Switch 20

1

「ん?」
 ぼやっとした意識の中で透耶は目を覚ました。
 だが、それがいつもの目覚め方でないのは、ぼんやりながらも解った。
 一番初めに思ったのは、匂いの事。
 あれ? ……恭の匂いがしない。
 それが最初の違和感。
 次に寝返りを打とうとして、身体がいやに重い事に気が付く。
 ダルイ……。
 無理矢理に身体を動かして、シーツに手が触れたとたん3つ目の違和感。
 感触が違う。
 こうじゃなくて……もっとさらっとしてて……。
 ぼやけたままで、思わずシーツの質感の言い訳をしてしまう。
 目蓋をしっかり開けようとしても重くて重くて仕方が無い。
 寝過ぎたんだろうか?
 そういう感覚。
 しかし、目蓋に意識を集中して、開き、何度か瞬きをしたところで視界がクリアになった。
 白い壁。
 瞬時に変だと感じた。
 ベッドで寝ているなら、壁はこんな近くには無い。
 そして、壁の色は、透耶が好きなブルーの色をしているはずだ。
「絶対、変!!」
 腕の力で上半身を一気に起こした。
 その時、自分の身体に纏わり付くものがあった。
「え?」
 視界に入ったそれを掴んでみる。
 ぎゅっとして引っ張ってみると自分の頭に繋がっているようだ。
 長い、真っ黒な髪。
 な、な、な、な、な、何!?
 握ったまま透耶は放心した。
 何だこれは?
 いや、この感触は二度目だ。
 ……鬘だ……。
 何で寝てる間に鬘なんか被ってるんだ?
 変だ、変過ぎる。
 俺、どうしたんだっけ?
 てか、ここ何処!?
 透耶はやっと自分が居る場所に感心を持つ事が出来た。
 クルリと部屋を見回す。
 丁度部屋は十畳程のフローリングで、ここには今透耶が乗っているベッドと、ソファテーブルに6畳の絨毯、テレビ、ビデオ、そして冷蔵庫がある。
 そしてベッドから右を見ると、ドアが二つある。
 一つは普通の木のドア。もう一つは木のドアなのだが、明り取りなのだろうか、中央に小さな擦りガラスが付いている。
 もう一度部屋を見回して、透耶は悩んだ。
 ま、また?
 蘇る記憶。
 気が付いたら何処だから知らない場所に運ばれているという現象。
 ここ数カ月、何度あった事か。
 だが、それが今までのものとは違う事は、もう一度部屋を見渡して感じた。
 ここには、外部を見る窓が一つも無いのだ。
 まるで、人を閉じ込める為に造られた空間としか思えない。
 どうして自分がこんな所にいるのか。
 透耶は自分が覚えている最後の記憶を辿った。






 ちょうど六月に入って数日経った頃。
 透耶の周りで妙な事が起り始めた。
 まず、透耶宛ての宅急便が来た事に始まる。
 書斎でいつものように仕事をしていると、宝田が大きな箱を持って入って来た。
「透耶様。宅急便が届いておりますが、どちらにお運びしておきましょうか?」
 そう言われて透耶はパソコンから視線を上げた。
「宅急便? 誰だろ?」
 宅急便といえば、ここ最近は、エドワードかジョージからの洋服や出張先からのお土産などが殆どな状況。
 もし宝田が知っている人物からなら、誰々からですと言うはずである。
「こちらで宜しいですか?」
「はい。ありがとうございます」
 透耶が礼を言うと、宝田は宅急便を書斎のソファテーブルに置いて下がっていった。
 透耶は仕事も一段落したので、その差出人を確かめてみる。
 差出人名は、田辺光子となっている。
「田辺? 誰だろ?」
 住所を見てみるが、横浜辺りの住所になっている。
 田辺光子で横浜辺り在住の知り合いには心当たりは無い。
 もしかしたら自分が忘れているだけなのかもしれないと思い、システム手帳を開いて探してみる。しかし、田辺光子の名前は見つからなかった。
 だが、ここの住所を知っているくらいの相手だから、光琉関係というのもあり得るかもしれない。光琉のスタイリストが変わって、自分の名前で送ってくるというのもあるからだ。
 十分程、宅急便の前で悩んで透耶はそれを開けてみる事にした。
 中に手紙かメッセージは入っている可能性もある。
 なるべく丁寧に包装を剥がし、箱を開けてみる。
 が……。
「どういうこと?」
 透耶が呆然したのも無理は無い。
 そこから出て来たのは、女性ものの服、それも真っ白なワンピースだったからだ。
 絶対俺にじゃない!
 絶対間違えてる!
 誰か別の人に送るのに、たまたま俺の名前が住所欄の下か上にあったから、頼まれた誰かが間違えて送って来たんだ!
 そう透耶は言い切ってみたが、そうではない事がすぐに判明した。
 添えられているメッセージには。

『透耶、君にはこれが一番似合うよ』

 そう書かれていたからだ。
 俺、宛てですか?
 何かの嫌がらせですか?
 目的は何ですか?
 これを俺に着ろと言うのか?
 思わず、ワンピースを投げ付けたくなる衝動に駆られる。
 だが、そのワンピースがブランドモノであるのは、いくら透耶が男でも知っている女性服の有名ブランドメーカーである。だから瞬時に怒りは収まる。
 汚れたりして弁償しろとか言われたら、どうしよう……。
 俺宛てなのは間違いないとして。でも田辺光子という人は知らないし、ましてや、女性モノの服なんて、どう考えてもおかし過ぎる。
 いろいろ考えてみたが、答えは一つしかない。
 鬼柳に相談する前に、まず宝田に相談する事にした。



 内線の携帯で宝田を書斎に呼んで、それを見せた。
 宝田もすぐに事情が呑み込めたらしく、すぐに包み紙にある住所氏名電話番号を控えている。
「すぐにお調べ致します」
 つまりそこへ電話を直接かけてみるという事だ。
 でも宝田の調査はこれだけではなかった。
 十五分程で宝田が書斎に戻ってくる。
「まず結果から申し上げます。この電話と住所は存在致しません。それから、こちらのブランド店に問い合わせた所、これを購入したのは20前後の男性で、雑誌カタログを持って来店し、頼まれたモノだと言って購入し宅配にしたそうです。残念ですが、現金払いをしたそうですので、男性の氏名などは確認出来ませんでした」
 たった十五分でそこまで調べてくるから、宝田には驚かされる。
 現金払いで残念というのは、ブランドモノだからクレジットカードを使っている可能性があるとみていたらしい。
 田辺光子は、男が使った偽名である事は判明した。
 もし田辺光子という人物が実在するなら、電話や住所を偽る必要がないからだ。
 では、これは一体何なんだろうか?
 透耶にはそれが解らない。
「これは悪質な嫌がらせかもしれませんね」
「え?」
 宝田の言葉に透耶はキョトンとする。 
 宝田は、大変失礼ですが、と前置きしてから言った。
 透耶を女性と見間違えたか、あるいは男性と解っていて、わざと送ってきているのかもしれないと言った。
 すると透耶は。
「随分、お金のかかる嫌がらせですねぇ」
 などと感想を洩らした。
 透耶の呑気な言葉に、宝田は思わず笑ってしまう。
 ただの嫌がらせなら、こんなブランドモノなど送っては来ないはず。
 余程のお金持ちが暇つぶしにやっているとしか思えない。
「でも、これどうしよう」
 送り返そうにも、相手が偽名を使っているなら送り返せない。
 店に送り返しても、店側も受け取る訳にはいかないだろう。
 当然、透耶が貰って着る訳にもいかない。
「こちらの方は私が処理しておきます」
「お願いします」
「恭一様には、私からお話しておきましょうか?」
 宝田がそう申し出たが、透耶は少し考えて首を振った。
「いいです。たぶん、これで収まると思いますし……あまり心配かけたくないから」 
 透耶はそう言って、取り合えず、この件に関しては黙っている事にした。
 こんなのは無駄に相手にするものではないと思ったからだ。


 だが、それは一回では終わらなかった。


 2回目、3回目となると、さすがに宝田は黙っている訳にはいかないと思い始めていたが、同じ差出人からの宅急便は受け取り拒否にしていたので、透耶はそれでいいと言って、鬼柳には黙っているように言い続けた。
 それを無視している間に、透耶は嫌な体験をした。
 ある日、眠っていると誰かが側にいる気配がしたのだ。
 鬼柳なのだろうかと思っていたが、何か違う気がした。
 覚醒して、上半身を起こした所で、透耶はここにはない、誰か違う人間の匂いが残っている気がした。
 だが、寝室のドアは閉じられている。
 バルコニー側は開いているが、風に揺れるカーテンしか見えない。
 そこへ鬼柳が乾いた服を片付ける為に入って来た。
 透耶がベッドに座っているのに気が付いて声をかけた。
「お、やっと起きたか」
 そう鬼柳が言ったのだが、透耶はバルコニーの方を向いたままで動かない。
 寝惚けているのだろうかと思い、服を棚に一旦置いてベッドに腰をかけてまた声をかけた。
「透耶、どうした?」
 鬼柳がもう一度そう言うと透耶はゆっくりと振り返った。
 その透耶の顔は寝惚けている顔ではなかった。
「……恭、さっきここにいた?」
 透耶が小さな声で言った。
「は? いや、今入って来た所だぞ。今まで下にいたが……?」
 鬼柳がそう答えると、透耶は今にも泣きそうな顔をして鬼柳に抱きついてきた。
「透耶、どうしたんだ?」
 抱きついてきた透耶は震えていた。
 こんな事は今までなかった事だ。
 どうも様子がおかしい。
「何かあったのか? それとも怖い夢でも見たのか?」
 鬼柳は優しい声でそう言い、透耶を抱き締め返して背中を撫でる。
 透耶は、自分が感じた感覚が、現実なのか、それとも夢なのか解らなかった。
 でも、ここに誰かが勝手に入ってくる事など簡単にできるはずもない。そうなると、透耶は自分は夢を見たのかもしれないと思い始めた。
 迷った末に透耶は夢を見たと言った。
「そうか、じゃ寝る時はずっと抱いててやる。そしたら夢なんか見ないぞ」
 鬼柳が笑って言うと透耶は苦笑して言った。
「そんなのいつもじゃん」
 そう言われて鬼柳はそれもそうかと納得してしまう。
 寝ている間、鬼柳は透耶を離さないし、透耶も鬼柳から離れない。
 これ以上何の夢を見ろというのだという状況である。
 透耶は納得してしまった鬼柳を見つめて真剣に言った。
「恭が起きる時、一緒に起こして」
 妙な事を透耶が真剣に言い出したので鬼柳は首を傾げた。
 普段、どんな事があっても、起こそうとしたって起きない透耶が、予定もないのに起こして欲しいというのは、珍しいどころの話ではない。
 眠る時はいつも一緒で、たまにどちらかが早くベッドで寝ているくらいなものだ。
 透耶が言っている意味は、一人で寝るのが怖いという風にしか聞こえない。
 どんな夢を見たらそうなるのか、気になって聞くと、透耶はここに誰か知らない人がいた気配がしたと答えた。
 夢だと透耶は言ったが、それはあまりにリアルで現実と区別出来なかったくらいだったのだ。
 それで透耶は恐がっている。
 気のせいにしては、透耶がこれほど気にするのも気になる。
 鬼柳は、透耶が起きて風呂に入っている間にバルコニーを調べて見たが、とくに何かあるわけではなかった。
 とにかく透耶が恐がる原因を減らす為に鬼柳は透耶に言われたように、朝起きる時は一緒に起こしていた。透耶も素直に起きてくる。だが、寝惚けているから書斎にいるようにと言うと、何故か嫌がって鬼柳の服を掴んで離さない。
 仕方ないので、そのままで鬼柳は朝の仕事、食事や洗濯を済ませる。
 一時間程すると、透耶は完全に目を覚ましていつも通りになる。
 それは変な事なのだが、鬼柳にはちょっと嬉しい事でもあった。いつもは鬼柳が透耶の後をついて歩いているから、透耶が鬼柳の後を必必死でついてくるというような事がなかったからだ。

