spiraling

31

  織部寧野がいつも通り朝起きると、いつも部屋にいた塔智(ターヂー)がいなかった。
「いつの間に出て行ったんだ」
 自分が寝ている間に出て行ったのだろうが、さすがに物音に鈍くなっているのに寧野はため息を漏らした。
「これじゃ殺されても文句言えないな」
 警戒心が薄れているのを感じ、寧野は気を引き締めた。
 ゆっくりと立ち上がって風呂に入る。監視がいないのでいつもより長めに入ってしまった。湯船にお湯はいつでも張ってあったけれど、見られているのに耐えられなくてシャワーだけで終わらせていたが今日はゆったりと浸かった。
 今まで用意されていた着替えはもちろんないので、自分でタンスを漁って探した。
「ものの見事に、同じ服しかないけどな」
 毎日着替える部屋着はすべて中華風な仕上げの簡単な部屋着。動きやすくて軽いので、寧野は個人的には気に入っていた。その服がタンスにぎっしり詰まっている。下着や靴下まで一通りの部屋着が揃っている。サイズまでぴったりなところを見ると、寧野のスリーサイズは情報を仕入れた人はみな知っていることになるだろう。
 人の子供を勝手に作ろうとしている人間だから、それ以上知っているのかもしれないが。
 寧野は一瞬だけ不快であるように顔をしかめる。覚悟をしていても不快であることには変わりない。うっかりなんてことがあったらそれこそ目も当てられないところだ。
 寧野は体をぎゅっと抱きしめ、歯を食いしばってからゆっくりと息を吐く。
「大丈夫、まだ大丈夫」
 俐皇のところにいるよりは体の負担はなくなった。だからまだ耐えられると寧野は自分に言い聞かせる。精神崩壊なんてしてやるものかと何度も正気を保つ。
「……耀」
 名前を呼んだだけで泣きそうだった。
  会えないことがこんなに自分を駄目にしていくなんて思いもしなかった。ただ一緒にいるだけで、あんなにも幸せだったことに気づく。隣にいるだけであんなにも安心できた。
 空港で耀を見つけた時、心臓が張り裂けそうだった。
 助けなきゃいけないとわかっていても、一緒に帰りたかった。
  どうして耀と一緒に居るだけなのに、邪魔をするんだと、未だに世界を恨んでしまいそうだった。
  心が限界なのだ。耀を求めてさまよって泣いている子供だ。
 これでは駄目だと思っているのに、それでもこの状況が異常であることを認識し、自分の思いは間違っていないとなんとも言い聞かせる。耀を恋しく思うことは当然だけど、それで泣くことはないと涙を拭く。
  絶対に逃げる。絶対に耀のところに帰る。
 そう決心をして寧野はガラスの部屋の出口を常に監視する。
 しかし、一日経っても二日経っても塔智(ターヂー)が戻ってこなかった。その間武藍(ウーラン)も消えていて、静かだった。
 一週間ほど一人で暮らしていると、武藍(ウーラン)が顔を出すようになった。
  相変わらずの仕事量で、書類をひたすらチェックしている。何かの決定事項が多いのだろうが、それだけではないだろう。組織が持つ会社の経営は武藍(ウーラン)が行っているだろうから、会社社長の仕事量と変わらないのだろう。
 それにしても武藍(ウーラン)は、塔智(ターヂー)のことを何も言わないのだなと寧野は思い話しかけた。
「塔智(ターヂー)はどうしたんだ?」
 寧野がそう聞くと、武藍(ウーラン)の側にいた男が寧野を睨んだ。たしか名前は月英(ユエイン)と言ったはずだ。綺麗な男であるが、どうも武藍(ウーラン)に執心しているあまり、寧野のことをよく思っていないような態度をとる人だ。塔智(ターヂー)とは知り合いらしいが塔智(ターヂー)は話しかけようとはしなかったし、月英(ユエイン)も塔智(ターヂー)を気遣っているが、親しくしようとはしていなかった。
 微妙な関係のままこじれてしまった身内のような関係に見えた。
 その月英(ユエイン)が塔智(ターヂー)の名前に反応してにらみつけてきた。邪魔をするなという意味なのかと思ったがどうもそうではないようだ。
 すると武藍(ウーラン)が言った。
「寧野と仲がよすぎるからな」
 というのである。
「仲がいいって、普通に話していただけだろ」
