Switch 16

1

 夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言ったものだ。
 ヘンリーは諺に納得してしまう。
 あれ程の喧嘩をしておきながら、翌日にはもういつもの通りになっているのを、心配して様子を見に来たヘンリーが呆れた程だった。
 さすがに一度激怒して失敗している鬼柳は、二度同じ鉄を踏まない。
「話せば解るし」
 などと、鬼柳が飄々と言って退けたもんだから、ヘンリーはもうこいつらの痴話喧嘩など心配しないと心に誓った。
 
 結局、あの喧嘩の結末は、鬼柳が透耶に色々とやらせる事で、決着がついている。
 つまり、透耶に与えられたのは、ペナルティーな訳だ。
 どうせだからと暇そうな鬼柳を誘って、ヘンリーは出掛けていった。透耶はまだ新作の追い込みだったので、返事だけして見送った。
 夕方に仕事が一段落した透耶は、そろそろ覚悟を決めなきゃと書斎で一人で呟いていた。
「うー、電話は怖いし、引っ越ししたのもバレてるし、なのに携帯に連絡がないのは何故だろう?」
 携帯電話を握り締めて、ある名前を溜息と共に見つめていた。
 ある名前、それは弟の光琉だ。
 ずっと連絡を取ってない。
 2ヶ月以上。
 もうすぐ六月になる。
 さすがにこれはヤバイと思い始めた。
 中々言い訳が見つからず、何と話していいのか悩んだ。
 笑って済ませようにも、笑えない話で。
 何度目かの溜息を吐いた所で、鬼柳が話し掛けてきた。
「なあ、どうしたんだ?」
 その声に驚いて、透耶が顔を上げた。
「あ、恭、帰ってきたんだ。お帰り。いつからいた?」
 いつの間にか、鬼柳が透耶の横にいる。
「ただいま。いつからって、俺が来てから、透耶が13回溜息を吐いた」
 鬼柳は至って真面目に答える。
 俺は数えてねえ……。
 透耶は自分がそれだけ溜息を吐いていたのかと驚いてしまう。
 そこまで考えて透耶は、ふとペナルティーを思い出して、鬼柳のシャツを握って引っ張り自分に近付けると、自分から鬼柳の唇にキスをした。
「おかえりなさい」
 にっこり笑って言い直すと、鬼柳も笑って「ただいま」と言い、透耶の額にキスをした。
 これがペナルティーな訳だ。
 恥ずかしがって、宝田の前ですらキスをするのを嫌がる透耶に、いってらっしゃいとお帰りのキスを透耶からする事。
 鬼柳ならではの考えだ。
 ちなみにペナルティーの期間は、一生である。
 さすがに抜かりはない。
「何? なんか困ってる?」
 ひょいっと携帯を取り上げられた。
 どうせ中身は確認済だろうから、今更見られた所でどうってことない透耶である。
 しかし、そこにあるのは光琉(みつる)の携帯番号である。
「光琉?」
「うん、そろそろ話しとかないと思って」
「そうだなあ」
 鬼柳は言って、抱えていた箱を机に置いた。
 それを見て透耶が不思議そうな顔をする。
「これ、何?」
 指を差して聞くと、鬼柳が下を見る。
「ああ、ヘンリーとパチンコ行ってきた。それ景品で洋梨」
「え? パチンコやるんだ?」
 そういう娯楽に興味はないだろうと思っていたから、透耶は意外な事に驚いていた。
 だが、鬼柳から返ってきた言葉が鬼柳らしい言葉だった。
「いや、初めてやった。暇つぶしにはいいが、マジでやるもんじゃないのは解った」
「初めて行って勝ってるのって凄いんじゃない?」
「んー。ヘンリーが言うには、初心者をハマらせる手段で、わざと台を操作して出るようにする所もあるからって言われたけど?」
「それって犯罪じゃん……」
「そうなの?」
「うん。裏操作は法律違反だよ。摘発対象」
「ふーん、それで光琉は?」
