spiraling

21

 宝生組の若頭が誘拐され、織部寧野の取引材料として利用されたことが、ある経由で嵯峨根会理事長成田組組長である秋篠啓悟(あきしの けいご)の耳には入った。
 報告を受けた時、秋篠は少し苛立っていた。
 予定では若頭ではなく、組長代理が殺されていたはずだったのだ。
 こちらが頼んだ暗殺ではないが、ある種の利害が一致しただけで、多少なりとも協力はした。だが結果は宝生組若頭を拘束出来ただけであった。
 それだけならまだしも、相手は織部寧野と若頭を交換してしまったという。まあそれもありだろうが、その場合、若頭は解放した後、適当に殺してしまわなければならなかったはずだ。
 それがどうだ、失敗したという。
 ヤクザの容姿からかけ離れたエリート商社マンのようなスーツにぴたりとオールバックに固めた髪に鋭く細い瞳がさらに細くなる。
 同盟者よ、うまくやってくれなければ意味がない。
 思わず口に出して呟きそうになってため息を吐いた。
「啓悟さん。何か不都合でも?」
 部屋に入ってきたのは、今日呼び出して置いた、七代目秋篠一家総長、都寺朋詩(つうす ともし)だった。
「それなりに不都合は想定内だ」
 書類をさっと片づけ、朋詩に座るように言う。
 この都寺朋詩は、前嵯峨根会会長だった都寺冬基の実子だ。そして現嵯峨根会会長都寺冬哩は兄になる。
 だが跡継ぎ問題を解決するためという名目で、朋詩は秋篠一家が引き取って育てた。その秋篠一家は、啓悟の実家だった。
 成田組を起こして秋篠一家を出たのは長男であった秋篠啓悟の方だったことは、少し周りを混乱させた。
 けれど啓悟の目的が都寺冬哩を嵯峨根会会長にする為というものだったため、秋篠一家に構っている余裕はなかった。そこで朋詩に跡を継がせた。
 啓悟と朋詩は兄弟のように育ってきたから、お互いしたいことをして、計画を立てていた。
 ただ一つだけ、朋詩が協力を渋ることがある。それが自分の実兄の冬哩に関することだけだ。
 嵯峨根会会長になった実兄のためなら、ある程度協力はするが、進んではしない。過去にトラウマがあるようで、それを口にしたことはないが、非常に自分の兄を気持ちが悪い存在だと思っている。
 そんな朋詩を呼び出したのは、高岸一家のことであった。
「頼んでいた、真栄城俐皇(まえしろ りおう)の過去はどうだった」
 真栄城俐皇の過去とは、イタリアから戻ってきた時からはよく知っているので、その前のことだ。
「真栄城俐皇の過去で調べると、学校に通っていた時期くらいしか見つかりませんでしたが、真栄城青良で調べてみるとやっと足取りが掴めました」
「なるほど、子供より大人の方が足が着きやすいというわけか」
 朋詩の機転で青良の過去を調べると、俐皇がどこで何をしていたのかはだいたい解る。
「青良が俐皇を生んだのは大阪。父親は松比良(まつひら)であることはすでに解っていますが、その後離婚。東京へ移り住んでます。沖縄との関わりはいっさいなかったようですね。母子でアパート暮らしをしていたようですが、その後ジョルジオと出会う。そのジョルジオから支援を受けて暮らしていた時期なのですが」
 そこまで言って朋詩は資料を出す。それは交通事故の記事だった。一人の女性が二度三度トラックに敷かれ死亡したと書いてあった。その女性の名前は真境名茅乃(まじきな かやの)。
「どんな恨みを買えば、ここまで徹底的にと言われるような事件でしたが、この女性、あの織部寧野の母親なんです」
「離婚して名前が一時的に変わっていたのか?」
 織部寧野の名前を聞いた啓悟は思いも寄らぬ名前に驚く。そして頭の中でこの話題が出た理由が想像できた。
「離婚して約一年も立っていなかったようですね。この事故後、寧樹が寧野を引き取っているのですが、その時の茅乃(かやの)の住所が青良が暮らしていたアパートの隣なんです」
「つまり寧野と俐皇は昔なじみなのか」
