Switch 外伝11-1

counter melody2

 透耶が次に目が覚めた時、そこは見覚えのある場所のはずだった。
 けれど、目の前に映る天井はあり得ないくらいにアラブ様式の派手な様式だった。
 それだけはないと透耶は思って瞬きをするも、天井の金色の模様は変わらない。
 急に起き上がると危ない気がして、透耶は目を開いてゆっくりと視線を横に向けた。
(ないない、こんなことそうそうない。夢夢絶対夢)
 そう思うような光景が広がっている。
 明らかなアラブ仕様の建物、柱、アラベスク模様、真っ白な壁に装飾された金色の模様。
「……はあ」
 夢じゃないじゃん……なんで?
 透耶はふっと人の気配がしないのか確認してからベッドらしきものから起き上がる。
 頭が少しふらつくので、何かクスリでも嗅がされたのかと考えるも、そもそも自分はホテルの部屋に一人でちゃんといたはずなのに、なんでこんなところに移動しているのか。
 ベッドに腰を掛けて、一気に起き上がり窓側に行く。大きな窓からは庭が広がっていて、青い植物がたくさんある。大きな木、中腰の木、道は白い石が張り巡らされていたが、人はいなかった。
 もちろん。
「窓は開かないっと」
 透耶はとりあえずは騒ぐのを待った。
 部屋中を見回して、とりあえず窓が開くのかを確認したが、どこも開かない。というより、窓が嵌め殺しで開けるという役割を持っていない。外からの侵入を懸念したのか、脱走を懸念したのか分からないが、とにかく防犯上は正解のような気がした。
「出たところで、何処か分からない」
 何より危険なのはこの部屋を出た後だ。
 ここは日本ではない。外へ出たからと言って、誰彼と助けを求めることはできない。
 なので透耶は一層焦った。けれどその焦りで愚行に出るのは得策ではないと思い、落ち着いて行動をする。
 まず時計を確認する。
 時間は午後三時くらい。ホテルにいたのは午前九時前。
 移動したとしてもそう遠くに行っている可能性は少ない。
 まず国を出てはいないと透耶は考えた。屋敷の雰囲気と周りの空気、そして透耶の服は、明らかにこの国の服である。そして六時間くらいであることも考えれば、移動時間を含んでもそう遠くにはいけない。
 誰かにここに連れてこられたとして、誰なのか。
「……やっぱり……そう考えるしかないな」
 思い当たることは一つしかない。
 鬼柳が危惧した通り、ネイの仕業なのか。
 だとしても、どうして急にこんなことになるのか。透耶には理解ができない。
 そもそも寝ていた自分がどうやってホテルから連れ出されたのか分からない。
 そして問題は、ここで鬼柳に助けて貰うという方法がどうしても期待してはいけない気がした。土地勘はあれど、隔離されている場所を鬼柳が特定できるとは到底思えないのだ。
「……ネイさんを疑ったとして……あ……」
 そこで透耶は思い出す。
 鬼柳はネイに対して、実家は隣の国と言っていた。
「え、まさか、隣の国って……ロアルシナム国の隣ってマサランテ国ってこと?」
 まさかのまさかだ。国境を越えて隣の国に移動なんてことはたぶん可能だ。
 国境を越える許可を持っていれば、砂漠を越えることでどうにでもなる。
 ネイに連れ去られていたとして、それが当たっているなら透耶はマサランテ国にいることになってしまう。
「どうしよう……とても砂漠は越えられないし、パスポートもないんじゃ……国境も越えられない……」
 一気に絶望感が増した。
 鬼柳の懸念通りに不味いことが起こっていることだけは透耶は実感した。


透耶がいないことに鬼柳恭一が気付いたのは、ホテルのフロントでの違和感からだった。スムーズに手続きができないことに一旦部屋に戻ろうとするも、何故かフロントマンにのらりくらりと話をされた。
