Howling-28

 日本に戻って二週間経った。
 寧野はまだ耀が心配だからというので、耀が用意したマンションに避難していた。

 そこは宝生の持ち物で、7階建ての最上階以外はボディガードの部屋だけで下の階は、今後貸し出す予定はないというマンションであった。
寧野は、あの事件後少しだけ熱を出した。長年の緊張感が取れたせいか、疲れもたまっていて一気に風邪を引いたみたいになったのだ。

 幸い一日半寝ていれば治る風邪だったのですぐによくなったのだが、その時一緒にいた耀が大騒ぎをしていたのは覚えている。
 熱冷ましだ病院だ、なんだか隣で余計につかれるような慌てぶりだったので、とりあえず部屋から出て行ってもらってから寧野は一人で寝た。食べられるものは食べたし、薬も飲んだので寝ていれば治るだろうという感じだった。
 なのに耀は妙な病原菌でももらってきたのではないかと心配して大騒ぎしていたので、最後には家から出て行ってもらった。

 耀が一番うるさくて邪魔。この言葉が効いたらしいと櫂谷が笑っていた。

 寝ている寧野の面倒を見てくれていたのが、櫂谷で香椎は隣の耀の部屋でみっちりその初恋についての話をすることになっていたらしい。
 香椎は今まで誰かに告白はされたりしていたがしたのは初めてだったという。しかも一目惚れで、環境的に耀と似ているらしい。香椎の家は九州の結構大きなヤクザの組で、香椎はその次男。長男が跡継ぎなので、好き勝手をしていたらしいが、そこに耀が目をかけていて、この世界に長男より早く入ることになってしまった。

 幸い、そこの組長とは遺恨にしていただけあり、暇そうにしている次男をさっさと貸し出してくれた。組を建ててやることはできないが、世話をすることはできる。
 しかも宝生耀の友人として大事な人のボディガードだ。文句は言われなかった。
 それは宝生のボディガードはただ体を張って主人を守ることではなく、雑用から機密情報までも操れと言われるような人間がついているからだ。

 寧野は一般人であるが、それでも耀のパートナーになるとすれば、守り抜かないといけないもので、さらに今回、蔡家との関わりが深いことから、海外マフィアからも守らないといけない人物になってしまった。

 何より寧野がどうこう言うよりも、蔡(ツァイ)家当主でもある宗蒼(ゾーンツァーン)の甥という唯一蔡家の内部抗争に関われる人間の存在は、宝生家と蔡家が双方守らないといけないのだ。抗争に発展すれば、今回の貉などとは規模が違う戦争になっているだろうからだ。

 この情報を真っ先に手に入れたはずの九十九という男ですら、これを言いふらせていくのは危険だと判断したように口を詰むんでいる。

 鵺(イエ)が、貉(ハオ)の本拠地から支部まで総てを制圧したのはたった三日で済んだ。耀が捕らえておいた京(ジーン)は知っている支部を全部吐いていたし、鵺に引き渡した代福(ダイフゥ)は、あまりの悔しさからか、知っていることを自分から全部喋ってしまっていた。

 こうすれば新雪(シンシュエ)が困るだろうという目論見だったらしいが、新雪が知らないことは何もなかったのである。全て新雪は知っていて機会を待っていたのだ。
 自分の条件を満たしてくれる相手。高黒(ガオヘイ)を助けること。金糸雀を解放すること。
 金糸雀を解放するのには鵺だけの力ではだめであった為鵺は、寧野に宝生が関わっていることや二人が知り合いであることから、すでに貉のことで動いていた宝生と手を組むことにしたのである。

 全ての願いを叶えるためには三組の組織のトップに近い人間が必要だった。その条件も満たしていたので、3年目にして動くことになったのである。貉も限界だったことは最初からわかっていたことだったが、ここまで内部が腐っているとは誰も思っていなかった。

 新雪の言う通り、新雪と愛子の問題を内密にしていたから、騒動は後を引いて三代にわたって貉は無謀な人殺しを続けたことになる。
 今更後悔しても遅いが、それでもやり直しは出来る。

 やっと解放された貉の住人は、貉から与えられていた財産と、解体した貉から出た金銭をもらい、今は市内に家を借り、仕事を探しているという。一般人になれる喜びと、見知らぬ世界である外の世界のことは鵺から使わされた政府のボランティアが対応している。