「それが許せない」
「はぁ?」
 こんなところに閉じ込めておいて、話し相手が塔智(ターヂー)しかいない状況で、しかもほぼ日常会話しかしていないのにだ。それも最低限のことだけだ。それすら許さないというのだから話がおかしい。
「話さなければ意思疎通が出来ないだろうが」
「そんなものは必要ない」
 駄目だ、話が通じない。
 なんか怒らせるようなことをした覚えはないが、武藍(ウーラン)の機嫌は最高に悪いらしい。寧野はそう認識して、運動を追えると、タンスから服を出して風呂に入った。
 機嫌が悪いのをいじって藪から蛇を出すこともない。そう判断したからである。
 しかし出てくると武藍(ウーラン)が部屋の中にいた。
「うわっ」
 びっくりして遠くまで離れると、武藍(ウーラン)は居間のソファに座ったまま寧野をにらみ付けている。
「どうして、服を自分で出したりしている。それは召使いがやることだ」
「その召使いがいないんだから自分でやるしかないだろう」
 何言っているんだ馬鹿かといわんばかりの口調ですぐに返したら、武藍(ウーラン)もさすがに自分の言い分がおかしいことに気づいた。
 寧野の反論はもっともで正論だ。
「わかった一人用意させる」
「別にいらないけど」
 一人で出来るからいいと断ったが、武藍(ウーラン)に睨まれた。
 武藍(ウーラン)のような人間は召使いがいるのが当然なようで、召使いを使わないのは貧しいとされているようだ。だが監禁されている寧野がそれを要求するのはおかしいと寧野は思っている。
 実際召使いがいなくても問題はないのだから。
 武藍(ウーラン)が有無を言わさずに人を呼び、召使いの新しい人を用意した。
 だが、やってきたのは体が大きく、2メートルはあろうかという大男。趣味が体を鍛えることだといわれたら納得出来る筋肉隆々な体だが、どうやら武藍(ウーラン)は寧野が脱走するのを防ぐつもりで、武力で弱い塔智(ターヂー)を下げ、この男池祁永(チー チーヨン)を入れたらしい。
 たしかにここまでの大男を相手に気軽に戦闘なんて出来るわけがない。
 しかも武藍(ウーラン)の武術の相手もしていると聞かされたら、そこまで筋肉馬鹿の駄目な見かけ倒しの人間でもないわけだ。
 さらに意思疎通はつたない英語で出来るようだが、日本語は話せないと来ている。つまり会話をして心情に訴えるなんてことも出来ない。精々、単語を並べた最低限の英会話だけだ。日本語で話しても無意味。
(なんだもう、塔智(ターヂー)って人の方が丸め込めそうな気がしていたから、これは予想外だ)
 塔智(ターヂー)の方はまだ意志疎通が日本語で出来ていたし、同情されているようでもあったからだ。うまく丸め込めば有る程度の情報を得られると思っていただけに宛てが外れた。
  寧野はがっかりして逃走の手段を新たに考えることになった。
 あの筋肉隆々の化け物を黙らせてからの脱走になるわけで、それを考えると頭が痛いのだが、それを武藍(ウーラン)は分かっていて悩んでいる寧野を見て笑っている。その様子は随分と楽しそうだった。
(考えを読まれているというよりは、そう考えて当然という感じだろうか)
 誰でも考えることだから武藍(ウーラン)にも分かることだ。別に寧野が考えそうなことを読まれているわけではない。自分の考えが読まれた上に拘束されていた俐皇のところよりはまだマシではある。とにかくあの環境の方が最悪だった。
 とりあえずはあの堅物を倒せるほどの動きが欲しいと当面の目標を立ててから寧野は武術の練習に打ち込んだが、途中から妙な視線が気になって仕方なかった。
 それは何かと言われたら、池(チー)の視線と答えるしかない。監視をしているのだから四六時中見られているのは仕方ない。しかしそれだけではない感じがして不快だった。不快にさせること自体が武藍(ウーラン)の作戦だったとしたら、成功していると言っていい。
 とにかく池(チー)とは会話らしい会話は一切せず、視線も合わせることはしなかった。だが眠っている時も神経が研ぎ澄まされていてしっかりと眠れない。
