その日、暖かくなって日差しの強さからジャケットを着ていくべきか春らしい格好を優先すべきかどうか迷うような日。待ち合わせのジャンクフード店で、家を早くに出てしまった雨宮美幸は、二階の一番いい席を陣取って座ることに成功した。
時計を見ると約束の時間の30分前。普段の待ち合わせの場所なら、ぎりぎりの時間まで家で粘っているのだが、この場所だけはどうしてもこの席でないと駄目なのだ。
というのも、周りは休憩がてらに寄っているビジネスマンが多く、その中に私服の女性が交ざっている図がおかしいと前に彼氏に言われたことが気になって仕方がなかったからだ。言われて気付いたのだが、ここは周りにビジネス街が多いのと繁華街からは少しだけ離れているせいで、完全にビジネス街の御用達になっているらしい。しかも私服もいれば大分違っただろうが、これが制服ありスーツが当たり前では、私服は異様に目立っているとしかいえない。
視線を上げれば珍しがって見ているサラリーマンと視線が合う上にこそこそと笑われる始末。それなら窓側に逃げて外を歩いているサラリーマンを見ている方がマシである。何度もここで待ち合わせをするのは嫌だと言っても、彼氏の仕事場がこの近くで、仕事が午前で終わり、午後から会うとなれば、早々遠出も出来ない。しかも繁華街の喫茶店では彼氏の方が入っていくのに根性がいるという逆のことが起こってしまう。
結局、毎回メールじゃんけんで決めているが、どういうわけかこの勝負だけは美幸の負け越し中である。ちなみにメールじゃんけんは、メールに一言、パーならパーと書き、送信するだけ。通話中にメール制作をしておいて、じゃんけんメールを送る時に通話を切り即送信、すると送ったのと同時くらいに彼氏からメールが届いて勝敗が付いているという感じである。
負けて文句は言えないから、せめて嫌な思いする前に視線を合わせない方法を考えているうちに見なければいいという結論に達したのは2回目に訪れた時だった。それからは不快な思いをせずに済んでいるからこれは効果的である。
そうして月に一回程度しか訪れる場所ではないというのに、美幸は毎回捜してしまう人影がある。美幸は見知っていても相手の名前どころか、あの人の性別すらまだ定かでない状態である。
その姿を見掛けるようになったのは、3回目の時だった。
その人は一人で立っていた。外見ははっきり言って汚かった。うん汚かった。そう薄汚れ、解れもあって、元が何色だったのかすら判断出来ないくらいに汚れているようにしかみえないサファリジャケットを着ていたのだ。パンツはたぶんジーパン。肩には大きなリックサック。足下はがっちりな登山靴っぽいもの。山でも登に行くのかというような格好であるが、そんな人物がどうしてビジネス街や繁華街近くにいるのかという理由は見付からなかった。
それにしても髪型は伸び放題というように伸びているし、その髪も埃が付いていそうな気になってくる。しかし顔ははっきりとは見えなかった。髯が邪魔をしていて判別が出来ないのだ。そう山男と呼ぼう。そうしよう。
その山男が何をしているのか見ていると、ただ立っているだけだった。本当になにもしていない。それこそ美幸が彼氏を待っていたおよそ30分くらいは何もしないまま、ただ立っているだけだった。その後、その山男がどうなったのか美幸は知らない。
それから一ヶ月経ち、また店に行って席に座るとその彼のことを思い出した。あれから友人にネタとして話した以外は思い出しもしなかったことだったが、この席に座って同じ風景を眺めているとどうしたって思い出してしまうくらいの衝撃はあったらしい。
また居たら恐いなと思いながら眺めていると、今度は私服の人がその場所に立っていた。一人ではなく、どうやら連れがサラリーマンらしい。
顔は結構はっきりと見えた。二階の高さから見ても顔容ははっきりと見えるし、美幸は何より視力が良かった。
体貌は眉目秀麗、そう一言で言えた。よもやこんな言葉を自分が使うようにな
ると思わなかったくらいだ。現実離れしているとも言えた。
身体は細い、隣にいるサラリーマンが逆三角形な身体をしているように見えるからかもしれないが、その横に立っていると余計にそう見える。目測を誤っているのかと思ったが近くを通行している人達と比べてもやはり細かった。
はっきりとその時は「薄っ」という感想だったがまあいい。
足も細いが長いようで腰の位置がどう見ても違う。隣に腰掛けた女性からしても違うのが明らかだ。
そこまで見てふと思った。
あれはどっちだ。そう性別の話だ。まず男だとしよう、あれが男なのか?と疑問に思う。じゃあ女なのかと考えると、胸はないよなと違うところが気になる。
近くを通る男たちが振り返っていくのだが、見られている当人は一切気にした様子はなく、一緒にいるサラリーマンに話しかけている。サラリーマンは何か言っては青年(にしておく)に断わられている。あれはナンパされたのか。そう思っているとサラリーマンが見るからにがっかりした様子を見せると、青年の方が申し訳なさそうに謝る仕種して別の話題を振っているように見える。
ナンパではなさそうだ。ではどういう関係か。
同級生には到底見えない。がそれもありなのか? 意外性がありなのか!?
