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肩を揺すられて、透耶はぼんやりと目を開けた。
目の前に鬼柳がいる。
「……んー、もうちょっと……寝……」
また眠りに入りかけた透耶。
鬼柳は思わず見とれてしまう。
「鬼柳さーん。見愡れるのはいいけどさ」
ドアの所にいたヘンリーが呆れた顔でそう言った。
「あ、ヘンリー」
「これ、透耶の服。もう少しで夕食いくから起こせよ」
「解ってるが、これはこれで可愛くないか?」
「あー、まあねえ」
真面目に言われるものだから、ヘンリーはまた呆れてしまう。本当にベタ惚れなんだなあ。と感心してしまう。
「……んー」
周りで人の声がするので、透耶が抗議のうめき声を上げて、むくっと上半身を起こした。
まだ寝惚けているので、半分しか目が開いていない。
「透耶、そろそろ夕食だから起きてくれ」
鬼柳がそう言うと、ノソノソと身体を起こしてベッドに座った状態になる。何も着てないので、肌が露になる。
暫く天井を見ていたが、大きく欠伸をした。
それから周りを確認するように、くるっと首を振る。そして外を見たとたん、視線が止まった。
「んー、あれ、外暗いよ」
やっと目が覚めたらしく、マトモな事を言い出した。
振り返ると鬼柳がベッドに腰を掛けていた。
「夕食の時間。透耶、これ着替え」
透耶はそれを受け取って、じっと見ている。
「これって、エドワードさんでしょ?」
「あ? 服か?」
「うん。ここへ来てから、よく考えたら毎日服が違うんだけど」
「そりゃクリーニングに出してるからだろう」
当然だろうという風に言われて、透耶は首を横に振る。
「そうじゃなくて、俺のサイズな訳じゃん。エドワードさんが貸してくれたってのは、変だよね」
明らかにエドワードのサイズではない服の数々。全部が計ったかのように透耶にぴったりとしたものばかりだ。それが全部貸し衣裳な訳もなく、そうなるとエドワードが透耶の為に買ってきたとしか考えられない。
「ああ、エドが買ってきたんだろう。気にするな。あいつは気に入った相手に自分好みの服を着せるのが好きなんだ。大丈夫似合ってるって」
呑気に言う鬼柳。
似合うとか似合わないとか、そういう問題じゃないんだけど……。
透耶は溜息を吐く。
これって多分ブランドものだよなあ……。
金銭感覚が最近あまりない透耶であるが、エドワードの洋装を見ていれば、どれだけのものなのかは、冷や汗が出る。
一式を一体何着貰ったんだ?
しかし値段は聞けない。怖い。
かといって着る物など一着も持ってない透耶である。
ここは開き直って着替えた。
着替えを済ませて、居間へ行くと、鬼柳も新しい背広に着替えていた。
「うわー、ゴットファーザー」
全身真っ黒のスーツ。
昼間の深い藍色のスーツより、こっちの方が断然似合う。
「どうだ、惚れ直したか?」
鬼柳がニヤリとしてそう言うと透耶は頷いた。
「うん。かっこいい」
「え?」
透耶があまりに素直にそれを認めたので、鬼柳の方が驚いてしまう。
「あ、鬼柳さん、ちょっとネクタイ曲がってる」
透耶が手を出してきたので、鬼柳は少し身を屈める。透耶は真剣な顔でネクタイを直した。
「透耶……」
あんまり可愛いから思わず抱き締めようとすると、エドワードの部屋から、エドワードとヘンリーが出てきた。
「あ、エドワードさん、ヘンリーさん」
するりと鬼柳の側から透耶が抜け出したから、鬼柳の手が宙に浮いてしまった。
それを見たヘンリーが笑ってしまう。しかし鬼柳に睨まれて咳をして笑いを収めた。
昼食を食べたレストランではなく、別のレストランで夕食をした。
相変わらず、注目を集める四人。
透耶も三人を見ながら惚れ惚れしていた。正装した三人はとにかく目立つ。
すげー迫力。
周りの女性ばかりか男性までもが見愡れて、食事をするのも忘れている。一体、何人がボーイに注意されて、ワインを零した事に初めて気が付いていたことか。
エレベーターなんか、誰も乗って来なかったしね。
食事が終わって、ホテルのバーへ移動した。
エドワードはバーで取引先との商談があるというので、席だけは別になった。透耶達は別 の席で三人で飲んでいた。
未成年の透耶は、お酒は飲んではいけないが、軽いカクテルを作って貰った。
「どうだ、甘いだろう」
バーテンオリジナルの甘いカクテル。透耶は一口飲んで、それが美味しかったので感動していた。
「うん、甘い。お酒って解らない」
「けど、一気に飲むな。それでもビール並のアルコールはあるんだからな」
「え? 何?」
鬼柳が折角注意したのに、透耶はカクテルを一気に飲んでしまっていた。
透耶は、あっけらかんとしている。