 嫌な予感というのは当たるもので、鬼柳は話を中断してから部屋に戻ると、部屋のオートロックがかかっているはずの部屋が、ストッパーが噛まされたままで開いていた。
 そして部屋からは異臭がした。
「透耶!」
 口を覆ってから部屋に入り、窓ガラスをまず開けてから振り返った。
「透耶! どこだ!」
 返事はもちろんどこからもしない。
「……ちっ、やりやがったな、くそが!」
 この部屋に透耶が居ないことはこの異臭が物語っている。
 これは所謂催眠香で、貴族が初夜などに使う香りだ。相手を眠らせてことに及ぶもので、慣れている人ならばせいぜい思考力が奪われる程度で済む。しかし初めて嗅いでしまったら、匂いの効果で深い眠りに付いてしまう。
 透耶に使われたのならば、たぶんそこまで深い眠りになるほど吸わせてはいないのは確かで、短時間でもいいから眠らせたいのなら、ほんの十分ほどで事が足る。
 やられたと思った鬼柳は、部屋のドアは閉めて窓側だけ開けた状態で部屋を飛び出して玄関に向かった。
そしてホテルを飛び出し、近くの別のホテルに入る。
「ここに、ネイ・バラディ。ネイ・バラディ・ナジェム・アルニラーニハーヤが泊まっているだろう、鬼柳恭一が来たと言って繋げ」
 鬼柳は怒鳴りたい気持ちを抑えてそう告げると、フロントは胡散臭い鬼柳を見ながらも一応ネイに繋いだ。
「あの、お会いになるそうです。そちらのラウンジでお待ち下さい」
 そう言われて鬼柳は大人しくラウンジに移動した。
 素直にネイが会うということには驚いたが、ネイはすぐに下りてきた。
「恭一……何かあったのか?」
 ネイはさっきの鬼柳の様子からさらに差し迫った雰囲気を察してそう言ってきた。
 その顔は心配をしている顔であり、とても透耶を連れ去った男の顔ではない。
 ネイとはそれこそ十年近く一緒に仕事をしてきた。知らない仲ではなかったし、むしろ知っている仲である。ネイが自分が何者であるのかを話したのは宮本と鬼柳にだけというくらいには、信頼は得ていたと思う。
 もちろん、あのクリスマスの事件以来は鬼柳の方が警戒をしていたために、どちらかというとネイの方が鬼柳に懐いているだけという形であった。
「お前の国で言う、催眠香、あれを使って透耶をさらったのはお前じゃないのか?」
 鬼柳がそう問いかけると、ネイは一瞬キョトンとして何を言われているのか分からないように聞き返してきた。
「何を言ってる? 催眠香? 確かにそれは私の国では使われていたものだけれど……どうしてそれが?」
「部屋にその匂いが充満していて、透耶がいなかった。お前じゃないのか? 絶対にお前に近いものが使ったとしか思えない。あれはお前の国の特別な人間にしか使えないものだったはずだよな?」
鬼柳の説明にネイは顔を顰めてから、部下に何かを命じた。
「恭一、まず部屋を見せてくれ。匂いが残っているなら、私が誰が使ったのか判別できると思う」
 そう言われて鬼柳が顔を顰めるも、とりあえず鬼柳のホテルの部屋に移った。
 さっきまで鬼柳を足止めしていたフロントマンがまず逃げた。
 それをネイが察して部下に追いかけさせてから、残りで部屋に上がった。
 オートロックを解除してネイがまず入っていた。
 大分匂いが薄まっていたけれど、ネイにはそれが誰が調合した香りなのかは十分分かるくらいの香りは残っていた。
「まさか……そんなことを」
 ネイががくりと膝を崩すのを部下が慌てて部屋から連れ出した。
 匂いでおかしくなったのかと思っていると、ネイが鬼柳を見上げてから頭を下げた。
「すまない。これは私のせいだ……すぐに国に戻って透耶を助けてくる……だが、恭一はたぶん入国を拒否されると思う。そこまで用意周到にされているはずだ。だからなんとか砂漠側から国境に近づいてくれないか? そこまで私が透耶を連れ出してくる」
「どういうことだ?」