見ている限りは、おっとりしてそうな青年の方が楽しそうに一人でペラペラ話しているようだ。サラリーマンは聞き役に徹しているらしく、口を挟む気配はない。
なにやら楽しそうにしている青年を見ていると、微笑ましくなってくるから不思議だった。たぶんそれは自分も今楽しいと思えているからなのかもしれない。
その後、青年とサラリーマンは、別のサラリーマンがきたところで一緒に歩いて行ってしまった。どうやらこの店で飲物だけ購入していたらしい。
それが来店4回目に見た光景だ。
その次、5回目は二ヶ月後。
いつも通りに席を取って座ったところで下を見ると、特に気になる人はいない。面白い人はいないものかと見回してみると、凄まじいデジャヴに見舞われた。何事かとよく目を凝らして見てやっとその原因に辿り着いた。
最初にここで人を見て驚いた、あの汚い服装をしていた山男が立っていたのだ。
どうして山男だとやっと解ったかというと、格好は同じだったからだ。ただ薄汚れてはいなかった。同じ服でも持っているのか、同じサファリジャケットに青いジーパン。靴まで変わってなかったし、リュックサックも変わってないようだった。
ただ一瞬で解らなかったのは、薄汚れてなかったこと以上に、その人の髪型は普通だったし、髭も生えてなかったからだ。
姿は少しだけ小奇麗にしているけれど、見た目がそれほど変わったわけではないはずだが、この間の山男の格好の時とは違い、山男は周りの視線を別の意味で集めていた。
前は汚い山男の姿を笑いながら見ていくという視線だったと思う。美幸と同じように彼の格好がおかしいと思っている人が居るということだったのだが、今回は山男の顔が問題だった。
髯を剃ってしまった山男は、意外や意外、いい男だったのだ。
日本人離れをしている顔に真っ先に目を引く。鼻が高くて、鼻梁ががすっと通っているから、少しでも目や口のパーツずれているとおかしくなるような顔立ちなのに、それにピタリと合っている力強く、意志が強そうな瞳があって、それが威力を持っていて見ている人間は、よほど自分に自信がなければ近付こうとは思わないような、そんな人を射貫く眼差しだ。それだけではなく、すっと一文字に引かれた唇がまた機嫌が悪そうに見えるので、一層近付こうという勇気を無くさせる。
それを持ってしても視線が向いてしまうのは、やはり堂々とした体躯だからかもしれない。姿勢は悪くないから立っているだけでも絵になるといえば解りやすいだろうか。太ってもなく痩せてもない。長身にあった体躯で目を引かれるのだ。
そして顔だろう。もうこの二つだけでこの山男は、ここで一番の男であると言える。サラリーマンまでもが振り返って悔しそうにしているのだから、男からみても十二分にコンプレックスを刺激しまくるようだった。
それにしてもちゃんとしたら綺麗でしたなんて、男版シンデレラじゃあるまいにと思ってしまうが、それでもそうとしか思えない。
じゃあ、そうしてしまったのは誰なのか?と気になるところだ。誰があの山男を手に入れて、変身させたのか?
