響が気を失ってから楸はもう一度響の体を洗い、後始末をすると風呂を出て、用意されていた背広に着替えた。響には浴衣を着せ、待たせていた案内役に響を寝かせる為の部屋に案内させた。
いつの間にかついてきていた犹塚(いづか)が楸に話しかける。
「老院の方々がお待ちです」
「悪いが、暫く響を見ていてくれ」
「はい、かしこまりました」
本家とはいえ、響を一人にしていくと心配だ。犹塚は響のことは弟のように思っているところがあるし、先にネタばらしをしてきたので今度は安心して任せる。
「そういえば、犹塚の父親を老院の目付にしたのは耀だったな」
部屋に入って響を寝かせながら楸が呟くように言うと、犹塚は笑って答えた。
「ええ、耀様も今回の本家の失態は見過ごせないものがあったのでしょう」
犹塚は自分の父が重役に抜擢されたことにそういう感想を漏らした。
「大人しく耀に飼われていれば、それなりに暮らせただろうに」
大して哀れんでない声で楸が言う。それに犹塚も頷いた。
実際、欲張ったことをしなければ、普通に年金と宝生からの金銭が受け取れていたのだ。一般人よりよほど裕福に暮らせるし、組員のように老後が心配ということもなかった。
老院の席を追われた老人は、現在雑務に追われているらしい。自分の後始末どころか人の後始末までしなければならなくなったわけだ。
耀の存在が強くなった本家は、老院も安泰ではないのだという意味になっている。
なにより、それを支持していたのは老院だから文句は言えない。
楸には一切本家のことに関わらないようにさせて、耀こそ正当な継承者と謳った結果がこれだ。楸は本家には興味がないのでどうでもいいのだが、耀にはどうでもいいものではない。今後彼の運命を決める本家が今回のような有様では、内外に示しが付かない。
今回の事件は本家の体質そのものを問う結果になり、本家とは関わりがないが、本家の影響を受けてしまう末端の組員からの不満が大きかった。
本家が垂れ流した情報は、巡り巡って末端から入ってくる。上がこんな状態では、組員も不安であるし、組長が本家から暫定的に認められているだけに過ぎないのは分かっているから、現場と本家の断絶が起きようとしている。
本家の体制に不満を感じ、組長を慕っている者達は、今回の響関係の情報漏れは組長に対する挑戦だと思っているところがある。組長が働かなければ、本家も存在しないのは誰が見ても明らかであるのにその本家が組長の足を引っ張っている。
組員はそもそも本家は必要なのかという根本的な問題まで気にしだしている。
本家も今回のことで現場と本家の分断はマズイと思っている。ここで組長か後継者の耀かどちらかを取れと言われたら、末端組員は満場一致で組長を取るからだ。
しかも耀までもが楸側についてしまう。結果、本家は孤立するだけだ。
本家の老院も楸を蔑ろにし過ぎたことに気付いているはずだ。
「今の宝生の顔は、宝生楸だ。その顔に泥を塗るような本家など、ない方が今後の為。わしはそう思うがな」
しらばっくれたじじいがそう言い出したから、その場は混乱した。
本家あっての宝生組を信じているものには、じじいの言葉は受け入れられないことなのだ。だが、言っていることは間違っていない。
他の組からみれば、宝生楸が内部事情で仮の組長として立っていることはどうでもいい。彼らからすれば、宝生組と言えば、今や宝生楸の顔しか浮かばない。それどころか本家の存在が楸の足を引っ張り、楸が本格的に行動できていないだけと思っている。
宝生楸が宝生組の組長でなくなった方が、彼の力が発揮されると恐れている。
今回の本家の情報漏れを聞いた他の組の組長は、これは宝生楸の情報作戦ではないかと思っているところがある。楸が本家をさほど気にしていない様子やここまでだだ漏れ過ぎるのは、現在宝生組の情報が楸の管理下に置かれた現在あまり流れてこない状況では、疑いたくなるものだ。
「楸殿もそうお考えか?」
不安になった一人の老院がそう楸に尋ねてくるが、楸は。
「この俺に、本家をどうにかする力などないことはあなた方の方がご存じでしょう」
そう暢気に返すだけだ。
それに安堵した者が得意げに言い放った。
「そうだろう、本家は楸殿を仮の組長に認めただけなのだ。宝生組の顔などと言って勘違いされては困る」
「そうだな。宝生組は楸殿の私物ではないのだからな」
確かにその通りだが、彼らは勘違いしていることがある。
