Howling-17

 室脇歩(むろわき すすむ)に中華系コミュニティから新たなる仕事が舞い込んだのは、見張れと言われてから二ヶ月後だった。

 それまで付けたりするのは、時々だったし、店で接客しているのを見張っているというだけで特別な何かがあったわけでもなかった。酷なことを要求されるわけでもなかったので織部寧野(おりべ しずの)に気付かれたことすら何も報告してなかった。それは仕事を与えてきた人間も薄々は解っているはずだ。寧野の感覚は、はっきり言って普通の人間だとは思えない。弱かったはずの人間が強くあろうとして強くなったその強さをまじまじと見せつけられて、こちらが怯むのは当然だろう。

 いつでも動揺したようではなかったし、襲われたと言われた後も警戒は強くなかったが、それでもまだ余裕は見えた。
 強いやつはいいなと室脇は思った。自分で強くなろうと思って強くなったのに、室脇は自分には絶対にたどり着けない場所だと思い、勝手に羨ましがる。

 望んでそこに居るわけでもないのに、室脇自身がそれを望んでしまうからかもしれない。室脇はただのコマだ。何に使うのか解らないが、一言で片付いてしまうような、そうHEROモノのよくいる雑魚。大きく変身させられる怪獣ですらない。

 大きなパズルの重要なピースである織部寧野が妙に羨ましかった。
 どういう理由で狙われているのかもはっきりしないが、彼が多方面から望まれているのだと解ってしまった。

 寧野を巡る戦いには、貉(ハオ)という組織に、鵺(イエ)、そして宝生と如罪(あいの)という日本のヤクザまで絡んでいる。先は中華系だが、どうして日本のヤクザのトップクラスが絡んでくるのかは謎だった。
 彼にどんな凄いことがあるのか解らないのだが、目には見えない何かに誰も彼も動かされているのではないかと思える、異様な空気がそこにはあった。

その寧野が、目の前で襲われた。
 ほんの一瞬だったと思う。
 寧野とその友人だという香椎北斗(かしい ほくと)という人間が歩いていると、側を通った何処か居酒屋で飲んできた客たちとすれ違った時だった。
キンと響く金属音が鳴ったと寧野と香椎が跳ねて目の前から消えた。

「香椎!」
 急に襲われたことでその二人が離れてしまっていた。寧野は横にあった塀の上に飛び上がっていたが、香椎は向こうからやってくる相手をさせられていて、寧野と行動が出来なかった。 

「行け!」
 香椎がそう言って織部に逃げるように言っていたが、これは罠だろう。二手に分かれて貰った方が面倒がない。ただでさえ強そうな相手だ。一人でも手こずりそうなのだから、寧野には別の舞台を用意した方がいいだろう。
 ざっと近所の庭を横切ることにしたのか、寧野はすっと消えてしまった。
 目の前では香椎も何処かの路地に入ったらしく、大きな物音も遠くなって聞こえなくなった。
 室脇は呆然としたまま立ち尽くしていたが、そこに大きく黒い外国車が止まった。車の種類はよく解らなかったが高そうだなと思ってしまうような外見をしていた。
 そこから一人の男が出て来て、室脇に言った。

「郁(ユー)、一緒に来るんだ」
 威圧感があるような声が、降りた窓の中から聞こえた。知らない声だった。それに何故自分の本名を知っているのだと驚いた。

「なにを……」
 あんな人間離れした人間を追えるような力は室脇にはない。追うのは自分でなくてもいいのだと思ったし、室脇がいるのに襲ってきたということは、室脇に無理矢理仕事をさせている人間たちだと思っていた。だからここで織部から解放されてと思っていたのに様子が違った。

「お前にはまだやって貰わないといけないことがある」
 そう男が言うと、室脇の後ろにいつの間にか誰かが居て、がしりと室脇の肩を押さえていた。

 いつの間に……と息をのんだ。
 乱暴されるのは慣れてないし、苦手だ。けれどはいそうですかと一緒に行くのも怖かった。母親を助ける為だとずっと思っていたが、一瞬疑った。今度は母を使う予定があり、自分を人質にして母に仕事をさせるのではないかと。