 どうもそっちには興味はないらしい鬼柳が話を元に戻した。
 言われて透耶も鬼柳のパチンコ成果から自分の問題に意識が向いた。
「もうそろそろドラマ撮影が終わってるだろうから、時間を作らないとと思って」
 スケジュールは把握している透耶は、頃合は今だとは分っていた。
「どうする?」
 鬼柳に問われて、透耶は真剣に唸り始める。
「うーん、それで迷ってる。今回の事はちゃんと説明しないといけないから、電話じゃ埒があかないと思ってる。会いたいけど、いきなり会うのは怖いし」
「メールで取り合えず会う段取りすれば?」
 鬼柳は言って、携帯を返す。
「そっか。そうだよね。うん、そうする」
 透耶は受け取って、早速メールを打ち始める。
 その内容を見て鬼柳が言った。
「……何か、破局前の恋人の台詞だな」
 呆れたように呟やかれて、透耶はムッとして睨み上げる。
「あー、うるさいなあ。簡潔でいいだろ」
 透耶が書いたのは「会って話がしたい」である。
 送信すると、5分程で速攻返事が返ってきた。
『明日来い』
 である。
「何処だよ……」
 透耶は思わず溜息が出る。
『何処へ?』
 と送ると『迎えをやる。住所教えろ』となり『途中まで出向く。何処で待ち合わせ?』で『◯◯駅。9時』『早い』『10時』『もう一声』『11時。これ以上は譲れない』『連れがいる』『嘉納さんが行く』
 ここで連絡は終わった。
「簡潔だな」
 思わず鬼柳が呟く。
 あくまでもここの住所は教えず、透耶の有利な展開に持っていく所は流石だ。
「は? いつもこんなのだけど」
 自覚のない透耶。
「そう? 結局、明日な訳?」
「うん。明日11時に◯◯駅で嘉納(かのう)さんが車で待ってるって事だけど」
 車で、というのは話に出てなかったが、迎えに来る嘉納が車の所有者であるのが解る。
「連れって俺?」
「そうだけど、あ、行きたくなかった?」
「ううん、駄目って言ったら行かせなかった」
 鬼柳がそう言い切ると、透耶がクスリと笑った。
「そうだろうと思った」

 翌日、待ち合わせの駅へと向かった。
 駅まで鬼柳の車で行き、駅の近くの駐車場に止めてから、駅前で嘉納の車を探した。
 慣れたように行動する透耶に、鬼柳は言った。
「いつもこうなのか?」
「大体ね。光琉の心配性からくるんだけど、光琉と会う時は、必ず嘉納さんが送り迎えしてくれる。嘉納さんはマネージャーの一人で、ドラマ関係の時に付き添ってる人なんだ。何でかマネージャーが二人居て、音楽関係は別 にいるんだよ」
「ふーん」
 光琉の事には左程興味は示さない鬼柳。
 だが、内心は納得していた。
 道理で鬼柳が扱うやり方に妙に慣れているのかが。
 必要以上に透耶に構う事や、やる事なす事に手を出すとか、妙に最初から慣れているのは、こういう事だったのだ。
「あ、いた。恭、こっち」
 少し前を歩いていた透耶が、車を発見した。
 窓を叩くと、中の男が窓を開けた。
「どうぞ、後ろへ」
 それを聞いて透耶が先に乗り、鬼柳も続いた。
 乗り込むと同時に車が発進した。
「いやー、久しぶりだねえ、透耶君」
 懐かしいというように、嘉納が話し掛けてきた。
「すみません、お騒がせしました」
 嘉納には見えないだろうが、透耶が頭を下げる。嘉納はそんな透耶が分っているのか、笑って言った。
「いやいや、あれは久しぶりにびっくりしたけど。途中から光琉も落ち着いたからねえ。最近は特に何もないよ」
「すみません」
 再度透耶は頭を下げる。
「こっちこそ。そろそろ過剰反応も止めて欲しいけどねえ」
「同感です。今日は何処ですか?」
