Howling-18

 寧野が耀と見つめ合っていた間も時間はどんどん流れていた。
二人の間にも3年という時間が流れていたから、余計にお互いをちゃんと認識するのにかなり時間を要した。周りは普通に行動していたけれど、二人の時間はゆっくりとしていた。

 耀がゆっくりと手を出して、寧野を抱き寄せた。
 寧野はそれを黙って受け入れていた。

 思い出では、結構いい匂いがしたような気がした。それがふわっと香ってくる。付けている香水は変わっていなかったらしい。高校生で香水とはと思うが、耀の大人に早くなりたいという願望がそのまま具体化したものが、その匂いで解ってしまう。

 大人びたというそれは、今の耀にぴったりと似合っていた。
 酷く残酷で、酷く人間として失格に近いと表現するとそうかもしれないが、それでもそれが寧野が覚えていた耀であり、それがただ見えている部分だけだということを知っていた。

 涙を流した彼もまた、その一部であることも重重に承知していたから、それは気にならなかった。

 腕の中に抱きしめられて、まるで寧野の為に作られたような場所にすっぽりと入って腕の中に収まってしまった寧野は、身動きすら取ることが出来ずに、耀が放してくれるまで、大人しくしていた。
 だって、これを解いてしまったら、自分の厳しすぎる時間が戻ってくるのが解っているから。少しだけ、少しだけ思い出に浸りたかった。

 耀はすっぽりと腕に収まっている寧野を抱きしめて、しっかりとその感触を味わった。細かった体はあの時よりはしっかりとしていて、抱きしめても壊れそうという風ではなかうなっていた。それにほっとして、そして二度と手放したくないと再度思った。

 どうあがいても諦めきれない。諦めるどころか酷く欲しくなってしまったのだ。

 好きだった、すごく可哀想で、そして弱かった部分と強くあろうとする部分と、そして意外に脆い部分と。全てを曝け出していた寧野が愛おしかった。
そんな部分が残っているのを今感じた。外見は強くなったかもしれない、けれど、中で弱い部分はきっと残っている。そこに耀がつけ込むような場所があるのを、耀はあの時から知っていた。

 寧野が一度受け入れた人間に酷く弱いこと。
 そして例え相手がなんであれ、あの時、寧野は耀にすがって生きる道を見いだしていたこと。
 その全てを耀は自分が弱くて手放したと思っている。望めば手に入ることが解っていて、当時の自分の弱さが憎くて仕方ない。

 でもあの時手放したからこそ、耀は成長出来たし、寧野も精神的に誰にも甘えることなく、こうして自然に育つことが出来たと思えば、仕方ない3年だったかもしれない。
 だって自分たちは子供だったのだ、今でも子供かもしれないが、それ以上に分別が白黒していないと気が済まない子供だったのだ。

「すみませんが、そろそろ」
気を利かせたつもりなのだろう。車はとっくに目的地に着いて止まっていて、周りも二人の様子に少し驚きながらも見ないようにしていたらしい。そこでいつも口を出す九猪ではなく、億伎の方が申し訳なさそうにその行為を中断しようとしたわけだ。

 九猪の方は耀が気がつかないほど夢中になっている姿を鼻で笑っている。
 陣頭指揮を任されているはずの耀が自分の任務を一瞬だけ忘れていたのがおかしかったのと、ほらみたことかと思ったからだ。

「悪い」
ぱっと寧野を腕の中から解放すると、耀はすぐに車を降りた。
 だが今度は寧野をおいていくことなく、手を引いて歩き出す。

 指揮はさっきの逃げた人間が何処に行ったのかという追跡も含まれている。寧野の友人である香椎北斗を襲った人間も全員がやられたわけではなく、時間制限付きで襲って逃げた人間も居た。それらが全員何処へ集合するのかも追っている。

「場所は判明したか?」
「はい、現在首都高を降りて、東京湾です」

「何か出たか?」
「それが撃ち合いに遭遇したそうです」
 九猪が状況を知らせてくれたが、無駄口を叩いている暇はなさそうだった。

「撃ち合い?」
 耀も意外過ぎて、少し驚いたように聞き返した。

「仲間割れというのが正しいのかどうか。襲った人間全てを撃って殺したそうです。あの耀様が珍しく外した人間が」
「あの新顔か。つまり室脇を回収していても結局室脇も消されていたということか」
 その答えは縦に頷いただけで十分だった。
 言われた室脇は現在別の人間が状況説明をしていた。