 この人間たちはこうやって仕事を分担させて自分たちが楽になる為にやっているとしか思えなかった。
 見張っている間、特に仲良くなれだの言われたわけでもなかったし、ただ側に居るだっけでよかったのも変だと今更気付いた。
 もしかしなくても、これは何かの罠なのではないか。
 そうした疑いが現実になったのが、そのすぐ後だった。

「やっぱりそういうことだったんだ」
 織部寧野の落ち着いた声が降ってきた。

「え?」
 びっくりして見上げたら、そこには誰もいなくて、見間違いか聞こえたのが幻聴かと思っている間に、自分の後ろで地面に何かが倒れている音や、砂利がアスファルトに擦りつけられる音が聞こえていた。
 それはモノの数秒だったと思う。
 室脇の肩に乗って掴んでいた大きな手がいつの間にか無かった。

「思い通りの行動をするんだな」
 車の中から声がしたのは、物音がしなくなった時だった。恐ろしくて後ろを振り向けなかったし、車の中を覗くのも怖かった。どうすればいいのかと迷っていると、室脇の隣に寧野が来た。

「それが狙いだったんだろう? 乗ってやっただけだ」
 普段の言葉使いが丁寧で落ち着いた声色をしていたはずの寧野の声がいつもより抑揚があり、感情が高ぶっているのか少し嬉しそうに喋っているように聞こえた。
 それは室脇の勘違いではなかった。実際に寧野は室脇の隣で薄らと笑っていた。
 待ちに待った、相手が見える戦い。それを目の前で再現させてくれる相手。
 3年前から寧野を追ってきていながら影すら見せなかった人間。
 そう貉(ハオ)が目の前に姿を見せたからだ。

「馬鹿でもない。だが、ここに軍隊仕込みの戦士がいたとしたら?」
 罠を張っているのだから、当然それくらいの用意はあると言いたいのだろうが、寧野は鼻で笑った。

「やってみれば?」
 声の調子からして、わざと挑発しているのだと解るような声だった。
 寧野がそんなことすら解らずに戻ってくるお人好しではないこと。それをこの人物は知っているのだろうかと室脇は不安になった。
 たぶん、向こうの作戦ではもっと違うことになっていたのだろうと思う。しかし、予定内の行動に出たはずの寧野だが、そこに予定外のモノが飛び込んできた。

「人のシマで堂々と騒ぎ起こしてるのはお前か?」
 いつの間にか車道側を渡ってきた黒服の男、まだ若かったが、物騒な笑みを浮かべている人間が、そう言った瞬間、窓に向かって何かをした。
 音はガラスが割れる音と、壁に何かがめり込む音。そして急発進した車。
 それらが同時にあって、目の前にいた黒い車が消えた。

「え?」
 室脇が驚いて振り返ると、その後ろには本当に今日何度目のいつの間にか、人がわらわらと出てきて、さっき寧野が倒した人間を担ぎ上げて連れて行っている。

 なんだこの軍隊じみた撤退の仕方と片付け方。壁にめり込んだ何かも誰かが掘って回収していたし、電話をかけながら状況を知らせている人間も居た。
 その中でさっき車に何かをした若い男は他の男たちと何かの指示を出していた。

 これは一体何なんだと室脇は怖くなった。
 だがそこから逃げることなんて出来ずに、呆然と立ち尽くした。



 寧野はそのとき、目の前にいる人間のことを一発で誰か理解した。
 薄笑いを浮かべて平気で人に銃を向けるような人間になった宝生耀だ。
 そんなことは解っていたのに、寧野は妙に嬉しくてしかたなかった。
 だが向こうはそれどころではないようで、さっきの人物が貉の大物だったのか、捕まえるのに必死だ。

 そして放置されていた寧野と室脇について何か案があるらしい。
 指で指示を出して車を手配し、すぐに何処に居たのか解らないような車がすっと入ってくる。それと同時に遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
 どうやら目的地はここのようで、近所の人間か通りかがった誰かが通報したらしい。

