Switch 外伝10-5

never ending journey

 窓に映る景色が、いきなり白い粒がふんわりと舞い始める。
「あ、雪だ……」
 榎木津透耶は窓に近づいて外を見上げる。
 まだ昼を過ぎたばかりであるが、透耶は起きたばかりだった。
 昨夜は恋人の鬼柳恭一に求められるがままに求められて、それに応じた結果、朝起きた時には昼を回っていた。
 テーブルに鬼柳が朝ご飯用のパンを歩いてたった二十歩のところにあるパン屋に買いに行くというメモを残して部屋を出た瞬間に透耶は起きた。
 そして寝ぼけたままでダイニングに出てきてメモを見つける。
「あのパンは、さすがに同じものが作れないから諦めたのかな?」
 透耶がお気に入りのパンは、塩のクロワッサンだ。塩加減が絶妙で透耶が絶賛しているから鬼柳も同じものを作ろうとしているのだが、その塩からまず手に入れるのに苦労した。そして今度は塩加減がまた微妙に違うために完全再現ができないでいる。
 さらには水も違うため、日本に戻ったらきっと作るのは似たものであって完全再現ではないものになる事実に、鬼柳は悔しがっている。
「珍しいこともあるもんだ」
 鬼柳の悔しさはかなりのもののようで、毎日そこのパンを買ってきては研究をしているくらいに、そのパン屋の味に鬼柳自身が惚れてしまった。
 透耶とすれば美味しいモノが食べられるのが嬉しいという気持ちであるし、パンの味が微妙に違うから同じものを食べている気がしないので、鬼柳のパンを焼く技術が上がっていくのは素直に嬉しいので、鬼柳のことを放置している。
 そんな透耶たちは明日には一旦東京に戻る。
 クリスマスを東京の自宅で迎えるためで、正月も日本で過ごす予定だ。
 世界中を飛び回り、旅行をしているからこそクリスマスと新年は日本で過ごすのが大事だと気付いたのだ。
 世の中の人が旅行に出かける時に東京に戻り、休日が終わって戻ってくる人の中をまた世界に飛ぶというわけである。
 現在、二人はスイスにいる。
イギリスから移り住んで一ヶ月、アルプスが見える街に腰を落ち着けている。
 マンションは出入り口に受付があるホテルのように従業員が常にいる高級マンションで、鬼柳はそうした場所に長期間住まう部屋を見つけてくる。
 本当は地元の民宿のようなところに泊まりたかったけれど、旅行者を狙った泥棒が出ていて、明らかに慣れてない透耶は格好の餌食になるという理由で今回は見送られた。
 それでもマンションからアルプスが見えていて、それだけでも透耶は楽しかった。
 そうして空を見ていると、玄関が開いた音がする。
「ただいま」
鬼柳が戻ってきた。
「おかえり~」
 透耶はすぐに窓を離れて鬼柳をダイニングで出迎えると、鬼柳は透耶の声が聞こえたので笑顔で部屋に入ってきた。
「起きてたか、ちょうどいい、パンを買ってきたからお昼にしよう」
 そう言うので透耶は尋ねる。
「今日もおじいさんと揉めなかった?」
 透耶が尋ねると鬼柳が言う。
「揉めようにも、明日日本に帰るって言ったら、突然レシピを教えてくれた」
「はああ?」
 鬼柳はそう言いながらそのメモを透耶に見せる。ただ書いている文字は見えないようにしているから透耶は読めない。
「急にどうしたの?」
「餞別だと。世界中を見て回るって言ったから、二度とここに来ないかもしれないと思ったのかもしれない。あと、あのじいさん、いい歳だから」
 鬼柳がそう言うので透耶も何となく察する。
 八十歳だと言っていたおじいさんのパン屋なので、将来的には誰かが継ぐかもしれないけれど、おじいさんが生きているうちに透耶と鬼柳が来られるのかどうかは分からないのは事実だ。
 世界中を回っていると言う二人が新しい場所へと向かうなら、一度訪れたところにはなかなか来ないだろう。それくらいおじいさんも分かるわけだ。
「まあ、事実だろうし、またここに来るっていうのも何年後って単位になるし、じいさんがそこまで元気で店やってるとか生きてるとかは俺も言えないしな」
 鬼柳がそう言うので透耶は何も言えなかった。
「ただなぁ、もらったメモみたら、どうも後継者らしい息子がこのレシピを覚えたがらないから教えてないらしくて、それで伝承が途絶えるのも嫌なんで、お前に教えるって書いてある」
