榎木津透耶(えのきづ とおや)が異変に気づいたのは、普段と同じ道を歩いていた時だった。一緒にいたのはいつも透耶のボディガードをしてくれている石山一真(いしやま かずま)である。彼が透耶に付いてからもう5年ほどたっている。これほど長く一緒にいることはあまりないのだそうだが、クライアントである鬼柳恭一(きりゅう きょういち)や透耶が望んでおり、さらに石山が望んでいることでもあるということで異例の長さで彼は透耶の側にいてくれている。
そんな彼とシャープペンシルの芯を買いに出かけた時はまさかこんなことになるなんて思いもしなかったことだ。
周りにいるのはチンピラ風の男たち。昼下がりの電車線路脇の小道に出てくるような風貌ではない。明らかにこちらに危害を加えようとしている彼らと透耶たちには接点はなかった。どうしてこんなことになったのか分からないが、とにかく早急にどうにかしなくてはならなくなった。
石山が透耶に少し下がるように言う。
「少し騒がしくなるかと思いますが」
「俺たちのせいじゃないから、どうしても相手に聞かないといけないよね」
透耶が心得たとばかりにそう言うと、石山は頷いた。
どうして自分たちが襲われるに至ったのか、理由は二人とも思い当たらない。道中で彼らと遭遇はしなかったし、仲間らしき人間との諍いもなかった。だからわからないなら相手に聞けばいいことだと透耶と石山は考えたわけだ。
チンピラはこう言った。
「そっちの綺麗なのは傷をつけるなよ」
そう言われたのは透耶だ。
どうやら彼らが狙っているのは榎木津透耶(えのきづ とおや)のようだ。しかも傷をつけずにと言っているところから誘拐までも目論んでいるようだ。
こうなっては石山が張り切るのは言うまでもない。
石山は透耶に自宅にいる富永を呼ぶようにいい、男たちに向き合った。
透耶はすぐに自宅緊急用にしている番号を押して富永を呼び出した。電話をかけるだけでGPSで居場所を把握してくれるという流れなのだが、この数年とんと使ったことがないものだ。機能するのかわからないが透耶はそうやってみると折り返しの電話がかかってきた。その間も石山はチンピラを倒している。五人ほどいた男たちが三人も倒れ込んでいてもうすぐ決着がつきそうだった。
「あの……人相の悪い男たちに襲撃されて、石山さんが三人ほど倒したところです」
透耶がそう言うと富永が分かりましたとはっきりといった。走っているところなのか息は乱れていたがもう既に門を出たところだという。
透耶と石山がいるところは駅に近い場所だ。踏切を渡らず細道を抜けて商店街に出る道なのだが、日中は人通りも消えてしまうため意外とチンピラが考えて襲ってきていることがわかる。
家の近くの踏切となれば数百メートルの距離だ。全速力で走ってくれば富永ならあっという間だ。電話が終わった透耶が石山を見ると石山は最後の一人を殴り飛ばしてたところだった。結局石山は一人で五人の暴漢をあっという間に倒してしまっていた。
透耶は石山がここまで強いことは知らない。石山が透耶に付いてから、多人数の暴漢に襲われたりはしていなかったからだ。
石山は一息吐くと、あえて意識を残しておいた男の一人を捕まえて尋ねた。
「どういうつもりだ?」
そう尋ねると男は怯えた様子で答えた。
「頼まれたんだよ、そこの駅で。成功しても失敗しても十万くれるって!」
つまり透耶を誘拐して成功すれば成功報酬も出たというわけである。失敗してもいいと言われて男たちは誘拐が成功すると犯罪だが、失敗しても十万なら少しだけ脅して失敗したことにしようとしていたらしい。
わざと失敗しようとして本当に失敗したわけだ。
けれど透耶はそれを聞いて思わずつぶやいた。
「この場合、どういうことなのかと石山さんが首謀者に尋ねにいくことができるわけだけど、そうなると首謀者は逃げちゃうよね? 捕まる気はないだろうし、でその場合報酬はもらえないんじゃ?」
ものすごく当然のことであるが、失敗すれば捨て台詞を吐いて逃げたとしても追いかけられれば首謀者は消えるだけである。こんなことを頼む人間が本名を名乗ったり名刺を渡したりなんてしているわけもない。当然そんなことを確認しているようなチンピラでもなさそうだ。
つまり最初から首謀者は失敗をすればそこで逃亡するつもりだったようだ。
「あ!くそ! それじゃやられ損じゃねぇか!!」
