spiraling
12
織部寧野は、久しぶりに外出をした。
というのもこの間まで恋人の宝生耀(ほうしょう あき)と意見の食い違いからもめていて、その仲直りをするために引きこもっていたからだ。 恋人の職業がヤクザであるから、当然のごとく寧野の時間もそちらに合わせたものになる。
基本的に寧野が普通の職業に就くことはできない。夜の道に行くか、情人として暮らすかのどちらかだ。もし普通に就職したとしても警察や公安がそれを許してくれないだろう。人知れず自分が何者であるかを思い知らされて裏の道に行くしかなくなる。
幸い夜の道は耀がいやがったのでしていない。けれど情人としておとなしく生きていくこともまた寧野には耐えられないことだった。
しかし好きで付き合っているのだから、そこから生じる不満はなるべく飲み込むのだが、今回は問題が問題だけに長引いたといえる。
恋人は広域指定暴力団組織宝生組の若頭だ。とは言ってもヤクザになりたくてなった人とは少し事情が違っていた。ヤクザの家に生まれ、そういう風に育てられ育った人間だ。
本人は自分で選んだ道だと言うが、果たしてヤクザの家に生まれてなかったらヤクザになったかと問われたら、普通になってなかったと答えられるはずだ。
つまりヤクザにしておくには惜しい容姿と頭脳を持っている人間だと贔屓目ながらにも言ってしまえる。
けれどこういう妄想を語っても耀がすべてを擲って自らを守ってくれた人を裏切れるわけがないことは耀の人間性から十分理解出来た。
そんな耀が、自分を欲しいと言い、こういう人間だけれどそれでも側にいてほしいと望んだ。それに自分は答えた。
本当にそう思っていたのだが、実際問題、そう簡単な話ではなかった。
あくまでも寧野は客人である。
そういう立場が根っこからひっくり返らない限り自分の立場が一切変わらない。理解していても納得は出来なかった。それは自分だけはなく他にもそういう人もいるのだろう。それは寧野にとって有利なだけでなく不利なことも多くある。そうした事実をたくさん受け入れても寧野は一緒にいることを選んだのだ。だからその負担を少しでも分けて欲しかったのだが、そう簡単に耀が言うことを聞くわけがない。
なんだかんだで耀の思うがままに動かされていたことを知って寧野は反撃に出た訳だが、その中でやっと耀なりの変化が見られた。過剰な保護をよしとしない寧野への信頼を少しだけあげてくれたのだ。
簡単に言うと困っていた新参老院を一人完全なる味方に引き入れた功績はたたえてくれたらしい。ただ寧野はそれが耀にとってどれだけ有利に働いたのかはさっぱり分からない。だが最終的に耀が喜んでいるなら寧野にはどうでもいいことだった。
しかし寧野がどんなに正論を言ったとしてもそれはそれで耀には思うところあったらしく、しつこくされて結局一週間自由な時間がなかった。耀が出掛けている間寧野は寝ていて、起きると耀が寧野を触っている。
そうして結局なだれ込んでしまい、いつも通りになってしまうのだ。
「あいつ、本当に自分の性欲を調整すらできんのか」
本気でそう思うくらいに耀はセックスが好きだ。それも人の体をいじくりまわし達かせるのを楽しむ傾向があるからたちが悪い。だからいつも寧野の方が疲れ切って寝てしまうのだ。
それはまあ置いておいて。久々に会社に出た寧野を社長の戌亥凌(いぬいりょう)がからかってきた。
「お前本当に顔に出るから面白いな」
最近恋人が出来て上機嫌の戌亥(いぬい)はとにかく寧野をいじっているのが楽しいという人間だ。反応が冷めているため、少しでも寧野が慌てているのを観るのが楽しいんだそうだ。
普段ならどんなセクハラな発言でも耐えてしまえるのだが、恋人耀のことになるとどうしても顔が赤くなることがある。昨日の今日である。思い出して顔が赤くなるのは仕方ないだろう。
「いいですから判子ください」
