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外伝12-01
The usual 3
榎木津透耶の担当が決まり、やっと手塚から担当を引き継いだ入江卓也は緊張の面持ちで透耶の家を訪ねた。
大きな屋敷であることは最初から知っていたが、その地域で一番大きい屋敷だとは知らなかったので、門番がいてそこを通して貰い、歩いて五分も道が続いた先に玄関があるなんて思わなかったのである。
「広い、凄いな」
入江は手塚より榎木津透耶の担当になると聞いた時、夢だと思ったのだ。
何よりこの出版社の一番の稼ぎを出している作家の担当になれるなんてあり得ないと思っていた。
それなのに、直前で候補だと言われていた小林大吾が大それた事件で捕まり、宙に浮いたはずの担当の話が手塚編集長から入江にと言われて入江は慌てて透耶のことを調べた。
大作家の担当になれるわけもないからと、作品くらいしか頭に入っていなくて、榎木津透耶という人物自体に興味を持ったことがなかったのである。
作家は臍を曲げると編集者を見限ったら、出版社を別にしてしまうこともある。
幸い榎木津透耶は手塚のお陰で他の出版社でわざわざ書いたりしないくらいに、今の出版社を贔屓してくれている。
だからこそ、必ず大きな利益を生み出す作家である榎木津透耶の人となりを知る必要が出てきてしまった。
そして辿り付いたのは一般的なことが書かれているwikiである。
そこには生まれから巻き込まれた事件、作品のコメントをしていることまで細かに纏められた榎木津透耶専用のwikiで編集者は大の榎木津透耶ファンによって運営されている。
確かな情報を元にした完璧なwikiらしく、逐一情報が載っている。
それによると榎木津透耶は音楽家である榎木津維新の孫で、父親は調律師、母親の柚梨はジャズピアニストというサラブレッド、双子の弟はアイドルの榎木津光琉という派手な家である。
その中で透耶だけが音楽を志していたが、ある事件で挫折している。
その事件もまた乗っていたが、とてもじゃないが高校生の子供に耐えられるものではなかった。
しかし榎木津透耶はその後、転校した学校では作家を目指し始めて、投稿一作目にして出版社賞を受賞し、高校卒業後は小説家になる。
そして怒濤の作家活動で、色シリーズが十五作目で完結、他のシリーズも併用で十冊。短編集も出して、一旦作家活動を休止する。
その後二年の間にエッセイを二冊出して写真も自分で撮っているようだった。とても綺麗な写真が沢山あったので、よほどいい目をしているらしい。
そこまでは知っているのだが、問題は私生活である。
沢山の事件に巻き込まれ、誘拐されたりもしている。二度も大きな事件に巻き込まれて、マスコミの好き勝手な報道にも耐えられないくらいの誹謗中傷も受けている。
そんな状態で透耶はとうとう日本を飛び出してしまった。
それが作家を休止した理由である。
そしてその二年の合間に透耶は心を落ち着かせて、エッセイを二冊出した。
その中には犯人を恨んだりするような言葉やトラウマはなく、恋人と静かに暮らしていることや、世界には沢山のいいところがあると書いてあった。
とても読んでいるとホッとするようなエッセイで、榎木津透耶はとても強い人なのだと感じた。
この人はこれだけの逆境を乗り越えて、恋人と生きていく世界で優しさを失わないのだ。
ただ、このトラブル塗れの人生であるが、実際はもっと多くの厄介ごとに巻き込まれているらしく、ウワサの範囲を出ないが、それでもまた誘拐されていたらしい話もある。
そして榎木津透耶の恋人の話が出てくるわけであるが、透耶の恋人は男である。
名前は鬼柳恭一というアメリカから帰化した元報道カメラマンで、今は風景写真家だ。
その人の本のことは報道とかで聞いたから知っているが、写真を編集にお願いして見せて貰ったのだけれど、これは本当に凄かった。
報道の写真は賞を取るほどであったというし、生々しい報道の写真はさすがの圧巻だった。
そしてそれについで出された風景の写真もまたこの世のものかと思うくらいの素晴らしい世界で、この人の目はとても極上なのだと分かる。
そりゃ榎木津透耶の写真がとてもいいのは、この写真を撮るような人の隣にいれば誰でも上達はするというものである。
更に二回目の残り二冊もまた、圧巻であった。
風景の写真と、もう一冊は恋人に関する写真である。
それは榎木津透耶のことをここ八年で撮ってきた写真であり、顔は微妙に写らないけれど、それを気にもしないどころかそれがいいと思うくらいの写真で、正にエンジェルを撮ったものだった。
それによって資料として貰っている榎木津透耶の顔からはあまり想像ができないくらいの神々しさにファンである人達は狂喜したらしい。
まあ、被写体があのアイドル、榎木津光琉に瓜二つである以上、どう考えても被写体として素晴らしいことは分かる。