もし自分と同じ女だったら、酷く悔しいと思えるから困る。
けれど、それが現実なのだろう。
そう考えた時、酷く落ち込んでいる自分がいた。
しかし、神は美幸を見放しはしなかったのである。
山男が携帯を取り出し、電話に出ると、周りが一変したのである。
さっきまで仏頂面どころか無表情で人を威圧していた山男が、ふっと笑ったのである。
何か話しているようだが、勇気を振り絞って近付いた女の子が二人ほど顔を見合わせて首を振っているところを見ると、やはり見た目通りに日本語を話しているわけではないようだった。
笑ったままの視線をふっと遠くに向けたかと思うと、にっこりと微笑んでゆっくりと差し出した手を上向きにして人を呼ぶように動かしたから、ここにあった視線が一斉にそっちを見てしまう。それはもう、なんか凄かったとしか言えない。
そしてそっちからやってきた姿に美幸は監察を始めてから初めて声が出てしまった。
「う、嘘だ!!」
がっしりとガラス窓に張り付いて、美幸はその姿を見た。
それはここに来店して2回目に監察した時にいた、青年だったからだ。
意外すぎる人の登場に、どういうことなのだ!?という視線が一斉に山男に向いたと思う。実際美幸もそうしてしまったからだ。
何がどうしたら、二人が知り合いなのか、いやそれ以上に関係がありそうなモノになるのか。そうした疑問があったのだけれど、それが全部吹っ飛んだのは、駆け寄ってきた青年の方を山男が咄嗟に抱きしめたからである。
「きゃああああぁぁぁぁぁ」
黄色い奇声が一斉に響いて、店の前は混乱した。
青年の方がぎょっとして周りを見回しているが、山男の方は気にした様子はないようでしっかりと青年を抱きしめ、首筋に顔を埋めている。
周りにいるのは、会社勤めのOLばかりだから、有らぬ想像したのだろうが、なんというか。
「有りです!」
と力を込めて言えてしまうから困る。
普段なら見て見ぬ振りしてくれるはずだったのだろうか、戸惑っている青年を山男が宥めるどころか神経を逆撫でするように顔にキスしたり、抱いている腰を撫でたりと、お前、エロたっぷりだな、おいとツッコミ入れたくなるようなことを繰り返した後、本気で怒ったらしい青年にしっかりと殴られていた。
そうしたことを見ていた人達は次第に去って行き、周りが落ち着いたところで山男と青年はこの店に入ってきた。
また飲むものだけ買って帰るのだろうと思っていたら、美幸の彼氏、明彦が二階に上がってきたところだった。
「よ、なんか凄かったな、あれ」
コーヒーを持ってきて席に座った明彦が珍しく興奮したようにそう言った。
「あ、あれ見てたんだ?」
下の騒ぎはちょうど明彦がここを通りかかったときに起こったららしい。
「そうそう、それに見知った奴が中心にいたしな」
そういう風に明彦が言うので美幸は聞き返した。
「誰が?」
「真ん中にいた、細い方の男。あれで男かよって言いたくなる方」
「え? 知り合いって? いつの? 聞いたことないけど」
大学で出逢って明彦と付き合うようになったが、明彦の高校時代の話はほとんど聞いたことはなかった。知り合いの噂では、ピアノを真剣にやっていたけれど、才能の限界を悟って、大学では将来の為にと違う道を専攻したのだという。
その高校時代は何か屈折したものがあったらしく、いくら親しくなっても明彦から一言もその時代の話は聞いたことはなかった。
「うん、まあな。高校時代に俺がピアノ真剣にやってた話は噂で聞いているだろ?」
「知ってる」
「俺が才能の限界ってのを感じたのが、あの青年なわけ。榎木津って言って、あの時も随分綺麗な子だなと思ったけど、6年経ってさらに綺麗になってるなんて反則だ」
明彦が知っていたのは、榎木津という青年の母親や祖父がかなりその業界で世界的に有名な人だったらしく、皆嫉妬をしていたという。カエルの子がカエルとは限らないと、そう思ったこともあるが、それも一瞬で壊された。本物というのがどれほどの力を持つのかを知って、明彦は自信を一気になくした。
「本当に反則だなって思ってた。でも事件が起こって、榎木津はあっさりとピアノを捨てった」
明彦は悔しかったという。
どうして才能を持っているくせに、そんなことで簡単にやめられるのだ。周りも周りだ。こんなことでこんな才能を潰して、ただで済むわけないと。
その後、榎木津のことを振りまいた人間は、本当にただでは済まなかったらしい。その業界で有名ということは、それに対しての支持があるということだ。その支持に対して楯突いてはやっていけない。
