チェックアウトになって、ホテルのロビーに降りると、そこに昨日会ったジョージが丁度チェックアウトをしている所だった。
ジョージは透耶達を見付けて笑顔で寄って来た。
『 Hi. Toya. Good morning.(やあ、透耶。おはよう)』
『Good morning. Geroge. (ジョージさん、おはようございます)』
透耶がニコリと答えると、ジョージも微笑む。その横で鬼柳が顔には出さないが、嫌な顔をしている。
『I’ll go back to Tokyo today. and return to England once.How about you. Toya?(私は今日、東京へ帰って、一旦イギリスに戻るんだが、透耶は東京へ帰るのかい?)』
『I guess I’ll stay here a bit longer.I don’t have my schedule fixed. you know.(いえ、まだ沖縄にいると思います。まあ、俺の予定はないようなものですから)』
そう言ってチラリと鬼柳を見ると、そっぽを向いている。
ジョージは鬼柳を見て、なるほどと頷いた。
そうして話していると、ロビーに綾乃が入ってきた。
透耶を見つけると、まっすぐに進んでくる。そして目の前に立つと透耶を見上げた。ちょうど身長は10センチ程違う。
「あれ、どうしたの? えっと、綾乃ちゃんだっけ」
「真貴司綾乃(まきし あやの)です」
「あ、俺。榎木津透耶です」
そう言えば自己紹介する暇なかったよな、などと透耶が思っていると、真剣な顔で綾乃は言った。
「榎木津さんにお願いがあります」
「えっと、下の名前でお願いします」
あまり大きな声で綾乃が言うものだから、透耶は慌てた。この顔で榎木津はさすがにマズイ。光琉と間違えられる可能性があるからだ。
「では、透耶さん。私にピアノを教えて下さい。お願いします」
綾乃はそう言って頭を下げたのである。
「はい?」
一体何がどうなって、こういう事を言い出すんだ?
さっぱり意味の解らない透耶。ピアノを教えるとは、おかしな話だ。綾乃はピアノを弾けるし、透耶が教える事など何もないはずである。
「えっと、とりあえず、頭を上げてくれるかな?」
「いえ、承諾してくれるまで上げません」
透耶のお願いを拒否する綾乃。
しかし、頭を上げてくれなければ、目を見て話す事が出来ない。透耶は溜息を吐いて、その場にしゃがみ込んだ。
座ると下から綾乃の顔が見える。
「な、何で座るんですか?」
いきなり視界に入った透耶が座っているので、綾乃は驚いた。透耶はじっと見つめたまま言う。
「だって、君が頭を上げてくれないって言うからさ。目を見て話をしたいんだ。で、どうしてそうなるわけ? 俺は確かにピアノは弾くよ。でもね、君も解っていると思うけど、弾くと教えるはすごく違うんだよ。俺には人を教える技術はない」
「でも、透耶さん、私のピアノにアドバイスをしたわ」
「うん。あれは俺の失敗。するべきじゃなかったんだ、出過ぎた真似をしたって思ってる。だから、ごめんね」
透耶が本当に申し訳ないと言うと、綾乃は顔を上げた。今度は綾乃が見下ろす番になったが、もうそれどころではない。
「失敗じゃない! あたし、あれで助かったの! だから、もっと意見が聞きたいの!」
綾乃はいつもらしく大きな声で叫んでいた。
透耶はびっくりして綾乃を見上げた。
「意見は、俺でなくてもいいんじゃないの?」
「駄目! 貴方がいいの、他の人じゃ駄目なの!」
尚も食い下がる綾乃。さてどうやって断われば納得するんだろうと透耶が悩んでいると、エドワードが口を挟んだ。
「透耶、女の子の必死のお願いを無下にしてはいけないよ」
エドワードがそんな事を言うものだから、透耶は驚いた。
エドワードなら、絶対こういうお願いの仕方は好きな方ではないはず。寧ろ一刀両断してしまうタイプである。
「エドワードさん、何を言って……わっ」
エドワードを見上げていると、急に視界が揺らいだ。
「透耶、とりあえず立って」
鬼柳がそう言って透耶を立たせたのだ。
「あ、ごめん」
透耶が座り込んで、綾乃が頭を下げて叫んでいて、周りを外国人が囲んでいたら、嫌でも目立つ状況だ。
もう絶対、このホテル泊まれない……。
『Let’s say….(こうしたらどうかな?)』
いきなりジョージは透耶に言った。
『How about checking her sound when she practices. But you only give a bit of advice. What do you say?(練習を聞いてアドバイスしするだけってのは?)』
『Well. it sounds good. but….. The problem is. me. the person who dose that.(はあ、まあ。それはいいんですけど……。俺ってのが問題で)』
『Who cares? She wants you to listen to her sound.If it is all she wants. you can do it. can’t you? Or. even so. are you going to decline her sincere request?(いいじゃないか。彼女は透耶に聴いて欲しいんだ。それなら透耶でも出来るんじゃないか? それでも必死なのを無碍にするのか?)』
