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その夜、屋敷は大騒ぎだった。
玄関で笑っていたと思っていた、鬼柳と透耶が大喧嘩を始めたからだ。
始め、夕食はどうするのか、という些細な事を聞きに行った使用人が、透耶が叫んでいるのを聞き付けた。
痴話喧嘩かと初めは思った。
聴こえていたのは、バスルームからだったからだ。
しかし、部屋を出て行こうとした時、透耶が「誰か助けて」と叫んだのだ。
慌てて他の使用人を呼んで部屋に戻ると、部屋には鍵がかけられていた。
耳を澄まさなくても、ドアに耳を当てているだけで、透耶が必死に叫んでいるのが聴こえた。
鬼柳の声は一言も聴こえなかった。
「誰か!嫌だ!やめて!いやあああ!!」
こんな叫び声で痴話喧嘩とは思えない。
しかし部屋には鍵がかかっている。
確かめる術がない。
途方にくれていると、SPが駆け上がってきた。
外にも透耶の悲鳴が聴こえたからだ。
「一体、どうなっているんですか?! あれは透耶様ですよ!」
富永がそう言って、何故部屋に入らないのか、そう使用人に聞くと、最初は鍵が開いていたのだが、今は中から鍵が掛けられていると説明した。
そして一緒にいるのは鬼柳だと。
「鬼柳様が……透耶様に?」
まさか、というのは石山だった。
さっきまで笑ってたのに、どうしてたった数十分でそうした事が起こり得るのか。まったく訳が解らなかった。
すぐに透耶の叫び声はピタリと止んだ。
全員がはっとした。
まさか、過って殺してしてしまったんじゃないか?!
誰の中にもそれが過ったのだ。
「とりあえず、ノックしてみます。対応に出られなかったら、合鍵をお願いします」
富永がそう言って、部屋をノックした。
二度、三度。間を開けて、ノックを繰り返しては、呼び声をかけてみる。しかし、鬼柳は返事をしない。透耶の声もまったくしない。
返答しないつもりなのか、返答出来なくなっているのか。
「駄目です。合鍵をお願いします」
富永がそう言った時、階段を上がりきった所で、咎める声が飛んできた。
「おい、何をやっている。ここの使用人どもは、出迎えも出来ないのか?」
そこに立っていたのは、ここの持ち主である、エドワード・ランカスターだった。
この時程、全員が揃った事はないだろう。そういう勢いで全員がエドワードの前に転がるように駆け寄ってきた。
口々に訳の解らない事を繰り返すものだから、さすがのエドワードも辟易して、一旦一階へ降りるように指示した。
居間へ通されると、代表してSPの富永と、一部を目撃した使用人が説明をした。
「何? 恭が透耶を殺したんじゃないかって?」
さっぱり状況が掴めないエドワード。
「ここへ来てから、初めてなんです。透耶様があんなに助けを呼んでらっしゃるのは……」
「それが外まで聴こえましたから、何かあったのではないかと……」
「で、中には入れない。鍵を占められたというわけだな」
「その通りです」
エドワードはじっと考えた。
鬼柳が透耶を殺す?
いや、あり得ないわけではない。しかし、その条件が透耶には備わってない。まだ透耶はエドワードに準備した事を話していない。よって鬼柳が透耶を殺す事はないだろう。
ここでは、透耶の知り合いはいないから、透耶が逃げ出そうとしたという話も当てはまらない。
しかも、ついさっきまでは仲良く観光してただあ?
