京都府西京区嵐山にある法輪寺。枕草子や梁塵秘抄、今昔物語などにも登場し、本尊は虚空蔵菩薩。虚空蔵とは一切の森羅万象を含むという意味を持つ。嵐山渡月橋を渡っていき、法輪寺からは嵯峨野を一望出来る。周辺には寺が多く有るためか、人は少ない穴場スポットとしてよく紹介されている。ここには電子、通信、情報の神様、電電宮は法輪寺内にある。
平日、午後四時を回ると散策し観光客はいなくなる。冬本番の今の時期はこの時間になれば日暮れも早く、すでに外は街灯などを頼りにしても薄暗い。
そうしたところに一人の老齢の男性が立っていた。
名前は都寺冬基(つうす ふゆき)。年齢はあと一年で60歳になる。最近では身体の衰えが解るようにもなった。それもそのはずで自分の子供は大学をとっくに卒業してもうすぐ三十になる。親としての義務をやっと終えて、これからは組の為に全力を出そうと考えたが、気力の問題や近年、大阪の如罪組(あいの)との長き攻防戦に疲れ果てていたのもあって、正直引退したいくらいだった。
如罪組は、14年前に当時関西を仕切っていた火威会(ひおどし)を内部より揺さぶりをかけ内部抗争に発展させ、その後自爆の一途を辿るように仕向けた九十九朱明(つくも しゅめい)がいる組だ。
元々如罪組(あいの)はそれほど強烈な組ではなかった。火威会(ひおどし)の直参の分家という弱い立場で、火威会(ひおどし)の看板がなければ何も出来ないような小さな組だった。それが直参であった組を喰らい、直参まで上り詰めたのは、当時の組長だった松比良正登(まつひら まさと)の力量があったからである。松比良は直参の組の娘を嫁に貰い、そこで力をつけてから上り詰めるも、火威会の幹部からは嫌われていた。取って代わろうと する幹部が成長をするのを他の組長が良しとしなかったのである。
幹部に嫌われた段階で松比良の出世は頓挫する。しかし、そこから松比良の裏での行動が激しくなった。そのあたりで九十九と繋がったのだろう。批判する幹部を密かに殺害、一応の安全な地位を築くことに成功すると、安定した地位で次の行動を何十年も待った。
そして松比良が50歳になる手前、九十九の指令で動き、到頭関西のトップに上り詰めた。
ここまでは対岸の火だった。
あのまま松比良正登が生きていれば、問題はそこまで大きくはならなかっただろう。
たった二年で関西を統べる組長が、消されるとは誰も想像しなかった。
如罪組(あいの)が火威会(ひおどし)を制圧するのにたった二年。これからという時に、松比良正登は交通事故死した。ボディガード二人とその時一緒にいたクラブのマスターが巻き込まれていた。事故はタイヤの劣化によるものでそれが高速道路で破裂し、外壁に衝突というものであったが、そのタイヤの劣化が問題だった。一部の噂ではあるが、その車は三日前に車検から戻ったばかりでタイヤの劣化はないと言われている。だが警察も真剣に捜査をする気はないのか、その背後にいそうな獲物を狙う為に公の捜査を中断したのか、詳しく調べられることはなかった。どっちにしろ、ヤクザの組長が死んだ原因よりも死んだことによってもたらされる混乱の方が警察にとっては問題だったのだろう。
その後、息子の渡里(わたり)が正登の後を継いで組長になった。大学を出たばかりのたった23歳の組長に、周りは皆、事実上九十九朱明による如罪組(あいの)乗っ取りだと認識した。
その後10年ほどは安定していた。攻防もあったがそれは水面下でのみ行われていて目立ったものはなかった。というのも、九十九の性格なのか、水面下でのやり取りで相手の力量を計り、徐々に毒を仕込んでいきその毒が効き始めると宣戦布告してくる。そうした時、毒は一気に回り、声が出ないので号令が遅れ、その間に手足が切断されるという具合だ。こうなると文字通り手も足も出なくなり、後は自然と崩壊していく。だがそれだけならまだ救いはある。九十九はそこで即効性の毒ではない効果でわざと相手を長生きさせ、じわじわと真綿で首を絞めるようにゆっくりと仕留めに来るのだ。
そう二度と刃向かえないようにするために。
その分、いきなり宣戦布告ということはないので頭が良い相手なら長期間ではあるが対抗は出来る。実際、30年近く九十九朱明という男と攻防していた人が居る。
関東を代表する宝生組の先代、宝生高その人だ。宝生という組織を束ねるのには長けていたし、昔ほど派手ではなかったが、国際化に対処して発展させて時代を乗り越えてきた一人。
九十九朱明の復帰が派手にされると、宝生高がどうしてあそこまで大人しくなっていたのかという謎が一気に解明された。あの人は一人で九十九朱明の復活があることを予想して、水面下で攻防をし、その対策のために生きていたということなのだ。
宝生組組長代理があそこまで鮮やかに反撃に転じられたのは、一重にこの宝生高の密かな用意があったのではないかと言われているくらいだ。そのおかげで宝生組は飲まれることなく、九十九の行動も押さえられた。周りから見れば奇跡のように見えるが、宝生組からすれば当然の結果なのだろう。
