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 真野は目の前にいる成原に目を見開いた。
 真野佳(まや けい)がいる場所は、自分の会社の研究室だ。
 大手販売会社にて、一般的なフレグランスの研究をしている。香水であったり芳香剤だったり、様々な香りについての研究であるが、真野は一般的な男性香水の担当をしていた。真野の嗅覚とセンスは折り紙付きであり、最近ヒットした男性香水が香りがいいと女性に受けて使う男性が増えたというヒット作がある。
 そんな真野に、課長が嬉しそうに言う。
「成原さんは会社をいくつも経営している会長職についている人だ。もちろん社交界に出る人間だ。だからこそ、売っているような香水ではなく、専門の香水をつけるべきだと前から言っていたんだ。今日は、その香水を作るためにイメージや希望などを聞いて、新しい香水を作っていくわけだ。成原さんは我が社の副社長とは同級生で、この話を快く引き受けてくれたんだから、真野くん、お前は成原さん専属のフレグランスを作るんだ」
 いきなり呼び出されたかと思ったら、急に無茶なことを言い出す。最近は副社長や社長の気まぐれには慣れてきたが、今日は相手が悪かった。よりにもよって、セックスフレンドの相手というのは、さすがの真野も居心地が悪かった。
 だが副社長の友人である成原の機嫌を損ねては、今後の生活にも直結する仕事を失うという自体にもなりかねない。
 成原が何を考えてここに来たのかは知らないがと、真野はそこまで考えてふと思った。
 成原が真野の勤め先を知っているようなことを口走ったことはない。まして真野から香水の調合の仕事をしているとは言ったが、どこの会社かまでは教えてはいないことを思い出す。
 つまり成原も真野と同じく、ここで顔を見て初めて知ったことになるはずだ。
「じゃあ、任せたよ真野くん」
 そう課長は言うと、真野の研究室に成原を置いて出て行った。
 二人っきりになり、テーブルを挟んで向き合っていると、真野はふっと息を吐いてから言った。
「それでは、しばらくの間よろしくお願いいたします。さっそくですが、どのような香りのイメージをお持ちですか?」
 そう真野が仕事モードで切り出すと、成原が言った。
「ここで働いているとは知らなかったな。あの噂のヒットした香水、ダークチョコレートのあれよりもう少し、純正の麝香(じゃこう)を足したくらいが好みだが」
「……そうですか……僕もあなたがここの副社長と同級生とは想像だにしてませんでしたよ。合成ムスクではなく?」
「副社長とは大学時代の友人だ。頼まれれば断れないほどの恩がある。合成ムスクではわざわざ専門に専用を作ってもらう意味がないと思うが?」
「ですが、社長たちにとってはあなたの香りで同じ商品を売りたい気持ちがあるのでは?」
「それこそ、合成ムスクで似たものを商品に落とせばコストダウンはできるだろう。その方が商品的にも長く売れる。香りの違いが分かるのは真野のような専門職の人間くらいだろう」
 会話の中で、それぞれが仕事のこととプライベートなことを混ぜた会話を繰り返し、お互いの確認をしている。
 真野の心の中は穏やかではなかった。
 寝ている相手に家を知られることより、会社を知られる方が身動きが取れなくなるからだ。家なら引っ越せばなんとかなる。前回は引っ越しをしなかったことで失敗した。だから自宅にはセックスフレンドは呼ばないし、バレないように用心している。
 だが今回は違った。逃げる場所がない。
 仕事はそうそう簡単に変えられない。
 余計なことをして目をつけられるのも困る。
 様々なことが頭を巡り、真野の顔色は悪くなっていく。だがそれを顔に出さないように勤め、仕事の話をしていく。
 成原はそれ以上はプライベートなことを口にしなかったが、仕事の話が終わってしまうと、誰もいないことをいいことに話を続けた。
「体は大丈夫か?」
 成原が真野の体を気遣ったのは、これで二度目だ。最初のセックスの時に動けなくなった真野を気遣った時以来だ。
「……大丈夫だ、慣れている」
 真野がそう言うと、成原が近づいてきて、真野の腕を取った。腕にはサポーターがしてあった。
 急に腕を持ち上げられて、戸惑う真野に成原は言う。
「こんな感じにしているのか……これでは外から見れば怪しまれないか?」
