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日射しが柔らかくなってきた所で、穴場のビーチに行った。
殆ど地元の人とマニアな観光客しか来ない場所で、4時くらいに入ったら、殆ど人はいなかった。
「うわあ、白い、白い砂!」
透耶は、そういう浜辺を見た事はない。
初めて見る物は感激する。
鬼柳が止めるのも聞かず、透耶はずっと向こうまで走っていく。
「透耶! 危ないぞ!」
鬼柳が声を掛けたとたん、透耶が転んだ。
慌てて鬼柳が駆け寄ると、透耶は仰向けになって笑っていた。
「言った側から転ぶか普通」
鬼柳が見下げて言うと透耶が笑いながら言った。
「鬼柳さんが声かけるから、振り向いたら転んだんだ」
「俺が悪いのか?」
「悪いねえ」
そんな馬鹿な、という鬼柳の顔が可笑しくて、透耶はゲラゲラ笑い転げた。
「じょ、冗談ー」
「……透耶。笑ってろ」
鬼柳はあんまり透耶が笑うものだから、シャッターチャンスとばかりに写 真を撮り続けていた。
写真は一体何枚撮ったのだろう?と透耶が思う程、鬼柳は事あるごとにシャッターを切る。骨董品に見とれているといつの間にか撮っているし、歩いている時もいつの間にか離れていて、シャッターを切っては戻ってくる。
たぶん、いい構図なのだろうが、徹底している辺り、報道カメラマンとは思えない執着振りだ。
「……青い」
空はまだ青くて、でも日没が近付いているから、微妙な青さだった。
「鬼柳さん、この青、欲しいよ」
透耶がそう言った。
別に空が欲しい訳ではない。でも切り取って欲しい色ではあった。
「やろう」
そう簡単に言うのが鬼柳だ。頭の上で何枚かシャッターを切る音がした。透耶は「これ、冗談だけど」と言ってから言葉を続けた。
「凄く大きな、壁にはまる位に引き延ばしてさ。まるでそこが沖縄の空になったら面 白いよね。そんなに大きく出来るものじゃないと思うけど」
「面白そうだな」
「でしょ?」
透耶は鬼柳が賛同してくれたので、嬉しかった。起き上がると鬼柳が苦笑していた。
「砂だらけだな」
「え? ありゃ」
べったりと寝転がっていたものだから、頭、肩、背中、お尻、足と、裏側は真っ白な砂に覆われていた。
透耶は腕を引っ張られて立ち上がる。鬼柳が素早く砂を叩き落としてくれる。
「おおー、髪の中まで砂まみれー」
頭に手を入れると、サラサラと砂が落ちてくる。
鬼柳がクスクス笑いながら、髪を梳くってくれる。
「あー、今、こいつ馬鹿だって思ったでしょ?」
「……何で?」
「今、一瞬間があったぞ」
「そうか? 別に馬鹿なんて思わないぞ。面白いって思ったけど」
「面白い? 何処が?」
「自分から砂まみれになっておきながら、砂だらけって言ってるから」
「……それを馬鹿って言うんだ」
馬鹿って思うなと言いたかった透耶だが、自分で自分を馬鹿だと認めてしまえと解いている自分が情けなくなってきた。
砂を叩き終わると、鬼柳は海岸線に沿って写真を撮り続けていた。
その横顔を見ながら、透耶は聞いた。
「鬼柳さん、ファインダーで覗いた世界ってどんなの?」
「ん? どんなって、変わらないぞ」
「そう? きっと違う気がする」
透耶は何故かそう思ってしまった。
厳しい顔をして撮る報道写真の時とは、今風景を撮っている顔は違うと思ったからだ。穏やかで、優しい目をしている。そういう目で撮るものは、きっと美しいに違いない。
きっと鬼柳のファインダーから見える沖縄は綺麗に違いない。
透耶は、ふと、沖縄を思って歌った唄を思い出した。
「家族がいなくなった家には、今もブーゲンビリア蔦を這わせてる、そこで与えられた物は、全て無くしてしまっていた。憎む事を覚えて、泣く事を忘れた。灼ける肌に刻み込まれて、この手首に刻み込まれた。進む為に無くして、歩く為に無くした、今手にある物は何も無くて、あなたは何を得られたのだろう。美しく輝くこの大地の果 て、焦がれて求めたこの大地の果て」