この評価はしばらくは高くなかったが、年々九十九の攻撃を受けている組織の幹部たちは、宝生高の評価を改め、すでに伝説としている。正直、ヤクザをしている人間でもえげつないと顔をしかめるような攻撃をされ、反応すると相手の思い通りだった為に喰われる組織が相次いだからだ。
宝生ほどの末端組織を抱える組にとって末端からじわじわ喰われるのは痛手である。それをほとんどされずに耐えていたこと自体が奇跡なのだ。
実際、土地柄か閉鎖的だった為に都寺(つうす)の嵯峨根会はやっとの思いで耐えていた。この苦労は幹部でないと解らない些細なことであるが、それでも会長として精一杯やってきた。
会長として他人に劣っているとは思いたくはなかったが、今は劣っていると認めるしかない状況だ。
溜息は独りでに漏れた。
最近になって、一人になりたいことが増えた。
この九十九のことは、最近になって如罪組(あいの)が露骨に見える攻撃を仕掛けてきたことで、今までと違った。如罪組内部が変化を迎えているのは確実で、これは九十九朱明と松比良渡里との内部抗争に発展しているのだろう。幸いと言っていいのか解らないが、九十九の独裁をよく思わない幹部が多く居たらしく、現状は松比良が優勢という見方が強い。
だがと都寺(つうす)は考えた。
こんな状況になってまで九十九が何も出来ないということはあり得ないと。
九十九には他に目的があって敢えて松比良の相手をしないのかもしれない。
だが、それをいくら考えても想像すら出来ないから困惑する羽目になっている。
何かに祈るでもなく、ただそこにある電電宮を眺めた。
今の時代、電子や通信、そして情報は何よりも大事なものだった。それはたった一瞬で世界中を巡り、世界経済を揺るがすようなことも起こりえる。
任侠の世界で生きてきて50年以上になる。自分が組長になった時は暴力による完全なる支配が可能だった。しかし時代が進むにつれて、そうしたものに規制がかかり、いつしか肉体的な力だけではなく、頭脳も必要となった。つまり馬鹿だけではやっていけないのだ。
そうして暴力だけに頼るような組織は次第に組を解散する羽目になり、結果、その時代に対応するだけの能力があった組織だけが生き残った。
今でも暴力はあるが、それが巧妙になり、人一人を失踪したということにして様々なことが出来る。殺すだけなら簡単だが、今は医療関係と組んで臓器を取り出した後に残った遺体を始末する。その始末する過程が一般人には難しいが、もし葬儀場と癒着しているヤクザがあったとする。すると他の葬儀の合間に遺体を焼いてしまい、骨にした後その骨をも砕いて海にでも撒けば証拠隠滅が出来てしまう。なんなら身元不明の人間の火葬をしていると嘘の書類を使って人目はばからず始末することも出来る。骨の始末も無縁仏の一つとしてしまえば苦労せずに最終的には国がその骨もひとまとめにして誰のモノか解らなくして始末してくれる。
政界とヤクザが繋がっていることは昔はよくあったので、ヤクザが規制をくらって地下に潜り初めてもそれは変わりない。むしろフロント企業などに変化し、隠れ方は巧妙になり、普通にみたら判別が出来なくなっている。そうした地下に潜ったヤクザと政界が繋がれば大抵のことはやれる。
それでもヤクザへの締め付けは厳しくなり、昨今では殴り込み等の派手なことは出来ない。
そうした時代に暴力沙汰を起こしかねない長男を嵯峨根会のトップとして迎えなければならないのかと、溜息が出る。あれだけなら暴走だけしかしないことは解っている。あの性格を大学卒業まで見抜けなかったのが、自分たちの落ち度だ。
長男の冬哩(とうり)は、昔はいじめられるような子供だった。大人しく何を考えているのか解らなくて気持ち悪いというのが理由だった。
沖縄の渡真利(とまり)から嫁いできた妻の沙那(さな)は長男冬哩と次男朋詩(ともし)を生んだ。極道の家において、二人の男児は争いの元になるという理由から、朋詩は秋篠一家総長秋篠正悟(あきしの しょうご)に預けられた。
大きな嵯峨根会を束ねる家がもめ事を起こすのはよくないという理由は対面的なものだ。
沙那が死去するまでは、何事もなく過ごせたと思う。
沙那が病死した年、小学校で冬哩をいじめていた子供たちが卒業式の後に冬哩に自分たちがいじめてきた方法で復讐をされる事件が起きる。
この時に、冬哩の凶暴性をきちんと見抜けていれば問題はそれほど大きくなかったかもしれない。この事件は被害者がみな黙り込み、冬哩がやったとは言わなかったことで事件性はあるが、被害者が被害を出さないことで証言が得られず、事件として成立しなかった。
その後、噂で冬哩がやったと言われていたが、その頃の冬哩は学区外の私立の進学校に通う様になっていて、そんなことをするような人間には見えないほど優秀な生徒として成長していた。だから誰も信じなかった。実の父親の都寺でさえだ。
