恋愛感染エゴイスト-8一日の出来事(後)
松居という人物が現れたのはそれから一日経ってからだった。
完全に三沢の気配はこの建物から消えていて、その欠片さえ残してはくれなかった。
居間で座っていると松居がやってきて「よっ」と明るく挨拶をしてきた。
「……松居さんですか?」
弥斗(やと)はやっと顔を上げてその人を見た。
弥斗の心はやっと落ち着いていた。もういない人を思って泣くこともなかったし、何も残してくれない三沢を恨んだりはしなかった。
「大丈夫か? 出られる?」
松居がそう聞いてきたので弥斗は頷いた。
すると松居が袋を取り出してきて、それを弥斗に渡す。中身はどうやら服のようだ。
「適当に見繕ってきたやつだから、気に入らなくても捨てないでくれよ」
松居の言葉に弥斗は柔らかな笑みを浮かべる。
「捨てませんよ。こんな格好で帰るわけにいかないので」
まだワイシャツ一枚だったから、洋服は必要だった。すぐにその場で着替えていると、松居はふーんと鼻を鳴らした。
「なん、ですか?」
振り返ると松居がにやっとして言う。
「最初に見た頃より色気がね、出たなあと思って」
どうやら松居は正直に言葉を投げるような人らしい。それに弥斗は苦笑する。
「いろいろありましたしね」
怒鳴ることなく言葉がすらりと出たのは自分でも驚きだった。普段の自分ならきっと怒鳴っていただろうことを流せたのである。
でもこれが三沢の言った言葉だったらきっと、そんなの知らない!と怒鳴っていただろう。
「それで、俺は家に戻ればいいんですか?」
「いや、体が大丈夫ならじいさんの病院な。待ちわびていたから」
「分りました、行きましょう」
弥斗はそう言うと、袋を手にして松居の傍に行く。松居が袋を受け取ろうとするのだが、それは渡せないと弥斗は言った。
「思い出だから捨てられないんです……」
最初は随分嫌なことだったと思う。けれど、今思い出すことは三沢の優しい顔ばかり。いたずらに成功した時の顔や、真剣な時の顔。いろんな三沢の顔が思い出せる。
「ああ、そうか」
松居は何かに納得したようにふんわりと笑った。
病院に着くとすぐに病室に入る。
だが、結構な検査をして入院していたはずの祖父は、それはそれは元気なもので、遺産相続とかいう緊迫した場面なんてどこにもなかった。
そこには逸郎(いつろう)もいたが、何故か彼は弥斗を見ようともしなかった。
何があったのか知らないが、逸郎の父親の隆宏までもが弥斗を見ようとはせずに、大人しく座っている。
ここは弥斗が行方不明になっていたことで絶対に隆宏が怒鳴ってきたり、逸郎が心配をしてきたりするような場面になっていたはずだ。
それがないものだから弥斗は少し拍子抜けした。
「弥斗、元気そうだな」
そう言ったのは祖父の久弥で、こっちにおいでと手招きをしている。
「俺は元気ですよ。お祖父さん、体、大丈夫なんですか? 検査は?」
「ああ、大丈夫だとも。ちょっと風邪を引いたくらいで問題はない。検査も全部クリアしたぞ」
「それはよかった」
弥斗はにこりと笑って祖父の手を取った。
ここに来るまでにずっと祖父の心配をしていた。何かあったのではないかとそう思っていたがそれを杞憂に終わってホッとした。
「弥斗、なんだか柔らかくなったな……その優しくなったというか……」
その微笑みを向けられるのには慣れてなかった祖父は少し照れたようにそう言ってきた。
「今まで甘えた態度ですみませんでした。これからはそういうのはあまりないと思う」
今までの反抗的な自分とは違った自分に慣れたのも三沢のおかげであった。三沢のあの話があったからこそ、自分は人にも優しくなれるようになった。
人から避けられて、相手が居なくなってから後悔するのでは遅すぎることを学んできたつもりだった。三沢が居なくなった瞬間、本当に自分は目の前が真っ暗になった。そして祖父は母を失うことでそれを味わってきているはずなのだから。
「そ、そうか。うん、それで弥斗がいいというなら、うんいいな。随分可愛くなって戻ってきたな、ほんとうに」
祖父はそう笑って弥斗の頭を撫でた。
この撫で方はなんだか三沢に似ている気がする。不器用だけれど、それでも一生懸命に優しくしようとしている、そんな撫で方。
「それで、退院は?」
「今日にも出られるが、その前に話すことがあってな」
祖父はそう言って、隆宏と逸郎を睨み付ける。
二人は震え上がって背筋を伸ばした。
「一体なんなの? 逸郎さんが何かしたの?」
まったく意味がわからない弥斗はそう尋ねていた。言葉が砕けたのは本当に訳が分らず自が出たのだ。
「まったく、お前は気づかなかったのか」
「何に?」
「お前を最初に誘拐したのは、逸郎なんだ」
その言葉に弥斗は信じられないものを見るように逸郎を見た。
「い、逸郎さん……が……?」
「そうなんだ。お前も聞いてただろう。誘拐されたのを助け出されて一応誘拐されているフリをするように閉じこめていた話を」
そう祖父に言われて、三沢が言っていたことを思い出した。
誘拐されて放置されていたから、三沢が身を隠すためにあそこを用意したと。