「俺に本家をどうにかする力はないので、本家から漏れた情報に関しては、あなた方の力で頑張って処理して貰いたいくらいの気持ちはある」
楸がそう言い切ると、老院の威勢の良かった老人が不思議そうな顔をしている。
「あなた方から漏れた情報で、月時響を何処かの組から差し出せと言われたなら、あなた方に表立って対応して貰いたいということだ」
「と、いうと?」
「あなた方が強引に身内として認めた存在だ。あなた方が守る義務がある。よもや儀式は単なる飾りだと言い切るつもりなら、それなりの対応が待っていることはお忘れなく」
楸がはっきりと告げると老院は自分たちの行いに今更ながら冷や汗を掻いた。
つまり、老院が勝手に儀式を持ち出し、楸のパートナーとして響を本家で認めておきながら、どこぞの組に響を差し出せと言われて、はいどうぞと差し出すような真似をするなら、本家の老院が身内を売ったという裏切り行為が成立することになる。
楸が差し出す差し出さないの話ではない。本家は絶対に響を差し出すことが出来ないのだと言っているのだ。
どんなに他の組と揉めようが、本家にはその裏切りが出来ない。自分たちでそういう風に響を位置づけてしまったのだから。
「俺は響に関して余計なことはしてくれるなと儀式の前に抗議をした。その事実を忘れてもらっては困る。宝生本家の身内として、あなた方が認めた。しかし何故、耀が響の情報を売った老院を降格させたのかまだ理解していなかったとは思わなかったがな」
耀が懐いている響の情報を売った老院を降格させたのは、自分の身内だと思っている響の情報だったからではないし、本家から漏れたからだけでもない。本家が身内として認めたものを売り渡そうとした裏切り行為を問題としているのだ。
「ヤクザの世界にて裏切りは死を意味する。降格くらいで済んだことは甘いくらいの処置だ。その温さに浸かっていようなどとあなた方が考えているなら、俺にも考えはある」
楸がそうはっきりと本家に対して言うのは初めてだ。
「この際なのではっきりと言っておく。俺は月時響のことに関しては個人で動くことにする。この考えに賛同するものは意外に多いから、宝生組が一部崩壊しようがどうでもいいと思っている。あなた方のお望みの耀でも組長にすればいい。だが、その耀から俺に対して攻撃があるなら、俺は耀が相手であっても容赦はしない」
つまり、今後響が何者かに誘拐されたり危害を加えられたりしたら、楸は今度こそ仮の組長という地位を捨てて行動すると言っているのだ。
その意味は、第二の九十九朱明の誕生を意味する。
楸が大人しく仮の組長に収まっているのは、本家に言われたからではなく、その時はそうするしかなかったからだ。
今、楸が立ち上げている会社は、宝生本家関係の名義ではなく、楸個人名義のものばかりだ。これは耀には受け継がれない会社で、本家とも関係がない。
楸は表立って、ヤクザ関係とは別に個人資産を持っている。その総資産はとっくに本家の持つものを越えている。楸は元々自分の給料分くらいしか宝生組から受け取っていない。宝生組の財産となるものはみな耀に流れているからだ。
楸がこう表立って本家に対する威嚇を見せるということは、楸にとって本家はもはや取るに足らない存在ということなのだ。更に宝生組も楸は潰せる力があるということだ。
「老院は昔から、楸殿を軽視する傾向にある。その理由が妾の子というだけ。それがそもそもの間違いだということに気がついてもよさそうなものなのに。どれもこれも本家、組があれば、楸殿はどうにでもなると勘違いしている」
じじいがそう呟きだしたので、一人が聞き返した。
「それはどういうことなのだ……?」
「つまり、楸殿は宝生の組長にならなくても、一人で宝生組など簡単に飲む見込むような組織を作り上げられるような人材だったという事実だ。楸殿の兄、榊殿が一番それを理解していたようだがな」
事実、楸は宝生組とは違った組織を持っている。
宝生と別組織を自在に操れるような人間であることは、じじいも知っている。
その片方を楸から奪ったところで、楸はまったく困らない。
今更宝生組を敵に回したとしても、楸は宝生のやり方をよく知っている。つまりそれを潰すのは簡単だということなのだ。
兄の榊は楸の力をちゃんと見抜いていた。楸が宝生から出て行けば、宝生は他の組に食われていただろうし、そうして弱体化した宝生を楸が数年で飲み込むような組織を作りあげて、そして決着はあっという間について、宝生は解体されていただろう。