「フォトなんだけど。ネット用のフォト付き連載を最近始めてね。雑誌とかだとどうしても光琉の企画が通 らなくて。それで、前からやりたかった企画をネットでやろうという訳」
 それだけの説明で、透耶は眉を顰めて聞いた。
「もしかして、あの恋愛小説ですか……?」
「そう、あれ。相変わらず勘がいいね」
 嘉納はクスリと笑ってしまう。
 光琉がする事は、何故か透耶には筒抜けなのだ。こういうところが双子だと再認識してしまう。
「うわー、頭おかしいとしか思えないよー」
 透耶は頭を抱えて唸る。
「あはははは。あれは気に入っているから、どうしてもやりたいんだって聞かないんだよ。私も好きだし、今回参加している人は皆やる気だよ。ネットスポンサーもついたし」
「やめてくれって言ってもやめれませんか?」
 どうしても嫌という態度の透耶だが、半分諦めがある言い方だ。
「無理だよ。透耶君がいない間に企画が通ったからねえ。それに第一回目は今日掲載なんだよ、今更引き返しはきかないよ」
「嫌がらせだ……」
 はあっと溜息を吐いてしまう。
 嘉納は苦笑してしまう。
 とことん透耶に甘い光琉だが、透耶も光琉に甘い。
 こういう事なら、著作権問題が発生するのだが、透耶はそれを盾にしてやめさせようとはしない。
 結局、光琉の為になるならと妥協してしまうのだ。
 もちろん、光琉もそれを解っていて、わざと透耶が手を出せない段階まで、透耶には秘密にしておくのだ。その我侭が通 じるのはこの二人の間だけの事であるが。
「それってもしかして透耶が書いたのか?」
 今まで黙っていた鬼柳が言った。
 存在を無視されているとは思ってはいなかったが、どうも会話に参加する機会を失っていて今まで黙っていただけなのだ。
 透耶はまだ頭を抱えている。
「あう、その通り。高校時代に、同級生に頼まれて書いた恋愛小説。ああーあれは、早くどっかに埋めてしまいたかったのにー。コピー取りやがったなー」
 物凄い形相で光琉を恨んでいるのだが。
「読みたい」
 鬼柳の一言でそれが治まる。
 頭を抱えていた透耶がムクリと起き上がって、何処へしまったっけ?と首を傾げて考え込む。
「あー、原本は家にあるけど」
「読む」
「帰ったら探しておく」
 透耶はそう答えて、真剣に何処へしまったのかを考えていた。
 この会話を聞いていて、嘉納は驚いてしまう。
 最近出来た透耶の知り合いらしいが、その人物に過去の作品、それも闇に葬りたいモノを簡単に、探してまで読ませてやるのは初めてだ。
 光琉だって、こっそりコピー取っておかなければ、読む事すら出来なかったのだから。
「そちらは?」
 嘉納は、光琉から透耶に連れがいるが今は何も聞かないでくれと言われていたので、詮索するのも何だと思ったが、思わず聞いてしまう。
「同居人の鬼柳恭一さんです」
 透耶がそう説明すると、鬼柳がジロリと透耶を睨んだ。
「ふざけた事言ってると、このまま犯すぞ」
 凄んだ声で鬼柳が言った。
 その声に嘉納は関係ないのに震え上がってしまう。
「あのね、そういう事は広めるもんじゃないの」
 それでも透耶は平然として言い返している。
「あ? どうせバレんだろ? だったら先に言っといた方が面倒臭くなくていいだろうが」
 鬼柳は不機嫌そうに言って、透耶の腕を握り押さえ付けてから首筋に顔を埋める。
「ちょっと!何やってんだ!」
「有言実行の男だからな」
 言ってペロリと首筋を舐める。
「あ、阿呆か! そんなもん実行しなくていい!」
 空いた手で鬼柳の背中を叩くが、もちろん適う訳がない。
 そこで赤信号で車が止まって、嘉納が振り返ると、鬼柳が透耶の首筋と丁度肩との境目に噛み付いている所だった。
「……っ!」
