録残したよな。と透耶は呟いた。この記録は破られる事はないと言われた事を思い出した。どう計算しても、誰かが2~3枚以上買わないと、4桁なんていかない。
「4桁? 千枚? すげー。写真屋大儲け。内分けは?」
 鬼柳は素直に驚いていた。売りだから、プラスα。値段にしたら、相当な額だ。
 だが、透耶は憮然とした顔で言った。
「あるわけないんじゃん。闇だよ、闇販売。誰が売ってるんだか解らなかったんだよ」
 つまり通常の写真販売より現像代、プラスαが大きい訳だ。
 まさしくボロ儲け。笑いが止まらなかっただろう企画者。
「見たかったな。随分可愛く出来てただろうに……」
「そういう趣味なの?」
 透耶が鬼柳を覗き込んで変な顔をした。鬼柳は溜息を吐いて、そうじゃないと説明した。
「透耶だから見たいんじゃないか。他の奴が上手く化けたってみたかねえよ」
「はっはー、たぶん、写真あると思うけど。光琉が面白がって取りまくってたから」
「ふーん。面白そう。今度写真撮らせて」
「はいはい、今度ね」
 なんかどうでもよくなってきたよ。
 どうでもよくなっても、鬼柳に生返事で変な事を約束してはいけない事に、透耶は鈍くて気付いてなかった。
 後で悲劇が待っていよう。
 しかも、女装、という部分。
「まさか、男に迫られたとか……」
「あはははは。さすがに押し倒されはしなかったけどね。周りに人がいたし、俺の周りはガードが固いんだ。ラブレターは随分貰ったはずだけど。俺、一部しか知らない」
「はあ?」
 意味が解らないと、鬼柳が顔を上げる。
 透耶は苦笑して説明した。
「ガード固いっていったでしょ。俺に直接話を通す前に、何故だか生徒会へっていう指示が出てたんだ」
「ははあ、協定だな。抜け駆けは許さないってやつか」
 そう言って、鬼柳は納得した。
 たぶん、そこでラブレターの内部を見て、危なそうなのは透耶に見せないようにしてたはずだ。もちろん、プレゼントの中身も然り。
「可笑しいんだけど、そういうのって女の子の方が積極的でさ、怖いんだよ。助かったけどさ。その女の子達のお眼鏡にかかららない奴は、俺に一歩も近付けない訳。当麻っていう生徒会副会長のカリスマ女生徒が、光琉の幼馴染みで、女生徒のボスっていうのかな。仕切ってんの。逆らうと、校内の女生徒全部敵に回すってくらいに権力持ってた」
 そう当麻を説明すると、鬼柳は感心した。
「けん制。所有している訳ではないが、管理者である主張をしてたわけだ。女を全部味方につけるあたり、頭いいな、その当麻って奴」
「俺もそう思うよ」
 それで随分助けられたのは事実だ。
 それから、鬼柳が解らないと言った言葉。
 体育祭を説明すると。
「なるほど、オリンピックの地域限定学生版?」
「あー、まあ、そんな感じ。微妙に違うけど」
 修学旅行を説明すると。
「はああ。よく解らないが、学生旅行を集団で手っ取り早くやる方法って事か」
「うーん、間違ってないけどね」
 何かが違う気がする。
 やっぱり、感覚が違うのだろう。


「なんか、聞いてると、やっぱ透耶が損してた気がする」
 鬼柳は、透耶が学校を転校してからの方が、あまりに楽しいかったと笑顔で話すものだから、そう思った。
「光琉の方が得してるって?」
「そう」
「でもね、俺は妥協してただけで、光琉は自分の道を早くから見付けたってだけなんだ。俺が要領が悪いだけだよ」
 透耶は苦笑している。
 たぶん、透耶は光琉の気持ちは解ってない。鬼柳はそう思った。透耶は要領が悪いだけと思っているから、気が付かない。
「だから、光琉は気にして、透耶に構うんだ。小さい時に透耶に親の期待を全部押し付けて、自分だけ楽でやりたい事に逃げたから、今になって後悔してるんだ。透耶を物書きにしたかったのも、それがあったからだろう? 透耶がやりたい事があるなら、全力で何かをしてやりたい、やらなきゃならないと思ってるんだ」
 意外な言葉だった。
「へえ……鬼柳さん、凄いや。俺、そんな風に考えた事ない。光琉が俺に対して負い目を感じてるなんて思ってもみなかった。ああいう性格になったんだと思った」
 弟が、あれほど自分に干渉するのは、ただ自分がとろいだけだと透耶は思っていた。
 確かにそうだから、言って貰わないと駄目な時もある。
 自分は駄目だから、弟に迷惑をかけていると思ってる。
 だから、ありがたいと思っていた。いつも感謝していた。
 しかし、鬼柳は言う。
「そういう所が透耶のいいところなんだよ。与えられる好意をそういう風に偏見なく受け入れる。純粋にありがとうって思ってる。何が起っても人のせいにはしない。自分が悪いって言う。だけど、弱い訳じゃない。芯があるっていうのかな? だから、人が集まってくる」
 透耶は、そんな風に見てもらった事はないし、自分で感じた事もなかった。照れて赤くなった。
 鬼柳は今まで見ていた透耶はそういう人間だと感じていた。あの事件さえも、透耶は自分のせいだと思っている。