「もしかして、透耶、酒強い?」
隣で飲んでいたヘンリーが意外そうな顔をしていた。
「解らないです。ビールは飲んだ事ありますけど」
「透耶ってそういうのってなさそうなのに」
「高校時代にお酒飲んだ事ない人って、珍しいんじゃないですかねえ。友達はことあるごとに飲んでましたし、付き合わせられましたよ。まあ、コンビニで買うくらいですけど」
「酔いつぶれた事はないんだ?」
「うーん、それはないですね。これ以上駄目かなあって思うと何故かセーブしちゃうんですよ」
透耶は呑気にそう言って、もう一杯頼んだカクテルを舐めるように飲んでいた。
今度のは強めのドライマティーニ。
「そう言えば。鬼柳さん。必勝法は役にたった?」
ヘンリーが思い出したようにそう言った。たぶん酔っているのだろう。聞き方に笑いが含まれている。
鬼柳はバーボンストレートを飲んでいたが、ニヤリと笑って言った。
「押し倒したら、逆に押し倒されて犯された」
などと物凄く嬉しそうに言う。透耶はお酒を吹き出した。
「な、な、何言ってんの?!」
「透耶、汚いぞ」
鬼柳は煙草に火を付けて、平然としている。
透耶は慌ててテーブルを拭いた。
ヘンリーも吹き出して椅子に突っ伏している。
「お、お、押し倒した~。透耶、面白すぎ~」
あの展開でどうして押し倒すことになるのか、誰にも解らないし、鬼柳にもよく解ってない。
押し倒した透耶も解ってないのだから、あれを説明するのは難しいだろう。
でも、それで透耶がスッキリしていて、後々問題はなさそうなので、鬼柳はよしとしている。
「犯される気分ってのもいいなあ。透耶、また犯して」
鬼柳が馬鹿な事を言っている。
「知らない」
透耶はそっぽ向いて、二人を無視した。
ふと見ると、薄暗いバーの中にグランドピアノがあるのが目に入った。
綺麗なピアノ。国産だが、最上級品であるのは明らかだ。
へえー、バーにピアノかあ、誰か弾いてるのかなあ?
ピアノの蓋は開いている。
「へえ、あの子。ピアノ教室にいた子じゃないか」
ヘンリーの声で、透耶は我に返った。
振り向くと、ヘンリーが入り口を見ている。
そっちに視線を向けると、綾乃と女性、そして男性と老人が一緒に入ってくる所だった。
子供がバーに入ってくる時点でおかしな事だが、それはヘンリーの言葉ですぐに理由が解った。
「あの老人。このホテルのオーナー。あの子は孫だな」
「ふうん。そうかあ」
そりゃ、東京へ行かせるだろう。透耶は納得した。
お金さえあれば、大抵の環境は整えられる。才能があっても技術を身につけるのにお金が絡んでくるのは、致し方ない事でもある。
老人がピアノを指差して、綾乃に何か言っている。
「ピアノ、弾くのかな?」
透耶がそう呟くと、鬼柳が今の今まで興味もなかった風だったのに何か思い付いたらしく、腰を上げた。
「鬼柳さん?」
透耶が鬼柳を見上げると、鬼柳はニヤリとして言った。
「透耶も弾いてみろよ」
いきなりそんな事を言った。
「はあ?」
何をいきなり……。
「あ、それいいねえ。俺も聴きたい」
完全に酔っているヘンリーは、手を上げて希望とやっている。
「ヘンリーさん、毎日聴いてたでしょ」
透耶が呆れてそう言うと、今度は鬼柳が希望と手を上げた。
「俺、一回しか聴いてない」
「当たり前だろ。一回しか弾いてないんだから」
透耶が言う。
それでも鬼柳が引く様子はない。
「聴きたい、頼んでくる」
と行きかけたので、透耶が慌てて止めた。
人前で弾くなんて、冗談じゃない。
「帰ったら、弾くから。いいんだってばあ。部屋に帰ればピアノあるし。そこで弾くから!」
透耶が慌ててそう言って腕を引っ張って止めていると、綾乃の元師事の女性が透耶の存在に気が付いた。
すぐに近付いてきて、透耶に声をかける。
「あの、すみませんが」
「うわ、はい」
びっくりして、振り返ると女性がニコニコとして立っていた。
「あ、どうも」
そう答えた透耶の腕が、油断で弛んだのを鬼柳は見逃さず、老人に向かって歩いていこうとしている。
「鬼柳さん!」
鬼柳の方を振り返って止めようとすると、女性が話し掛けている。
「ああ、やっぱり。今日はありがとうございました」
女性が透耶が昼間の少年であるのは間違いないと確認して、頭を下げてきた。
「いえ、それはいいんです。もう鬼柳さん動かないで」
女性を見たり鬼柳を怒ったりと一人忙しい透耶。
「あの子、どうだった?」
ヘンリーが少し気になったのか、そう聞いていた。
「はい、お陰で気分的には楽になったようです」
「それはよかった」
ヘンリーが笑って答えると、女性はすぐに透耶に視線を戻して言った。
「それで、貴方に言われた事を聞いたのですが……」
「はい?」
えっと、何か言ったっけ?