 鬼柳がそう言うので、透耶は苦笑する。
「それっておじいさんに何かあったとき、恭が何とかしてあげないといけないパターンじゃない?」
「そういうことだよな……?」
「そういうことだと思うよ。大丈夫、恭に何があってもエドワードさんに頼んでおけば、どうにかして貰えると思うよ」
 透耶はそう言って笑う。
 鬼柳はしばらく考えた後に透耶の提案を受け入れた。
「遺言に入れておけばいいか」
 軽くそう言い、鬼柳は貰ってきたメモを大事に財布に仕舞っている。
 もうマンションを出るために食事などの消耗品はすべて周りの仲良くなった住人に持って行って貰ったし、道具も持って帰れないものは分けてしまった。パンを作るために使った道具も全部だ。
 だからもう帰ってからしかそれを作る機会はないので、そうするしかなかった。
「じゃ、お昼にしようか」
 買ってきたパンとインスタントのコーヒー、そしてお裾分けして貰った料理でお昼を食べる。
 夕飯はマンション一階のレストランで取るし、朝もそこになる予定なので、軽い昼食である。
「やっぱり、美味しいね。おじいさんのパン、どれも美味しい」
 透耶はどのパンを食べても美味しいと言うが、本当にそれしか感想が湧かないくらいにどのパンも美味しいのである。
「質素に何か特別なモノを入れているわけでもないのに、ここの土地で採れる小麦と水と空気と塩だけでここまでやられると、未だに納得できない」
 鬼柳はまだ味の変化で誤魔化せてしまう方が楽だと言う。質素で誤魔化しができないもので作られたら、同じ素材を集めるしか方法がない。けれど同じモノは手に入らないし、同じようにはならない。近いモノにはなるが鬼柳はそれで納得できなかった。
「でも、レシピ見てやっぱりできないもんはできないって分かったから、もういい」
 まったく同じ素材で作るならば鬼柳は同じモノが作れることを知り、自分の舌が間違っているわけではないことの証明にもなったらしい。
 何がどう違うのかは鬼柳だけの秘密であるが、作り方自体は間違っていなかったから、おじいさんは教えてくれたのだろう。
「おいしかったね」
「ああ、そうだな」
 昼食を食べ終わったら、二人は送る荷物をまとめてしまい、国際便に出した。日本へのお土産なども入れて、鞄一つで帰る。いつもはスーツケースを持っているけれど、それは先に送ってしまった。色んな国を回って溜まったお土産も入っていたから、かなりの荷物になっていた。
 軽い鞄一つくらいに、透耶は筆記用具と着替え、鬼柳は一眼レフセットを入れている。送った荷物は東京に戻ってから受け取るまで時間が掛かるが、それまでは東京にいる予定なのでなんとかなる。
 荷物をまとめた後は、テレビを付けてだらりと二人で寝転がって過ごす。
 鬼柳は明日の出発のために準備したタクシーと飛行機がちゃんと飛んでくれるのかを調べ、透耶はメモ帳に今日の出来事や小さなことを書き込んでいく。
 透耶がやっているのはエッセイの仕事のためでもある。
 透耶の日常を書いたエッセイは二冊目が出ている。鬼柳が写真を載せてくれるのでその写真も人気だ。
 あの有名な写真家が日本の小説家のエッセイにふんだんに新作を発表するとなれば、気になる人は買ってしまう。それにいつの間にかそれが英訳され、アメリカやイギリスでも売っていて、日本通なら知っているエッセイとなっている。
 透耶のエッセイが予想外に人気が出たので、出版社は乗り気で三冊目の出版を決めた。ただ透耶のエッセイは透耶の日記のようなものなので、ハイ書いてでは意味がない。
 そのため透耶が書きためていく日記のしかも良いところを切り取っているため、年に一冊か二冊が限度だろう。
 そういうわけで透耶は自分の記録であるはずが、仕事も重なっているのでなるべくメモをしていくことにした。
 些細な日常は、本当に小さな笑いから大きな出来事まであるけれど、さりげない一言は誰かの重要な言葉に変わっていく。
「アルプスに雪が降り積もる。外は雪景色に変わっていくけれど、ここでさようなら。次はどの空を歩いているか……」
 鬼柳がメモを読み上げていくが、それを読んだとたん、窓に映る雪を窓枠後と写真に収めてしまう。
 基本的に鬼柳は、透耶が見ている世界が分からない。
