Hello.Hello-5

「はい、あたし、五十嵐更織(いがらし さおり)」
 そう女性が名乗ると、アリスはポカンとした。

「五十嵐……あの、五十嵐さんのお姉さんですか?」
 名字が同じということは、そういうことなのだろうとアリスは判断した。

「うんそう。義理のだけどね。ちょーっと、五十嵐さんは二人ここにいるんだから、あたしのことは更織でよろしくね。こっちは伸哉(しんや)って呼びなさい。ややこしいったら」
 更織はそう言う。

 五十嵐、伸哉の方は憮然とした顔をしてコーヒーを飲んでいる。どうやら説明は更織に任せてしまったらしい。

「義理って?」

「あ、伸哉の兄貴と結婚したから義理なの」
 更織はさらっと答える。

「五十嵐さん、あ、伸哉さんには、お兄さんがいたんですか」
 そうアリスが確認すると、伸哉はうんと頷いた。

「そうそう。伸哉とは高校からの付き合いなんだけど、あたしが惚れたのは尚哉(なおや)の方だったわけ」
 尚哉というのが伸哉の兄の名前らしい。

「お前に惚れられた兄貴は散々逃げ回った挙げ句に食われたんだよな」
 伸哉がぼそりと言うと、更織がぎっと睨む。

「人聞き悪い言い方しない。堕ちてきたといいなさい」

「泣いて謝ってすいませんって言いながら、勘弁してくれって言ったら、結婚してくれるならって言い返したのはどこのどいつだよ」

 どうやら相当なアプローチだったらしい。尚哉は散々更織に追いかけられて最後には結局結婚したようだ。
 確かにあの勢いだったら、謝りながら結婚する羽目になりそうだ。

「いいじゃない。最終的には幸せなんだし」
「まあな」
 幸せならその過程がどうであれ、いいのではないかとということらしい。

「んで、兄貴は一緒じゃないのか? 兄貴がいるならカードキーだって借りられただろう」
 伸哉がそう言う。

「だめだめ。尚哉さんは鍵とか貸してくれないじゃない。それに今カンヅメなのよ」
 更織はそう言う。

「あー、そっか。それで腹いせに俺のところに来たわけか」

「そうそう。手元に鍵もあることだし。そしたら大きなネタが落ちてるじゃなーい」

「ネタって言うなよ」
 伸哉が冷たく返すと、更織はなんだとつまらなそうな顔をした。

「あの……なんかネタとかよく解らないんですけど。カンヅメって、伸哉さんのお兄さんも同じ仕事をしているんですか?」
 話しが一段落したところで、アリスが尋ねると、更織の機嫌が直った。

「ネタは小説のネタね。尚哉も伸哉と同じ小説家で、ついでにあたしも小説家」

「お前のは下品だけどな」
「半分はといいなさい」

 どうも伸哉は更織には色々言わないと気が済まないらしい。いちいち口を挟む。

「なんだか凄い兄弟ですね。小説家なんて」
 アリスが感心して言うと、伸哉はクスリと笑った。
 どれくらいのレベルの小説家だと思っていっているのだろうか。そういうところは関係なしに感心しているのだろうか。

「でも、伸哉。あんた今カンヅメなんでしょ? この子の親とかは探してる暇ないんじゃないの?」

 更織がそう聞き返すと、伸哉はすぐに口に出そうとした。だが、それよりも早くアリスが答えた。

「伸哉さんが忙しいって解ってるので、俺が気持ちの整理をしたいから、伸哉さんの仕事が一段落するまで、俺の気持ちも待って貰っているところです」

 すらすらと答えられて、伸哉は唖然とする。確かにそういう流れではあったが、昨日の今日ではアリスは素直に警察に行くと答えたはずだ。

「警察には届け出した?」
「いえ、警察は何故か嫌だったので……」
 アリスがそう答える。それにも伸哉は首を傾げたくなった。
 昨日は警察に行くと言っていたではないかと。

