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透耶が次目を覚ました時、またもやベッドだった。
起きた瞬間に溜息が出た。
「起きたのか?」
声がした方を見ると、ベッドの脇で、ヘンリーが何かしていた。
「……ヘンリーさん……何かしたでしょ」
透耶はふてくされて布団から頭だけ出して睨み付けた。
ヘンリーは、少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「案外、鋭いんだな」
「何度も仕込まれたら、いい加減解ります」
「何度も?」
「それはいいんですけど、何をしたんですか?」
「治療だよ。クスリを使ったのは悪かった。大人しく傷を見せてくれるとは思えなかったんで、あえて使わせて貰った。その方が恥ずかしくなくていいだろうと思ったんだ」
「恥ずかしい?」
「君がセックスした痕跡の治療だよ。大丈夫、思ったよりも傷はついてなかったし、殆ど塞がっていた。だけど、行為は一週間は禁止だよ。彼にもそう言っておくように」
ヘンリーは平然として治療した結果を伝えてきた。
透耶は赤面して、目を伏せた。
な、な、なんの治療だあ!!
セックスした痕跡の治療、といえば、もう孔しかないわけだ。
「俺はそういう専門だから、気にする事はない」
ヘンリーが医者であるのは間違いないだろうが、それでもこういう行為をした人間の、しかも孔を治療されたと思うと透耶は恥ずかしくなる。
最近はそういう人も多くて、公にもなっているだろうが、透耶は元からそういう人ではないから、抵抗がある。
ん、待てよ。こういう治療をする専門ということは、偶然彼がここにいるということは、おかしくないか?
「あの、ヘンリーさん。もしかしてエドワードさんが呼んだんですか?」
透耶がそう聞くと、ヘンリーは懐から煙草を取り出して、吸っていいか?と聞き、透耶が頷くと一服して答えた。
「……ああ。元々こっちに来ていたんで、呼ばれたんだ。エドの頼みなら断われないんでね」
やっぱり。
まあ、普通の医者に見せるくらいなら、専門で口の固い相手に頼む方が安心できるのだろう。
「ありがとうございます」
透耶は感謝を込めて笑顔でお礼を言った。
恥ずかしいが、そういう専門ならヘンリーは気にもならないだろう。
ヘンリーは透耶が笑った顔をじっと見ていた。
煙草の灰が落ちそうになっていたので、透耶があっと声を上げた。
「ヘンリーさん、灰が落ちる」
「あ、ああ」
ヘンリーは慌てて、灰皿に煙草を押し付けて消した。
「なあ、聞いてもいいか?」
「何です?」
「その傷は、彼にやられたのか? 喧嘩したとか言っていたが」
「ええ、まあ。些細な事なんだろうと思うんですけど」
「些細な事で、そんな目に合されるのか? 彼はそんなに暴力を振るう相手なのか?」
「いえ、そうではないんです。いまいち理由が朧げなんですけど。暴力を……こういう事をされたのは初めてです。でも鬼柳さんは……彼は今凄く後悔をしていると思います」
「後悔している? 何故解るんだ?」
「俺を、連れ戻しに来ないからです。いえ、エドワードさんに俺を任せているから、と言った方がいいかもしれませんね」
「それだけ思われていると、確信があるんだ」
「ええ、それはもう。拉致して、監禁して、監視するくらいですから」
「? どういう事だ」
ヘンリーにはさっぱり意味が解らなかった。
透耶は笑いながら、経緯を簡単に説明した。
笑って話せる内容ではないだろうが、透耶には可笑しくなってしまう事柄だった。
その説明を聞いたヘンリーが、ますます訳が解らないという顔をした。
「その、君は、そうした行為を全て許していると?」
「鬼柳さんには言わないけど、許してますね。我侭だし、融通は利かないし、無茶は言うし、頭に来る事もあるんですけど、肝心な所は優しいんです。俺、甘やかされてるって思うんですよ。鬼柳さんは、凄く強い、精神面 ですけど。でも内心、深い所は弱い。俺の一挙一動に反応して、不安を感じてる。そういうのが解ってきて、でも俺がいると笑ってくれる。ずっと笑ってるのを見ていたいって思ったんです」
透耶は笑顔でそう言った。