もう既に忘れている透耶。
「楽しくないって、あの子言うんです」
そう言われて、透耶は自分が何を言ったのか思い出した。
楽しい?って。
ピアノを弾く事が、今楽しいのかって聞いてくれと言ったのだ。ああ、あれか。と透耶が思っていると、隙を付いて鬼柳は老人に向かって歩いていった。
「東京に行ってから、楽しくなくなったって。それってどういう事なのでしょうか? 設備も整っているし、今まで以上にピアノに打ち込めて、有名な師事まで付いているのに。恵まれた状況なのに」
女性がそう言ったので、ヘンリーが溜息を吐いた。
透耶も困った顔をして頭を掻いた。
言わなくても解りそうなモノなのに……。
「俺、それって先生から見たら恵まれている様に見えるだけだと思うんです」
透耶は仕方ないなあーと思いながら、自分の意味不明な発言に対して答える。
「え?」
先生には意外な言葉で意味不明らしい。
「つまり、彼女にとっては、例え田舎の小さなピアノ教室で数時間しか弾く事がなくても、それが楽しくてピアノやってたんだと思います。競争したり、今までの応援が、弾けて当たり前とかになっちゃうと、楽しさなんて忘れちゃいますよ。弾けなかったものが弾けて、嬉しくなって報告したりしてた事が、弾けなきゃ駄 目になって、喜んだりしたら、まだ次があるとか言われて、どんどん追い込まれていくと、それがストレスになったりしますよ。何でピアノ弾いてるんだろうって、思ったりしてもおかしくないですよ」
透耶がそう言うと、ヘンリーは頷いた。
女性は少し俯いて口を詰むんだ。
「彼女、昔は笑ってピアノ弾いてたでしょ。今はどうですか?辛そうな顔してませんか?」
透耶の最後の言葉で女性ははっとして顔を上げた。
「まあ、俺がどうこういってもどうにもなりませんけど」
透耶はそう言いながら、ソファに座った。
女性は立ち尽くしたまま、何か考えているようだった。
だが、透耶がこれ以上言えることは何もない。
「透耶、次何飲む?」
ヘンリーが気を利かせたのだろう。そう言ってメニューを差し出した。
ああ、そっか、エドワードさんが何か調べてるだろうから、当然、ヘンリーさんも知っているだろうなあ。
透耶はそう思って、それを言わないヘンリーの優しさが嬉しくてしかたがなかった。
「そうですねえ、って、待った。鬼柳さん!」
女性と妙な話になってしまったので、透耶は鬼柳の事を忘れていた。慌てて振り返ると、鬼柳は老人と話していて、こっちを振り返った。
老人も振り返って、鬼柳が透耶を指差している。
はっはーん、交渉真剣だあ。弾くなとか言われたら、あの老人大丈夫だろうか?