 鬼柳はネイが何か察したことは分かったが、透耶がネイの国まで運ばれてしまっていることや、誰が犯人なのかまでは分からなかった。
「本当に申し訳ない、思い込んだら止まらない人なんだ。私がとっくに透耶に振られているのを、どうしても私の気概が足りないせいだと思い込んでしまっている。こうなると私で止められるかどうか分からないのだけど、なんとかしてみる」
 ネイは必死にそう言う。
 鬼柳はそれで透耶を浚ったのが誰なのか察した。
「本当にお前を信じていいのか?」
「信じてくれ、私だって透耶にこんなことをして、透耶が手に入るわけもないことくらい分かっている!」
 ネイは必死にそう言ってくる。
 その顔は真剣そのもので、鬼気迫るものがある。
「……砂漠の国境あたりでいいのか。この辺りならアディテナウ砂漠のキャラバン隊が通る道しかない。本当にそこまで透耶を連れ出せるのか?」
 鬼柳が自分にできることは一つしかないことはさっきネイから聞いて分かっている。
 透耶を攫った輩は、鬼柳に理由を付けて入国拒否をできる立場の人間。ネイの知っているそんな立場の人間はただ一人しかない。
「なんとか、してみせる。私だって透耶を傷つけたいわけじゃない。だから任せてくれ」
 ネイがそう言うので鬼柳は無言で部屋の荷物を片付けた。
ネイはそんな鬼柳の背中が怒りに狂っていることも察したが、それ以上に寂しがっていることにも気付いた。
 あの鬼柳恭一という他の人間に興味がない人が、恋人である榎木津透耶がいないだけでここまで弱っている姿を見せてくるのが意外だった。
 それが印象に残ったままで、ネイは部下に命じた。
「すぐに国に戻る。一人、恭一に付いて連絡係をしてくれ」
 ネイがそう命じると、一人が残り、他はネイと共に付いていった。
フロントマンはきっとネイの配下にどうにかされているだろうが、鬼柳には興味はなかったが、退室する時にフロントに行くと、支配人が出てきて鬼柳に頭を下げ、さらには泊まった分の宿泊料を無料にして、この事件はオーナーが預かることになったと言われた。
 そのオーナーが呼んでいると言われ、迎えのタクシーがやってくる。
 淡々と進む事後処理であるが、鬼柳はもう誰の手を使ってでも透耶を取り戻す気でいたので、大人しくタクシーに乗った。
そんなことになるとは思わなかったのは、ネイから付いてきた部下の一人だ。
 急に鬼柳が砂漠に行く以外の行動を取り始めてしまったので、少し焦っているようだったが、鬼柳がそこで一言言った。
「お前を信用はしていない。だからこれから先に会う人間のことはネイであろうと誰であろうと口外することは許さない。いいか、これはネイであろうともだ。そうしないと、お前の首が俺の意思に関係なくたぶん飛ぶ」
 鬼柳がそう言い出して、そのあまりに淡々とした説明に、部下は少しだけ怯えた。
 たかが日本人が何を言っていると言いたかったけれど、そのたかが日本人が、たぶん首が飛ぶと忠告しているのだ。根拠がないがない根拠で急にそう言われたら、ネイに命を捧げていてもネイに鬼柳に付いて連絡係になる以外の命令は受けていない以上、その通りにするしかない。
「わ、分かった」
 部下がそう言うと、車は近くの大きな建物に入った。
 政府関係者しか入れないはずの場所にタクシーで入ることすら異常事態で部下が鬼柳を見るも、鬼柳は面白くなさそうな顔しかしていないので何が起こるのか予想すらできない。
 そしてタクシーから降りると、カンドゥーラ姿の男たちが現れ、鬼柳たちを奥の部屋に案内をしていく。
 その部屋の変わり様から、嫌な予感しか部下はしなかった。
 鬼柳に遭いたいというオーナーのはずが、どう考えてもネイ以上の権力の持ち主に会う流れだったからだ。
 部屋に入ると、その人物は堂々と部屋に座っている。
 金銀の調度品に囲まれた中で、その人物は上等な布のカンドゥーラを着て両手を広げてから鬼柳に抱きついた。
