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翌日、那覇空港。
空港なのに、セルフサービスの店なのに。
「どうしてお弁当があるわけ?」
綾乃が信じられない顔をして呟いた。
その綾乃を、お弁当を広げて紙皿と割り箸を綾乃の母親や祖父に渡している透耶が見上げた。
向こうから、お茶を持ってきた鬼柳が不思議そうな顔をしている。
「お母さんに聞いたら、空港近くで食事するって言うから。どうせなら皆でお弁当食べた方が楽しくないか?」
当然だとばかりに鬼柳が言うと、透耶が苦笑している。
「綾乃ちゃん、諦めた方がいいよ」
「……そうね……」
自分の母親と祖父が喜んで弁当のおかずを頬張っている姿を見れば、綾乃も諦めがつくだろう。
「いや、これは絶品だな。鬼柳さんとおっしゃったか。いやいや、ぜひうちで店でも出して貰いたいくらいだ」
「本当。沖縄料理だけど、私達でも納得する味ですわ」
などと、和んでいる。
綾乃は恥ずかしそうにしていたが、一口鬼柳の手料理を食べると、顔も綻んでしまう。
お弁当を広げている風景ははっきり言って奇妙以外の何物でもないのだが、透耶はどうも鬼柳に感化されているらしく、もう気にならない。
食事が済んで、透耶が弁当を車に戻しに行っている間に、鬼柳は綾乃と話していた。
もちろん、鬼柳は透耶に行かせはしないと自分が行くと言ったのだが、綾乃が鬼柳に話があると言ったので、透耶が気を利かせたのだ。
母親と祖父は、透耶に見送られて行く事になった。
「先生は、何故ピアノをやられないのです?」
真貴司(まきし)老人の言っている意味は、本格的にやらないのかという意味であるのは、透耶にも解っていた。
透耶は少し微笑んで答えた。
これだけの権力を持っていれば、自分の事など簡単に調べはついてしまう事は解っていたからだ。
「俺は、そういう世界から逃げた人間です。戻れないのではなくて、戻らないつもりです。どうして楽しいだけでピアノを弾いてはいけないのでしょう」
透耶は静かにそう言った。
「君の母親は、それは楽しそうにピアノを弾いてたね」
「母を御存じでしたか」
「アジアの奇跡、ジャズの女王。留学せずに国内コンクール総なめのコンクール荒らし。名門音楽学校を足蹴にした人。クラシックは息子に任せたから、ジャズにしたと、ジャズ奏者を馬鹿にした発言、なのに一瞬で魅了し、カーネギーホールを連日満員にして、陰口を叩くヤツラを黙らせたつわもの」
真貴司老人はまだ喋ろうとしたが透耶がうんざりして遮った。
「もういいです……」
内心、あの母親らしいと思った。
クラシック奏者なのに、透耶の音を聴いて、いきなりジャズを本格的にやり始めた人だ。確かに、クラシックはあんたに任せた、とか言われたような……。
「あの人は、そういう意味で気持ち良かったよ。だけど、何故君にクラシックを強いたのかが解らなくてね」
「強いた訳ではありません」
透耶ははっきりと答えた。
そう親は何も言わなかった。光琉が辞めたいと言った時も笑って仕方がないと言ったくらいだ。
透耶が辞めたいと言えば、きっと笑って許してくれたに違いない。
許さなかったのは祖父。しかし、それに意地になってたのは透耶。祖父の力を使えば、光琉が芸能活動出来なくなるのは解っていた。だから、確実に辞めるには指が無くならなくてはならなかった。
「俺は誰かに強制された訳ではないです。やりたくてやって、辞めたくて辞めたんです」
「榎木津維新(いしん)。彼のせいかね」
真貴司老人は厳しく言った。
「お祖父様は関係ありません。誰のせいでもないんです。俺がはっきりしなかったからいけなかったんです。ピアノを嫌いになった事はありません。今は、ただ弾ければそれでいいんです。だから、お願いします。そういう事は今後一切おっしゃらないで下さい」