などと心配になってきた。
ウエイターが来て、次に飲むカクテルを頼んでいると、少女の怒鳴り声が響いてきた。
「何ですって!」
その声にバーにいる人達が全員振り返ってそっちを見た。
言い合っているのは、最悪にもあの綾乃と鬼柳だった。
「だから、透耶が弾くって言ってんだ」
「あたしが弾かないからって、ド素人があのピアノに触るって言うの!」
「透耶は素人じゃない」
「あんな人、見た事もないわよ!」
「俺もあんた見た事ないな」
あの男は何をやってるんだ……。
透耶は頭を抱え込んだ。
信じられない、中学生の女の子相手に、わざと挑発している。
ヘンリーはゲラゲラ笑っている。
あ、エドワードさん。あははははは、気分は同じだねえ。
あの男は何をやってるんだ……と顔に書いてある。
綾乃は鬼柳を見上げて、まるで室内犬のようにキャンキャン喚いているが、鬼柳は見下ろしてニヤッとしている。綾乃では鬼柳には適わないが、向かっていく勇気は認めなければならない。鬼柳は、普通 なら怖くて話し掛けられない格好なのだ。
「当たり前でしょ! あたしはまだ国内のコンクールとかに出てるだけだもの!」
「コンクールに出なきゃ、人前でピアノ弾いちゃいかねえ決まりでもあるのかよ」
「耳が受け付けないわ!」
「だったら、一度聞いてみるんだな」
「何ですって!」
「聞いてもないのに、屁理屈述べて否定するしか知らない奴は、迷って音を狂わすだけさ」
「!」
鬼柳の言葉に綾乃は言葉を呑んだ。
透耶はもう知らないふりをしたかった。
寄りにも寄って、人のアキレス腱切る真似するかあ?って所だ。綾乃にとっては、それは知られたくない事のはずだ。
「自分が迷って弾けないくせに、人に当り散らしてりゃ、楽でいいよな」
「なんですってー!」
「図星だな」
鬼柳は勝ち誇ったように言い放った。綾乃はぐっと唇を噛んで鬼柳を睨み付けていた。そして、勢いで言葉が出た。
「……だったら弾いて見なさいよ! 聴いてやるから!」
「よーし、許可が出た」
鬼柳がニヤリとした。
つまり、鬼柳の勝ちである。あくまで鬼柳がやろうとしていたのは、ピアノを弾く許可を貰う事なのだ。それには綾乃も気が付いた。
「あ! あんた!」
「一度言った事はひっこめるなよ。さて、何の曲をやってもらおうか」
綾乃が言葉を撤回出来ないように言って、ふいっと綾乃の前から離れた。鬼柳は悠然と透耶の所に戻ってくる。
綾乃は慌てて後を追う。
「待ちなさい!」
二人で戻ってくる。当然、バー内では注目の的だ。
鬼柳は上機嫌で、透耶を見下げて言った。
「透耶、許可が出たぞ」
「それは、脅しって言わないか?」
透耶は速攻で言葉を返した。
相手の急所ついて承諾貰うのは、脅し以外の何物でもない。
「待ちなさい! あんたが弾くって言うのね!?」
鬼柳を追ってきた綾乃が、ピアノを弾くのは透耶だと解って睨み付けた。
うわ、怖いなあ……。
「いや、俺は言ってないけど」
透耶はニコッとして言った。
確かに一言も言ってない。
「どういうこと!」
綾乃は透耶に詰め寄る。
「俺に言われても、鬼柳さんが言い出した事だしねえ」
「じゃあ、弾かないって言うの」
「別に弾きたいわけじゃないから」
綾乃は少し意外そうな顔をした。本人は弾きたくないと言っているのに、この男は弾かせようとしている。
透耶のまるっきりやる気のない態度に、鬼柳が必死になって食い下がった。
「駄目だぞ、透耶、俺が聴きたいんだ」
そうは言っても、透耶が弾くのは、練習以外では鬼柳の為である。その本人が弾けというのだから弾かなきゃいけない。しかし、鬼柳には致命的な欠点がある。
「クラシックの曲、殆ど知らないくせに」
透耶が鋭くツッコむと、鬼柳は首を掻いている。
「あーそうだった。何やって貰おうか迷ってたんだ」
本当に曲目を全く知らないらしい顔で、真剣に悩んでいる。
「じゃあ、パガニーニ大練習曲」
それを見ていた綾乃が素早く曲名を言った。
鬼柳は驚いて綾乃を見下ろす。
「んあ?」
「それやってよ」
「ああ、その何だ。それでいいや」
綾乃が曲名を云ったので、鬼柳はどれでもいいやとばかりに頷いた。
透耶は呆れて鬼柳に言った。
「鬼柳さん、全然解らない曲でしょ。適当に頷かない」
あくまで弾く気はないという透耶の態度に綾乃は、どうしても弾かせてやりたくなってきた。
「あんたでしょ、先生に色々吹き込んだのは」
「別に吹き込んだ訳じゃないけど、気にしてたらごめんね。全部忘れていいから」
「責任とって弾きなさいよ!」
さらっと受け流しをする透耶に、綾乃は怒鳴り声を上げる。透耶は少し顔を顰めて言う。
「あまり、大きな声出さない方がいいよ」
その言葉に綾乃は完全にキレる。
「うるさい! さっさと弾きなさいよ! したくもない約束しちゃったんだから」
綾乃は一段と大きい声で透耶に命令をした。
綾乃は内心、 透耶の、のらりくらりな所が、鬼柳に似ていると綾乃は思った。