ますますさっぱり理由が解らない。
だが、一つだけ解る事がある。鬼柳が我を忘れている場合である。
それが怒りなのか、喜びなのかが解らない。
鬼柳が透耶とセックスする時、その時でさえ、鬼柳は鍵をかけた事はないという。
鍵をかけた理由、それは透耶が逃げられないようにするため、としか考えられない。
「ちっ、私は一体何しにきたんだか……」
思わず呟きが漏れる。
透耶が現れてから、やたらと何か騒動が起きている気がしてならないエドワードである。当たっているだけに、笑えない。
「で、合鍵は?」
どうやら仲裁役は自分しかいないと、エドワードは修羅場に行く決意をした。
「それが……さっきから探しているのですが……」
「恭だな……あいつは用意周到だ。透耶が鍵を閉めた時の対応にと、自分で盗んでおいたんだろう。あの馬鹿は」
エドワードは舌打ちをした。
これで部屋に入る手段がないわけだ。
向こうから開けてくるまで、どうする事も出来ない。
「仕方がない、朝まで待とう」
エドワードがそう言うと、使用人達が一斉に信じられないという視線を向けた。
どうやら、透耶は、ここで使用人の心を掴んでいるらしい。
雇い主より、客、そういう感じだ。
「恭が透耶を殺しているなら、とっくに出てきている。恭はそういう所で逃げ隠れはしない。それにもし殺したのなら、もう手後れだ。あいつが仕損じるはずはないからね」
エドワードはそう言って、富永を呼んだ。
「朝一でドアを開ける準備だ。ドア一つ壊しても構わん。出てこないなら引きずり出してやる」
エドワードはそう言って居間を出て行った。
夜が明けてくる頃、鬼柳は目を覚ました。
鈍い身体の動きに、暫く放心していた。
隣では、透耶が疲れてよく眠っていた。だが顔色は良くない。
当たり前だ。
鬼柳は透耶が気を失うと、それを何度も起こしては犯した。
こんな無茶苦茶な抱き方などした事はないし、誰にもやった事はない。
途中から透耶は人形のように表情を無くしていった。
拒む事も、声を出す事も、答える事も、全て止めてしまっていた。
ただ身体全体が「どうして?痛い。恐い」と訴えていた。
あんな聞き方をするべきではなかった。
透耶には何の事だか解ってなかったに違いない。
透耶が自分を確認した時の聞き方が、他に誰かいる気がした。それに透耶は常に何かを話たがっていた。もしかしたら、自分の元から去ってしまう話だったのかもしれない。そう思うと堪らなかった。誰にも渡したくなかった。それならいっそ、自分で壊してしまった方がよかった。
だが、今、胸にある思いは何だ?
罪悪感、消失感。前より透耶を手に入れたはずなのに、前より遠離った気がした。
気を失ったままの透耶を風呂に入れ、ベッドは使えないから、ソファに寝かせて身体を綺麗にしてから傷の手当てをした。
傷は思ったよりは浅かった。しかし出血は多すぎた。
シーツは使い物にはならない位に汚れ、二人の証が刻み込まれている。
首には鬼柳の手が付けた痣がしっかりと残っていた。
手首には縛った後がくっきりと付いていて、それが擦れて血が滲んでいた。
この手は、自分の為にピアノを弾いてくれると約束してくれた手だった。それを乱暴に扱った。もし折れたりしていたら、二度とピアノは弾けないだろう。
鬼柳は、透耶の身体を抱いて、首筋に顔を埋めた。
「……ごめん。そうじゃないんだ……」
自然と言葉が出た。
悔しくて、そして自分の中にこんなどす黒い物があるなんて、今まで知らなかった。
「……どうしたの? なんで泣いてるの?」
掠れた声が鬼柳の耳に飛び込んできた。
合わせる顔なかった。
肩が震えて止まらなかった。
「……良かった」
透耶がそう言った。
鬼柳は驚いて顔を上げた。
頬を伝う涙が流れるままで、鬼柳は顔を上げた。
良かった?どうして?