祖父の事、母の事。榎木津の事。そして透耶の事。全て含めて、透耶は誰にも何も言わせる気はなかった。
これは他人が入ってどうにかなる問題でもない。噂なら、陰口なら、聞き流せばいい。だが、直接に問われても透耶は答える義務はないと思っている。
全部終わった事だ。
真剣な眼差しで言い放たれると、真貴司老人は引き下がるしかなかった。
「解った。君は綾乃の先生ということにしておこう。綾乃は完全に立ち直ったようだ。礼を言うありがとう。ただね、君の音を聴いた人間がかなりの人数いる事を忘れてはいけない」
真貴司老人はそう言うと、待たせてあった義娘の車に乗って去って行った。
透耶は暫くそれを見送っていたが、溜息を吐いてお弁当の空箱を車に戻しに行った。
「ふーん、気になるんだ」
綾乃は鬼柳の一言にニヤリとして答えた。
鬼柳は憮然とした態度で綾乃を見ている。
空港ロビーの搭乗口検査がある入り口の前にある喫茶店に二人はいた。
「透耶は話してくれない」
「まあねえ、それは仕方ないんじゃないの?」
綾乃は冷たく突き放すように簡単に言った。
だがそれで鬼柳が納得するはずもなく。
「何故だ」
そう聞き返してくる。
「期限付きにしたのは、あたしが今日見送って欲しかったから」
さっぱり解らないという風に鬼柳は首を傾げる。
「それと何が関係あるんだ?」
「まあ、大いに関係がある事だからねえ。それに先生から話さないと意味がないから」
「透耶から?」
「うん。あたしはただ相談に乗っただけで、先生はそれですっきりしたらしいよ。それは鬼柳さんにとってもいい事で、あたしも凄く嬉しい事」
綾乃は微笑んで鬼柳を見上げた。
鬼柳は不思議そうな顔をしている。
「綾乃が嬉しいのか?」
「無茶苦茶嬉しい。鬼柳さん、当分あたしに頭が上がらないかもしれないねえ」
綾乃はクスクス笑ってそう言った。
鬼柳には思い当たる事がないのだろう、首を傾げて眉を顰めている。
「ねえ、先生って、榎木津光琉に似てるって友達が言ってたんだけどさ。あたし、似てないって思うのよ。鬼柳さんはどう思う?」
いきなり綾乃が話題を変えた。
鬼柳はそんな事はどうでもいいとばかりに素っ気無く答えた。
「ん? ああ、似てねえよ。だけど、透耶と光琉は双子だそうだ」
「へえー。え? じゃあ、あの新人作家の榎木津透耶って、先生の事なの!?」
まったく観点の違う所で綾乃は驚く。
「ああ、そうだが」
鬼柳が答えると、綾乃はうつ伏せになってもがいた。
「くやしー!」
「何が?」
「色紙持ってないー!!」
真剣に落胆している綾乃を見て、鬼柳は吹き出してしまう。
アイドル光琉のサインでなく、透耶のサインが欲しくて悔しがっている姿は綾乃らしい姿だ。
綾乃が本当に透耶の事を好きで溜まらないのがよく解る。
透耶も綾乃を大事にしているのも解る。
二人は、何故か波長が合うらしい。ピアノという共通点があるにしろ、それだけの繋がりではない。たぶん、透耶にとっては、初めて本心を話せる相手。
そうである以上、綾乃の存在は、鬼柳にとっても大事な存在になる。
「んじゃ、最高にいい物をやる。あ、ちょうど透耶が来た」
鬼柳が視線を上げると、ちょうど透耶が店に入ってきた。
周りの客が一瞬にして振り返る。光琉に似ているとかそういう見方ではない事は、綾乃にも解った。
自分の中にあった問題が解決した透耶は、まるで開花した花のように見えた。
その透耶が鬼柳の側に来て座ると、何故か皆が納得して頷いていた。
しかし、透耶の顔を見ると鬼柳が言った。
「何かあったのか?」
「ん? 何もないけど?」
透耶は何で解るんだろうと思った。
「何でもないって顔じゃないぞ」
綾乃にも透耶がそういう顔をしているとは思えなかった。いつもと変わらない顔で微笑んでいたのに、鬼柳は何かあったと言う。
