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 成原知晃(なるはら ともあき)は朝早くに会社に出勤して、会長室に入るとまずその日の書類を整理した。
 成原一族の会社のほぼすべての会長職を受け、社長や取締役などからの相談があれば出向くだけでよいのだが、成原は突発的に会社を訪れては、状況を把握する。誰も信用していないわけではないが、腐敗が酷かった前の一族の二の舞いを演じたくなくて躍起になっているだけなのだ。
 周りもそれが分かっているから、成原がどうしても気になるところに口を出してくると、それがどれだけ会社を切迫しているか理解できると言われ、危機感の管理に役立っていると言うものも多くいる。
 昼までに一気に書類を仕上げ、秘書に渡してしまうと、一息吐いた。
 コーヒーを入れてもらい、飲みながらふと思い出したことがあった。
 昨夜抱いていた相手のことだ。普段、思い出しもしないことなのだが、最近、真野のことを思い出すことは増えたように思えてならない。
 疑問を感じながらも、その真野と出会ったことを思い出す。
 

 真野佳(まや けい)に出会ったのは、行きつけのバーだった。
 同性愛者の人間が集まるバーであり、紹介がないと入れないような場所だ。成原知晃は、そこに友人の紹介で五年ほど通っていたが、真野を見るのは初めてだった。
 真野は三年前から友人の紹介で通っていたらしいが、成原を見るのは初めてだと言っていた。だから初対面である。
 真野ほどの容姿をしているなら、一目見ただけで印象に残る。真野は、香水などを販売している企業でフレグランスの研究員をしているというのだが、どうみても見た目が深窓の佳人と言ってもいいほどに華奢で、瞳はアーモンド型のくっきりとした二重。鼻筋もすっとしており、少し欧米の白人の血が混ざっているかのような、日本人らしい顔立ちではなかった。美少年の彫刻を作ったらきっとこんな顔なのだろうなと思えた。
 いかにも小さいときは天使で、周りから可愛がられて育てられたに違いないと思えるほどだったのが、どうしてもそれが癪に障った。
 そして、この男を手錠で繋いで無体なことをしたいという欲望がわいて出てしまったのだ。
「これがいい」
 思わずそう言って真野を指さした。
 真野はそれに驚いた様子だったが、真野と一緒にいた友人須佐は、成原の友人の伊東とは知り合いだったらしく、お互いを紹介する流れになった。
 真野佳(まや けい)は、小さな体でありながらも、成原を恐れることはなかった。興味津々な彼が言った言葉は。
「本当に拘束するの?」
 である。
 どうやら噂は聞いたことがあるようで、成原のプレイスタイルの方に興味があるようだった。
 その興味深そうな相手に少し引くだろうと実際に手錠を出していきなりかけてみたのだ。手錠をかけられた本人である真野はきょとんとしていたが周りは引いていた。
 だが真野は嫌がる素振りすら見せずに。
「とりあえず、一回やってみるか」
 と許容範囲だとばかりに手錠を見つめながらいい、そして成原を見た。その目の中に何も希望すらないことが成原にはどうしても気になって仕方なかった。 
 真野はこの関係を完全に割り切って考えるタイプであることを知るのは、それからしばらく経ってからだ。
 その日、真野を抱いてみて分かったことは、相性が良かったことだ。
 手錠は案の定、真野の腕を傷つけたのだが、真野は軽い口調で。
「サポーターか、リストバンド買ってくれたそれでいいよ」
 と平然と答えたのだ。
 体に傷がつくことは最初から予想ができていたようで、次からはサポーターをつけた方がいいかと問うと、別にいらないと言われた。
 見た目とは裏腹に貞操観念がないのかと思っていたが、どうやらそうではないことが分かる。
 真野は、過去に恋愛関係の清算に失敗し、元恋人に刺されて入院したことがあるというのだ。
 それが耳に入ってきたのは、毎週会うようになって一ヶ月経った頃だった。