「あ、うん。それは聞いたけど」
「それでな、その指示を出したのが隆宏なんだ。まったく親子揃って何を考えている。遺産なんぞ当分誰にもやらんわ」
祖父は元気そのものでまったくそんな心配をする必要がないのだが、どうやら誘導するようにわざと入院を長引かせていたらしい。
その間弥斗を守る方法は三沢に任せていたのである。
「やっと昨日、こいつらが白状したところなんで、弥斗は戻ってこられたわけだ」
祖父がそういうと隆宏は言い訳をする。
「そりゃ、命が危ないときけば、遺産だって……」
だがそれを遮るように祖父が怒鳴る。
「なんという不届きモノだ。財産狙いどころか、ワシが家に居ない間に勝手に入り込んで中を物色する不法侵入者が」
「……」
確かに不法侵入だろう。家には祖父も弥斗もいなかったのだから。それに便乗して逸郎までもが入り込んでいたらしい。
弥斗は逸郎を見て、今まで感じていた親しみがまったくわいてこないことを不思議に思った。あれだけお兄ちゃんと慕っていたものの正体を知ったからか、熱が冷めていく。ああいう風にされたのも全部遺産が目的だったのであろう。
そうでなければ、小さい子供に何の得があって構うというのだろうか。
「……逸郎さんも結局、遺産が欲しかっただけだったんだね」
弥斗がそう呟くと、その通りだったらしく逸郎は顔を上げようともしなかった。
今まで築いてきたものが全部幻だと証明されて、弥斗は何となく寂しかった。
「それでも、俺は寂しかったから、逸郎さんのこと好きだったよ。今まで優しくしてくれてありがとう。でももうそれもしなくていいよ」
弥斗はそう言って優しく微笑む。
本当に今まで目的があったとしても自分に構ってくれたのは逸郎くらいだったから、それはそれで素直に嬉しかったし、裏で何を考えているのかは知らなかったとしても、自分が嬉しかったと感じたのだから感謝をしなければならないだろう。
「……弥斗、本当にごめん」
逸郎はそう言うと泣き出してしまった。
本当に後悔しているのだろうか、演技なのだろうか、そんなのはもう弥斗には関係なかった。
そうしているうちに祖父はこの二人を完全に遺産相続から外す遺言状を作り上げたらしい。そう通告されると隆宏はあからさまにがっかりしたように肩を落とした。
今就いている役員も下ろされて一社員からのやり直しになりそうだ。
まあ、一社員とはいえ、それでも別系列の社長なのだろう。その辺の配慮は祖父もしていたようだ。
そうして二人が出て行くとき、逸郎が弥斗に向かって言った。
「なんでそう優しくなれるんだ? 俺は酷いことをしたんだぞ。前の弥斗なら殴ってきてもおかしくなかったはずなのに……」
そう不思議そうに言われて弥斗は苦笑する。
「誰かさんの癖が移ったのかもしれないな。なんかね、そういうのはもう年相応じゃないってことみたいだから。それにそういうのはもう他の人には見せないよ」
弥斗が穏やかにそう言うと、逸郎は目を見張って弥斗を見た。
「変わったんだな。誰かいい人でもいたのか?」
そう問われて弥斗はにっこりと笑って頷いた。
「うん、とっても馬鹿な人に会ったんだよ」
「……そうか」
優しく笑う弥斗をまぶしそうに見つめながら、逸郎は呟いて、でもそれ以上は何も言わずに去っていった。
西巻家の人たちは、会社関係もあり隣の家から出て行くことも決まっていた。あの家はもともと祖父の持ち物だから、今回のことで処分として出て行くように言われたらしい。
「弥斗、お前……」
さっきの話が聞こえたのか、祖父が心配そうな顔をして弥斗を見ている。
「ん? なに?」
弥斗が椅子に座って問うと、祖父は言いにくそうにしゃべり出す。
「三沢は、本当にお前のことが欲しかったそうだ。いろんな意味で。だからワシは協力してしまった。あの子に負い目もあったし、けれどそれで弥斗を蔑ろにしたことは認める」
祖父がそう謝ってくるから弥斗はちょっと困った。
確かにそれは困った提案だったし、自分はああやって閉じこめられてしまったのだ。三沢が手を出してくることを知っていても祖父は弥斗を出しだしただろうかと考えたが、三沢を信用していた祖父はそこまではしないだろうと思っていたところもある。
ある意味三沢を信用していたのだ。
「だが、あいつが……お前を……」
「ううん、そうじゃないよ」
「弥斗?」
「うん、いやだったけどいやじゃなかったから。三沢さんには本当によくしてもらったよ。こういう風な気持ちになれたのも三沢さんのおかげだしね。それに母さんの昔話も聞いたよ。いっぱいいっぱい話したよ」
弥斗はそう言って微笑む。
欲しいモノはたくさんもらった。でもまだやらなければならないことがある。
今度は自分から動くのだ。
欲しいものは決まっている。今すぐ欲しいものは決まっているのだ。
「ねえ、おじいちゃん」
にっこりと笑って甘えるように弥斗が言うと、祖父は苦笑して続けて言う。
「……こんなことになろうとは……」
最後にはとほほと嘆くような言葉が漏れてしまったが、それも仕方ないという感じだった。