 
 それから、4回目の服の贈り物が届けられた。
 受け取り拒否にしたのがバレたのか、今度は違う名前を使っている。
 それも、光琉の名前を使っていたのだ。
 光琉が冗談でもそんなモノを送ってくるはずはないと知っているだけに、これは悪質を通り越したストーカーみたいなものだった。
 榎木津で光琉の名前を使ってくるという事は、相手は透耶が光琉と双子である事を知っている人という事になる。
 さすがにこれは鬼柳には黙っておけないと、宝田が言った。
 透耶も無視するのは、無理だと悟って鬼柳に話す事にした。
 相手は、光琉と透耶の事を知っている。しかも光琉の最近引っ越したばかりのマンションの住所までしっかり知っている人物になるからだ。
 身近に相手がいる証拠だ。
 送られた宅急便の説明をして、宝田が一回目に送られて来た時に入っていたメッセージカードを差し出した。
 今回はカードは入っていない。
 それから、差出人についても説明がされた。
 それを全て聞いた鬼柳は、送られて来た真っ白なワンピースを箱から出して見ていた。
 黙っていた事を怒られるかと思ったが、鬼柳は怒っているようではなかった。
「もしかすると、アレの事で、誰かが当りをつけた奴が送ってきてるのかもしれないな」
 そう鬼柳は呟いたのだ。
「アレって?」
 透耶が聞き返す。
「女装のやつ。透耶と光琉を両方知っている奴なら、こういう芸当が出来そうだ」
 鬼柳がそう答えたので、透耶はああっと納得してしまう。
 どうして、白のワンピースにこだわるのかと思っていたが、あれが原因でこうなっているのかと今気が付いたのだ。
 透耶が女装していた事に気が付いているのかはともかく、相手はちゃんと透耶に送ってきているから、女装した事に関係しているのは確かだ。
 透耶が女装した写真がネットで公開されて一週間程経っている。
 ちょうど、服が送られて来た頃と一致している。だから鬼柳はそう言ったのだ。
「透耶。あんまり一人で出歩くなよ」
 鬼柳がそう言うと、透耶は少し困ったように鬼柳を見て言った。
「近所ならいいよね?」
 透耶がそう言うと、鬼柳が透耶を睨み付ける。
「何処へ行く気だ」
「何処って郵便局だけど……」
「俺も行く」
 鬼柳は絶対に透耶が断われないくらいの迫力で言い切った。
 まあ、これも仕方ないかと透耶は諦めていたが、一緒に行くという約束は果たされなかった。
 というのも、透耶が郵便局へ行く日の早朝に、光琉から鬼柳に電話がかかってきたのだ。
 光琉は丁度レコーディング明けだったらしく、こんな時間になったらしい。
 というか、内容が内容だっただけに、かなり急いでいたのだ。
 その内容は、事務所で保管してあった透耶の女装した写真が勝手に持ち出され、ネットで違法に販売されている事が解ったからだ。
 相手がネガを持ち出しているので、鬼柳の怒りもごもっとも。
 使用が終わったら、全て鬼柳のモノになるモノであり、著作権侵害に肖像権侵害もある。
 それを聞いた鬼柳は、即座に家を飛び出して行った。
 透耶は、それを黙って見送った。
 写真一枚ならともかく、ネガには、鬼柳が趣味で撮ってしまった普段の透耶と光琉の兄弟が仲良く談笑している場面が映っているからだ。それは取り戻さなければならない。
 それから、宝田がゴミ出しをしていたのを手伝った。宝田は自分の仕事だからと言ったが、透耶は出来るだけ手伝いたいと言って譲らなかったのだ。
 その時、近所に住んでいるという、同い年の男の子と知り合った。同い年の子と知り合うのは本当に久しぶりだったので、透耶自身嬉しかった。
「ピアノの音が何かおかしい気がして、少しでいいんで見て貰えませんか?」
 その男の子に透耶はそう頼まれた。
 ピアノが絡むと何となく断われない感じになり、透耶はそれを見てやる約束をしてしまった。
 郵便局へ行った帰りに少し寄って見てやれば、一瞬で済む事だと透耶は思っていたのでそれを宝田には話さなかった。
 宝田が忙しく家の中の事をしている途中で、透耶は郵便局へ向かった。
 途中で近所の主婦などと話したりし、帰りに男の子のマンションへ向かった。
 その時、つい3日前から家に上がり込んで住み着いてしまった猫が、透耶の後を付いて来ていた。
 さすがにマンション内に入れる訳にはいかないと、透耶は入り口で猫を止めた。
「クロト、この先は駄目なんだ。先に帰ってていいよ」   
 透耶はそう言ってマンションに入った。
 そして聞いていた男の子の家の前でチャイムを押したはず。
 はずだったのに。




