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外伝11-5
Simply wonderful
透耶と鬼柳はやっと二週間のオアシス生活から抜け出した。
スーパーブルームによる観光が落ち着き、ヘリの予約がやっと空いた。
時間は掛かったが、それでも透耶たちはそれなりにホテルでの生活を楽しんだ。
後半はほぼセックスしかしてなかった気もするが、それによって鬼柳の機嫌もやる気も復活した。
疲れた透耶とは違い、元気いっぱいの鬼柳である。
ロアルシナム国の首都に戻り、そのまま国を出ようとするも、その手続きの段階でヤン・ルス国王から屋敷に来るようにと誘われた。
断ると国から出して貰えないので仕方なく屋敷に行った。
ヤン・ルス国王は王宮も持っているが、普段の政府の仕事は街にある屋敷で行っている。人の出入りが多いため、王宮では不向きなのだという。
二人でヤン・ルスの部下に連れられて、屋敷に入るとヤン・ルスの透耶を見る目が違っていた。
「わざわざ済まないね。恭一には用事はないのだけれど、透耶にお願いがあったんだ」
そう言われて透耶はキョトンとする。
鬼柳もさすがにヤン・ルスが透耶に何か願うことなどあるのだろうかと、思いつかないようにキョトンとする。
「実は、透耶、君はピアニストだと聞いた」
そうヤン・ルスが言うので、透耶はそれは違うと言う。
「いえ、そういうものではないですが……趣味程度に」
透耶はそう返して、そこまで凄くはないのだというのだが。
「いや、私の知り合いの調律師が、榎木津透耶というピアニストに心酔していたのを思い出したのだ。だから同一人物かどうか問い合わせたら、彼はちゃんと透耶の顔写真でそうだと答えた」
つまり裏は取っているのだと言うから、透耶は鬼柳を見る。
「なんか、やらないと出国できないっぽくない?」
「俺はいいんだが、透耶はどうだ? 正味三週間くらいまともにピアノ触ってないだろ?」
「あー一時間くらい練習させてくれるなら、普通には弾けるかな?」
透耶がそう言うと、鬼柳が答えた。
「練習時間をくれたら、普通に一曲だけ」
鬼柳がそう答えるので、ヤン・ルスが不思議な顔をするのだが、透耶が言う。
「俺は、恭の頼みなのみでしか弾かないので」
透耶はにっこりとしてそう言った。
鬼柳が許可しない場合は弾かないと言われて、ヤン・ルスが不思議な顔をする。
けれどすぐにピアノのある部屋に案内をしてくれた。
「うちにあるのはこれだけだが、それなりにいいものだと聞いている。調律は毎日やらせている。今日も終わったばかりだ」
そう言われて透耶が喜ぶ。
「ベーゼンドルファーだ。すごい本物は久しぶり……」
透耶がそう言うと鬼柳が聞く。
「それ、なんか違うのか?」
「うん、メーカーね。うちはスタインウェイだけど、ベーゼンドルファーも三大ピアノって言われているうちの一つで、オーストリア産。で、リストが賞賛したほどだって言われてる。昔、実家にもあったんだけど、借り物だったから両親が死んだ後に返したんだ。で、その後はスタインウェイを借りてたから、ベーゼンドルファーは久しぶりなんだ」
「ピアノって貸し借りしてる?」
「高いから買えないのもあるけど、スポンサーが貸してくれることがある。俺は、実家の関係で親が借りてたり、知り合いが貸してくれたりとか、そういう感じ。今のも貰ったというよりは、ジョージさんに借りていると思ってるから」
「ふーん、つまり透耶はメーカーはあんまり問わなくて、あれこれ弾ける?」
「あー、そうかも。学校だと、いろんなメーカー製のモノが多かったし、身近ではほぼスタインウェイだったけど、俺の基礎はベーゼンドルファーだったし、弾いたことがないのは、三大ピアノでもベヒシュタインだけかなあ」
「へえ、すごいな」
「恭だって、どこのカメラでも綺麗に撮れるじゃん。使い捨てカメラでも同じように取れてたし」
「あー、そういうことかー」
難しい説明よりも鬼柳に分かるカメラの説明ですると、鬼柳はやっと納得をする。
それを聞いていたヤン・ルスは、少しだけ期待をした。
というのも、鬼柳が納得するクラシックの曲を聞いたことがない。こういう音楽を好む性格ではないことは知っているだけに、ピアノのクラシック曲を望む鬼柳というのも、珍しい気がした。