「そうなりますね。近所の老人に聞いたところによると、二人はとても仲がよかったらしいです。ただその後の事故の後、事故現場をみた寧野が記憶障害を起こして疎遠になったようです。ただ、この茅乃と青良が元々知り合いだったのではと思い、調べたところ」
 朋詩はそういいながら、さらに資料を出す。それは戸籍謄本であった。
「真境名(まじきな)家のものか……茅乃の母親るみ子は真栄城刀藍(とうらん)の実子なのか。ということは真栄城光藍(まえしろ こうらん)とは兄弟になるのか……」
 真栄城光藍は沖縄にあるヤクザ高嶺会の元会長だ。光藍が会長でいた時代、日本本土のヤクザが張り込む隙を一ミリも与えなかったという強さで知られている。今でも影響力が高く、様々な場所で名前を聞くことがある。
 そんな人物と繋がっていると言われ、啓悟は口に出して言った以上の気味の悪さをその目で見た。
「つまり、俐皇と寧野は親戚であるということだな。なら茅乃と青良が繋がっていたとしてもおかしくはないが……その青良が光藍の子供であるわけだが……この繋がりに光藍が絡んでいるのかどうかが問題だ」
 つまり俐皇や寧野を操って、沖縄で隠居しているはずの光藍が日本本土のヤクザを手玉に取ろうと思い、二人を送り込んだのではないかという疑問だ。
 途方なる時間がかかる計画ではあるが、俐皇の素質からして冬哩以上の存在になることは見ていれば解る。そして織部寧野は宝生組の若頭の情人ではあるが、若頭には影響力がある。組長代理が若頭に組を返した時、乗っ取りが完了するかもしれない。
「光藍の動きは今のところないようですが」
 光藍は引退してからは沖縄で優雅に暮らしているようだ。ただ、そういう計画があったとしても光藍と光藍の娘であった青良は仲違いして別れたままだという。さらに勘当もされていたから、俐皇を引き取ったのは青良の双子の兄である安里だ。
 真栄城安里は現在は高嶺会の名誉顧問に追いやられ、会のことにはいっさい関わっていない。というのも光藍に嫌われていたようで、高嶺会を息子である安里に譲りたくないから古我知(こがち)に譲ったという徹底ぶりだ。
 しかし外に出て自由に動かれるのもうっとうしいとして、名誉顧問に名前を連ね、他の組織に入り込まないようにしている。
 どうして二人の子供に光藍が嫌われ、さらに嫌っているのかは、家族のことだろうから不明だ。目に見えるトラブルは伝わってこない。
 織部寧野に金糸雀(ジンスーチュエ)としての噂があるのは光藍も知っているだろうに、どうして寧野を引き取らなかったのか。それすら不明だ。
 それには光藍ですら手出しできない何か威圧するものが存在したということだろうか。だが宝生組が当時の寧野を匿っていたとされているが、その程度で光藍が手を引くとは思えない。宝生組もやっかいではあるが、身内である光藍の方が法律的に有利なはずだ。
 だが光藍は手出しできなかった。
 となると、寧野自身ではなく、殺された寧樹の関係でそうできなかったことになる。
 沖縄の驚異と言えば、中華だ。チャイニーズマフィアと事を構えることは当時の光藍には出来なかっただろう。
 そうなると、その時から頻繁に宝生組と接触を図り始めた鵺(イエ)しかいない。
「そうなると光藍は鵺(イエ)と事を構えるのは避けたかったということになる」
「しかしそうなると、寧野は鵺(イエ)の誰かそれも光藍すら手出し出来ない人間と関係があることになります」
 朋詩がそう突っ込むと、啓悟の頭に浮かんだのは寧樹の父親が鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)だった場合だ。
「……いや、それはまさか……いやでも確か、寧樹の母親は貉(ハオ)という組織の金糸雀(ジンスーチュエ)だった愛子(エジャ)なんですが」
「愛子(エジャ)と鵺の龍頭の子供だったから、貉(ハオ)は愛子(エジャ)を殺さずに日本に流した。愛子(エジャ)は死んだが寧樹を殺すわけにもいかなかった。龍頭(ルンタウ)は愛子(エジャ)が子供を産んだことは知っていたと私は思う」