「それがな、相手が恋人だなんだって出しゃばり始めた瞬間に、付き合いを辞めたらしくて、それで恨み買って精算に失敗して、自宅前で刺されたらしい。幸い友人の須佐が一緒だったらしくて、救急車呼んでぎりぎり助かったって」
 伊東がそれを須佐から仕入れてきた。
 その刺した元恋人が須佐の友人で、須佐はその責任を重く感じていて、真野のことをかなり気にしており、成原と上手くやっているのかということを確認してきたのだという。
「訳あり物件だったら、最初にそう言ってくれれば」
 そう伊東が面倒くさい相手だと言ったのだが、それはお互い様だろう。
「手首縛ってセックスする人間も、訳ありだろう」
 そう成原が言うのだが、伊東は違うという。
「そうじゃなくて、性癖なら相手に理解を求めることができるけど、こういう殺傷沙汰を起こすヤツは、本人に非がなくても周りで勝手に続くんだよ」
 伊東はそう言う。
 この界隈での面倒ごとは恋愛にかこつけた殺傷沙汰だという。大抵、世間体を考えて刺された側が金をもらって黙ってしまうため、事件として成立しないまま静かに終わっているのだが、それでも毎年殺人にまで達している。
「厄介ごとが舞い込む性格っていうのかなぁ。本人に自覚がないだけ酷い結果になってるから、成原も気をつけろよ」
「いったい何に気をつけるんだ。俺は包丁を持ちだして別れないでくれというような、そんな性格はしていないぞ」
 成原がそう言うと、伊東はやはり同じことを繰り返した。
「分かってたら紹介しなかったのに」
 そう言ったが成原が関係を辞める気がないのは見てとれたために、諦めたように言った。
「いいか、真野とは絶対、それ以上の関係を求めるな。世の中にはそれができない人間もいるってこと、頭の片隅どころか真ん中に置いておけ」
 そう伊東は言うと、それ以上真野のことに関しては何も言わなくなった。
 確かに真野は今までのセックスフレンドとは違う。割り切り方が酷く綺麗で、プライベートを聞きたがらないどころか、話したがりもしない。寧ろ、必要最低限の会話しか望まないのだ。
 都合がいい相手というのが頭に浮かぶ。
 ここまで鉄壁に自分を守る人を成原は見たことがなかった。
 成原の相手は、どの人も最終的にはすべてを見せて、成原も同じようにしてくれと望んできた。それを拒むと愛されていないと離れていく。そしてたった一ヶ月くらいで新しい相手を見つけて同じことを繰り返している。
 所詮そんなものだ。
 そう思っていた。
 真野の成原への関心のなさが、成原には何故か不満だった。素っ気なくしても、優しくしても、真野の態度は変わらない。
 増えていく手首の傷も、傷が治っても痕になっているほどなのに、真野はそれも気にした様子はない。
 だから気になる。どうしてそこまで関心が沸かないのか。どうしてそこまで無関心でいられるのか。それが理解できなかった。
 真野が気になり、調べてみたところ、真野が父子家庭で育ち、父親は中小企業の社長で、それなりの生活を真野にはさせていたようだ。親子仲は冷え切っていて、父親は家にはほぼ寄りつかず、仕事人間である。母親は早くにそんな父親を捨てて出て行き、父親に似ていた真野も捨てられている。
 父親が子供に関心を見せないため、真野は自立を早くからしており、家事などは自力でなんとかして育ってきたようだった。
 だから親子関係は完全に冷えており、現在では連絡を取り合うこともしていない、絶縁状態なのだ。
 つまり親の愛情を受けずに育ってきたのだ。
 成原とは逆だ。完全にすべての期待を背負っていながら、それでも愛情は親からたくさんもらった成原である。だから元婚約者も愛していたから、裏切られて逆上したものだ。
 だが真野にはそれすらないのだ。
 真野の見た目の印象とは違う実体に、成原は思った。
 どうすればいいのだろうか。
 そう思った瞬間、成原は自分の心の変化に気付いた。
 真野佳(まや けい)という人間に対して、感情が芽生え始めているのではないかということにだ。