本心からそう言っているのは、すぐに解る。思いが溢れていて、透耶が幸せなのは誰が見ても明らかだった。
「今回の事も許すと?」
ヘンリーがそう言うと、透耶が物騒な微笑みを浮かべて言い放った。
「誰がそれを許すっていいました? 俺が怒らなければ誰が怒るんですか? 俺、無茶苦茶怒ってますよ。反省していようがなかろうが、俺にはこの行為を怒る権利があるんですよ」
笑顔で怒る。
感情をむき出しで怒る人、無表情で怒る人。様々いるが、透耶は本気で怒っている時は、怒鳴ったりしない。静かにしかも微笑みながら怒る人なのだ。
「殴ってやりたいんですけど、ウェイトの差がありすぎるんで、一発叩いて、それからどうしようか考えてます」
可愛い顔でにこりと微笑んで言う台詞ではない。
ヘンリーはそれをじっと聞いてたが、吹き出してしまった。
「いいねえ、その考え方。君は見た目程弱くはない」
「俺が強気でいられるのは、鬼柳さんが俺を好きだと言ってくれている間だけですよ」
「好かれる事に慣れている様に見えるけど」
ヘンリーがそう言うと、透耶は少し目を伏せた。
まずい事でも言ったのかと、ヘンリーは思ったが、透耶は少し考えるようにして起き上がった。
「好きだと言葉に出すのは簡単です。友達を好きだって言えるのに、鬼柳さんを好きだと言えないんです」
「言えない?」
だって、話を聞いている限りでは、そう思っている風にしか聞こえない。それなのに言えないとは? ヘンリーはそう言いたかった。
だけど、言えなかった。
透耶の手が震えていた。
聞くのも、言うのも出来る。しかし、本当に自分を必要とし、欲している相手には、軽々しくて言えない。
その言葉は、意味あいが違って、重くなってしまう。
答えない自分。言えない自分。
憎らしくて、情けない。
与えられた言葉を嬉しく思う、力強く感じる、勇気にもなる。
なのに、自分からはやはり言えない。
何か、身体が鎖で縛られるような感覚に陥り、口はその言葉を封印してしまう。あの呪いがある限り。
「本当に大切だと思う人に程、俺は怖くて言えないです」
ヘンリーには、透耶が言う意味は理解出来なかった。
夕食を取った後、エドワードと透耶は話をした。
ヘンリーが同席する事を透耶は承諾した。
今更、知られては困る事はなかった。
「恭には、暫く反省して貰う事にした。あいつが君を本当に殺そうと思ったのは事実で、恭は認めている。反論しなかったのがいい証拠だ。何故そうなったのかは、聞かない。それは恭と君の問題だ。どうするかは君が考えるんだ。ここへ残るも、屋敷へ帰るも、東京へ帰るのも君の自由だ」
エドワードは簡潔にそう言った。
いつでも物事をはっきりと述べるのが、エドワードの性格なのだろう。
しかし、こういう問題だ。はぐらかしても仕方がない。
透耶は黙ってそれを聞いていた。
「傷が治るまでは、私が預かる事になっているから、気にしなくてもいい。東京へ帰るなら、私と一緒に帰る手配をしよう。今すぐに決めろとは言わない。考えてくれて構わない」
エドワードは、鬼柳のした事の後始末をしようとしているのだ。
この人は、鬼柳の絶対的味方なのだ。
そう思うと、透耶は嬉しかった。
透耶はエドワードを見つめて微笑んだ。
「ありがとうございます。色々とすみません。でも、俺、東京へは帰れません。まだやるべき事があるんです」
透耶のはっきりとした言葉に、ヘンリーが吹き出した。
驚いたのはエドワードである。
「ヘンリー?」
「いや、透耶はね。怒っているんだそうだ。怒って一発殴って、それからどうしようかって、もう考えているんだ」
ヘンリーがそう言ったから、エドワードは驚いて透耶を見た。
透耶は苦笑している。
「恭と一緒にいる事を選んだのか」
エドワードはそう思った。
だが、透耶は少し困った顔をして言った。
「前の答えが出ないんです。やっぱり、こういう事があったからって逃げても駄 目かなあって。俺、逃げてばかりだったから、少しでも鬼柳さんと向き合いたい。まだ俺しか話してないし、鬼柳さんの話を聞いてないんです。あの話もしなきゃいけないしですし」
「とりあえず、向き合う事にしたのか」
「はい。鬼柳さんは、俺が質問したら何でも答えるって言ったけど、聞かれなきゃ話さないってのは、何だかムカつきます」