それを言われると弱い。誰かに聴いてもらいたいから弾きたいという人を、透耶は邪険に扱う事が出来ない。それは、自分もただ一人の人に聴いてもらいたいから、ピアノを弾く事を再開したのだから。
鬼柳を見上げると、目が合った。でも透耶は何も言えなかった。鬼柳は少し笑って言った。
「透耶が決める事だ。俺は反対しないよ」
そう鬼柳はいつでもそう言う。困っていても透耶の問題であるなら、解決をするのは透耶自身でしかない事を鬼柳は良く知っている。
だから、この人は凄い人だと透耶は思う。
必要でない所はどんな事でも手助けするのに、重要な部分には触れようとはしない。そして、透耶がそれと決めた事には、納得して協力をしてくれる。そういう人だ。
透耶は鬼柳に微笑んで、決心した。
綾乃の方を向いた。綾乃は真剣な顔で、でも不安な顔でもあった。
この子は今人の手を必要としているのだ。
それが透耶の手でもいいと思っているのなら、協力してあげてもいいんじゃないかと、透耶は思った。
「解った。聴いてアドバイスするくらいなら、俺でいいのなら、やるだけやってあげる」
透耶がそう言って微笑むと、やっと綾乃に笑顔が出た。たぶん彼女の笑顔を見るのは初めてであろう。
「ありがとうございます!」
綾乃はまた頭を下げた。
そこまで決めて、透耶ははたと気が付いた。
「で、さあ、何処でやるわけ?」
透耶は当然の流れでそれを言ったのだが、誰もその事を考えていなかったらしく、皆がうーんと唸ったのだ。
「あたしの家では?」
まず綾乃が言った。
まあ、教えるならそれが一番いい方法ではあるのだが、鬼柳がすぐに反対した。
「駄目だ。屋敷からここまで通うとなると、時間的に練習の時間が短くなる。綾乃は毎日やりたいんだろう?」
鬼柳がそう指摘すると、綾乃もはっとして頷いた。
「時間がないから、出来れば毎日聴いて貰いたいです」
『How about putting up at this hotel longer?(じゃあ、もう少しホテルに泊まればいいんじゃないか?)』
そう言ったのは、まだ居たジョージ。日本語の解らない彼にはヘンリーという通 訳がついていた。
それには、透耶も鬼柳もヒクっと顔を歪めた。
鬼柳はこれ以上ホテルにはいたくなかった。ここは正装しなければ動けない場所で、もうスーツにも飽きてきていた。
透耶ももうホテルにはいたくなかった。正直、ここの食事には飽きてきていた。鬼柳の手料理に慣されていただけに、それが懐かしくて仕方なかったし、これだけ騒ぎを起こした場所で、顔を覚えられたくなかった。
エドワードはその二人が何を考えているのか、手に取るように解っていた。クスクス笑いながら手助けをする。
「All you need is a piano. it is better to invite Ayano to the villa.(いや、ピアノがあればいい状況なら、屋敷に綾乃を泊めればいいじゃないか)」
その提案に透耶と鬼柳が同時に言った。
「そうか! その手があった!」
そんな事はまったく忘れていたという風に言っているから、エドワードは苦笑するしかない。こういう所は二人ともそっくりだ。
「え? 屋敷? 透耶さん達は沖縄に住んでいるの?」
一人訳が解らない綾乃。
「ううん、エドワードさんの別荘を借りてるんだ。持ち主がそう言っているから、綾乃ちゃん、来る?」
綾乃の事情もあるだろうから、透耶が尋ねると綾乃は頷いた。
「その前に綾乃の親とかに話を通しておかないといけないだろう。仮にも預かるんだから、事情を説明しないと俺達全員立派な誘拐集団だ」
鬼柳がそう言ったので、透耶もそうだと頷いた。
エドワードが時計を見て、時間を確認している。
「綾乃、家は近いんだね」
「あ、はい」
「じゃあ、行こう。私はあまり時間がない」
エドワードペースに綾乃は巻き込まれる。
もう慣れている透耶達はさっさと付いていこうと準備している。
『Oh. Geroge. Sorry to puzzle you. Everything is in order now.(あ、ジョージさん。すみません、何かごたごたしちゃってて)』
透耶は隣にジョージがいるのを思い出してそう言うと、ジョージは凄く愉快そうに微笑んでいる。
『Not at all.Very interesting. May I stay here with you for a while?(いや、構わないよ。非常に面 白い。私ももう少し一緒しても構わないかね)』
『Pardon? Is it really? (え? 面白くないですよ?)』
『Well. it may be good to have someone old around. like me. for some use. rather than sticking with the young.Shall we?(まあ、若いのばかりいるよりは、私のような年寄りもいた方が少しは役に立つかもしれないよ。さあ行こう)』
ジョージは一緒にいた部下らしき人に荷物を手渡すと、すたすたと先を歩き出した。
待て、何だこの集団は!?