「……ちょっと思ってもなかった名前を聴いたから驚いただけだって」
正直に答えてしまう透耶。
「誰だ?」
「俺のお祖父様の名前」
「何?」
「うーん。榎木津維新って名前」
「知らん」
「あはははは、そりゃ知らないって。綾乃ちゃんは知ってるだろうけど」
「綾乃、知ってるか?」
いきなり話を振られて、綾乃は固まってしまった。
その綾乃を見て、鬼柳がキョトンとし、透耶は苦笑してしまう。
日本でクラシックをやっている人なら、誰でも知っている名前だからだ。
「ちょっと待ってよ……今、維新って言った?」
「うん」
「その人が、先生のお祖父様?」
「うん」
「じゃあ、お母様は、榎木津柚梨?」
「うん……」
透耶が素直に答えていくので綾乃はどんどん蒼白になっていく。黙って答えなくなったので、鬼柳はそれを置いておいて、透耶に聞く。
「透耶、サインペン持ってる?」
「え? うん、持ってるけど、どうするの?」
透耶も取り合えず衝撃を受けている綾乃を置いておく事にした。持っていたリュックからサインペンを取り出す。いつも仕事のネタを書く為に、ペン入れとメモ帳が入っている。
鬼柳も胸ポケットに入れていたモノを取り出した。
「透耶、ここにサインして」
鬼柳が取り出したのはMDだ。
「え? 何でサイン?」
「いいから、サインして。綾乃へって入れて」
「ん? 綾乃ちゃんにあげるの?」
よく解らないながらも、透耶はいつも原稿の最後に入れていたサインを入れて、綾乃へ、と付け加えた。すると、鬼柳もペンを取って裏側に自分のサインを入れる。崩した筆記体でハッキリ言って読めない。
「それ、鬼柳さんのサイン?」
「ああ、普通にサインするときに使ってる。透耶のは読みやすいなあ」
「うん、まあ、読めないと誰のか解らなくなるし」
そうやって話していると、綾乃が息を吹き返した様に顔を上げた。
「先生って、あの榎木津の家系だったの!」
綾乃がそう言うと、鬼柳が不思議な顔をした。
「あのって何だ?」
そう透耶に聞くが、透耶はさっぱりとばかりに首を振る。確かに祖父や母は有名だが、世間でどう呼ばれているのかなど透耶はまったくと言っていい程知らない。
「榎木津といえば、クラシックやっている人で知らない人はいないってほど有名家系なの。それを世界的に有名にしたのが、榎木津維新って作曲家。彼は世界でも認められたピアニストで、カーネギーでも演奏した事がある人。元々実家は資産家で、その資金で氷室財団と共同で音楽学校を作ったの。それがあたしが今通 ってる氷室秀徳院学園音楽科。亡くなるまでそこの理事をしながら、地元で建設業の社長をして、作曲もしてたのよ。作曲は、バイエルみたいな練習曲から本格的なものまで様々なものがあるわ。あのFリストが蘇ったんじゃないかって言われるくらいの人。今じゃその教本は定番になってる」
「へえ」
世間で祖父がどう評価されてるのか知らない透耶は、そういう風に言われてるんだと聞きいってしまう。鬼柳は透耶の祖父の経歴の話は初めてなので聞きいってしまう。
綾乃は興奮した様に続けて話し出す。
「で、その息子、彼方はピアニストの才能を認めながらも留学先から帰ってきた時には調律師として独立して、当時日本で騒がれていた、コンクール荒らしって言われた玲泉門院柚梨と婚約して世間を騒がせたのよ。柚梨は、子供が生まれて5年目にいきなり、クラシックは子供に任せた、って言ってジャズ世界に入ったのよ。で、憎たらしい事に、ジャズの女王って呼ばれて、まあ義理だけど、親子二代でカーネギー立ったのよ。でも調律は旦那である彼方氏のしか受け付けないから、夫はいつも同伴」
「へえ」
だから、父親は平気で子供を置いて母の演奏旅行へ付いて行ったのか、などと透耶は納得してしまった。そういう事は聞いた事はなかった。