「宝生など、当時の楸殿からすれば、赤子の手をひねるようなものだったろうな。何せ先代は死に、長男は不治の病、耀殿はまだ4歳になったばかり。どうしてこれが持ち直したのか、今まで誰も不思議に思わなかったのかい?」
「…………それは、楸殿の力だけでは」
「果たしてそうだろうか? 宝生はそんな酷い状態だったのに、他の組から何の抗争も受けなかった。ああ、こう考えればいい。楸殿がいなかったら、宝生など6年前に他の組に食われていたということだ。事実そうした事件があったではないか。なのに、お前達といえば、楸殿に感謝するどころかやることに文句ばかりつけている。はっきり言えば、我々がここでのさばっている状態など、あの時楸殿が攻防してくれなかったらあり得なかったことなのだよ。その楸殿に功績がない? お前達の目はどこまで節穴なのだ」
じじいがそう言い切ると、全員が黙った。
確かにあの時、楸が仮の組長になって耀の後見人になると言わなければ、今の宝生はなかっただろう。先代は死に、長男も同じく死の床、やっと生まれた耀はまだ4歳。これほど付け入りやすい組はなかっただろう。
あの時の楸は組長の跡目など継ぎたくはなかったし、その気も一切無かった。それでも長男の幹部たちは楸を恐れ、排除しようとした。
楸がとうとう宝生を去ろうとした時、それを引き留めたのは病に伏していた兄とその息子の耀の身の危険を感じた事件からだ。
あの時、宝生はまさに他の組に乗っ取られようとされていた。己の利益しか考えない老院からの卑怯な手によって。
まだ大学生だった楸は、響と出会ったことで大分人が変わったようになっていた。
父と会話することや兄や耀に対する反発、そして幹部からの執拗な暗殺計画の実行など、楸には心休まる日はなかった。だが、その大学最後の一年、楸は響に出会った。
ヤクザの妾の子という楸には友人という者がほとんどいなかったが、響は普通に接してくれた。そしてふて腐れていた楸に、自分の出来ることはやれと突っついて、己の将来について考えるようになった。
宝生の組が楸が必要ではないと言うなら、楸は黙って出て行くしかない。
別段、兄を嫌っていたわけでもなかった。幹部が兄に近づけないようにしていたので会話らしい会話は幼い頃しか記憶にない。
楸が響との間にあった友情を欲情から壊してしまった後、楸はある決意をした。
もうここに居る意味はない。そう判断した。
きっかけが失恋では情けないが、ここにいても自分の居場所はないと思えた。なら、響が言ったように自分に出来ることをしよう。宝生などという枠に収まるようなものではない何かを作ろうと思ったのだ。
父が死に、兄が跡目として組を継ぐことが本家から認められたのは葬式の後のことだ。 楸はずっと傍にいてくれた槙にこう言っていた。
「俺は、宝生から出ようと思う。兄が継いで耀がその後を継ぐ。俺の居場所はここにはないからな。だから俺は自分の居場所は自分で作ろうと思う。槙はどうする?」
そう楸が告げると、槙は意外な一言を言った。
「それもいいでしょう。沈みゆく船からはネズミでも逃げ出すのですし、あなたが見限るとおっしゃるなら私もお供させて貰いますよ」
槙の変な言葉に楸は首を傾げた。いくら兄が病床にあっても耀という後継者はいる。それに幹部や本家がついていれば、宝生は組として存続できるはずなのだ。
だが、槙は出来ないと言う。
「一度、私の好きなようにさせて貰えませんか? 楸様には、最後くらい榊様と会話する機会も必要です」
そうにっこりとした槙は、兄にこっそり会うことが出来る手はずはとっくに取っていた。
楸が出て行くと決めた夜、兄の部屋の裏口から内部手引きにより入った。寝ていたはずの兄は起きて待っていて、楸の顔を見ると微笑んで安堵していたようだ。
「お前がどこかで殺されているのではないかと不安でならなかった。いつ幹部がお前の遺体が見つかったと言い出すのかと思うと、私は死ぬに死ねなくてね」
兄は幹部とは考え方が違うようで、幹部の行きすぎた行為を止めようとしていたのだという。
「このところ、浅間の行動が度を超していて私でも押さえきれなくなってきたんだ。このままでは、宝生は浅間に食われる。残していく耀が心配でならない」
浅間という幹部は、6年前から兄の部下になり、幹部まで上り付けたやり手だ。楸の暗殺を考えているのも浅間だというのは、楸も知っている。だが、浅間がどうしてそこまでして楸を排除しようとしているのかは謎だった。