 噛み付かれた透耶は、一生懸命声を上げまいと堪えている。
 それが終わると、鬼柳は噛み付いた所を舐めて、透耶の顔を覗き込んで唇に軽いキスをした。
 それから、見ている嘉納に気が付いていて、視線だけ向けてニヤリと笑った。
 これで解っただろう? という顔だ。
「信号、青だぞ」
 鬼柳の言葉で、嘉納は我に返り前を向いて慌てて車を発進させた。
 透耶が完全に沈黙した所を見ると、まだキスが続いているようだ。
 嘉納は思った。
 こんな所に悪魔がいる。
 せめてと思い、小さくかけていた音楽を大きくする事しか出来なかった。


 撮影所に着いた頃には、透耶は完全に脱力していた。反面、鬼柳は上機嫌である。
 さすがに人前であるから、キスだけで済ませたのだが、ここへ着くまでずっとでは、透耶はうんざりだ。
 阿呆だ阿呆だと思ってたけど、本物の阿呆だとは……。
 脱力した透耶を気遣うように嘉納が言った。
「ちょうど、撮影入ったばかりですから、ゆっくり……とはいかないんでしょうけど」
 嘉納がそう言うと、透耶が苦笑する。
「一段落するまで外で待ってましょうか?」
 さすがに中断させる訳にはいかないからと言うが、嘉納は頭を掻いて言った。
「いや、その、もう時間を逆算させて待ってるから、連れていかないと逆にキレるんで……」
「困った奴だ……」
 透耶はガクリとしてしまう。
 そこまで待たせているのだから、透耶が時間通りに来なかったら、今度こそ光琉を完全に怒らせてしまう。
 さすがに今の状況上、それは出来ない。
 透耶は諦めて、嘉納の後を追った。
 撮影所に入って、嘉納は不思議な事に気が付いた。
 途中で、色んな人と顔を合わせたが、誰も透耶と光琉を間違う人はいなかったからだ。
 それ違う人はやっぱり透耶と鬼柳を見て行くが、それが光琉に似ているからでなく、本人達の顔の良さやモデル並の姿に見愡れている感じなのである。
「あれ? やっぱり解るんだ」
 嘉納が呟いた。
「何がです?」
 透耶が不思議そうに聞き返した。
「あの、こう言ったら何だけど。透耶君、光琉と全然違うって事。なんか、こう、色っぽくなってて光琉に似てないよ」
 嘉納は少し申し訳ないような顔で、その意味を説明した。
 透耶は意味が解らず不思議な顔をしたが、鬼柳は断言して言った。
「色っぽいのは解るが、最初から似てないぞ」
 そう言われて嘉納は苦笑するしかなかった。
「最初からずっとそう言ってるよね」
 透耶は慣れてたから、笑ってしまう。
 もうこれは疑う余地無しな出来事だった。
 透耶と光琉の小さい時の写真を見ても鬼柳は一度も間違わなかったのだから。
 

 撮影室に入ると、ちょうど光琉が本番で写真を取られている所だった。
 ピーシュルルとカメラのシャッターが切れて巻き上げる音が聞こえる。カメラマンが色々注文を出して、光琉がポーズを取っている。
「こちらへどうぞ」
 嘉納に進められて、透耶と鬼柳は部屋の隅に用意されている椅子に座った。
 透耶は2ヶ月ぶりに見る光琉に見愡れていた。
 自分と似た兄弟なのに、今は殆ど似てない双子。
 顔形が似ていても、根本的に体つきが違うようになってしまっている。光琉は舞台やらの為に身体は鍛えられて、筋肉がついている。また少し逞しくなっている気がする。
 透耶は反対に、完全に家に引き蘢る感じになり、さらに痩せてしまったので、体つきはもう完全に違う。
 今までの中性的なイメージを高校卒業と共に捨てて、男らしさをアピールする作戦に出たのか、服装も髪型も変わっている。これなら、もう透耶と間違える事はないだろう。
 隣にいる鬼柳を見ると、珍しく真剣に撮影風景を見ている。
 興味があるのかな?