素っ気なくいい判子を押させ、銀行に提出する書類を用意する。融資先からもらった小切手を会社の銀行口座に入れていくわけだが、こういうものは社長がやるべきなのに本人が寧野にやらせたがる。社長曰く、寧野がこれを持ち逃げする必要が絶対にないからということだが、これは寧野が信用されているわけではなく、寧野の後ろにいるのが耀であり、その後ろには社長の大学時代の先輩である組長代理がいるからという間接的な信用でしかない。
そして寧野が宝生組に世話になっている理由は知らないが、寧野がそこから逃げる必要がないことだけは知っている。宝生組から逃げても逃げきれないことや逃げれば寧野が生きていけないことも知っているようである。全国にいる組組織の末端から逃げるにはあまりにも寧野の世界は狭いのだ。
それでもその期待を寧野が裏切ったことはこの二年ないわけだ。その信頼も少しは上乗せされていると思っている。というか思ってないとやってられない。
気軽な会話をしながらでも目の前の書類は一応は数千万のお金が動くような書類だったりするから少しは焦って欲しいところだ。
「そういえば、最近お前の周り物騒だな」
戌亥(いぬい)は少し真面目な顔をしてそう言った。
「すみません、休んでいる間に収まるかと思ったんですが」
寧野がそう返すのには思い当たる理由があるからだ。
耀にも話しておいたが、あの鵺(イエ)関係の何かに変化があったのか、耀がドイツから帰ってきてからずっと寧野は中華系の人間につけ回されている。これが犬束(いぬつか)が手配したものなのか、それとも別の団体の査定なのかは不明だ。犬束(いぬつか)が寧野との接触が出来ないのでどういう関係なのかは一切不明。
しかし過剰に反応してもどうしようもないと寧野は堂々と知らないふりをしている。向こうも気づかれているとは思ってないはず。
「どうでもいいが、それ盗まれるなよ」
「だったら自分で行ってくださいよ」
行く気もないのに盗まれるなとは……呆れて言い返すも戌亥(いぬい)はやなこったといいいかない。結局寧野が行く羽目になった。 どうせ寧野に何かあってそれが盗まれたとしたら、この人のよくわからない組織が盗んだ人間を富士の樹海へお連れするだけのことだろう。
銀行へ行く間もずっとつけられていたが特に何かがあったわけではない。そのまま無事に寧野が帰ってくるのを戌亥(いぬい)は確認していた。
問題はその会社の帰りである。
駅までの間にあるビルの通路で長身の男が髪の毛を金髪に染めた男4人ほどに囲まれているのに遭遇した。
個人的にこういうのは見て見ぬふりしてしまうのだが、この時はそれが出来なかった。
この辺りは宝生組の配下が多くあるが、それと同居するように他の組の組織があったりする。なので口出ししたら別の組織だったという流れになるといろいろと耀が困る。三次組織とはいえ、如罪組の一部でしたという流れになったら困る。大阪の組織である如罪組ではあるが、宝生との杯をいやがる小さな組織が如罪組の杯を受けて三次組織になっている。その組が結構あるのでチンピラにはよほどでない限り手を出すなと言われた。ただどうしても見逃せない場合はその限りではないから通報するなりしていいとも。
見て見ぬふりをしてしまえなかったのは、その長身の男が目が合った瞬間に片言の日本語で寧野に助けを求めてきたからである。
「あなた、助けて」
「ええ!」
こう言われて逃げるに逃げられなくなった。チンピラが一斉に寧野の方を振り返る。しっかりと目を合わせてしまってさらに状況がまずくなった。
「お前も仲間か!」
瞬間にナイフを握っている手を振り上げて近寄ってこられたので反射神経で反撃していた。ナイフを握っていた腕をしっかり取り相手の力を使ってひねって投げ飛ばす。投げ飛ばした後、腕を軽くひねってナイフを相手の手から取り上げた。