 世間も薄々気づいていたかもしれない。鵺(イエ)の重鎮と寧野の血筋の問題。寧野に異様に構っていた鵺(イエ)の幹部。関わりがあるだろうと予想してだれも寧野に手をださなかった。それに手を出した結果、貉(ハオ)は組織を解体された。
 あれだけ大きく謎だった貉(ハオ)の解体は、衝撃であった。
 大きな利益が得られるのか解らないのに大きなリスクが確実にある方法を誰も取らなかった。
 ただこれが事実だとすれば、おいそれと手出し出来る人間ではない。宝生どころか鵺(イエ)まで敵に回すことになる。
「でしたら織部寧野に手を出すべきではないと私は思う。特に今は」
 朋詩がそう言うと、啓悟も同じ意見だったようだ。
「我々の想像が当たっている保証はないが、むやみやたらとやっかいごとを抱え込むことはない。織部寧野の処遇は、どの道、俐皇の裁量しだいだ」
 啓悟の考えが通るのは難しい。やるなと言っても俐皇が現在どこでなにをしているのかが分からない。
「人質を交換したんですね。ただそうなると、織部寧野と俐皇が繋がっている可能性はなくなったわけですね。そして寧野と光藍も」
 朋詩がそう言うと啓悟も頷く。
「宝生組から寧野を取り返すなんてこと、する必要は光藍にはない。繋がっていたとしたら、本家まで入り込める寧野は十分なスパイになっていたはずだからな」
 それを俐皇が阻止するわけもなく。ただ俐皇が光藍と繋がっている可能性はまだ捨てきれない。
 高岸一家に預けられた俐皇が、嵯峨根会を乗っ取るために、冬哩を殺害することも可能なのだ。それだけは阻止しなければならない。
 だから俐皇の過去を調べ、ドコと繋がっているのか調べたかった。幸いなのは俐皇は今のところ嵯峨根会を乗っ取るような行動をいっさいしていないことだろうか。
 理不尽な要求もそつなくこなし、高岸一家に義理があるから総長をやっているという立場を崩していない。さらには高岸一家の若頭である高岸清影は俐皇が一家を出て行くのには賛成しているらしいのだ。
 自分が総長になれたのになれなかった腹いせではなく、こんな小さなところに収まっている人間ではないからという理由は少々気になるところだが。
「とにかく俐皇からの連絡待ちだな。織部寧野をどうするかは」
 俐皇が何を考えて行動しているのかを知るには、俐皇からの連絡を待つしかない。現在俐皇と連絡を取る手段がない。俐皇側から接触を図ってくるのを待つしかない。こちからから用意に連絡が付けられるような相手ならここまで警戒はしないものだが。
 秋篠啓悟(あきしの けいご)は昔から目の前にいる朋詩よりもいきなり現れた俐皇のことを警戒している。
 自分の計画に支障を来すとすれば、外の世界へ出て行こうとしている俐皇くらいなのだ。
「啓悟、そっちにいるのか」
 ガラリと襖が開けられ、そこに都寺冬哩(つうす とうり)が立っていた。
 その声を聞いた朋詩は、啓悟の側から一歩引いたところに下がり、視線は冬哩には向けなかった。朋詩の徹底的な冬哩嫌いはトラウマと言っていいだろうか。
 その冬哩も弟がいることは分かっていただろうに、無視を決め込む。兄弟の仲はないに等しい。だがそれが表面化した険悪さにはなっていないのがまだマシだ。離れて暮らしていたからという不自然さから抜け出せないままだというのが周りの見た印象だろうからだ。
「何でしょうか会長」
「お前、この後オレと食事行くとか言ってたよな」
「はい。16時からの会食ですが」
「オレはパス。お前等幹部で行ってこい」
「分かりました。出来ればじっとしていてほしいのですが、気をつけていってらっしゃいませ」
「分かった」
 そう話を進めてしまうと冬哩は部屋を出ていった。どこでなにをしているのかなど、秋篠啓悟が知らないことなどない。
 最近冬哩はキャバクラ嬢の西野亜矢子という女性にはまっていて、始終通っていたが、最近では彼女のためにマンションを買い与えそこに通っている。ボディガードからの情報ではそうなっている。
 マンションから出ることはないようなので自由にさせているが、これ以上はまって嫁にするとなると困ることは伝えてある。本人もそれは理解しているらしく、それだけはないとはっきり言う。