いきなり観点が違う事を言う透耶。
「ムカつくのか……」
呆れたエドワードとヘンリーがハモる。
意外に独占欲がある透耶。
独占されているのに、独占したい。
そうした独占欲があまりない透耶には、珍しいくらいの欲だった。
「とりあえず、先の事はあまり考えない事にしました。俺のやるべき事は、まず鬼柳さんを殴って反省させて、話を聞く事にしました」
透耶がそう言った事で、エドワードは納得した。
数日経って、透耶はやっと身体が自由に動かせるようになった。まだヘンリーの許可がない為、外へ出る事は出来ないが、部屋中を探検しまくった。
初めてのロイヤルスイート。しかも極上品とくれば、物書き魂が疼く。取材だ!とばかりに、エドワードの部屋の方も見せてもらう。
奥の部屋の取材を終えた透耶は、部屋に戻る時、エドワード側の部屋にピアノがあるのを発見した。
見事なピアノ。
近付いて見ると、一般的なグランドピアノ。
屋敷にあるのよりは質が大分落ちる。
じっと眺めていると、ヘンリーがやってきた。
「ピアノがどうかした?」
「あ、これ。エドワードさんが弾くんですかね?」
「ああ、エドは嗜み程度に弾くし、暇がある時はやってる。最近は事業が忙しいから弾いてないらしいが」
「へえ、だから、屋敷にあるんだ。スタインウェイ級だったから、インテリアなわけないと思ってたんですけど」
「スタインウェイなんて良く知ってるね。もしかして弾ける?」
「まあ、ちょっとやってた程度ですけど。うーん、久しぶりに触っちゃったから、練習したいなあー」
透耶はピアノに齧り付いている。
うーんと散々悩んだ挙げ句、エドワードがいる部屋へ入って行った。
「エドワードさん。あのピアノ、ちょっと試していいですか?」
ソファで仕事らしき書類と睨めっこしていたエドワードが顔を上げた。
「弾けるのか?」
それがピアノを弾けるのか、ではなく、弾く事が出来るようになったのか、という意味である事には透耶は気が付いてない。
「少しだけですけど。練習したいんで、邪魔なら止めます」
「いや、構わない。ああ、そこのドアは開けておいてくれ」
了解を得てドアを閉めようとしていた透耶をエドワードが止めた。
「え、でもうるさいですよ」
「構わない。どれだけの腕前か聞きたいんだ」
「へたくそですよ。うるさかったら言って下さい。閉めますので」
透耶はそう言って出て行った。
エドワードはそれを確認してから、ドアまで近付いた。
透耶は許可を貰った事に喜んで、ヘンリーが見つめる中、蓋を開けて、椅子に座り、目を閉じて深呼吸をした。
ゆっくりと目を開いて、鍵盤に指を乗せる。
まずは指の運動とばかりに、鍵盤に指を走らせる。
最初は音を確認するようにゆっくりと、そしてテンポが速くなっていく。
正直、エドワードは驚いていた。
透耶はブランクが一年半もあるのだ。
長年積み重ねてきたものがあるから、指が覚えている事もあるだろう。しかし、透耶の音は、玄人が聞いても澄んでいて美しい。
まるっきりブランクがないように聞こえる。
一頻り指の練習を終えてピアノが止まると、ヘンリーが透耶に言った。
「リクエストをしてもいいかな?」
すると透耶は首を横に振った。
「すみません。それはちょっと出来ないです」
と意外な返答をした。
「何故だい?」
「ピアノの曲のリクエストは、鬼柳さんからしか受けない事にしてるんです」
信じられない言葉だった。
透耶がピアノを辞めた理由は、エドワードが調査した時に解っていた。
その理由で、透耶はピアノを捨てた。
それをまた再開する切っ掛けが、鬼柳なのだ。
鬼柳の為にしか弾かない。
そんな言葉、最高の言葉じゃないか。
「聴くのはいいけど、リクエストは駄目なんだ」
「すみません」
「いいよ。君が決めたルールだ。私は大人しく練習を聴いている事にしよう」
ヘンリーがそう言ってソファに座った。
透耶は申し訳なさそうにしていたが、すぐにピアノに向き直った。
この時の集中力は、あの別荘の書斎で見た、透耶くらいだった。
「では、カノン」
透耶は誰に言うでもなく呟いてピアノを弾き始めた。
バッヘルベルの「カノン」。
美しい曲ではあるが、これは桁違いだ。
これがブランクがある人間が弾いて出せる音なのか?