「じゃどうやって探すの? 親御さんだって心配するじゃないの」

「いえ……あの、感覚的になんですが、俺には親はいないみたいで」
 そう言ってアリスは最初に言っていた一家団欒についての説明をした。

「はあ……まあ、経験ないものは覚えはないってのは当然なわけか。それじゃ養護施設とかだったのかしら?」
 まあ普通は養護施設などが思いつくだろう。

「たぶん……」
 アリスはそう答える。

「それじゃ、一人暮らししているってことよね。今は夏休み前の試験休み期間だし。バイトしているなら、無断欠勤でもうクビか」
 伸哉がアリスを記憶喪失にしてから、もう一週間経っている。当然、バイトしてたならクビである。

「高校生なら、捜索願が出て、養護施設が探してくれるかもしれないけど。大学生だったら、んー養護施設出ているだろうし、そうなると周りが気づいて探すかどうか」
 そう更織は呟く。

 それも難しいかもしれない。
 素人が記憶のない人の元の場所を探そうとしたって、無理なのだ。だから警察に届けを出して居場所を探して貰う方が早い。

 そうすれば手っ取り早いというのに、この二人は何故かそれを躊躇している。

 アリスは警察には行きたくないと拒否しているし、伸哉も無理に連れて行こうとはしてない。

 アリスが養護施設出身なら、警察を嫌うのはある意味理屈が通る。覚えてはない経験から無条件に避ける癖がついているのだろうと予想出来るからだ。

 だが、問題は伸哉の方だ。
 ただでさえ面倒くさい性格のくせに、わざわざアリスの言うとおりにしている。

 それに他人を自宅に入れることさえ嫌う性格なのに。過去に自宅に居座られて嫌な思いをしたことが原因なのだが、それ以来、家族以外が家に入れたことすらないのだ。

 それがアリスだけは入れている。一番居座れて困るシチュエーションなのに。まあ、伸哉の理想が目の前にいて、警察が嫌だからと言っているから余計にどうにかしたいのかもしれないが。
 更織はいそいそと伸哉の傍に行くと耳打ちをする。

「あんた、マジでどうかしちゃったんじゃない?」
「なんだそれ?」

「警察にこっそり届ければ、それで済むことだって解ってて届けてもないとか。あんたの性格から考えてないわけよ」
「……」
 思わず伸哉は黙ってしまった。確かにそうなのだ。それだけの問題なのに自分はそれが出来ないでいる。

「マジなのは解った。でも肝心なこと忘れてない?」
 更織に言われて伸哉はキョトンとする。

「本当かどうか解らないけれど。記憶が戻ったら、アリス君の記憶をなくしてた時の記憶がなくなってなかったことになっちゃうってこと。よく言われてるじゃない」
 それを言われると、それが頭をよぎったのはある。

「……むしろ、忘れて貰った方がいいかもしれないな」

「は?」

「いや、生きていく上で必要はないだろ。俺との接点なんて消えてなくなればいいさ」
 伸哉はそう呟いていた。

 昨日のあれも全部、自分の存在も全部忘れてしまえばいいのだ。
 そう言われた更織はなんとも言えない気分になった。
 こうやって全てを拒絶してしまう性格は変わってない。
 本当は構って欲しくてたまらないくせに、そうやって我慢してそれが大人の態度だと言うのだ。

「伸哉。金だしな」
「はあ?」
 いきなり更織がそう言い出したので、伸哉は唖然とする。

「あんた、アリス君に服とか買ってやってないだろ?」
「あー……あれは、アリスに好きなの買ってこいって言ったんだが、買ってこないんだよ」
 伸哉がそう答えると、更に更織が言う。

「なので、金だしな」
「解った。その調子でやってくれ」
 伸哉は苦笑すると仕事部屋に戻って財布からカードをだし、それを更織に渡した。
 それを受け取ると、更織は立ち上がって言う。

「アリス君、今すぐ出かける用意を。そしていざゆかん!」
 とテンション高く言い放った。

「はあ?」
 こそこそ話をしていたと思ったら、いきなりそんなことを言われた。アリスはポカンとして更織を見て、更に伸哉を見る。

「行ってこい」
 伸哉に苦笑して言われて、アリスは出かける準備をする。とはいえ、着替えるだけで持って行くものは、伸哉に借りている財布くらいだ。
「それじゃ、行ってきます」
 なんだか解らないうちに出かけることになって、初めて伸哉に見送られて家を出た。