透耶はどうもこれは、弾かないと逃げても治まりがつかない気がしてきた。
鬼柳は聴きたいから弾けというし、綾乃はもう意地になって弾けと迫るし、周りはどう収拾がつくのか期待の眼差しで見守っている。
ここは透耶が折れるしかないようだ。
「うーん、で、そんなに長い曲、全部は無理だけど」
妥協してそう言うと、鬼柳は不思議な顔をした。
「長いのか?」
「全部弾いたら、25分くらいかかるんだけどさ。普通はその中の一つをやるもんなんだよ」
透耶が鬼柳にそう説明した。
「ああ、なるほど。で、お前は何がいいんだ」
鬼柳は納得して、綾乃を見下ろして聞いた。
「え? 何って。そうね、「ラ・カンパネラ」を」
綾乃は意地悪をしてその題名を上げた。透耶は少し驚いて言った。
「また偉いのにしたねえ。五分かあ。「アルペジオ」にしない?」
透耶は少し交渉してみる。だが、綾乃は承諾しない。
「いえ! 「ラ・カンパネラ」よ!」
綾乃はまったく譲る気がないようだった。
曲名を言われても訳が解らない鬼柳が透耶を見て言った。
「「アルペジオ」って短いのか?」
「うん、2分くらいかな? それなら指が持つかと思ったけど。カンパネラねえ」
透耶は呟きながら自分の指を見ていた。
「弾けないって言うの?」
「音は覚えてるけど、指動くかなあ? ちょっと試し弾きしてもいいかな?」
透耶は綾乃を見上げて言った。
その顔は弾けないと迷っている顔ではなかった。もう頭の切り替えがすんでいるかのように、ピアニストの顔をしている。
「どうぞ」
綾乃がそう言うと、透耶は頷きながらピアノに向かって歩いて行く。
透耶は、静かに考えていた。
ピアノの椅子に座って一回目を閉じた。
大丈夫、音は鳴っている。
目を開いてピアノの短い練習を始めた。
「その曲は難しいのか?」
まったく曲を知らない鬼柳は、綾乃に尋ねた。
綾乃は呆れた顔をして鬼柳を見上げた。
「大練習曲って言ったでしょ。難関中の難関。弾く事が出来てもそれが鐘に聞こえなきゃ、弾けたとは言わないわ」
「鐘だあ?」
ピアノの音が鐘に聴こえるという言葉に、鬼柳は信じられないという顔をしている。
「そう鐘の音に聴こえるから、「ラ・カンパネラ」って言う題名なのよ。ピアノ弾ける子なら、弾ける曲ではあるけど、弾く人によって違う印象があるの。弾くのも難しいけど、聴いてもらうのも難しいのよ」
「ふうん」
まったく説明のしがいのない相手である。
練習曲を弾いている透耶を見ながら、今度は綾乃が聞いた。
「で、あの人はどれだけピアノをやってるわけ?」
確かに練習曲とはいえ、弾ける人であるのは認めたようだった。
聞かれて鬼柳は思い出しながら言った。
「んー。高校まではやってたらしいけど、1年半前に辞めてる。俺が聴いたのは一週間前」
「え? 一年半!? 何それ! 弾き始めたのが一週間前!?」
綾乃は思わず叫んだ。
「ああ? おかしいか?」
鬼柳は大した事はないとばかりに、何が変なんだという顔をしている。
「おかしいどころじゃないわよ! あんた、あの人に恥かかせようとしてんの!?」
「何で?」
「ピアノで一年以上も練習してないって、どういう事か解ってるの! 三年、いえ五年も遅れてしまうのよ!」
「別にコンクール出るわけじゃあるまいし」
「そういう問題じゃないでしょ」
信じられないと、綾乃は頭を掻いた。ブランクがありすぎる。毎日でも練習していたら、ある程度は弾ける。だが、ピアニストとしては致命的だ。
「透耶は弾けないなら弾けないって言う。少しでも弾けると思っているから弾こうとしてる」
「弾こうと思ったって、弾けないわよ。今からでもいい、やめさせて」
綾乃はそう言っていた。
ここにはピアノを鑑賞する自分の祖父と、耳がいい矢口がいる。自分でさえ、認めて貰えないのに。
そう思うとやめさせたかった。
「あー? なんだー? おまえ、透耶が失敗する方がいいんじゃないのか?」
鬼柳は、訳が解らないという顔をして綾乃を見ていた。
「あ……」
そうだった。失敗したら笑ってやるんだった。
そしたら、この男の鼻を明かしてやれるんだった。
「おかしいの。まあ、失敗したって俺には解らんしな」
「……無責任」
何だか反論が反論になってきて、怪しくなってきた。
もう、何が起っても知らないと、綾乃は思った。
練習曲をほんの二分程弾いていた透耶が、その指を止めた。
周りは静まり返っていた。
あれだけ騒いだ結果、弾くピアノはどういうものなのか、という好奇心があったからだ。
「パガニーニ大練習曲、第三楽曲「ラ・カンパネラ」」
透耶が小さく言って、指が鍵盤に乗る。
指がいきなり速く動き始める。最初はよく解らなくても、段々と鐘の音に聴こえ始める。
普通の人なら、もっとテンポが落ちる曲ではあるが、透耶の指はブランクなんてない動きで、澄んだ音を出している。
この人がピアノをやめていて、最近弾き始めたばかりの人なのか!?