 池(チー)は隣の部屋から監視をしていて、寝室には入ってこない。どのみちガラスであるから丸見えなため入ってこないのかと思ったが、置いてある椅子に座れない体格で、ソファしか座る場所がないようなのだ。日中は立っているため、その様子に気づいたのは池(チー)が来て二日目った。
 それから一週間ほど経ったが、不快な視線は変わることはなかった。
 寧野の苛立ちに武藍(ウーラン)は気づいておらず、もちろん池(チー)の異変にも気づいてなかった。
 だが普段の武藍(ウーラン)の軽口に寧野が一切答えなかったり、舌打ちをする回数が増えていることには他のものは気づいていたようだった。
  それが寧野の機嫌が悪いだけだと思っていて、池(チー)の存在自体にいらだっているとは思っていなかったようだった。


  その最悪な異変はその日の深夜だった。
 寧野はその日、強烈な眠気から早々にベッドに入った。昨日までの疲れがたまっていたのか、すぐに睡魔に襲われた。
  苛立ちはもちろんあるが、それでも池(チー)に対してそこまでの警戒を強める必要はないと思いこんでいたのもある。
  寧野が寝静まってしまってから、池(チー)が動いた。
 ゆっくりと隣の部屋に入り、ベッドに上がる。
 ベッドの軋みと揺れに眠りから寧野が覚める。寝返りを打とうとして何かにぶつかって目が開いた。
 目覚めた瞬間、何が起きたのか理解出来なかった。
 荒い息を吐きながら何かが自分に覆い被さっている。暗闇になれていない目が姿を捉えられないが、気配で何かがいることははっきりと分かる。
「やっ何……」
 大きな声を上げようとした瞬間、その塊に抱きつかれた。
「やめろ!」
  瞬時に肘鉄を食らわそうとするも完全に密着されて腕を封じられる。抜け出そうとして暴れてるも骨が軋むほど強く抱きしめられる。首筋に息が当たり、それが誰なのか一瞬で理解した。
 池(チー)だ。
 どうしていきなりこんなことをするのか分からないが、池(チー)が口走っていた。
「あいらーびゅー」
 一生懸命、寧野に伝えようとしているのか、つたない英語で話しかけられる。その繰り返しで、腕を捻りあげられて体に乗り上がられた。
 重さで動けず、足を蹴り上げて当たっているのにも関わらず、池(チー)は体を揺すられる程度のことでまったく効いていない。両手を紐のようなもので素早く結ばれてベッドに固定されそうになる。
「ふざけるな」
 両腕を振り上げて振り回すと、池(チー)の顔にいい角度で当たった。一瞬池(チー)が揺らいだ時に寧野が体を這わせて拘束から抜け出そうとすると今度はタックルされた。
 そのままベッドに倒れ込むように倒されたが、その場所が悪かった。
 ベッドの支柱がある場所へ倒れたために、寧野の頭に支柱が当たった。目から火が出るような衝撃と痛みが瞬時に襲ってきて、寧野はぐったりと倒れる。
 倒れ込んだのはベッドの枕があるところだったが、すぐに顔の周りに水分が付着する。ああ、出血したんだなと理解したが、意識が遠のいていく。
 こんなことで死ぬなんて嫌だと、抵抗しようと足を振り上げると動揺した池(チー)の金的に当たった。
「……ぐう!」
 さすがにそこは鍛えていないからなのか、池(チー)がもんどり打ち転がってベッドから落ちた。振動で大きな音がなる。その衝撃なのか、周りにあった屏風やタンスに乗せてあった小物の道具が音を立てて床に落下すると、割れる音が響き渡る。その音はすさまじく、階の下まで響いただろう。
「……は……」
 寧野は寝転がっている場合じゃないと意識を持ってベッドから起き上がり、池(チー)から逃げるために距離を取ろうとした時だった。
 パッと部屋が明るくなり、起き上がった池(チー)が目の前で立ち上がっていた。
 大きな姿の影が寧野の上に重なる。
 これでもう逃げられないと寧野が覚悟を決めた。意識もどんどん遠ざかっていくようで保っているのもやっとだった。
 けれど池(チー)のその首が何かで切り取られ、首が飛んでいく。
「……!」
 人が首を切られて死ぬところなんて、見たくて見たわけではない。もちろん生まれてこの方見たこともない。けれどその時の寧野には恐怖を感じるほどの心の余裕はなかった。