透耶は微笑んでいる。
「透耶?」
「……いつもの、鬼柳さんだ……」
ホッとした様に溜息を洩らして透耶は言葉を吐いた。
「透耶……ごめん」
「……何か、怒ってた?」
軋む腕を上げて透耶は鬼柳の頬に手を当てた。
流れる涙が伝わってきて、この人は後悔していると解った。辛そうな顔を見せる事はあっても、泣く人ではなかった。簡単に謝る人ではない。
「ごめん……こんなこと、するつもりじゃ……」
鬼柳は頬に当てられた手を握り締めて、一旦目を瞑る。そして目を開けて透耶を見た。
透耶は自分が何をされたのかは解っていた。
たぶん、一番辛い、一番意味がない、一番屈辱な事。
それでも透耶は、鬼柳を心配する事が出来た。
それは不思議な事だった。屈辱は許さない、自分を侵害するのは赦さなかった。文句はあるのに、嫌いにはなれなかった。
「……うん、これは、かなり辛い……」
透耶は息を吐きながらそう言って、ゆっくりと目を閉じて深く息を吸った。
弱々しく添えられていた透耶の手の力がスッと抜けた。
「透耶?」
「うん……後で、怒るから……寝かせて……」
もう眠くて、何も考えられない。
透耶はそのまま深い眠りに入っていった。
エドワードは、SPを従えて、透耶の部屋の前に集まっていた。ドアを壊す工具も揃えられていた。
「一度、私が呼びかける。出て来なかったら壊す」
そう言って、ドアをノックする。
「恭、私だ。エドワードだ。使用人が心配している。今すぐここを開けて対応しろ。聴こえているか?」
エドワードがそう言って、一分程、カチッと鍵を解除する音がして、ドアが開いた。
そこに鬼柳が立っていた。
バスローブ姿で、頭は濡れているから、風呂に入ったばかりであるのは誰にも解った。
「なんだ」
不機嫌そうに言われ、エドワードが鬼柳を睨んだ。
「透耶は大丈夫なのか? 皆はそれを心配している」
鬼柳は溜息を吐いて言った。
「寝てる」
それ以上言うつもりないらしく、鬼柳は目を反らした。
どんな状態なのか、そういう事は言えない顔をしている。
エドワードは、にやりとして言った。
「解った。全員、取り押さえろ」
そういうや早く、SP5人が部屋の内側にいる鬼柳を引きずり出し、全員で鬼柳を床に押さえ付けて取り押さえた。
まるで、暴漢扱いだ。
「な、に、しやがるんだ!」
いきなり押さえ付けられれば、プロのSPには適わない鬼柳。エドワードが寄り選んだ最強の護衛集団である。普通 なら鬼柳も大人しく取り押さえられないだろうが、朝方となれば動きも鈍くなっている。
エドワードはそれが解っていたから、朝を狙ったのだ。
「恭が悪いに決まっている。屋敷内で騒ぎを起こして、立て篭り、助けてと悲鳴、物音がしなくなれば、誰でも心配する。恭が怪しい人物じゃなくて、何に見えるんだ」
エドワードは言い放った。
ここでの主導権はまさに持ち主、雇い主のものだ。
「解ったなら大人しくしているんだな」
エドワードはそう言うと、部屋へ入って行った。
「エド!」
今の透耶を見られては困る。
鬼柳の態度を見れば、透耶が普通の状態ではない事は明らかだ。
エドワードが部屋に入ると、まずドアを閉めた。
鬼柳がうるさいからだ。
部屋に入ると、少し空間があり、その横はソファが並べてある。
そこに透耶がいた。
長椅子にスッポリはまるように、横たえられている。
何故、ベッドではないのか。
そんな疑問が浮かんだ。
部屋の隅にあるベッドに近付いた時、その理由は明白だった。
悲惨だ。
血と精液で汚れ、ベッドは現在使い物にならない。
まさに犯るだけ犯った、という現状だ。
血の量が多い。
「あの馬鹿、狂ったな」
エドワードは呟いて、透耶の側に戻った。
しゃがんで透耶を見ると、確かに眠っている。泥のように眠るというが、こういうのだろう。
相変わらず、綺麗な顔をしている。
入院していた時のやつれ方からすれば、完全に回復している様子だが、顔色は良くない。もともと日本人にしては色が白い方だが、今は色が抜けている感じに見えた。
掛けられたタオルケットを剥ぐと、エドワードの手が止まった。口から舌打ちが出た。
殺すつもりはあったんだ。