高校、大学と平穏に暮らし、嵯峨根会も冬哩に任せられるかと思ったとき、もう8年くらい前の些細な出来事を思い出したのだ。それは。
「本当に跡取りはあの人でいいのか?」
というもの。
都寺(つうす)の家を出て、秋篠の家で育った朋詩は高校卒業後に秋篠一家に入り、今や秋篠を支える若頭になっていた。秋篠一家は総勢でも12人程度。これに構成員の家族が入るので結構な大所帯にはなる。元々はヤクザではなく地元の相談屋のような存在で、今でも地元の人間はヤクザとは見ていない。ただ所属しているのが広域暴力団組織である嵯峨根会だというだけのことだ。それは京都では一家がそれであるためには嵯峨根会に所属しなければ解散するしかないといういきなり降ってわいた強制的な仕来りのせいだ。
秋篠の息子は高校から海外へ渡り、時代を先取りするために経済の勉強をしに行っていた。その息子が大学を出て帰ってきたと思ったら、秋篠一家を出て、成田組を建てたのである。ヤクザになるのを嫌がっていた息子がいきなり方向転換どころか、実家を助ける訳ではない状況にさすがの都寺も秋篠を問い質したが、息子と話し合った結果、秋篠一家は朋詩に任せた方がいいと結論が出たので組を建ててやるしかなかったという。
だが、そういう事情で出来た成田組の組長である秋篠啓悟(あきしの けいご)は冬哩の後継となり、あれこれ世話を始めた。周りは嵯峨根会の跡目は冬哩だからおべっかを使って冬哩が会長になったら幹部になろうとしているのだろうと噂を立てるほどだった。
だがその予想とは裏腹に啓悟は実によく出来る男だった。それほど嵯峨根会に興味がなかった冬哩を嵯峨根会の跡取りらしくしつけ直したのである。周りからはよくやったと言われるほどの活躍だった為、嵯峨根会の中で空席が出来るとすぐさま満場一致で成田組組長は総本部幹事長という役職を得て幹部にのし上がった。
これに関して冬哩は何もしておらず、都寺(つうす)や秋篠も何もしていない。
ここまで完璧に来て、朋詩の言葉に心が揺らいだわけではない。都寺自身が微妙に気になることがあったのだ。
それは秋篠一家に入ることを決めたという朋詩の話だった。高校卒業をして大学には行く予定はなく、一家に入って育ててもらった恩を返したいと朋詩(ともし)が言い張り、一家の皆も朋詩を迎え入れることに賛同していて、秋篠も断る理由がなかったのもあり、都寺会長の了解さえあれば問題がないことだった。それに都寺(つうす)は喜んだ。これで跡取り問題で組が荒れることはないと。
朋詩は一応はということで都寺に報告に来てくれたのだが、その時の朋詩が「本気であの人を跡取りにしようとしてるのか?」と聞いてきた。朋詩は小学生の高学年の時から冬哩のことを名前では呼ばず、「あの人」と称する。それは自分と立場が違うことを知って、名前を呼ぶことすら憎らしいのかと思っていたが、そうではないようだった。
それはそれまで大して嵯峨根会に興味を持たずにきた朋詩の言葉だったが意味がわからなかった。「そうだ」と答えると朋詩は溜息を一つだけして「解った。そのつもりなら何も言わない」と引き下がった。
秋篠一家をいつか背負うことになるかもしれないから不安なのだろうと秋篠は言っていたが本当はそうではなかった。
あれから朋詩と話す機会がなかったのだが、先日偶然出逢った時に少しだけ話した。引っかかっていた事だったのか、自然と尋ねてしまっていたのだ。あの時の言わなかった言葉を。
「あれはどういう意味だったのだ?」
26歳になっていた息子であった朋詩は、暫く難しい顔をしていたが、視線を都寺に向けて質問で返してきた。
「もしかして、私が昔問うた意味のことでしょうか?」
実の父親であろうと朋詩からすれば都寺は自分の上司にあたる。それに似合った敬語を使っているのだが、酷く深い溝と距離があった。この瞬間、都寺は自分がとんでもないものを失ったのかもしれないと思った。
「あれは、冬哩が嵯峨根会の会長として向いていないということなのか? そうだったとしてお前は冬哩の何が問題だと思っているんだ? あれは何かしたのか?」
都寺がそう聞き返すと、朋詩は溜息を吐いてから言った。
「それこそ昔話です。忘れてください」
朋詩もまさかそんな10年も前の自分が父親にたった一言聞いた質問を持ち出されるとは思いもしなかった。そんな些細な自分の言葉は今更なんの意味も持たないことは解っていることだ。
「いや聞かせてくれ。お前が何を思ってそう言ったのか」
切羽詰まったような顔でそう言われて、朋詩(ともし)は仕方がないとばかりに話し始めた。あくまで昔自分が体験したことでそれについて自分はもう何も思っていないことを付け くわえた後で。
「私が都寺(つうす)の家に何度かお邪魔して休暇を過ごす時がありましたが、毎回怪我をしていたことを覚えていますか?」
そう言われて昔を思い出すと、小学校の頃はよく怪我をしていた。一番大きな怪我は骨折だっただろうか。旅行先の裏山で遊んでいて足を滑らせて谷に落ちて足を折ったのだ。他にも腕が切れて何針か塗ったこともある。野良犬に噛まれたといって救急車を呼んだこともある。