 ふと透耶が思った時、光琉の撮影が一段落した。
「じゃ、モデル待ちです」
 光琉と一緒に写真を撮るモデルが遅れているらしく、現場は一時休憩になった。
 ざわざわしている中で、仕事モードが中断した光琉が、目敏く透耶を見付けた。
「透耶!!」
 部屋中に響く大きな声で光琉が叫んで走り寄ってくる。
 満面の笑みを浮かべている。
 鬼柳は感動の再会か?と思ったのだが。
 光琉は透耶の前に来ると、急に険しい表情になって、透耶の胸ぐらを掴んで言った。
「てめー! ふざけた真似してんじゃねーよ!」
 そう怒鳴ったのである。
「あ、やっぱり?」
 透耶は至って平気である。
「あれは門外不出だって決めたじゃねーか!! ええ!?」
 猛烈に怒っている内容が違う。
 透耶もそれの方を怒られると思っていたらしい。
「いや、あれはちょっとね……」
「ちょっとだあ? ちょっとであれが出るってぇーのはどういう訳だ! たっぷり説明して貰おうじゃねぇーか?」
 光琉の豹変振りに驚いていた鬼柳だが、さすがに話にはならないだろうと止めに入った。
「おい、それくらいにしとけ」
 透耶を掴んでいる光琉の腕を捻り上げた。
「いてえ!」
 思いっきり力を入れて掴んだので、細い光琉の腕はそれだけで悲鳴を上げる。
 いきなりだったので、透耶は驚いたのだが、我に返って止めた。
「恭、駄目! 腕、離して!」
 腕にしがみついて離すように言った。
「ちょ! 何だよ!! 離せって!」
「恭! いいから離して!」
 光琉と透耶が同時に叫ぶと、鬼柳は渋々手を離した。
 腕を解放された光琉は腕を摩りながら座り込んだ。
「光琉、大丈夫?」
 透耶も座り込んで光琉の顔を覗き込む。
「何だよ、こいつ」
 光琉は言って鬼柳を見上げた。
 全然悪怯れてない鬼柳は、不機嫌な顔をしている。
「うん、ごめん。連れなんだ」
「こいつが連れ? 随分ガラが悪いの連れてるな」
「そうでもないけど……ちょっと過剰なんだ」
「あ? 何? 守ってるわけ?」
「独占してるんだ」
「透耶をか?」
「うん。俺もしてるけどね」
「詳しく聞くぞ」
「それを話そうと思ってきたんだ。いなかった間のと関係してるから」
「解った」
 光琉はそれで納得して立ち上がった。
「嘉納さーん、先に飯食っていいですか?」
 光琉は言って、駆け寄っていく。
 さっきの出来事など全く気にしてない光琉に、周りもホッとしたように作業に入っている。
 透耶は鬼柳を振り返って言った。
「光琉が何を言っても手を出したら駄目だよ。わざとやってるんだから」
 そう言う透耶が怒ってないのを鬼柳は確認してホッとした。
 しかし、その言葉に首を傾げる。
「あれがわざとなのか?」
「うん、本気だったら俺が殴られてる」
 殴られてるという言葉に、鬼柳の手が透耶の頬に触れる。
「殴られた事があるのか?」
 鬼柳がすごく心配した顔をするので、透耶は笑ってしまう。
「昔だけどね。光琉が本気なのかどうなのかは、それくらい見たら解るから」
「……解った」
 鬼柳は頷いて、透耶の頬を撫でる。
 怒っていた割には、妙に心配そうな顔をしている鬼柳に、透耶は何を考えているんだろう?と首を傾げる。
 確か、鬼柳は一度も手を上げた事はなかったなあ、と不意にそんな事を思い出してしまった。
 どんなに怒っていても、殴るような暴力に訴える事はない。そういう優しさを向けられている事に、透耶は嬉しくなってしまう。
「透耶、楽屋で話そう」
 後ろから光琉が声をかける。
 透耶は一瞬にして、現実問題に直面する。
「うん。恭、行こう」
 透耶は、頬を撫でている鬼柳の手を取って握って歩いた。
 その手が微かに震えているのを鬼柳は見逃さなかった。

 光琉(みつる)の楽屋に入って、限られた時間の中。
 どう考えても、鬼柳が不利な展開でしかない話なのだが、透耶は誤摩化して話していた。