透耶は思い出した唄を口ずさんでいた。
歌い終わると、鬼柳が見ていた。
「なんて曲?」
「飛べない鳥」
透耶は、少し微笑んで目を閉じた。
「俺が落ち込んでる時に、耳に飛び込んできたんだ。衝撃的だった。綺麗な優しい声なのにさ、歌う歌詞が強烈で、こんなの歌っていいの?って。何もないって、癒す唄でも、安らぎや元気を与える優しい唄でもない。内から出る、憎しみとか、決別 、恨み、激しさ、死の匂い。でも痛いって泣いてる。残酷なまでに優しいんだ。沖縄出身の歌手って、島唄とか、そういう綺麗さがあったんだけど、美しい孤高ってのはなかったわけ」
「ココウ?」
「孤高、あー、世俗にまみれない。世の中の俗物に染まらないって事なんだけど。その人は、いつも沖縄を思って唄を作るんだ。思ってなくても沖縄の唄になってる。…青く光る、水面 の中、約束を守る。灰になった、私の体、あの海へ帰る。……きっと、あの海って沖縄の海の事なんだよ。だから、この海に抱かれてってフレーズは好きなんだ」
透耶が優しい顔で、そう話すから、鬼柳は何故か透耶が消えてしまうんじゃないか、そんな不安に駆られた。
抱き締めないと居なくなるんじゃないか。いつもそんな不安に駆られている。
「な、何?」
いきなり抱き締められて、透耶は戸惑った。
なんか、抱き締められるような事でも言ったかなあ?
いつも鬼柳の突拍子もない行動に驚かされる透耶だが、今日、今は何か違う気がした。
肩に顔を埋められて、鬼柳は何も言わなかった。
「鬼柳さん、どうしたの? 俺、何か悪い事でも言った?」
「うん」
即答で返事が返ってきた。
うーん、唄と歌手の話をしただけなのになあ?
「唄、嫌いだった?」
「うん」
また即答。しかも唄が嫌いだと言う。
さっき歌った時は何も言わなかったし、今日朝歌った時も何も言っていなかった、寧ろ聴きたいと言っていたのに。
「どうして?」
「透耶が消えてしまいそうだったから」
「俺が消える? 何で? 意味解らないよ」
「その唄の話。凄く嫌だ。凄く恐い。透耶居なくなりそうだ。抱いてないと消えてしまいそうだ。嫌だ、嫌だ、嫌だ」
感情を剥き出しにして言う鬼柳は珍しい。しかも相手は唄だ。それだけで、こんなに不安がるのは可笑しい気がする。だが、鬼柳はふざけている訳ではなく、真剣にそう感じてしまったのだ。
確かに透耶は、この唄は自分が薄らいでいく感じがして、苦しみから逃れられると思った。それくらいのめり込んだ。
ただ、普通の人が聴くと、恐い歌、強烈過ぎて駄目、という人がいる。描写 があまりにリアルで、耐えられないらしい。
心を病んでいる人、そうした人が引かれる歌なのだ。
だけど、鬼柳には、透耶が消えてしまう歌なのだ。
あながち鬼柳の感覚は間違っていない。透耶はいつか鬼柳の前から去ってしまう存在である。それを感じていて絶対に認めない。
透耶は、まだあの話が出来なかった。
「世界中に降り注ぐ愛を、あなたに全てあげよう。心から溢れ出す愛を、残さず全てあげよう。だからおやすみ、夜があけるまで。この腕の中、夢を紡ごう。…同じ人の歌だよ。消えてしまうような歌ばかりじゃないんだ」
「それ……」
「ん?」
「そういうのはいい。さっきのは嫌だ」
「はっはー、愛の歌はいいんだ。じゃあ、こういうのはどうだろう?」
「?」
「むかしむかし、こぶたさんが、あいがほしいといいました。どうせいつか、たべられるから、あいくらいわけてくれてもいいじゃないですか。あしたはソーセイジ、らいしゅうまるやき、おいしくなるからさー。まいにちせっせとふとって、きょうもあすもたべるよ、おこのみさいずにして、のこさずたべてください」
童謡のようなノリの曲調で、呑気に歌って見せると、鬼柳がやっと顔を上げた。
だが、ありありと変な顔をしている。
よし、のった!