もう外国人集団と言った方がいい。
当然綾乃も不安がっている。
エドワードにエスコートされたが、不安そうに振り返られた。そうだよな、俺も不安だよ。
透耶はそう思って、綾乃の隣に駆け寄った。
「大丈夫、綾乃ちゃんは自分の意志だけ伝えればいいよ」
「え、あ、はい。あの」
綾乃は少し困った顔をして透耶に聞いた。
「何?」
「この集団で歩くのって、結構勇気が要りますね」
綾乃が一番透耶が思っている事を理解しているようだった。
思わず、透耶は大きく頷いてしまった。
綾乃の家は、ホテル支配人の家らしくなく、沖縄にある普通の大きさの家だった。
「皆、背が高いから、鴨居にぶつかってしまうかも」
綾乃がそう言ったので、透耶だけが吹き出してしまった。
訳が解らないのは、外国人部隊。
絶対、全員頭をぶつけるのは必須。
家に入って、居間に通されると、(さすがに誰もぶつけなかったが)綾乃が母親を呼びに近くの祖父母の家に行った。すぐ隣にあるので、母親はすぐに戻ってきた。一応説明は受けたらしいが、自分の家の居間にいる外国人部隊を見て固まった。
そりゃ、固まるって……。
「お母さん。大丈夫?」
綾乃がそう言うと、母親は我に返って慌てて挨拶をした。
「どうもすみません。綾乃の母親です」
そこで外国人部隊は自己紹介をした。
綾乃がピアノを習う為にエドワードの屋敷に世話になると説明すると、母親は少し考え込んだ。
そりゃ、当たり前だ。
男ばかりの家に娘をやれるわけはない。
「それで、先生というのは、どちらの方なのでしょうか?」
母親が聞くのは無理もない。透耶が申し訳ないように手を上げて答えた。
「俺です」
そう答えたのが以外だったらしく、凄く不思議な顔をされてしまった。
「あなたがですか? 失礼ですが、お幾つなんでしょうか?」
などと聞かれたので、周りの外国人部隊が受けてしまった。
どーせ、俺は高卒には見えませんよ……。
「18です。ちゃんと高校出てます」
「あ、すみません。あまり若く見えたので……。それで、その屋敷には皆さんがお住みになってらっしゃるので?」
「いえ、今屋敷にいるのは、そちらの透耶とこちらの鬼柳だけです。大丈夫です、少し大きな屋敷ですので、使用人が数人住み込みしております。屋敷自体は私の持ち物ですので、綾乃さんを預かる身分として、御挨拶に参りました」
エドワードが丁寧に説明すると、母親は納得したようだった。
「それから、何か不都合がありましたら、こちらへ連絡して頂ければ、最優先で対処させて頂きます」
そうして差し出した名刺は、エドワードに直接繋がる連絡先の電話番号が書かれてあった。そこには、エドワードの身分である、adventurers という会社名が記載されている。エドワードの役職は副社長。父親が現役だから、エドワードが代わりにいろんな所に出張しているのだそうだ。
「アドヴェンチャラーズって、運送、ホテル、デパート、石油とかの? あの? 副社長?」
母親は信じられない顔をしている。
そう、アメリカでは有名な会社名。最近日本でもホテル、デパート、石油で有名になっている。
そう言えば、ジョージさんは何の会社を経営してて、エドワードさんと会談してたのだろうか?