「更に維新の孫達は、彼の才能を受け継いだ神童で、小学生までは双子でコンクール優勝準優勝を総なめ。柚梨の再来って言われてたのに、一人は辞めて、一人が本格的に始めたから、何で留学しないのかって噂になったって……ってそれ先生!?」
綾乃はそこまで言って、それが透耶である事を思い出して叫んだ。信じられないという顔をして透耶を見ている。
透耶はふっと顔を背けて溜息と共に言葉を吐いた。
「……へえ、そんな噂になってたんだ……へえ」
「何で、その孫の透耶の名前を知らないんだ?」
鬼柳は不思議そうに綾乃に聞いた。そこまで経歴が解っていながら、何故透耶が透耶だと解らなかったのかが不思議でならなかった。
「皆、榎木津さんって呼んでたから……あたしが、それ聞いたの学校入ってからだし、先生、もうピアノ辞めてたでしょ。トウヤだって思ってたし。それに……」
そこまで言って綾乃が言い淀んだ。
「それに?」
首を傾げて透耶が聞くと、綾乃は覚悟を決めて話した。
「……榎木津トウヤは、冷静沈着、秀才、天才、ポーカーフェイス、無表情、無関心、無感動……とか言われてたんだもん! だから!」
綾乃がそう言うと、鬼柳がウケた。
「そりゃ、殆どハズレてる。秀才、天才は解るが、他は全部反対だ」
「でしょ! だから、思い当たっても人違いだって思うのは当然でしょ!」
鬼柳の言葉に綾乃も賛同する。
思わず拗ねてしまう透耶。
「どうせ俺は、それとは程遠いですよ……」
「いや、そうでもないぜ。ピアノをやっている時の透耶はまさにそれだ。ポーカーフェイス、無関心、無感動、無表情。真剣にやってるからそう見えるんだ。透耶の事だ。弾き終わった後でも、あの音が……あれがこうなって……とか考えてるから、他人の音なんて聴いちゃいなかったんだろうよ」
散々笑っておいての言葉に透耶は恨めしそうに鬼柳を見る。
「ああ、もう。何とでも言って」
「あ、でも、先生って今実家継いでるんじゃ? だからピアノ辞めたって噂があるんだけど……」
綾乃がそう言うと、透耶は首を振った。
「ううん、俺は継いでないよ。そっち関係は親戚がやってるから、俺が引き継いだのは微々たるモノだよ」
その微々たるモノが結構面倒臭いモノであるのは、透耶は言わなかった。それは綾乃には関係ない。
「あ、綾乃ちゃん。そろそろ搭乗時間」
透耶が時計を見て言った。
「本当だ。行かなきゃ」
ぞろぞろと席を立つと、何故か異様に目立ってしまう三人。
入り口で、綾乃が振り返った。
「じゃ、あたし一足先に東京に帰るね。先生、鬼柳さん。見送りありがとう。東京でまた一緒に遊ぼうね」
「うん、帰って落ち着いたら連絡するね。コンクール頑張ってね」
「うん、じゃ、先生も頑張って」
「ありがとう」
綾乃に微笑まれて透耶も微笑んで二人で抱き合う。
渋々という風に見てた鬼柳だが、すぐに二人を引き剥がす。
「おめーら、いい加減にしろ」
当然鬼柳がそうやるだろうと思っていた二人はクスクスと笑い合う。
「ほら、綾乃。透耶のサインだ」
そう言って鬼柳がMDを綾乃に渡した。
綾乃は不思議そうに受取って、鬼柳を見上げる。
「中身は聴いてのお楽しみ」
鬼柳の思いも寄らぬプレゼントに何となく綾乃は察しが付いた。
「本当に?」
「秘密だぞ」
鬼柳が言ってウィンクするので、これは透耶がまったく知らない間に録音されたモノであるのが解った。
「ありがとう! 大切にするね!」
綾乃はとっておきの宝物を貰ったように微笑んで飛び回った。それから、すぐに最終搭乗手続きがあり、綾乃は慌てて中へ入って行った。
綾乃はMDをずっと抱えて、早くこれが聴きたいと思った。
綾乃が東京へ帰り着いて、空港へ降りた時、自分のピアノの教師が誰かを出迎えている所に出くわした。
「あれ、新井先生」
綾乃が声を掛けると、教師はびっくりして振り返った。