「……どういうことだ?」
 相手は決して振り向かない、そういう人間を選んだはずだ。
 だが初めて見た時、自分から選んだのは真野だけだ。
 真野を好みで選び、セックスフレンドになったはずだった。
 だが、相手が喋らない分、調べて出てこない個人的なことを、成原は知りたいと思っている。そう思う心ができていることに気付いて動揺した。
 淫らに動きに合わせて、甘い声を上げる真野の姿が頭に浮かんで、成原はさらに戸惑った。どんなに激しくしても真野は気持ちがいいと受け入れてくれた。
 その姿を思い出して、動揺した成原はガチャリと持っていたコーヒーのカップを投げ出すようにしてしまい、テーブルに残りのコーヒーが零れた。
 その音に成原はやっと現実を取り戻す。
 音を聞きつけた秘書がやってきた。
「どうかしましたか!?」
 椅子から立ち上がって、明らかに動揺している成原に驚く秘書に、成原は言った。
「すまない、カップを倒してしまった……」
「あ、はい、今片付けます」
 成原の言葉に秘書は一旦下がっていき、それから布巾などを持って戻ってきた。
「珍しいですね。考えごとですか?」
 秘書の言葉に成原は頷く。ただ仕事とは関係ないものが口に出しては言えない想像だった。仕事中にそういうことを思い出すことがなかったので動揺した。
 片付けてもらっているうちに、成原はふと思い出したように尋ねた。
「聞いていいだろうか?」
「はい、何でしょうか?」
 秘書は片付けた荷物を持って下がろうとしていた足を一旦止めてから振り返る。
「……見込みのない相手に対して、何もやっても無駄かもしれないと思う状況で、君なら相手を振り向かせるために何をする?」
 そう問われた秘書は、少しだけ考えてから言った。
「見込みない相手ということは、こちらのことに興味がないということですよね? でしたら、興味を持ってもらえるように行動をしてみます。例えば、相手が興味持ちそうなことを話してみたり、共通の話題を用意したり……。でもそれでも振り向いてもらえない場合は、もう諦めるしかないかもしれません。こちら側の問題じゃなく、もう相手の問題になってしまうから」
 秘書はてっきり仕事の話だとばかりに、相手の営業マンとの話として説明をしてきた。だがそれは指摘として間違っていない。会社でも相手の会社に興味を持ってもらわないことには仕事は始まらない。接し方としては、頑なに交渉を拒む会社に対して、どう興味を持ってもらえるか、営業の話を聞いてもらうのかというのに似ていた。
「なるほど……ありがとう」
「いえ……」
 秘書はそう言って下がっていったが、ドアを閉めたところでふと気付いた。
 さっきのは会社経営の問題とかではなく、恋愛相談だったのではないかということにだ。
「会長も人だということかな?」
 思わず納得して後始末をしに秘書室から出て行く。それと同時に成原は部屋を出ていく。
「今日はもう帰るが、何かあれば連絡を」
 秘書課にそう言い残してエレベーターに乗る。乗っている間も何を真野との間に話題を持てばいいのかと考えてから、ふと思い立つ。
「……確か、あそこは知り合いがいたな」
 普段使わないはずの人脈を思い出し、成原は思いつきで相手に電話をかけた。
「成原だ。……そうその成原だ」
 電話をかけた相手とは、大学時代からの付き合いであるが、会社が忙しくなり始めた頃からの付き合いは途絶えていた。ただ向こうも成原一族の権力を知っているだけに、付き合いがなくても話には応じてくれた。
「前に話していたことだが、できればお前のところで注文をしたい」
 それに対して相手は喜んでいる。社交界の人間に使ってもらえるものを専属で願い出られるのは名誉なことであるし、成原がそれを使うとなると、もちろん宣伝にもなる。広告費が安上がりになる。一般大衆に売るよりも専属を作る方が意外といいこともあるのだという。
「今からなら時間はある……分かった」
 成原がそう相手に伝えると、そのまま車に乗り、カーナビで確認した場所へ向かって車を発進させた。