 もらう嫁はどうせお前が決めるんだろう?と平然と言うのが冬哩だ。
 啓悟が冬哩を会長にしたいと思って、そうするための努力をしたことは冬哩も理解している。そしてそれは実現した。
 冬哩は嵯峨根会の会長になった。
 だがそこで目標が完結したわけではないから、冬哩はそれでもつきあってくれていた。ただ最近になって冬哩がどういう目的で啓悟が願った会長にするという言葉を信じてついてきてくれているのかが分からない。
 暇だしいっかというのが冬哩の言い分ではあったが、最近はもっと違った何かがあるような気がするのだ。
「あの人は相変わらずなんですね」
 朋詩はそんな感想を漏らして、書類を片づけ始めた。
「今しばらくは俐皇の動き待ちということですね。私はもう少し俐皇の不明時期が多いあたりを調べて見ます」
 まだ俐皇には不明時期が存在する。イタリアから戻ってくるまでにかかった時間、約二ヶ月。その間に俐皇がある屋敷に預けられていたが、それが安里の知り合いであるということ以外分かっていないことがある。
「頼む、俐皇についてはまだ謎の部分があるからな」
 すべてを知ってしまわないと不安である存在と今手を結んでいるのが不安だった。
「では」
 朋詩はそう確認すると下がっていった。
 冬哩に会ったことで気分が悪くなったのだろうか、そそくさと玄関へ向かっていった。
 あの二人の不仲が本格的になることはないだろうが、他人行儀以上のことはあっては困る。
 そんな玄関先で冬哩は出かける準備をしたまま立っていた。会長である冬哩がそうしていると朋詩は出て行くことは出来ない。彼が出かけるまで待っている羽目になるのだが、今日はそうではなかった。
「総長さん」
 冬哩がそう言って近寄ってきた。朋詩は体全体に汗を掻く。本当にこの存在がどこまでも不気味で不快な存在だった。
「なんでしょうか?」
 なんとか声に出して尋ねた。
「俐皇の何がわかった?」
 なんだその話しかと朋詩はホッとする。
「資料がありますが……」
「頂戴、それ。どうせコピーだろ?」
 啓悟が調べるように言ったものは当然冬哩もみるだろう。だから渡すのはやぶさかではないが、どうも何かいつもと違う気がした。
「こちらをどうぞ、ただこれは今回だけのものですので」
 朋詩がそう付け足すと、冬哩はそんなことは知っているとばかりに分厚い封筒を受け取った。
「その前の資料も全部、用意してくれ。うちのが取りに行くから今すぐ」
 冬哩がそう言う。
 どういうことなのだと朋詩は不思議そうに冬哩を見た。冬哩はいつも通り何を考えているのか分からないような無表情で朋詩を見ていた。
 だが、そこに明確な意志がみえたのは初めてだった。
 どうやら秋篠啓悟(あきしの けいご)から受け取りたくない事情が存在するらしい。
「分かりました。すぐご用意します」
「うん、助かる」
 冬哩はそう言うと、封筒を持って玄関から出て行った。見送りを一緒にしてから朋詩は冬哩の付き添い幹部と一緒に自宅である一家に戻って書類を渡した。
「出来れば、朋詩さんがお調べになられた煌和会の方の資料も」
 珍しく煌和会に興味を示しているのかと朋詩は思ったが、どうやら俐皇の資料にかこつけて欲しかったのは、煌和会の方の資料だったらしい。
 会長が資料を出せと言っているのだから出すべきだろうが、本当なら啓悟の知らせてからの方がよかった気がした。
 だが断れないのが部下の性。資料を抜け目なく差し出すと口止めまでされた。啓悟に煌和会の資料を渡したことを言うなというのだ。
「会長は何を考えているのです?」
 思わず受け取るだけにきた幹部に聞く。
 幹部は真面目な顔をして朋詩に言った。
「資料の一部が抜けていると冬哩様は言ってらっしゃる。それがどういうことを意味するのか分かるか? 都寺総長」
「まさか……啓悟さんが?」
