Switch 外伝8-4

Swithun

 7月も中頃になった。
梅雨明けもそろそろかと思われる時期であるが、昨日まで激しかった雨は一時の間を使ったように晴れていた。榎木津透耶は朝起きてから、日差しが射している窓を見た時、嬉しくなって外を見上げたものだった。
雨が降っている時、外へ出かけないのであれば嫌いでもないのだが、一般に考えて働いている人は通勤をしなければ会社に行けないという問題がある。幸いなことに透耶は高校を卒業してからこの方、通勤というものをしたことがない。ただでさえ出不精ではあるが、大学に行くという選択肢を捨てた時期が時期だっただけに、それから勉強して行こうという気が起きなかった。更に、その時選んだ仕事が軌道に乗って、ありがたいことに6年経った今でもその仕事を続けられている。なので引きこもりだった生活は未だにそのままであり、当然この時期に外へ出るという行動をしたことがないままであった。
そんな雨がやんでしまって、晴れ間が見えてくると少しだけ憂鬱だった気分も晴れてきたように思えるから不思議だった。
でもそれだけではないことは透耶の口の端が少しだけ上がっていることで誰にでも原因を言い当てられる状態だ。
透耶の恋人で同棲相手である鬼柳恭一が一昨日帰国をしたのだ。夏になると長期間の休みを取るのは恒例の行事で、その周期に慣れてきていた為、ここ数日間透耶は恋人が戻ってくるのを今か今かと待ちわびてしまっていた。本当ならこうして待っていることはしたくはない。帰ってくることが嫌なのではなく、何かあって帰ってこられないことがあったとき、透耶は目に見えて落ち込み周囲の人間に迷惑ばかりかける羽目になってしまうからだ。
毎回そう思っていても実行できるなら苦労はないわけで、さんざ喜んだ後によかったですねと声をかけられるとまた暗い顔をしていたのかと思ってしまう。
そんなことを寝室の窓から空を眺めて考えていたのだが、窓から見える廊下を鬼柳が歩いていて、その時鬼柳が見上げて透耶と目があった。
それまで無表情だった顔が一瞬で優しい顔に変わるのを見るのが透耶は好きだった。そういう顔を向けられるだけで透耶も同じように優しい気持ちになれるからだ。
「そこで何している?」
鬼柳は不思議そうに透耶を見て聞いてくる。実は下から見上げたとき透耶は一人百面相になっていたので本気で何をしているのか気になったのである。そんなことは知らない透耶はえへへと笑って誤魔化して部屋の窓を閉めて寝室を出る。
階段を素早く下りてその下にある中庭に通じるガラス窓まで来ると鬼柳はそのまま待っていてくれた。
「恭、おはよう」
笑って近付くと鬼柳はタバコを一本吸って吸い終わった吸い殻を灰皿に捨ててから透耶を抱き寄せる。透耶はそのまま抱き寄せられて背伸びして鬼柳の頬にキスをした。すると鬼柳は何故か透耶の首筋にキスをする。
「ちょ、何? え?」
普段なら、本当に普段なら頬にキスを返して貰って朝の挨拶が終わるところである。それが何がどうして首筋にキスをするという行動に出るのかが理解できない。
ただのキスなら耐えられるのだが、問題は首筋であることだ。鬼柳と出逢ってから首筋にされるキスはただ驚くだけで済む場所ではない。キスマークを付けるように強く吸われた後にそこを舌が舐めるのだ。それだけで透耶の自由を奪うことは可能である。
ぞくりとする感覚が体中に走り、その後に来る快楽を知っている。
「ふ……あ……」
帰ってきてから丸一日抱いて貰った体だ。それをたった一晩で忘れられるわけもない。だが鬼柳はわざとそうして何かを探ろうとしている。それが解っているのだが、どうしても身体が反応をしてしまい、上手く思考がまとまってくれない。
「……なんでぇ」
やっとの思いで、そう訴えると鬼柳が言った。
「さっき何してた?」
その言葉に透耶は首を傾げた。
「はあ?」
何の話なのだ。一体何を気にしていたのかと思えば、さっき空に向かって色々独り言を心の中で言っていたことまで、気にして聞きたいらしい。
この男は自分の心を隠すということをあまりしない。必要性を感じないという問題ではなく、そういう風に生きてきたからという理由だ。なんでも思ったことは口にしていたし、それに対して失礼なことも言ってきたのだが、もちろん嫌われることの方が多い。本音など普通の人は嫌うのに、日本人らしい言わなくてもいいことという微妙な感覚が解らないときている。
そんな性格をしているから、本人もそういう風に扱って貰って欲しいと思っているらしく、大抵は不機嫌になろう皮肉すら、本人はまったく気にしないどころか、自覚や認識すらある始末。