習っている武術の習慣というのは恐ろしく正確に働く。寧野の立場上、ナイフを向けられたら反撃していいという流れだからだ。ただその隙に逃げるのが鉄則であるが、片言の黒髪長身の男にそれが通じるとは思えなかった。案の定見ているだけで逃げようという気概が見えない。寧野に注意が向いている間にさっと逃げるなりしてくれれば、寧野も気にせず男たちを倒せたのにだ。
次の瞬間、他の二人が向かってきた。両方ともナイフを持っていた。それを避けてナイフだけでも飛ばす。もちろん自分や人質になっている人間に当たっては意味がない。飛ばす方向を予測して拳を相手の拳に当てる。見事に二人のナイフは飛んでいった。
それから足を振り上げて男の項に蹴りを繰り出す。よほどの屈強な男でない限り、これで昏倒しない人間はいないだろう。一撃によって男が膝から崩れるように地面に転がる前に、驚いているもう一人の男の鳩尾に拳を入れる。力を込めた拳でその男もくぐもった声を上げて倒れた。
しかしさっき投げ飛ばした足下に転がった男が寧野の足に何かを当てた。
「!!」
咄嗟のことで前の方に気を取られていたから転がった男が気絶していなかったことにも驚いたし、そこに当てられた何かがなんであるのか悟った瞬間、足から電撃が加えられ寧野の足が完全に止まってしまった。
一般的にはスタンガンは人を体の一部を麻痺させて動けなくするものだ。それを改造してあるものだと威力はただ一時的に痺れるものではない。衝撃で何が起こったのか理解できないような痛みだ。
相手が寧野の足を完全に麻痺させて体勢が崩れたところに後ろから何かで寧野は頭を殴られた。
意識を失う瞬間に外国人の男性が寧野が崩れて地面に叩き付けられるのを庇ってくれた気がした。
子供の頃。寧野の生活はそれこそいじめと偏見だけにまみれていた。父親がヤクザの使いっ走りをしていたことから、周りからは○○組のチンピラとして見られていたからだ。
だが反論するようなことは一切出来なかった。何一つ間違った事実はなく、父親がそうであることは否定できない。ただ周辺で問題を起こしたことはなかった為、過剰にいじめられたわけではない。ただ避けられていたという感じであろうか。世間的に「あそこの子供はヤクザの息子だから」と言って集団から寧野を省いて、話しかけもせず、いないものとして誰も相手にせず、必要最低限の会話もしない。これは集団無視といういじめにあたるのだろう。ずっと寧野はいつも一人でいたし、一人で居ることが当然だと思った。当たり前になると普通はその原因となっている父親を恨むものだが、寧野には父親が世界の中心だったからそれはなかった。
父親は世界で一番優しかったし、母親も優しかった。
そこで寧野は自分が夢の中にいるのだと気付いた。
というのも、寧野は物心がついた時にすでに母親の記憶がなかったからだ。母親は寧野が小さい時に交通事故で亡くなっていてその時あまりに悲しかったから、母親の記憶を自分で消したのだ。悲しかった記憶はないのに、思い出すときっと悲しいと思うから思い出さずにきた。
母親の記憶が見えているということは今まさに母親のことをしっかりと思い出したことになる。怪我の功名であるだろうがいかんせん状況がよく分からない。
夢は妙にリアルで母親に触れば触った感覚がちゃんと伝わってくる。おかしな感覚に戸惑っていると場面がすっと変わってしまう。
見たことがない場所。住んでいた記憶すらない町並み。そうしたところで寧野は一人ではなくもう一人の子供と遊んでいた。凄く可愛い女の子のように見える子ではあるが、服装が男の子のものだ。顔立ちが日本人ではなく、どこの国なのかは解らないが、海外の白色人種の子供という顔立ち。名前は呼んでいるけれど聞き取れない。そこまで解るのにその子供の顔も見えないという不可思議な状態だから誰なのか検討もつかない。夢だから都合のいい部分と悪い部分を分けているのだろう。