「やっと起きてくれたね」
 いきなり声がして透耶は我に返った。
 すると、二つあるドアのうち、ただの木のドアの一つが開いていて、そこに男が立っていた。
 その男は透耶より、少し背が高いくらいで、体型も細い方に入るだろう。目は細めで、笑っているが目の奥で何を考えているのか解らない所がある。
 だが、その男を透耶はまったく見た事がなかった。
「だ……誰?」
 透耶は男を凝視して聞いた。
 この男は何なの?
 いくら考えても解らない。
 男は透耶をじっと見ると、満足したように微笑んだ。
「やっぱり、長い髪の方が似合うよ」
 男はそう言ってドアを閉め鍵を掛けると近付いてくる。
 透耶は反射的に後ずさった。
「誰!? ここは何処!?」
 透耶はパニックに陥った。
 この男は誰?
 ここは一体何処?
 そればかりが頭の中を回る。
 すると男はベッドの端に片足を乗せて座り、透耶を眺めながら言った。
「自己紹介がまだだったね。僕は佐久間孝。ここは父親が所有している別荘だけど、昔から使って無いから僕のモノと言ってもいいくらいかな?」
 男はそれは何でも無いとばかりに透耶の質問に答えていた。
 男がいきなり自己紹介といい、名前を名乗ったので透耶はすぐに冷静に戻れた。
 咄嗟の嘘にしては、案外あっさりと名乗ったのだ。
 偽名を使い慣れているか、それとも本当の名前を名乗っているのか。
 男は、ニコリとして透耶を見つめている。
「何故?」
 透耶はそう言っていた。
 一言に何故と言ったのか、もう何をどう聞けばいいのか解らなかったからだ。
 何故、自分はここにいる。
 何故、こんな別荘にいる。
 何故、こんな格好をしている。
 何故、恭が一緒じゃない。
 何故、佐久間は自分にこんな事をする。
 いろんな意味が含まれていた。
 意外に佐久間は頭の回転が早いのか、透耶が何を聞きたがっているのか解っているように答えた。
「君がいきなり僕の前に現れたから、咄嗟に連れて来てしまったよ。ずっと見てたけど、これほど近い距離で眺めたのは初めてだった」
 つまり佐久間は、ずっと透耶を知っていた事になる。  
 でも透耶が知らないのは当り前だ。佐久間は透耶の近くに姿を見せて無いから、まったくの初対面なのだ。
 ……連れ去った? 俺、拉致されたの?
 透耶は、その言葉に呆然としたのだが、佐久間に言われた言葉にハッとして聞いた。
「……まさか、服の……」
 送り主なのか。
 そう続けようとしたが声が出なかった。
 透耶がその事に気が付いた事に、佐久間は笑って答える。
「最後のはそうだよ。でも3回目までは僕じゃない。1回目はうっかり受け取っちゃったよね。でも二回目からは受け取り拒否してた。なかなかしっかりした執事さんを雇ってるね。だから、四回目は僕なんだ。確実に受け取って貰えるようにしたよね」
 佐久間は、まるであの家の中に潜んでいたかのように、内容を詳しく知っていた。
 自分が送ったものじゃないモノまで、そこまで詳しく言えるはずがあるわけない。
 透耶が目を見開いて佐久間を見た。
 ……どうしてそこまで詳しいの?
 透耶が驚いている意味を知っているので、佐久間は続けて言った。
「ずっと見てから知ってるよ。君の周りをこそこそと嗅ぎ回っている奴がいる事も、そいつが服を送りつけた事も。そして家に忍び込んで何をしたかも。随分と役に立ったよ。盗聴器を仕掛けてくれから……」
 佐久間はそこまでゆっくりと答えて、いきなりベッドの端に逃げている透耶に一気に近付いた。
 透耶はベッドから降りようとして逃げたがその肩を掴まれ、そのまま俯せにベッドに押し付けられた。
「離して!」
 透耶はもがいて佐久間から逃げようとしたが、細腕の佐久間の何処にそんな力があるのかと思ってしまう程、佐久間が押さえ付ける力は強かった。
 そのまま佐久間が透耶の上に馬乗りになり、暴れる透耶の頭を押さえ付けると長い髪を掻き分けて透耶の項に手を当てた。
「ほら、これの意味も知ってるよ」
 佐久間がそう言って指で撫でた場所。
 そこは、鬼柳がいつもキスマークを残す場所。
「……!」
 透耶はビクリと身体を震わせた。
 佐久間は透耶の耳に唇を近付けてよく聞こえるように囁いた。
「随分、いい声で喘いでいるよね」
 佐久間のその言葉に透耶は心臓が止まる程の衝撃を受けた。
 自分がそんな声を出している場所。
 それは、寝室しかないからだ。
 それに佐久間は盗聴器を誰かが仕掛けていると言っていた。ではその場所は寝室でしかない。
「……まさか……」
 寝室に盗聴器があるのかと聞こうとしたが、佐久間がそれを遮って答えた。
「そう、寝室にあるんだよ。半径500mなら受信可能なんだ」
 佐久間の答えに透耶は頭が真っ白になった。
 全部聞かれていた。
 一番安心できる場所だと、透耶も我を忘れて鬼柳に溺れていた。
 その時、自分がどんな声を出しているのかは解らない。
 だが、自覚している以上に、淫らな喘ぎだったに違いない。
 それが、家から半径500mで、受信可能な機材さえ持っていれば誰にでも聞ける状態だった。その事が透耶を放心させてしまう。
 暴れなくなった透耶に満足したかのように、佐久間は透耶が着ている服の背中のファスナーを一気に降ろした。
 佐久間はそこに手を這わせる。
 透耶の背中には、無数のキスマークがある。
「ほら、こんなにも印がついているよ」
 佐久間のその声で透耶は我に返る。
「嫌だ!触るな!」
 全身を動かして暴れるが、佐久間が馬乗りになっているので、透耶の力ではどうする事も出来ない。
 普段、鬼柳がしてくるのを嫌がった時、簡単に鬼柳を押し退ける事が出来ていた。
 それはいかに鬼柳が手加減してくれていたのかが解る。こういう風に圧倒的に押さえ付けられたのは鬼柳が本気になった時くらいなものだ。
「すぐに逆の事をいうようにしてあげるよ」
 佐久間はそう言って、透耶の背中にある鬼柳が付けたキスマークの一つに唇を付けた。
「嫌だ!!」
 透耶は必至に抵抗するが、佐久間はそのままキスマークの上に更にキスマークを付けた。
「これで一つ」
 塗り重ねたキスマークを指で撫で、佐久間は次のキスマークにも同じ事を繰り返した。
 鬼柳が印として付けているキスマーク。
 それは所有しているのが鬼柳であるというモノ。
 透耶は最近になってその意味を理解した。
 だから、他の誰かに同じ事をされたくはない。
 なのに、佐久間の力に逆らえない自分が悔しくして仕方がない。
 悔しくて、悔しくて、泣きたくも無いのに涙が溢れてきた。
「これで7つ。残りはいくつかな?」
 佐久間が言ってやっと透耶の背中から唇が離れた。
 透耶はもう暴れる程の気力がない感じに、身体の力が抜けていた。
 佐久間は透耶の顔を覗き込んだ。
「あれ、泣いちゃった?」
 佐久間の言葉に透耶は自分が泣いているのだと気が付いてた。
「大丈夫。全部塗り替えた頃には、僕のモノになってるから」
 佐久間が優しくそう言った。
 透耶は涙を押さえて、佐久間を睨み付けた。
「誰がなるものか!」
 透耶が力一杯叫ぶ。
 佐久間の機嫌を損ねたら自分がどうなるか解らない。
 だが、今はそんな事など冷静に考えていられなかった。
 それだけは絶対にないと言い切れる。
 鬼柳以外のモノになるなど、絶対にない。それくらいなら死んだ方がいい。
 透耶はそれくらいに思っている。
 佐久間は、その言葉を受け入れているらしく、苦笑して透耶の上から降りた。
「まあ、今はいいんだけどね」
 佐久間言って、下げた服のファスナーをきっちりと上げて直した。
 それ以上佐久間が何かするつもりはないらしく、ベッドからも降りて行く。
 透耶は佐久間を睨み付けたままで、目を逸らさなかった。
 佐久間から見れば、その透耶の強い拒絶は当たり前の事だった。それでも、尚更欲しいと言わせるくらいに透耶は魅力的だった。
 咄嗟ではあったが、やはり連れてきて正解だったと、自分の判断に間違いは無いと思った。  
 写真や画像で見るより、実物の方が何倍もいいというのは、佐久間にとっては初めての経験だった。
 絶対に自分のモノにしてみせる。
「とりあえず。君にはここで過ごして貰うね。少し不便だけど、もっといい場所を確保出来たら移動するから我慢してね。テレビは配線してないからビデオしか観られないけど、ないよりはいいよね。それから、冷蔵庫もあるから好きに使っていいよ。君の好きなものが入っているはずだから。えっと、こっちのドアはトイレとお風呂だから好きな時に使ってくれていいよ。でも内鍵はないから閉じこもるなんて出来ないから、無駄な事はしないでね」
 佐久間は一気に部屋の中の事を説明して、部屋を出て行こうとした。
 だが、ドアに手を掛けた所で、もう一度透耶の方を振り返る。
「逃げようとしても無駄だよ。入り口はここだけだし、鍵もしっかり付けてあるから出られないよ」
 佐久間はそう言って内鍵を開けてドアの外へ出た。そしてもう一度透耶を見て言った。
「それから、ずっと見ているから、何かやっててもすぐに解るよ」
 佐久間はそう言い残して出て行った。
 外から鍵を掛けているらしい音が幾つかして何も聞こえなくなった。
 透耶はそれを確認すると、ホッとすると同時にまた涙が溢れてきた。
 気持ち悪い。
 吐き気がする。
 本当に鬼柳以外の人に触られるのが、こんなにも気持ちが悪いものなのかと思った。
 身体全体で拒絶する程、鬼柳だけしか受け入れられない。
 それはいい。それでいい。
 だけど、鬼柳のモノだと解っていたのに、それを守れなかった。
 何も出来なかった自分に嫌悪するくらい。
 いつもそうだ。
 助けてもらうばかりで、自分では何もしていない。
 透耶はそこまで考え、顔を上げて涙を拭いた。
 泣いている場合か。
 助けを待っているだけじゃ駄目だ。
 自分で何とかしなければ。
 恭ばかり頼っちゃ駄目だ。
 何から出来る? 
 考えろ!
 透耶はそう自分に言い聞かせて、ベッドから起き上がる。
 そして身体にまとわり付いた鬘に気が付き、それを掴んで取った。
「こんなモノ」 
 鬘を壁に投げ付ける。
 今のは八つ当たりだ。
 落ち着け、苛々したり、焦ったり、動揺したりしては駄目だ。落ち着いて考えろ。
 透耶は自分にそう言い聞かせて、深く深呼吸をした。
 それからベッドから下りる。
 その拍子に、服の裾を踏んでしまい転びそうになってしまう。
「うわっと……!」
 何とか転ばずにすんで透耶はホッとする。
 ん? 何に引っ掛かったんだ?
 そう思って自分が今着ている服を見てみた。
 ……おいおい、これはどうよ。
 そう呟いてしまう。
 今、透耶が着ているのは、真っ白なワンピースなのだ。
 それもズルズルと裾を引き摺るくらいの長い裾のワンピース。これはあのネット連載用のスナップで使ったモノにそっくりなモノだった。
 どうでもいいが、こんなのは普段着れないだろう。
「よし、まずこれだ」
 透耶はまずこのワンピースをどうにかしないといけないと思った。
 こんな服を着たままでは、咄嗟の場合逃げ切れない。
 いや、それどころか、普通でも転ぶ可能性が高い。
 動きやすいように、そして、佐久間が触れないような服。
 そう考えて、透耶は、佐久間に触られた背中を今すぐにでも洗い流したくなった。
 そうしないと背中から腐っていくような感じがしてならない。
 そう考えしまうのを頭を振って振り払らう。
 今は服だ。
 服を探そうと思ったが、もちろんタンスなどはない。
 冷蔵庫の横辺りに、見覚えのある箱が積まれている。
 確か、あれって……。
 一番最後に送られてきた服が入っていた箱。それにそっくりだった。
 透耶はそれを開けてみる。
 中に入っているのは、やはり洋服だった。
 だが、それから出してみる服は、全部ワンピースだった。
「……マニアか」
 透耶は思わずツッコミたくなる。
 こればかりというのは脳が無いような気がする。
 佐久間がこだわっているのは、女装していた透耶の姿なのかもしれない。
 透耶がそう思っていると、下の方の箱から何とか着られそうな服が出て来た。
 チャイナ服だが、薄い布で作られたモノで、上着は複雑な着方をしないといけない感じで、下はちゃんとズボンだった。
「仕方ない。これで我慢するか」
 透耶はそれで手を打つ事にした。
 さすがに下着まで女性ものだったら怖かったのだが、そこまでは徹底してなかったらしい。
 というか、さすがに下着を買うのは恥ずかしいだろう。
 それを持って風呂に向かった。
 ただ風呂を使うのではなく、色々と調べたい事があったからだ。
 そこは、バストイレが共通だった。
 まるで、透耶の趣味まで把握しているかのように、歯ブラシやコップなどはブルー系で統一されている。ゾッとしたのは、ボディーシャンプーやシャンプーが、透耶が使っているメーカーのモノだった事だ。
 ……何でここまで知ってるの?
 それが謎だ。
 引っ越ししてから、一度しか買い換えをしていないから、その時に見られていたという事になるのだろうか?と透耶はそこまで見られていたと思うと、ゾッとする。
 風呂に使うモノは全部揃っていたが、戦える武器になるモノは見当たらない。
 剃刀などもない。
 そして透耶は天井を見上げた。
 そこを見て、透耶は少し笑う。
 やっぱりあった……。
 推測通りの唯一の逃げ道。
 すぐに逃げたい。
 だけど、これで失敗したら、二度と逃げられなくなる。
 それにここが何処なのかという問題もある。
 外へ出れたとして、もし凄い山奥だったら、逃げるという前に自分の体力の方に限界がきてしまう。
 それでは駄目だ。
 まず佐久間の行動から、ここが何処辺りなのか検討を付けないといけない。
 それから逃げても遅くは無いはずだ。
 闇雲に行動するのはやめよう。
 絶対に鬼柳の元へ戻りたいから、よく考えて行動する事にした。
 佐久間はいつも見ていると言っていた。
 もしかしたら、監視カメラか何か仕掛けているのかもしれない。
 だったら尚更、行動には慎重にならなければならない。
 そんな事を考えながら、透耶は佐久間が触った背中を念入りに洗った。
 ……恭、ごめん。
 そんな思いだけが、今は透耶の心の中を占めていた。