 どうすればいいのかと寧野が迷っていると、車に乗った耀の隣に座るように無理矢理車に寧野は乗せられた。その人は会ったことは一度しかないが、確か宝生耀と一緒にいた人間だ。あの事件の時に宝生耀を守る為にいたボディガードだろう。しかし何故そんな人が自分をこの車に乗せたのだろうかと寧野は首をかしげた。

 隣に乗った瞬間、耀が小さく舌打ちをした。
 どうやら予定とは違うことをされたらしいと気付いたのは、これを実行した彼が、室脇を別の車に乗せていたからだ。
 迷惑をかけているのは解っているので寧野は大人しくしていたかったが、室脇が違う車に乗せられているのを見て呟いた。

「あ、室脇さん……」
 さっき危ない目に遭わされそうになっているところを一応助けようとしたのだが、予定通りにはいかなかった。それに宝生組が室脇が敵と解った時に手のひらを返さないかが心配だった。

「大丈夫だ。目的地は一緒だし、何もしやしない。大体の事情はわかっている」
 耀は前を向いたままで寧野の不安をかぎ取って先回りをして言った。その言葉でもわかるように室脇歩はすでにマークされていて、そして裏事情も把握されていたことになる。

「あ……」
 そうだ。別れて逃げたはずの香椎に連絡をつけないといけない。まさか宝生組が出てきて大事になっているとは逃げている香椎も気付いていないはずだ。そう思ったのだが、携帯を取り出したところで、ひょいっと携帯を誰かに取られてしまった。

「……へ?」
 目の前にあった携帯が消えたとびっくりして隣を見ると隣に居た耀が寧野の携帯を持って勝手に操作をしている。慣れた手つきだった。

「あ、ああああああああ! 何勝手に人の携帯いじってんだよ!」
 慌てて取り返そうとするも、腕一本で頭を押さえられて耀には届かない。 悲しいかな腕のリーチの差という現実。本気で仕掛けるのも忘れてただ子供の喧嘩でおもちゃを取り合うように二人で暴れていると、さっきのボディガードが戻って来た。

「それを」
 手を出して渡すように言うので、耀は二三回同じ操作をした後、その人物に渡していた。

「ちょっと、なんで人の携帯を……っ」
 どういうことなのか解らないが目の前で売られていく子牛のようなものだった。必死に抵抗してみたら、目の前でシムカードなどを抜き取った後に、携帯を器用にバラバラに壊されてしまった。ドライバー一本もなかったのにどうしてそうなったのかは解らないが、相手が携帯を壊したかったのだろう。そして文句をさらに言おうとしたとき、何かをつまみ上げて笑っている。

「どうやら代理店も疑った方がよかったですね。まさか本体の奥深くに仕掛けているとは誰も予想もしないでしょうし」
 盗聴器だった。あれだけ気を付けていたのに、最初から本体に組み込まれていたと知って寧野は言葉を失った。

「しかしよく買う携帯が解ったな?」
「そんなもの全種類に仕掛けておけばいいんです。精々50種類程度でしょ。後で仕掛けるより手間はかかりませんし、再利用も出来ますからね」

 そう話し合いが進んでいるが、寧野はどうしてそんなことまで彼らは予想されていたのかが不明だったし、何より宝生耀たちは寧野のことをよく覚えている風でもなく、本当についさっきまで一緒に行動でもしていたかのように振る舞っている。

「最初から仕掛けられてた?」
 携帯が盗まれて仕掛けられるなら解ると思っていたが、まさか最初買う時から仕込まれていたなど寧野たちでも予想はしてなかった。そこまで急にできることではなかったし、難しいことだ。しかし、それを可能にできる組織が相手であると言われたも同然だ。

「そこまでして」
 そこまで予想して寧野の行動を読んで、先を進めないようにされていた。
 寧野はさっきの挑戦的な怒りから、本当の怒りが生まれたのを知った。
 胸の中で燻るのは、今まで怒ってきた中でも屈辱的な思いをしたからだ。まさか全て知られているとは思わなかった。

 盗聴器だけならまだなんとか出来ただろう。しかし、中の人間が室脇と同じようなまったく見ず知らずの他人を、少しだけ騙して使ったと言われていたとしたら、脅された人間は寧野の情報はくれてやっただろうし、躊躇もしなかっただろう。
 そんな些細な情報を集め、寧野の行動すら読んでいたとなれば、室脇が今日使われた理由は解るが、それ以上に彼らは寧野の行動は呼んでいたことになる。寧野が戻ってくることも知っていたし、それに付属する何かも予想していた。

