宝生耀が次に目を覚ましたのは、暖かな日差しが差し込む一軒の民家だった。窓から当たる日差しが暖かく、最後に覚えている記憶と違いすぎて夢でも見ているのかと思った。
現実は厳しく、夢で逃避とは情けないと耀が思ったけれど、何時間までたっても目が覚めることがない。
もしかして夢ではないのか。もし夢なら、ここに寧野がいて微笑むはずだ。そう思ってこれが夢ではないと思えた。
というのも見ている窓辺があからさまに海外の民家で日本ではないことや、誰かがの笑う声が下から聞こえてきたからだ。それが現実ではなく夢だとは思えなかった。
起きあがろうとして体に力を入れたが、思い通りにはならなかった。
「……」
喋ろうとしたが口の中が乾きすぎているのか声すら出ない。というか鼻からチューブが刺さっている感覚がしてきて、いよいよ夢ではないことを知る。
確実に治療中だ。
そう思ったので視線を左右に動かし、室内に視線を向ける。
ヨーデルとか歌い出しそうな雰囲気だなともうろうとしているはずの脳味噌が認識する。そこで少し笑いそうになって咳が出た。
ゴホゴホと咳をすると胸の痛みが襲ってきて今度は息が出来なくなる。ああそうか胸の骨折れていたっけと思いだし、それを誰がしたのかも思い出す。
あのくそ野郎。思いっきり胸踏みやがって。
憎らしい顔を思い出してさらに起きあがろうとして苦戦する。
腕は動かない。当然、骨折していたことを思い出す。胸も息苦しいのはコルセットをしているからだと理解する。完全に病人の自分を冷静に思い出して夢から覚めたことを自覚する。
「あ、ちょっと動かないでよ。今、九猪さんと億伎さん下に行ってていないんだ」
女みたいな声がした。
視線を向けると14、5歳くらいのロシア人みたいな子供がいる。それが流暢な日本語を話している。なんだこれはと首を傾げたくなる。
「……み、ず」
「はい、じゃあこれで」
明らかに病人が水を飲む容器を差し出された。耀は仕方なくそれを飲む。ここにきて毒が入っているかもなどと疑う気は一切なかった。それも億伎や九猪の名前を出されたからというのもあるが、暗殺者にこの年齢の子を使うとは思えないからだ。戦場じゃあるまいにと。
水が喉を通り過ぎると、ほっと息が出た。
さっきまで引っかかっていたものがなくなり、自然と声が出た。ただ掠れたものだったが、聞き取れはしたようだ。
「寧野はどうした」
自然とこの言葉に行き着いたのは、当然と言える。まずどうして自分が助かったのかという疑問はすぐに解決した。自分が解放されたということはあの俐皇が何かと自分を交換したということだ。拷問には参加しなかったけれど、聞き出したい情報を何一つ喋ってはいない耀を殺したところで溜飲は下がらないようだった。
あの書類を逃した段階で宝生組に殴りかかるのは愚の骨頂。書類を差し出せと言っても中身を見られているなら意味がないと考えたのだろう。
そして宝生側は何があっても若頭である耀を助けたりはしない。これは組長代理が組長として成り立っている宝生組が若頭のために組の存続を危うくするわけがないということだ。
たとえ組長代理が駄々をこねて甥を助けると言っても、幹部が全員反対する。それでは意味がない。耀が組長代理でも交渉はしない。だから耀が助かる方法は一つしかない。
寧野が暴走して組長代理から自分の拘束されている条件を解消させた上で、本家の当主代理権限を使うことだ。
そこまでは俐皇も読んでいたかもしれない。だから俐皇が出した条件が織部寧野だったはずだ。
自分と交換できるような条件を持つのは寧野だけで、俐皇は寧野とは面会済みだ。しかも過去に繋がりがあると分かっている。そうすると俐皇が利用できる何かを本家から吐き出させようとした時、寧野は自分以外とは絶対に交渉しなかっただろう。
俐皇もそれを予想して寧野を要求。
耀との対価なら寧野は上出来すぎる獲物だ。
そこまでの考えが咄嗟に浮かんで寧野の無事を確かめたかったのだ。
「あ……それは」
少年が言葉に詰まった時、部屋の入り口から声がした。
「真栄城俐皇(まえしろ りおう)と一緒です」
九猪の容赦のない言葉が耀に叩きつけられた。