透耶は面白いから続きを歌った。
「あるひここで こぶたさんが ゆめがほしいといいました。いつかどうせ、たべられるから、ゆめくらいみていてもいいじゃないですか。ぼくはソーセイジ、わたしはまるやき、おいしくなるからねー。ぶくぶくせっせとふとって、きょうもあすもぶくぶく、ちょうどこのみでしょ、きれいにたべてください。あすはどうなるのー。だれがたべられるのー。おいしくなったかなー。あいはゆめはかなえられた? ふとってふとってふとった、おいしそうといわれました、そろそろたべごろだね、おいしくちょうりしてください」
全部歌い終わると、鬼柳はクククッと笑いを堪えている。
「なんだ、その歌は……」
笑いながら尋ねてくるから、笑わそうと思った透耶の作戦は成功したようだ。
「あははははは。「子ブタの愛の歌」っていうの。面白いでしょ」
「誰がそんな歌作ったんだ?」
そう言われて透耶は自分を指差した。
「俺と光琉」
「な、何考えてるんだ……」
笑いの発作が止まらない鬼柳。あんまり笑うものだから、透耶も笑ってしまう。
「だって、これ作ったの、小学生の時だよ。しかも作詞作曲二人の共同作品の記念すべき第一作。この曲知ってる人って家族以外じゃ鬼柳さんだけだと思うよ。家族発表の時に大笑いされて以来、門外不出の幻の作品だから。って、俺んち、門外不出の曲多いよな、やっぱ作詞が不味すぎるよ」
小学生の時、変な歌を作った記憶は結構皆持っている。意味ない歌詞に意味ない作曲。でも、その一部でも覚えている人間ってのは少ないもの。
しかし、透耶の場合、ピアノをやっていたせいもあって、些細な曲でも、全部忘れられないでいる。楽しく作っただけに、余計にそうなのだ。
「ど、どんな曲があるんだ? ほ、他にもあるのか?」
「んー、あるよ。ざっと50曲くらい。聴く?」
「うん、聴きたい」
ぐふふ、と笑いながら言われると、期待に答えなきゃいけない気がしてきた透耶。
だから、順番に歌っていったのだが。
「ちゃんこの歌」「雨降るなら菓子が降れ」「お弁当を忘れたら隣人のを奪え」「クロール、バタフライ」「文句の歌」「止まれ赤信号」「温泉サル」「外国人の歌」「ステンレス」。
とにかく変な題名の歌が多いのだが、もろそのままの歌で、子供なら誰でも考える歌詞になっている。下手に作曲が上手いものだから、可笑しさ倍増である。
離れて聴いてないはずの、富永や石山までが、ブッと吹き出してしゃがみ込んで笑ってしまっている。
たまたま通りかかった観光客や地元の散歩の人が、厳い男が少年の歌で笑っているから、何事かと思って立ち止まり、透耶のふざけた歌を聴いて、笑いを堪えられなくてその場に座り込んで笑っていた。次々馬鹿な歌が出るものだから、皆離れられなくなって、次は?次は?というふうに耳を傾けている。
透耶は恥ずかしかったが、鬼柳が次というものだから、結局歌う羽目になってしまった。
「俺はリレーアンカー」などは、はっきり言って、馬鹿丸出しである。
「Ohー、俺はアンカー、リレーのアンカー。世界最速の小学生ー。バトンがきたー、全力疾走ー。テープを切るまで勝負ー。応援よろしく!誰にも負けない!GOGOLet'sGO赤組代表!」
「ぎゃははははははは!」
「た、助けてー」
「せ、世界最速の小学生って!」
「お、可笑しすぎ!」
「お腹いたーい!」
皆笑い過ぎだ……。
気が付いた時には、20人程の人に囲まれていた。
結局、終わるに終われなくて、30曲ぴったり歌い終わった時には、もう日が完全に暮れていた。
「はい、もう終わり。鬼柳さん満足?」
横を見ると、突っ伏していた。
周りを見ると、皆突っ伏している。
「あのー大丈夫ですかー?」
最後の「跳ねたら何点」がまずかったらしい。
放送禁止用語になるだろう言葉を連発しまくった、中でも異形の作品だ。はっきりって悪趣味な歌なのだが、これだけふざけた歌を歌っているから、皆ジョークで受けてくれたのだろうが、ウケ過ぎである。
皆の笑いの発作が収まるまで、軽く10分はかかってしまった。
「いやー面白かったよ」
……真面目に作ったんですけどねえ。
「沖縄の思い出になった」
……沖縄とは何の関係もないけど。
「ねえ、CDでないの?」
……光琉に殺されるのでやです。
「面白すぎー。明日は来ないの?」
……これ以上恥さらしをしなきゃいけませんかあ?