  もうろうとした頭の中で思ったのは「ああ、あれで死んだのかな」という感想だ。そうであればもうあんなおぞましい襲われ方をしないですむんだとほっとしたくらいだ。
  安堵したらと同時に、池(チー)の体が横へ倒れ視界から消えた。しかしその場所に、サーベルを持った武藍(ウーラン)が立っていた。
 険しい顔をした武藍(ウーラン)はどうやら剣術の達人のようだと、寧野は朦朧とした頭で考え、あまつ逃げる算段までしようとしたが、それ以上は頭の中が真っ白になっていく。
「寧野!」
 寧野を見た武藍(ウーラン)が目を見開いて持っていたサーベルを投げ捨てた。ガランと金属が転がって壁にぶつかる音がする。武藍(ウーラン)に見えたのは、頭から出血し、それが体を伝って右半分が真っ赤に染まった姿をした寧野だった。
 武藍(ウーラン)が血の付いた寧野の体をゆっくりと確かめるようにしている。どこを怪我したのか一瞬では区別出来なかったのだ。
 そのすべてがスローモーションで寧野は朦朧としながらも言うべきことがあるとばかりに武藍(ウーラン)を睨んだ。
「……ふざけんな」
 寧野は寄ってきた武藍(ウーラン)の胸ぐらを弱っている力で掴んで文句を言う。
 なんであんな危険なものを側に置いたんだとさらに文句を言おうとしたが、それ以上は頭が真っ白になって何も言葉が出ない。
「寧野、動くな、血が止められない」
 武藍(ウーラン)がいつになく真剣に寧野を介抱しているのを寧野は受け入れてから、文句を言うだけ言ったので、そのまま意識を手放した。


  塔智(ターヂー)は、その日武藍(ウーラン)に内線で呼び出された。
 織部寧野の警備から解雇されるようにいつもの仕事に戻されてから、武藍(ウーラン)には会っていなかった。もちろん寧野がどうなったのかなんて豹(バオ)から聞くまで自分には入ってこない情報だった。
 それでもそれが塔智(ターヂー)にとってはいつもの日常で、なんら不自由はなかったはずだった。
 解雇されて一週間目の深夜。
「急いできてくれ」
 武藍(ウーラン)のただならない声に、塔智(ターヂー)は起こされた。とにかくそのまま武藍(ウーラン)が言う寧野の檻まで行くと、周りが騒然としていた。
  救急車を呼ぶわけにはいかないという話と豹(バオ)が呼ばれていた。
「寧野が怪我をした。頭を打っている」
 そう言われて塔智(ターヂー)は頷いて中に入った。
 ガラスの入り口は開かれていて、大きな物体が乱暴に運ばれていく。それが先に通るのを見送ってから部屋に入ると、武藍(ウーラン)が寝転がっている寧野の上で賢明に頭にタオルを当てている。
 そのタオルは血まみれで、どす黒く変わっていっている。
 寧野の姿も体半分が血塗れで一瞬でどこが怪我したのかは分からないほどの失血だ。だが武藍(ウーラン)が頭の怪我を見つけて先に応急処置をしようとしたようだった。だがそれでも間に合わないのか、寧野の顔が青白くなっていっている。
「なにが……」
 あったのか聞こうとしてすぐ察した。
 転がっているサーベル、怪我をしている寧野、その寧野の腕が縛られたままで乱れた姿、それを必死に介抱している武藍(ウーラン)、そしてさっきの死体。
「月英(ユエイン)は病院を手配しましたか?」
 塔智(ターヂー)が近づいて、武藍(ウーラン)から寧野を預かる。頭を見ると小さな傷であるが血が止まらない。
 しかも頭を打った場所は血の付着からみて、ベッドの支柱。頭を強く打っているからなのか寧野は気絶している。となれば、病院で怪我を治療させ打った頭が大丈夫なのかを知らなければならない。さらに出血が止まらないため、失血死に至る可能性もある。
 これは身内でどうにか出来る状態ではなかった。さらに匿って医者を呼ぶには、手術や検査をするための器具が足りない。
「月英(ユエイン)は総合病院に連絡をして、緊急でオペできるか聞いている」
 答えない武藍(ウーラン)に変わって豹(バオ)が答える。
 ここには内線以外の連絡施設はないので、外の建物まで走って行ったのだろう。
 頭部の血だけあり、出血が酷く、周りのシーツや山住になっていくタオルが真っ黒にかわっていく。そこに月英(ユエイン)が戻ってきて、救急車を途中まで来るようにしたといい、そこまで車で移動することになった。