「真貴司じゃないか。お前、大丈夫か?」
「はい」
「そうか、すっきりした顔をしているな」
「えへへ、かなりリフレッシュしちゃいました」
「それは良かった」
そこまで話して、綾乃は教師が出迎えている人がこっちを見ているのに気が付いた。
「こちらは生徒さん?」
優しそうな笑顔を見せる男性は、26才くらいの綺麗な人だった。
しかし、壮絶美形であるエドワードや、危険な感じのする美形の鬼柳に、ただ純粋である透耶を見慣れていたせいか、さほど感動する事もなかった。
「こんにちは、真貴司綾乃と申します」
すっかり、透耶の癖、驚いていようが何があろうが、とにかく挨拶をするというモノが移ってしまっている綾乃。
「どうも、高城直道です」
「高城さんは、コンクールまで生徒指導に当たってくれるんだぞ。お前も師事して貰えばいい」
綾乃は教師が、高城が教え子であるのを自慢していたのを思い出した。
「そっか、高城さん、新井先生の教え子だったんですね。あ、でも今ウィーンじゃないんですか?」
高城が今ウィーンで成功して、欧州で認められ始めているのを知っていたが、さほど興奮もしなかった。
「おや、君はサインはねだらない子なんだね。先生の教え子にしては、珍しい子だよ」
高城は綾乃を面白いモノを見る目で見、柔らかく笑った。
この人は、そういう芸能人みたいな扱いには慣れてないし、好きではないんだと綾乃は直観で解った。
「あ、いえ。そうではないんです。今、一番欲しいサインは貰ってきたばかりなので。それに、色紙がありません」
真面目くさった綾乃の言い方に、高城は一瞬呆気に取られたが吹き出して笑ってしまう。
「あはははは、色紙ね……。確かに……」
「え? あの、やっぱ色紙の方がサインしやすいじゃないですか。紙の切れ端とか、ノートの端とか、何かすぐに捨てられそうなモノにって、そういうの失礼じゃないですか」
そういう考えである綾乃は、やっぱり色紙だったら綺麗に保存しておけるという意味で言ったのだが、高城はまた笑ってしまう。
「……新井先生ー」
困った顔をして教師を振り返ると、教師は驚いた顔をしている。
「真貴司、お前。随分変わったな……。いや、いい意味なんだが。すっかり人が変わったみたいで」
そう言われて綾乃はふと思った。
沖縄を出た時は、しっかりやらなきゃと思って大人な振りをしていたが、透耶や鬼柳と一緒にいて、そして沖縄の友達と遊んで、やっと自分を取り戻せた気がしていたが。これは明らかに透耶の影響を受けているのは明白だった。
「新井先生、あたし、生まれ変わったんですよ。ピアノを弾くって事、少しだけと解った気がして、今はすごく弾きたい気分なんです」
それを聞いた高城が笑いを収めて顔を上げた。
「それはとてもいい先生に習ったんだね」
そう言われて綾乃は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「はい!」
「いい笑顔だ」
高城は余程いい教師が地元にいたんだろうと思った。
「君は寮にいるんだよね?」
「はいそうです」
「じゃ、一緒に車に乗って行くかい?」
思ってもみなかった言葉に綾乃は困惑した。
「え、あの、迷惑じゃないですか?」
「いやいや、僕もちょうど学園に寄る用事があってね。先生、一緒でいいでしょう?」
もちろん、教師が高城の要求を断われる訳はなかった。
運転手が教師で、綾乃は高城と後ろの席に座った。
車が発進して、綾乃はポケットに入れたままのMDを取り出して、透耶と鬼柳のサインを再度見て微笑んでいた。
綾乃へ、To ayano. これは多分一生の宝物だ。
「それは、そんなに嬉しいものなのかい?」
高城がニコリと微笑んで綾乃に尋ねた。
「あ、はい。もう無茶苦茶嬉しいモノです。一生手に入らない音を貰ったんです」
「音?」