 分かりたいけれど、理解できないのは人として普通である。
 だから透耶が言葉にした時に初めて透耶が見ている世界を知る。こういう風に見ているのだと分かって写真に収める。
透耶は書いていることは誰かが読む前提で書くべきだと思っているのでメモを読まれても何とも思わない。
「帰ったら、手塚と打ち合わせしなきゃ」
「うん、写真も合わせないといけないしね」
「透耶と一緒に仕事ができるようになるとは思わなかったけど、これはこれで面白いし、いいな」
 鬼柳は透耶と同じ目線で仕事ができることを喜んでいて、自分の写真集以上に真面目に編集に参加する。最初は手塚もどうかと思っていたらしいが、鬼柳が参加した一冊目から大当たりしているため、鬼柳を絡めないと写真の説明ができないと言っているほど信頼している。
「次は何処へ行きたい?」
「うーん、行ってないところなら、砂漠かな?」
 透耶がそう言うと鬼柳は厳しい顔になる。
「……そうだな……アメリカのじゃ駄目なんだろ?」
「そこじゃなくて、恭が見た砂漠がいい。危ないならいいんだけど……中東の大丈夫そうなところ」
 透耶が駄目だろうなと思って言うも鬼柳は言う。
「まあ、考えてみるよ」
 こう鬼柳が言う時は、大体は心当たりがあるので探してみるという意味になる。
「うん、よろしくね」
 鬼柳にニコリと笑って透耶が言うと、鬼柳はそんな透耶にキスをして笑い合う。
 鬼柳の透耶を見つめる視線は年々優しくなり、どんどん暖かくなる。透耶はそれに感化されるように鬼柳に甘くなる。
 愛しているだけじゃ足りなくて、沢山伝えても足りなくて、抱きしめても愛し合ってももっと届けないといけないと思うようになる。
 そうして返していくと鬼柳はもっと甘く返してきて、二人の時間は静かに過ぎる。
「クリスマスプレゼントは買った。お土産も買った。あとはなんだ?」
「送り先も間違ってないよね?」
 忘れ物がないか確認をし合う。
「光流のところは京都で、エドはアメリカ西海岸で、ヘンリーは今年はアメリカに戻ったんだっけ?」
 と鬼柳が言い、透耶は頷く。
「うん、ヘンリーさんは実家に呼ばれたって言ってたよ。日本で頑張って有名になっちゃったしね」
 ヘンリーは医者として専門分野の研究でそれなりの成果を出し、アメリカの研究機関に移ったのだ。
 透耶たちが旅行に出始めてから研究を再開していたようで、念願叶って専門の研究機関に推薦されるも、それがヘンリーの実家絡みの研究機関で、ヘンリーも寸前まで悩んでからアメリカに戻ったという。
「あ、ジョージさんにも送ったからね」
 透耶がそう言うと鬼柳は渋々と言う。
「……仕方ない」
 イギリスで鬼柳が監禁された事件で、透耶がジョージに力を借りたため、いつもより大きな花束を贈ることに賛同したくないけれど今回は反対もできない鬼柳である。
 お互いの知り合いにも送り先を決め、スイスの都市部で買ったものが多かったけれど、それでも喜んで貰えるはずだと選んだものばかりだ。
 クリスマスを皆で過ごしていたのは、透耶たちが旅行に出かけたりする前までのこと。お互いに家庭を持ったり、忙しかったりと次第に時間が合わなくなっていくけれど、忘れているわけではないとプレゼントを贈り合う。
 透耶たちは今でもあの家に戻るけれど、皆も一歩を踏み出して様々な世界で生きている。
 透耶たちは、宝田と執事の松崎秀人と司夫婦と過ごす予定だ。
 光流や綾乃たちも京都で正月を過ごした後、東京まで出てくる予定もある。
 それらを楽しみに二人は日本に帰る。
「この街ともお別れだね」
 透耶がそう言い窓の外を見る。
 鬼柳はその隣に立って一緒に外を見る。
 外は良い具合の雪景色に変わっている。
「続く空は何処の空か」
 鬼柳がそう言うので透耶は笑う。
「それは恭の頭の中だよね?」
「そういうこと」
 鬼柳が透耶に世界を見せてくれると言った。
 沢山世界を見せて、こんなにも世界は広くて美しいのだと教えてくれる。
 透耶は鬼柳が決めて見せてくれる世界に毎回感動しているから、次もまた新たな感想が生まれるだろう。
 見上げる空は何処までも続いている。
 終わらない旅は続いていく。

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