エドワードは自分の耳を疑った。
透耶がかなりのピアニストである事は知っていた。音源も映像も残っている。どれも確認した。その腕は評価が高く、留学の話も出ていた。
しかし、透耶は日本で弾く事を望んだという。
母親は世界的にも有名なジャズピアニスト。祖父は神童と言われたクラシックピアニストで作曲家、そして音楽学校の理事にして地元の資産家。音楽界において、榎木津の家系を知らないものはいない。その孫という事もあり、注目されていたが、透耶はそれは別 だと考えていたらしい。
競争して弾く事を嫌い、言うがままにピアノを弾き続けていたが、頂点を極めようとは微塵も思っていなかった。
高校までは日本で。それが親の意向でもあった。
いや、そこまでが透耶の自由になる時間だったのだろう。
孤高のピアニスト。そう呼ばれていた事を透耶は知らないだろう。
恐ろしい程の正確さ、タッチ。深みがある音。誰の物でもない新しい音。そうしたモノが、俗世とはかけ離れている存在として、ピアニストの中では有名だった。
認められているのに、自分の音を認めない。
妥協を許さない、独自の世界を持っている。
海外の有名ピアニストが目を付けていたが、いきなり音楽界から忽然と消えた。
祖父と両親の死と共に消えてしまった。
透耶は指が動かなくなってしまったので、辞めます。と言ったらしい。
学生のピアニストの間では有名な話で、噂では実家の事業を継いだと言われている。
実際は、声楽の同級生に迫られ、目の前で自殺された。そして、動かなくなったと言われている指は、その事件の前に、その同級生に手首を切られてからの事であると。
一年も経てば、そんな話しは昔話になる。
「ハバネラ」
カルメンの「ハバネラ」。
情熱的な曲。それさえも透耶は弾きこなす。
深く、切れ味あって艶やか。
これも音が更に深くなっている。
リクエストに答えられない代わりに、過去コンクールで弾いた曲を弾いている。いや、確認している。今、どう弾けるのか。これで練習だと言うのだから、本気で弾いた時、それを考えると恐ろしい。
「軍隊ポロネーズ」
ショパンの「ポロネーズ」。
これまたコンクールの曲だ。
それが終わると、曲調がジャズに変わる。
ジャズ? 透耶がジャズを弾けるのか?
完全なクラシック派だとエドワードは聞いている。母親は確かにジャズを専門にやっていたが、透耶がやっている、もしくは弾いているという話は一度として聞いた事はない。
いきなり、透耶はジャズの曲を始めた。
さっきまでの緻密、繊細さは何処へ、そういう弾き方だ。
たぶん、こっちの方が身体に染み付いているのだろう。ジャズは弾き方なんてない。好きなようにアレンジして、好きなどんな曲でもやってしまう。
透耶が選んだ曲は。
「楽しみを希う心」-THE HEART ASKS PLEASURE FIRST-。マイケル・ナイマン。映画「ピアノレッスン」のイメージで、冬と海のイメージがある、と言われる曲。
透耶の母親が好んで弾いていた曲でもあった。
光琉だけが知っている。透耶は家ではクラシックはまったく弾かない。ジャズばかりを弾いていた。だがそれは趣味の範囲であって、誰かに聴いてもらうモノではない、と透耶は思っていた。光琉に聴かせる為だけに弾いていた。
それを解禁したのは、鬼柳のお陰だろう。
全て弾き終わった時、透耶はぐったりしていた。
「はあ、久しぶりに全力で弾いたー。あー疲れた」
ピアノの椅子に凭れ掛かって、深呼吸をしていた。
「ブラボー!」
ヘンリーが拍手をしていた。
エドワードは拍手出来なかった。
これがブランクのある人間が弾いて出せる音なのか?