「そのまさかだ、この資料を見ればもっと分かること。都寺総長。お前が冬哩様を苦々しく思って育ったことは知っている。だがそれはそれ。秋篠啓悟(あきしの けいご)が姑息なことをしていることと関係ない。分かるか?」
「……それはそうだが」
 確かに冬哩を気に入らないと思っているし、嵯峨根会の会長にしていくと問題が大きくなるかもしれないと思っている。だがその前に啓悟が冬哩を操ろうとして情報操作をしているかもしれないことは別だ。啓悟の下克上を狙った情報操作かもしれないのだ。
 だがあの啓悟がそうしたことをするとは思えない。冬哩の為を考えて情報を押さえている可能性はある。けれどそれは冬哩の為でもあるはずだ。
 困ったことになった。
 冬哩に付くか啓悟に付くかどっちだと今迫られている。
 ここで冬哩を敵に回しても面倒くさいことにしかならない。決定権を持っているのは会長である冬哩だが、幹部の信頼を得ているのは啓悟なのだ。会長交代劇など冬哩の意志を無視して行える立場に啓悟がいる。下手に冬哩を敵に回したくないが、立場上、啓悟を敵に回す方が面倒が増える。
 そこで朋詩は言った。
「その資料の違いで本当に啓悟さんが情報を封鎖していることが分かれば、その時こそは会長側に付く。だがそれで問題がなければこの話自体なかったことにする」
 朋詩が咄嗟にそう言うと、幹部もため息を付いた。
「まあそういう方が確実ではあるな。お前には情報が制限させられているという冬哩様の方を信じる理由がないからな」
 幹部は自分もそれが信じられないのだろうか。不安な感じではある。それとも冬哩の言葉を真に受けて行動している自分もまた、その違いを理解していたわけではないと気付いたのかもしれない。
 誰も啓悟が冬哩を蔑ろにしている証拠を持っていないのだ。
「こういうのはなんですが、あの方は口先だけで人を殺せる人です。ですから確実な情報を双方から手に入れてから考えて行動した方がいい。それが私が今まで生きてこられた理由です」
 朋詩は幹部が暴走して今度は冬哩にかみついたりしないように忠告した。
 幹部はそれを聞いて息をゆっくりと飲んだ。
 啓悟から朋詩を切り離してしまおうというのが冬哩のとりあえずの計画だったらしいが、その手助けをしていた幹部が少々頭の中身がある人間だった。さすがにバカにつとまる幹部ではない。啓悟が選んだ人物が冬哩についているわけだから、冬哩に感化されたとしても冬哩そのものを信じているわけではない。
 元々は啓悟が選んだ人間だ。だから地頭はあるし、自分でモノを考えられる。元々は啓悟側なのだから正常に戻すのは簡単だった。
 啓悟と一緒に暮らしてきた朋詩をなめてかかっているのは分かっていたが、啓悟と同等の能力を秘めていることまでは冬哩の頭にはなかったらしい。
 つくづくあの人は人をなめてかかる癖がある。
 朋詩で逃げた弟だからという立ち位置のままだったことが今回は災いした。啓悟という人間がいなかったら会長なんてなれやしなかったものと、望まれて一家の総長になった自分の差がどれだけのものか、冬哩は理解していない。
 立場に甘んじて下手をこいたのは、もしかしたら冬哩の方かもしれない。
「とにかくこの資料はもらっていく」
 幹部は来たときの態度とは違い、少しだけ落ち着いたようでそそくさと帰って行った。
 どうやら冬哩は誰かに何か言われて疑心暗鬼になっているらしい。啓悟側である朋詩に資料を提出させたりして朋詩にも疑心暗鬼をさせようとしているのだろうが、そこは問題ない。
 さっき渡した資料は啓悟に言われて持たされていた資料。玄関で渡した資料もさっき啓悟が整頓し直した資料。
 つまり冬哩に渡されている資料と文字一句も変わらないものである。
 ただ冬哩がそれに気付くことが出来るかは不明だ。
 昔から怖くて仕方がなかった冬哩が、一瞬だけ下に見られたがそこで朋詩は失笑した。笑ったのは冬哩をバカにしたわけではなく、己を笑ったのだ。
 そうやって油断した時に自分は死にかけたではないかと。殺されかけたのはまさに自分を排除しようと必死な冬哩をバカだなとあざ笑った時だった。
