鬼柳恭一(きりゅう きょういち)が目を覚ましたのは、明け方の三時だった。午前様で警察から戻ってきてそのまま倒れるように寝た。どんなに屈強な男であっても、一切の睡眠や休養を取らないというのは無理なことだったが、睡眠時間はほんの二時間ほどであった。
それでもすっきりとしたように目が覚め、その後一切の眠気はなかった。体は疲れをためておらず鬼柳はベッドから這い出た。
だが隣の部屋に移動してパソコンを取り出し、さっきまで聞いてきた警察での捜査の様子を書き込む。
自分はこういうふうに疲れてはいないが、他の人間は疲れて寝ている。特に富永あたりは眠れずにいるだろうから、体だけでも休めてもらう意味では、下の部屋で鬼柳がうろついていたら起き出してくるから駄目だった。宝田は透耶が誘拐されたと聞いて、卒倒したくらいだ。気丈に頑張ってはいたが、無理はさせたくない。なんとか透耶が戻ってきた時に倒れている宝田を見たら、今度は透耶が心配してしまうと言って眠らせた。
透耶と一緒に最後までいた石山は、意識が戻ったが朦朧(もうろう)としていて事情が聞けない。薬も無理矢理飲まされていたらしく、体の自由がきかないため、喋ることができないし、腕も動かないため筆談もできない。石山には死んでもいいと思っていたのではないかと思えるほどの薬の量を使っており、その一部を透耶が使われていたとしたら、石山が倒れた時、透耶が大人しくしていたのは、体の自由が一切利かなくなっていたからだろう。
扉一枚隔ててSPがいるのに、それに気づかせないように連れ去った。
最初から従業員の控え室から透耶を連れ去る予定だったのだ。
その時石山は最後の抵抗をした。一瞬にして奪われる意識をぎりぎりまで保って。その彼が手にしていたのは、一枚のシリコン。犯人の島田は変装していた。
名前はそのままで、顔を変装する意味は一つしかない。似ているという島田の顔をぎりぎりまで透耶に見せないためだ。あの記事で噂になってから、ネットで出回った真下柾登の顔はある意味知っている人は知っている顔になる。
似ていることで面倒ごとも避けたかったのだろう。
透耶はその顔を見た。
「……くそ」
亡霊がそこにいた。どれだけのショックを受けただろうか。
そしてまだそれは透耶の側にいる。きっと真下柾梓(ました まさし)もそこにいるのだろう。
二人の目的は透耶を手に入れることだけだ。そのために行動をして、そのための監禁場所を用意しているはずだ。未(いま)だ島田や柾梓の居所を探し出せない。警察が総動員でしていることでも他に協力者がいれば、騙(だま)し通せる。
警察は、真下柾梓の指名手配の他に、島田洋司の捜索も加えた。透耶を誘拐した実行犯は島田であることは間違いなかった。
押収した履歴書から島田が変装していることが分かった。目元をいじった程度であるが、楽団所属時の写真は目元をいじっていることが分かる。それだけで印象ががらりと変わる。
楽団所属時の島田の写真の他に、最近撮ったという島田の写真が出てきたが、その写真は更に目元を二重のようにいじっていた。それは真下柾登そのものの顔になっていた。前から似ていると言われていただけあり、少しだけいじったらそのものになる。
更にそれを変装で目元や輪郭をいじって別人になる。
そこで思い出した。この変装をした人間が別のホテルにもいた。
「あれもか……」
想像よりも島田たちは自分たちの近くにいたらしい。
鬼柳はしばらく考えた。思い出しもしない記憶の中に島田はいたのではないかという疑問だ。
そして思い出す。
「そうか、俺を襲った犯人……!」
少し前に鬼柳が一人でいるところを襲われて、その二度目の襲撃で一人の男が襲撃犯の身の回りを調べていたことを思い出した。控えていたその男に電話をかけた。
男はすんなり出た。
「なんだあんたかよ」
鬼柳の声を聞いて、男はがっかりする。てっきりナンパした女の子が駆けてきてくれたのだと思っていたという。だが鬼柳はそれを笑いもせずに用件を告げる。