思い出すだけでも結構な数だった。ワンパクな子供だから怪我も多いのだろうと都寺は思っていた。それに跡取りには関係ない子供だからどうなろうと関心はなかった。
都寺が思い出しているのを悟った朋詩は話しを先に進めた。
「野良犬に噛まれた時に、周りのみんなは犬に何かしたからだろうと言ってましたが、私は何もしていない。したのはあの人だった。棒で鼻を叩かれれば犬だって怒るでしょう。それはまだ偶然側にいたからとばっちりだったと思ったんです。でもその後気づいたのですが、あの時あの人から急に服をもらったんですよ。その日着ていた母親にもらったという服。私はそれを着て母親に見せて喜んでいたけれど、あの服にはあの人の臭いがついていて、野良犬はそれで私をあの人と勘違いしたんだとね。それから次に行った旅行であの人に目の前で腕を切りつけられた時は、この人は私を殺そうとしているんだなと馬鹿でも解る光景でしたよ」
朋詩はもう昔の事だから気にしてはいないようにすらっととんでもないことを言った。
「……朋詩……それは」
さすがにそれは妄想ではないかと言われることは解っていたらしく、喉でくっと笑ってから言った。
都寺(つうす)がこういうところで現実をみないのは知っていたからだ。
「私があの日言おうと思っていたことは、最後に行った旅行であの人に崖から突き落とされたんです。だから跡取りは二人はいらないと言って実弟を旅行先で事故死に見せかけて殺そうと企むような人間を嵯峨根会のトップにする気ですかってことです」
さすがにこれは妄想ではないだろう。殺されかけた本人がそう言っている。だがそれでも信じ切れないのは、冬哩が問題をおこしたことがなかったからだ。朋詩の嫉妬ととれるが、嵯峨根会のトップになりたいなら秋篠一家に入ることはせず、冬哩を消せば済むことだった。秋篠啓悟が戻ってくる前の朋詩の立場だったら簡単にできたことだろう。それをしなかったということはそれが目的ではないということだ。
では何故こんなことを言う?
そう疑いの視線を向けてしまったのだろう。朋詩は拳を口に当てて苦笑している。
「嵯峨根会の会長と言われる人でも自分の息子が悪く言われたら顔に出てしまうんですね。赤の他人に育てられた息子が言う言葉すらも。ああ、でもあの谷底は毎年旅行者が足を滑らせて事故死している場所なんですよ。後で調べてびっくりでした。私が子供で体重が軽かったので、たまたま出来ていた窪みにはまっただけのようで、それがなければ谷底まで一直線に落ちて完全犯罪成立でしたよ。今考えればある意味嵯峨根会の会長としては向いているかもしれませんね」
大した皮肉ではなかったが、この時の都寺には十分効果はあった。
自分の自慢の息子だと思っていた扱いやすいおとなしい性格の息子が、昔から性格に問題があるような人間だったのだ。自分の弟を自分の目的の邪魔になるからと小学生のうちに事故に見せかけて何度も殺そうとしていたという事実。
それに瞬時に頭に浮かんだのは小学校卒業時に自分をいじめていたいじめっこに大けがをさせ殺そうとしたことだ。仕返しなんて甘いことじゃなく相手にも口を割らせないような暴力をしてきたような子供だったのだ。
朋詩の言葉が現実味を帯びてくる。
その慌てた態度に朋詩は満足したように言う。
「だから私は言うのをやめたんですよ。正直今は貴方が死のうがあの人が会をどうしようがさほど興味はないんです」
自分の上司に対して会社が潰れようが興味がないと言っているのである。それが何を意味するのか都寺でも解る。
「お前は……まさか」
「裏切るなんて馬鹿なことはしませんよ。ただ、犬死するのをやめるだけです。嵯峨根会が如罪組と抗争になってどうなろうと、所詮勝った方に付くことになるのだから、下手な義理立てはやめようとしているだけです」
「そんな根性でヤクザをやろうとしているか! それは秋篠の意志だと思っていいのか!」
テーブルを叩いて怒鳴りつけても朋詩は態度を改める気はない。むしろ呆れた顔をしていた。瞳は無能なものに向ける哀れみのまなざしだ。
「そういう面子を今更気にしている余裕なんて今のあなたには一ミリだってないでしょうに」
根性でヤクザをやれる時代なんてとっくにすぎた。それに都寺が気づいていないことに朋詩(ともし)はもう何の感情も見せなかった。
「嵯峨根もここまで落ちぶれていたのかとがっかりですよ、都寺会長」
朋詩が言う意味を悟るのに一瞬思考が止まった。朋詩が言っていることは皮肉に混ぜた嫌みではなく、ちゃんとした情報だ。朋詩は直接はっきりと口に出せないことを遠回しに辻褄を合わせて知らせているだけなのだ。
朋詩の立場では今は父親である都寺(つうす)に直接会って話すことはとても難しい立場だ。頻繁に会っていた家族ならおかしくはないだろうが、ほぼ交流なしで来た親子だ。無理に会おうとすれば当然、朋詩になんらしかの目的があると思われるし、あった場合目的も悟られる。そんな危険を回避して朋詩が会うには都寺から話しかけて貰わなければならない。