 鬼柳が夕方に帰って来た時、玄関に宝田が出迎えに出なかった。
 今まで一度として、出迎えをしなかった事が無いので、鬼柳は不思議でならなかった。
 出迎え出来ない何かがあるのかという思いが働いて、鬼柳は書斎を慌てて覗いた。
 いつもいるはずの透耶の姿はそこにはなかった。
 また何処かでアイデア帳を広げているのかとも思ったが、机を見ると、やりかけだった仕事道具が広げられたままで、少しだけ中断して、また後でやろうとしている体制のまま置かれている。
 PCもスリープにしたまま。
 明らかに少しだけ中断するつもりだった。
 しかし、テーブルに置かれたままのペットボトルの水は、もう温くなっていて、普段ならこんなになるまで放置したりしない。
 何か違和感がある。
 鬼柳は慌てて携帯を取り出して、透耶にかけてみる。
 だが、透耶は携帯に出ない所か、電波が届かない所か電源が切られていると返ってきた。
 普段透耶には携帯の電源を切るなと言っている。
 一人で出かける事はないから、電車にも乗らないし、病院だって行っている訳が無い。
 もし、そうして出かけるなら、出かける前に鬼柳に連絡をしてくるはずなのだ。
 つまり透耶が電源を切る必要はまったくないのだ。
 それなのに電話に出られない?
 何度掛け直してみても返事は同じ。
 変だ。
 何かあったのでは、そう考えが向き始めた時、鬼柳の携帯が鳴った。
 見ると宝田の携帯からだった。
「何処にいる」
 多分透耶と一緒なのだろうと思って聞いたのだが、宝田からは信じられない言葉が返ってきた。
『申し訳ありません。透耶様を見失いました』
「え?」
『午後2時頃に、郵便局へ行かれたのですが、それからお戻りになられません。私が御一緒すればこんな事にはならなかったのですが……申し訳ありません』
 宝田は透耶が戻らないので、今も探しているのだ。
 透耶が黙って出かけるはずはないが、一人で出るなとあれ程言ったのに、透耶は近くだからと安心して一人で出掛けたらしい。
 宝田も片道三分とかからない郵便局で、昼間それも人通りが多い場所なので、こんな事になるとは予想もしてなかったらしい。
 それでもストーカーの事もあり、透耶がいない事に気が付いて宝田は慌てて郵便局まで探しに行ったのだが、その時にはもう透耶の姿は何処にもなかった。
「それで」
『それが、透耶様を見かけた方やお話になられた方は沢山いたのですが、家の前辺りまで、近所の方と帰ってきているのです。なのに、そこから見かけた方はいらっしゃいません』
 宝田は、透耶の足取りを追って、近所中を回っていたらしい。透耶は本当に家の目と鼻の先まで戻っていたのだ。それなのに、そこから忽然と消えてしまっている。
「いつから探している」
『午後2時30分からです』
 鬼柳は時計を見る。
「三時間も経ってやがる」
 透耶が自分で消えたのでなければ、これ程の時間、何の連絡も寄越して来ない事は有り得ない。
 伝言なり宝田にでも、いや、何かあったのなら自分に掛けてくるはずだ。
『透耶様が立ち寄られそうな場所は全て連絡をしてみました。もし電話の後で姿を見られたら折り返し掛けて頂くようにしています。それから気になる事が』
「何だ?」
『郵便局から戻られないので、電話を数度掛けたのですが、初めは呼び出し音が鳴っていました。かなり鳴った後で、留守番電話に切り替わったりしていましたが、3時20分頃に圏外に切り替わりました』
 つまり、それまで透耶の携帯は鳴っていたが、透耶はそれを取る事が出来ない状況で、その後、場所が変わったのか、透耶が切ったのか、それとも他の誰かが切ってしまったのかは解らないが、そこで透耶と連絡する方法が断たれた事になる。
「とりあえず戻って来い」
 鬼柳がそう言うと、宝田は畏まりましたと言い電話は切れた。
 電話を切った後、居間へ行くと、何かを引っ掻く音が聴こえた。
 何だろうと思って見ると、居間から外へ出られるドアに猫がいた。
 その猫は、透耶が庭で拾った野良猫で、今やこの家の飼い猫になっているクロトである。
 野良猫の割には人見知りはせず、人間を恐がらないどころか、少し馬鹿にしている様な感じで、何故か透耶の言う事しか聞かないという複雑な性格をしている猫だ。
 透耶はこっそりと宝田に、「恭がもう一人増えたみたい」と言っているくらいに、透耶が好きだという態度を崩さないし、鬼柳とは反りが合わない。
 とにかく透耶の行く先行く先を付いて回るくらいの執着ぶりだ。
 どうやら、今外にいるということは、透耶に付いて外へ一緒に出ていたらしい。
 鬼柳が窓を開けると、クロトは中へは入らずに、鬼柳をジッと見つめて一声鳴いた。
 そして門の方へ向いて歩き出す。
 鬼柳が何だろうと見ていると、クロトは振り返りその場に座り込む。
 意味も無くクロトがこういう事をするのを見た事が無いから、鬼柳はもしかしてと思い、答えが返ってくるとは思えない質問をしてしまう。
「透耶が何処へ行ったのか、知っているのか?」
 そう問い掛けると、クロトは鳴いて答える。
 答えているのかもしれないと鬼柳は思い、クロトの後を追って外へ出た。
 クロトは付いてくる鬼柳を確認して、先導して歩き始める。
 門を出た所で鬼柳は宝田と鉢合わせた。
「恭一様?」
 鬼柳が猫の後を追って歩いている姿を奇妙に思った宝田が鬼柳を呼び止める。
 しかし、鬼柳はクロトの姿を視線から外さずに言った。
「ちょっと待て」
 何か言いたそうな宝田を止めて、鬼柳はクロトの後を追う。
 クロトは寄り道などせず、目的の場所があるという風に真直ぐ歩いて行く。
 すると、近所のマンションの入り口で止り、鬼柳を振り返り鳴いた。
 クロトが座り込んでいる様子から、ここを目指していたのは間違い無い。
「ここへ入ったのか?」
 透耶がここへ入る理由が解らないが、クロトが鬼柳をからかっている訳でも無い。
 クロトは答えるように鳴いて、入り口に向かって歩き始めた。
 マンションの入り口は自動ドアで、クロトの重さでは開かない。
 鬼柳が後を追って行くと、ドアが開きクロトは迷わず中へ入って行く。
 側に管理人室があったので、鬼柳は中を覗いて管理人のオジサンに話し掛けた。
「ちょっと聞きたい事があるんだが」
 鬼柳がそう声をかけると、オジサンは観ていたテレビの音を下げて受付に顔を出した。
「なんだい?」
「この子を見なかったかと思って」
 鬼柳はそう言って自分の携帯から保存してある透耶の写真を出して見せた。
「ああ、やたらと綺麗な子だね。通ったよ。目が合ったら丁寧に挨拶してくれたから覚えてる」
 余程透耶が丁寧に対応したのだろう。管理人は笑顔で答えた。
「それで、ここから出てきたか?」
 鬼柳がそう聞くと、管理人はうーんと考え込んだ。
「ここにずっといたけど気が付かなかったね。でも、あの子なら帰る時に声でもかけて言ってくれそうだから、まだ出てきて無いのかもしれないね」
 管理人はそう答えた。
 ここへ透耶は入って行ったが、出てくるのを見ていないとなれば、透耶がまだここにいる可能性は高い。
「ありがとう」
 鬼柳はそう答えて、クロトを見ると、クロトはエレベーターの前に座って、ドアが開くのを待っているようだった。
 透耶がエレベーターに乗った所までは、クロトは外から見ていたらしい。
 鬼柳と宝田は、ここはクロトに託すしかない。
 唯一、透耶が消えた場所を知っているのは、この猫しかいないのだから。



