寧野(しずの)が留守にしていた家に戻ったのは、朝早くだった。ちょうどアパートの前まで送ってもらってから敷地内に入ると、一階に住んでいる同じ高校から同じ大学へ進級してきたという茅切英太郎(かやきり えいたろう)とすれ違った。小さな声でおはようございますと言われて、寧野は慌てて返答した。
あの人と同じ高校だったと櫂谷に言われるまで寧野は、そんな人いたっけ?と首を傾げたくらいに接点がない人だった。大学は同じであるけれど学部は違うようで、またもや接点が一切ない状態だ。だからなのか挨拶くらいしかしない。
その人を見送ってから階段を上がっていくと隣の部屋のドアが開いた。
「織部くん、昨日部屋に居た?」
アパートの二階、寧野の隣の部屋に済んでいる水品密(みずしな ひそか)が、寧野が階段を上がってきた音を聞いたのか、部屋の前を通った時にドアをあけて尋ねてきた。
「え? いえ、昨日は友達のところに」
「そうなの? でもなんか凄い音がしたよ? 部屋の掃除にしては大きかったし、ちょっと気になって」
水品は昨夜は寧野が帰っていないのを知っていた。
普段バイトには行っているが、ちゃんと深夜には帰ってきているし、物音で居るのかいないのかは解ってしまう。だが昨日は深夜には戻らなかったが、その深夜を過ぎた辺りから隣で何か掃除でもしているようなモノを動かす音が聞こえた。
階段を上がり下りする音は聞こえなかったのに、隣でする微妙な音。
おかしいと思い隣を覗こうと窓を開けてみたら電気は付いてなかった。そんな暗い中で音がするのはおかしいと思い、泥棒でもいたのかと考えてわざと物音を立てて居るのかいないのか聞いてみたという。
しかし寧野はいなくて、物音もそれ以降音はなく止まってしまったという。
おかしな話だが、錯覚とは思えなかったので一応何かあっては困ると水品は報告してくれたのだ。
「ありがとうございます」
寧野は礼を言って部屋の鍵をあけてみる。
部屋の中を覗くと、出て行った時のままなんかではなく、あちこち荒らした後が残っていた。どうやら水品に気付かれたところで捜索をやめて逃げたのだろう。探し方も中途半端だった。
「やっぱり泥棒?」
ひょこっと覗き込んできた水品は部屋が荒らされているのに気付いてそう聞いてきたが、寧野は頷いてから警察は呼ばないと決めた。
部屋中を調べてみたが貴重品類はここにはないので、盗めるはずはなかったし、貴重品と呼べるほどの高級品はないので、物色するだけ無駄だと諦めたように見せてはいたが、彼らが知りたがっている情報がなんなのかすぐに解ってしまった。
昨日の揺動作戦なのかその成果はこそ泥をして、寧野が金糸雀であるのかどうかを調べたかったらしい。寧野は現在父親が残した遺産などで暮らしている。だから必要以上に金銭をほしがったわけでもなかったし、バイト代が入るおかげで食費や雑貨などが浮いていて、ほとんど手を付けてない。
学生が住んでいるようなアパートだったし、それほど値段がかかるような場所でもない。狙うなら近くにあるマンションを狙った方がもっと金目のものがありそうだと判断するだろう。それに夜中に入って荒らしただけとなるともう確実にただの泥棒なわけがない。
「泥棒じゃないんですが、少し訳ありな知り合いがいてそれで」
寧野が困った顔をして周りにあるモノを片付けていると、水品はキョトンとした顔をしていた。
いくら訳ありな知り合いがいるとはいえ、やることの限度というものがあるだろう。しかし、意味ありげに言われると誰も突っ込めなくなる。近所の井戸端会議が好きなおばさん連中以外はだ。
なので水品もこの事件のことには突っ込んで聞いてはこなかった。寧野が片付けている後ろ姿を暫く見ていたが、ドアをゆっくり閉めながらお大事にと言って部屋に戻ってしまった。
静かになった部屋から水品の部屋の生活音が聞こえてくる。水品の部屋には客人がいたらしく、隣は大丈夫だったかと言っているような声が聞こえてきた。やはりよほど変な音だったらしく隣人の友人までもが奇妙な感覚を覚えて報告するように言ってくれたらしい。
もう少し静かにやってくれないものかと寧野は思ったがこの状態を報告しなければならないだろう。さっき別れたばかりの香椎(かしい)にまず連絡を入れた。香椎はものの1分で到着してくれて部屋の中を確認してくれる。
「待ってくれ。このまま触っていないな?」
「入り口の方だけ触ったけど奥は触ってないよ」
「よし」
香椎はそれで納得すると何処かへ連絡をしている。
一体何をするのかと思っていると、作業着を着た人間が数人やってきて寧野の部屋の中をまるで鑑識捜査でもしているかのように指紋を採ったりしている。香椎の知り合いに警察の人間でもいるのか思ったが、香椎の父親は九州でヤクザをしている人間であることは転校してきた時に聞いていた。
香椎北斗はその父親の関係で、地元ではまともに学校へ通えなかった。 学校側が受け入れてくれないのもあり、高校も途中でいざこざに巻き込まれて転校する羽目になったと言っていたのだ。本人はさほど気にした様子はなかったけれど、寧野は自分も少しまえまでそうだったことを告げて、親しくなったのを思い出したが、もしかしなくても香椎の環境と寧野の環境は天と地ほどの違いがあったのかもしれないと、この時になって初めて思ったわけだ。
だが香椎が何かしたわけではなかったし、怖くもなかったので寧野は特に何か質問をするわけでもなく、作業が終わるまでじっと待っていた。
そうして作業が終わったのは一時間くらいで香椎は何か頼むと作業着姿の人間は静かに去っていった。
それを見送って寧野は香椎の話を聞くことになった。