朋詩は上手く都寺が現れるような場所に姿を見せ、都寺の様子を窺っていたのだ。
そして都寺(つうす)の状況を探るつもりで昔話に混ぜて冬哩が危険であることを伝え、さらには秋篠一家の考えていることは、他の一家も考えている事であることも知らせた。
あれだけ都寺(つうす)がやり通してきたと思っていた九十九対策は、もう功を奏してないということだ。
とっくに内部に毒が撒かれ、それが広がりだし、中には感染しているものもいる。正直それに感染して死んでやる義理はもうないに等しい。
そんな状況になっても幹部は会長である都寺に報告を上げてきていない。嵯峨根会の一幹部である朋詩が知っていることを都寺が知らないことの方が異常なのだ。
つまり敵は都寺のすぐ隣にいて、都寺(つうす)の耳や目を塞いでいる人物であるということだ。それも朋詩が名前すら出すことをしない実兄とその側近しかその人物になり得ないのだ。
「どうやら貴方の周りの幹部はもう貴方を必要とはしてないようです。十分、身辺の方お気を付けください。私は貴方が死のうがあの人が嵯峨根の会長になろうが、どうでもいいんですよ。どうせこのまま如罪組との抗争は避けられないところまで来ている。そろそろ現実を見るのは会長の方ではないですか? 今更昔話をして家族団らんなんてしてる余裕はどこにもない。実際あの人はあなたが私に会うことをまったく止めはしなかったでしょう?」
都寺はやっと朋詩が昔に殺されかけたことの恨み言を妄想のように語っているわけではないことに気付いた。ずっと冬哩は言っていた秋篠(あきしの)一家に行った朋詩に会うことは朋詩(ともし)に迷惑になるから控えてくれと。それは幹部にしておくしかない朋詩(ともし)から都寺に余計な情報が流れることを阻止したかったのだ。
朋詩の方が父親である都寺に対し、なんの期待も思いも抱いていないことは、冬哩も疾うに知っていた。父親が朋詩に興味がないことも知っていただろう。
そして今更二人があったところで都寺会長としての都寺(つうす)は機能はしない。もちろんそんなことは会うことにした朋詩も何を言っても無駄なところに来ていることを知っている。
秋篠一家の若頭に治まっている朋詩が気にしているのは嵯峨根会の会長が誰になるかによって巻き起こる混乱で一家の家族が不幸にならないようにすることだけなのだ。会長が替われば弱体化したところから如罪組(あいの)との抗争になるかもしれない。抗争になれば、当然秋篠一家も無傷ではいられない。そうなる前に被害を最小限にする方法を模索しなければならないのだ。
「……朋詩……私はどうしたらいい……」
よもや幹部にすら見限られているとは想像すらしていなかっただけに、都寺は目眩を覚えた。幸いここは人払いをして朋詩と二人だけだ。家族団らんをしたいと言えば、さすがに駄目だとは言い切れないから押し切ったのだが、家族団らんなど白々しいいいわけ誰もが信じていない。
それどころか捨てた子供にすがりついて助けてもらおうなど、それこそ嵯峨根会の会長として失笑ものだ。
「それを私に聞きますか? 私の昔話は全て妄想で済ませた貴方が? 何故今回のことだけ妄想ではないと言い切れます?」
嵯峨根会会長としての威厳すらない都寺に、義理すらない、血のつながりすら争いの元になると勝手に想像され、早々に会長の資格はなしと烙印を押されて秋篠一家に追いやられ、教えてくれと言われたので真実を話せば妄想と切り捨てられそうになった実息に、すがりついて助けてくれとは、情けなさ過ぎる上に、さっき自分が言った「そんな根性でヤクザをやっているのか」という言葉がブーメランのように戻ってきて突き刺さる。
都寺(つうす)が何年も年を取ったかのように、すっかり力が抜けてしまったのは、自分が言った言葉がどれほど残酷であるか悟ったためだ。
「嫌みで返したのは、私ごときであの人を止めることが出来ないという自分の力のなさに腹が立ったことの八つ当たりですから、気にしないでください」
朋詩はそう言うと、すっと席を立った。
これ以上話すことはないという態度はありありと解る。それもそのはずで、こんなところで自分を捨てた父親の戯れ言を聞いている余裕は、今の朋詩にはない。まして秋篠一家の為にもならないそんな父親を助ける算段など無意味に等しい。秋篠一家と自分を捨てたすべてに見捨てられた嵯峨根会会長のどちらかを選べと言われたら即答で秋篠一家と答えられるからだ。
そして朋詩が言ったことが本当ならば、朋詩はこれから秋篠と一家のあり方について相談していかなければならない。そう、もう会長の都寺冬基(つうす ふゆき)の権限が皆無であることを考慮に入れた対策をだ。