透耶の首筋には、指の痕がくっきり付いている。一目で解る程の痕だ。殺すつもりで絞めたに違いない。
お腹の上で重ねられた手。手首で脈を取ろうとして、また息を呑んだ。
縛った痕だけでなく、透耶が暴れたのだろう、手首は何かで擦れて傷が出来ている。赤くなり皮が剥けている。血が出ただろう傷がある。
なんて奴だ。縛り上げた上に、犯したのか。
もしかしたら、透耶が思い切って恭にあの話をしたのかもしれない。それで透耶が出した結論にキレた。そういう可能性しか浮かばなかった。
これは話し合い所ではない。このままにしておくわけにはいかない。
鬼柳に任せたら、他の手を寄せつけないだろう。
エドワードは、迷わず、透耶を抱え起こしてから抱き上げた。抱き上げてからエドワードはギョッとした。
それなりの重さがあるものだが、その予想を裏切る軽さだった。透耶は身体の造りは華奢だが、女の子には見えるが、男の体型をしていないわけではない。
しかし、身長に合わない軽さだ。
そんな身体を組みして乱暴に扱った鬼柳の気が知れなかった。
エドワードは、足でドアを蹴り、使用人にドアを開けるように言って部屋を出た。
廊下ではまだ鬼柳が押さえ付けられていたが、SPの二人がやられていた。抵抗したので富永が、鬼柳の腹に一発入れたらしい。さすがに空手経験者のは効いたらしい。
組み敷かれているが、暴れ出す元気はなかった。
だが、出てきたエドワードが透耶を抱えているのを見て、怒りが沸いたらしく暴れ出した。
「てめえ! 透耶をどうする! 触るんじゃねえ!」
鬼柳は叫んでいるが、使用人は透耶が無事なのを見て安堵した顔を見せた。
「お前、本気で殺す気だっただろう」
エドワードが冷たく言い放った。
その言葉に、廊下が沈黙した。
「殺してなくても、殺そうと思った、それを実行しようとした。その行為を、恥じるべきだ。透耶は傷が治るまで私が預かる。戻るかどうかは透耶の意志だ。解るな、恭。これはお前が招いた結果 だ」
エドワードの言葉に、鬼柳は何も返せなかった。
透耶が目を覚ましたのは、二日後だった。
また見た事がない天井。
あーもー、何度目だ?
とりあえず、状況を把握しようと思って、透耶は考えた。
鬼柳がいきなり怒り出して、乱暴したのは覚えている。凄く恐かったし、屈辱だった。泣いたけど赦してくれなかった。
殺されると思って恐かったのは初めてだった。
ナイフを向けられた時も恐くはなかったのに。
死ぬのは怖くなかったのに。
んー、で、気が付いた時、鬼柳が泣いてた。
そう、泣き顔が見えたんだ。
それを見たら、殺されそうになった事や乱暴にされた事なんかどうでもよくなった。
変だぞ、俺。
それで、ああ、そうだ。結局鬼柳が怒った理由が解らなくて、後で怒ってやろうと思ったんだ。
怒った時、なんて言ったっけ?
俺以外の奴と風呂に入った事があるのか。だったっけ?
バカバカしい……。
そんなの答えなくたって考えれば解るだろうに。
だけど、今まで聞いた事もない、この質問がなんであの時出てきたんだろう?
まったく、思考回路が解らない奴だ。
そこまで透耶は考えて、解らない事は聞けばいい、と思った。
さてと、ここは何処でしょうか? と現実問題だ。
ベッドが上質なのは解る。肌触りがいい。
首を動かすと、少し痛かった。だから、手を首に当てようとしたが軋んで痛かった。
恐る恐る動かして、何とか布団の中から腕を出した。
だが、出てきた腕を見てぎょっとした。
手首に包帯。
うーん、と考えて、縛られた事を思い出した。
左手も同じように出して見て確認した。
自殺に失敗したみたいだ……。
今度は起き上がろうとしたが、想像以上に身体が軋んで痛かった。
「あたたたたた……」
腹筋なんか出来やしない。
仕方ないので、転がってベッドの端までいって、足を先に出してから腕の力で起き上がろうとしたのだが、腕に力が入らなかった。
「なんだよ、これ……」
なんだか、俺、起き上がれない状況ってパターンになってないか?
四苦八苦していると、何とか身体の痛みにも慣れてきて、とりあえずベッドに腰を掛ける事に成功した。
それから部屋を見回すと、豪華な調度品の部屋。
これもパターンじゃないかい?