 デビューで悩んで、ボケて海に直進した所を助けられ、そのまま世話になっていた。沖縄に行ったのは、透耶が行きたかったからで、鬼柳の事が気になって離れられなかったという話になったのだが、当然光琉が鵜呑みにするはずもない。
「それを信じろって? 透耶、無茶だ」
 透耶が話終わると、光琉はそう言った。
 鬼柳も思わず光琉の言葉に賛同してしまう。
「ボケて海に直進して助けられたという所までは信じよう。だけどな、そこからいきなり一緒にいるってのはおかしいだろう? 透耶、自分の性格考えた事あるか? 絶対、透耶はそんな事をしないんだよ。正直に話せ」
 光琉の凄みに透耶はうなだれてしまう。
 嘘を付いてない部分だけしか、光琉は信じてない。さすがとしか言い様がない。
 光琉は、話にくそうな透耶を見て、これは透耶が望んだ展開でないのは読み取れた。
 透耶が庇う程の何かが、この鬼柳との間にあったから、透耶は素直に話せないのだと。
「解った。透耶、出てろ。俺、この鬼柳さんに話がある」
 光琉がそう言うと、透耶が弾かれたように顔を上げた。
「恭は関係ない」
 透耶がそう言うや、光琉は透耶を睨み付けて言い切った。
「関係ないじゃないだろ。さっさと出てけよ」
 こうなると光琉は絶対に譲らない。
 それでも透耶が出て行かないので、見兼ねた鬼柳が言った。
「透耶、俺が話すから、出てていいよ」
 そう言われて、透耶は鬼柳を見る。鬼柳はニコリと笑って透耶の頭を撫でる。
「でも……」
 透耶は不安そうに鬼柳の服の袖を掴んでいる。
「大丈夫だから」
 鬼柳が安心させる様に言うと、透耶は渋々部屋を出ていった。光琉が嘉納を呼んで、透耶を見ているように頼んだ。
 透耶がいなくなると、とたんに態度が悪くなる二人。
 鬼柳は断わりもなく煙草を吸い始めるし、光琉もだらだらした姿で水を飲み始める。
 双方無言だったのだが、最初に切り出したのは光琉だった。
「随分と甘やかしてるな。いつもそうなのか?」
 光琉がそう言った。
 鬼柳は視線を天井に向けて、煙を吐き出す。
「どうも俺は透耶には弱いらしい。そういうお前もそうだろう」
 そう言う鬼柳の口元が笑っている。
 それが今まで見た、まるで今さっき2~3人人を殺してきたような容貌の男とは思えない、穏やかな微笑みだった。
「ま、俺も甘いとは思うけどね。でも、あんたみたいなタイプは、その場限りってのが普通 だろう。それはいいとして、で、海までは信じるが、その後、どうなった。透耶が言えないって事はあんたにとって不利な事だからだろ」
 透耶が隠しているのは、この後の出来事であるのは解っていたから、光琉はストレートに聞いた。
 鬼柳は躊躇もせずに真実を話した。
「無理矢理抱いて、監禁した」
 その衝撃の一言に、光琉の動作が止まる。
 この男が、透耶を無理矢理抱いた。しかも監禁していた。
 それなら、透耶が連絡してこなかった意味が解る。しなかったのでなく出来なかったのだ。
「……強姦したのか」
 光琉が声を押し殺して聞き返した。
 よく殴りかからなかったものだと、光琉は自分で驚いた。
 そんな事をした奴は誰だろうと許さないはずだった。それなのに、鬼柳の軽い口調の裏に、何か別 の心があるのを感じられたからだ。
「ああ、逃がすもんかと思った。言っとくが、そういうのは初めてだ。形振り構ってらんなかったんでね」
 これほどの男が、誰でも寄ってくるし、周りが放っておかないだろうの美貌を持つ男が、透耶の時だけ、自らを押さえ切れなかったというのだ。
「たくっ、なんて事してくれたんだ……合意ならまだしも、助けた恩使ってやりやがったんだな」
 光琉はそう言ったが、鬼柳は助けた恩を使って透耶を脅したりした事はなかった。それでもそれを弁解しようとは思わなかった。
 その方が透耶に落ち度がないと言えるからだ。
 あくまで、鬼柳一人が悪人で話が収まるだろうとの判断からだった。