 それが崩れたのは、宝生耀の存在だろう。
 彼が前面に出て攻撃を仕掛けてくるとは予想すらしてなかったと思われる。あの逃げ方はきっとそうだったに違いない。寧野の行動より耀の行動の方が彼らには予想が出来ないものなのだ。
 これだけ大がかりなことをされても彼らが作戦を変更させなかったことから、宝生の情報は漏れていない。
 それが悔しかった。

 素人と玄人の違いを見せつけられた気がして、さらに悔しかった。
 今度は忍び寄るのではなく、派手に来るだろう。今回の騒動から間を置くとは思えない。そしてそれに対処出来ない可能性が高いのが解って寧野は、悔しかった。

「そこまでして、俺を手に入れないと気が済まないのか」
 寧野はそう言ってさらに矛盾点に気付いた。

「俺をこうやってでも手に入れないといけないような状況になっているということなのか、宝生……」
「耀と呼べ、寧野」
 さっと訂正が入った。

「そういうこと……」
 いきなり名前を呼べと言われて、寧野は呆れた顔をしたが、それに耀が言う。

「ここらで宝生と連発されると、俺が宝生耀だとスポットライトを浴びて登場しているようなものなんだ」
 宝生組が台頭しているところでも耀がそうであると言って歩く必要はないし、他の地域だとさらに目立って仕方ない名前だった。まだ佐藤だの鈴木だのという一般的な名前だったらもうちょっとどうにかなかったかもしれない。

「解った……耀。それで」
 寧野が先を進めるように耀の名を呼んで続けようとすると、さっきまで仏頂面だった耀の顔が見事に思い出の彼の姿に重なってしまった。

「……な……なんで……笑って」
 はっきり言って、思い出を美化してきたはずなのに、そのままに微笑まれると凄く照れて困った。自分の願望のまま、そこにある耀の笑顔にドキドキと心臓が久しぶりに高鳴っている。

 そんなことをしている場合ではなかったのに、耀の顔をじっと見つめてしまって二人ともすぐには動き出せなかった。
 寧野は3年ぶりに耀の笑顔を見た。少し懐かしそうに笑うソレが、少しだけ思い出と違うけれど、それでも想像していたより、ずっと綺麗な笑顔だった。

 耀は3年ぶりに真面に寧野の顔を見た。写真でも見ていたけれど、幼さが少し抜けた美人に育っていた。3年は人が思うより、ずっと長い年月なのだと思い知らされる。

 耀も身長は伸びたけれど、寧野も少し高くなって、丸かった顔も丸さが取れてきていた。体つきなども運動に合せてさらに引き締まっていて、期待したよりずっと強くたくましく見えた。

 あの時の弱かった寧野ではないけれど、それでも強くあろうとして強くなった寧野が耀には酷くまぶしくて、ずっと写真すら真面に見られなかった。
 でも、こうして見ていて、酷く腕の中も抱きしめてしまいたかった。これは自分のだと、さっきも激情したように、主張をしたかった。
 例え、寧野の存在が耀の弱点になろうとも、それすら満足して受け入れる用意はすでに耀の中では出来ていた。
 楸は絶対に手放したことを後悔すると言った。 

 ああ、この3年、自分の手の中で育ててみたかったというのが正直な気持ちだろうか。この3年を他人に預けてきたことを今更後悔し始めた。
 そう、独占欲が止まらない。
 わき上がってくるものが何なのかというと、独占欲だろう。

 そうか。やっと耀は納得できた。

 楸にも同じことが起こったのだ。ここで手放したらきっと馬鹿だと。
 例え後に後悔をしたとしても、その後悔を別の喜びに変えるくらいの知恵を絞り出せと。

 耀は寧野の顔を見つめたまま、どうやったらこの人が自分だけを見つめてくれるような存在に出来るのかという、恋をしたら誰でも一度は考えるシンプルな謎に挑戦していたのだった。