 自分が、自分が、そう言って、自分を責める。
 そうして悪いと思っている事を内側に隠して、自分は傷付いてない、大丈夫だと言い聞かせている。
 きっと、本気で怒った事はないんだろう。感情をむき出しにして行動した事がないんだろう。
 でも今は違う。怒るし、拗ねるし、よく笑う。笑うの種類が違う。
 もう少し、時間をかければ、透耶は変われる。
 そして、鬼柳自身も変われる気がした。
「そんなに誉めて貰っても、恥ずかしいだけだよ。俺はぼけているだけで、周りをあんまり把握出来ないんだ」
 そう透耶が言うと、鬼柳がクスクス笑い出した。
「何?」 
「最初もボケてたな」
 鬼柳の言葉に透耶は昼間、石山が言っていた言葉を思い出した。
「ああ!SPの人に話したでしょ!」
「……仕方ないだろ。俺があんまり過保護にし過ぎるって富永の奴が言うから、最初透耶はボケてて、真冬の海に直進して、溺れる所だった。で、自分でそれに気が付いてなかったって正直に話したんだ」
「……そういうのは少し誤摩化して話してくれない。もうあんな事ないから」
「それを聞いた富永はなんて言ったと思う?」
「え?」
「はあ、それは大変です。一人で行動させるのは、屋敷の中でも危ないですねえ。だってよ」
「俺って何なんだ? そこまで酷くないと思う」
「んー? さてここへ来て、透耶は屋敷の中で、何回使用人に『透耶様、大丈夫ですか?』と聞かれたでしょうか?」
「う……。5回くらい……」
「あ? 何回?」
「あ、10回くらいかなあー」
「俺が見てただけで、20回。報告されただけで、20回」
「え! そんなに? 嘘だ!っていうか、報告って何!? なんで連絡網があるんだよ!?」
「知らねえの? 使用人の交代時間に、『今日は、ここで透耶様が詰ま付きました。調度品はもう少し寄せて下さい』『階段で落ちそうになりました。これからは、一人階段で見張りをしてください』とか言われてるぞ」
「……なんの受け継ぎだよ」
 普通、仕事の受け継ぎは、仕事内容であるべきである。
 ここでは、透耶が何処でどうなったのかが、報告の日課になっているのだった。
「道理で、人に見られていると思ったよ。何処に行っても使用人がいるし、いない時は、鬼柳さんか、SPの人がいるし」
 おかしいとは思ってた。透耶は自分が行く先々に人がいるのは、こういう屋敷の特徴だと思っていた。
「だったら、もっと気をつけるんだな。ただでさえ危ないんだ。外なんか出したら、絶対、次の瞬間、ここ何処?とか言ってるに決まっている。下手したら言いたくても言えない状況になってるかもしれないぞ」
 鬼柳が真剣に言ったので、これは大変な事になってると透耶は思ってしまった。
「……うん」
 だけど…と付け加えたかったが。
 透耶が素直に頷いたので、鬼柳は少し不審に思ったらしい。
「いやに素直だな」
 透耶は視線を上に上げて、困ったなあという顔をした。
「……えっとね。お願いがあるんだけど」
「何だ?」
 こういう時に出るお願いは、大抵決まっている。
 鬼柳の声が厳しくなった。
 物凄く言いにくい状況の透耶。
 普通なら誰もそれを言えないだろうが、透耶は言える。
「明日、買い物にいきたいなあーって」
「何で?」
「行きたい所があって」
「何処へ?」
「本屋なんだけどさ」
「どうして?」
「明日、こっちでも、俺の本が出るらしいんだ。俺、まだ本見てないから」
 ここで初めて、鬼柳の声が不思議そうになった。
「? 発売してないから見てなくて当たり前だろ?」
「うーんと、作者ってのは、先に見本って言って、出来上がった本を発売前に貰えるんだよ。でも俺、家帰ってないし。本当なら先に見て、手直しとかやらなきゃいけないらしいけど。まあ、書き直したし、やれる事はやったから、いいんだけど。駄 目かなあ? 駄目なら本買ってきてくれるだけでもいいけど」
 たぶん、駄目だろうな、そんな事を思いながら鬼柳を見ていると、鬼柳はじっと考え込んだ。
 目を瞑って、鬼柳は黙ってしまった。
 透耶は、もしかして無視されたのかなあ? と思いながら、まあ、それも仕方ないかと、鬼柳の上から起き上がってゆっくりと降りた。
 鬼柳はそれでも気が付かない程考え込んでいた。
 はあ、と透耶は溜息を吐いて、ピアノを片付け、飲み終わっていたコーヒーカップを片付けて、台所へ運んだ。
「鬼柳さん、俺先に寝るね」
 声をかけたが、鬼柳は眠ったように動かない。
 防音室に鬼柳を残したままで部屋に戻る。
 風呂に入って、ベッドで髪を乾かし、ベッド寝転がって眠りに入りかけた所へ鬼柳が部屋に入ってきた。
 ゆっくりと歩いてきて、寝ている透耶の横へ潜り込んできた。透耶の身体を少し起こして、腕を頭の下へ入れて、腕枕をして引き寄せる。
 話し疲れたように眠っている透耶の匂いを嗅いで、鬼柳も眠りに就いた。