少しだけやつれている九猪が少年を押し退けて耀の側にあるイスに座る。
「今何日だ」
「貴方が行方不明になった日からでしたら、15日です。救出されてからなら5日です」
九猪の言葉を聞き、耀は深くゆっくり息を吸い、痛みを感じるままに息を吐いた。
「ありのままを報告しろ」
耀がそう言うと、九猪は手帳を開き報告を開始する。耀は15日間の記憶がないと言って過言でない。拷問された日にちも分かっていない上に、移動したことも気付いてない。それは薬によってもたらされた朦朧さが手伝っていたためのことだ。
だが今はそれも抜け、はっきりと考え事が出来た。
「耀様と億伎が離ればなれになった後、億伎が安全を確保した後、後続の組織と連絡をつけ……」
耀が連れ去られた後からの報告を耀はじっと天井を睨みつけて聞いていた。
大体は予想通りで組長代理が耀を見捨てたことまで当たっていた。寧野が組長代理のいるところまで乗り込めるかどうかは分からなかったが、まさか本部にそのまま乗り込み会議に割り込むまでの激怒とは耀も苦笑したくなった。
「それはもう誰も口出し出来ないほどの恐ろしさでした」
それこそ静かに周りの本物を黙らせた上で、組長代理に喧嘩を売り、自分が動くための権利などをもぎ取る経緯は本当にその場にいたかったくらいだ。
あれを怒らせると怖いと言っていた萩野谷老人の言葉はそのままだったらしい。
「伊賀流里(いがりゅうさと)組長はどうなった?」
「その後、破門されたようです。破門状が回されたので生きてらっしゃるかどうか不明です。アレを先導した主導者はまだ内部にいるようですが、これほどの失態に二の足を踏んでいるようですよ」
まさか耀まで捨てるほどの関心のない組長代理の判断は、主導者にすら予想外だったようだ。守るために甥も捨てると薄情な組長代理と思っているだろうから、そう思わせておけばいいだけのこと。
「組長代理には悪役を買って出てもらって悪かったな」
「合法的に貴方を自由にする方法が転がり込んできたのに、乗らないはずはないですよ。しかも寧野さんも分かってて組長代理を乗せましたし、その場でそれを分かっていたのはあの二人だけだったと思いますよ」
後で考えれば、組長代理のあの薄情な意味を知る人間も出てくるだろうが、あの場では九猪や億伎でさえ、組長代理の非常さに大慌てだったくらいだ。落ち着いて行動していたのは咄嗟に理解した寧野くらいだろう。
本当にあの男は見事な相棒に育ってくれたものだ。
「真栄城俐皇は最初から寧野さんと貴方を交換するつもりであったと思われます。一応情報を引き出せないかと思ったようですが、それも本人のというよりは契約者からの要望というような感触です」
「まあ、出れば万歳、なくてもまあいっかー程度だったと思うぞ。あいつ、寧野のいう通り、どっかネジが飛んでて軽い」
万事そういう態度であるなら、そういう人間なのだろうが、果たして寧野に対してそうなのかどうかというと違うモノがあると耀は思っている。
寧野を調べ上げた時に、寧野が習っていたからという理由でわざわざ榧(かや)流を選んでならいに行っているくらいの変態だ。微妙な奥義まで身につけるほどだ。寧野すら気付いていなかっただろう、榧(かや)流を使える男だと言うことは。
「フランスの空港で貴方と寧野さんを交換しました。人前故、双方何も出来ず。俐皇はそのまま寧野さんを連れてイタリア行きに乗りました。こちらが席を押さえられないように事前に満席になるようにキャンセルまですべて買い占めで席を取っていたようで」
「は、EU内を自由に移動出来るのは寧野が日本人だからだろうな。あいつもそうだしな。痛いところで日本のパスポートがきいているな」
日本のパスポートは偽造が少ないようで信用度が高い。それ故に移動手段では友好的でEU内ならパスポートなしで移動できることがある。EU内を出る時にパスポートを提出するだけでいいこともある。それを俐皇は利用した。
イタリアに飛んだからといって、寧野がイタリアにいるとは限らない。飛行機、鉄道、車を使われれば、それこそEU内なら何処へでも移動可能だ。パスポートを使わないから調べてもいる国すら不明なのだ。
「それは寧野も計算外だったな」