「まだあるのかな?」
……あるんですけどぉ。これ以上は……勘弁してぇ。
などと質問攻めにあい、何とか、昔のふざけた歌だからと説明して、皆が離れていくには、また時間がかかった。
幸い、暗くて顔ははっきりと見えなかったので、透耶が光琉にそっくりだとは気が付かれずにすんだ。
鬼柳はまだ笑っていた。
車まで戻っても鬼柳はまだ笑ってる。
「鬼柳さーん、もういいでしょうー?」
透耶は呆れてしまった。自分でも変な歌とは思うが、そこまで受けるはずないと思っている。
すると、車に乗ろうとした富永と石山がいきなり吹き出した。思い出し笑いだ。
「な、何ですか?!」
びっくりした透耶が言うと、富永が白状した。
「あ、あの、すみません。こ、これから、車を、運転してる時は、「これは何点だったっけ?」って、思ってしまい、そうです」
などと言うものだから、まだ残っていたらしいさっきの観客が一斉に吹き出して笑い出したのだ。
あああ、皆車に凭れ掛かって笑ってるー。
突っ伏して地面を叩いてる人、座席に突っ伏してる人。ガードレールに掴み掛かってる人。それを聴いてなかったはずの車にいる人までが思い出し笑いをしている。
あああ、今日この後事故車が出たら、きっと俺のせいだ。
事故理由が「跳ねたら何点」って曲って言われたらどうしよう。←マジである。
やっと発作が収まった鬼柳が満足した顔で言った。
「透耶、最高!」
「俺、最悪」
「あんな面白い歌詞よく思い付くなあ」
「あれは、殆ど光琉だ。「跳ねたら何点」なんて、全部光琉だ。悪趣味ラップ、クラシック畑の俺にできる訳ないじゃん」
「跳ねたら何点」最悪ラップ。車を運転している人がいろんな物を跳ねる度に、助手席の人に「これ何点だったっけ?」と聞き、「何点!」と答えるラップ。
「小難しい歌より解りやすい」
「止めさせてくれないから、人にいっぱい聴かれたじゃんかー」
のって歌った自分も悪いけど……。
「まあ、ここだけのだから、もう歌わないけどね」
大体歌っただけで消えるとか鬼柳が我侭言うからいけないんだ!などと内心思ってしまう。
屋敷に帰り付くと、玄関に入るなり、また3人が笑い、SPは何とかもっているが、鬼柳は突っ伏した。
「あの、どうかしましたか?」
お帰りなさいませ、を言いたかった使用人が、おどおどしている。平然としているのは透耶だけである。
にゃろー、「お帰りなさいの歌」を思い出しやがったな。
とはいえ、子供が作った歌である。日常風景が含まれているのが多い。しかも光琉の観点は突飛過ぎる。当時は皆の家もそうだと思っていただけに、ウケるとなると、まったく違うということが解った。解り過ぎた。
悲しい事に、玄関から始まって、階段の歌、廊下の歌、トイレの歌、お風呂の歌、ベッドの歌……もろもろ歌ってしまっている。最悪だ。
透耶は笑っている3人を無視して、借りていた麦わら帽子を返した。
「ありがとうございました。これあって助かりました」
「あら、いいのよ。日焼けはしなかったわね」
「はい、それもありがとうございました」
「お風呂沸いてますので、お入りになって、日焼け止め落とした方がよろしいですよ」
「はい。えっと、この馬鹿はほっといていいです」
透耶は冷たく言い放って、二階へ上がって行った。
その後ろを笑いの発作に襲われながらも、鬼柳が付いてくる。
透耶は無視して、そのまま部屋に入り、着替えを出して、部屋に付いているバスルームへ入った。
鬼柳はそこまで付いてくる。
「何やってんの?」
透耶は服を脱ごうとして、鬼柳を睨み付ける。
また笑いの発作が起った。
「バスルームの掟」という歌を思い出したのだ。