疑問はやはりそこだった。
「上手いねえ。最後のジャズは良かった。ジャズもやってたのかい?」
「母がやってたんで、興味があって独学でやってたんです。弟が好きで、弾けって言うから。母はジャズの前にクラシックを弾きこなす事を勧めてたので、これ弟以外の前で弾いたのは初めてです」
「そっち方面でやっていけるぞ」
「いえ、これはやっぱり趣味でいいです。ジャズやってる人が聞いたら大笑いですよ」
「そうかあ? そうは思わないけどな」
「それに俺、物書きですから」
「そっちの方がいいんだ」
「物語を作るって、全部自分の考え出した物でしょ。俺はそういう方が好きです。それに今、一応プロですから」
透耶はそう言いながら、ピアノを片付け始めた。
エドワードは硬直していた。
あれが独学だって?
はっきりとクールジャスと解るナンバーだった。
エドワードは頭を抱えたくなった。
透耶には、人を惹き付ける力がある。
透耶は自分の才能を知らない。知らなすぎる。
ピアノもそう、本の事もそう、その容姿も。持っているもの全てに才能がある。
純粋さや無垢な所。全てにおいて、そうした魅力が出せるのだ。弟の光琉の人気も似た所があるのだろう。
あの呪われた一族と言われる特徴であってもだ。
あの鬼柳でさえ、惹き付けられたくらいだ。
「それは、欲しくて堪らないだろう」
エドワードは呟いていた。
「エドワードさん、終わりました。あの、うるさかったですか?」
振り返ると透耶が立っていた。
エドワードがうるさくて扉を閉めにきたと思ったのだ。
「いや、見事だった」
素直な感想だった。賛辞なんて思い付かなかった。
一言で言えと言われれば、これしかなかった。
「えへ、ありがとうございます。ちょっとミスっちゃったけど」
透耶は笑いながら言った。
「あれでミスった?」
何処が!?と聞きたいくらいだ。
「ジャズの方。即興アレンジで誤摩化しました。良く聞けば無いフレーズ弾きまくってます。さすがに忘れてますねえ」
透耶は真剣に唸っていた。
「クラシックは完璧?」
「あれは楽譜が完全に頭にあるんで大丈夫なんですけど。ジャズの方は耳コピーなんで、結構怪しいです」
さらっと凄い事を言って退ける透耶。
暗譜が得意で、一度見れば覚え、一度弾きこなせば、それ以降楽譜要らずとは聞いていたが、辞めた今でも覚えているとは凄い記憶力だ。
「でもやっぱり練習とはいえ、それだけでも指が思い通りには動きません。弾くイメージはあるんですけど、ブランクあると酷いですね。ボロボロだ。あ、明日も練習していいですか?」
エドワードはクラクラしてきた。
あれで?あれでか!?
あれが練習で、しかもボロボロで酷い!?
「ああ、構わないよ。好きな時に弾きたまえ」
そういうのがやっとだったエドワード。
透耶は礼を言って部屋を出て行った。
それと入れ違いにヘンリーが酒を持って入ってきた。
「エドワード、あの子、何者なわけ?」
それを聞きたいと思ったのはエドワードの方だった。
「じゃ、何? 透耶はあれでブランク一年半なわけ?」
ヘンリーはエドワードが調べた調書を見ながら叫んだ。
エドワードとヘンリーはナイトキャップを洒落込んでいた。
「そう。信じられない事に、週に一度は弾いている私より上手い訳だ」
「ひえー、詐欺だ。あれでピアニストじゃなくて小説家? 詐欺だ」
ヘンリーは調書をテーブルに投げた。
本当にやってられないという態度だ。
「元々好きで弾いてた訳じゃないらしい。親がそうだからそうなっただけとよく言ってたそうだ」
「今日は楽しそうだったぞ」
ヘンリーは意外そうな顔をした。調書には、透耶がピアノを辞めた本当の理由の部分は省いてある。
これは知らなくてもいいだろうとエドワードが判断したからだ。
「心境の変化。恭のお陰だな」
「ああ、例の彼氏ね。影響力あるんだな。辞めたのをやらせてる」
「いや、恭は嫌がっているのを無理矢理やらしたりはしない。透耶が自分で弾こうと思ったんだろう。恭は透耶がピアノを弾くか、その話をするまで、やっていた事すら知らなかったはずだ」
それしか考えられない。辞めたものに固執する透耶ではない。何があったのかは知らないが、鬼柳に聴かせたいと思ったのだろうとエドワードは予想していた。