「先生の音。何の曲が入っているのか解らないんですけど、ただ一人の人のリクエストしか受け付けない、難攻不落のピアニストの音なんです。ううううう、早く帰りたいー」
綾乃はMDを見つめてそう説明した。
結局2曲しか聴かせて貰えなかった透耶の音。それをどうして鬼柳が綾乃にくれたのかは解らない。ただ、そこに鬼柳の優しさがあるのは解っていた。
80分のMD。それいっぱいに音が詰っている。
「ふうん、そんなに感動したんだ」
「それはもう。信じられない音を出すんです。鳥肌もの。すっかりファンになったんですけど、練習中はただの一度として弾いてくれませんでした」
「弾かない?」
「そうなんです。音に厳しいんで、あたしが先生の音を真似しては駄目って言って、ただあたしに一日一回80分ピアノを弾かせて、MDに音を取って、駄 目な所はスコアでチェックです。厳しいですよぉ。あたしの音以外は受け付けてくれませんからぁ」
今思い出しても、あれは厳しい。
弾いている途中にチェックが入れば、その場で直せるのに、それをさせてくれず、一から全てを構築し直すしかないからだ。
「君の音を確立させるために、あえて自分の音は聴かせないのか? それは究極の練習方法だね。いや、練習というよりは、本番向けのやり方だ。本番は一回しか弾けない、いくら練習で上手くても本番で失敗したら意味がない。それを覚えさせる為のやり方だ。そんな事が出来るのは、余程の君を信用していたからだろうねえ」
信用していたから、その言葉で綾乃は微笑んでしまう。
そうだとしたら、最高に嬉しい事だ。
「それは嬉しいです。先生はいつも、楽しい?って聞くんですよ。弾く前にワクワクして、弾いてる最中は真剣で、終わったらああ楽しかったって思えって。それって、昔は思ったけど、今は思わなくなってしまったモノですよね。それ思い出したら、自分の音を取り戻せた気がしました」
「楽しい、ねえ……。普通は言えないな」
高城は本当にそう思った。
そういう教え方をする人間がまだいるのが不思議だった。
「それを言える先生だったから、あたしは尊敬出来る。いつか、先生の音に負けないくらいの音だして、感動させてやるって思ってます」
今の目標は、どんな偉いピアニストでもない。
唯一の人の為にしか弾かないピアニストだけなのだ。
「……そのMD、聴かせて貰えないかな?」
「はい?」
申し出た高城の言葉に綾乃はキョトンとしてしまう。
「ちょっと聴いてみたい。そういう師事がどういう音で君を納得させたのかって興味が沸いたんだ。先生、MDを搭載してましたよねえ。えっと駄 目かな?」
その申し出に綾乃は少し考えて、それから決心して言った。
「いえ、あたしも帰るまで待てません!」
そう言って綾乃はMDを高城に渡した。
MDケースから取り出して、教師に渡しかける。
教師は、どうせ田舎の師事だから高城に聴かせるのはマズイと思っていた。もしその師事がそれ程の腕前なら、田舎にいるはずはない。綾乃がいくら誉め讃えても、所詮という気分があった。
綾乃はワクワクしながら助手席シートに抱きついた。
MDが始まって、まず声がした。
透耶の声で、「パガニーニ大練習曲」と聴こえた。
あの練習曲を一気にやろうとしているのだ。
これは綾乃が一番最初にリクエストした曲だ。それを鬼柳は覚えていてくれたのだ。透耶は本番をする時は必ず題名を言ってから始める。これは鬼柳に聴かせる為に本気で弾いた音なのだ。
曲が流れ出し、綾乃は鳥肌がたった。
これは、あの時聴いた以上の音だった。
あの屋敷にいる間、一度も透耶が練習している所に遭遇した事はない。なのに、音は確実に違う音だ。それも想像以上に上手いし綺麗だ。アナログ録音なのに、雑音も入っているのに、それが気にならないくらいに音に聴き惚れる。
さすが先生、最高!鬼柳さん、大大大感謝!