 男同士の抱擁であるが、親しい間柄なのはその態度で分かる。
「ああ、大変な目に遭ったね。私の不徳の致すところ。よもや私の膝元でこうも大胆に拐かしを犯す品のない人間が出るとは。ひとまずはアルニラーニハーヤ殿の出方見るとして、お前はどうしたい? 恭一?」
 どうやら事情は全て把握しているような口ぶりに、鬼柳も察するところはあった。
 もしかしなくても面白がってることくらい、長年の付き合いで分かる。
「とりあえず砂漠の国境まで行く。俺があっちに行ったところでそれこそ俺を殺す口実を与えるだけになる。無駄な行為だ。ネイがどう行動するかにかかるが、たぶん、あいつは手のひらを返す」
 鬼柳がそう言うと、鬼柳の目の前の男が目を細める。
「なるほど、それを頼るのは些か不安と?」
「それで、お前にあの時の借りを返して欲しい」
鬼柳がそう言うと、男が笑った。
「こんなことで恩義を?」
「こんなことじゃないからだ。俺にとって透耶は何よりも大事だ。俺の命よりも。けれど、俺が犬死にして透耶を掬っても、透耶は喜ばない。だから安全策を取るために、その恩義を返して欲しい。お前ならアイツとまだ連絡が取れているだろう?」
 鬼柳のその恩義と、さらに出した存在。それが男を喜ばせているようで、ニコニコとした男は頷いた。
「なるほど、なるほど。そういうことか。いいだろう、お前の望むままに叶えてやろう。少し見たくなった、お前の命より大事な思い人というやつも」
「そうか、会ってやってくれ」
 鬼柳がそう優しい顔で言うと、男はピタリと笑うのを止めた。
「……なんとしてでも、相手には会わないといけないな」
 真面目にそう男が頷いて、鬼柳の荷物を部下に預け、鬼柳と二人で話をするからと、まずネイの部下である男を廊下に出した。
 これから先の話はネイに知られるわけにはいかない。鬼柳の言う通りなら、ネイはきっと裏切る。
 男は知っていた。鬼柳が言う、この何気ない予感が外れたことが一度もないことを。


二人の話し合いが終わったのはたった十分ほどだった。
 鬼柳は仏頂面のままで部屋を出てきて、ネイの部下と合流をした。
 そしてタクシーで今度は砂漠に向かった。
「キャラバン隊の用意に少し時間が掛かる。一からの準備だから、三日。その間になんとか透耶を国境の町まで誘導して欲しいと伝えてくれ。ネイに頼むのはそこまでだと」
 そう部下は言われてネイに伝えた。
 ネイはやっと国に戻り、これから透耶を拐かした相手に接見するのだと言った。
「なぜ、ネイ様が裏切るなんて……」
 部下としては納得ができないと鬼柳に尋ねる。
「……次に会った時に分かる。ただネイが透耶と過ごす時間が長ければ長いだけ、ネイは自分の意思以上のことを考え始める。後悔しようとも、このままでいいんじゃないかって考える。透耶を手に入れられる環境に置かれて、その誘惑に勝った人間を俺は見たことがない。俺を含めてな」
 鬼柳がそう言うと部下はそれ以上何も言えなかった。
 というのも、ネイが透耶に惚れていることは見ていれば分かる。
 その透耶のことを話すときのネイの高揚する心すらも知っている。それは離れている間もずっと続くほどの強い思いが、この鬼柳恭一と同じであること。そして恋人であるはずの鬼柳恭一すら、その衝動を抑えられないのだと言う。
 同じ環境に置かれて、それに耐えられる人を知らないと一番説得力がある人が言うのだから、ネイが耐えられるという保証はないに等しい。
 疑いたくはないが、疑える環境が揃ってしまった状態で、ネイが裏切らないとは言えなかった。
 それは、ネイがいる環境がその思いを成就することが可能な環境になってしまうからだった。

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