「室脇は人質に母を取られていると言っていたが、その母親は何処へ行った?」
「世界一周旅行の海の上です」

「は?」
 その回答を聞いた全員の時間が止ったと思う。そういう回答だった。

「それまでは何処かへ監禁されていたようなのですが、寧野様に関わるようになったころに103日間世界一周クルーズに参加してます。たぶん、下手に連絡を取ろうとされるのが困るのと、逃げられても困るのがあるんでしょうね。海外しかも海となれば逃げ切れませんから」

 九猪が凄く真面目に言うのだが、室脇は混乱しただろう。監禁されていると思っていた母親が、世界一周旅行の海の上だとは思わないはずだ。
 案の定それを聞いた室脇は自分はこんなに心配していたのにと呟いたという。

「それでお前は何をして室脇に危機を?」
 耀がそう詰め寄るので、寧野はキョトンとして九猪を見てしまった。
 室脇の危機というのは、たぶんさっき連れて行かれそうになったことだろう。あのままだときっと殺されていただろう。それを宝生たちのおかげで助かったのだが、話がここに来ておかしくなった。

「実はそのクルーズは、今回の事件に関わっている人間全ての関係者が乗っている船だったんですよ。もちろん企画は貉(ハオ)で、最後に船をどこか氷山にあてて沈めるのが計画だったようなので、仕方なく海賊を雇いまして誘拐しました」
九猪の言葉に寧野は唖然としたが、耀はがっくりと肩を落とした。

「好きにしていいとは言ったが、海賊はやめろ。のちのち面倒だ」
「大丈夫ですよ。私の先輩が海賊王の海賊団なので」
その言葉に耀は信じられないようにぽかんとしてしまった。

 九猪の知り合いは沢山いるのは知っている。怪しい組織に入っていたり、本当に裏の世界に精通していたりしている。その中でも九猪が一番怪しいとされているが、その上を行く人がいるとは思わなかったのだ。

「あー、もしかして和田先輩?」
どうやら思い当たる人間がいたようで億伎(おき)まで反応した。どうやら大学時代に居た知り合いらしく、しかも顔見知りを来ているようだ。

「どういうことだ? まさか……」
 耀はその先は言いたくなかった。でもその先を九猪が続ける。

「そのまさかです。本当にあの漫画のように、海賊王になりに行ってなっちゃったんです。ダー船長といえば、あの海で知らない人はいませんよ。もう軽く10年捕まってませんからあの人」
 さらっと凄いことを言われたのだが、理解することが出来なかったのが寧野だ。

「海賊ってまだいたの?」
 思わず呟いてしまっている寧野。

「船艦でも襲うのがまだいるそうだ」
 耀も詳しくは知らないがと付け足してそう答えた。

「へー……なろうと思ってなれるものだったんだ……」
 職業海賊。あれほど綺麗なものではないが、本当の海賊ならなれるわけだ。
 妙な情報が入ってきて、全員が九猪のやはり謎な知り合い関係にため息を漏らしていた。九猪なら仕方ないとでも思ったのだろう。

「で、船に爆薬が積まれていたのを発見し、早急に船だけお返ししたのですが、人質の身代金を払う気がないと言うので、仕方なく別の船を用意して日本にあと20日ほどで到着します」
九猪の説明に寧野はうーん?を首を傾げた。

 海賊が居たのが意外だったが、まあそれはいい。船を用意してだのなんだの、いろいろとお金がかかるようなことではないのだろうか。それを簡単にやってしまうこの人たちは何なのか。

「大丈夫ですよ、あの先輩。汚い海賊より、人助けになって金儲けが出来る海賊の方が好きなんですよ。だから値段交渉も上手くいきましたし、人質の引き渡しもスムーズでした。まあ、私の性格を知っていて値段交渉を無にする人ではないですし。前に一回本当に困らせたことがありましたので」

 まったく関係ない話だが、前に値段交渉の際に、九猪を密かに怒らせたダー船長は一年あまり、自分の所在を勝手に通報されまくり、勘弁してくれと泣きついたことがあるのだ。だから九猪のお願いには逆らえないし、それ以上望むならそれなりの対処がまっているということである。

 つまり九猪との取引は九猪の出した条件を呑んだら最後までそれを通さないといけないとされている。
 得意げに説明されて寧野はなんだか逆らったら怖い人なのだなと認識するようになってしまった。耀の怖さより、この人の得体の知れない怖さの方が怖いと思うのだ。

「それで、人質は解放させて手駒を切るとしてだ」
貉が準備してきたであろう動きを止めることは出来るが、貉はそんなことで諦めるとは思えない。その上、宝生が確実に関わってきたとなると話がもっと大きくなってしまう。