 この人が本気で自分を殺しに来ているのだと死ぬ間際になって初めて悟った時のことを思い出した。
 油断してはいけない。あの人はバカをやっているようでいて、そうではない。用意周到に周りを固めてしまうのだ。バカな人だと油断していれば、いつの間にかもしかしたらバカではないのかもしれないと思う時が来る。それがいつになるかは分からないがいずれ来るのだ。気付いた時にはもう遅く、手遅れになっていることの方が多い。
「危ないところだった」
 これは冬哩が自分を油断させて一矢報いようとしている時の作戦だ。ただ朋詩にはわかりやすく、昔と同じことをしたのには訳がある。
「オレは蚊帳の外ということなのか?」
 この冬哩が仕掛けるであろう何かに朋詩の力はいらないということなのだ。立場上、部下である朋詩が冬哩にも啓悟にも逆らえないのは誰にでも理解出来る。しかしその立場を使って朋詩を操ることを冬哩が排除したがっているということなのだ。
 それもそのはずで、朋詩との決着はすでに付いている。
 あの時、逃げ出した自分が冬哩に勝とうなど100年も早いということだ。冬哩が相手にしているのは身内とはいえ、十年以上離れていた人間、秋篠啓悟(あきしの けいご)という完璧な人間だ。
「どっちが勝ってもオレには関係ないことだと?」
 朋詩はそう呟いた。
 冬哩にとって自分はすでに征服した人間だ。反旗を翻して抵抗するなんて思ってない。いや反旗を翻したところで支障はないとされている。
 ならば意地になって逆らっても意味はない。
 きっと冬哩は知らないだろうと朋詩は思う。
 何もしないことがどれほど冬哩に不安を与えていることだろうか。朋詩が関心がないフリを続けてきたのは生きるためだ。だが何もしないことが冬哩に不安を与えていた。
 蚊帳の外であることをわざわざ知らせてくるということは朋詩が考えているより、冬哩は朋詩を恐れているということなのだ。
 それが予想出来た時、朋詩は何とも言えない気持ちになった。勝ったとも負けたとも、勝負それではなく、死ぬまで自分が冬哩という兄から逃げることなんて出来やしないということ。
 ヤクザの一家から出てしまえば簡単に逃げられたかもしれないのに、わざわざ残ったということはそういうことなのだ。
 関わることなく、ただ側に居続ける存在としてしか認められない。驚異になる気概すらない自分を呪いたくなる。
 だが今は発起する時ではない。
 必ず時期が来る、その時はじっと待つしかない。自分はその星に生まれついたのだ。
 それを理解するだけでも今回の出来事はよかったっと思おう。
 正直、兄より親しいはずの啓悟に便利に使われているだけの存在では終わりたくない。こんな気持ちきっと啓悟は知らない。
「総長……」
 冬哩の幹部が帰ってしまっても部屋から出てこない総長である朋詩を心配した兄弟が部屋にやってくる。
 彼らはどの人も朋詩がここに預けられてから一緒に暮らしてきた仲間だ。啓悟や冬哩よりもずっと大事な存在だ。
「心配することはない。オレはこのことでは蚊帳の外だ」
 冬哩に告げられた通りのことを口に出した時、兄弟たちがホッとしたように笑った。
 そうだ、自分は向上心よりこの一家を守ることを優先したはずだ。そう捨てて出て行った啓悟の言いなりになるためではないのだ。
 やっと混乱していた自分の心を取り戻し、朋詩はまだ自分が冬哩という存在に振り回されている自覚をした。
 けれど昔よりは守るモノが出来たことで平静を取り戻すことが出来た。
「さあ、今日の夕飯はお前たちが作ったんだったな」
「そうさ。魚屋の大将がお勧め魚をさばいて刺身と切り身とな」
 嬉しそうに言う彼は板前になれず出戻りで一家の一員になった元板前だ。そういう人間を守っていくのだと心に決めた朋詩はこの先、冬哩という存在に恐怖することはなくなった。
 それがどういう意味を持つのか、その時の誰にも予想は出来なかっただろう。

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