Distance 3round やわらかな傷跡 8
居間に連れ込まれた梧桐は、ただキョトンとしていた。何が起こったのか一瞬では理解出来なかったのだ。
「あのー一体何が?」
ソファに座らされて、やっと目の前にいる鬼柳に話しかけた。
「あー、金髪の奴は医者だ。ヘンリーって奴で、いい奴だ。ちょうど暇だってんで、家に呼んだら、クゾガキがきたんで見せようという話しになってな」
無表情で煙草を銜えた状態で平然と言われて梧桐は少し混乱した。
「えーっと、それって行き当たりばったりっていいません?」
さっきは結構計画的に診察しようという流れだったようなと思い出して梧桐は首を傾げていた。
「そんなもんだ。巧い具合に運が回ってるんだろ。偶然でもなきゃこういう展開にはならねえだろうし。透耶があれこれ悩んでるってのも気にいらねえし」
「つまり、透耶さん優先と?」
「当たり前だ。あんなクソガキ抱えて、ただでさえ頭使って大変な仕事してんのに、まだ頭使わすのか?」
惚気てるんだか、凄まれているんだかよく解らない状態で梧桐は謝る羽目になった。
「いえ、すみません」
なんで俺が謝ってんだ?
だがそう言った鬼柳も何か考えたようで、溜息を吐いて言っていた。
「まあ、あの斗織ってのは、透耶の中でもでかかったからな。抜けた穴は大きいってところだろ」
そう言われて、ふと梧桐は思った。従弟だという透耶にとってそれだけ大きな存在だった人物。水渚は更に身近にいた人物だ。大介もそうだ。その二人が一人抜けた穴を自分たちで修復することが出来たかというと、今の段階ではまったく出来ていないといえるだろう。
だから微妙に拗れてしまっているのだと思う。
この二人にはもっと他人が入って何か掻き回してやらないとどうにもならないところまで来てしまっているのかもしれない。
その穴を塞ぐくらいの何か事件でも起こらない限り無理かもしれない。
「あーあ、知り合って一週間程度じゃ、介入出来ないかなあ」
珍しく気に入った水渚を助けてあげたいのだが、たった一週間付き合った程度の自分が何か出来るとは思えない。
そう言ってがっかりしていると、鬼柳がキョトンとして。
「なんだ? 一週間も付き合ってたなら、何とかしようと思うのは普通じゃないか?」
当然とばかりに返されて梧桐もキョトンとした。
「は?」
「俺なんか、出会ってたった数分で透耶をどうにかしようと画策したぞ」
昔を思い出しながら沁み沁み言われてさらに梧桐はキョトンとする。
「へ?」
「時間なんか関係あるか。ここにお前を連れてきたからには、別に聞かれて困る話があるわけじゃないってことだろ?」
「え?」
梧桐は鬼柳に一気に言われてびっくりした。なんだかんだで慰められたようなものだ。
「信用出来ない奴を連れまわすような奴じゃないし。少しは自信持っていいんじゃね?」
そう言った鬼柳は大したことは言ったつもりはないのだろう。大きな欠伸をして、書斎のドアに張り付いている透耶を見て、目を細めて笑っている。
「そ、そうかな……」
思わずその気になってしまうような言葉をかけられて、梧桐は有頂天になっていた。
書斎では、診察が続いていた。
ヘンリー・ウィリアムズを相手にして最初は度肝を抜かれたが、話してみると意外に話しやすく、洗い浚い話してしまっていた。
なんだかんだで、何度も泣いてしまったのは、もう止めるものがなくなってしまったからかもしれない。
静かに聞いていたヘンリーがやっと口にしたのは。
「まったく、日本の男は、こうもはっきりしないからいけない」
である。
思わず、水渚はプッと吹き出してしまった。
「最初、透耶も色々考え過ぎているところがあったからね。君も似たような感じだよ」
「似てる?」
「そうだね。脆さでいえば、君の方が脆いかもしれない。痛みを痛みとして認識はしていても、乗り越えるということをしてこなかった分だろうね。トラウマとして残るということは乗り越えていない証拠だから。そうしたものを幾つも抱えたまま生きていくのは、結構難しいものだよ。でも君はちゃんと泣けた。その分強くはなれる。弱さを覆す為に強くあろうとするのは、弱さという柔かな土壌の上に立派な建築物を建てるようなものだ。泣いて、土壌を強くして、その上に家でも建てると、かなり違うことは解るよね」
「雨降って地固まるですか……」
「そう。心にもそれは当て嵌る。弱さを口にすることは、弱いというわけではないし、愚痴を零すこともまた、醜さでもない。度が越せばまあ、如何なものかと思われるが、今の君にはなくてはならないものだと思う。なにもかも正しくしていると、意外に疲れるものだろ? 少し羽目を外してみてもいいのではないかとね。幸い君には友達も出来たようだし、透耶の様に叱ってくれるものもいる。それは恵まれていることだ。大事にしていくといい」
「はい」
「それと玖珂氏のことだが、これはさすがにどうすることも出来ない。彼が何を考え行動しているのかは、推測出来たとしても、それが全ての答えではないからね。それで提案だが……」