 武藍(ウーラン)が抱えて塔智(ターヂー)は寧野の頭を押さえたままで車に移動する。月英(ユエイン)は新しいタオルを持ってついてきて一緒に車に乗った。
 指定した場所まで車で行くと、救急車が止まっていてそこで寧野を担架に乗せた。
 寧野を救急車に乗せると塔智(ターヂー)と豹(バオ)が乗り込む。さすがに武藍(ウーラン)を連れて行くわけにはいかず、月英(ユエイン)と屋敷に一旦戻った。
 救急車で病院に行くと、そのままオペに突入した。
 こめかみに近い部分を縫うだけなので時間はかからないが、それでも頭を強打し、本人の意識がないことは問題だった。さらに出血がひどく、輸血をしてなんとか状態を保つことが出来た。だが油断は出来ない状態だ。
「検査の結果、大きな怪我ではないと思いますが、目が覚めるまでは安心は出来ません。さらに失血により体が弱ってしまうため、免疫が落ちてしまい何かの病気を併発してしまうかもしれませんので、当面の入院を」
 そのまま入院させて意識回復をさせると言われたら、連れて帰るわけにはいかない。武藍(ウーラン)に報告すると、入院させるように言われる。
 ボディガードがおけるようなVIP室に移されて、塔智(ターヂー)は見張りが持ってきた服に着替えた。血まみれの服ではまずいからだ。
 寝かされている寧野は呼吸器をつけられている。自発呼吸は出来ているものの弱々しいためだ。その呼吸器の音が響くなかで、塔智(ターヂー)は手術をした頭を見て顔をしかめた。
 体中にチューブが付けられた姿は陽妃(ヤンフェイ)と重なる。
「よりにもよって、武藍(ウーラン)様が用意したガードが……ということですか?」
 外にいる見張りには聞こえない声で塔智(ターヂー)は豹(バオ)に言う。
「寧野は襲われて抵抗し頭を打った。武藍(ウーラン)様は、それを見てサーベルを取り出して男の首を切った。寧野はそこまでは意識があって、怒っていたそうだ」
 豹(バオ)は淡々と状況説明をする。すべて武藍(ウーラン)に聞いたことだが、血まみれの寧野が意識朦朧としながらも反撃して一応は池(チー)をベッドから転がしたという。さらに怪我をしていたとはいえ、首を斬られた男の死体を見てもまったく動じてなかったという。むしろホッとしていたというから襲われたのは事実だろう。
「よかった、寧野とあの男が逃げようとしたのかと思って……」
 そういう塔智(ターヂー)に豹(バオ)が言う。
「陽妃(ヤンフェイ)と寧野は違う。同じように囲われても陽妃(ヤンフェイ)のようなことにはならない。陽妃(ヤンフェイ)にはその場に同族の味方がいた。寧野にはここに味方は居ないんだ」
 そういう意味で寧野が池(チー)を誘惑したという話はなくなる。懐柔させるつもりでしくじったなら寧野の自業自得であるが、寧野は武藍(ウーラン)に文句を言っていたというから、それは池(チー)を配置させた武藍(ウーラン)のせいでこうなったことは確実である。
 これは武藍(ウーラン)にとっては二度目の修羅場だ。
 だが決定的に違うことがあった。
  寧野は襲われただけで、逃げようとはしていなかったということ。さらに怪我をしていて、どう考えても逃げるなんて出来る状態ではなかったこと。最後は文句まで言っていたというから、武藍(ウーラン)の混乱は少なかったといえよう。

  武藍(ウーラン)が嫁にしたいとまで願った陽妃(ヤンフェイ)は、あのガラスの部屋から逃走するのに監視者を誘惑して味方にし、手を取り合って逃走しようとした。
  それを武藍(ウーラン)が発見し、男を今回と同じように殺害、陽妃(ヤンフェイ)はそれで頭がおかしくなって、最後は自殺した。
 寧野の部屋がガラス張りになっているのは、この陽妃(ヤンフェイ)のように部屋でこっそり自殺をされてはたまらないから作ったのだ。
  武藍(ウーラン)は信頼していた部下にも、好きだった陽妃(ヤンフェイ)にも裏切られて人間不信になり、その結果、残虐な香主(シャンチュ)として君臨、龍頭(ルンタウ)にまでなった。
 その繰り返しのようなことが起こってしまったのかと思ったが、そうではないことに塔智(ターヂー)はほっと息を吐く。