 エレベーターのドアを開けると、クロトは乗り込んで匂いを嗅いで座り込む。
 鬼柳と宝田も乗り込みエレベーターを動かす。
 さすがに何階で止まったのかは解らないだろうと思っていたが、一階、一階止めてみるとが、降りようとはしない。
 そして五階に着くとクロトはすぐにエレベーターを降りる。
 入り口で匂いを嗅いで座り、鬼柳に向かって鳴く。
 ここで間違い無いらしい。
 犬程鼻は効かないが、それでも人間よりも何百倍モノ匂いを嗅ぎ分けるのは間違いない。
 まだ透耶が通った時の匂いがしっかりと残っているらしい。
 その匂いを追ってクロトが進んで行くのを鬼柳が追う。
 そしてクロトが止まったのは、ある一室だった。
 そのドアの下をずっとクロトは匂いを嗅いでいる。
 まるで、透耶の匂いがそこだけにこびり付いているかのようだ。
「ここか?」
 鬼柳はクロトがそこから動かないので、透耶はここまで来たのだと思った。
 そして鬼柳が名前を確認する。
「……小島?」
 鬼柳にはその名前に覚えが無かった。
 しかし、その名前を聞いた宝田がハッとして思い出した。
「小島と言えば、確か、透耶様が朝ゴミ出しを手伝って下さった時に、同年代の男の子と話をしてらっしゃいました。それが小島という名前でした」
 宝田の言葉を聞いて、鬼柳は嫌な考えが過る。
 急いでチャイムを押すと、すぐに中から反応があった。
 インターホン越しに会話もせずに、玄関ドアが大きく開かれた。
 出てきたのは、透耶と同じ歳くらいの少年だ。
 その少年は、鬼柳の顔を見るなに。
「何であんたがここにいるんだ!」
 そう叫んだのである。
 鬼柳はその言葉で、少年が透耶と顔見知りであると確認出来た。
 透耶の事を知らないなら、鬼柳の事も知らないはずだ。それをこの言い方である。透耶がここへ来る事になっていたのは明らかだった。
「ああ? やっぱりここへ来てたのか」
 そう言った鬼柳の顔は、はっきり言って宝田も直視出来ない。
 透耶が鬼柳に内緒でここを訪れたという事だけでも、鬼柳はかなり御立腹だったのに付け加え、出てきたのが透耶と同じ年代というのもあり、想像してはいけない事まで疑ってしまう。
 その鬼柳の顔を直視してしまった小島少年は、まるでメデューサに見られたかのように固まってしまっている。
 鬼柳はその小島少年に近付き、胸ぐらを掴んで最高に低い声で言った。
「透耶は何処にいる」
 答えなかったら容赦しないという様な声に、小島少年は叫んだ。
「しっ知らない! あんたが閉じ込めて来られないようにしたんだろっ!!」
 小島少年は、透耶がここへ来なかった事を鬼柳が止めてしまったので来られなかったと思っていた。
「あ? ここまで来たのに知らねぇってのか?」
 鬼柳の恐ろしい剣幕に、小島少年は、この廊下から塀を乗り越えて、突き落とされるのではないかと瞬時に思ってしまった。
 そんな事を玄関でやりあっているが、クロトは興味が薄れてしまったかのようだった。玄関で匂いを嗅いで、それから鬼柳を見たが、鬼柳は小島少年を問い詰めるのに必必死で、クロトの存在さえ忘れているようだった。
 宝田もどうしていいか解らずオロオロとしてしまったが、不意に足に何かが触れた。下を見ると、クロトが宝田の足に前足を当てて叩いている。
 クロトは宝田が気が付くと、フイッと向きを変えて、小島宅へ上がり込んで行く。
 宝田は、ここに透耶がいるのかいないのかは解らなかったが、クロトが何か訴えているのは解ったので後を追って、堂々と小島宅に上がり込む。
 クロトは迷わず、あるドアの前に座る。
 宝田が追い付くと、ドアに前足を当てて開けてくれと言っている。
 宝田がドアノブを回して開けると、クロトはスルリと部屋に入り込んだ。
 ここに透耶がいるのかと期待した宝田だったが、そこで見たモノはそれと同じくらいの衝撃を受けてしまう。
「これは……」
 部屋に入った宝田が見たのは、部屋一面に貼られている透耶を被写体とした写真の山であった。
 噂になっている女装した透耶の写真ならまだしも、そこにあるのは、普段の透耶で、それも何処から撮ったのだろうかと思われる、庭にいる透耶や、バルコニーにいる透耶など自宅を張ってなければ撮れない写真ばかりなのだ。
 つまり、盗撮のモノだった。
 決定的だったのは、ある一つの写真。
 引き伸ばされている新聞紙くらいのパネルに入った写真は、宝田を驚愕させてしまう。
「恭一様!!」
 宝田はいつもの冷静さを失って慌てて玄関で揉めている鬼柳を呼んだ。
 宝田の慌て振りに鬼柳は小島少年を玄関に放り投げて土足で上がり込んでくる。
「何だ」
「これを」
 宝田に言われて鬼柳が部屋に入る。
 さすがにこの光景には驚いたらしい。
 言葉を失って、暫く写真を見ていたが、やはり宝田と同じ写真で視線が止まった。
 ……これは、うちの寝室の写真じゃねぇか!!
 透耶が自宅のベッドで寝ている所を撮った写真だった。
 引き延ばされた写真には、初心者らしい日付けがそのまま入ったままになっている。
 それを見ると、ちょうど透耶が変な夢を見たと言って様子がおかしかった日の日付けだったから鬼柳は、奥歯をギリッと噛みしめてしまう。
 透耶が恐がっていた理由は、本当にそこに人がいたから感じたモノだったのだ。
 しかも寝室は二階で、庭側にある。
 忍び込んだ小島少年は、セキュリティの隙間を付いて、家に堂々と上がり込んでいた事になる。
 他の写真を見ていれば、透耶が庭とバルコニーに出ている写真ばかりだ。
 小島少年は、そこが透耶の部屋だと思い上がり込んでいた。それもカメラを持ってである。
 透耶が一番安心して居られる場所。
 それさえも他人が侵していた。
 透耶には、この世で安心して居られる場所すらないのか。そう思うと、鬼柳はこれすらも玲泉門院の呪いなのかと思ってしまう。
「宝田、写真を全部回収しろ。ネガもだ」
 鬼柳がそう言うと、宝田は頷いた。
「御意」
 頭を下げて、すぐに写真を剥がしにかかる。
 それを見た小島少年が慌てて叫んだ。
「なにをするんだ!」
 小島少年は宝田を止めようとしたが、後ろから肩を掴まれた。
 鬼柳が小島少年の肩を掴んでいた。
「離せ!」
「やかましい! てめぇ、不法侵入で訴えるぞ!」
 その手に力が込められて、激痛が小島少年を襲う。そして、振り返って見た鬼柳の形相は、直視すればまた石になってしまうくらいの怖さである。
 それ以上小島少年は何も言い返せない。
 しかし、鬼柳も不法侵入である。
「てめぇ、他に何をした」
 写真を撮るだけの目的で家に侵入したとは思えなかった鬼柳がそう聞いた。
 小島少年は、不法侵入した事を訴えられると困るらしく、正直に答えた。
「……盗聴器を」
「何処にだ」
「寝室に……仕掛けました……サイドテーブルの所に」
 小島少年がそう答えて、鬼柳は衝撃を受けた。
 そんな所に仕掛けられたら、透耶との性行為の状態が全部洩れていた事になる。
 自分はいいとしても、透耶にとっては耐えられたモノではない。それをネタに脅されたりしたら、透耶はどうなる。
 そう考えただけでもゾッとする。
 盗聴したモノを録音したのかと聞いたが、小島少年はそこまで玄人ではなかったようだった。ただ、透耶の声を聞きたかっただけで、それを脅しにするつもりなどなかったのだ。
 それを聞いて鬼柳はホッとした。
 その騒ぎを聞き付けたらしい、居間にいた小島少年の友達らしい数人が驚いた様子で廊下を覗いている。
 だが、その全員がカメラを持っている事に鬼柳は気が付いた。
 これで、小島少年が透耶をここに呼んで何をしようとしていたのかが解った。
 少年らは、透耶を被写体にしようとしていたのだ。
 だが、この少年らがこうしてカメラを持って待っているという事は、透耶はここには来ていないという事になる。
 鬼柳はハッとした。
 透耶は確かにここに来ようとしていた。そして、この部屋のドアの前までは自力できている。なのにチャイムを押す間もなく、誰か、透耶を付けていた誰かが連れ去ったに違いない。
 そうとしか思えない。
 透耶の行動は、昨日いきなり決めた事だ。
 事前に誰かが透耶の行動を知っていたとは思えない。
 だが、ここから透耶を連れ去るにしては人目が付き過ぎる。
 それに表からなら管理人が気が付かないはずはないし、何よりクロトが何時間もそこで待っているはずもない。
 そしてクロトが玄関の外の廊下でまだ匂いを嗅いでいるのを見て、鬼柳は別の方法があるのだと思った。
「おい、小僧!」
 鬼柳は部屋の入り口でまだ石になったままの小島少年に問う。
「は、はい!」
「ここのマンションに裏口はあるか? でなければ他に出口は!?」
 鬼柳の質問の意図が解らない小島少年ではあるが、その迫力には適わず、しっかりと答えた。
「ここの駐車場なら、地下にあるよ」
 その言葉に鬼柳は更に問う。
「エレベーターでか?」
「はい。それが地下まで降りるので」
 小島少年がそう答えたので、鬼柳はすぐに玄関を飛び出した。
「くそ! そっちだったのか!」
 道理でクロトがエレベーターで異様に反応するわけだ。
 エレベーターまでやってくるとクロトも付いてきた。
 一緒に乗り込んで地下まで一気に降りる。
 地下まで降りると、クロトは匂いがしなくなったのか、キョロキョロとして、そこら中の匂いを嗅ぎ回っている。
 地下を確認すると、ここは昼間でも蛍光灯の灯しかないくらいに暗い場所だった。
 透耶を連れ去った時間帯なら、ここは無人と言ってもいい時間帯である。
 連れ去った相手が、車を使用していたら、ここ程簡単に連れされる場所はない。
 匂いを嗅ぎ回っていたクロトが、ある車のボンネットの上で鳴いた。
 鬼柳が近付いてみると、汚れているボンネットの上に何か擦った痕がある。
 クロトの様子から、犯人はここに一旦透耶を下し、車を準備して乗せて連れ去ったと想像するには十分だった。
 だが、ここを使うには、マンションの住人、もしくは詳しく構造を知っている人間でないと、無理な計画であるのは鬼柳にも解った。
 透耶を一旦ボンネットに降ろした事から、連れ去った犯人は一人。
 そして、透耶をここまで抱えて連れてくる事が出来る人物。
 そうなると、対象は絞れる。
「恭一様。写真、ネガとも全て回収しました」
 宝田が鬼柳の後を追って写真やネガが入った箱を持って降りてきていた。
 鬼柳はジッとマンションの車の出入り口を睨んで言った。
「どんな手を使ってもいい。このマンションの住人、ここに頻繁に出入りしている人間を全て調べろ」
 鬼柳の言葉に宝田はどういう意味なのだろうと聞き返した。
「は?」
「50以上、高校生以下は対象外にしていい。それと体力がなさそうな女も除外にしていい」
 ここまで言われて、宝田はすぐに意図を理解した。
「畏まりました」
 そう言って、宝田はすぐに自宅に戻って行く。
 鬼柳は暫くそこで沸き上がる怒りと闘っていた。
 もうこの場所には用はないとばかりにクロトが歩いて行くと、鬼柳もその後をついて歩いて行った。
 だが、その時、ある呟きが洩れた。
「戻ってきたら、SP50人くらいつけてやる」
 ちょっと目を離したらすぐこれだ。
 いくらトラブル体質とはいえ、起こり過ぎだ。
 鬼柳は声には出さなかったが、頭の中で言葉を繰り返していた。
 俺の忠告を聞かないからこうなるんだ! 
 今度こそ解らせる為にお仕置きが必要だ!