放って置いても楸は宝生とは関わりがないところで生きていくのにだ。
この辺は兄はどうしてなのかは知っているような顔をしていた。
「私の行動は浅間の部下によって制限させられている。今や私は組長の跡取りでも四代目でもなく、ただの飾りに過ぎないんだ。こうなるまで気がつかなかった私には、組長になる資格はない。いっそ、お前に譲ってしまいたい」
兄がそう言うのだが、楸は自分はもうここから出て行くことを決めたと言った。
その言葉を聞いて、兄は苦笑しただけだった。
「お前の居場所を奪ったのは、私だからな……つくづく私には人の上に立つ資格がないらしい。お前の決断は、とても正しい。お前がこのままここにいても浅間に食われた後もお前は浅間に狙われ続けることになる。浅間はどうしてもお前を葬りたいらしいから」
そう己の失態に落ち込む兄に楸はどうしたらいいのか分からなかった。
浅間が兄の命令で動いているのだと思っていたが、兄がこうして楸に会おうとしていた努力やそれに賛同するように動いている槙。この結びつきから導き出せるものは、兄の幹部である浅間の内部からの宝生乗っ取りだ。
槙はそれを知っていた。だから沈むゆく船という言葉を出したのだ。
「……槙、浅間の情報を持っているか?」
楸が槙にそう尋ねると槙は待ってましたとばかりに書類を出してきた。
「浅間国見は、6年前に宝生に入ったチンピラということでしたが、調べてみると面白いことになってますよ。浅間は8年前、宝生と対立する関東ヤクザ八羽組の最高幹部だったんです。本名は八弥国見(やや くにみ)」
「親父はそれに気付いてなかったのか?」
信じられない報告に楸が問うと、槙は首を横に振った。
「知ってましたよ。この情報は私が独自に調べたものではなく、組長の調査報告書ですから」
「分かってて内部に入れたのか?」
「はい。相手の最終的な目的がなんなのか、それが組長の知りたいことでした。けれど間に合いませんでしたが」
組長が入院した頃から浅間の行動は酷くなった。箝口令を敷いていたから、浅間の行動は組長にはあまり知らされていなかったようで、楸が命を狙われるまでになっているとは思っていなかったかもしれない。
浅間の本当の目的に気がついた時には、組長も動ける状態ではなかった。
「その報告は私も受けている」
兄がそう呟いたので、槙も驚いていたようだった。他に浅間の経歴や行動を不審がって調べる人間がいるとは思ってなかったらしい。
「もはや、宝生は食われるしかない状態なのだ。いつまでも宝生の天下というわけでもないから、食われるような状況を招いた私の落ち度。浅間に好き勝手許していたのは私自身だからね。だが、父はある程度は予想していたらしい」
兄が傍にいた看護婦に耀を呼びに行ってもらう。
だが、耀の傍には今浅間がいるはずだ。
ドカドカとやってくる足音、病床の兄に気を使うように浅間だけが耀に付き添って部屋に入ってくると、そこに居た楸と槙を見つけ、大声をあげようとした。
しかし、その口を封じたのは、耀のボディーガードである億伎(おき)だった。
億伎が浅間の口を封じているが、その隣にいた九猪(くい)が浅間の頭に銃を当てている。
「やっと役者が揃ったんですから、他人を呼び寄せるのは無粋ですよ、浅間さん」
九猪はそうにっこりと笑って言った。
「こんな状態で失礼します、楸様。なにぶん取り込んでまして」
冗談のように言う九猪だが、銃を握る手は本気だ。
「それから、情報屋の槙さん、初めましてですね」
九猪がそう言うと、槙は苦笑して言った。
「貴方の名前は方々から聞いてましたから、初めてという気分ではないですね」
どうやら槙と九猪は情報というモノを通じて、お互いに顔見知りのようなものだったらしい。
「父が浅間を内部に入れ、誰に付くのかを確認した後、父はどこからか九猪と億伎を拾ってきて生まれたばかりの耀のボディーガードに付けた。そしてお前には、槙がついた。これがどういう意味か分かるか? 楸」
兄の問いかけに楸は何となくではあるが、父が何を考えていたのか分かってきた。
「最初から、兄貴を囮に使って、浅間の目的を知ろうとした」
「お前でもそう結論が出せるのに、私はつい最近まで気がつかなかったよ」