男がそう騒ぐと駅からやってきたであろう制服を着た警察官が三人ほど走ってくるのが見えた。近所の人が騒ぎを聞きつけて通報したのだろう。それと同時に倒れていた男が目を覚まして逃げようとしたが、そこにやってきた富永に一撃を受けて捕らえられた。
男たちはそこで現行犯逮捕された。供述は全員一致しておりおかしなところはないということだった。
「一応、被害届出しておきましょうね。首謀者が見つかってないのでは今後も心配でしょうし」
警察はそう言って透耶たちに被害届を出すようにいった。透耶もそれには頷いて届けは出した。というのも、透耶は以前その警察署に事件でお世話になったことがあり、更にそれが誘拐殺人事件に発展した事実があったため、刑事は親切に対応してくれた。
刑事に聞いたところ、チンピラから聞き出してくれた似顔絵を見せてもらったが全く心当たりがない顔だった。何枚かコピーしてもらい近所に配って見かけなかったか聞いてみようということになった。警察も聞き込みをしてくれるということで近所でこの男は指名手配されている状態になった。
「どういうことでしょうね」
駆けつけてきた富永に石山は首をかしげながら尋ねた。富永もまったくもって見当すら付かないという顔をしている。透耶がどこかで恨みを買っているとなると、その発端がわからないのだ。
榎木津透耶(えのきづ とおや)は小説家だ。しかもなかなかにヒットした作品を創作している。ヒットメーカーで評判は上々、テレビドラマ化されたりもしている。しかし本人は表舞台に出ることはなく、ひたすら創作をしているだけである。インタビューも受けず、顔も出さずだ。もちろん調べれば顔は双子であるアイドル歌手の榎木津光琉(えのきづ みつる)に似ていることは知られているし、流出した写真もあるから世間の人は透耶の顔は知っているだろう。
透耶を襲った人間もそういう写真を使ったと思われると刑事は言っていた。
だが恨みとなるとよくわからないのだ。妬みで人を貶めるために人を雇って襲わせるほどの妬みというのはあまりきかない。妬みは大抵本人が直接してくることの方が多いからだ。
人を使ってまでするほどとなる恨みであるが、今回の場合話が違ってくる。透耶を誘拐しようとしていたことだ。こうなるともう思い当たることしかない。
透耶本人が善意でしたことが、悪意になって返ってくることがよくあるからだ。悪意というのは透耶にとってよくないことという意味での悪意である。
前には親切に相手の家を訪ねた矢先、そのまま誘拐され監禁、陵辱されそうなところを助け出されたという事件があった。女性を何人も誘拐監禁し、さらには殺して埋めていたショッキングな事件の犯人が透耶を誘拐した人物だった。
こういう経緯がある以上、そうした悪意は透耶には常に向けられていることを透耶の周りはみな知っている。たまにある悪戯電話や軽度のストーカーなどはその前身だ。
女性を殺していた犯人は未だに透耶への関心を失わず、獄中で透耶の本を読みあさっていると弁護士から知らされている。犯人が上告しなかったため死刑が確定しているから出てくることは絶対にないのだが、透耶がトラウマレベルに怖がっているため、何かの恩赦で出てこられては困るため状況は知らせてもらっている。
だから本人ではないと思うが執着の仕方が少し似ていると富永や石山は思ったのだ。
透耶を自宅まで送り届け、心配している宝田がほっとして透耶を預かるのを見送ってから石山と富永はSP用の部屋で真剣に話し合っていた。
「警備の警戒度を上げて、門番もしばらくつけるか」
一時期門にいた門番は今はやとっていなかった。透耶の周りが平和になったところでお役御免になり警報システムが二重に張り巡らされていた。今回の出来事からこちらが警戒をしているところを相手に見せる必要がある。というのもここまで警戒されたら誘拐できないから諦める程度の相手には効果があるからだ。
けれどそれでも狙う輩にはせいぜい見張りが増えたということだけになる。
しばらく透耶が外出できなくなることで相手が諦めてくれるとありがたいのだが、それも今回は期待できそうにない。透耶が引きこもって姿を見せなくなることで諦めるなら、誘拐という大それたことはしなかっただろう。何より石山がいることがわかっていてのチンピラ起用だったとしたら、暴力に訴えても透耶を得ようとする人間がそんな簡単に諦めてくれるとは思えない。
次はと思いもよらぬ行動に出ることの方が怖い。