ヘンリーは一度呼吸を置いて。
「君から、距離をおいてみるといい」
「え?」
意外な言葉に水渚は驚いていた。
自分から距離を置くなど、考えたことはなかったからだ。
離れることは考えたけれど。
「人の心は近くに居過ぎると結構見えないものもあってね。真逆の例を上げれば面白いのだが、透耶と鬼柳さんもある意味距離を置いている感じだ」
「だから、あんなに好き合ってるんですか?」
「その逆でね。近くに居過ぎると、心が通じ合ってしまって離れられなくなるというものだよ」
「はあ……」
なんか変な話だ。
「見え過ぎるのも見えなくなるのも怖いものだということだよ。あの二人の場合は、お互いを殺しかねないというものだけれどね。君たちの場合は、お互いを死に至らしめるかもしれない病という感じかな。結局は相手の為を思ってしたことが、破滅に向かう羽目になるという、悲しい話だよ」
なんだか難しい話をされたような気がするが、解ったようで解らない感じで変な気分だ。
だが、やはり専門というのもあるのだろうか。聞きやすいし、もっと聞いていたい気分になる。
そこらの精神科などは話しにならないだろう。ここまで患者個人のことを言ってくれる病院や医者はいないものだ。
「次はいつ時間が取れるかな? こっちは言われた時間に空けられるけど」
「え? もう終わりですか? 薬とかそういうのは?」
いきなり次の診察の話しをされて、水渚は戸惑った。ここがいつもの病院であれば、最後は薬の話になるからだ。
「そうだ。ちょっと、薬を見せてくれるかな?」
そう言われて水渚が鞄から薬を取り出すと、ふーんと暫く眺めて、カルテらしきものに書き込んでいる。
「これ飲んでみて何か変化はあった?」
「いえ、食欲も出ないし」
「じゃ飲んでも無駄だね」
さっと全部取り上げられて、水渚は驚いてしまった。
「効かない薬を多量に飲むということは、次に対して免疫がなくなっていくってことなんだ。君は多分薬が効きにくい体質なんだろうね。下手に効かない薬を飲むということは、有効な手段を自らの手で封じていくことになってしまう。それに誰かさんに作ってもらったら、一応食べられるようだし。友達と遊んだ時は良く眠れたみたいだから、少しだけ普段と違うことをしてみるといいかもしれないね」
にっこりと言われて、確かにそうかもしれないと思った。
とはいえ、薬に強いとは自分では解らないものだから、医者に言われて初めて気が付いたようなものだ。
「眠剤は、ほんの時々ね。布団に入って眠れるようなら使わない。どうやっても眠れない時はしょうがないから使うってくらいに思っておいたほうがいい。あまり常用すると、段々と強いものになって量も増えていくだけだからね」
「……はい」
そう言われたら、なんだか眠剤がなくても寝れそうな気がしてくるから不思議だ。
薬についても知識も何もない状態で、ただ食欲がわくからとか、眠れるようになるからとしか渡されていた無かったような気がする。
こうやって薬の危険性をわざわざ教えてくれる医者も少ないだろう。
「この匂いかな? 透耶が嗅ぎつけたの。駄目だなあ、ここに来る前にこんな特徴のある匂い付けて来ちゃ」
そう言ってヘンリーが翳したのは、朝昼晩に飲むように貰っていた薬の一つだ。
「え!? あれって病院の匂いじゃ……」
確かに、あの日病院を出た後に、朝の薬を飲んだが、それが残っているとは思えなかった。
「病院の匂いだけだったら、俺なんかもっと嫌われてると思うけど?」
にっこりとして言い返されて、一瞬言葉が出なかった。
「そんな答えが……」
がっくりとしてしまった。
「病院嫌いっていうより、薬嫌いだからね。そういうところは透耶の勝ちかな」
「勝ち負けの問題ですか?」
そんな問題なのかとがっくりとしているとヘンリーは笑って言った。
「君は一度思いっきり負けてみるといいかもしれないね」
「透耶さんには適わないとは思ってますけど?」
水渚は不思議そうにそう答えると、ヘンリーはニヤリとして言ったのだった。
「負けたくない相手に思いっきり負けてみればいいってことだよ」
なんだかよく解らないままにヘンリーの診察は終わってしまった。
書斎のドアに張り付いていたらしい、透耶はすぐにヘンリーに水渚のことを聞いていたし、梧桐は梧桐でなんだか妙な顔をしていて、それでもなんだか優しかった。鬼柳は、さっさと台所に入って食事を用意しているらしく、執事が張り切って食卓の準備をしている。
こんな些細なことが、妙に楽しくて、こんなに自分は恵まれているのだと思える瞬間だった。
出会いがどんなものであれ、そこから自分が築いていくものは、確かにこの手にあるのだ。
もう少し、一歩づつ先へと進んでいってもいいのだと、誰かが手を引いて教えてくれる感じがする。
出来れば、自分の右手には、好きな人の手が繋がれていることを願わずにはいられなかった。