楸がすぐに父の目的を知ったが、兄は自分が囮に使われていることに最近まで気がつかなかったのだという。それは先ほどから言っている兄が自分には組長は向いてないという結論に繋がる。己の父親が何を考えて行動しているのか読めない上に、自分の部下になった人間に好き勝手を許していた。楸が槙に好き勝手を許していたのとは訳が違う。
槙は父親に雇われて入り、父親の仕事を手伝っていたから、好き勝手していたわけではないのだ。
「槙、お前が普段やっていることは何だったんだ?」
楸が尋ねると槙は普段やっていることを正直に答えた。
「私が組長から与えられた使命は、楸様の教育係と、宝生組の内部情報の管理と情報収集です」
「その情報管理はどこまでの権限で行えた?」
「組長の最重要情報以外のモノは何でもです」
そう言われて楸はやっと分かってきた。槙は兄よりも楸よりも誰よりも組長に近い情報を持っていたことになる。そして父親は槙の情報管理の巧さから収集にも使い出していたというわけだ。
「九猪、お前はどこまでだ?」
槙の情報屋としての腕を認識している九猪もまた同じ目的だったかもしれない。
「私は槙さんほど信用されていたわけではないので。というのは、私の謙遜ですが。私は浅間にあまりに近い位置にいたので、情報管理は組長の第二段階開示までは見ることが出来ていました」
「第二段階でも浅間の情報は入ってたわけだな」
つまり他の組の最高幹部だった人間の情報は、それほど重要なものではなかったらしい。
「それに、耀さんは、槙さんと同じ権限まで与えられていましたから、私に権限は必要ではなかったということですね」
九猪がそう付け足すと、傍にいた耀が浅間を見上げてニヤッとして笑うと言った。
「僕が4歳だから何も考えてないと思ってる? 僕の教師は九猪だよ? 情報に関しての帝王学を1歳から学んでおけば、4歳でもかなりやれるんだよね」
普段の子供っぽさはどこへやら、しっかりとした口調で耀は言った。
その変貌に浅間は目を見開いていた。
「僕はパパを守る為なら、なんでもやれる。お前がしていたことは何でも把握してるよ」
組長は、兄を囮に使うことを決めた時、生まれたばかりの耀には二の舞はさせないように、徹底的に一人でも戦えるように育てる為に人を探した。
九猪と億伎はまだ大学を出たばかりであったが、裏の世界では情報屋と言われる九猪や武器の扱いや格闘に慣れている億伎のコンビを組長は見つけ出し目を付けた。
九猪には宝生の持っている影のいろんな情報は魅力的であったし、ヤクザ界とはいえ、宝生の情報収集能力が高いのは知っていたから、そこに入ることが出来るなら喜んでというところだった。億伎は非合法とはいえ、いろんな武器を扱えることが魅力だったらしい。バックに宝生が付いているのも今後に役立てそうだと思った二人は、耀のボディーガードという役割を喜んで受けた。
影で利害が一致したのは槙も同じだ。
そして組長は自分が死ぬと分かり、浅間の行動がおかしくなった辺りから、槙や九猪、億伎に行動を開始するように言いつけたらしい。
「組長がずっと不審がっていた、浅間を内部に引き込んだ相手ですが、本家の老院の方でした。その方はどうやら本家での権力を上げたいが為に、浅間と八羽組と組んで、宝生を乗っ取ろうと考えたようですね」
槙が自分が集めた情報を報告するようにしゃべり出すと、浅間の首を横に振っている。関係ないと言いたいらしいが、槙は気にせず報告を続ける。
「まあ、そうでしょうね。浅間の役割は楸様を暗殺するまでのようでしたし」
槙が簡単に浅間が知らないと言うことは認めながらも衝撃的な一言を漏らした。
「どういうことだ?」
楸が尋ねると槙は九猪に尋ねた。
「最近、浅間の傍にいる大山という人物が幹部候補にあがってませんか?」
さすがに浅間が勝手に決めている幹部候補までは情報には載ってないので尋ねたのだ。
「ああ、少しやる気のなさそうな態度なのに、重要なことを浅間に吹き込んでいる大山ねえ。近々幹部に昇進予定です。あれが国分ですか」
やっと納得したように九猪が言うと、槙は満足したように頷いた。
「国分もまた八羽組の者です。浅間のように血の気のあるタイプではなく、静かに傍観しているようなタイプですが、実質彼が宝生を乗っ取る予定だったようです」
槙が出した情報で楸も分かってきた。
八羽組と老院の計画は内部から徐々に危険物を排除し、耀を自在に操れる人間を送り込むことだ。いくら浅間が血の気があって、楸を殺したとしても、妾の子とはいえ宝生の血筋である。それを暗殺するような輩にいつまでも幹部にいて貰っては困るし、のちのち邪魔になる。