「どっちみち本体をどうにかしないことにはどうにもなりはしない」
耀がそうはっきりと言うと、九猪も頷いていた。

 今回のことはただ緊急処置に過ぎない。一時凌ぎには使えてもずっと寧野が安全になるかといえばならないと言える。相手は他人を手駒にして動くことを好む。安心していたら隣に住んでいる人間までもが実は室脇と一緒だったということになるのだ。
 どうしても決着をつけなければ前には進めない。
 貉は宝生が絡んでいようが、どうしようがどうしても寧野が欲しいのだから。
   
 寧野が連れてこられた場所は、宝生の本家という場所だった。
宝生には本家という場所が存在し、そこで多くのヤクザが隠居していると聞いていた。

 人が多くいるだろうとは予想は出来た。元組長たちが選ばれて本家に残るシステムをまだ使っているから、それを世話する人間も存在する。そうした人は沢山居るとは思うが本家の大きさからしてそれだけはない人間も務めているようだった。

 そこは活気に満ちていて、隠居した人間が住むというのは嘘なのではないだろうかと寧野は思ったくらいだ。
通された部屋は奥のさらに奥でそこが耀たちがいつも使っている部屋だという。金ぴか豪華ということは一切無く、普通の旅館の部屋をただ大きくしただけのようだ。
 天井は高すぎるのだが、耀の話では真剣を振り回しても大丈夫なように作ったらしいと言うので、寧野は武闘派とは聞いていたが、そこまで考えて作ったというのが驚きだった。
 普通の旅館でもここまではしないだろうというサービス付きに寧野は更に戸惑ったが、ずっと側にいてくれた耀は平然としてそれを受けていた。なれているというのが寧野の見方だ。

 ヤクザの屋敷でも、ここに来客はないので、ここまでの接待をするのは隠居した身である彼らには当然なのかと不思議になってくるが、その宝生を立ててくれるのが耀や組長なので、扱いは当然なのだろう。
食事などを手配してくれる人間以外は、まだ寧野の前に現れてはいない。
それもそのはずで、耀はここに腰を据えるなり。

「客人に構うな」
 そう言って全員を下がらせたのだ。ここではボディガードである九猪たちすら耀の側を離れている。その代わりと言ってはなんだが、犹塚(いづか)という人間が周りの世話をしてくれた。

 寧野は気さくに話しかけてきてくれた犹塚には笑顔を返せたが、耀がああ言ってくれなかったらどうやってヤクザの幹部、しかも元組長クラスに挨拶が出来るのだろうかと内心ビクビクしていた。

 それに耀が気付いたのかは解らない。でも耀が面倒くさがっているのは明らかだった。目の前にいるにはいる耀だが、さっきからパソコンと格闘していた。キーを叩く音が段々大きくなっているのは気のせいじゃないなと解ったのは、耀の指ではなく腕でキーを叩いている音を聞いた時だろう。

「どいつもこいつも、暇人しかいないのかよ」
 どうやらやってるのは個人的なメッセみたいなものらしいのだが、いかんせん数が半端なかった。見ては悪いと解ってはいたが、その横に座っていると全部見えてしまうし、特にすることもなかった寧野は自然と耀の手元を見てしまう。耀もそれには気付いていたが、隠す素振りも見せないので見ても大丈夫だと寧野は判断した。
 耀はその作業を暫くしていたが、いい加減に頭に来たのかLANを抜いてしまった。

「あの、宝生」
「耀」
 宝生と呼ぶとまた耀と呼べと言われた。

 さっきの説明でいい加減なれなければならないのだが、いかんせん人の名前の方を呼ぶのはなれていない。周や語みたいだったらまだ慣れる範囲だが、3年ぶりに会った相手を呼び捨てにするという突然の行為がまだ慣れなかった。

「じゃ、耀?」
 戸惑いながら呼ぶと、うんと返事と笑顔が返ってきた。
 その笑顔を見ていると、どうしても弱い。このいい男が相好を崩す姿が、さっきまでの様子からはまったく感じられなかっただけに、自分にだけ向けてくれていると錯覚出来てさらに気分までよくなってしまうのは不思議だった。

「ここに連れてこられて俺はどうすればいい?」
 今度はきちんとした未来の為に寧野は質問していた。宝生が絡んできた以上、貉が遠慮するはずもない。先に仕掛けたのは宝生だからという理由が貉には出来てしまったからだ。しかし貉は先に一般人に手を出したというのが耀たち宝生の言い分なのだろう。

 お互いが譲らずにくれば、直接寧野を狙った方が手に入りやすくなる。遠回りをする必要がないということなのだ。
 港で銃撃戦があったということは、貉は手駒を使わない方法を選んでくるだろう。

「実は寧野お願いがある」
 耀がさっそくとばかりに寧野に言った。
 その後に続く言葉は、寧野と耀の秘密だったけれど。