 部屋中を調べ尽して、透耶は一休みをしていた。
 眠られていた為、今日が何日で、何時なのかさえ解らない。
 ここが何処で、周りに何があるのかそれさえ解らない。
 しかも、この部屋がどの位置にあるのかも掴めない。
 物音もまったくしない。
 部屋の外には廊下があるだろうに、誰かが歩いている様子もない。
 さっき佐久間が入ってきた時も、物音がしなかった。
 透耶はそれで、もしかしてこの部屋は防音処理がされているのだろうかと思った。
 娯楽室か何か、映画鑑賞用とかカラオケルームとして使っていたのではないか?
 そう思い、背もたれにしている壁を叩いてみるが、素人に解るわけがない。
 窓が一つもないので、それで一つの考えが浮かんだ。
 地下、何だろうか?
 一応、開かないと言われたドアと鍵も確かめてみたが、透耶の力では壊す事は出来ない造りらしい。
 てか、閉じ込めてどうするんだろう?
 恭のような目的なら、目を離すのは違う気がする。
 そういえば、恭って、俺を監禁してた時って、こうやって一つの部屋にずっと閉じ込めるとかしてなかったよな……。
 透耶はふと、鬼柳が行った、監禁は監禁ではないような気がすると思ったのだ。
 そりゃ、最初は出かける時は寝室に閉じ込めたりしてたけど、本気で逃げようと思えば逃げられない状態でもなかったよな。最終的には俺が諦めてしまったし……。
 でも今は逃げるのには本気なのに、本格的に監禁されてしまっては逃げる道がない。
 諦める訳にはいかないから、何か方法を考えないといけない。
 うーん、あれは最終手段として、取り合えず、佐久間の出方を見てみるしかないんだよね……。
 ていうか、この女装はどうなんだろう?
 そういうマニアなの?
 でも、そういう人って、自分でやる方じゃないのかな?
 違うの?
 そもそも男に女の格好させてどうするんだろう?
 ?????
 わ、解らないよ。
 まあ、このマニアは置いておいて……。
 これって、身代金目的の誘拐じゃないって事だよね?
 ………。
 あああ、今頃、宝田さんが心配してる!!
 てかっ!もう数日とか経ってたら、恭だって心配して探してる!
 ど、ど、ど、ど、どうしよう!!
 俺、また、こんな事になってるし!
 恭、今頃、無茶苦茶怒ってるよねっ!?
 ど、ど、ど、ど、どうやって謝ったらいいんだろう!?
 一生、家に閉じ込められても文句言えないよねっ!!
 うーわーっ! 俺って、自業自得じゃん!!
 と考える前に、今の状況をどうにかするのを考えるべきである。
 はっ! こんな事を考えてる場合じゃなかった!
 透耶は、自分が今考えるべき事はこれではないと頭を振った。
 自分が戻ってからの事は、その時考えるべきだと思った。
 そうしていると、少し気が抜けたのか、透耶は自分がお腹が空いている事を思い出してしまった。
 ……こういう時に。
 何だか、悲しくなってしまう。
 身体の何処にも異常がないから、お腹が空くのは仕方がない。
 出来れば佐久間が用意した食べ物は食べたくはなかったが、食事をしない事で体力がなくなってしまうと、逃げる時に不利になるという考えもあった。
 どうしようと迷って、透耶は取り合えず、冷蔵庫の中を見てみる事にした。
 小さな冷蔵庫の中には、色々な食べ物が入っている。
 大抵は栄養補給の為の食べ物だったりするが、ちゃんとコンビニ弁当も入っていた。
 だが、それの日付けを見ようとしたのだが、ビニールカバーは外れていて、賞味期限が解らなくしてあった。
 それはどういう事なのだろうか? 
 日付けを解らなくさせるどころか、賞味期限が解れば、佐久間が食事を冷蔵庫に入れた段階で、今は何日で何時頃という予想が出来たのだ。
 透耶は一瞬それに期待をしたが、佐久間の方が考えが回っているらしい。
 何日なんか、何時なのか解らなくして、どうするんだろう?
 透耶にはそれが不思議でならなかった。
 まあ、これで、この別荘の近く、それも佐久間がここをあまり離れないで買い物に行けるコンビニが存在するのだと解った。
 そこまで考えて、透耶はコンビニ弁当から手を離した。
 開けられているコンビニ弁当を食べる程の勇気はない。
 そういえば、恭の手料理は何の疑いもなく口に入れていたよなぁ……。
 そう考えて気が付いた。
 鬼柳は作った食事を、いつも透耶と一緒に食べるようにしていた。
 まあ、沖縄に連れ去られた時は、水にしっかり仕込まれたんだけど……。あれは、俺が油断してたし、信用してたから……。
 う……いちいち、恭と比べてどうするんだ?
 恭は佐久間とは違う。
 やってる事は同じだとしても、恭は俺を守ろうとしてくれてた。
 俺をモノのように扱ったりしない。
 その些細な違いが、透耶には大きな違いに思えた。
 透耶は、絶対にここから抜け出すんだと心に誓って、目の前にあるカロリーメイトを手に取った。
 これなら、佐久間が中を開いた形跡がないから、安全だと判断した。
 ペットボトルの水も、全部確認する。
 蓋を開けた形跡もない。底から細工したようでもない。
 蓋を開けて、水の匂いまで確認し、更に一口含んで飲み、暫く体調に変化がないかまで様子を見てみる。
 もし、何か仕組まれているなら、透耶なら30分以内には何か変化が出るものだが、何も変化はないようだった。
 それからカロリーメイトを食べる。
 モグモグと食べながら、今までの調べた所の事を考える。
 うーん、一箇所しか見付けられなかったけど、あそこを使うのはやっぱり佐久間がずっと見ていると言った言葉が引っ掛かるよな……。
「意外にも用心深いんだね」
 その声に透耶はハッと我に返る。
 まただ。
 いつの間にか、佐久間がドアを開けて立っている。
「当り前だ。貴方なんか信用できる訳ないだろ」
 透耶は佐久間を睨んで言った。
 だが、佐久間の視線は透耶から外れて、積み上げられた透耶に着せる為に買っただろう洋服の箱の山に注がれている。
 そして、それを見た後、透耶を見つめる。
 透耶は警戒しながらも、佐久間の様子をしっかりと観察していた。
 何か、佐久間に隙があれば、自分の状況をどうにか出来るはずだと思っていた。
「気に入ったのは、それだけ?」
 佐久間はそう言った。
 別に機嫌が悪い訳ではなく、透耶が自分が買った服の中から一つでも選んでくれた事に満足しているかのようだった。
「男なのに、そんなの着られる訳ないだろう」
 透耶がそう言い切ると、佐久間はワイシャツの胸のポケットから何かを取り出した。
「この時には着てたのに?」
 佐久間が言って透耶に見せたのは、鬼柳が取った透耶の女装の写真だった。
「……それ」
 透耶はそれを見て愕然とした。
 それは、光琉がネットで使用しないはずの写真だったからだ。
 あの小説のイメージである、光琉を夢に引きずり込むという女性のイメージではない。明らかに、撮影の合間に鬼柳が撮っただろう、透耶が光琉と笑って写っている写真なのだ。
「まさか……。あんたが光琉の所から盗んだのか?」
 透耶は佐久間にそう聞いた。
 盗まれた写真は、確か、透耶の女装写真を売る為に盗まれた。
 光琉の普段の素顔の写真も売れるだろうが、透耶と光琉がセットになった写真を買う人間はそんなにいないはずだ。
 だから透耶はそう聞いたのだ。
「いや、盗んでないよ。それは他の奴。僕は少しだけ分けてもらったんだ」
「分けて?」
 ……どういう事?
 透耶には、盗んだ奴と佐久間の繋がりが解らない。
 すると、佐久間は物凄く簡単だとばかりに答えた。
「盗むのを見逃す代わりにね」
 その言葉に、透耶はハッとした。
「光琉のスタッフなの?」
 まさかとは思ったがそれしか考えられない。
 盗むのを見逃すという事は、その盗みの現場を佐久間が見ていなければならない。
 そして、それを条件に見逃すという事は、その場にいてもおかしくない人間でなければならない。
 つまり、光琉の事務所に簡単に出入り出来、写真を保管していた所に近付ける者でなければ、そんな言葉は出て来ないからだ。
「まぁね」
「だから、俺を知ってた?」
 だから、こんな事をしてる?
 男だと解っているのに、女装させるの?
 聞きたい事は山程ある。
「そう。あれから、ずっと見てたんだよ。だから、君の周りをうろついている奴等の事も全部知っている」
 佐久間はそう言っている。
 俺の周り?
「どういう事?」
 さっき、自分の家に忍び込んだ人がいるって言ってたけど。
 その他にも誰かいるって事?
 透耶には誰かに見られているという自覚はない。それより、鬼柳を見ている人がいる方が気になるくらいだ。
「僕みたいに、君をこういう風に欲しがっている奴が沢山いるって事だよ」
 佐久間がそう言った時、透耶は佐久間を睨み付けた。
「俺は恭のモノだ!」
 透耶は叫んだ。
 自分は鬼柳のモノになっている。今更他の誰かのモノになるつもりなど毛頭ない。
 佐久間を怒らせてしまうかもしれないと思って言ってはいけないとは思うのだが、これだけは譲れないと透耶は佐久間に言っていた。
 だが、意外にも佐久間は微笑んでいる。
「それでもいいよ。その方が、自分のモノにした時の喜びが何倍にもなるからね」
 佐久間はさらっと恐ろしい考えを口にした。
 透耶は目眩がした。
 ……ど、どうしよう。
 恭以上に変態だっ!!
 恭の方が、何倍もマトモだ!!
 透耶がそう困惑していると、頭にフワッと何かが被せられた。
 ギョッとして見上げると、いつの間にか佐久間が側に立っており、自分の頭にはまた長髪の鬘を被せられていた。
 透耶がムッとして脱ごうとすると、その腕を佐久間に掴まれた。
「そのままの方がいい」
 佐久間がそう言うが、透耶は睨み付けて言い返す。
「嫌だ」
 透耶は、これが佐久間の望む姿であるなら、変な気持ちが起きないようにしなければならないと思ったのだ。
「じゃあ、キスしちゃうけどいい?」
 佐久間は言って、透耶の腕を引っ張って自分の方へ近付けた。
 透耶は大慌てで叫ぶ。
「か、被ります!」
 透耶がそう答えたので、佐久間はニコリとして透耶に言った。
「いい子だね」
 佐久間はそれで満足したのか、腕を放して顔も遠ざけてくれた。
 とりあえずホッとする透耶だが。
 ああああ、何だかんだで、言う事きいちゃった……。
 どうすんだよー!佐久間なんかの言いなりになったりして!
 一人パニックな透耶。
「本当に、今まで出会った中で一番綺麗でいい子だよ」
 佐久間は透耶を見つめるとそう言った。
 満足したような笑顔の佐久間。
「え?」
 透耶には意味の解らない言葉だった。
 だが、佐久間はそう言い残すと部屋を出て行ってしまう。
 今の何?
 どういう意味?
 何か含まれた意味がある気がして、透耶は引っ掛かってしまう。
 うーんと考えてしまうが、すぐに顔を覆ってしまう長い髪が邪魔になってしまう。
 ムッとして髪を掴んで脱ぎ捨てようとしたが、考え直した。
 どうせ、また被せられてしまうだろうと思い、これはこのままにしておくべきなのだろうと考えた。
 とりあえず、佐久間の許容範囲を越えない程度に反抗して、顔色を伺いながら逃げるチャンスを見極める事にした。
 色々と考えを出していたが、さすがに段々と眠くなる。
 眠いが、眠るのも怖い。
 すると、いきなり部屋の明かりがいきなり消されてしまう。
「え?」
 ……どういう事? 
 真っ暗になって透耶は考えてしまう。
 これは眠れって意味なのだろうか?
 結局部屋の明かりを消してしまう意味は解らなかったので、眠れという強制なのだと思う事にした。
 しかし、眠っている間に何かあるかもしれない。
 透耶はそう思い、ベッドの下に毛布を持って滑り込む。
 幸い、ベッドの下は広くて、透耶でも寝返りが打てる広さだった。
 毛布を下に引いて、枕は引かずに耳を床に当てて眠る。
 こうすれば、部屋に入ってきた佐久間の足音くらいは聞き取れるだろうと思ったのだ。
 眠らないという方法も考えたが、いざという時に体力がないのも問題になる。
 それは、前の誘拐で身を以て味わった事でもあった。
 自分の体力を保つ為には、食事と睡眠を抜く訳にはいかない。
 佐久間が何かしてきたら、その時考える事にしよう。
 透耶はそう決めて、重くなった目蓋を閉じて眠った。
 偶然ではあったが、透耶が眠る事で、佐久間の行動の一つが理解できる結果になったのであった。