綾乃に、そんな疑問が浮かんだ。
これだけ弾ければ、コンクールだって総なめしているはずだ。
「すげー、鐘の音だ」
鬼柳が満足した声で呟いた。
これだけ綺麗で、澄んでいて、力強い鐘の音は聴いた事はなかった。上手いだけでは出せない部分があるのだと、綾乃には何となく解った。
約五分。鐘の音は続いた。
弾き終わった時、バーの中はすごく静かになっていた。
最初に拍手をしたのは、鬼柳だった。
沈黙が破られると、周りが拍手。スタンディングオベーション。普通、ここで弾き手がそれに答えるものだが、透耶は椅子に座ったままで、鍵盤を睨み付けている。
「透耶、凄かったぞ」
鬼柳がそう言って近付くと、透耶が呟いている。
「……駄目だ。第一楽章後半転んだ、二楽章、指が付いて来ない。音が鳴らない」
自分で駄目出しをしている。
「透耶、「アルペジオ」」
「あ、うん」
鬼柳の声に透耶は生返事して、透耶は「アルペジオ」を弾き始める。鬼柳はただ単に透耶が言っていた題名だったので、一度は聴きたいと思ってリクエストをしたのだが、周りからすればアンコールだ。
透耶もそんなつもりはない。ただ鬼柳のリクエストに答えただけである。
「アルペジオ」も完璧だった。
「うん、これはまだ大丈夫だ」
弾き終わって透耶は納得したように立ち上がった。
「透耶、凄いなあ。あれ、鐘の音に聴こえたぞ」
鬼柳が誉めるのだが、透耶は鬼柳を見上げて言った。
「あのね。鬼柳さん練習もしてない曲、いきなり弾こうってのはね、無理なんだけど。酷い音だったよ」
もう最悪だと続けるが、鬼柳はそんな技術的な事はどうでもよいと思っている。自分が感動出来ればそれだけで透耶のピアノには意味があるという事である。
「そうか? 全然良かったぞ」
こういうところは、鬼柳は素直なもんだ。
しかし、ピアニストとしては透耶は納得出来ない。
「うー。駄目、全然駄目。やっぱり指が死んでる」
「透耶は自分が納得する音なんて、一生無理そうだなあ。音に対して理想が高過ぎ」
「どうせ高望みですよ。ふん」
透耶はさっさとピアノから離れる。席に戻るとヘンリーが拍手をしながら出迎えてくれた。
「透耶ー、すごいねえ」
「どうもです」
透耶が返事をすると、エドワードが会談をしていた外国人と共にやってきた。
「相変わらず、すごい音を出すね」
エドワードがそう言って、外国人に透耶を紹介している。
外国人は何か興奮したように、透耶の手を取って早口の英語で何か言っている。
「え、エドワードさーん」
英語をまだ覚え切っていない透耶は、さすがに早口は聞き取れない。
「彼は、さっきの演奏を聴いて感動した、と言っている」
エドワードが通訳をする。
『Eh. I didn’t do well. I am sorry.(あ、え。あの、あまり良くない出来だったので、すみません)』
透耶はまだ覚えたてのたどたどしい英語で言った。
しどろもどろで、英会話をすると何とか外国人には通じているようだった。透耶は名乗ってない事を思い出して自己紹介をした。向こうも笑顔で自己紹介をする。
外国人は、ジョージ・ハーグリーヴス。と言った。
透耶は親し気にジョージさんと呼んだ。
一瞬、ジョージもエドワードも表情が固くなった。しかし、透耶は気付かずに、宜しくです、などと言っている。
すぐにジョージは微笑んで話を続けた。ピアノを習っているのか、沖縄に住んでいるのか、とにかく身の周りの話などを聞き合いしていた。
ジョージは、透耶が何か言う度に大袈裟に驚いて、肩を何度も叩く。
すごーく、痛いんですけどー。肩もだけど視線も……。
視線は、鬼柳のもの。
俺のせいじゃないよな…。
ゆっくりな英語で何とか会話が出来、難しい単語はエドワードに尋ねて会話はなんとか終わった。
やっとジョージが去って行って、透耶はグッタリとした。
「ジョージさん、パワフルだ……」
透耶が椅子に座ってぐったりしていると、鬼柳が隣に座って透耶の頭を引き寄せた。ちょうど、腕に凭れ掛かるような感じになったが、透耶はそのまま頭を預けた。