それでもやっていける人間は、その中にはいなかったということだ。
「でもな、その後なんだが、ある機会があって榎木津が時々ピアノを弾いているんだって笑って言ってるのを知ったんだ」
明彦はそれを知った時、ああなるほどと納得したのだという。
「あいつ、自分の世界をちゃんと作れたんだなって。一人で立ってるような感じで、痛痛しかったんだけど、今はそんな過去すらなかったかのように言うから、本当に楽しそうに言うから」
明彦はその時、本当に嬉しかったのだ。あの才能が潰れずにいること。そしてそれが何も大きな舞台ではなくてもちゃんと生きていること。それが嬉しかった。
「今なら結構よくわかる。俺も子供だったんだなって」
明彦がすっきりしたように言うので、美幸も何だか嬉しくなってしまった。
「じゃあ、今度そのピアノ聞きたいな。ちゃんとしたところに行ってたなら結構ひけるんでしょ? 小学校の時にちょっとだけやってた子だって、ド素人のあたしからすればびっくりするようなもんなんだから」
そう美幸が言うと、明彦は自分の手を眺めて呟く。
「ええ、動くかなあ、タイピングとは別だぞ」
「いいじゃん、あたしより上手いんだし」
けらけらと笑いながら美幸が言うと、向こうから素っ頓狂な声が降ってきた。
「あ、奥崎さん」
その凛とした声に驚き、美幸が顔を上げて視線を向けると、そこに立っていたのはさっきまで下で時の人になっていた青年、榎木津であった。
「榎木津さん、さっきはご苦労様でした」
「いえ、こちらこそです。すみません、プライベートなのに急に声をかけてしまって」
美幸の存在に初めて気付いて、青年は申し訳なさそうな顔をしたけれど、明彦はにこにこ笑って構いませんよと言う。
そういうやり取りを見ていて美幸はふとさっきの話を思い出す。明彦はこの青年と同級生である。それなのに明彦は覚えていて、青年の方は同級生である明彦を覚えていない所か、さっきの仕事で初めてあって仕事をしているという風に接している。
「それじゃ」
立っていると他の客の邪魔になるので、少しだけ話したところで青年は別の席に言ってしまったが、美幸は不思議そうに青年を見送って明彦を見た。
「じゃ、出ようか」
苦笑した明彦がそう言うので美幸は何も言わずにそれに従った。
「不思議に思っただろ? 榎木津は俺のことは覚えてないんだ。まあ、仕方ないとは思うよ。俺はなるべく榎木津と顔を合せないようにしていたし、翌年にはクラスも変わったし、向こうも派手に目立つことを嫌ってたし、クラス変わって半年後にはもうピアノやめてたしね」
色々複雑な事情があって、覚えている余裕すらなかったのだという。
「それに、俺も高校時代の話はちょっとキツイからな。仕事で会って嫌だなと思ってたけど、向こうが覚えてなくて、本気良かったと思ったし。なんつーか気まずいっていうのか」
それでいいのだと明彦が言うので美幸はそれ以上突っ込みはしなかった。
高校時代に挫折をして、それからすぐに将来について考え、その時目指そうとした雑誌の編集になれたのだから、明彦にとってはそれでいい話で、そこで青年に出逢ってしまったのも仕方のないことだ。
「ねえ、一つだけいい?」
「なんだ?」
それだけで済むとは思ってなかったらしい明彦から苦笑が漏れた。
それを睨み見つけるようにして美幸は真剣に言った。
「あたしたち、結婚しない?」
急に美幸がそう言い出して、さすがの明彦も予想とは違った話が飛び出したことでがくりと肩を落とした。
「なんで、そういう話になるかな?」
そう言って訳を聞こうとしている明彦に向かって美幸は言う。
「あたし、いい奥さんになると思うの。子供だって三人くらいガンガン産むし、ご飯だって作るの得意だし」
「えーと、美幸ちゃーん、落ち着いて?」
「あたし、明彦のこと絶対に幸せに出来ると思うの。一軒家買って、犬とかいて、近所の人にはオシドリ夫婦だねって言われるはずよ!」
「だからね、美幸ちゃん。なんで俺が今日プロポーズしようかなって思ってる時に、美幸から言い出すのか全然わかんないんだけど。そんな素振りちっともなかったじゃん」
明彦はそう言って美幸を黙らせる。
「え?」
さすがにそういうことを明彦が考えているとは思わず、ピタリとペラペラとプロポーズの言葉で飛び出ていた口が止った。目を見開いて美幸が明彦の言葉を促している。