ふと気になって、透耶はジョージを見てしまう。
すると、目が合ってニコリと微笑まれてしまった。思わず微笑み返したが、そうじゃないだろうと透耶は自分にツッコミを入れてしまった。
「まあ、綾乃、そんな方と知り合いだったの?」
という母親の言葉に綾乃は首を振って透耶を見た。透耶は視線を受けて鬼柳を見てしまう。
「何だ?」
日本人全員に見られて鬼柳は不思議な顔をしている。
そう言えば、鬼柳さんってエドワードさんとどういう知り合い何だろう? 不思議になってしまう透耶。
「いや、何でもない」
透耶がそう答えて話を終わらせた。
何とも間接的な知り合い同士である。
透耶は綾乃を見て、頷いた。綾乃も頷く。
「ねえ、お母さん。あたし、今ちゃんとピアノやりたいの。合宿だと思って、承諾して、お願い」
綾乃が母親にそう切り出した。
母親は、じっと娘を見て考え込んだ。
「お祖父様には話したの?」
「ううん、まだ話してない。でもホテルでピアノ弾いてくれた人に習うって言ったら、きっと許してくれるわ」
「まあ、じゃあ、お祖父様がやたら誉めてたピアニストって、先生だったの!?」
綾乃は頷いた。
透耶は、また俺の知らない所で変な噂が立ってる……。と少し呆れてしまっていた。
「解ったわ。勝手にいなくなられるよりは、こうして保護者の方々が訪ねて来てくれただけでも、安心は出来るでしょう」
母親は溜息と共に承諾をした。
娘がスランプなのは、親が一番良く知っている。娘がそれを乗り越えようとしているのも解っている。
「それで、来週には東京に帰るようになっているけど、大丈夫なの?」
「コンクールには間に合わせるわ」
母親の心配に、綾乃は力強く答えた。
「その、コンクールというのは、いつ何処でやるのですか?」
ヘンリーが申し訳なさそうに尋ねると、綾乃が答えた。
「VVV協賛の学生コンクールです。5月中旬に場所は、東京セミラミス」
「ねえ、エドワード」
ヘンリーがエドワードに用件を言わずに言うと、エドワードは頷いた。どういう意味だ?と透耶は思ったが、それ以上、エドワードもヘンリーも黙った。
「さて、我々は飛行機の時間が迫っているので、失礼させて貰う。恭、透耶、失礼のないように」
エドワードはそう言って、ジョージも立ち上がった。
「まあ、お茶も出さないで」
「いえ、おかまいなく。お邪魔致しました」
エドワードは丁寧に言って部屋を出ていった。
「じゃあ、透耶、鬼柳さん、東京に戻ったら電話頂戴」
ヘンリーはそう言って、綾乃達に挨拶をしていった。
ジョージは英語で挨拶をして、透耶にも言った。
『Toya. will you be able to have lunch together next month when I come to Japan again? I will have a talk with Mr. Lancaster about this.(来月、また日本に来るから、透耶、食事をしよう。ランカスター氏に話を通 しておくから)』
そう言って、綾乃の肩を叩いて英語で何か言った。綾乃には理解出来なかったが、透耶には聞き取れた。
ジョージが出ていくと、綾乃が透耶に聞いた。
「あの外国人さん、なんて言ったの?」
そう聞いた綾乃が驚くくらいに透耶が驚いていた。鬼柳は嫌な顔をしている。
「あ、ああ。えっと、コンクール見に行くからしっかり頑張ってって……えええ?どういう事?」
透耶は自分で通訳しておきながら、鬼柳に詰め寄った。鬼柳は憮然として言った。
「知らん」
そりゃ知らないよねえ、俺も知らないよぉ。
透耶が頭を抱え込んでしまう。
「結局、あの外国人さんが何者なのか聞けなかったわ」
「あ、俺も結局、仕事何なのか聞いてないし。鬼柳さん知ってる?」
透耶がそう聞くと、鬼柳は渋々答えた。
「ホテルの中とかでも有名な、レストランとかの飲食業らしい。あのホテルにも一つ入ってる。夕食、食べただろう。見晴しのイイ場所。そこの社長だそうだ」
鬼柳がそう言ったので、透耶と綾乃と母親が同時に叫んだ。
「ええ!? あの、エレクトラの社長!?」
ちょっと待て、それは凄すぎるぞ。
エレクトラは、飲食関係では世界トップレベルだ。フランス料理から、カフェまで一通 りを経営する巨大企業だ。その頂点が、ジョージ・ハーグリーヴス。
俺、ジョージさん、とか呼んじゃったよ!
それでエドワードが会談する訳だ。ホテルのレストラン経営状況をこっそり視察しに来ていたのを、エドワードが発見したのだ。
「下手にお茶出さなくて良かったかも……」
母親が呟いた。綾乃も頷く。透耶も納得。
というか納得する観点が違うぞ、皆。