けれどすごく楽しく、久しぶりに笑ったかもしれないと思えたほどだ。
暫くして母親が迎えにきた。その子供の手を寧野が引いて一緒に家に帰る。帰った家はやはり見覚えのない場所であるが生活感にあふれていた。
小さなタンス、取り込んだ洗濯物、小さなテーブルに並べられた食事、自分のお箸やお茶碗。コップにお茶が入っていてそれが冷たかったので夏なんだと分かる。それまで半袖を着ていたから夏だと分かっているはずなのに、そこで初めて夏なのだと気付いた。
おかしな感覚であるがそれでもいいと思えた。母が居てとても楽しかったから。
もう一人の子供は自分の兄弟ではない。母親が寧野の名前は呼び捨てなのにその子供の名前は○○君と呼んでいたのと、好き嫌いはないのかと尋ねていたからだ。自分の子供の好き嫌いを知らない母親ではないからその子供は一時的に泊りに来ているだけのようだ。
さっきまで寧野とは砕けた話し方をしていたのに、母親に対しては敬語を使う子供に少し大人っぽさを感じて寧野は胸が重くなった。
今なら分かるが、自分よりも大人っぽい態度を自然に出せるその子に嫉妬しているのだ。母親に大して格好付けたいがための感情。本当に子供で微笑ましい。
母親と笑っていることが出来ていた記憶でいつまでもここに居たいと思えたが、また場面が暗転してしまう。
部屋が暗くなり電気をつける時間になっても母親が帰ってこない。不安になって帰ってこない母親を探して家を出た。見慣れた道路に人が沢山いるところで母親が倒れているのを見つけた。近寄ろうにも近寄れず頭の中が真っ白になったとき、後ろから抱きしめられた。
「駄目、見ちゃ駄目」
そう言われても目が離れてくれない。状況が理解できない自分の瞳を覆ったのは小さな手だ。
「見ちゃ駄目。お願い」
小さな手は震えていた。きっとこの子も恐かったはずだ。なのに人を気遣うことが出来る子供だ。
「お願い、そんな場面忘れちゃって……!!」
呪文のように何度も懇願されて寧野は何度も頷いた。母親が死んだことは理解出来ていたが、理解したくなかったからだ。もう母親が笑ってくれることもないということ。その事実が何より恐かった。恐かったから忘れた。母親という存在すらも。
だから忘れろと言った子供のことも忘れたのだろう。そうして記憶は書き換えられ母親は最初からいなかったことになってしまった。
いともたやすく自分の記憶を書き換えたことに衝撃は受けたが、あの場面を見てもなお自分が薄情だとは思えない。それは明らかに殺人だったからだ。母親を轢いた車はわざわざ戻ってきてもう一度轢いた。助けようとしていた人も巻き込んでだ。そして狙ったように大型トラックが道路の脇に飛ばされた母親を歩道に乗り上げてまでして轢いていったらしいのだ。
かなり大きな事件であるが、犯人がすぐに捕まったことや、事故をした時、泥酔していたことなどが当時問題としてニュースで取り上げられたが、殺された女性の夫がヤクザだったという事実からか大きなニュース扱いではなくなり記事もその後の犯人の供述が一回乗ったっきり、見た人の記憶も被害者がヤクザの妻だったと聞けば下手な証言をしてやっかいごとに巻き込まれたくないという風に口を閉ざしてしまった。
母親を助けようとして一緒に巻き込まれてしまった被害者家族はその後何も語らずに引っ越してしまった。噂では捕まったトラック運転手の身内から、裁判をして貰える額より遙かに多い相当な慰謝料が示談金として出て、しかもその事故は明らかな事故で被害者の保険金も満額出たらしく、不満は一切なかったらしい。
犯人がすでに捕まっていることや泥酔していたことから、刑事裁判はすぐに一審が出て上告なしの為、刑が確定し懲役10年。今頃犯人は刑を終えて出てきているだろう。
父親のところに中国人の初老の男性が現れ、そう説明していたのを今更ながらに思い出す。