透耶の恋人である鬼柳恭一(きりゅう きょういち)が帰国するまでは石山や富永の二人で自宅は守るが、それ以外の人の手も借りないといけない。取り返しが付かなくなる前に話を通しておくべき人がいる。
エドワード・ランカスター。鬼柳の友人で透耶の友人でもある。彼は石山や富永が勤めているボディガード派遣会社の社長だ。二人はそこの社員で契約でここにきている。だから上司であるエドワードに話を通すのは当然のことであるが、それ以上に二人の友人であるからこの事件のことを知らなかったとなると後でどうなるか考えただけでも怖い。
エドワードに透耶が襲われたことを報告する。エドワードは鬼柳にも連絡をつけると言い対策は当面は富永の判断に任せると言った。ついでに増員もされ、近所の警戒も怠らないようにする。
たった一人にSPが五人も付くのは緊急事態であるが、透耶が特殊であることは石山や富永が報告している書類に記載されている内容を読めば、納得出来る内容ではある。人生で三度目になる本格的な誘拐である(鬼柳のを入れれば四回目)。
透耶の周りにSPが張り付き、石山か富永が常に透耶と一緒にいる状況を作っている間も透耶は不安でいっぱいだった。
確かに石山たちは頼りになるが、自分が誘拐される時、いつも守ってくれるのは鬼柳だった。
不安そうにソファに座ってクッションを抱えて、見てもいないテレビを見ているふりをしている透耶を石山は可哀想にと思っていた。こういうときに鬼柳がいて、何でも指示して透耶はその通りに行動するのがいつもの行動である。そもそも鬼柳が離れている時に、こうした大きな出来事が起こったことはない。だから不安が大きくなるのはわかる。
この騒ぎが何事もなく終局してしまうことを石山は願ったのだが、それは叶うことはなかった。
「透耶様のファンレターの開封をしていましたら」
そう言って深夜近くに執事の宝田がSPの監視&控え室にやってきた。
異変があればすべてSPに知らせて今後の行動を決めることは通達されている。だから宝田がここに訪れたということは問題が起こったということなのだ。
「何か……?」
「これを……」
ファンレターとして送られてきたという手紙を差し出す。それは開封はされておらず未開封のままである。それもそのはずで持った瞬間に異変が察せられるようなものだった。
「随分古典的なことなのですが、カミソリがしくまれているようなのです。でこのこと自体はそこまで重大ではなく……」
「現在の郵便システムでは配達の前に仕分けで引っかかる」
カミソリなど金属は爆発物の関係でいったんはねるシステムがあり、よく現金を入れたりしてるのが見つかるらしい。つまりそれを見つけられると送った本人に戻されるのだが、この場合透耶に届けられることはなく、不審物として扱われてしまうのだ。だから中身がカミソリである以上、郵便局から警察に届け出され、受取人の透耶に警察からの連絡が先に来ることになる。
「ええ、ですからこれがファンレター宛てに届けられた荷物の中にあるということは」
「出版社に出入りできる誰かが近づいて入れていったということですね」
「はい……手塚様はその辺はとても慎重にされていると聞いています。さすがにこれを段ボールの中に入れる時に気づいたと思うのです。ですから、段ボールを置いている編集者の側に近づけて触っていても怪しまれないような立場の人が入れたということになるわけです」
さすがに編集部に出入りできる人間すべてを手塚が見張っているわけではないから、手塚が退社した後に何かされていれば気づくことはできないだろう。だが手塚の側に置いてある段ボールに触っていても変に思われないように近づけた人間が出版社にいるとなると、透耶を出版社に行かせることもできなくなる。
ただでさえ行動範囲が狭い透耶の出先を犯人がうろついているとなると同じ犯人ではないとしても危険すぎる。
「開けてみていいですか? トラップは刃物だけのようですし、中には手紙が入ってますし見ておかないと」
石山がカミソリを避けて封筒を開ける。四方にカミソリを仕込んでいる封筒という異質なものの中に一枚の紙が入っている。それを開いて石山は顔色を変えた。
「そんな……」
紙をテーブルに置くと石山は部屋を出て行く。どこへ行ったのかと思っていたが、手紙の内容を見て察した。
「これは……」
それを見た宝田が絶句する。