秋篠一家の秋篠正悟(あきしの しょうご)は、啓悟に組を建ててやってからというものすっかり引きこもった生活を送るようになり、都寺とは実に5年ほど会っていない。実質、秋篠一家を現在切り盛りしているのは若頭である朋詩なのだ。
「お前は、本当によい若頭になったな」
思わず出て行く朋詩にそう声をかけてしまった。
朋詩もそれを言われるとは思っていなかったようで、一瞬だけ驚いた顔をしていた。しかしすぐに真顔になって言った。
「ありがとうございます。秋篠を選んで放り出してくれたことだけですが、今は感謝してます。もう近くでお顔を拝見することもないかと思いますが、どうか最後までお元気で」
次会うことはもうないだろう。何であろうが、家を追い出されたまま他の一家の若頭になった朋詩に、父親の葬式で父親の遺体であろうがもう会う資格はない。それが都寺(つうす)が選んだ選択であり、そうなるように仕向けた結果のことだ。
朋詩はきちん立場を守って礼儀を取っている。そんな息子に向かって礼すら取れないのが今の都寺だ。
後継者を冬哩に定めた瞬間から、どこかで掛け違ったボタンがあったとすれば、それは朋詩を手放した段階だ。朋詩は沙那が死んだ時点で、都寺の家の味方は誰一人いない環境だった。自分を放り出し興味すらみせない父親と、自分の存在を邪魔だと思い、殺そうとしてきた実兄。義理すら感じる必要はないだろう。
タンと音を立てて閉まった障子を眺めたまま、都寺は数分呆けていた。
ヤクザだから父親として失敗したわけではない。都寺が親として失敗したのだ。大事に養ってきた息子は自分を殺す為に画策をし、生ませただけで愛情すら一ミリも与えなかった息子は家から放り出したことだけ感謝をしていた。
都寺の家はヤクザの家だから崩壊したのではない。何もなかったのだ。都寺はただの嵯峨根会の会長だっただけ。しかしそれすら奪われようとしている。
毒を仕込んだのは九十九だったが、毒に宛てられたのは都寺だった。そんなオチだろうか。
朋詩(ともし)に会ったのは昨日の出来事であったが、都寺にとっては何年も前の出来事のように思えた。ずっと側に居て助言をくれていた秋篠がいないことを今頃寂しさがったりして、本当に自分はどこまで後で後悔をするのだろうか。
やれることをやってきたと自負していた心は、完全に打ち砕かれたままだ。
都寺がこうやってこの神社で一人になりたいと言って、それが実現することがその証明だ。嵯峨根会は会長の都寺が何処で死のうがどうでもいいのだ。如罪組(あいの)との逼迫した時期でこの状況は、むしろ如罪組がうっかり会長を殺してくれればいいのにという嵯峨根会の幹部の思惑であろう。
ポケットに手を入れそこにある物を握りしめる。
嵯峨根会の重要なファイルで、嵯峨根会会長しか見ることが出来ないものだ。様々な嵯峨根会の裏の重要人物や幹部すら知らない会長専用の金庫の鍵のありかなどが記された情報が入っているUSBスティックだ。もともと使っていたパソコンはHDDを変えてあるので、いくら復旧してもこの情報は出てこない。元のHDDは分解しプラッタはうまく粉々にして、今日の温泉回りや神社回りをしている中、バラバラにして旅館や寄った店のゴミの中に捨ててきた。
朋詩の言うことを完全に信用した訳ではないが、用心をしておく必要はある。元々そのままを冬哩に渡すわけではなかったし、渡さない情報を消すだけのことだ。ただもしもの為にこれを残しておくのは保険だ。自分が生き残ってまたここに来られたら引き取っていこうという。それだけのことだ。
そう思って、散策している振りをして社の誰にも見えない位置に隠してきた。掃除で見つかる場所ではないし、ここの年末の掃除はすでに終わっている。来年の年末までに引き取りにくればいいし、もしもの為に神社の人間が見つけた場合の為の保険もつけておいた。さすがに神社の人間に預けるのは危険すぎるだろう。本人がよく解らずに預かったせいで死ぬ羽目になったら目も当てられない。
この存在は秋篠しか知らない。秋篠はこれがどれほど重大であるかは知っている。もし何かあってもこの存在は口にはしないだろう。ただ秋篠が裏切っていた場合の為にも隠しておく必要がある。
そうして全面的に信じていたものでさえ信用出来なくなったのは何故だろうか。
じっと本殿を長め、出るはずのない答えを求めたが、誰がそれに答えてくれるというのだろうか。
そうしていたところに誰かが歩いてくる。辺りは完全に暗くなり、自分が立っている場所には街灯が当たっている。チリチリと誰かが歩いてくる足音だけが響いて聞こえ、不気味である。だが都寺(つうす)は誰が来ても驚かない自信があった。
こんな絶好の嵯峨根会会長を殺す機会を逃す人間がいるとは思えなかったし、罠だと解っていても飛び込んでくる鉄砲玉くらいはいるはずだ。
ほとんど目の前にいる状態で相手が歩みを止める。
「本当に嵯峨根会会長の都寺冬基(つうす ふゆき)がいた」
相手はそう言いながら呆れたような声を出していた。
「いくらなんでも露骨すぎて罠だと解っていたけど、まさかねえ。本気で会長を殺して欲しいなんて冗談と思っていたんだけど」