「つまり、浅間は俺の暗殺の為に内部に送り込まれたもので、その後、浅間経由でちゃんとした乗っ取りが入り込みやすい状況を作っていたわけか。浅間のやりようでは、俺の暗殺に成功したとしても他の組員から白い目で見られるし、そんな危険人物を後継者の耀の傍に置いておくのは危険だ。今は九猪(くい)や億伎(おき)がボディガードについて耀を教育しているが、耀を洗脳するには、浅間より、その大山だか国分のタイプの方が向いているな」
楸が本家のやりそうなことだと言うと九猪が笑いながら言った。
「組長が亡くなってから、本家のある方から再三、私たちに宝生から出て行けという勧告を受けているんですよね。どうやら乗っ取りはこれからのようですよ」
「そのある方が首謀者だと名乗り出てくれたわけか……馬鹿だな」
呆れたように楸が言うと、九猪も苦笑している。
本家から組長が選んで付けたボディーガードを外せと指示してくるのは、九猪や億伎にいて貰っては困る人間がするものだ。そのポジションに国分をつけなければならないから勧告を出してきた。しかしそれは自分が首謀者ですと名乗り出たのと同じことだ。
「組長は本家の誰かがこれに関与しているとは思っていたようですが、誰かまでは割り出せなかった。そこで九猪さんや億伎さんを異例の抜擢をすることで、あぶり出そうと考えたようです。現状で九猪さんや億伎さんに不満を漏らすような輩は怪しぎますし、いずれ排除に出てくると読んでいたと私は思います」
槙は九猪や億伎を高く買っているので、不満を漏らすような輩は絶対に浅間に繋がっていると思って調査をしていた。しかし、相手も尻尾を出さないので、今まで様子をみていたのだという。
「そういうことで、浅間の行動は最初から組長にバレていたということなんだ。大山にしろ、槙や九猪の調査で八羽組との関連性も証拠もあがってきている。これで言い逃れが出来るなら、浅間、してみろ」
兄がそう言い切ると、億伎が浅間の口から手を離した。
弁明はさせてやろうというわけだ。
「……わ、私には身に覚えのないことで……た、確かに私は八羽組にいましたが、破門されて、宝生組長に拾っていただいただけです……そんな老院がなんて……」
「では、楸の暗殺計画についての言い訳も聞いてみようか?」
兄が詰め寄ると、浅間は言った。
「榊様の地位が危険になるからです。楸様のなさりようは問題児として組内でも有名です。宝生の組にいながら組に関心がないのも問題だ。そんな危険人物を生かしていく必要はないはずです」
「私が病で倒れ、耀がまだ4歳。組長も亡くなり、宝生は不安定だ。この状況で楸を葬るということは、宝生組の母体そのものを揺るがすものだと普通なら把握出来るはずだ。普通なら、耀の後継人として楸を立てるのが筋、何故それが出来ないと言い張る? それはお前が楸の能力を恐れているからだろう? 楸が組長代理になり組を仕切るようになれば、お前の素性も計画も全て無駄になる。それどころか、お前は真っ先に楸に排除される立場だ」
「……いやしかし……そうではなく」
「いいや、お前は最初から楸を恐れていた。どうしたって楸をお前ごときでは操り切れる自信がなかったからだろう? お前と楸の能力は天と地ほどの違いがあった。お前は楸を見た瞬間から、そのコンプレックス故に、暗殺まで企てた。私の方を操る方が簡単だったろうし、耀もまだ子供だ。その補佐に楸に入られるのはプライドが許せない。だが、私を操る上である問題が出てきた。それは……」
兄がそこまで言って言葉に詰ると、それを受け継いで楸と耀が言った。
「秋子を殺したのは、お前なんだな」
「ママを殺したのは、お前なんだな」
二人がその事実を口にした瞬間、浅間は大声を上げて庭に逃げ出した。
「うわぁぁぁぁ、た、助けてくれ! だ、誰か!」
その後を追うように億伎が飛び出し、庭の中央で浅間を押さえつけた。
転がったところに背中を億伎に踏まれて、浅間は手足をバタバタさせて暴れるが、全身の重みを片足にかけているので浅間は逃げることが出来なかった。
「九猪、それを貸せ」
楸がそう言って手を出すと、九猪は握っていた銃を楸に差し出した。
銃を受け取って楸は億伎が押さえつけている浅間の傍に行った。