「行ってらっしゃい」
 家のドアが閉まると、伸哉はふうっと息を吐いた。

 正直どうなるかと思っていたが、更織がかき回してくれたお陰でアリスとは普通に喋れたと思う。不自然ではなかったし、アリスも驚いていたから昨日のことを気にする暇もなかったようだ。

 こうして無かったようにしてしまうには都合がいい。このまま、アリスが記憶を取り戻したら全部なかったことになるのだから。



「あの、更織(さおり)さん」
 マンションを出た後、更織の車に乗せられていたアリスはやっと口を開いた。
「なーに?」
「どこ行くんですか?」

「んー色々」
「……色々ですか」
 どうやら聞いても無駄なようだ。

「作家さんって締め切り前は、あんなに忙しいんですか?」
 とりあえず答えてくれそうな話しを振ってみる。

「あーまあ時と場合かな。今回はちょっとね。尚哉も伸哉も、両親の法事があってばたばたしてたし」

「……伸哉さん、両親亡くなっていたんですか……」
「その辺は聞いてないの?」

「全然」
 必要ないというか、なんというか好奇心で聞く訳にもいかない。

「じゃ、その両親が義理であるってこともびっくりかな?」

「……え?」

「本当にややこしいんだけど。最初に結婚して子供が生まれた。尚哉ね。それで両親が離婚して、母親が尚哉を連れていった。その後再婚して、その父親が伸哉を連れていた」

「それじゃ、尚哉さんと伸哉さんは血のつながりはないんですか」

「うんないわよ。でも名前が偶然似てたのも幸いしてたかな。その後、また離婚。今度母親は尚哉を置いていった。その後また父親が再婚。また離婚。今度は父親が二人を置いて出て行った。母親は二人を連れて、実家に戻った。けれど、母親は二人を実家に残してどこかへいっちゃった」

「え?」
「残された二人を世話したのが、母親の妹。この人、とてもいい人でね。二人を引き取って自分の子にしたの。そして結婚の話しがきても子供二人いますって言っちゃう人で。それでもいいと言ったのが、五十嵐って父親。まったく血の繋がりのない家族が出来たのが、大学の時かな?」

「…………」
「その、容子さんって人に引き取られた時にあたしは二人に出会ったわけ。だから色々知ってるの。同級生だったのは伸哉の方だったけどね」

「……いつ、亡くなったんですか?」
「去年。今年は一周忌のあれね。二人とも絶対にちゃんとやるんだって言って、スケジュール無茶苦茶にしてやった。あの二人が作家として自由にやれているのも、両親のお陰だからね」
 そう言って更織は笑っている。

 沢山の大人の間を渡り歩いて、本当の両親に置いて行かれ、まったく関係ない人の場所にたどり着いた。
 そこで得た幸せもそんなに長くは続かなかった。

「……伸哉は自分が幸せになっちゃいけないって思ってる。バカなんだから」
 更織はそう寂しそうに呟いた。

「何故?」
 アリスは不思議そうに聞いた。

「たぶん、尚哉に悪いと思ってるんだと思うけど。自分が居なかったら尚哉は母親に捨てられることもなかったし、両親だってもっと幸せに暮らせてた。俺が殺したようなものだ……って言うから」

「……もしかして、感謝してしたことが裏目に出たって思ってるってことですか?」

「そう思ってる。あの事故は伸哉が起こしたわけじゃないのに。その中で伸哉は、アリス君を見つけた」
 更織は神妙に言った。

「俺、ですか?」
「うん。光を見たって言った方がいいのかな? でもその光さえ失いそうで怖い。怖くて何も出来ない、動けない」

「……」
 なんとなく解る。何かが裏目に出るとか、光を失いそうで怖いことや。失うことが怖くて動けないこと。

 自分は伸哉に光を見た。これを失いたくないと思って、でもそれは望んではいけないことや、それすら自分は忘れてしまうこと。

 何かを求める時、同時に何かを失うことがある。
 自分はとてつもなく大きな物を失うかもしれない。