すごく暢気な声だった。冗談を笑いに来たら冗談じゃなかったので困っている感じではあるが、冗談を言っただろう相手の本気にも困ったようでもある。
顔は解らない。首にマフラーをして半分隠している上に帽子を目深にかぶっている。でているのは目だけであるが、モンタージュを作ったらまさに目のところだけしか出来ない。格好は今時の若い子の格好だと言えるが、明らかに素材が違う。すべてオーダーメードで作ったであろう生地と体に合わせたシルエット。サファリジャケットは狙って着たのかそれともわざとなのか解らない。身長は180くらいありそうで上から都寺を見下ろしている。茶目っ気ある言い回しで話しかけてきたが目が笑ってない。だから都寺は言っていた。
「君は暗殺者か何かな?」
都寺にそう言われた男は首を少しだけ傾げた。
「そんな大層な者じゃないけど、まあ、あんたを殺してこいとは言われた」
それは暗殺者とは言わないのだろうか……と都寺は首を傾げる。
「けど、頼む方も頼む方でなんで殺す方にバレてるんだ? なにこれ茶番なわけ? 如罪組(あいの)との抗争を有利にする為の」
「まあ、そういう筋書きがあるのはたしかだろうね。それに私はすでに用済みらしいから、最後に役立つと言えば、会長のまま殺されることくらいなのだろう」
自分が殺される覚悟が出来、さらに目的も達成した今、死ぬのは恐くない。嵯峨根会の会長として死ぬのと、追放されて惨めに死ぬのでは天と地ほどの違いがある。
もちろん完全に裏切られたのは解っている。利用価値を見いだして今の地位のまま殺されるのも解っている。それでも望む形で死ぬのだから、それが前倒しされたとしても文句は言えない。もし自分が裏切る側だったとしたら同じ事をしただろうからだ。
全国に大規模な展開をしている如罪組とは違い、嵯峨根は京都に限定した特殊な組織だ。外部からの侵略には強いが、内部から喰らわれると総崩れをするような形態をしている。内部にほどよく九十九の毒が浸透し始めている状況で、都寺が会長で居続けるのは得策ではない。
ここはいっそ、新しい会長を迎え、内部に巣くっている膿を出してしまうに限る。
冬哩を会長にするのには不安はまだあるが、あの秋篠の息子がむざむざ自分が食われるような真似をするとは思えないのだ。たとえ都寺に刃向かった相手ではあるが、それは嵯峨根を強くしようとする心がそうするのに値すると判断したはずだ。
冬哩を飾りのようにして嵯峨根を乗っ取るのならそれでもいいだろう。幹部までしっかり制御できているようなら、むしろ冬哩を飾りにして秋篠の息子が制御した方が得策である。そう幹部も感じたからこそ、都寺を見限ったはずだ。
そう考えれば、自分はちゃんと役割を終えたのだと思えばこそ、殺されることくらいなんでもない。
朋詩は冬哩の危険性について危惧していた用だが、あれは都寺や嵯峨根会の心配ではなく、秋篠啓悟の心配をしているのかもしれないと、不意に思った。
何処まで行っても、都寺冬基は都寺朋詩の家族ではないのだ。
「すまないが、君にお願いというか仕事を依頼してもいいだろうか?」
都寺の言葉に、相手は黙り込む。
都寺はポケットに入れていた通帳を取り出し相手に差し出して言う。
「これは私の個人財産になるものだ。隠し財産とでもいおうか。印鑑もここにある。それほど入っている訳ではないし、君を雇うのに相場がどれくらいなのかも予想すら出来ないが」
通帳を差し出された相手は、暫くそれに手を出さなかったが、溜息を吐くと通帳を取った。中を確認してから話しを進める。
「で、誰をやれと?」
どうやら中の金額で十分、この暗殺者を雇うことに成功したらしい。
「一つだけ確認しておきたいのだが、君はこのままここで私を殺すのだろうか?」
「いや、罠だと解っているのに殺っちまったら、それこそ俺まで殺されかねない。今は罠かそうじゃないかの確認。まあ、あんたの覚悟も見て取れたから、話しくらいしてみようとしただけだからいいんだが」
「ははぁ、なるほど。君は嵯峨根側に雇われたにも関わらず、素性がバレかけているわけか。如罪組(あいの)側の何かと明確な繋がりがあると嵯峨根側に見抜かれていると」
これにはさすがの暗殺者も驚いたらしい。見事に殺気を都寺に向けてきた。解りやすいところを見ると、まだそれほど年はとっておらず、殺しもそれほどこなしているわけではないようだった。
「伊達に嵯峨根会束ねてたわけじゃないってわけか。別に殺せとはっきり言われてきたわけじゃないからやらないけど、普通ならもうやってる。でも俺の正体をうまく探っても無駄だって思ってるんだよな」
「まあ、君を捜し出して言及しても別の君みたいなのがくるだけだからね。この場合なんの意味はないよ。じゃあ君は何をしに来たんだい?」
どうやら暗殺者という考えは違うらしい。が、その直後に嫌な殺気は感じた。この男は暗殺者ではなく、暗殺者を飼っている飼い主の方なのだ。