「はい申し訳ありません。我々もそこまで出来るとは思わず」
「それはいい。どのみち寧野には付けてあるだろう」
「はい。もちろんです」
「なら今はいい」
尾行は巻かれたけれど、それは仕方ない。尾行を巻こうとしているプロが本気を出しいているのだ。最初から逃げ道を用意されていたから逃げ切られるのも仕方ないことだ。
寧野が連れ去られた後、寧野が立てた計画でフランスを車で脱出しドイツへ。壊滅したはずのドイツへ逃げるとは予想してなかっただろうから逃げ切れたようだった。
さすがにフランス内にいる御小柴(みこしば)兄弟を頼ることはなかった。まっさきにマークされている人間だ。しかもあいつらは繋がっている可能性もある。御小柴兄弟は俐皇が何者なのかは知らないだろうが、簡単に喋らせることは出来る。
「ダミーを三重に用意しまして、御小柴兄弟行きはそのまま日本へ戻り、二番目はイギリスに渡り、三番目の私たちがドイツの国境付近に用意したコテージにいます。ここは日本人が多く宿泊する宿がたくさんある観光地で長期滞在者も多くいます。音羽老人の元部下の知り合いという到底たどり着けない関係者に頼み込んで貴方を匿えるコテージを一軒借りました。当面私とさっきの少年と億伎の三人兄弟が療養に来てことになっています」
「あれは誰だ」
「億伎の家にいる家出少年ですが、身元はしっかりしてますし、親族の方はこちらと一緒にいることはちゃんと分かっていてごまかしてくれています。協力もいただいてますので粗相のないようにお願いします」
怪しまれないように組に関係ないが理解してくれる無害そうな人間を捜す時間がなかったのだろう。億伎が身内を出してくるとは相当困った上の判断だ。
「悪かったな億伎、巻き込んで」
自分を助けるためとはいえ、組とは無関係の人間を巻き込むのは億伎も覚悟がいることだ。
「いえ、コレのことは気にしないでください。勝手に巻き込まれにきただけですので」
億伎が素っ気なく返すが、少年は億伎の腕に抱きついて嬉しそうだった。
一応彼がいるおかげで異母兄弟説や病弱な少年のための療養という言葉が成り立っているのは確かだ。
「おれのことは耀でいい、名前は」
「花南(かな)、みんなは花(はな)って言うけど」
「そうか花南(かな)。ありがとう」
耀が見ていてくれた礼を言うと花南は嬉しそうにパタパタと部屋から出ていった。照れたらしい。それを億伎が苦笑して見送っているからどうやら関係は上手く行っているようだった。
「本名は鴉紋花南(あもんかな)。あれでも二十歳です」
「マジか……14か5だと思った」
「ええ見た目はあれですが、天才です。ハッキングやクラックとその方面では有名人です。そこで花南を使って寧野さんの動向を監視してます」
何処でも入り込めるらしい花南は、かなり使えるらしく九猪は重宝しているようだ。億伎は関わらせたくなかったようだが、本人はやる気でいる限り億伎に止める権利はない。
九猪はそこらへんを上手く使って仕込んでいたらしい。
「そろそろ私にも弟子が欲しくなりましてね」
そう言って九猪はパソコンを持ってこさせた。
寧野を監視しているのは、花南がハッキングして一部の視覚を借りている宇宙に浮いている衛星だ。破棄が決定している衛星は何十個と浮いている。その視線だけを借りて操作し、寧野の居所を特定した。
とはいっても元々寧野の奥歯にはGPSで感知出来る発信器を付けており、それは寧野が出てくる前に新品に変えてきた。それは調べても分からないようにさらに工夫した。微弱電池で何ヶ月か持つような最新鋭のものを使ったが使用が初めてであるため、不安はかなりあった。
二日で俐皇たちの移動が止まり、衛星でイタリアの島々の一つに屋敷を構えていることが分かった。現在も発信器はいきていて、そこから移動はしてない。周辺の地形を調べ、持ち主を調べ、さらに行動するには耀の手腕が必要だと分かったところだった。
「そうか」
目が覚めるのが遅くなれば、それだけ体が治らない。骨折している箇所は億伎が見て適切に処置してくれたが、それでもくっつくまでは一ヶ月以上かかる。幸い折れていてくれたおかげで拷問もそこまでひどくは出来なかったらしい。