「透耶、英語解るようになったのか?」
鬼柳が不思議そうな声でそう言った。
「ちょっとだけ、ゆっくりなら何とか解るって感じ。ヘンリーさんに習ってたんだ。高校までの英会話なら出来るし」
「何だ? 俺が教えるのに」
「教わる前に、鬼柳さんが酷い事したでしょ」
「う……」
「それに鬼柳さんに教わると、スラング多そう……」
「あ、まあ……」
否定しない所がやっぱりそうなのだ。
ジョージを送ったエドワードが戻ってきた。
「まったく、透耶はすごいな」
一緒のテーブルに座ったエドワードがいきなりそう言った。
「はい?」
「あのハーグリーヴス氏をファーストネームで呼んで、嫌われなかったから」
エドワードがそんな事を言ったので、更に透耶は訳が解らなくなる。
透耶はキョトンをして言った。
「名前なんて呼ばれる為にあるんじゃないですか? せっかく親がつけてくれたのに、呼ばれないなんて悲しいじゃないですか。あーでも、親しい人にしか呼ばれたくないのかなあ? 俺、初対面 だし、きっと見逃してくれたんですよ」
などと言うものだから、エドワードも笑うしかない。
「そういう所がすごいんだ」
エドワードが苦笑して言ったが、透耶はまたキョトンとしてしまう。
こういう無垢な所は、ジョージの様な人を信用しない人物には新鮮だったのだろう。そして、透耶のピアノの音も影響していた。ジョージはそういう意味で人を誉める事はあっても、親しくしようという気は全くない。
それが、「彼は非常に愛すべき存在だね。君が心を砕いているのも解る気がする」などと言い残して行った。
そういう事を言うジョージを初めて見た。
確実にジョージが透耶を気に入ったという証拠だ。しかも興味を持ち始めている。
透耶には、特殊な人間から好かれる素質でもあるのだろうか?
エドワードは透耶の不思議な魅力に、自分も引き込まれている事を自覚しなくてはならないと思った。
「でも、ジョージさんって面白いねえ。企業家って、もっと厳しい人なんだと思ってた」
透耶がジョージの感想をそう述べたものだから、エドワードとヘンリーが顔を見合わせた。
あれが? そう見えたのか? と思わず目で会話をしてしまった。
ジョージのあの威圧感ある空気を、まったく感じないのは、鈍感なのか、それとも凄い事なのか。
企業家なら、誰もがジョージの存在を怖れている。
容赦のない経営方針で、私生活すら厳しい人間に認められるのは、相当難しい事だ。
透耶はそのハードルの第一段階を意図も簡単にクリアしてしまったのだ。
しかも、透耶の方はジョージをまったく怖れてないどころか、面 白いおじさんという認識をしている。
しかし、鬼柳はそうではなかった。
「ああ? あのクソじじい。ジロジロ透耶を観察してやがった。気に入らない」
「はあ? 何言ってんの」
「気に入らないんだ。どうも好きにはなれん」
「変なのー」
透耶は凄く不思議そうな顔をしたが、鬼柳の方は薄々気が付いている。
自己紹介をした時、何か嫌な感じがした。人を見下すのではなく、品定めをする目。鬼柳は一瞬で気分が悪くなった。
自分をそういう目で見たという事よりも、透耶を品定めした事が気に入らなかった。
まあ、会う事ももうないから気にしないが。そう思い、その話を打ち切った。
こういう風に鬼柳が感じるのは当たり前だった。ジョージはそういう目で透耶も鬼柳も見ていたのだから。
「透耶、まだ飲むか?」
「ん、もういい。何か疲れた」
「じゃ、部屋帰って寝よう」
鬼柳がそう言った時、エドワードが抗議の声を上げた。
「待て、恭。今夜は飲み明かすと約束したぞ」
「んああ? 約束なんかしてねえぞ」
何が何でも透耶と一緒にいる事が優先である鬼柳。
不満の声で言い返していた。
「いいよ、鬼柳さん。エドワードさんにはお世話になってるし、付き合ってあげてよ。俺、先に部屋帰ってるから」
透耶がそう言うと、鬼柳は物凄く嫌な顔をした。
「はあ?」
透耶は首を傾げて少し考えた。
エドワードの希望は叶えてあげたいが、鬼柳が納得する方法で言わなければ意味がない。