「そうだな。それしか透耶を手に入れる方法なんて思い付かなかったんだ」
 これは本当だった。手段など選んでいられない位に自分を制御出来なかったからだ。
「……あいつはノンケなんだぞ。それをあんたの欲望だけでいいようにしたってのか?」
「そうだ。それについては弁解もない」
 本当に弁解をするつもりのない鬼柳の態度に、光琉は頭を抱えた。
 犯罪になる強姦や監禁をあっさり認め、それについての批難は甘んじて受ける覚悟があるという態度には、正直、こいつはおかしいんじゃないかと思えてくる。
 なんだって、透耶はこれがいいんだ? 何故納得してるんだ? こいつ凶悪ストーカーの素質あるんじゃねえか。
 本気になった事がない奴が本気になると怖いと聞くが、そのいい例が目の前に居る訳だ。
「あーもー、だったら、何で透耶はそんなの庇うんだ!」
 光琉は真剣に悩んだ。
 透耶が最初に話した内容では、透耶が気になって一緒についていった事になっている。
 あながち気持ち的には嘘ではないだろうが、何がそうさせるのかは光琉には理解出来ない。
 そんな光琉に鬼柳は当然だと言い放った。
「そんなの決まってる。透耶が俺を好きだからだ」
 決定的な最終解答を言われて、光琉は鬼柳を睨み付けた。
「さらっと嫌な事口にするなよ……」
「事実だからな。俺がいくら脅したって、身体が思い通りになったって、透耶の心の中までは手に入れられない。透耶が受け入れてくれなければ、意味がない。そういう事だろ」 
 強姦した割には、妙に常識的な言葉を吐く鬼柳。
 思わず、光琉は頷いてしまった。
 ああ、そうか、こいつは透耶の身体が目当てではなく、全部が欲しかったんだ。
 焦った挙げ句、やり方を間違えただけで、最初から透耶が欲しかったんだ。それは透耶にも伝わっていただろう。答えなきゃいけない、何かで結論を出さなければいけない。そう悩んで、逃げ出す事を諦めたんだろう。
 真面目過ぎる兄なら、それはあり得ると光琉は思った。
 それが行方不明の間、警察にすら駆け込まなかった理由。
 本当に嫌だったとしたら、とっくに結論を出して逃げ出してたはず。少しでも気になっていたからこそ、本気で逃げなかったのだ。
 だが、透耶が呪いを自覚している以上、答えは決まっていたはずだ。
 じゃあ、どうやって落としたんだ?
 光琉はそれが気になっていった。
「しっかし、あんたそれだけでよく透耶を攻略したな。あれは難攻不落だぜ」
 いきなり、光琉の口調と調子が変わったので、鬼柳は少し驚いた。
 ちゃんと自分の言いたかった言葉が伝わったのだろうか?
 不安だったが、光琉の質問に答えた。
「ん、まあ、ストレートに攻めた割にはなかなか落ちなかったけどな」
 5分でノンケを落とす男が、実に2ヶ月もかかってしまったのだから。
「それで、沖縄くんだりまで拉致したのか」
 呆れ顔の光琉は、最初に出会った頃の透耶の反応によく似ていた。鬼柳は苦笑してしまう。
「いや、それはただの偶然だ。別の場所にいたんだが、透耶が強盗に誘拐されてな」
「誘拐? 何だそれ。もしかして4月上旬頃の事か?」
 キョトンとしている光琉の様子で、本当にこの事件が表沙汰にならなかったのだと確証を得た。だが、さすがというべきであろうか、光琉は時期を言い当てていた。
 鬼柳はそれに頷いて話を続けた。
「別荘の持ち主の息子だと勘違いされての事だったが、身代金誘拐。ああ、内々で処理したから、お前の耳には入らなかっただろう。やっぱり、話すだけでも煮えくり返るな。アイツは殺しとくんだった」
 最後は完全に怒った地を這うような低い声で、光琉は思わず固まってしまう。
 こりゃ、本当に透耶に危害を加えようとしたら、死ぬ覚悟でやらなきゃいけないだろうなあ……。
 そこで何があったのか。
 それは光琉も怖くて聞けなかった。
 だが、大体の予想はついていた。