あほらし…。もう呆れるしかないから、無視する事に決めた。さっさと服を脱いで風呂へ入った。
シャワーを浴びて、ボディーシャンプーを取り出して、スポンジに付けて泡立てていると、鬼柳が入ってきた。当然裸だ。
「鬼柳さん、ここ二人で入るの狭いよ」
透耶がそう言ったが、鬼柳は無表情のままで側に座った。
一体、何がしたいんだろう?と不思議がっていると、スポンジを取り上げられた。
「ちょっと…」
何がしたいのか、そう聞く前に鬼柳は行動した。
鬼柳はスポンジで、いきなり透耶の背中を洗い始めたのだ。
「な、何?」
振り返ろうとしたが、すぐに肩を押さえ付けられた。
振り返るな、という事らしい。
透耶は訳が解らないまま、とりあえずそのままにしておいた。
身体を洗いたいだけなのか、よく解らないが、とにかく綺麗に洗っている。特にへんな事をしようとしている訳でもない。
鬼柳は、もくもくと透耶の身体を洗い続けて、シャワーで洗い、今度は湯槽に入るように指示された。
透耶が素直に入ると、頭を引っ張られて、バスタブの縁に頭を乗せろとやっている。
「何? 仰向け?」
何とか鬼柳の希望通りに仰向けになって、頭だけを外へ出す形になった。
そうやって髪を洗いたいらしい。
だが、なんでいきなり寡黙な人になったのかが解らない。
鬼柳は黙々と髪を洗い始めた。
人に頭を洗ってもらうのは、気持ちがいいものだ。
透耶はうっとりとしていると、シャワーでシャンプーを流しリンスをつけてもう一度流す。
それが終わると頭を押された。もういいという事らしい。
ますます訳が解らない。
透耶がお湯に浸かってボーッと眺めていると、鬼柳も身体を洗い始めた。
逞しい身体だ。腕、胸、腹と、美しく動いている。無駄のない肢体で、筋肉の造りやら、身体の造りが違う事を思い知らせる。大きく、でもライオンなどの獣の様にしなやかにも動く。そう獣と言った方が正しいだろう。黒豹だ。気高く、視線で射殺す事ができる程、力強い。存在感だけで人を魅了し、その美しさで人を従わせる事が出来る、王者だ。生まれながらにして、その全てを兼ね備えた完璧な人間。
透耶はすっと湯槽の縁に凭れ掛かって、手を伸ばすと鬼柳の背中に触れた。
綺麗だよなあ……。
こんなに綺麗で逞しい人なら、きっと、いや選り取りだろうに、誰でも望めば寄ってくるだろうに……。
「なんで、俺なんだろう?」
ふと声が漏れたが、透耶は気付かなかった。
どうしてこの人は、俺にこだわるんだろうか? 俺なんかより、他の人はもっと望みに答えるだろうし、この人も喜ぶだろう。甘いし、優しいし、そりゃ時には恐いけど、でも放っておけない悲しさを持っている人。
それなのに、人の悲しみを聞いて受け止めてくれる人。
心の大きな人。
だけど、俺は受け入れてはいけない。なのに受け入れている。きっともう引き返せない。そこまで来ている。
ただ、本当にこの人が手に入れられるのか解らないから。
嘘かもしれない。優しくしておいて捨てるのかもしれない。そう考えると恐くて、あの話をして、心を伝える事は出来なかった。
ふと気が付くと、触れていた手の先に鬼柳がいない。
「あれ?」
いないはずだ。
透耶の身体の位置が変わっていて、なんと鬼柳の膝の上に座らされていたのだから。
「鬼柳さん?」
身体事振り返ると、鬼柳はやっぱり無表情だった。
だけど、その無表情は、怒っている無表情。
透耶は、鬼柳と一緒にいるようになって、もう一ヶ月になる。毎日一緒にいると、さすがに表情がなくても、怒っているくらいは読めるようになっていた。
「お、怒ってる?」
「当たり前だ」
即答じゃー!