肺に肋骨が刺さって死なれたら困るだろうからだ。
最初から寧野と交換する予定だった俐皇がそうしたお陰で耀は生きている。それこそ寧野の存在だけで耀は生かされてたことになる。
その寧野が俐皇に何をされているのか、想像するだけで煮えくり返る。あれは九十九のような男ではない。絶対に寧野を抱くだろう。それが分かっているだけにどうしようも出来ない自分や、寧野にそうさせなければならない不覚をとった自分を呪った。
「とにかく貴方は体を治してください。それが貴方が今やらなければならないことです」
九猪がそう言い切ると耀は頷いた。
この失態の代償が思った以上に大きく根深い禍根になるとは誰も思いはしなかっただろう。
耀が体を治すまでにかかる期間は二ヶ月。
億伎が耀が動けなかったのは、骨が折れたからだろうと言っていたから、それを治すのにそれくらいかかると思ってくれと言われた。だからそれなりに覚悟はした。
俐皇がどういうつもりで寧野を選んだのか分からないが、それでも情人として使うつもりだったのは想像だにしていなかったことだった。
ただ慰み者にはするだろうし、一度や二度くらいの陵辱はあると思った。だが何度も何度も求めてくる俐皇は想像していなかったので寧野は混乱した。
まさか本気で自分を抱こうなどと思う人間がそうそう居てたまるかと思っていた。だが、俐皇は一日の終わりに必ず寧野を抱く。そしてそれは日増しになり、日中でも平然と襲ってくるようになった。
「…いい加減に!」
体中を舐め回る俐皇に足蹴りを食らわせようとして足を振り上げると俐皇は器用に避けてベッドから降りた。終わった後に体中を舐め回るのはさすがに慣れない。
掻いた汗を舐めるような変態趣味を持ち合わせているとは、それこそ想像すらしてなかったので最初は混乱に混乱した。
ここ一ヶ月以上はそんな状態が続いたが、いつまでもその状態を許しているわけでもなく、隙があれば攻撃して逃げ回っていた。
相手の俐皇も同じ榧(かや)流使いではあるが、本家筋とはいえ、直接榧(かや)に習った者とそうでない者の差は出ていた。
つまり真剣勝負なら今のところ寧野の方が素早く強いらしい。素早さばかりは軽い寧野の方が有利で、飛んだり跳ねたりされると重い俐皇は不利になる。
榧(かや)流は軽さを武器にして動き回るような武術。さらに相手の動きも利用して自分の動きも使い力を二三倍とあげてしとめる技の応酬が基本。つまり勢いを付けてしまうと、寧野の方が圧倒的に強くなってしまう仕組みだ。
だから俐皇は常に警戒をしていて、攻撃をさっさと避けてしまう。榧(かや)流だから型に合わせるとどうしても避けられる傾向があり、寧野は最近は榧(かや)流からの月時流を混ぜた技を編み出しているところだったりする。
sex以外で俐皇がこの部屋を訪れることはほぼなく、満足すると部屋から出て行く。会話らしい会話はしているが、どれもまともな会話にはならない。
というのも。
「寧野愛してる」
「シネ、マジで死ね」
というようなものが多い。
愛していると言えば寧野が切れるのを知っていて言っているだけなので本気ではないが、寧野の呼吸を乱すことには成功しているようだ。
この攻撃で作戦がしくじることが多く、逃げ出すタイミングを失っている。
首につけられた鎖は外されることはなく、寧野はバスローブのような、西洋人が東洋に感化されて作ったであろう着物みたいな部屋着を着せられていた。普通の洋服はワイシャツ系しか無理だからそうなっているのと、自由に動き回れないように服を着せてもらえないのと、sexをしやすく脱がしやすいという理由で着物みたいな部屋着が採用されているようだった。
「くそ、あの野郎」
着るものがないのでそれを着るのだが、その時、胸に付けられたキスマークにゲンナリする。同じ場所にされるので青くなっているところもある。こだわりがあるのは分かるが、それでも気に入らないのは当たり前のこと。耀以外の男の印がずっと残っているのだ。
初日の行為にはさすがに心がついて行かずに泣いた。だが二日目からは抵抗を始め、とうとう拘束を完全にされてから行為が始まるようになった。抵抗を絶対にやめない寧野に俐皇はあきれているらしいが、それでも寧野は心まではやれないから抵抗する。