「え? 大学生を調べてた周辺に気になる男がいなかったかって?」
男はそう聞き返してから唸(うな)る。
「大学生の周りにはいなかったが、保坂の周りにいた」
保坂は大学生真下柾梓とつながっていた人であるが、柾梓と本当に繋がりがあったのは、木場史唯(きば ふみただ)という男だ。
「真下柾梓の兄の親友だって。木場は学生時代にパーティー派遣の企業を立ち上げて、金持ってる学生向けに商売してる社長。木場も元々はボンボンで親が全国チェーンのホテルを経営している」
木場は金を出せばほぼ何でも叶えてくれるような人間だという。
「ただ厄介なんだ。父親の親友が有名な元総理で今でも付き合いがある。そのせいで何か問題を起こしても警察すらもみ消していたということなんだ」
多少悪いことだったら警察すらも動かす。だが今回はもみ消せるのはせいぜい、木場が用意したと思われる隠れ家くらいのことだろう。
鬼柳はそれを刑事に伝えた。
次の日、刑事が木場史唯を訪ねると、最初木場は知らないと答えた。だが柾梓が誘拐殺人を重ねている犯人の一人で、もし居場所を知っていて黙っていれば共犯となり、大した罪にはならないだろうが、世間はどうみるかと脅した。そして警察は飴と鞭の飴を差し出す。
「居場所を教えていただければ、協力いただいたということでそちらのお名前を伏せておくこともできますが」
つまり、隠れ家を用意したのではなく、家を貸しただけという立場であれば何の罪にも問われない。そして居場所を知っているかもしれないと警察に協力したとすれば、印象は悪くないはずだ。事実を少しだけ曲げるだけだ。
「私自身は貸してない。本山という不動産屋を紹介はした。あとはそっちで聞いてくれ」
そういうのである。
さすがの木場も個人的な持ち物を貸すことには抵抗があったらしい。
刑事は本山祐二が経営する不動産会社を訪ね、島田と柾梓のことを聞く。
「なんだよ、やっぱり問題ありかよ」
警察が尋ねたというだけで、本山は怒鳴りだした。
「どういうことです?」
「普通、家借りるときってのはさ、景観気にするだろう?」
「まあ、景色がいい方が住みやすいですし」
「ところが、こいつら、金持ってるくせにやたら条件が悪いところばかり出してくれって変なこと言うからさ。金はいくらでも出せるから防音であれば環境が悪いところがいいって」
「で紹介したと」
「これが住所。建てた時は周りに何もなかったらしいんだけど、地域活性化とかでどんどんビルが建って、いまじゃビルの中に埋もれてるような建物だ。景色は見えなくなって物件は悪くないのに、価値だけ下がってんだ」
本山はそう言って住所を書いた紙を出す。
そのマンションはあのホテルの近所にあった。
刑事が体制を整えて犯人がいると思われるマンションを包囲し、部屋へ踏み込んだ。
だがその部屋は既に人がいないようで、ゴミだけが残っていた。
「くそっ逃げた後か!」
警察が踏み込んだ時は犯人たちは移動した後だった。
刑事が聞き込みを指示しだしたり、鑑識を入れたりしているのを近くまで来て待機していた刑事が鬼柳恭一を見て、首を振った。
「逃げた後だったようだ」
「厳戒態勢になっていただろうところから、いやに早いな」
鬼柳がそう言うと、富永も頷く。
「いやな予感しかしません」
「だよな……少し聞き込みしてみよう」
鬼柳がそう言い出して刑事は首を傾げる。
協力してほしいと言われ、不動産屋に戻る。
鬼柳についている刑事は地元の刑事だ。前に鬼柳の機転で事件を解決したことがあるため、気づいたことをさせてくれるためについている。
「住んでいる人間がどういう人間かちゃんと聞き出してくれ」
鬼柳がそう言うのである。意味が理解できずに刑事が聞き返す。
「どうして住んでいる人間を確認するようなことを。まさか住人を疑って?」
「住人を疑うんじゃなくて、住人が本当に本人かどうかだ」
鬼柳がはっきり言うと刑事も鬼柳が何を言いたいのか理解した。
「住人になりすましているとでも?」