 初めて成原が腕の傷について気にした素振りを見せたのに真野はまた驚く。確か初めてしたときに傷が付いた時には謝っていたことは謝っていたが、それでも申し訳ないという風ではなかったと思う。
 真野の腕は手首だけではなく、腕までしっかり覆ったサポーターをしている。手首だけでは怪しまれると思ったのか、運動で怪我をした人などがするサポーターになっている。
「大丈夫だ……気にするな。手首が弱いってことにしてある」
 そう言ったのだが真野の腕のサポータを少し捲って成原が顔を顰める。
「随分とあざになってるな。次は手錠じゃないものを用意する」
 成原が真剣にそう言うのだが、真野はそれに目を見開いて見た。
 ちょっとした気遣いなら、成原は最初に見せたけれど、それ以降半年間も大丈夫だという言葉を信じていたようだった。
 だがそれでも拘束することは辞めるとは言わない辺り、相当トラウマが根強い気がした。それでも真野は嫌だとは言えなかった。
「気は済んだか? 終わったなら、帰ってくれ。僕は仕事なんだ」
 腕を引き、成原から離れるのだが、成原は帰らないで立っている。
「成原?」
 どういうつもりだと真野が問うと、成原は真顔で答えた。
「仕事を見せてもらう。その許可は取っている」
 そう言われて、真野は成原を追い返すわけにもいかなくなった。
 社長や副社長の許可を得ている上に、上客の機嫌を損ねたら、それこそ死活問題に直結する。ここで仕事を首になるわけにはいかない。
 真野は舌打ちをすると、成原を置いてそのまま研究室に入った。
 言われたものを調合したりする仕事を成原はガラス越しにじっと見ていた。真野はやりにくいと思いながらも、言われた仕事をなんとかこなす。失敗するわけにはいかないが、成功しても少し厄介だ。

 それから一時間ほど、成原はそのまま見学していた。
 真野はサンプルをいくつか仕上げ、成原に香りの確認をしてもらう。言われた通りの材料で、その配分を決めるわけだが、大体の成原の言いたい香りというのが真野には理解できていた。
「うん、この二番あたりがいい」
 成原は案の定、真野が想像した通りの香りのサンプルを選んだ。
 その香りは成原に似合っていて、悔しいが男っぷりが上がっているように思えてしまう。
「このまま完成してしまうと、使っている途中で違うとなる可能性もあるので、このサンプルを暫く使ってみてください」
「わかった」
 成原は少し嬉しそうにしながら、そのサンプルをすっと首筋や手首にと付けている。
「……っ」
 するとふわっと香ってくる香水が、成原の体質と相まって、想像以上にいい香りが漂ってくる。
「すごいな。イメージ通りだ」
 成原はそう言うが、真野はたまらなかった。
 もしかして成原は分かっていて付けたのではないだろうかと思えたほど、その香りに、今更ながら真野は酔ってしまいそうだった。
 自分で作った香りに酔うなんてことは、初めてで、真野は戸惑った。
「真野」
 急に名前を呼ばれて真野は焦った。
 そんな真野を見た成原は、真野の側に寄って肩を抱いた。真野は抵抗しそうではあったが、抵抗できずに大人しくしている。
 香りの効果がここまで出るとは成原は思わなかったが、香りに敏感な真野だからこその反応なのかもしれないとも思えてきた。
 想像以上に真野はいい仕事をしたらしい。
「佳」
 そう名前で呼ぶと、真野は信じられないものを見るように成原を見た後、顔を真っ赤にしてからやっと抵抗をした。
「や、やめろ……名前……」
「これからは、二人っきりの時は佳と呼ぶ」
「なんで……」
 真野はその言葉にドキリと心臓が鳴ったのを感じた。
 これはまさか、恐れていたことになっているのではないか。そう感じた。
 絶対にあるわけないことが起こりかけていることが、真野には怖かったのだが、それ以上に恥ずかしくて体が熱くてどうしようもなかった。
「佳」
「……くっ」
 その甘い声で呼ばないくれ。そう叫びたいが、この場所で大きな声を出せば、廊下を通っている社員に抱き合っているところを見つかる。ただでさえ、腕の怪我で怪しまれているのに、これ以上の騒動はごめんだ。そう真野は考えて、なんとか成原の腕を抜け出そうとしているのだが、成原はそれを阻止するように体を密着させて、とうとう真野を正面を向いて抱きしめることに成功した。
 真野が香りに酔ってしまい、成原のいうがままになってしまうのは、ある意味仕方がないことだ。香りに敏感で、いい香りには弱く、その特性を生かしての仕事をしているくらいだ。