「それでリクエストは? 時間が足りないから一曲だけね」
「ラ・カンパネラ」
「好きだね~、いいよ」
透耶はそれを受けて、ピアノの前に座る。
左から右に指をただ動かすだけ。誰でもできるような動きで透耶がピアノに手を伸ばす。
そのただ弾いただけの音は、ヤン・ルスにとってこのピアノで聞いた中で一番のいい音だった。
透耶はそれを弾くと、満足したように微笑む。
「うん、綺麗な調律してる。音ズレなし。さすが」
王宮にも置けるように調整しているのは間違いなく、音は透耶が満足する音だった。
それから透耶は振り返って、ヤン・ルスを見ると言った。
「練習はあんまりなので、本番で聞いて頂けるとありがたいです」
そう透耶が言うのでヤン・ルスはどぎまぎしながら部屋を出た。
誰かがピアノを弾いてくれるというそれだけのことが、どうしてここまで楽しみになるのか分からないが、透耶がピアノに触れた瞬間、ヤン・ルスはその胸の高鳴りが止まらない。その心を抑えながら一時間を過ごす羽目になった。
透耶が練習を開始すると、ピアノのある部屋は閉め切った。
鬼柳だけが入り、三十分はあっという間に過ぎる。
時間が過ぎたところで、鬼柳がドアを開けて調律師を入れ、調律師も最終の調整をする。その時に透耶と調律師の通訳を鬼柳がした。相手はオーストリアからわざわざ雇われてきている調律師だったので、言語が透耶がまだ習得していないドイツ語を喋る人だったからだ。
鬼柳は基本ドイツ語とフランス語は大学時代の必須だったらしく、普通に日常会話ができるレベルで喋れるという。これに加え、スペイン語やアラビア語、基本一度でも長期滞在したところの言語は日常会話ができるレベルで喋れるという。
しかし鬼柳本人は。
「何カ国語喋れるのか分からん」
と言う。本人すら把握してない言語まであるらしい。
そうして通訳をしてもらい、透耶の調律に合わせていくと、音はやはり変わる。
透耶が完璧に自分仕様にしてもらうために、弾いてそれを直しもらいやっと完成する。
調律師は部屋から出てくると、ヤン・ルスたちの前にやってきてその場に座り込み。
「Oh mein Gott……Oh mein Gott!」
と言い出して震えている。
そんな様子を余所に、透耶は一旦休憩だと言い、用意された控え室に戻ってしまった。
唯一練習を聞いていた調律師のみが一人パニックになっていた。
そんな状況を見て、ヤン・ルスの透耶への期待はさらに上がった。
透耶はそのまま控え室で鬼柳と三十分ほど休憩をしてから、部屋に戻ってきた。
「じゃ、弾きますか?」
そんな透耶の発言に、ちょうど屋敷内で仕事が終わった人たちが部屋の周りに集まってくる。
中はすでに王族の関係者が入り、大騒動になっていた。
しかし透耶は周りを見回しても大して驚いた様子もなく、鬼柳に向かって笑顔で話しかけている。
一曲を弾くだけの簡単なコンサート。気負いもなく、リラックスして透耶は挑んでいた。
そして弾き始めたのは。
「パガニーニによる超絶技巧練習曲第3番変イ短調「ラ・カンパネラ」」
透耶はそう発言してピアノを奏で始める。
そうすると一斉に観客がその世界に取り込まれる。
壮大な鐘の音、一音の狂いもなく弾かれるそれをなんと表現していいのか分からない。
透耶は涼しい顔でそれを弾き、楽譜もなく間違えることすらせずに一曲を駆け抜ける。
三分四十秒ほどのあり得ない時間。
鐘の音のように鳴り響き、その時間はまさに一生ない、奇跡の一曲だけのコンサートだった。
透耶が弾き終わって、すっと立ち上がって観客に頭を下げると、周りが一斉に立ち上がって透耶のピアノの演奏に惜しみない拍手を送った。
透耶はそれにまた頭を下げてから、鬼柳と共にヤン・ルスの前に立った。
ヤン・ルスは呆然としたまま椅子に座ったままで動けずにいたが、二人が立っていることに気付いてやっと我に返った。
「……す、素晴らしい……本当に素晴らしかった……」
そうやっと言葉に出したが語彙が死んでいた。それ以上の言葉は必要ないほどの完璧な演奏だった。
透耶はそれにニコリと笑ってから頭を下げた。
「ありがとうございます。素晴らしいピアノで演奏させて頂き、光栄でした」
透耶はそう感想を漏らすと、国王の近くに中学生ほどの子供がいた。
その子は透耶と身長は変わらないのだが、透耶に向かって言った。
「タザウワジ!」