「その近くの寺に墓参りに来たんだが、とりあえずここへ行けと言われてきただけ」
まるで舌でも出してとぼけているような感じで軽い。都寺が勘違いをしていたので乗ってみたと言うところだろうか。しかし、それでも都寺のことを知っていたし、状況把握は完璧に出来ていた。ただの一般人ではないし、嵯峨根会の回し者でも、まして如罪組の刺客でもない。
ではなんだろうか、この嫌に声が若く20代の青年っぽい男の存在は。
「まあ、遺言っぽいし、あんたには誰も頼る人がいないみたいだから、一応遺言は聞いておく。誰をこれで殺せば、あんたは満足するわけ?」
男は殺すことに関してさほど驚きはしていない。殺すことに慣れてなくても殺せないわけじゃない。慣れてはいないが、慣れれば恐ろしいことになりそうな予感はした。
けれどこんな機会は滅多にない。自分が死んだ後、世界がどうなろうがそれで都寺の心は痛まない。けれど唯一忠告してくれた息子だけは守りたいと思っても構わないだろう。たとえ息子が拒絶してもだ。
「嵯峨根会会長の暗殺」
都寺の言葉に男は一瞬目を見張ったようだが、都寺が言った言葉を一瞬で理解して笑った。
「いいだろう、これも何かの縁だろうし、受けてやるよ」
男がそう答え、都寺から印鑑を受け取ると、来た方向とは別の方角へと消えた。物音が完全にしなくなった時、門をくぐってボディガードがやってくる。
「会長、さっきここに誰かきませんでしたか?」
そう問われて都寺が真顔で答えた。
「こんなに暗くちゃ、誰が来ても見えないよ」
至極まっとうなことを言って返すとボディガードが困った顔をしていた。どうやら暗殺者のような刺客を待っていたのは間違いないらしい。
だがここまであからさまにされてはさすがの刺客も困ったものだろう。
あの男がそうだったとは思わないが。とそこまで思ってふと気付く。
もしかしなくてもあの男は暗殺を阻止したのではないかということだ。
あれほどの刺客を飼っている人間が、人に見られながら門をくぐったとは思えないからだ。こんな疑いが一発でかかるような場所ではということだが。
その日の深夜、名神高速道路を走行中、嵯峨根会会長都寺冬基(つうす ふゆき)が乗っていた車が中央分離帯に乗り上げ横転、スピードが出すぎていたため、反対車線の外壁に衝突し爆発炎上した。
現場は混乱し、通行は翌朝8時まで全面通行止め。幸い深夜だったことで大惨劇は免れた。世間はヤクザの会長が死んだことなど自業自得だと笑っていたが、その後に待ち受ける惨劇はその比ではないことやあれが全ての始まりであったことを知るのはもう少し後のことになる。
事故の翌日、嵯峨根会は満場一致で都寺冬哩(つうす とうり)を会長にすることを決める。杯や就任式は前会長の四十九日が済むまで行わない意向を通達。現会長の親族であることを考慮して後日就任式は回されることになった。
警察は事故の見解を都寺(つうす)会長の運転手がスピードを出しすぎたことによる操作性のミスであると発表。不審な点が一切無いこと、ブレーキを踏んだ痕があることから事件性はないと判断。車に関しても不備なところはなく、運転手に持病もなかったこと。どんなに事件性を調べても事件にならない事故だった。
警察も運転手が怪しいと踏んでいたが、運転手には怪しいところは一切無かった。自殺してまで会長を暗殺するようなところはという意味である。
だが誰も気付いてなかっただろう。運転手を調べても白であるのは当たり前である。身近にいた暗殺者がボディガードの方である。彼の恋人であった女性が半年前から行方不明になっていた。借金がかなりあったため覚悟の失踪として周りが解決し、探すことはしなかった。
よくある借金抱えてトンズラ。
もちろん警察も調べて恋人を追ったが、一週間後に本人が警察に出頭し借金を苦にして失踪だったと語った。
しかし本人は暗殺者の仲間に拉致され半年監禁されていた。そこで何があったのか本人は死んでも言わないだろう。恋人だったボディガードがそんな自分の為に命を張ったことを彼女は知っている。その思いを無にしてはダメだと思っていたようだった。
問題の借金は恋人がかけていた保険金が当てられた。彼女の元には親族がいない彼が残したものがたくさん渡された。借金したとされていたものが保険金で払われた後、別の保険から数千万受け取り、さらに見舞金として嵯峨根会から退職金としての口止め料が一生働いても得られないものが目の前にトンと差し出された。そしてそれに添えられた北海道行きのチケット。
「解るね?」
差し出された時に言われたこの言葉で彼女はすべて理解して黙っていることにしたのだ。地元に残ることは許されず北の地に彼女はなんの荷物も持たずに逃げた。
この埋もれたよくある事件は、誰かがこじ開けでもしない限り見つかりもしないはずだった。
あの特殊な事件を捜査する、警視が現れさえしなければ。
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