その初老の男性がにっこりと笑って寧野を撫でていた。
今ならそれが誰なのかすぐに分かる。寧野にはお祖父様になる鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)蔡(ツァイ)司空(シコーン)だったのだろう。
しかし見たことがない人間に寧野は警戒するだけだった。
そして場面が変わり、あの子供が泣いていた。
「僕のせいだ」
そう言っていた。
何がそうなのか分からないが、寧野はひたすら謝っている子供に興味はわかず、父親の後ろに隠れて逃げた。ショックを受けた子供は、引き取りにきた母親に引き連れられて去って行った。
心なしか寂しい気がしたのは覚えている。けれどあれが誰だったのか思い出せないことを父親に言っても父親は苦笑して「いいんだよ。そのうち分かるさ」と言っていた。
その後思い出すこともなくいたのは、母親の記憶と間接的に関わっている部分が多く、その子供を思い出すということは母親の死についても思い出さなければならない。それがどうしても嫌で思い出さなかったのだろう。
すごく申し訳ない気がして口に出していた。
「母さん……ごめん、……君ごめん……」
現実の世界で声に出したとたん、足に痛みが走った。
その瞬間、自分の身が危険であることを悟る。
右足の感覚が少しおかしいことの方が気になり、さっき誰かに殴られたことも思い出すと頭の方にも痛みが出てきた。
飛び起きようとするもどういった事情でこうなっているのかを思い出し、耳を澄ましてみるも物音は隣に誰がいる人間の息づかいだけのようだった。
ゆっくりと目を開いてみる。見えるのはコンクリートの天井。
瞳を動かして周りを見ると、どうやら建設途中のマンションか何かのようだ。中途半端に壁や床が作りかけで、窓は入っているので内装がまだなだけらしい。塗装を避けるためにつけられたビニールが外側で風に揺れているのかガサガサと棚引いているのが見えた。
腕を動かそうとしたが後ろ手に縛られているらしく解けそうにない。諦めて隣を見上げると、さっき絡まれていた黒髪長身の男が物珍しそうに寧野を見ている視線とかち合った。
「……!」
ああそうかこいつがいたんだったな……。
この人間の為に事件に巻き込まれたのだった。
盛大なため息が吐きたい気分だったが、それより先に考えなければならないことが出来た。寧野は目が合ったままで考え込んだ。
さてどうするか……。
黒髪長身の男を見つめたままで思案していると男の口元が少しだけ笑っているように歪んだ。
「そんなに見つめられたら抱いてやってもいいかなと思えてくる」
いきなり流暢に日本語を口にしたため驚いたが、それよりも今の発言の方に突っ込んでおくべきだと寧野は即座に突っ込んだ。
「俺が受け限定かよ」
ものすごく脱力して言ったためなのか分からないが男はそう返ってくるとは思わなかったのかふっと吹き出したが、精一杯笑いを我慢しながらも笑っている。体がひくひくと痙攣をしているから大爆笑したいのを我慢しているのだろう。
こういう状況だという判断力がこの男にあることに寧野は違和感を覚えた。何かがおかしいと。
「そんなことより、向こうは何人いるんだ?」
とりあえず何人がここにいて何人が武装しているのかを把握しなければならない。そう思っての質問だった。
「何故?」
何故そんなことを聞くのかと問われたので寧野は言った。白々しく聞き返すこれはもう確信犯だ。
「俺はここまで気絶させられて運ばれたから、お前に声かけられた段階でいた四人プラス俺を殴った五人目がいることまでしか分からない。お前はどうせ無抵抗でそのまま連れてこられたんだろうから、相手が何人いてどういう手段でここへ来て、どんな建物に入ってどういう目的でこういう状況になって今隣に何人いるのは把握してるだろ」