「んー。俺が世話になったから、その、鬼柳さん、人身御供」
「ヒトミゴクウ?」
おーっと、カルチャーショック。
透耶は言い方を変えて言った。
「うーん、俺の変わりにエドワードさんと飲んでって事」
鬼柳が意味が解らないのをいいことに、やんわりと言い包める透耶。
正直、このまま一緒に帰ったら、絶対すぐには寝かせて貰えないのは明らかだ。
エドワードをチラリと見ると、ニヤリと笑われた。
「じゃ、透耶を送ってきたらいい。ちゃんと戻ってこいよ」
透耶に助けを求められて、エドワードがそう言うと、鬼柳は渋々頷いた。
「まあ、それならいいか」
鬼柳は世話になっているつもりはないが、透耶にその気があるのなら、自分が身替わりに飲んでも仕方がないと思っていた。もちろん、透耶を一人で部屋に帰すなどしたくないので、渋っていただけだった。
透耶が鬼柳に部屋まで送ってもらう間、無事だったかと言われれば、無事ではなかった。
深夜のエレベーターは、乗る人もいなくて、鬼柳には興奮する瞬間でもあった。
何と言っても二人きり。
「あ……もう、駄目だって……」
乗った瞬間にキスをされ、エレベーターの浮遊感と鬼柳のテクニックによって透耶は酔わされる。
深く口付けられて、透耶は鬼柳にしがみつく。そうしないと立ってられない。
「ん……」
やっと唇が離れたら、鬼柳は顔中にキスをする。まるで恒例の行事みたいに繰り返す。
少し酔っているのも手伝って、行動がエスカレートする。
「くすぐったいってば……」
さすがにエレベーター内は恥ずかしいと透耶が抵抗するが、鬼柳は透耶を支えて、今すぐにでも押し倒しそうなくらい興奮している。
「やっぱ、一回やりたい」
真剣な声で耳元でささやく。
やはりな一言。
「もう、やったでしょ。俺、やだよ。眠い」
ちょうどエレベーターが最上階について、透耶は鬼柳の腕を擦り抜けて先にエレベーターを降りた。
「寝たくせに」
「あれは寝たって言わない」
「風呂入ったのも覚えてないくらいだったぞ」
「あ、風呂入ってるんだ。じゃあ、そのまま寝よう」
透耶はそう言いながら、部屋のドアの鍵を開けて中に入った。そのまま奥の部屋に行こうとして、ふと止り鬼柳の方を振り返った。
「あ、鬼柳さん。これ鍵。ないと入れないでしょ」
そう言って鍵を差し出すが、鬼柳はふてくれている。
「どうしたの?」
透耶が聞くが、鬼柳はちらりと見てまたそっぽを向く。
ははーん、俺がマトモに相手にしないから、拗ねてるな。
「で、どうすればいいわけ?」
差し出した手を引っ込めて、透耶は鬼柳に聞いた。
まあ、最初に出る言葉は決まっているが。
鬼柳はふっと振り返って言った。
「やりたい」
「却下」
やっぱり……。
解答が解っているだけに透耶は即答出来た。
「何で?」
「エドワードさんが待ってるでしょ」
「あんな奴、ほっとけばいい」
「鬼柳さん、そんな勝手は許さないからね」
「……一緒にいたいのに」
まるで捨てられた犬のような表情をする鬼柳。
一瞬可哀想になって、素直に頷いて相手をしてやればいいのかもしれないが、透耶は先約がある事を思い出して、心を鬼にして言った。
「約束破る人って、俺、一番嫌い」
「……透耶ー」
「俺は眠い。鬼柳さんはエドワードさんと飲む。いいね、行かないと一緒に寝てあげないからね」
まるで、夜中にトイレにいけない子に、寝る前に飲み物を飲んで、トイレいけなくなっても一緒に行かないからね、と言っているのと変わらない脅し方である。
しかし、一緒に寝ない、これは鬼柳にとっては重要な事らしくすぐに頷いた。
「……解った。行ってくる」
渋々と出掛けて行く鬼柳。
「いってらっしゃい」
透耶は鍵を差し出して、鬼柳はそれを受け取って出て行った。
透耶はふうっと溜息を吐いて寝室に戻り、パジャマに着替えて布団に入った。
すぐに睡魔が襲ってきて、透耶はそのまま眠ってしまう。
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