「うちのSPが剥(は)いだ皮一枚。あれ、変装用だったんだろ? だったらそう考えた方がいい」
「だからってあのマンションの住人だとは!」
「一人は変装してるがもう一人は変装してない。毎日の透耶への手紙を出しに東京中を歩き回っているのが、一応勤めていた島田ではないことは予想できる。二人が担当していたとしても半分は真下だ。島田の変装は身近な人間にしか見破れないと考えて、素顔をさらしている真下から探すのが妥当だ。だが、島田の変装は、自分にある程度似ている人間に限られているはずだ。顔全体を変装させのなんか、二時間くらい余裕でかかるだろ? だったら目元をいじる頬を少しいじるていどのはず。そんな似ているような人間のところに真下が出入りしていれば、住人なら誘導したいで思い出す」
鬼柳がそう言い切ってしまったため、刑事もどうせ捜査する羽目になるのだからと諦めて聞き込みをした。
しかし不動産屋は本人と会ったのは契約した時で、そこから大家と管理会社に聞き込みをし直すと、大家から妙な話が出てきた。
「いえね、羽崎さんのことなんだけど……いつもね、他の部屋から苦情がくるくらいにうるさいのよね。うん羽って書いて羽崎さん。その人が問題だけど、今は問題じゃなくてね。その羽崎さんの隣に住んでる人のことなの」
大家が言うには、羽崎の隣に引っ越してきた丸山太一というサラリーマンがいる。引っ越し当時は問題がなかったのだが、隣の羽崎のたまにある飲み会などが深夜遅くまでうるさく、丸山が苦情を出した。
羽崎に対してかなり文句を言ったところ、羽崎が嫌がらせのようにギターを鳴らしたりするようになった。当然大家に苦情がくるのだが、何度言ってもやめようとしない。羽崎の隣に住んでいた別の住人は耐えられずに引っ越した。
部屋順は、丸山が日当たりの悪い角部屋、横に羽崎、そして引っ越した人、というような並びだった。羽崎の隣が引っ越したため、苦情は丸山一人からとなってしまったのだ。
「日当たりが悪い部屋だから、普通の人は引っ越してこないのよね。夜の仕事とか、とにかく日当たりを気にしない人が多いのよ。だから夜に騒動があっても人がいないから文句を言うのが丸山さんだけになっちゃって」
つまり丸山だけだからと羽崎が調子の乗っているだけのようだった。もちろん何度も話し合いをしては羽崎が約束を破るということを繰り返していた。
それが一ヶ月前に丸山がぱたりと苦情を言いに来なくなった。
「うるさくしても丸山さん、怒らなくなってね。わざとうるさくしていた羽崎さんの方が苦情を言いに来ない?って聞くくらいになってね。多分相手してると調子に乗るって分かったのじゃないかなって、それか引っ越し先を探し出したんでもう諦めたのかなって。でも一人暮らしの丸山さんのところにもう一人住んでるって言うから、もし同居とかしてるならこっちが苦情を出さないといけなくって。ほら契約で一人だってことになってるから、何かあった時に管理としては問題になるでしょ?」
大家がそう言うのである。管理会社の人間とも話しあっていたという。
「新しく入るって人ね。とても静かな人だったわよ。でも真上が問題の羽崎さんだからね。どうしようかと思ったけど、今月に入って羽崎さんも丸山の様子がおかしくなってるって怖がってきて、騒いだりしなくなってるみたいだから苦情もなかったからよかったと思ってたのに……ねぇ」
大家は困ったわと溜め息を吐いている。
騒音問題で揉(も)めているだけならよかったのだが、殺人犯しかも逃亡中が潜伏していたと評判になったりしたら借り手が付かなくなりそうだ。
「丸山ってやつ、無事だといいがな」
鬼柳がそう言うが富永たちは頷けない。
どう考えても殺されていると考える方が妥当だ。一ヶ月も人間を易々(やすやす)と監禁できるとは思えない。
「とりあえず丸山の家、調べましょう」
刑事がそう言って先に歩き出す。
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