でも良く見ると、ここが屋敷ではない事は明らかだった。
だってねえ、ベッドから窓を見て、海と空が見えたら、ここが普通の地面 にある家だって思えないでしょ。
どう考えてもホテル最上階あたり。
しかし、何故こんな所にいるのか、それは謎だった。
腕や足を動かして、軋みを慣れさせていくと、何とか立ち上がる事が出来た。
着ている物は、シャツローブというものだ。バスローブよりは恥ずかしくない格好。
とにかく誰がここへ連れてきたのかを確認……の前にトイレだ。
二日も行ってなければ行きたくなる。
でも、どのドアなのかさっぱりだった。
一番大きなドアを開けた。
まさか寝室にはトイレはないだろうという判断だ。
寝室を出ると、居間らしい部屋。こちらもゴージャス。ふらつく足で何とか扉を探し当てて開ける。
「……また部屋だ」
今度は応接室みたいな部屋だった。もちろんゴージャス版である。
このままトイレって見つからないんじゃあ……。
と思いながら次のドアを開けると、そこにも居間。
だが、そこに人がいた。
透耶がドアを開けた事で、その人達も透耶に気が付いた。
「やっとお目覚めかね、お姫様」
そう言ったのは、アメリカにいるはずのエドワード。
なんでえ?どういうこと?
と透耶がポカンとしていると、もう一人がじっと見ていた。
エドワードが金髪碧眼の美青年なら、もう一人は、ブラウンの髪に緑の瞳。外国人だ。
エドワードが美の王なら、もう一人は妖の王だ。
そう妖しい美しさがあるのだ。だが、見つめる眼光は鋭い辺りがエドワードに似ている。同種族だとはっきり解る。
しかし、当の透耶はそんな事は思ってない。
エドワードがいる事に驚いた、でも見知らぬ客がいる、となれば透耶が言う事は一つしかない。
「エドワードさん、挨拶は英語でいいんでしょうか?」
である。
それも無茶苦茶真剣な顔と声。
吹き出したのは、エドワード。
透耶と最初に会った時の事を思い出したのだ。
いきなりエドワードが笑い出したものだから、目の前にいる外国人は呆気にとられている。
一頻り笑うとエドワードは咳払いをして、何とか笑いを収めようとしているが、顔が眼が笑ってしまっている。
「……すまない。ヘンリー、この少年が透耶。透耶、ヘンリーだ」
エドワードらしく、それがどういう関係なのかは説明しない。
でも透耶はそんな事気にしない。日本語で通じるという事を確認出来たからそれでよかった。
「こんにちは、ヘンリーさん。俺、榎木津透耶です。あの、こんな格好ですみません」
透耶はそう言って、深々と頭を下げて、自分の格好が寝巻き同然である事を思い出し、慌てて身体を扉に隠して顔だけ出した。
このまま逃げる訳にはいかない。トイレは何処だ、を聞かなければならないからだ。
ヘンリーはじっと透耶を見たまま固まっているみたいに動かなかったのだが、ふっと笑って挨拶をした。
「俺はヘンリー・ウィリアムズだ。宜しく。透耶、何か用事があったんじゃないのか?」
と、ヘンリーは話す切っ掛けを透耶に与えた。
「あ、はい。あの、エドワードさーん」
透耶はエドワードに手招きして呼んだ。
「ヘンリー、少し待っててくれ」
エドワードはヘンリーにそう言って、透耶の方へ近付いてきた。少し身体を傾けて、透耶の顔色を見ている。
すっと顎を持ち上げられて、繁々と見られると、逆らっては駄目だなと透耶は思った。エドワードが透耶の体調を見ているからだ。
「顔色は大分いいな。どうだ?」
「身体が軋むだけです」
透耶がそう答えると、エドワードが聞いてきた。
「で、どうしたんだ?」
「お話邪魔してすみません。あの、トイレって何処ですか?」
透耶は真剣だが、エドワードはクスクス笑って言った。
「案内しよう。少し入り組んでいるから」
エドワードに案内されたトイレは、到底透耶には見付けられない扉じゃない扉の奥にあった。
「透耶はここを使うといい。私はさっきの居間の向こう側の部屋を使っているから、用がある時は訪ねてきたまえ。私がいない時は、外にSPを一人置いておくから、彼に聞くといい」
「はい、ありがとうございます。あの、後でいいんで、どうなってるか聞いてもいいですか?」
「夕食の後で話そう」
エドワードはそう言って居間へ戻って行った。
状況を把握するのは、後でもいい。エドワードが意味なく自分を屋敷から連れ出すはずないと透耶には解っていた。
ともあれ、当初の目的は達成出来た。
トイレを済ませて、最初の居間に戻ると透耶はやっと周りの状況が掴めてきた。
エドワードが何故来ていたか、より、ここはまだ沖縄だ。
居間から外を眺めると、南国の海が見える。
透耶はそのまま、そこに力が抜けた様に座り込んだ。
「疲れた……」
軋む身体を動かすのは思った以上に疲れる事だった。
振り向くと、そこに鏡があった。
「うえ? 何これ」
首に巻かれた包帯。
首に怪我なんかしてないのに、と思ったが、思い当たる事は一つしかない。
「はあ、痕ついちゃったんだ」
こういう痕って暫く残るんだよねえ。
考えてると減り込んでくる。
透耶はそのままゴロリと寝転がった。
普通なら、靴で歩く所だから汚いとは思うが、こんな上等な部屋で、こんな隅っこにまで足跡をつける人といえば、清掃の人くらいだろうと透耶は思った。
鬼柳は、こういう状況に納得したのだろうか?