「ほう、それでまた私の所の捜査員を借りたいと?」
 エドワードは、そう鬼柳に聞き返した。
 絶対にエドワードに頼みごとをしない鬼柳が、電話ではなく、わざわざ日本本社に出張中のエドワードの所へやってそう頼み込んだ。
 今にも土下座しそうな程の気迫さえ感じられる。
「金は払う。必要経費は全部請求してくれ。貸してくれというより、雇いたい」
 いつもなら、勝手に借りていくと言い出す所なのだが、鬼柳はきちんとした契約をしたいと言っているのだ。
 エドワードはこれですぐに透耶に何かあったと悟る。
 こんな事を鬼柳が言い出す理由は、透耶にしかない。
「それで、透耶に何があったんだ?」
 エドワードにそう聞かれ、鬼柳は言いにくそうな顔をしていた。
 もう一度エドワードが聞き返すと、鬼柳は渋々答えた。
「透耶が行方不明なんだ」
 やはり。
 エドワードはそういう事だろうと思った。
 鬼柳は自分で出来る事なら人の手を借りずに何でもやってしまう。それが出来ない状況、それが透耶の行方の事だった。エドワードの手を借りてでも探し出したいと思ってここまでやってきた。
 鬼柳は自分が付いていながら、行方不明にさせてしまった事を後悔している。側を離れなければ、こんな事にならなかったのにと。
 押さえられない不安。
 隠し切れない動揺。
 鬼柳を知っている人間なら、すぐに解ってしまう程に、鬼柳は透耶が居なくなった事に耐えられないという表情をしていた。
「どうして居なくなったんだ」
 エドワードはその理由を聞く。
「近所のマンションの知り合いを訪ねるつもりで、そこへ行った。だけどいつまで経っても帰って来ない。知り合いの家も探したが透耶は来てないと言ってた。だから誰かに連れ去られたと思う。それを調査したい」
 鬼柳が正直に話すと、エドワードは溜息を洩らした。
「恭、それはもう警察へ通報した方がいい。前のように、攫われたという確たる証拠などがある訳じゃない。私の所の捜査員は確かに優秀だろう。だが、忽然と消えた人間を探し出すのは容易ではないんだ」
 エドワードは、そう鬼柳に言った。
「解っている。だが、警察は信用出来ないし、俺が動けなくなる。じっと家で身代金要求がくるかもしれないと待っているのは性に合わない。自分で動きたいんだ」
 前の誘拐で、警察よりもエドワードの捜査員の方が遥かに扱いやすい事を鬼柳は実感していた。
 だからこそ、時間はかかってしまうが、エドワードを直接訪ねてきているのだ。
 エドワードは、少し考えた。
 鬼柳が自分に対してこれほど真剣に頼みごとをしてきた事はない。
 そしてこれほど、弱い所を見せる鬼柳も見た事はない。
 全て曝け出しても構わないとさえ思っている。
 そこまでして、透耶を求める鬼柳。
 動かずに待てと言われた所で、この男はそうは出来ない。世界中を駆け回ってでも、透耶を探し出すだろう。
 エドワードの返事を待つ間、鬼柳の手は震えていた。
 透耶を失うかもしれない。
 その恐怖がそうさせる。
 もし、透耶を失ったら、鬼柳は今度こそ死人のようになってしまう。後追い自殺はしないだろうが、生きる気力を失ってやがて花が枯れていくように精気を失っていくだろう。
 この鬼柳を見て、手を貸さないとは言えないエドワードだった。
「解った。捜査員は貸そう」
 その言葉に鬼柳が顔を上げた。
 だが、エドワードはこう言った。
「ただし、契約料などはいらない。そのかわり、お前にやって貰いたい事がある」
「何を?」
 今なら、何でもやってやるという勢いで鬼柳は条件を聞こうとした。
「簡単だ。随分前にお前が作った企画書なんだが、あれが今回使えそうになってきた」
「そんなもの作ったか?」
 さっぱり覚えていない鬼柳。
 自分がどの企画をどれだけ手掛けたのかさえ鬼柳は覚えていない。なので、それ相当の報酬料を払っても、鬼柳には何の事なのか解らないくらいである。
 まだ使える企画は、本社に保管し、事あるごとに使おうとするが、応用が出来ないままになっている。
 鬼柳が時々エドワードの仕事を手伝っていたというのは、この企画書関連なのである。
 だがそれに鬼柳は気が付いてない。
「覚えてないだろうとは思ったよ。お前が作った100の企画書は、応用出来る様に組まれていた。だが、あれは誰にも応用が出来ないままになっている」
「そんな事があるか。誰でも出来る」
 鬼柳は本当にそう思っているようだった。
「それが出来ないから、こうして条件を出している」
 エドワードが何を望んでいるのかは鬼柳にはすぐに解った。
「それを作り直せばいいのか?」
「そういう事だ」
 友達が大変な時にこういう条件を出すのは、普通なら薄情とか、利用していると思われるだろう。
 しかし、鬼柳にエドワードから借りを作ったと思わせる方が、二人の関係が上手くいかなくなってしまう。
 何かをする時に何かを条件つける事。それが二人がこれまでにやってきた関係であり、当然の成り行きなのだ。
「……解った。透耶が戻ったら、全部やってやる」
 そんな事くらいで透耶が戻るなら、いくらでもやってやると鬼柳は思った。
 鬼柳がやると言ったら本気でやる。その言葉だけで、交渉になる。
「交渉成立だ。2時間以内に捜査員を揃える。だが、一応透耶の家族に連絡をして、警察にも通 報しろ」
「解った」





 そうして家にはエドワードから派遣された捜査員でごったかえしになっている。
 鬼柳は、まず光琉に電話をして事実を伝えた。
 すると光琉は、実家へは自分が知らせると言った。
「ほら、面識がない鬼柳さんが電話なんかしても、お祖母様は信用しないだろうし。大丈夫、お祖母様って豪傑だから、動揺はしないし、後は鬼柳さんが出来る事をやってくれればありがたいよ。俺は動けないし、もしもの為にはお祖母様には実家で待機してもらった方がいいから」
 動揺する鬼柳とは裏腹に、光琉は落ち着いた様子でそう答えた。
 まるで、そうした事には慣れているとばかりだ。
「悪い。俺がついていながら」
 鬼柳がそう謝ると、光琉が溜息を洩らしている。
「どうせ、透耶が悪いに決まってる。あれは自覚ないからな。何かあったらマネージャーの方へ連絡して欲しい。俺も仕事が一段落したら、また連絡するから」
「ああ解った」
 電話を切った所で地元警察がやってきた。
 さすがに、家の中にいる独自の捜査員を見て、驚いているようだった。
「貴方が責任者なんですか?」
 居間に通された刑事がそう言った。
「そうだ。あれらの事は気にしなくていい」
 鬼柳の落ち着いた声に、刑事は何か裏があるような気がした。
 そして透耶が行方不明になった状況を話すと、とりあえず実家と、ここに身代金要求があるかもしれないからと、逆探知の装置を取り付ける事になった。
 透耶が一人で遠出はしないし、知らない人間についていく事もない。殆ど自宅で仕事をしているという状況から、いなくなる理由がまったくない事が解ったからだ。
 だが、警察がするのは家出人捜索程度にしかやれない。
「申し訳ありません。今、抱えている連続女性行方不明事件というのを抱えてまして、捜査員が足りない状態なのです」
 たった2人しか派遣されなかった警察に鬼柳が批難したところこんな答えが返ってきた。
 すると、それを知っている宝田が言った。
「この辺りで起っている、帰宅するはずの女性が戻って来ないという事件ですね。確か、もう4人程行方不明だとか?」
 この近くで起っている事件だけに、宝田は情報は仕入れていた。鬼柳の態度より、宝田の大変ですねという気遣いに、刑事は言わなくてもいい情報を話してしまう。
「ええ、そうなんです。特徴が似ているので、同一犯ではないかと」
「特徴ですか?」
「髪の長い、大変綺麗な女性ばかりなのですよ。それも、絶対に行方をくらませたりしないという器量 のいい女性ばかりで、長い人で、もう3ヶ月行方が解りません」
 刑事がそう言ったとたん、鬼柳がその話に興味を覚えた。
「ちょっと待て、状況的に透耶の行方不明のと似てないか?」
 そう言われて、刑事はああそうかもしれませんとは答えた。
「ですが、榎木津透耶君は男でしょう? 関係はないでしょう」
 そう刑事が断言したが、すぐに鬼柳は自分が持っている透耶の女装写真を取り出して刑事に見せた。
 それを見た刑事は驚愕した。
「こ、これは!」
「ちょっと、行方不明の女性達と似てますよ! どういう事なんですか!?」
「この綺麗な女性は誰なんですか!?」
「まさか!」
 刑事は、まさかと思いながらも鬼柳に尋ねた。
 これが榎木津透耶だというのか?という驚きだ。
「これは透耶が仕事で女装した時のモノだ」
 男が女装して、ここまで女性に見えるのには刑事も驚いた。
 確かに普段の姿でも、まだ幼い顔つきで、女の子だと言われたらそう信じてしまいそうな顔つきをしている。それが完璧に女性に化けてしまっている姿があると、衝撃すら受けてしまう。
「女装……仕事とは?」
 透耶がそうした仕事をしているのかと聞きたいのだ。
「弟が芸能人をしていて、極秘扱いでやった、ネット上で連載されている小説のスナップだ。この写 真のネガが盗まれ、ネットのオークションで大量に出回っている事が昨日解って、今警察が介入して調査をしている」
 榎木津光琉の事は警察も知っている。透耶と双子だと解ると納得してしまった。
「という事は……女装した透耶君を連れ去った可能性があるという事ですか?」
 普段から透耶がこうした姿でいるのだと刑事は思ってしまったらしい。鬼柳がそれを否定して、仕事の内容を説明した。
 あの女装は、あの日一日だけのもので、ネットの連載用にしか使用していない。
「いや、透耶が女装したのは一日だけの仕事だ。その女装したのが透耶だと知っている人間でなければ、男の透耶を連れ去る事は出来ないだろう。あの場所で、榎木津透耶が女装していたと知っているスタッフは数える程しかいないはずだ」
 鬼柳は自分でそう言って、ふと考えてしまう。
 透耶が女装した写真がネットに出てから、奇妙な贈り物や小島少年のような人間が増えている。
 しかし、透耶が女装していたという事に気が付いた小島少年は、ただの思い込みから想像しただけで、透耶と女装した透耶が同一人物だという事には、あの場にいた少年らは気が付いてなかった。
 光琉のスタッフも、光琉の側近と言われる人物達しか透耶の女装の事は知らない。他のスタッフは架空の人物として作った外国人だと思っている。事実透耶の写 真を売っていた男も、榎木津透耶だとは気が付いてなかった。
「つまり、スタッフ関係者の中に情報を流した人間がいるか、事情を知っている人間という事に……」
「二つの事件が同一犯なら」
「可能性はあると思います。調べてみる必要がありますね」
「光琉に話が聞きたいなら、ここへ呼んだ方がいい。外では騒ぎになって犯人に嗅ぎ付けられる可能性がある」
「そうできれば、そうします」