一面に書かれていたのは透耶のフルネームだけだった。小さな字で筆圧も強かったのか紙がゆがんでいる。裏を返すと文字の分へこんでいるのだ。これがただのストーカーのわけがない。暴力を使ってでも透耶を誘拐しようとした人間と似通った執着がある。こういう手紙が違う時期に来ていればこんな人間もいるのだなと思う程度であるが、こう重なると別々の人物と考えるのは違う気がした。
透耶の警備がきつくなり、近づけなくなったことで感情が抑えられずに暴走したという考えがしっくりくる。そしてもてあましている感情はエスカレートしているようだった。
石山は部屋を出て行ったのは、透耶の無事を確認しに行ったのだ。こんなものをみれば、透耶を何よりも大事だと思って守ることに命をかけている石山が不安になるのは仕方ないことだ。宝田も同じ行動をしそうになりながらもまずはとエドワードに報告することにした。
話を聞いたエドワードはうなるような声を出した。
エドワードはここに来たいが、商談が続くためアメリカを離れられないことが悔やまれるようだった。更に鬼柳の居場所は現在不明であることを伝える。
衛星電話を持っている鬼柳であるが、戦況が悪化している地帯では電話を切っている。音が鳴るだけで命に関わるような場合は、ホテルに預けてから出かける。それくらい徹底していて今回もまた潜入取材で二週間は連絡が取れそうもないのだという。幸い現地のスタッフとは連絡がついたので、緊急ということで探してもらっているらしいが、それでも移動している鬼柳たちと安全を確保するのがやっとのスタッフが次に連絡できるのが二週間後ということだったという。
ただ鬼柳は、その二週間後には帰国するつもりで空港へ向かうと言っていたのでスタッフに出会うことなく、別のルートで空港へ向かうかもしれないとも言われたという。つまり鬼柳からの連絡がない限り、衛星電話を預けてしまっている今、どうにも連絡は取れないのだという。
更に問題なのは鬼柳は日本に帰国するまで基本連絡はしないのだ。
「あいつは当てにするな。当てにして期待をするからがっかりする」
エドワードがそう言うが一番がっかりしているのはエドワードに違いない。
こういう時にこそいなければならない鬼柳が捕まらない。透耶の不安もわかる上に、知った鬼柳が後悔するのもわかってしまうからだ。あの時こうしていればと悩むことになる。
とにかく透耶の警備を厳重にして対策するように言われた。
その次の日には透耶にも現状を知らせた。
何より狙われている本人が現状を知らないと、緊急時に透耶が取る行動が違ってくるからだ。
「その手紙を見せてください」
カミソリが入っていた手紙の残骸を透耶は見せてもらったが、手紙の内容は見なくていいと言われた透耶はそれではだめだと言った。
相手にどれだけの異常があるのか知っておくべきだと透耶は思っている。鬼柳がいない今こそ自分で把握しなければならないのだ。
「俺は知っておかないと、言われただけでは相手がどれほどなのか理解できないです」
そう言われて富永が手紙を持ってくる。
「……」
びっしりとかかれてゲシュタルト崩壊でもしそうなほど細かな字で書かれた自分の名前を見て透耶は少しだけ眉を顰(ひそ)めた。
明らかに相手が精神を病んでいることだけは透耶にも読み取れただろう。だが下手な言葉で何かを言われるより、名前だけの方が精神的に問題が高いことは確かだ。想像以上にマズイ相手に好かれたということだ。
多少のことでは動じない透耶でも手紙を置くと溜め息を深く吐いた。
「気をつけます」
透耶が覚悟を決めたように言うと富永が当面の透耶の行動についての説明を始めた。
「まず、行く先は家の中でも我々と行動をお願いします。我々もトイレやお風呂の中やベッドの中以外はついていきますので窮屈でしょうがしばらくはお願いします。買い物や出かけることは当面控えてもらいます。買い物は執事やメイドに頼み、透耶様は行かれないように。自宅でも携帯電話はお持ちください。GPSは常にオンにしておいてください、こちらで監視していますので」
軽く説明を受けて透耶は頷く。とはいえ、透耶がいつも行っていることより、少しだけ窮屈になっているだけのような気がした。
それでも透耶は自分の身の危険が降りかかれば鬼柳が悲しい顔をすることを知っている。二度とあんなつらそうな顔をさせたくはない。そう思っているから透耶は自分の行動を気をつけた。
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