「ですからね、プロポーズをしようと思って、こうして指輪まで買ってきたというのに、どうしてこう決まらないかな……俺」
そう言ったけれど、美幸はそこが街中だと言うことを忘れて、明彦の胸に飛び込んでわんわん泣きながら何度も言っていた。
「結婚するぅぅぅ」
「嬉しいんだけど、恥ずかしいかな」
往来でのこんなプロポーズを皆黙って見て通るということをせずに、手を叩きながらやら、おめでとうやら沢山の人にお祝いを言われたけれど、そんなのはちっとも恥ずかしいことではなかった。
美幸にとっては色んな意味で幸せなことで、その日が凄く特別になったことは確かだった。
そんな二人のことを店の二階で見ていたのが山男と青年こと、鬼柳恭一と榎木津透耶である。
「やった、奥崎さんとうとう! しかもOK!」
と二人が抱き合っているのを見て、奥崎明彦がプロポーズに成功したことが解って透耶は嬉しくて手を叩いていた。
そんな二人を見下ろしていた鬼柳は、ふんっと鼻で笑った後に透耶に聞いた。
「大事なことで話が長くなったと言ってたが、まさかこれじゃないだろうな?」
「これだよ。何がいけない?」
そう透耶が真顔で返すので、鬼柳は少しだけ哀しくなった。
今日、わざわざ仕事が終わって早く透耶に会いたかったので、雑誌社の近くまで迎えに来たのに、さんざ待たされたのが他人の結婚事情である。しかも透耶に少し気がありそうな風に見える編集者の相談事がプロポーズのことであろうが、そんなのは関係ないことだ。人間どこで気が変わるか、本当の自分に気がつくかなんて解らないというのが、鬼柳は身を以て知っているだけに、油断すら出来ない。
そうして警戒を強く持っていると透耶が苦笑して言った。
「本当はね、昔知ってる人だったから、ちょっとだけお節介したくなったんだ」
透耶がそう言うけれど、鬼柳はそんな話は聞いていない。睨み付けると透耶は仕方ないかという風に話し出す。
「あの高校の時の事件の時にね。放心していた俺を保健室まで連れて行ってくれたのが、奥崎さんなんだ。一年の時は同じクラスだったんだけど、話したことはなかったし、接点も全然なかった。お礼くらい言わなきゃなんだけど、俺、全部忘れててさ。最近になって、保健の先生に偶然会って、それで聞いたのが奥崎さんのことなんだ」
透耶がそう言うと、鬼柳は首を傾げる。
「どうして本人に聞かない」
それは当然の流れなわけであるが、透耶は苦笑して先を続ける。
「仕事で雑誌社で編集さんとしての奥崎さんに会って、なんか見たことあるなあって思ってて、でも向こうは知ってること知られたくないみたいだったし、本人に聞けないかなって」
透耶がそう言って困ったように笑うと、鬼柳は納得できないような顔をしていたが、透耶の頭をぽんぽんと叩いて慰める。
昔のことをお互いに蒸し返したくないから、知らない者同士で仕事をしようというのだから、鬼柳からすれば面倒臭いことだと思えたのだろう。けれど、透耶がいくら前向きにその時のことと向き合えるようになったとはいえ、本人もその時の記憶が断片的で、何をしたのかさえよく覚えてないときている。
大体の流れは光琉の話や周りの話、透耶の断片的な記憶から説明として成り立つものになっているが、完璧に思い出したわけではないのだ。
だからそれに振れられるのが嫌な透耶と、知っていることで何か不都合があるらしい奥崎明彦からすれば、知らない振りの方がお互いにいいだろうと判断したわけだ。
暫くむうっとして考えていた鬼柳であるが、ふうっと息を吐いて、それには納得するかと深く考えるのを諦めた。
だって下ではまだプロポーズが成功した幸せ一杯の二人が抱き合っているのだ。こんな日に有りもしない横恋慕を警戒するのは無粋だと透耶の顔が言っている。
「それで、このまま何処かで食べていくのか?」
鬼柳はもうそのことは考えていないと意思表示を示すように話題を変えると、透耶はにこりとして言った。
「家に帰って、恭のご飯食べる」
こう言われると不機嫌だった鬼柳の気分も上昇してくる。
「じゃ帰るか」
「うん」
二人がそう言って店を出た時は、明彦と美幸の姿はすでになく、人波の流れも疎らになっていた。夕方を回って、帰宅ラッシュはすでに過ぎてしまったらしい。
その街並みを抜けて二人は手を繋いで駅に向かったのだった。
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