 政府もまたそんな世界があるとは思っておらず(というのが彼らの主張で)、鵺から貉の住人を頼まれた時驚き、消えた村の住人として何とかしようという気にはなったようだった。
 金(ジン)一族なども皆一般人として暮らしていくことに喜びを感じていた。
 もう金一族から金糸雀が出ても、それは個人の能力であり、使う使わないは自由なのだと言われたからだ。
 それに金一族から金糸雀はもう3代も出ていないし、力を持ったものはいない。
 自由という言葉が彼らを救ったけれど夏(シア)一族である冷(ルオン)は救われはしなかっただろう。

 大事な一族を亡くした彼らが、今回のこの貉(ハオ)解散を狙った新雪(シンシュエ)の行動を喜んでいるわけではないということだ。
 冷は高黒(ガオヘイ)の側を離された後、一人消えた。それと同じくして茅切(かやきり)も消えたそうだ。まだ傷も治っていないのに、彼は一人で生きていくことを選んだらしい。
 日本に戻っていないところをみると、まだ中国で行動しているのだろう。

 この二人が消えたことにより、新雪が知らない何かは冷(ルオン)が受け継いでしまったのではないかと思われた。
 しかし冷一人で何かを始めるなら、膨大な時間と人間が必要だ。その全てをそろえてくるのなら、鵺も相手をしないことはないので、かまわないと言っていた。

 それに貉が潰れた今、司空の子供の話や寧野が孫であることなどをバラすのは意味がない。むしろそんな情報を握っていられる存在として見られることの方が危険なのだという。つまりは秘密を知る存在として、別の組織の傀儡になる方法しか生き残る術がないからだ。情報を聞き出した後、下手すればその夜にはその辺の海に浮いているなんてことになる可能性の方が高い。
 冷は自分が不利になる可能性が高い方法は絶対に取らないし、こんな情報を振りまいたところで新雪にはまったく攻撃にすらならない。だからそんな意味のないことを風潮はしないだろう。

 鵺(イエ)の蔡(ツァイ)こと犬束は、やっと役目を終えて留学先である日本には戻らなかった。そのままアメリカへと渡り勉強をしているらしい。元々黒社会の人間は人前に顔を出して名乗るようなことはしないので、彼が鵺の総統であることは幹部くらいしか知らないので結構楽しそうに留学生活を楽しんでいる。

 寧野が寝ている間に全てがいい方向へ向かっており、二週間も経つと、あの新雪と高黒もカナダに移住して、マフィアを抜けたことになった。名前も変えてしまったので、他の組織も一般人になり、組織も解散した関係者には興味はないらしく、二人は平穏に暮らしている。

 高黒は、寧野が代福を殴り飛ばしたことを聞き、更に耀が住人に晒して真実を喋って聞かせたというとかなり笑ったらしい。
 高黒が一番やりたかったことを、寧野と耀がやってしまったのがおかしかったそうだ。

 それに寧野の父親の復讐相手を勝手に始末しようとしたのは済まなかったと言っていたそうだ。それについて寧野は、別に気にしていないし、思いっきり殴れたことで気分は悪くなかった。

 しかし代福はあまりにマフィアを舐めていたようで、その後どこかの湾で身元不明の遺体となって見つかったらしい。らしいというのは耀がはっきりと代福は死んだというのに、代福という名の記事は出なかったからだ。あれだけの組織の幹部が死ねば普通記事にはなる。ならないことを不思議に思っていたが、寧野はそれ以上聞くのをやめた。
 闇の世界で何があっても寧野には止められないことだからだ。
 新雪や高黒のように使える人間はそれほどいるわけじゃなかった。代福や京辺りは使い道はないものだった上に、秘密を拷問ごときで喋ってしまう軽々しさが不快感を誘ったらしい。

 だから敵討ちはもうやって終わってしまった。
 これで自分の周りを傷つけた組織はなくなってしまった。
 後は宝生と鵺の機密情報に接触する可能性があるので、寧野は聞けなかった。

 総てが終わったのだという気持ちになれたのは、大学へ通ってもいいと許可をもらってからのことだった。
 やっと平穏が訪れたと実感出来るのが大学で授業を受けている時だったからである。

 一ヶ月目。
 寧野はあのアパートには戻れずに、そのままズルズルと耀に世話になっていた。耀のマンションは総てが耀の持ち物で、出入りする人間は限られている。耀の命を狙われないようにという配慮で作られたマンションだから、最上階にある耀の部屋の隣を寧野は仕方なく借りていたのだが、大学から帰ってくると必ず寧野の部屋に耀が勝手に居座っている。