 元々成原に悪い印象は持っていないのだから、好意的に捕らえている相手から好意を見せられて動揺するのは仕方ない。
「佳……週末、楽しみにしている」
 成原は自分の持てるすべてを使って、真野を口説いた。真野は、ここは頷かないときっと成原は放してくれないのだろうと思ったのか、何度も頷くだけだ。
 成原は真野の額にキスをしてから真野を放してやると、真野は耳まで真っ赤になって、肩で息をしながら成原を睨み付けていた。
「こういうことは……しないでくれ……」
 深く息を吐きながら、真野が言う。
 泣きそうなほどか弱い声に、成原は自分が間違ったことをしたのかもしれないと思った。
 真野はこういうことには慣れてはいないのだが、愛情を受ける意味が分かっていないのではないかということだ。
 本当に愛を知らないのだ。この佳人は。
 こんなに好意を向けても本人も嬉しいと思っていても、心の中は鎖にかかった南京錠が付いた鍵が何重にもかかっているほど、心が遠いのだ。
 そこで成原は尋ねた。
「愛していると言ったら、佳はどうする?」
 その言葉に、真野は信じられない者を見るような顔をして、息を止め、目を見開いて成原を見た。
 成原の口からそんな言葉が出てくるとは想像だにしてなかったというような顔から、真野が自分がかなりの好意を受けていることを理解していないことがはっきりと分かった。
「……冗談だろ?」
 真野が乾いた声で言った。
「冗談に聞こえるか?」
「……聞こえる……」
 真野はそう言い返し、認めようとはしなかった。
 どうしても成原がそう言うのはあり得ないという顔をしている。
 どうやら過去の話を噂から知っているようだった。性行為にまで影響するようなトラウマを受けている人間が、そうそう簡単に人を愛するようになるとは思えないのだろう。
 それは理解できる。
 成原だって口に出して初めて、そうなのだろうかと思ったほどだ。
 どうやら頭で考えているよりも、真野を欲している心が暴走していることに成原すら今分かったくらいだ。
「私が冗談を言う人間に見えるのか?」
「見えない」
 成原がそうした冗談を言う人間ではないことは分かっている。だからこそ冗談だと思いたかったし、冗談であって欲しかった。
 その真野の願いが、だんだんと本物になる成原の心とは裏腹に、真野の心の逃走が始まる。
「では、週末は来ないのか?」
「行きたい……行為自体は嫌じゃないんだ」
 真野はそう言う。
 つまり体の相性はいいと真野も思っているということだ。
「佳、何故だ?」
「愛なんて信じない。そんな感情、まやかしだ。感情を押しつけて、僕の心なんて、無視するものだ」
 成原の言葉に真野はそう答えた。
 真野にとって愛情なんて元々ありはしないものだ。そしてあるという人間は、皆それを真野に押しつける。そして真野がそれを持たないことを異常だと言って変えようとする。
 真野の心なんて置き去りにして、皆そうする。
 そのことで真野がどれだけ傷つこうが平気だ。挙げ句、逆上して暴言を吐いたり、殺そうとしたりする。
「そんなもののせいで、僕がどれだけ苦しんだかっ」
 真野が吐き出すようにそう言う。
 成原はそれでやっと理解した。
 愛を理解できない真野の生き方を否定することで、真野は殺されてきたのだ。
「佳」
 混乱する真野を成原が抱きしめて落ち着かせる。
「佳……いい。それでいい。お前は私を愛さなくていい」
「やめてくれ……成原……」
「愛し返さなくていい」
 成原がそう言って真野の混乱を取り除こうとする。
 ガクガクと体を震わせ、愛されることを拒否する真野の姿に、成原は分かったと言って抱きしめる。
 知らないことを強制されるのは、苦痛である。それが理解できるだけに、真野に愛を求めるのは、無理難題なのだ。だから今はそれでいいと宥めるしかない。
 愛はなくても、真野には成原に対する執着はある。
 セックスフレンドとしてなら成原を選ぶというからだ。手錠をしてセックスをすることを苦痛とは思わずに付き合えるくらいには、思ってくれているということだ。たとえそれが、相手を探すのに苦労するから、逃したくないという思いであっても、成原からの誘いは断れないほどには思っている。
「それでいい、佳」
 私はきっと愛している。成原はその言葉を飲み込んだ。