認識した上で、透耶に関しては何でも知りたいという欲求がどうしても無くならないのだという。ある意味、幸せな言葉であるだろうが、これが聞いて欲しいことならまだしも、ふと適当に思ったことすら一々聞かれたら、どんなに思っていることを聞いて欲しいという人でも鬱陶しいレベルになっているはずである。
しかし、そんなレベルに達しても榎木津透耶の場合、免疫が少しあったお陰で過剰な反応すら順応できる能力が出来てしまったのである。
「で、何考えていた?」
「だから、昨日までの雨止んだなとか。天気良くてよかったなとか」
「昨日までは凄かったからな。まさかあそこまで」
鬼柳がああと思い出したように言うので透耶も頷く。だが話が雨の話でないことに気付いたのはそれからすぐのことだった。
「エロイ、エロイとは思っていたが、透耶は年々色気が増してきて、腰付きもエロイったらないな」
どんどん酷くなっていく内容に透耶は目眩を覚えながらも反論する。そうしないとこれが止らないことを身を以て知っているからだ。
「…………どうしてそうなるの。雨が上がって洗濯物が乾いてよかったね!って言ってるの!」
透耶が必死に訴えると鬼柳はいつも通りにピタリと卑猥なことを言うのを止め、ふっと思い出したように言った。
「St. Swithin's Dayだ。今日、雨が降って無くてよかったな」
急にそんなことを言い出して透耶は傍目にもはっきり解るほど首どころか身体すら傾けてしまっていた。日本人でも特殊な環境でなければきっと知らない人の方が多いことだ。目に見えて解りませんという態度の透耶に鬼柳はクスリと笑って
「日本語で何て言うのか知らないが、聖人の祝う日だ。今日は7月15日だしな」
「15日が祭事なのは、まああるあるな内容だけど、なんで雨降って無くてよかったねって話になるのかさっぱり解らない。なんか縁起でもないことなの?」
透耶は鬼柳を見上げて、雨が降るという状態をジェスチャーでした後に、アメリカ人っぽくさっぱり解らないという風に両手を広げてみせる。
「スウィジンというウィンチェスターの司教をした人がいるんだが、そのスウィジンが亡くなった時の話が逸話になってる」
鬼柳がそう言って透耶を中庭にある椅子に座るように言う。手を引かれて椅子に座ると鬼柳はタバコに火を付けて一服してから話し出す。
「スウィジンが亡くなった時、その棺桶を教会の雨のかかる軒下に置いてくれというのが遺言だったそうだ。それで言われた通りにしてみた。その後、7月15日になって、教会内に棺桶を入れようとした。そうしたら、大雨が降ってきて、その後40日間も降り続いたという」
鬼柳の話を聞いて透耶はクスリと笑った。
「スウィジンさん怒っちゃったんだ?」
透耶はこの話を割合簡単に受け止める。日本や中国には怒らせると大雨を降らせる龍神様がいるから、その話みたいなものだと言えばそういう感じである。
「まあ、そうだろうな。結局軒下から移動させることは出来なかったんだし、スウィジンの思惑通りにはなったわけだ」
「今日雨が降ったら、40日も降り続くっていう話があるから、今日晴れて良かったってことなんだ?」
透耶は急に鬼柳が話し出した内容が、今日の天気と関わり合いが有ることに気付いて、更に嬉しそうに笑った。
「そういうこと」
鬼柳がそう言って話を終えると、透耶は微笑を浮かべたままで鬼柳の腕にピタリとくっついてきた。
「どうやら、透耶は啼かせた方がいいのかもしれないな」
鬼柳がボソリと呟くのだが、透耶はそれを聞き逃さなかった。
「それ~、冗談のつもりなら、許すけれどぉ~? どぉうするぅ~?」
語尾が伸びている状態は非常に危険だ。しかも笑っている。最近、怒っているスタイルも変わってきている。昔はただ笑っているだけだったが、今は言葉でも妙なことになっている。けれど、これでもまだ本気で怒っているわけではない。
「冗談でそういうことを言ったことはないんだが?」
鬼柳がキッパリと言い切ると、透耶のこめかみにヒクリ動いた。ゆっくりと凭れていた腕には透耶の持てる力で締め上げた鬼柳の腕が抜けず、さすがに鬼柳もこれは降参するしかないなと思えてきた。
これから透耶の昼御飯を用意して、夕飯は透耶スペシャルを作って食べさせないといけない。これを抜いたら透耶は後二日は口をきいてくれなくなる。それが例え透耶のせいでそうなったとしてもだ。
最近はこんな理不尽な我が儘も言うようになったが、いかんせん、言葉で叶わないと解るとない力業に持っていこうとする傾向がある。
さてどう気を抜くべきか。そう思ってまた思い出した。
「St.Swithin's Day. if thou dost rain.