一体どういう事なんだよぉ!
表情の読めない無表情だったのが、気が付けば怒っている。
「何で?」
「俺以外の男と風呂に入った事があるのか」
「へ?」
「あるのか」
鬼柳は透耶の両腕を掴んで言った。その腕は透耶の腕を折りそうな程強い力で締め付けている。
「いたっ……! 痛い、鬼柳さん……!」
「答えろ、俺以外の奴と風呂に入った事があるのか。それは誰だ、いつ入った。透耶、答えろ。それに何を隠している。何か言いたい事があるんじゃないか? それは何だ」
「何なんだよ、それ!」
「答えろと言っている」
「いやだ! なんで命令なんかするんだ! いきなり何言ってんだよ! 離せ!」
透耶が力いっぱい叫んだ時、鬼柳の片方の手が離れた。しかし、その手は透耶の首を掴んでいた。
「くっ……」
まるで首でもへし折るかのように、絞める指に力が込められた。
「俺を怒らせるな。正直に答えればいい。それだけだ」
引き寄せられ耳元で囁くように言われたが、透耶は目を見開いてそれから睨み付けた。
冗談じゃない。いきなり怒りだして訳の解らない事を言い出して、しかも怒らせるな?!
そして力技で従えようとしている。
怒っているのはこっちだ!はん、正体現したか!
「冗談……誰が……」
そう言葉を吐けたのは、鬼柳が首に回した指を弛めていたからだ。だが、そう言ったとたんに、また首を絞められた。
「……!」
ぐっと息が詰った瞬間、透耶は風呂の中へ沈められた。押さえる首の手はそのままで、力で沈められたのだ。
透耶は必死でもがくが、鬼柳の腕力には、鬼柳が片手しか使ってなくても適わなかった。
殺される、瞬時に透耶はそう思った。
もう息が、そう思った時、鬼柳が引き上げた。
「ぐ、ゲホ、ゴホゴホ!」
止められていた空気が一気に肺に入り込んで、透耶は激しく咽せた。ひゅーひゅーと喉を鳴らしながら息を大きく吸っていると、鬼柳が呟いた。
「俺には言えないんだな。言いたくないのか」
鬼柳を見ると、完全な無表情。
もう何を考えているのかまったく透耶には読めなかった。
初めて鬼柳を恐いと思った。
死を感じる恐怖、まさにそれだった。
「な……何言って……」
透耶は震える声でやっとそれだけ言った。
「言う気がないんだな」
「何……を?」
「もうさっき聞いた事を忘れたのか? それともわざとか? 何故答えないんだ?」
鬼柳がそう言いながら近付いてきた。
透耶は自然と身体が逃げた。
「いやだ、鬼柳さん、恐い。触らないで、俺に触らないで! いやあああ!!!」
透耶はパニックを起こして叫んだ。
たぶん、初めて鬼柳に強姦された時より、今この瞬間、透耶は鬼柳を全身で拒否した。
「嫌いだ、大嫌いだ! 鬼柳さんなんか大嫌いだ!! もう俺に触るな!」
今まで言わなかった言葉を、透耶は口にしていた。
嫌だとは言っても、嫌いだとは言わなかった。
思った事はなかった。
そんな事を言わせる鬼柳が大嫌いだった。
「誰か、助けて! 助けて!!」
透耶がそう叫んだ時、鬼柳が動いた。
「嫌いでも、何でもいい。助けなんて誰も来やしない」
決定的な言葉を言われた。
ここは防音をしている訳ではないが、声など漏れる薄さの壁ではない。中で物を投げて叩き割るくらいの事でもしないと、この部屋にはやってこない。
しかも、今は鬼柳が透耶の側にいる。