 次の日、さっそく光琉が呼ばれた。
 仕事の合間の僅かな時間だったが、光琉は開けられる時間を最大に開けて家にやってきた。
「え? 写真を盗んだ奴が犯人なのか?」
 話を聞いた光琉はいきなりの言葉に驚いていた。
「いえ、そうではなくて、可能性の問題です」
 刑事は慌てて可能性の説明をした。
「あー、そうか。あいつな訳ないよな」
 光琉はそう呟いた。
 写真を盗んだ犯人は、もうとっくに捕まっていた。
 光琉の事務所を調べた警察が、ネット販売をしていた連絡先から、光琉の事務所のアルバイトの男を窃盗などで取り調べをしている。
 つまり、透耶を誘拐したと思われる時間、その男は警察の調査対象になっており、透耶を誘拐する時間などはなかったのだ。
「あいつはただ金になると思ったからやった犯行だっただけで、透耶に関しては感心はなかっただろう」
「そう、アレが透耶だって気が付いてなかったし、ましてや俺の兄だなんてまったく思いもしなかったようだよ」
 そう透耶が女装した姿であるという事を窃盗の犯人は知らなかったのである。
「という事は、他のスタッフか。光琉、そのスタッフの中で、この近所にマンションや家を持っている奴はいるか?」
 二人は、刑事を無視して勝手に話を進めていく。
「んー。それは調べてみないと解らないけど。あ、そうだ。今日、一人スタッフが諸事情でやめたんだ。家族で引っ越すとか言ってたんだけど、おかしいんだよ」
 全然関係なさそうな話題を光琉は持ち出してくる。
 だが、鬼柳はそれを問う。
「どういう事だ?」
「そいつの実家って、東京なんだけど、親父は会社経営してているんだから、引っ越すなんて有り得ないだろ?」
「かなり大きい会社なのか?」
「たぶん。うちで貰ってる給料じゃ、外車は買えないし、ブランドの服なんて着れないよ。あれは親から金貰ってるんだって皆言ってる。二十歳過ぎた息子に多額の小遣いをやるなんて、相当な金持ちじゃないとしないはずだしね」
「そいつがどうして気になるんだ?」
「引っ越しの事は本当かどうか解らないけど。元々そいつの私生活って解らないんだよ。仕事が終わったらさっさと飛んで帰るし、飲み会とかも絶対出ないし。でも独身で一人暮らしとか言ってるのを聞いた人もいる。人当たりが良すぎるくらいだけど、こう見えないって感じかな?」
 光琉はうーんと唸りながらそう言った。
「それが怪しいんですか?」
 刑事には何が怪しいのか解らないという風だった。
 だが、鬼柳には解ってしまう。
 透耶も人を判断するとき、何か引っ掛かる事があると、端切れが悪い言い方をする。これが変だとははっきりとは解らないのだが、どうしても気になってしまうのだ。
 人当たりがいい光琉が関わってみてもなお、その人物が解らないというのは、そのスタッフが初めてなのだ。
「あのスタッフの中で怪しい人物を言えって言われたら、俺はそいつしか思い付かないよ」
 光琉はそう言い切った。
 だが、マネージャーは別に怪しいとは思わないらしい。光琉からそう言われたのも初めてだったので、困惑しているようだった。
「なら、窃盗した奴に聞いてみればいい」
 鬼柳がそう言ったので、刑事が何を言っているんだと首を傾げた。
「そいつが透耶に興味があったとしたら? そいつも写真を欲しがったはずだ。ネットで写 真を買った可能性もあるだろう。しかも、同じスタッフの中から写真を購入してくる奴がいたとしたら、名前を見ただけで、解るだろ?」
 誘拐犯が透耶の写真を購入したと考える方が妥当だろう。
「ああそうか。そいつがもし犯人だとしたら、まず写真を欲しがるよな」
 光琉は納得する。
「そいつが透耶を連れ去った犯人なら、透耶を手に入れた段階で、光琉の事務所にいるのは危険だと判断する」
「可能性としてはありだよな」
 鬼柳と光琉は推測で話を進めていってしまう。
 警察には、もうなんの事だか解らない。何を根拠にそうなるのだと半分呆れている。
 そう話していると、その話を聞いて調査をしていたエドの捜査員が、衝撃的事実を持って現れた。
「その人物ですが、透耶様の行方が途絶えたマンションに部屋を一つ持っています」
 鬼柳がマンション住人を調べろと言っておいたので、昨夜のうちにマンションの住人と持ち主を全て調べていたのだ。
「本当か?」
「はい。名義は父親のモノですが、住んでいるのは20代の息子だそうです」
 そう言って捜査員はその資料を鬼柳に渡した。
「名前は、佐久間孝……か」
 その名前を聞いて、光琉は叫んだ。
「そいつだ! そいつが今日辞めた奴だよ!」
 まさか、ここで名前が一致するとは、刑事も思ってなかったようで、驚いて鬼柳と光琉を見ていた。
 何も関係ない会話をしているかのように思えたが、それが微妙に繋がっている。
「佐久間ですが、ここ最近、マンションには戻ってないようです。近所の人の話では、週に一度戻る程度で、そこで暮らしている様子はないそうです」
 それを受けて、鬼柳は考えた。
「ということは、佐久間は別の場所に住んでいるんだな」
 マンションで人を監禁して暮らしていくのは、無理ではないだろうが、透耶の事だ、かなり無茶をして逃げ出そうとするかもしれない。
 佐久間がもし透耶に執着していて攫ったのであるなら、より完全な監禁場所を選ぶだろう。
 周りに住人がいないような場所。
 出入りを怪しまれない場所。
「よし、佐久間を徹底的に洗え。父親の持ち物で、普段使ってない別荘関係もだ」
 鬼柳がそう指示を出すと光琉が付け足した。
「それなら、東京近辺だよ」
 光琉がそう指摘した。
「別荘とかで遠い場所なんかだったら、通えないよ。そいつ仕事には一度も遅刻した事ないんだ」
 光琉の指摘に捜査員は頷く。これで、佐久間の行動範囲が限られてくる。
「それから、携帯が圏外になる場所だ」
 鬼柳がそう付け足した。これは宝田が言っていた事を踏まえてだ。
「ちょっと待て! お前ら勝手に!」
 勝手に話を進めて行動しようとしている鬼柳達を、刑事が慌てて止める。
「警察は警察の出来る事をやればいいんだ。こっちはこっちで勝手にやる」
 鬼柳は警察の捜査の方が遅いと踏んで、自分達で調べようとしていた。
「いや、待て。やって貰いたい事がある」
 鬼柳は何か思い付いたのか、刑事の方を向いて言った。
「佐久間の親父が居所に心当たりがあるかもしれん。そっちは刑事に聞き込みして貰った方が手っ取り早いかもしれん」
 いきなりそう言われて、刑事は戸惑う。
「ちょっと待てって! どういう容疑で息子を調べてるんだって言われて、誘拐容疑と言ったら大抵の親は自分の子供がそんな事するはずないと言うぞ! しかも手違いだったりしたら」
 刑事がそう叫ぶと、鬼柳は落ち着いた声で言った。
「じゃ、写真盗難の件で事情を聞こうとしたら、いきなりバイトを辞めて姿をくらましたので、事情を聞けなくなったとでも言え」
 鬼柳は命令口調で刑事に指示を出す。
「おい!」
「その時、息子が盗んだ容疑ではなく、犯人を目撃しているかもしれないとだけ言えばいい。そうすれば、捜査協力だから親父も油断するだろう」
 鬼柳はそう刑事に命令するように言った。
 刑事はもちろん反論したかったのだが、どのみち、佐久間孝は調べる対象の一人として名前が加えられていたので、鬼柳の言う事を完全に否定出来なかった。
「解った調べる」
 グッと怒声を呑み込んで刑事が言った。
「くそっ、あんな若造の捜査なんかに負けてなるものか! 急いでその佐久間とか言う奴を調べあげるぞ!」
 結局鬼柳の思惑通りに動く事になってしまった刑事は、玄関先でそう叫んでしまった。
「森刑事」
 見送る為に後ろにいた宝田がそう呼び掛けると、刑事は驚いて飛び上がってしまう。
「うあっ、あ、執事さん」
「申し訳ありません。恭一様は透耶様が行方不明になられてから、かなり気が立ってまして……」
 普段から誰に対しても同じなのだが、今回は有無を言わせないような圧倒感を与えているのは確かだった。
「しかし、あれではあんたも大変だろう?」
 あの言い様では、かなりの傍若無人で大変だと宝田に同情した言葉だったのだが、宝田はニコリと微笑んで言った。
「いえ。刑事さんも自分の一番大切にしている人の行方が解らなくなったとしたら、冷静ではいられないのではありませんか?」
 宝田のもっともな意見に、刑事はガシガシと頭を掻いた。
「そうだな……確かに冷静でいられなくなる」
 あれでも鬼柳は透耶を一刻も早く見付けたくて行動しているだけなのだ。その為には何を犠牲にしても、何を利用してもいいと思っている。
「けど、あの二人はどういう関係なんだ?」
「小説家とカメラマンねぇ。年令も違えば国籍も違う。何処にも接点がないようなのが、一緒に家に住むかねえ」
 そこまで考えて、刑事はそれ以上踏み込んだ事は言えなかった。どんな関係であろうが、彼等は被害者なのだ。
 偏見、差別で捜査方針を変える訳にはいかない。
 とにかく、佐久間孝という人物を調べあげる事が優先事項だった。


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