For forty days it will remain;
St.Swithin's Day. if thou be fair.
For forty days 'twill rain na mair.
聖スウィジンズ・デーが雨なら
40日間雨つづき
聖スウィジンズ・デーが晴れなら
40日間雨にならない」
鬼柳がいきなり歌い出すと、さすがの透耶も拍子抜けしたようにきょとんとしている。
「na mair?」
普段使っている英語ですら出てこない単語に真っ先に惹かれるところはさすがである。歌ったことに驚くのではなく、人よりズレていると言われるだけではないところを発揮している。
「no more,スコットランド英語なんだよ」
「ああ、そうなんだ。マザーグースっぽいね」
「マザーグースだ」
「へえ、よく歌った?」
透耶はさっきまで怒っていたことなど忘れて鬼柳に尋ねていた。マザーグースを歌っていた期間なんてきっと小さい頃のことだけだろう。それから暫くして信じられないほど鬼柳は変わってしまったからだ。
「そうだな、宝田がそういうのには詳しくてな。宝田は執事の学校へ行って執事になったくらいだから。ああいう学校はイギリスにあるだろ?」
「宝田さんって本家本元の貴族の執事学校へ行っていたの?」
透耶の声が上擦った。まさかアメリカにいたという宝田が本家本元に行っていたとは思わなかったらしい。
「出資したのが、宝田の父親が世話になっていたアメリカの企業家の家だからな。成金が貴族の真似をしようとして本物の執事まで作ったわけだ」
鬼柳が激しく皮肉ったのには訳がある。透耶はその訳だけは知っていた。宝田が若かった時代、企業家の家で執事の真似事をして家を切り盛りしていた宝田の父親は望んでそうなったけれど、宝田自身がそれになりたかったかというとそうでもないようなのだ。
出資されて行けと言われた、それだけで宝田には家を飛び出して二度と戻らないという方法しか残されていなかったらしい。
とりあえず行くところもないので執事の真似事をしてみたが、向いているのかどうかは解らなかったと本人は言っている。
そうして鬼柳が宝田について話し出そうとした時、皮肉にも透耶のお腹が先を待ってはくれなかった。
ぐうっとお腹が鳴って、透耶は恥ずかしくなってお腹を押さえる。せっかく昔の話が聞けると思ったのにバカバカ馬鹿!と何度も自分の空腹具合を呪いたくなる。
「ご飯を先に食べような」
鬼柳が真剣にそう言ったので透耶はうんと頷くしかなかった。
ご飯は食べたいが話も聞きたい。でもお腹が鳴って邪魔をする。そんな状態でも身体が美味しい匂いを鼻から運んで、余計にお腹が空くという方程式を崩してくれない。
「口惜しい……」
そういいながらも手を引かれて台所に入っていく。
その様子を二階の寝室から見ていた宝田がホッとしていた。
鬼柳が宝田の話をする時に出てくる企業家の名前を口にすると酷く不快な顔をするのだ。だから鬼柳が話すのではなく、宝田が透耶に全部話してしまわなければならないことだと思っていた。
しかしどうして雨の話から宝田の身の上話まで飛んだのか、あの二人にもきっとよく解らないのだと思う。
「さて、今日は良い天気です。シーツも夕方までには乾くでしょう」
今夜はゆっくりと太陽の匂いの中で眠れるように、シーツを洗濯しておく必要がある。宝田はベッドのシーツ類を全部剥がしてしまうと、大荷物を持って階段を下りていく。
お昼時にいい匂いが明け放した窓から匂ってくる。
そんな天気が良い、7月15日の出来事。

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