つらつらと説明すると、男はうーんとうなりまた質問をしてくる。
「どうして俺が無抵抗で連れてこられたって思った?」
そう問われて寧野は答える。
「そりゃ俺に話しかけた時とか、あの場面でわざと日本語はまだ苦手ですって逃げようとしていたのに、今普通に日本語喋ってるから何かもめ事を起こしたくない理由があるから大人しくしているんじゃないかと思ったんだが違ったか? まあいい違っていても今さっきまで目にしていたことを全部喋ってくれたらそれで何とかなるから喋れ」
寧野が真剣にそう言うと男はうんうんと頷いたあとに寧野の足を見て尋ねてくる。
「でも足、まだまともに動かないだろ? あの改造したスタンガンを食らったんだから暫くしびれてまともに歩けるとは思えないんだが」
男が嫌に冷静にそういうものだから寧野は舌打ちをした。
この男はあのスタンガンを見ただけで改造していると判断出来るような知識を持つ人間である。つまり絡まれていたのには訳があったわけだ。
「くそ、あのまま放置しておくんだった……」
忌々しいとばかりに呪ったのは自分の洞察力のなさにだ。瞬時に見抜けなくては耀の相棒だと胸を張っていえないだろう。そうでありたいと宣言しておいてこのざまだからだ。
この男がここまで潜入して何かをしたかったらしいのは、この男の態度で解る。だがそうだとしてもあのときどうしてこの男が声をかけてきたのかが不明だ。声をかけてなければ易々と懐に入り込めたはずだ。寧野が絡んだせいで向こうは余計に警戒をしているはずだ。
「まあ、一応助けを求めてみたほうがよりリアルかと思ったんだが、まさか本当に助けようとしてくれるとは思わなかった。日本人は見て見ぬふりが普通だと思っていたし」
至極普通に言われて寧野はさらに落ち込む。確かにその通りであるし、ヤクザに向かっていくサラリーマンなんてお目にかかれるものではないだろう。
(うんまああのまま警察に電話しておけばよかったって今更後悔してもどうしようもないよな)
そう思った後、男の顔を凝視した。
「というか、お前日本人じゃないのか……」
「スラブ系クォーター。ばあさんがそっち系だけど俺の親は日本人だし日本で暮らしていた方が長いから日本語は普通に出来る」
なるほどと寧野は納得する。自分もこの男と同じだからだ。
少しだけそう思ったが、今は本当にそんなことをしている場合ではない。とにかく自力でここを脱出しなければならない。明らかに中華系のマフィアだった。あれが鵺(イエ)のものではないことは明らかだ。だったらそれと対立する中華系マフィアだとすると、思い当たるのは耀に聞いたばかりの煌和会だ。
鵺(イエ)とは対立する華僑のマフィア。香港返還後もマレーシア系の華僑を束ねている。香港から脱出するしか生き残りが出来なかった煌和会は、堂々と香港に残っている鵺(イエ)を敵視し、対立が悪化している。
鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)蔡宗蒼(ツァイ ゾンツァン)が日本でも彼らの動きが盛んになっていることを気にかけていた。だから隣の部屋にいるだろう寧野たちを襲った男たちがその下位組織である可能性が高い。
なんとか脱出して宝生組との関わりがばれないうちに逃げなければならない。こんなところで宝生組の若頭の情人がうっかり捕まっているなんて彼らでさえ予想外のはずだ。解っていれば手を出してなかっただろうし、もめたいわけでもなかっただろう。騒ぎが大きくなる前に自分でどうにかしなければならなかった。
「で、お前はどうするんだ?」
寧野は男に尋ねる。一応どうするのか相手の意見も聞いて行動する。