たまに相手に決まる攻撃もあって撃退が出来る時もあるが、そうするとすべての飲み水や食べ物に睡眠薬を仕込んでくる。
あれは本当に気が狂っているレベルの変態だ。
この体を征服したくて仕方がないというように、何度も何度もだ。
耀ですらそういう行為はしないから、その違いがあるだけで耀ではないと拒否が出来る。
ただ抵抗するしか術はなく、自分の体すら守れないのは精神的にきつくなってきていた。発狂しておかしくなればそれで辛くはなくなるだろうが、耀の元には帰れない。
耀が生きている無事な姿、ちゃんと立っている姿を見なければ死ぬにも狂うにも出来ない。それだけが自分を支えていると言っても過言ではない。
「寧野さん、お食事です」
そう言って隣の部屋から呼ばれる。首輪の鎖は伸縮自在で壁の中に自動で巻き取られている。隣の部屋などに呼ばれる時は声がかかるとその鎖が延びてきて動けるエリアが増える。とはいえ、隣の部屋に行けるくらいのものであるが。
それが終わると隣の部屋から強制的にベッドルームに呼ばれ、部屋が片づけられてしまうと、今度はベッドルームから追い出されて隣の部屋で読書などが出来るように整えられる。
だから寧野はこの部屋に来てから、俐皇以外の人間に会ったことがない。声はするし、人の気配がするが人には会えない。だから精神的にもおかしくなりそうなのだ。
誰にも会わずに何も出来ないままというのは意外に苦しい。
それでも精神を保つための修行だと言い聞かせて寧野は体を鍛える。通常出来ないことを出来るようにしなければ脱出は出来ない。
腹筋や背筋、腕立てと、ここにきてから出来る回数は増える。俐皇が来る以外の時間はそんなものだ。
一ヶ月半が立つと、それが当たり前になり、精神も落ち着いてくる。
俐皇は相変わらず寧野を抱くだけ抱いてからかって出て行く。
何がしたいのか分からない。
そんな俐皇をあざ笑う存在が現れたのは、二ヶ月目に突入しかけた時だった。
真栄城俐皇(まえしろ りおう)はいつも通り寧野を好きなときに抱いていた。だが体が思い通りになっても心は一向に壊れてくれない。精神が弱っている時もあるようだが、どういうわけか持ち直す。
あの精神力の強さに、よほどひどいことをしようと想うのだが、陵辱するにもあの体が壊れてしまっては台無しだ。
精神が崩壊しても構わないと思えるのに、死なれては困るのだから、自分がおかしくなっていることが分かる。
「こんなところで油食ってるのは、お前らしくなくていいな」
そんなことを言いながら俐皇の屋敷に堂々と入り込んできた人間。
俐皇の陰の後継人である九十九朱明だ。60を越えても40代にみえる肉体を持った老人が颯爽と歩いてくる。
この世でもっとも恐ろしい人間は誰かと聞かれたら、俐皇は間違いなくこの男の名前を挙げるだろう。
九十九朱明という男はやくざの世界では伝説となった神宮領(しんぐり)事件の首謀者だ。ただ証拠不十分で迷宮入りどころか時効。新たに起こしたヤクザ事務所爆破事件ではやはり証拠不十分で逮捕すらされないテロリストとなった。
日本のヤクザどころか世界中のマフィアにすら恐れられる爆破使い。彼に何かすれば当然組織は解体される。そうした組織が何十と存在する。残れるのは大きすぎる組織くらいだ。
そんな九十九が日本で大人しくしているのは海外にでているからである。休眠中の30年を使って組織を作り、復帰したからにはと大きく動き出した。
その組織に俐皇はイタリアの事件後入っていた。
九十九は俐皇を一時的に預かっていた時に俐皇の異常性を見抜いた。そこから二ヶ月の間に教育をし、今現在もそうだった。
このところの俐皇の異常な行動を心配したサーラから連絡を受けて九十九は見に来たのだ。何をしているのかを。
「九十九……何をしに」
「お前がおかしいから見に来いとサーラに言われてきた」
平然と情報源を喋る九十九だが、俐皇がサーラに強く出られないことを知って居ての行動だ。
「オレはおかしくはないが?」
俐皇がそう言うと、俐皇の後ろにある監視カメラを見つめて九十九が目を細める。