騒ぎは屋敷中に響いて聞こえていて、周りは異常事態かと駆けつけてきていたが、庭に立っている二人と押さえつけられている浅間の様子から別の異常を感じて近づけなかった。
楸が完全に本気で怒っていたからだ。
「槙、秋子の事故の詳細を話せ!」
楸がそう命じると、槙はすらすらと答えた。
「秋子様の乗っていた車のブレーキオイル漏れが原因による事故。ですが、警察はヤクザ関係者だと分かったとたん、大した調査もせずに事故と片付けた。組長は疑いをぬぐい去れず、独自に調査をし直した結果、ブレーキオイルは漏れではなく、最初から抜かれていたと判明したようです」
「つまり、秋子の事故もこいつらが仕込んだ計画の一つだったわけか。いや? あれは本家からの帰りだ。浅間と本家の老院の一人が、耀を産んで邪魔になった秋子を車の事故で葬ったというわけか……大体おかしいと思っていたんだ。ボディーガードがいるのに秋子が助手席に乗っていたこと。秋子は用心深い女だった、そんな女が狙撃される危険を犯してまで助手席に乗るはずがない。それに秋子は浅間のことを嫌っていた。あれでもヤクザの女だから、独自の調査はしていたはずだ。そこで本家の老院との繋がりの可能性が出た。本家に行ったのは、浅間との繋がりがある本家の老院に忠告をしに行ったんだな? 秋子は兄や耀を守るためならなんでもやるような女だったからな。それで計画がバレかけ、組長に報告されることを恐れたお前らは本格的に秋子が邪魔になり、その帰り道で事故を偽装し殺した」
楸がそう言い切ると、周りが騒然となった。
秋子は兄、榊とは小さい頃から婚約者として宝生に出入りしていた。のんびりした兄とは違い、秋子は活発で頭脳明晰な人で、組長はかなり気に入っていた。気弱な兄にはこういう女性がいれば宝生も安泰だと。
そんな秋子は妾の子の楸にもよくしてくれた。
大学へ行くように勧めてくれたのも秋子だ。今時頭の悪いヤクザは使い物にならないと笑ってそう言っていた。兄は病気で通えないから余計にそうして欲しかったらしい。
最後に秋子に会ったのは、一年前。裏庭から忍び込んできた秋子が、浅間の行動を不審がっていて、浅間の調査をしてみると言っていた。その数日後、秋子は事故で死んだ。
最初は事故なら仕方ないと思っていたが、調査報告を聞いて楸は秋子は殺されたのだと思った。その直後から楸は兄の幹部の部下たちに命を狙われるようになった。
このままここにいれば、自分も問答無用で殺される。
頼みの組長はもはや自分を守ってはくれないと思っていた。戦うにしても宝生内にいたのでは戦えない。だから家を出ようとした。
だが、生き残る為に逃げるのは正しくない。生き残る為には目の前にある障害を自分のちからで壊すしかないのだ。
「い、いや、わ、私じゃない! あれは私じゃない!」
慌てたように浅間が叫びながら言う。
「それじゃ誰だって言うんだ? 正直に答えたら命くらいは助けてやってもいい」
高圧的で本物のヤクザの貫禄を全身に浴びて、抵抗できるものはいないだろう。そして本気の楸を浅間は何よりも恐れていた。効果は十分にあった。
「お、大山が! 大山が勝手にやったんだ!」
浅間がそう叫ぶと、そこに居た大山が逃げようとした。
だが、すぐに振り返った楸が、逃げている大山に向って発砲した。
「うああ!」
大山は太ももを撃ち抜かれ、その場に倒れ込んだ。足を押さえてのたうち回っているのを周りが恐れおののいて見ている。しかし誰も助けようとはしていない。
今少しでも動けば、楸が構えている銃に狙われる。そう思ったからだ。
倒れて押さえつけられている浅間からも大山の様子は見て取れた。
「なあ、俺がどうして素手でお前らの相手をしていたのか、理解できるか?」
「ひ、ひぃぃ」
「俺はな、獲物を持つと問答無用で向ってくる相手を撃ち殺してしまうからなんだ」
楸がそう言い切ると、槙がそれに補足するように言う。
「楸様の命中率はいつでも100%です。大山の足を狙ったのも口を割らせる為。さすがに頭狙われたら死んでしまいますからね」
槙は言いながらのたうち回っている大山に近づいて、彼を押さえつけ後ろ手に縛る。猿ぐつわをさせて自害させないようにしたが、これは蛇足だ。大山が自害する気があったのなら、逃げるのではなく、まず楸を狙って銃で撃ってただろう。
だが、これで大山は逃げられない。
そうした時、一人の組員が動いた。懐にある銃を取り出そうとしたのだろうが、その腕を入れたところで楸がその組員の頭を撃ち抜いた。