あの時、あの人は。
「泣いてたのに……」
傷つけた事、あんな事。
「ごめんって言った……」
傷付いたのは、どっちなんだ?
状況的には俺なんだよな。なのに、鬼柳の方が傷付いている、と思う自分はおかしいのか?
俺には怒る権利がある。
だけど、鬼柳は自分の怒りも過ちも、全て自分に向けるしかないのだ。いくら怒りに任せた行動であっても、我を忘れた行動でも、それを内にしまってしまうのは辛くないか?
うん、自分を責めるのは簡単だ。
でも、それを赦してやれるくらいに、自分は鬼柳を大事だと思ってる。
だから、怒るだけ怒って、反省させて、二度とやらないと約束させて、それで赦してやろう。それからあの話をしよう。
「やっぱ、甘いのかなあ」
「何が?」
「うん、俺が」
と答えて、透耶ははっとした。
誰が答えたんだ?
ふと目を開けると、目の前に靴がある。
エドワード?と思って視線を上げると、そこにはヘンリーが立っていた。
「あれ? ヘンリーさん?」
何でヘンリーがここにいるんだ?と、透耶が身体を起こすと、ヘンリーが跪いていた。
「どうした、具合が悪いのか?」
という問いに答えようと透耶は思ったのだが、それより早くヘンリーが透耶を抱え上げた。
「ちょ、ヘンリーさん……あたたたた」
少し驚いて抵抗しようとした透耶だが、身体を反らした所で全身に痛みが走った。
あまりに痛かったものだから、透耶は息を呑んでお腹に手を当てて蹲った。
「ひーん、今のは強烈だったー」
涙が浮かんでしまった。
「すまん……」
ヘンリーは驚いて、透耶をソファに降ろした。
透耶は自分の身体を摩りながら、ヘンリーを見た。
「いえ、すみません。俺が変な事してたから。心配かけました」
ニコリと笑って言ったのだが、ヘンリーの表情は固かった。
また変な事言ったかなあ?
と透耶が思っていると、ヘンリーが言った。
「それは……エドワードがやったのか?」
「え? これ?」
ヘンリーは指差した。
おおお、手首と首かあ!
「いえ、全然関係ないです。これは、ちょっと別の人と喧嘩して、そのーなんて言っていいのか……」
まさか、殺されそうになったとは口が裂けても言えない。
「エドワードさんには、手当てして貰っただけです」
「見ていいか?」
「え?」
「傷。エドワードの事だ。一応医者には見せただろうが……」
「ヘンリーさん、お医者様ですか?」
「まあ、そうだが」
「へえ。でも、これは多分大丈夫です」
透耶はエドワードが医者に見せただろうと思っていたので、大丈夫と確信していた。
「そうか……。何か飲むか?」
「あ、はい」
ヘンリーはそう言って、部屋にある冷蔵庫から飲み物を取り出して、コップに入れて持ってきた。
「刺激物は良くないから、牛乳で構わないだろう」
「え、はい。ありがとうございます」
透耶はそれをもらって飲み干した。
その後、傷の話には触れず、透耶はヘンリーの事を聞いた。
今は、東京にいて医者をしていて、今日はエドワードが沖縄にいるから、休暇ついでに遊びにきた事。エドワードとは、アメリカの大学で同期で、学部は違うが、共通 の友人から知り合って、それ以来の付き合いであること。
そんな事を話していると、透耶は眠くなってきた。
「透耶、眠い?」
ヘンリーが聞いてきた。
だけど、透耶はそれに答える事が出来なかった。
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