興奮している綾乃を余所に、教師は思わず車を路肩に止めてしまった。
正直、何という音を出すんだ!である。
これが田舎の師事だ?嘘だ。これだけ弾ければ、何処かで活躍していてもおかしくはない。一流ピアニストと言ったって、誰も疑いはしない。高城クラスの音、しかし誰にも真似出来ない音。教師は蒼白するしかなかった。
高城もまた固まってしまった。
何だこれは……。
深く澄んでいる音。
これに似た音を聴いた事がある。
だが、その時より凄まじさが増している。
こんな音、世界で誰も出していない。
25分の曲が短く感じた。
しかし、こういう曲を、特にリストの壮絶な曲ばかりを得意としているなら、静かなノクターンはどうだろうと思っていると、声がした。
「さて、次は?」
若い少年の声。それに答える低い声。
曲をリクエストする声に綾乃が笑った。
「あははは、全然曲目知らないから、あたしのスコアで間に合わせてる。らしくて笑える。それもアリアだけは拒否って、先生ってばー」
笑ってそう言う綾乃を高城は呆然と見つめていた。そして手元に残っているMDケースを見た。
そこにサインがある。
綾乃が言っていたサインとは、これの事らしい。
Toya-enokizu. そう読めた。裏の名前は読めない。
「これが、君の先生のサインなのか?」
高城がそう聴くと綾乃は頷いた。
綾乃は沖縄に帰っていた、そこにこの師事がいる。しかも若い声、十代なのは明らかだ。だが、それがどうして田舎に引き蘢ってる? これだけの腕前なら、今世界にいたっておかしくはない。留学先からでも帰ってきているのだろうか?
「真貴司、この先生とやらは、有名な人なのか?何処かで弾いている人?今、何処に?」
教師が乾いた声で聞いた。
「うーん、昔は有名だったけど、今は辞めた人。あたしが初めて聴いた時は、ピアノ辞めて一年半で、弾き出して一週間の時だった。これは見積もって二週間って所かな? 個人的にしか弾かないの、だから他の人が弾けって言っても弾いてくれないし、リクエストも唯一の人からでないと駄 目なの。今何処って沖縄」
綾乃は素直に答える。まあ、真実は曲げてないからいいかと思った。
「辞めたぁあ!?」
奇妙な声を出したのは高城だった。
「う、うん。辞めたって言ってたけど」
「これだけの音出して、絶賛されたっておかしくないのに、辞めた!?」
「うーん、そういう絶賛はあまり嬉しくないみたいです」
「嬉しくない?」
「高城さんは、いろんな人から絶賛されて喜んで弾ける人ですよね。でも先生は、ただ一人の人が喜んでくれるだけでいいからって弾く人なんです。だから絶賛されてもまったく興味なしです。勿体無いですけど、それが先生がピアノを弾く理由なら、あたしはそれでもいいです。記念は貰ったから」
綾乃はそれで納得している。そういう透耶の考えはピアニストからすれば、宝の持ち腐れであるが、これほどのピアノの音を一生封印せず、自然に弾かせる事を成し遂げた鬼柳にこそ感謝したい気持ちだった。
それだけでもいい。あの音が聴けるなら。
もっと音が深く凄いのになったら、鬼柳にお願いして弾いて貰って、それを聴けばいい。幸い、鬼柳はクラシック音痴だ。曲目を教えて聴きたい曲を頼めば、練習している透耶の音を聴く事は出来る。
「……Toya-enokizu。榎木津、とうや? とおや。透耶だ。そうか、これは榎木津透耶だな!」
いきなり高城が叫んだ。
ぎょっとしたのは綾乃だ。
「榎木津透耶!? まさか! 彼はピアノを弾けなくなって学園を辞めたんだぞ!」
教師まで叫んだ。
「弾けなくなった?」
綾乃は不思議そうに聞いた。
綾乃が知っている噂は、実家を継ぐからピアノを辞めなくてはならなくなったという話だけだ。
「彼は、その、手首をナイフで過って切ってしまって、それで、その、声楽の友人が目の前で自殺したりで、そのまま学校に出なくなって、両親や祖父の学園理事が亡くなったのを期に学校を辞めたんだ。理由は指が動かなくなったからという話だった」
教師の話に綾乃は衝撃を受けた。そういう話はあった。自殺した声楽生がいた話、その友人達の目の前で自殺した事。ピアニストが痴情のもつれで手を切られた話。
それが全部透耶の周辺の事だったとは思わなかった。
こっちこそが真実だったのだ。