「武藍(ウーラン)様には月英(ユエイン)がついているから大丈夫だ」
 豹(バオ)がそう言って塔智(ターヂー)の心配を察知して先回りして安心を与える。
「武藍(ウーラン)様もさすがにこのことにはショックを隠せないだろうが、本人がしたことだ。仕方ないことなんだ」
 塔智(ターヂー)をつけたままにしておけば、この状況は完全に防げたのに、武藍(ウーラン)のちょっとした嫉妬やからかいが招いたことであるのは、武藍(ウーラン)本人が一番知っていることだ。
 それに寧野は池(チー)の存在を疎ましく思っていて機嫌がずっと悪かったと月英(ユエイン)が言っていた。それは塔智(ターヂー)と違う存在の池(チー)にいらだっているのかと思っていたが、寧野はずっと自分の身の危険を察知して危機感を露わにしていただけなのだろうと今なら分かることだ。
「目覚めるんでしょうか?」
「さあ、俺は医者じゃないから分からない」
  豹(バオ)はそう返した。 


  それから数日経っても寧野は目覚めることはなかった。体の調子はどんどん戻っていくのだが、意識だけはなかなか戻らなかった。


  小さな港町に黒服の男たちが降り立った。
  男たちは、すぐに山へ向かって車を走らせていく。その様子を町の人間は知り、大変なことがおこるのではないかと戦々恐々した。
  山は少し高い山、目の前に港があり、数キロ先は避暑地として有名だ。そんな場所であるから夏になると、宿を求めて人が流れてくる。観光地ではないが、宿だけはたくさんある町でも冬はそこまで繁盛はしないため、ひっそりとする。
  そんな地域の山に、中国人が大きな屋敷を建てた。それが10年前。それから中国人が増えたが、町との交流は一切ないままだ。それに中国人が悪さをすることはなく、静かだったので次第に気にならなくなった。
  その中国人が最近慌ただしい。警戒はもちろん車の数も増えた。
 何か起こる気がすると住民は警戒を始めた。
 そんな町で、中国人がたくさんたむろしていて、迷惑していたと証言が得られたのは、寧野につけていたナビが消えてから一週間後のことだった。
 寧野にはGPSを歯に仕込んであった。しかしその電池が切れるのが二ヶ月後で、ちょうどこの町に入ったところで電池が切れた。
 よって耀たちがこの港町にたどり着くことは容易だった。
 その町で得られた情報は、中国人がたくさんやってきて、山の方に屋敷を作ったというのだ。だが避暑地扱いで中国人が暮らしているならまだ分かるが、車の出入りが異常に多いのに、地元とは交流は一切なかった。
 そんな場所近くで消えたとなれば、怪しいのは一応その中国人である。
 調べないわけにはいかない。
 そこで宝生耀は、何人か監視をつけてその中国人が何者なのかを突き止めた。
 写真に写っていたのは、たくさんの中国人。その中の数人が耀の情報にヒットする。一人は谷(グー)秋里(チゥリー)。煌和会猩猩緋(シンシンフェイ)の幹部。そしてもう一人は昶(チャン)月英(ユエイン)。煌和会龍頭(ルンタウ)の側近。
 この二人は煌和会現龍頭(ルンタウ)の組織に属している龍頭(ルンタウ)の側近だ。こんな大物がこんな山奥に出来りしているならと、耀が辛抱強く監視を続けた結果、操(ツァオ)武藍(ウーラン)。煌和会の新しい龍頭(ルンタウ)が出入りしていることも確認できた。
「いや、なんでこいつが寧野を?」
  耀は、彼が寧野を欲しがる理由が金糸雀(ジンスーチュエ)関係であるのは間違いないと思っているが、そういうありもしないファンタジーなことをまともに受け取って手を出し、余計なデメリットを抱えるような人間ではないと分析していた。
  まして寧野は調べれば分かるが、金糸雀(ジンスーチュエ)としては失格レベルで何もしていない。それをしてもなお、欲しがる理由が謎だった。
  寧野がどんな方法を用いても金糸雀(ジンスーチュエ)と無関係でいることが分かるのに、一週間もかからないはずだ。それなのに、武藍(ウーラン)は寧野を解放しないどころか、殺しもしていないようだった。
  始終武藍(ウーラン)はこの屋敷に出来りしており、ここ最近は内部から出てくることもないようなのだ。