「それがリクエスト拒否ルールなわけだ」
「勿体無い。あれだけ弾ければ、私ならピアノをやらせるのに」
バックアップが必要なら、いくらでもやってやるつもりのエドワード。ヘンリーはクスクス笑う。
「それをしないのが彼氏」
「そういう事。透耶が小説家でいたいと言えば、恭は強制しない。ピアノも聞きたいと言えば透耶は弾くだろうが、名前を出してまで弾かせる事はさせないだろう」
鬼柳もそうした名声に興味は無い。透耶が作家なのは、出会う前からだったので、認めてはいるが、必要以上に人前に出ていく職はさせないだろう。
「で、小説家としての透耶はどういう評価なわけ?」
「何故私にきく」
エドワードは憮然とする。
ヘンリーはニヤリとして言った。
「全部調べているくせに。あの彼氏は古い知り合いなんだろう? お前は何でも把握したがるしな。こんな調書まで持ってるんだから当然だろう」
そう言われると、反論出来ないエドワード。素直に調査報告をする。
「売れ行きは上々。新人にしては売れていて、今はベストセラーランキング7位 。弟が宣伝したから、その反響が今は大きいらしい」
「あー、榎木津光琉ね。出版社らしい宣伝方法だな。まあ、本自体が面白く無ければ、口コミで広まってすぐに売れなくなるもんだ。そういうのはシビアだぜ」
ヘンリーがそう言ったが、エドワードは酒を煽って呟いた。
「それが、面白いから困る」
「読んだのか?」
驚いてしまうヘンリー。そういう日本の小説などエドワードが読まない事を良く知っているからだ。
「そりゃ、友人の本が出ると言われれば、一応は読んで感想を言うべきだろう」
「律儀なことだ。で、どう面白いわけ?」
「推理小説なのだが、堅苦しく無い、読みやすい文章。だが謎もいい具合だったし、犯人も意外だった。私は途中で騙された。アメリカで出せば、学生ウケするだろうな」
「ベタ誉めだな」
しかし、エドワードが誉めるには訳がある。
「すぐ商売に結びつけてしまう。向こうで売れれば、テレビドラマ化。なんて一瞬でも考えた」
「お前に見込まれたら、骨まで食われる。可哀相に」
対して可哀相とは思って無い口調。
「ピアノを聴いた時は、恭を一瞬、葬ってでもとか思った」
「おーそろしいー。なんて、お前の事だ、両方欲しいと思ったんじゃないのか? あの彼氏の手腕を欲しがって、穴を追い回しているって有名だぜ」
ニヤリとして言うヘンリーに、エドワードは眉を顰めた。
「下品な。手腕は欲しいさ。恭もそうだが、透耶も自分の価値を全然理解して無い。才能の持ち腐れだ。元々やっていた事にさえ才能があるのに、今やっている事でも才能を発揮している」
「似た者同士かよ」
呆れてしまうヘンリー。
やなカップルである。
このやなカップルは現在喧嘩中。
さてさてどう収拾するのか、ヘンリーは興味が沸いてきた。
「でさ、この項目は何な訳?」
気になる項目を調査書から見付けたヘンリーが尋ねた。
「ああ、これは透耶の母親の実家の話だ。信憑性があるのかどうか解らないが、透耶はこれにこだわっている」
「呪いねえ……京都らしいって言えばらしい。でもさ、この統計はありえないぞ?」
「そこだ。そこなんだ。これこそが呪いの正体なわけだ」
「残っているのは、もう5人。透耶達が一番若いんだ。しかし、全員凄い容姿に経歴だな。これが報酬なのか」
「そう言われている」
「女系なんだな。しかも直系の相手は養子が多い。ん? これ嫁いでも駄目って事なのか? おいおい、夫や嫁も駄 目なのか? 嘘だろ? ありえない! 医学的に問題があるわけでもないんだろ?」
「だから、呪いだって言われてるんだ。こんな統計が出たら誰でも信じる。現にこの5人は信じている」
「そりゃ、透耶が怖いと言う訳だ」
「愛さなければいい、好きにならなければいい。そんな考えをしながら生きてきたんだ。透耶には酷な願いをしてしまったかな?」
「結局お前が考えたのは、こいつの事だけだろう?」
「今は少し後悔している。でも来る所まで来ているからな。私は出来るだけの事をしてやるしかない」
エドワードはそう言ってブランデーを飲み干した。
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