「これが指が動かないって? なんださっきのカンパネラは!あれほど完璧に弾きこなしてるじゃないか、それに昔より音が深い!」
「昔って、高城さん、聴いた事あるんですか?」
透耶の昔を知っている人がいるとは思わなかった。
ピアニストで結構名前を知られている人は、辞めて行った榎木津透耶の話を避けている節があるからだ。
「ある。理事に頼まれて練習を見に行った時に、一人だけ練習師事を断わったのが、榎木津透耶だ。生意気なガキだと思ったが、あいつは誰にも練習している音を聴かせないという話だった」
「ああ、音を狂わせるからって事ですね」
綾乃は一瞬にしてそれが解った。
「君は知ってるのか……そう、あいつの音は聴く人を魅了するが、同時にピアニストを狂わせるんだ。それを自分自身がよく知っていた。僕が練習を聴こうとして中に入ると練習を止めるんだ。付きまとったら一回も練習しない。家で練習しているのかと思ったが、家じゃ弾かないんだと言いやがった。じゃあいつ練習するんだと言ったら、僕が邪魔をするから弾けないで困ってると言った。しかもだ、コンクール目前で僕が邪魔をするから、集中出来なくて練習も出来ないから、コンクールを辞退するとか言い出して、僕の方があいつに近付くなと命令が出たんだよ」
高城は忌ま忌ましそうにその話をした。
「それで、そのコンクールで彼は一位だったよ」
教師は当時を思い出して言った。
「うわー、今の先生からは考えられないー」
綾乃が昔の透耶のイメージが、噂通りなのには驚いたが、今のあの柔らかいイメージとは程遠い事にも驚いていた。
「今は違うのか?」
高城は綾乃の言葉に驚いていた。
あの生意気な態度が全然考えられない程変わっているとは思わなかったからだ。
「違うと思いますよ。練習ならいくらでも聴かせてくれるらしいですし、ただリクエストが駄 目なだけなんですよ」
「それであいつは、今沖縄にいるのか」
「ええ。何処かはってのは喋りませんよ。あたし、恨みを買いたくないですし、友達も無くしたくないので。これ以上先生については喋りません」
綾乃はつーんとして絶対に答えるものかと言い放った。
「どうしてだ。君はあいつの才能をこのままにして置いていいと思ってるのか?」
高城はそう言って食い下がるが、綾乃は身体を伸ばして、曲の途中だというのにMDを止めて取り出した。そして高城が持っているケースを取り上げて収めた。
「解りませんか? これは一体誰の為に弾いているのかって事。これ以上の説明はいりませんよね」
断言して言う綾乃に高城の身体の力が抜けた。
「ただ一人の為にか……」
「そうです。これはそういうモノです。あたしは好意で音を分けて貰っただけです。今回の事でよく解りました。これは誰にも聴かせてはいけないモノだって事」
綾乃はそう言って、それから情けない声を出して唸った。
「んーもー、あたしって馬鹿ー。学習してないー。バレたらシメられるー。遊んでくれなくなるー。うわああ、怖いよぉ!」
それはあり得るから恐ろしい。鬼柳ならニッコリ笑って透耶を連れて行方をくらますなど意図も簡単にやってのけるはずだ。
「ちなみに、そのシメるのは誰なんだ?」
「いいませーん。ノーコメントでーす」
綾乃はもう透耶に関する事は全てノーコメントにしまくった。
「ははあー。余程怖い人なんだね。あいつの唯一の人ってのは。しかし、クラシックのクさえ解らない男の為にあれほど見事に弾いてみせるかねえ」
高城は何だか納得がいかなかった。
その隣で綾乃はどうやって言って謝ろうかと、試行錯誤を繰り返している。
そこで高城は、こっそりと教師に話をつけて、教師は頷いてセッティングした。
「僕が悪かった。もし、怒られたら僕の名前を出すといいよ。無理矢理MD取られてかけられたとかでもいいから。で、さっきのMD最後まで聴いてなかったから、折角だからもう一度聴かせてくれないかな? それだけでいいんだけど」
高城が下手に出てそう願い出ると、綾乃は少し悩んで言った。
「もう一回だけですよ」
「それで結構」
そう言われて、綾乃はMDを差し出した。
もちろん、それが罠だとは知らずに。
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