  耀はその屋敷の中に出入りしている人間を数人買収した。下働きをしている人間で、たまの休みに大きな町まで出てくる。そんな人間から集めた情報によると、確実に寧野はそこで監禁されていた。
  姿をみたわけではないが、一つの建物が24時間完全に監視され、下働きの人間などすら近寄れない場所がある。そこに出入り出来るボディガードにそれとなく話を振ったら日本人を一人監視しているという。
  しかもそれは金糸雀(ジンスーチュエ)の一族の人間で研究目的だと言っていたという。
「寧野がそこにいるのは間違いないな」
  耀は寧野の居場所をやっと見つけた。
  怪しまれないいように離れた町に宿を取り、なんとか中へ入れないものかと画策したが、やはり中国人以外が中へ入ることは出来ないようだった。なんとか騒ぎを起こして潜り込めないものかと、攻撃をすることを考えるも、今現在派手に動くことが出来ない。
  耀の居場所を知らせるようなことになれば、ヨーロッパを脱出するのに真栄城俐皇(まえしろ りおう)に発見される。
  まだ土地の利がない耀には厳しい状態は変わりなく、無理な行動が多い。忍び込んで寧野を連れ出すことが出来れば穏便に脱出出来るものだが。
  そう思っている時に耀は他の人間が寧野を探していることに気づいた。明らかに北の人間。ロシア人らしい人間が煌和会を探っていた。
  相手が何者かを調べると赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)の末端組織のようだった。
  まさか赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)も金糸雀(ジンスーチュエ)目当てなのかと耀は気づいた。
「よりにもよってか」
  だがそこに朗報が舞い込んだ。意外な主からの招待状によって耀は赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)の幹部に会うことが出来た。話し合いにより金糸雀(ジンスーチュエ)を諦めた形になった幹部だったが、なぜかそこに残っていた金糸雀(ジンスーチュエ)と同じ種族である花(ツェピトーク)が一人いた。
  名前はシーニィ、ロシア語で青という意味を持つ青年は、金糸雀(ジンスーチュエ)である寧野に会いたいと付いてきた。さらに様々な事情から赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)の幹部であるヴァルカ・キシンを同行することになった。
 そのヴァルカをつれた耀がロシアから戻ってきた。
  ロシアにいる間にシーニィの体の異変から、寧野に何かあったのではないかと言われていたが、イタリアに戻ってすぐ槙(まき)から報告があり、誰かが怪我をして病院に運ばれたというのだ。
  その人物が誰なのか分からないままだったが、病院に潜入させたスパイからは日本人が頭部を怪我して意識不明であることが分かった。
「寧野か……どういうことだ」
  何があったのか分からないが、寧野が怪我をして運ばれた。ただ武藍(ウーラン)たちはそのまま寧野を殺すことはせずに丁重に入院させて意識を回復させようとしている。
  その様子から研究材料という流れがおかしくなる。
  耀にはまるで武藍(ウーラン)が観賞するかのように寧野を監禁していたのではないかと本気で疑った。
  もともと金糸雀(ジンスーチュエ)に手を出すタイプではないから、その説明の方が少しは説得力が上がる。
  なんとか病院に忍び込めないかと検討していると、ある医者から接触があった。金さえ積めば、見習いとして患者の前にいけるというのだ。研修医やそういう制度がある病院であるから、新しい医者がついてきてもおかしくはない。幸い、怪しまれないように医者の人数を制限したりしていないらしく、潜り込むことは可能だった。
  耀はそれを使って病院内に入り込むことに成功した。

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