それでも榎木津透耶という恋人を持つ男の半端ない写真の画力に、榎木津透耶が選んだ男としては大正解である。
そんな男と一緒に暮らしている榎木津透耶は最近の活動拠点は海外を転々とすることである。
一所に三ヶ月くらいはいて、そこの生活を知る。観光客ではなく、住んで見るというのが楽しいらしい。
そんな経歴を見ていると怒濤の人生という言葉が浮かんでくる。
それもそのはずで、榎木津透耶の母親の実家は、全員が短命である。
四十歳になると全員がいきられず、事件や事故に巻き込まれて死亡している人が多いのである。いや多いではない、生きている人がいないのである。
もしかして、榎木津透耶はそれを分かっているからこそ、恋人との時間を優先し始めたのではないかと言われている。
榎木津透耶に残された時間は、約九年。
恋人の鬼柳恭一がそろそろ三十二歳になる。
番になった二人の共通として、年長者が四十歳になるのが寿命のタイムリミット。
つまり、榎木津透耶は三十五歳にはなれずに亡くなることが確定していることになる。
榎木津透耶のファンもそれを知っているからこそ、作家榎木津透耶の作品を心待ちにしながらも彼の人生を思うと急かすことも書いてくれとも言えないのである。
そんな榎木津透耶であるが、彼はピアノの腕は今でも健在で、あの義理の妹になった榎木津綾乃が先生と呼ぶくらいには慕っているらしい。
今や世界中を飛び回る榎木津綾乃は世界的なピアニストになっている。
そんな人が理想とするのが榎木津透耶であることを知ると、どんだけの才能を持っているのかと羨ましくなるものであるが、その結果、あの事件に巻き込まれる体質であると言われたらちょっと遠慮して一般人の方がいいやとなってしまう。
そういう人であるという情報を仕入れたせいで、入江の頭の中はかなりパンクしている状態だった。
素の榎木津透耶を知らないままで来てしまった訳で、これから担当をするというのだから緊張をしないわけもない。
それに今日は手塚が付いてきてくれるはずだったのに、急に某先生の原稿が上がらずに編集内がピリピリしていて出かけられず、泣く泣く手塚に見送られてしまったのである。
何で手塚が心底残念そうにしたのかは入江にも分からないが、一人でここに来てしまった訳である。
早速チャイムを押してみると、すぐにドアが開いた。
そこにはピシリとした背広を来た人が立っていて、すっとお辞儀をすると言った。
「入江様ですね、お待ち申しておりました」
「へ、あ、はい」
「私は執事の松崎と申します。主人は中でお待ちです。どうぞお入り下さい」
そう言われた入江は思った。
執事がいる家なんて聞いていないと。
そのまま家に入ってスリッパを履くと、すぐに居間に通された。
そこには既に透耶ともう一人目の厳しい恐らく透耶の恋人である鬼柳がいた。
「榎木津先生、このたび担当になりました入江卓也と申します、よろしくお願い致します!」
そう入江が気合いを入れて自己紹介をすると透耶はフッと笑って言った。
「私が榎木津透耶です。こっちの怖い顔をしているのは私の恋人の鬼柳恭一です。よく隣にいるので気にしないで下さい」
「はい、分かりました」
そう堪えたら鬼柳が言った。
「事情は知っているってことか。なるほど、あれ読んできたらしい」
そうしてフッと鼻で笑って透耶を見る。
透耶はああっという顔をしてからそれには触れなかった。
恐らくwikiを読んできたことがバレたのである。
「どうぞ座って下さい、お茶はコーヒーですか、紅茶ですか? 他に好きなものがありましたら、先に言ってくださいね」
そう透耶が言うと、入江はソファに座らせて貰ってから考えた。
「コーヒーでおねがいします。紅茶は茶葉が分からなくて……」
そう言うと鬼柳が席を立って隣の部屋に入っていった。
「彼が淹れてくれるのでとても美味しいものになりますよ」
そう透耶が言うのでそういうためにいたのかと入江は思う。
それから緊張をしていた。
だって執事は常に入江の側にいて、もう一人の執事が透耶のところにいるのである。
二人も執事がいるなんて聞いてないと入江は思った。
それでも透耶はとても穏やかに笑う人だったし、とても清明な人で、仕事の話になったら親権に意見も出してくる人だった。
「ドラマの配役も出まして……」
「そうなんだ。梶監督に任せちゃっているから、どうなるかなと思ったけど、相変わらずイメージ通りの人を配役にしてくれるね」
「そうですね、なんでもオーディションをしたそうで、特にこの父親役などは掘り出しものだったそうです」
まだ本は発売になっていないので配役と言われてもオーディションを受けに来た人達はどんな役を回されるのか練習のしようがなかったというのもあるが、その結果、イメージ通りに演じられる自然な役者を揃えられたらしい。