そう聞かれた男のカールした前髪が顔を隠してしまって表情が隠れてしまっている。いわゆる天然パーマなのか、髪にウェーブがかかっていて裾に来るにつれてクルクルと綺麗に円を描いている。真ん中で分かれている前髪は顎より伸びていて後ろは肩まで伸びている。肌の色も白く、彫りが深い顔立ちだから日本人だと言われると違和感がある。クォーターと言われたら納得するのだがそれだけではないような気がするのだ。日本人にしては日本的ではない、外観的に感じる違和感がある。
そういえば見ていた瞳が少し灰色っぽかったなと思ったが次の瞬間、その瞳が寧野をしっかりと捕らえていた。
「どうするかな……このままだとお前と心中させられそうだしなぁ」
「分かった、すぐさま隣の奴らを始末しよう」
この男と心中なんてごめんだとばかりに寧野がきっぱりと言い切ると男が笑っている。
「なんで俺とは嫌なんだ?」
「なんでって恋人に誤解されると死んでからも面倒くさいから」
寧野はきっぱりと言い切る。今でももめると面倒くさくなってくるのに、死んでからでも耀とは面倒くさいことになりそうでうっかり死ねない。
「恋人? いるのか?」
男は初めてここで寧野の個人的なことに興味を示した。
「いるいる面倒くさいのがいる」
寧野はゆっくりと起き上がり自分の足に縄がされていないことに気付いた。
「えっとなんでだ?」
監禁の鉄則として足は括られているべきであるが。
「ああ、あれ食らってまともに歩ける人間はいないってさ」
「つまり足攻撃は無理ってことか。ふむ」
「足攻撃って……」
男が始めて呆れた声を出して胡散臭いものを見るような顔をして寧野を見ていた。
「楽なんだよ」
寧野がさらっと答えてから足を動かしてみる。感覚は微妙に戻っているが足を振り上げて攻撃するのは無理そうだった。そこで腕を縛っている縄を確認すると縛っているものがビニールの紐だったので寧野は側にあるコンクリートの柱の角でそれを擦り始める。ピチピチと音を立てて紐が切れていく。ほぼ切れてしまうとあとは力を入れれば勝手に外れる。
「よしこれで手は空いた」
それからなんとか立ってみようとする。普通に立つにもバランスが悪くなっている。右足にスタンガンを当てられて痺れているので重心をかけても踏ん張っている感覚が薄いために余計にバランスがとれない。どうにかバランスを取る方法を考えなければならないのだがと、そこまで考えて寧野は目の前にいる男を見る。
目が合った瞬間、寧野は閃いた。
寧野が何か閃いたことに気づいた男は瞬時に眉をしかめた。
「嫌な予感しかしないんだが……」
最高に上から目線でニヤついている寧野が男を口説いた。
「なあ、俺と心中して」
ハートマークが出そうな猫なで声だったが瞳の奥がまったく笑っておらず、しかも問答無用という風に脅している。そういう風にしか見えない。はっきり言って断ったらここでバラバラにされそうな感じである。
「断れる状況じゃないってことか?」
「いや、お前が協力してくれないなら俺が一人でやる方法を考えるだけってこと」
「その前に俺を黙らせてからって?」
「当たり前。だってお前はか弱い一般人で無抵抗で拘束されているだけの外国人のはずだしね」
つまり寧野が一人で行動するためにはこの男に余計なことをされるまえにこの男を黙らせる必要があるわけだ。その行動とは、寧野が今手に握っているほどよい形の棒で男が殴られなきゃならないというシナリオだ。
もちろん、それに抵抗して寧野を沈めた場合、寧野の立ち振る舞いを知っている犯人からすれば、それ以上に出来る一般人がいるはずないと思う。そして当然火の粉はこの男にも降りかかるという寸法になる。
なるべく無抵抗の一般人のまま内部に入り込みたいはずの男からすれば下手に自分の素性がばれることは大問題だ。警戒をされたら仕事がやりにくくなる。
かといって、寧野に殴られて昏倒させられている間に、彼らがこの男を生かしておいてくれる保証はない。面倒だからとバラバラにして埋められるかもしれない。目が覚めた時にはドラム缶に入れられて上からコンクリートが流し込まれているところかもしれない。