「なかなか面白い。アレはいつからいる?」
「もう二ヶ月」
九十九に嘘をついてもサーラが全て喋っているだろうからと俐皇は観念する。
「つまり、武藍(ウーラン)の仕事を二ヶ月放置したわけか?」
「あれを渡す気はない」
仕事で寧野を誘拐して生きたまま渡せという話があったが俐皇は無視をした。仕事を受けるのも断るのも俐皇の自由だ。
だからそれを批判されるいわれはない。
「まあ、武藍(ウーラン)の魂胆が少し読めないから放置で構わないが、和青同(ワオチントン)も同様の依頼をしてきた。どうやら双方ともお前が織部寧野を匿っていることを知っているようだ」
筒抜けの状態になったのはどういうことだと九十九は言っているのだ。
若頭を使って寧野を手に入れたことは誰にも漏れていないはずだ。宝生本家側がわざわざ誰かに知られるように言い回るわけもない。何より本家は寧野の安全より当主である耀の行方すら知っていないようなのだ。
だからこんな時に騒動を構えたくないはずだ。
ならば寧野の居所を喋った内通者がいると九十九は言っている。
「場所が漏れてないなら、連れてくる途中で見られたのかもな。空港だったし」
俐皇がそう言うと、九十九はニヤリと笑う。
「煌和会は、二ヶ月前に和青同(ワオチントン)との抗争で頓挫していた取引を再会するためにフランスに武藍(ウーラン)が来ていた。その帰りの便の搭乗途中で見かけた可能性があるか」
それでもおかしなことではあると俐皇は気付く。
「だが、武藍(ウーラン)は教(ジャオ)と違って金糸雀(ジンスーチュエ)には一切興味がなかったと想うが?」
「つまり興味は他にあると」
寧野が金糸雀(ジンスーチュエ)以外の利用価値のある人間であると武藍(ウーラン)が言っているようなものだ。
「さあな、アレがどうであれ。今後の何かが変わるなら、殺せばお前以上の闇が完成するというくらいのものだ」
それはまた面白いがと九十九は笑う。
「宝生組が若頭宝生耀の行方が分からないことを理由に、宝生耀を破門にした。とはいえ、誘拐されて殺害されたかもしれないので、破門とはいえ若頭の地位に別の人間を据えたいからとりあえず宝生組をいったんやめてもらう程度のものだ」
破門というのは、便宜上の破門と、本気の破門というものが存在する。建前上しなければけじめが付かないという理由での破門は今回の耀のようなもの。本気の破門、絶縁はその耀を売ったとされる伊賀流里組長のようなものだ。
「あの屈強だった宝生組が揺らいだようにみえて、周りの組は嬉しそうだったが、予定通りの行動のようでイヤな予感しかしない」
こんな破門状などを出す羽目になる失態を組長代理がやるとは思えず、さらに甥である耀を一旦とはいえ宝生組から出すのはやりすぎだと思えた。
「そりゃ、計画の一部だったんじゃないか。宝生耀がそんな破門ごときで動じるとは思えない」
俐皇が舌打ちをしながらそう言っていた。
やられたと思ったのは始めてた。
「なるほど、宝生耀に自由を与えるための猿芝居。それにアレも噛んでいたわけか。なかなか情人とはいえ、響とは偉く違うように育ったな」
うらやましそうに九十九が寧野を見ている。同じ情人でも徹底的に関わらない方を選んだ月時響と、深くまで潜り込んででも関わり続け、抜け出せないところまできた織部寧野の違い。それが分からない。
月時響が織部寧野のようであったら、自分がどうしたかと九十九は考えてから考えるのをすぐにやめた。それだけは絶対にあり得ないからだ。
「抱いたところで思いが遂げられるわけではないのはオレを見て分かっているとは思っていたが」
俐皇が寧野を抱いていることなど知っているとばかりに九十九が言う。九十九はあまりに大事にしすぎて抱くことすら出来なかったのだ。
今度壊したら二度と手に入らないと知っていたから。
「……それでも手放すことは出来ない」
俐皇は最初に連れてきた時以上に、寧野に固執している自分に気付いていた。それでももっともっとと思うのは仕方ないことだろう。
そればかりは九十九朱明にも理解出来たことだった。
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