それに透耶にはそのオーディションの映像を見て貰い、反対意見があれば監督に伝えると言うと透耶はそれには首を横に振った。
「このままでお願いします。あと脚本も早かったですね」
「ええ、五十嵐先生はこのために映画の脚本を一本断ったそうですよ」
「そうなんですか……それは相手方に悪いことをしましたね」
透耶がそう言うけれど、そこに鬼柳が戻ってきて言った。
「五十嵐は断る口実が欲しかっただけだぞ。あいつそういうところがあるから」
そう鬼柳が言うと透耶はちょっと笑ってから言った。
「それじゃ気にしないことにしよう」
慣れたように言う様子から、二人とも五十嵐とも梶監督とも深い知り合いらしい。
「ほら、これで入江の口に合っているか確かめるから飲め」
そう言われてコーヒーを出されたので入江は怖くてゴクリとすぐ飲んだ。
「あ……これ、とても美味しいです!! これ好きだなあ、コンビニのだとちょっと苦いんですよね」
そう入江が言うと鬼柳が言った。
「お前に合うのはモカブレンドくらいだな。無難で一番飲みやすいものだ」
鬼柳がそう言うので透耶も笑っていった。
「モカは俺も合っているから、同じのでいけそうだね」
「そうだな。手塚ほど凝ってないから楽そうだ」
そう言うので入江はキョトンとした。
こんな良い物を手塚は毎回飲んでいたのかと思うと、嘆くように編集長になってしまい、榎木津透耶の担当を外れることを嫌がった理由はこの辺りにありそうだと思えてきた。
そしてそのまま仕事の話などをしていくと、お昼近くになったので鬼柳が言った。
「飯を食っていくか、入江」
鬼柳がそう言うので断るのも怖くて頷いて食べていくと言うと、鬼柳はまた隣の部屋に入っていった。
そしてそれから数分でいい匂いが部屋から匂ってきて、それにお腹がグーッと鳴ってしまった。
それに透耶が笑ってから言った。
「お腹空いちゃうよね、こんないい匂いしちゃったら」
「あ、はい!」
どうやら鬼柳が作っているのだという情報がwikiに書いていたなと思い出した。
そしてその日の昼食は鬼柳特性の炒飯で、お吸い物付きな上に、昨日の余りを再度料理した唐揚げのあんかけが付いてきた。
それを出して貰って早速食べることになった。
「い、いただきます」
そう言ってスプーンでさっと炒飯を掬って食べると、あまりの美味しさに入江は感動して言った。
「めちゃくちゃ美味しいです!! これ店出せますよ!!」
入江はそう言うとパクパクと炒飯を食べ、唐揚げのあんかけも食べた。
「これも無茶苦茶美味い……、すげーっす、鬼柳さん!!」
そう素直に入江が食を褒めると、鬼柳はにんまりと笑っている。
「口に合ったか、それはよかった。まだ手塚ほど舌は育ってないな」
そう言うのでどうやら手塚は毎回ここまで美味いモノを毎回食べさせて貰っていたらしいことに入江は気付いた。
「もしかして、手塚さんがここに来たがった理由って飯だったりします?」
そう入江が言うと透耶はふっと笑って言った。
「まあそうでしょうね」
「手塚は飯を食いに寄ってるくらいには、メールで済む用事でもわざわざ来ていたな」
そう身も蓋もないことを鬼柳が言う。
それで入江も納得した。
あの直前に行けないとなったときの手塚の嘆きは、この飯が食えないことへの絶望感だったのである。
それにちょっとここまで美味しいとなると、さすがに楽しみにしていた手塚が可哀想だなと入江は失礼を承知で鬼柳に言っていた。
「あの、これもし余っている分がありましたら、手塚さんにおにぎりか何かで渡せたりしませんか?」
そう入江が申し訳なさそうに言うのを聞いた鬼柳はニッと笑って言った。
「よし、合格だ。宝田、握ってあるやつを持って帰れるように用意してやってくれ」
「畏まりました」
そう言うと鬼柳は台所ではなく、別のドアから部屋を出て行った。
それを入江が驚いたように見ていると透耶が言った。
「そう言ってくれるような人に担当になって貰えて嬉しいなってことだよ」
透耶がそう言うのでどうやら鬼柳の中での人選に合格ラインを敷いていて、そこに手塚への気遣いが認められたということらしい。
それに入江はキョトンとしてから、鬼上司だけどそれでも褒めるところでは褒めるような上司なのだなと鬼柳のことを認識した。
そして透耶のことは普通にあんな人生があったのかと思うほどにのほほんとしていて優しい先生だなと思ったのだった。
初顔合わせはそれで上手く行って、入江卓也は榎木津透耶の担当になったのだった。
もちろんそれは平穏な生活とはおさらばくらいの変化であることを入江は気付くことはなかったのである。
PS
別に入江くんを事件に巻き込ませるわけではなく、透耶と鬼柳を心配することが多くなり、色々と心労が溜まる生活になるということです。
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