「またどこから入りやがった。鍵は取り替えておいたのに」
 寧野の部屋の鍵は昨日勝手に寧野が替えた。なのに耀は平然とそこにいた。

「まあまあ、いいだろ、俺のマンションだから俺が勝手していいんだ」
「そこらのマンションのオーナーが聞いたら泣いて止めそうな管理人だな」
 寧野が憎々しげに言うと、香椎を振り返る。香椎だけが同じ大学に通っているので、常に一緒であることが多くなっているが、耀はそこらへんも気になっているらしい。香椎が告白して振られているという部分も関係しているのだろう。

「くだらないことはいいから、用事何?」
 耀がただの無駄口を叩くためにここにきているわけではないのを寧野は知っていたので、用事を尋ねた。
 そう言いながら、寧野がお茶を用意すると耀は当然とばかり自分のコップを出してくる。寧野の緊急避難のために用意してもらったはずなのにいつの間にか耀のくつろぐ場所になっていた。食事用の箸は当然、歯磨き粉まで持ち込んでいる。

「今日、室脇が母親と再会できた。茅切の両親もいたんだが」
「茅切、こなかったんだ?」

「ああ、ずいぶん離れて暮らしていたらしくてな。あれでも茅切は30歳だそうだぞ。大学で家を出ていたのもあったし、10年も仕えていたためか、両親への思いはそれほどあったわけじゃないみたいだな」
 耀がその両親から聞いた話をすると、寧野は暗い顔をする。

「10年も脅されていたのか……助かるかどうかなんて安否を心配するにはもう時間が立ちすぎているってことなのか」
 親子の情は絶対に切れないと信じている寧野だが、茅切が両親を捨ててまで選んだ孤独がどこからきたものか知っていたので、彼の生き方を否定はできなかった。

 ずっと一人で仕事をしてきたと言っていた。部下はいたけれど、その場限りの部下ばかりで茅切の部下ではなかった。いつでも一人で生きてきた彼にはもう両親というものを必要とする心は残ってなかったのかもしれない。引き離されて無理矢理押しつけられた仕事だったが、それでも10年も続いてきたことで、茅切の中で価値観が変わったのだろう。
 精神的な孤独というのは人を一時的に弱くするが、とてつもなく強くしてしまうこともある。東京を離れる時の寧野がまさにそうだった。

 それがわかるだけに彼の生き方を否定出来なかった。
 寧野は彼が元気にやってくれているといい、今度は光の当たる場所でと何度も願った。
 そんな願い、茅切は必要としてないだろうけど。
 もう会うことなんてないだろうから、少しくらい心配してもいいだろう。

「それから、室脇が何度も謝っていた。自分がもっと強ければと何度も言っていたな」
「室脇さんは強かったよ。なんだかんだで最後にはちゃんと自分で選んだ」

 寧野は知っていた。寧野が室脇が尾行していると気づいていることを室脇が貉に報告していなかったことを。そしてあの場面になっても彼はあの茅切の無理矢理な誘いには乗らなかった。それだけでも十分な意思表示になっている。寧野はそんな風に選べる人間を軽蔑なんてしないし、それより謝る意味がわからなかった。

 あの時、寧野はやっと自分の目の前に事情を知っていそうな人間が現れて、内心でワクワクしていたのだ。戦える嬉しさに拳を振るおうとしていた。その為に習ったものだったから試したかったのだ。
 だからその後室脇がどうなるかなんて微塵も考えてなかった。
 それどころか室脇を囮に使ったようなものだったのだ。

「それに俺はあの時、室脇さんを助けたわけじゃないんだ」
「だけど、その助かった人が助かったと言っている。そういうつもりじゃなくてもそうなったということだってあるだろう?」
 耀がそう言うので、寧野はなんとなく頷いてしまった。
 耀があそこに出てきたことすら、きっと偶然の出来事だったはずだ。
 あれで寧野が感謝しても耀はただ目の前にいたハエを追い払うためにしたことだと言うに決まっている。
 この男は寧野を助けるのに、寧野に見つからないようにするのが得意らしいのだ。 
 まさか、最初からずっと助けられていたなんて思いもしないことだ。

「俺も、耀に礼を言ってない。助けにきてくれてありがとう。そのすごく嬉しかった」
 寧野がそう礼を言うと、耀はキョトンとしていた。寧野が急にお礼だなんて言い出すからびっくりしたのだ。どういう流れでそうなったのかちょっとわからない両名。

「……礼ってそれだけか?」
「え……あ、えーと」
 まさか礼を物で要求されるとは予想外だった。なので寧野は慌てた。こんなマンションまで用意してもらっているのに、その礼の金額的な大きさは計り知れない。