透耶は咄嗟に廊下へ出れば誰か来てくれると思った。
湯槽から出ようと立ち上がったが、素早く鬼柳に捕まえられる。
透耶はありったけ叫んだが、誰も部屋にやってこなかった。
それでも透耶は叫び続けた。
もう何を叫んでいるのか解らないくらいに。
鬼柳はまったくその声を聞いてなかった。いや、聞かないふりをしていた。
バスルームを出て、ベッドへ来ると、鬼柳は叫ぶ透耶をベッドへ放り込んだ。尽かさず透耶は逃げようとするが、鬼柳がそれを許す訳もない。
透耶の腕を捻り上げると、鬼柳は片手に持っていたバスローブの紐で透耶の腕を後ろで縛り上げた。
それでも逃げようとするから、鬼柳の怒りに火が付いた。
「逃がさないって言わなかったか」
透耶の背中にのしかかり、耳打ちして脅すように鬼柳は言った。
とたんに透耶は大人しくなった。その代わり、すすり泣きが始まった。声には出さないが、身体が震えている。
それでも鬼柳は止まらなかった。
初めて逆らわれた。さっきまでついさっきまで従順だったのに、自分以外の男の話をしたとたん、透耶が何か言いたそうにしている内容を聞こうとしたとたん、透耶は拒み始めた。
嫌いだ、大嫌いだ。そんな言葉、初めて聞いた。嫌われたくはない。だけど、離すつもりもなかった。離れていくつもりなら、今ここで殺してやる、そんな気持ちがあった。透耶はそれをいち早く悟ったのか、余計に暴れ出した。
閉じた足をこじ開け、そこへ身体を忍ばせた。抵抗する気はもうないらしく、透耶はされるがままだった。
これこそ、強姦だ。獣が獲物を捕らえた瞬間だ。
鬼柳は、まるで自分が欲望に性欲に飢えた獣のように思えた。このまま透耶に快楽の一部も与えることもなく、鬼柳はまだ全然解してもいない、透耶の孔に己自身を押し付けて、強引に内部を犯した。
苦痛に耐える声が、唇を閉じたままの喉から漏れている。
このまま犯せば、透耶が傷付く。そんなのは解っていた。
透耶は無理矢理押し入ってくる鬼柳に、激痛を感じながらも声を殺して耐えた。悲鳴も快感も何の声も上げないつもりだったから、唇を噛みしめた。
透耶の孔は、鬼柳自身の大きさに耐えきれるはずもなく、多量の血を流した。それが不幸にも鬼柳を自由に動かす手段になった。
全てが収まると、鬼柳は透耶の肩に噛み付いた。
透耶の身体が震える。
ぎゅっと透耶の中が締まり、それが鬼柳が動く合図になった。
もう形振り構ってられない。
無茶苦茶にしてやる。
そんな気持ちがあった。
無理に動くと透耶の内部も傷つける。だが、それでも鬼柳は止まらなかった。貪欲に動き続け、透耶が達しても、自分が達しても、まだ欲望は収まることはなかった。
ただ、求めるがままに。
獣になって透耶を犯し続けた。
朝になっても、透耶が一人で動けないように、いや指先一つ動かせないように、透耶を全て食らい尽くすように鬼柳は、今までの優しさなどかなぐり捨てて、行為に没頭した。
すごく、罪悪感があった、だが同時に怒りもあった。もうそれがどちらなのかさえ解らなかった。
透耶が欲しかっただけ。
誰にも渡さないだけ。
俺以外見ないようにするだけ。
俺だけの物にする為だけ。
そうしている事で、自分がどんな過ちをしているのか、鬼柳は気が付いてなかった。
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