 双子ならではの繋がりとでも言うのだろうか、透耶が誘拐されたであろう頃、光琉は体調を崩してしまっていた。
 これが、自分のものではない事は、自分がよく知っている。
 しかし、それ以外の時は、まったく何も感じなかったのだ。
 だから、鬼柳がどれだけ透耶を大事に扱っていたのかは解る。
「怖い事いうなあ。で?」
「その別荘が使えなくなって、沖縄の別荘を代わりに借りたんだ。まあ、透耶が納得するとは思わなかったから、眠らせて連れていったけどな」
 そう薬を仕込んだ。薬がすぐに効いたのには驚いたが、その後びっくりするくらい透耶は眠っていた。
 鬼柳がそう言うと光琉は信じれないと言う顔をした。
「あんた、チャレンジャーだな……。つくづく思うよ」
 光琉は完全に呆れていた。
 こいつ、すげー……。が感想だ。
「はあ? 何が?」
 光琉の呆れ様が、ただ沖縄まで拉致した事ではないと感じて聞き返していた。
「透耶は、薬嫌いなんだ。アレルギーはないんだけど、通常量でも効き過ぎるんだよ。風邪薬でもびっくりする位 寝るし、簡単に意識が飛ぶ事もあるんだ。あ、もし薬飲ませる時は、成人じゃなくて、お子様の分量 でやらなきゃ駄目だよ。こっそり薬を飲ませて、あんたよく許してもらったよなぁ」
 光琉が説明すると、鬼柳は納得してしまった。
 道理で、透耶が眠剤ごときで、2日も眠っていたのか、それにドラッグで過剰に症状が出たのか。耐性が少しはあるにせよ、あのメイドの事件でもそうだ。ヘンリーも透耶は薬が効き過ぎる体質かもしれないと言っていた。
 それを口に出さなかったのがどういう意味なのかは解らなかったが、透耶は自分でも薬が効き過ぎる体質であるのは理解しているようだった。
 でも、薬を使った事に関しては、それほど怒られはしかなったよな……それどころか、眠らせて知らない場所に居た事を怒ってたよな。
 と鬼柳は考えてしまった。
「それに透耶は人に触られるのが嫌いだ。俺だって抱きついたりとか出来ない。それくらい、あいつは人が自分に触れる事を嫌ってる。酷い時には気を失うくらいに拒絶する」
 それを聞いて、鬼柳は首を傾げた。
 どういう事だ?
「? 何で? 俺、最初から結構触ってたけど、嫌がられはしなかったぞ」
「あー、何でだろう? それが不思議だ」
 双方とも解らない。
 確かにベッドで隣に寝ている時は怯えていたが、それは性行為を恐れてただけで、触れる事自体は嫌がってはいなかった。
 やたらと抱き締めたり、くっついて触ったりもしたのだが、透耶に鳥肌を立てられたりしなかった。
 最初は抵抗するが、最後には諦めてくれていた。
 それは初めから嫌われていなかった証拠ではないだろうか?そう思うと、鬼柳は思わず顔がにやけてしまう。だが、薬と触られるのが嫌い、この符合点は何かを意味しているのは確かだ。
 光琉も鬼柳の言葉を聞いて、不思議に思い考えていた。
 ……もしかして、最初からこいつの事、嫌いじゃなかったとか? 透耶にとって、男と関係を持った事なんてどうでもよかったのかも……。それが触られる事すら、薬をもられた事すら許せるくらいに思っていた事にならないか?
 光琉はそう考えて、あの兄には珍しい反応であるのを更に不思議に思った。
 同時に、鬼柳でなくては駄目な事も不思議でならなかった。
 こいつに一体何があるってんだ?
 どう考えたってただの犯罪者じゃないか?
 透耶ー! 一体何があったんだー!?
 光琉は一人で頭を抱えて唸ってしまった。
「なあ、透耶が薬嫌いで触られるのが嫌いなのは、何か原因があるのか?」
 鬼柳が鋭い所を突いてきた。
 光琉は、少し目を見開いて鬼柳を見て、それから溜息を吐いた。
 喋らないと殺される、そして、これだけは透耶に深く関わる男には話して置かなければならないと思って話をする事にした。

感想



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