もちろん、それは透耶が知っている単語ではなかったので、透耶は鬼柳を見上げると、鬼柳は透耶を抱き寄せて肩を抱いてから少年に言った。
「ラー!」
鬼柳がそう言い返すと、少年はキョトンとしていたがすぐに鬼柳が透耶の恋人であることを察して落ち込んで下がっていく。
「なに?」
透耶が何を言われたのか分からなかったのだが、鬼柳が言う。
「結婚をしてくれだってさ。だから断った」
「……あ、そうなの? ありがとう」
よく分からないまま求婚されていたことは苦笑するものであるが、間髪入れず鬼柳が断ってくれたので透耶はホッとする。
「それじゃ帰っていいな」
「……ああ、そういう約束だったな……」
まだ放心しているヤン・ルスであるが、透耶のピアノは相当の爆弾だったらしく立ち直れないでいる。
それでも鬼柳は面倒ごとになる前に国を出ようとさっさと透耶を連れて歩き出した。
するとさっきの少年が何か本を掲げて鬼柳を追ってくる。
その手には鬼柳の写真集で、最近出たばかりの「You are my angel」を持っている。
「アアティーニー タウキーアック ミンファドゥリック!」
その必死の願いに、鬼柳は渋い顔をしながらもさっと自分の名前を書いてサインをしてやる。
「シュクラン!」
少年はそれで喜んでヤン・ルスのところに飛んでいってサインを貰ったとはしゃいでいる。
それで透耶はやっとあの少年がヤン・ルスの子供なのだと分かった。
「よし、帰るぞ」
鬼柳はそう言うと、透耶の手を取って揉めないうちに屋敷を抜け出した。
屋敷は人が溢れていたが、出ていく二人を止める人はいなかった。
みんな放心したように夢見心地な様子で二人が出ていくことを気にもとめていなかった。
「透耶の爆弾、すげーわ」
鬼柳は感心したように言い、透耶はそうかあ?という顔をした。
ピアノを弾いただけで全員が金縛りに遭ったように動けなくなるのは、かなりの威力である。まさに今の早く去ってしまいたい時には邪魔されるに行動できる手段ではある。
しかしその後の反動はどうしようもないくらいに大きいため、そのデメリットが大問題であるがそれはこの国を出てしまえば、何とでもなることだった。
そのまま大急ぎで大通りでタクシーを拾い、空港に直行をしてさっさと機上の人になることには成功した。登場時間は計算に入れていたので、ちょうどいい便であるイタリア行きに乗った。ヨーロッパ圏内まで出てしまえば、後はどうでもなる。
案の定、その後の屋敷のヤン・ルスの元では少し騒ぎになっていたらしいが、あまりに過剰に熱気を帯びた親族たちにヤン・ルスの方が呆れた様子で鬼柳に言ってきた。
「お前らが凄いのは分かったけど、それとは別にまた会おう。私の英雄たちよ。その時は楽しい時間を用意しよう。英雄たちの旅の無事を祈る」
そういう伝達が飛行機の無線で届けられ、鬼柳はそれを書いた紙をスチュワーデスに渡されて読み、呆れたように言った。
「まあ、こうなるよな……」
「……調べちゃったんだ?」
どうやら鬼柳恭一がどれだけ凄い人になっているのかまで調べたらしい。
ついでに透耶のことを調べ直して、透耶が作家であることやピアノは趣味というのは本当であることまで知ったようだった。
英雄たちなんて言い方をしているのはかなり本気でそう思っているところがある。透耶たちがいなければ、隣国に王座の退位を求めるという内政干渉はできなかっただろうし、多大な問題も一気に解決した今だからこそ、ヤン・ルスにとっては元々鬼柳は命の恩人であり英雄であったけれど、今回の事件の発端になった透耶も、また英雄だったのだ。
「……まあ、次に来ると言っても三年後くらいか。その頃には綺麗に忘れてる頃だろう」
鬼柳がそう言って眼下に映る砂漠を眺めてから言った。
透耶もそこを見ながら言う。
「そうだね」
透耶のトラウマなことも隣国とのことも、たぶん綺麗に片付いて、そして新たな人たちとの出会いも待っている。
鬼柳は旧友ネイとのことを綺麗に思い出として片付けて、ヤン・ルス国王やスフィル国王と共に未来を見て生きるのだろう。
その時はいつでも透耶は隣にいる。
そういう意味で透耶が鬼柳の手を握ってくる。
それを鬼柳は握り返した。
いつでも一緒に、それが二人の願いだった。
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