「俺は、礼なら別の物がいい」
「え! べ、別? 物とか?」
 さっぱり別のモノが思い当たらない寧野は更に困ってハの字に眉を寄せて唸っている。本気で耀の要求が解らないようだ。

 そうしたことを聞いている間に、香椎が部屋を出て行っていたのだが、寧野はそれにすら気づいてなかった。えーとえーとと考えてそして耀に聞く。

「具体的に」
 真面目な顔をして寧野が聞き返してくるから、耀はぷっと吹き出して笑ってしまった。

「何がおかしい」
「いや、素直だなと思って」
 こっちがどんな要求をしようとしているのかわかっていて言っているならすごいのだが、あんなことをした仲なのに寧野はあの先があることを予想してもいない。だからおかしかったのだ。

「あの先をしたい、それだけ」
 耀がそう言うとやっと思い当たったらしく、かぁっと顔を赤らめていたが、ふっと思い出したように寧野は耀に聞く。

「お前さ、俺のことまだ好きなのか?」
 寧野の天然と言うべきところはここなのだろうかと耀は目を詰むって頭を縦に振った。あんなことをしようとするのに酔狂でできるわけないだろうと怒鳴りたいのだが、いかんせん、立場的な何かを寧野が嫌に理解しているのか、寧野は自分だけが誘われたわけではないと思い込んでいるということなのだ。

 どうしてこういう思考になるのかというと、そういう風に上の世界を見ていたからに過ぎない。ヤクザは気に入った人間はしばらくかまうが、飽きればぽいっと捨てるようなそんな薄情な人間だと言われたようなものである。
 実際そうやって捨てられる人間もたまにいるだろうが、むしろヤクザは囲いだしたら結構しつこいことを知らないようだ。しかも嫉妬深いことも。

 しかし耀はめげなかった。ここで寧野に怒鳴ってもどうにもなりはしないとわかっていたからだ。
(道理で親父が響に何を言われても大して怒らないはずだ)

 妙に納得する部分がある。価値観の違いもあるのだが、基本的に怒るようなことではないことが多いからなのだろう。だって知らないなら今から教えればいいことであるし、わからないならわからせればいいのだ。

(なんか、楽しいな)
 寧野を攻略することに耀は楽しみまで見いだした。きっと最初に一目惚れした時よりも、離れようと思った時よりも、ずっと寧野のことが好きになっているはずだ。
 最初は綺麗な人だった。そう思った。
 不安そうな目がすごく魅力的だった。

 でも次に会った時、強そうな瞳がじっと自分を見ているのに気づいて興奮した。
 見られることにはなれているのに、寧野の視線だけはとても恥ずかしかったのだ。
 かっこよく見えているのかそれともただのヤクザに見えているのか不安だった。だから自分の名を聞いてほっとした。同じ呼び方だったし、同じ声色だったので、安心した。

 そして向かい合ってみて、また惚れ直した。
 一人ではなかったけれど、あの時手を取らずにいても寧野はちゃんと周囲の優しさを受け入れて立ち直ってくれていた。強く強く、見違えるほどに。だから嬉しかったし、悔しかった。側で強くなっていく寧野を見ていてはいけない3年が本当につらかったのだ。

 そんなこと初めてで、戸惑ったけれど、総てが寧野に繋がることを知っていたから、自分でも驚くほど汚くなれた。もう誰も見向きもしないほどに汚れたのに、寧野はそんな耀を見ても変わらずの態度だった。
 そこで気づいた。

 耀が汚れていることを寧野は最初から知っていたということにだ。
 そんなことで助けてくれた恩を忘れるほど非情ではないと寧野は態度で示してくれた。それが素直に嬉しかった。
 耀は素直に総てを認めた。

「ずっと好きだった。今はもっと好きだ、寧野」
 そう耀が言うと寧野は苦笑したように笑った。

「どこがいいんだか、こんなのの」
 寧野は照れたのか、自分の顔をぽんぽんと叩いて見せる。

「それが、結構好き」
 顔形は元から好みだった。だから中身さえ伴えば最高の人になるだろうと思っていただけなのだが、中身はさらに極上だった。

 耀は寧野を手招いて呼んで、近寄ってきた寧野を腕の中に捕らえた。
 寧野はおとなしくそれを受け入れた。

 嫌なことなんて何もなかったから。自分たちが出会うべくして出会ってしまったことで、全てが回っていたのなら、もう運命だと思うことにした。
 だって最初から耀は言っていた。

――――――絶対、運命の人はあんただって。