だからこの男の計画は寧野に声をかけた時点で道を過ったのだ。
「……声を掛ける相手を間違ったってことか」
深くため息を吐いて男が諦めた。本当にがっかりしたように肩の力が抜けていた。だが気持ちの切り替えは早かった。
「で、俺は何をすればいいんだ?」
こうなったら一緒に脱出するしかないわけだが、男一人なら余裕だろうが、そうしたところで寧野が今度は男がやったように声を出すだけだ。とにかく脱出するまで協力するしかない。
お互いがお互い、何をするのか予想すら出来ない相手だからだ。
「俺の言う通りに動けばいいんだよ。車椅子くん」
寧野がにやりとして言うと男はさらにため息を吐いた。
「そっちかよ」
司馬隆慶(シーマー ロンチン)は自分の不手際に苛立っていた。
昨日は最悪だった。リーダーの宮水帝(ゴン シュイディ)から命じられたことが予定通りに行かず、気をつけろと言われていたことが重なって、大事な取引をロシアマフィアに邪魔されたのだ。それも自分が引き入れて手下にした孝司南(ジャオ スーナン)が持ち場を離れた為、余計な負担もかけられた。元々ロシアマフィアが運んできた積み荷を横取りし、嵯峨根会に横流しする予定だったものだった。うまくロシアマフィアの積み荷に混ぜて税関をごまかせたというのに、肝心の受け取り場所で見張り一人が異変に気づけなかったばかりに、取引をせずに引き返す羽目になったわけだ。
最初は無茶なことだと思っていたが全てが予定通りに行っていた。あの見張りさえちゃんとしていればやり過ごせるはずだった。それなのに肝心な時に孝(ジャオ)がやらかしたわけだ。
その責任を取らされて孝(ジャオ)が殺された。
それは仕方ないが、その孝司南(ジャオ スーナン)を仲間に入れた司馬(シーマー)の勝手の責任も取らされることになる。
今こうしているのはまだやるべきことがあり、責任はまた後でということだが、その責任を取りたくなくて焦った末にまたミスをした。今度は谷(グー)が目的の人間以外を拘束してきたのだ。
一人はスラブ系の一般人であるが、こっちはどうでもいい。問題なのは日本人の方だ。サラリーマンだろうが、助けに入って仲間を二三人投げてきたのでスタンガンで動きを奪ってから気絶させた。
幸いなのはまだ生きていることだ。
仲間を始末するのは簡単だ。組織の掟だと言えば家族は探さない。そして違法移民である孝司南(ジャオ スーナン)を真剣に探してくれる政府はここには存在しない。
しかし一般の日本人はマズイ。
ここで急先恐后(ヂォンシィェンコンホウ)がサラリーマンを殺したなんてことが広まったら、これからの活動がしにくくなる。ただでさえ目立つ活動はしないように言われていた。煌和会と鵺(イエ)の全面戦争が起きている現在、煌和会の名前を出されては、煌和会の幹部たちの計画が頓挫する。何をするのかは知らないが、今でている煌和会からの通達は、新聞やニュースになるような事件は起こさないことである。どこから抗争の火がつくのか解らない。何がきっかけで煌和会の隙が出来るのか解らない。今度こそ死ぬなんて生ぬるい責任がかかっている。
一般の日本人をどこかで解放するしかないだろうが、どういうわけかさっきからヤクザの宝生組の組員らしい黒服の男たちが周辺を彷徨いていて、日本人を解放するところを見られたら一悶着ありそうだった。とにかく日が暮れるのを待って、あの二人を煌和会とは一切関係ないところで解放してこなければならない。
そのためにこの建設途中のマンションの中で、身動きがとれずに夜を待つしかない時間だった。
「早く帰って飯食いたいな」
このまま無事と思っていたが状況が悪化したのはそのたった数分後だった。
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