だが、楸は浅間の方を向いたままで、後ろにいた人間を撃ったのである。
倒れる組員を確かめるように楸が振り向くと、倒れた組員の傍に立っていた他の組員が硬直したまま動けなくなっていた。
「動くなよ。今、この場で懐に手を突っ込むなんて馬鹿な真似をするヤツは、悪いが浅間や大山の仲間だと判断する」
楸が言い切ると、組員はその場から一歩も動けなくなった。
撃たれた組員を見ると、確かに彼は懐に手を入れたまま倒れている。それを楸は後ろを向いていたのにちゃんと把握し、振り向かずに頭を狙って一発で仕留めた。
楸がここまで本気で組員に向ったことはないし、彼の銃の腕は確かなのは今見て分かったし、彼が何に怒っているのかも話の流れから分かっている。
浅間や大山は、榊の妻を殺した罪を楸に問われているのだ。
「ひぃぃ」
浅間はすっかり怯えてしまい、銃で脅す必要もなくなった。
億伎から逃げられない上に、自害する勇気もない輩だ。
楸は組員の方を振り返り、睨み付けると言った。
「浅間は榊の妻秋子を殺した。大山、そして老院の一人と組んで宝生を乗っ取ろうと企んでいた。亡くなった組長は前々から浅間の動きを不審に思い、調査を行っていた。今日、その事実が明らかになったので、処分することを決定した。浅間や大山の口利きで組に入ったものは逃げるか出頭するかどちらかにしろ。どっちにしろ、俺はここいる全員の顔を覚えているから、逃げても無駄だと言っておく。特に俺を暗殺しようとした奴ら、みんな顔は覚えているから覚悟しておけ」
楸がそう睨み付けて言い放つと、組員は呆気にとられた顔になった者や、口利きで入った者が崩れ落ちる様や、長年宝生に居る者は、亡くなった組長とそっくりな楸に恐れおののいた。
組長とはこういうものだ。そう思ったのだ。武闘派を名乗る組の組長にふさわしいのは、楸の方だった。
「それから抜けた浅間の変わりに俺は兄榊の補佐に入る。兄貴、異存はないな?」
楸がそう告げると、布団から起き出してきた兄が苦笑して言った。
これこそ兄、榊が望んでいた結果だ。
自分は組長にふさわしくない、だからふさわしい楸に譲るべきなのだ。
楸を引き留め、槙と結託して、宝生の乗っ取りの事実を伝えたのは、今こそ宝生には楸こそが必要だったからだ。その思惑はうまくいった。楸自身から宝生に残ると言わせられたのは十分な成果だ。
「異存はない。それどころか、私の変わりに耀の後継人として、宝生組の仮の組長とする。私よりよほど武闘派宝生に似合った組長になってくれるだろう。耀、異存はないな?」
兄がそう耀に問うと耀も言った。
「楸叔父さんなら、不満なんてない」
耀がそう言って笑って、その場はやっと緊張から解き放たれた。
先代が用意した槙や九猪、そして億伎という外部の人間は、楸や耀を守ってくれ、攻撃に転じる為の重要な人間であった。
浅間と大山はさっそく楸本人から尋問をされ、洗いざらい犯行を自供した。
その結果を持って、楸は密かに八羽組の組長を闇に葬った。
この仮の組長であろうとも、組長の交代劇には老院も文句を言ったが、槙や九猪が用意し、亡くなった組長が調べ上げた浅間や大山と老院の一人の計画が明るみに出たことで、老院はこの組長交代劇に強く文句を言える立場ではなかった。
それに楸は耀が組長としてきちんと立てるまでの代理であり、自分は子供を産むような女とは付き合わないことを誓約書に書いてしまった。宝生の母体から揺るがされそうになった事件を楸が解決し、宝生組をまとめだしていて、本家は楸の存在を認めないわけにはいかなかった。他に宝生の組長を名乗れる人間は宝生の直系にはいなかったからだ。
そして兄榊は自分の役目や、耀の処遇、そして楸の安全を確保したことを確認すると安堵したように、父の死から一ヶ月後、静かに亡くなった。彼はずっと家族の安否を気にし、妻である秋子の死の真相を知りたがっていたから、それを知れて敵を打てたことは彼としては満足であっただろう。だから死に顔は安らかであった。
あれから6年、宝生は九十九に攻撃を受けるまで、楸が守りきった。
この事件を老院はたった6年で忘れたかのように、自分の地位や金が目的で動き出し、結果、九十九に付け入るきっかけを与えたことになる。
さすがに二回目ともなると、楸が老院を信用しないのは当然のことなのだ。
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