「まず、さっきのは警察の鑑識と同じようなことをしてくれる。知り合いに頼めば、誰かにヒットするかもしれないんでやってみるということを理解して欲しい」
その言葉に寧野は頷く。それは当初自分がそう思った通りのことをしようとしてくれているだけで、納得は出来たし、香椎にはその力があるということになる。
それは気にしないし、今更尋ねたりはしないが寧野は一点だけを質問した。
「そんなことをして香椎の家は大丈夫なのか?」
そうこの件にはただでさえ大きな組織が絡んでいる。
香椎のところがどれほどの大きさの組織なのかは知らないままだが、宝生と事を構えるようなことにはなってほしくなかったのだ。
それについて香椎はそんなことを心配していたのかと呆れた顔をしていた。そう言われても気になることはと改まって聞かれればそれしか思い付かなかったのだ。
「織部が抜けていることは知っていたけど、まさかそこまでだとは思わなかったな」
香椎がそう言うので寧野はムッとする。
「仕方ないじゃないか。気になるところは沢山あったけど、聞くことでもないと判断しちゃったし」
「しちゃったし?」
「そのうち必要になったら香椎は話してくれると信じてるから」
寧野がそう言うと、香椎は驚いたように目を見開いたが、その後ふっと笑った。珍しく優しい顔だった、この顔を見たは高校の時に話しかけて以来かもしれない。
「お前はいい奴だな」
香椎はそう言った後、寧野に聞いた。
「この事件が終わったら、俺と付き合ってみないか?」
真剣な声に寧野は瞬時に反応できなかった。そこまで真剣になる香椎が冗談でそれを言っているわけではないことを知っていたからだ。
けれど、答えはすぐに出た。
「……ごめん。香椎とはそういうこと考えたことない……」
友情を壊したくないからそう言ったわけではなく、そういう意味で香椎を求めたことはなかったからという素直な答えだ。
こういう誘いを断るとき、ずっと寧野の心の中に居座っているとても繊細な人がいるのを思い出す。
思い出は美化されて、きっと現実を知った時にショックを勝手に受けるだろう相手。
宝生耀が、幼さが残る姿のまま居るのだ。
その彼を追い出して他の誰かと何度か考えたけれど、どうしてもあの寂しそうにしていた目を忘れることが出来なかった。
甘ったれて育ったような顔をしていて、その次に見せる姿は頼りになる大人の背中だった。どうしてたった一歳しか違わないのに、こうも違った育ち方になるのかなんて、くだらないことも沢山考えた。
寧野が東京で高校二年の間、ずっと宝生耀が視界に入って、自然に目で追っていた。告白されて有頂天ではなかったが、人間的に関わってはいけないのに、人間的に興味がわいた初めての人だった。
だから強烈に残っている。あの雫が一つ落ちた瞳。
――――――綺麗だと思った。その瞬間がしっかりと焼き付いていた。
「あ、今誰か思い出しただろ?」
香椎に突っ込まれて、図星だったので寧野は顔を真っ赤にした。
「え、いや、あの」
手を胸の前で何度も振って違うのだと誤魔化そうとしたが、香椎はクスリと笑った。
「誤魔化さなくていい、織部に気になる人がいるのは前から知ってた。ただその人と会ってる様子もないし、てっきりこっちに居る相手かと思ったけど、最近も全然会ってなさそうだから、ちょっと脈あるかなと思っただけだ」
どうやら、寧野の様子から耀という人物が心の中にいることはバレているらしい。
その寧野はバレていることを今更バラされて、顔を真っ赤にした上に動揺して、頭の中が熱で沸騰したように何を言ったらいいのか適切な言語が選べなかった。
「えっと、あの、でもね」
慌てている寧野を見て苦笑するだけの香椎は相手の名やどういう人物なのかは尋ねてはこなかった。ここではよくある相手は誰だ、とか知っている人だったら自分より劣っていないかと調べたりはすることもある。
負けていると認めることが出来ない、またはプライドが許せない人間もいるのだろう。
だが香椎は寧野の様子から寧野が相手を忘れてというのは無理なのだろうと思えたのだ。
その相手は香椎が寧野に出会う前から、寧野の心の中に住み、寧野をあらゆる意味で助けてきた相手なのだ。何もしてないからとか、助けてもくれない相手と罵るのは無理なのだ。寧野がそれでいいと望んでいる以上、相手との接触が如何に困難か寧野が知っていることになる。
それに相手がどんな人間であっても、寧野の思う相手を罵る結果になれば、寧野本人を否定することにもなってしまう。
寧野は別に恋愛感情でその人のことを思っているわけではないが、それ以上の壮大な想いをつぎ込んでいるのだ。そんなの側で何年も見ていれば解ることだ。
寧野がほんとにその人を思い出す時だけ、見たこともない優しい表情をすることを。
「まあ、いずれはっきりとした答えも出るだろうし、それは置いておいて」
香椎はそう言って返事はされたが、もし寧野が想う相手が寧野が想うような人物じゃなかったとき、香椎は受け皿になれればそれでもいいと思えた。
――――――相手が、あの宝生組、跡目の宝生耀である以上、寧野はきっと傷つく結果になる。
昔より強くはなっただろうけど、思い出には弱そうだから。
その受け皿が必要だと香椎は思えたのだ。
寧野の部屋が荒らされて解った結果は、彼らが知りたかったのは寧野の生活態度と、能力を使って儲けていないかということだったようだ。
しかし寧野はその力を使っていないので、彼らも早々に引き上げたらしい。そういうことしか解らなかった。
しかし、何故彼らがそう回りくどいことになっているのかは、その裏を知るものしかわかり得ないことだった。
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