Howling
12
織部寧野(おりべ しずの)は覚悟を決めた瞬間から、逃げられないことを悟り、戦うことを自分の中に常に最優先としていた。
久しぶりに戻って来た東京は、何も変わっていなかった。
大きな街、ビルに次ぐビル。そして避難していた場所とは違った空の曇りと、空気の悪さ。1分間に一回は来る電車、そして押し寄せる人の波、人人人。しかしその誰とも繋がってなどいないとはっきり解る。
ここに戻って来た理由はただ一つだが、寧野はあらゆる手を使って、現状を調べようとした。
「織部、今日大丈夫か?」
「あ、香椎(かしい)。大丈夫だよ」
高校で同じクラスだった香椎北斗(かしい ほくと)は、大学でも同じ大学で同じ学部だった。経済学部を選んだ理由は、やはり寧野の中にある数字を扱うのが得意というのがある。こういうのは父親が使っていた力と関係はしているが、基本的には違う。
ちゃんと勉強して数字に強いことを示せれば、力のことは言わなくても通る世界だ。この世界にはちゃんと数字に強くて勝ち続けている人間も存在する。
そうした世界の方が、すごく気が楽であることに気付いた。避けて無駄な努力をするよりはよほどいい。
そしてここを選んだ理由が一応の社会に出た後も考えていたが、何より、あの貉を釣るのにも役に立ちそうな気がした。勉強したことを使って寧野が運がいいことを見せつけておき、勘違いさせるつもりだった。
その仕掛けを用意してくれたのは、榧たちである。その中には櫂谷や香椎も含まれていた。そして榧の孫たちもその手助けをしてくれた。
寧野はすぐに自分を囮にする方法を選ぼうとしたが、それには全員が反対した。貉という組織について何か情報が得られれば、他にも何かやりようがあるはずだと言われて、寧野は身の回りのことは榧たちに任せた。
榧希(かや のぞむ)は、今こそ無差別な武術の師範だが、その昔、ある組織の中でそうしたことを教えていた人間だった。60になろうという榧がそこを抜けたのは、子供が交通事故で死に、孫を引き取ってからだった。
東京で長く道場をやっていた関係で、知り合いやその筋の人間とはまだ繋がりがある。60も過ぎると世間話をしながら、今の東京の様子も知ることは出来たし、それを寧野に紹介することも出来た。
その繋ぎに別の大学へ行っている櫂谷(かいたに)が担当になった。櫂谷が別の大学になったのは、偏差値が足りなかったせいと櫂谷が習いたい授業がそこにあったからだが、それなのに寧野のことも優先してくれていた。
まだ大学に入ったばかりだったし、この騒動がそう何年も続くはずはないと誰もが思っていた。勝負が付く時はきっと一瞬だ。動き出したら急速に進み、そして終わる時は花火のように呆気なく終わる。そんな気がするのだ。
「バイト順調?」
「うん、一緒にバイトしてる子が親切にしてくれるから」
「そうか、よかったな」
香椎はほっとしたように笑う。
東京に出てくるまでの寧野は思い詰めた様子だったから、何をするのか解らなくて目が離せなかった。自宅を別に用意したのも心配だったが、寧野はちゃんと生活をしている。自暴自棄にならないだけマシな方だと思っていたが、寧野はかなり落ち着いていた。
寧野が街を出て、東京に来るととたんに周りの環境が変わった以上のことが起こっている。まず、寧野は誰かに監視されていた。それも一人や二人ではなかった。
敵なのか味方なのか。全部が敵なのか。それすら解らない状態だ。
それでもそのプレッシャーに寧野は負けていなかった。
榧(かや)のところで精神を落ち着かせる修行をしていたからなのか、寧野は普段見せない落ち着き方を見せていた。
東京に来てまず顔を合わせたのは、榧の知り合いだという音琴(ねこと)という居酒屋のオーナーだった。オーナーは表の顔は居酒屋のマスターであるが、裏の顔はそれこそ地元のヤクザとも張る情報屋だった。
しかし顔を合わせた瞬間。
「バイトしていかない? 暇な時でいいからお願い!」
とすがりつかれて懇願された。
「え、あの……」
何か話が違うと寧野は思って慌てたが、その後マスター根方伸生(ねかた のぶお)は寧野に言った。
「君がここに来ることは貉も知ってる。君がこうして訪ねてくることはバレている。その上で君はここまで監視されていた。さて、ここでバイトなしで店を去ると、君が何かしらの情報を得ようとしたと彼らに悟られることになる」
「――え?」
急に声色まで変わった根方オーナーの言葉に寧野はギョッとしたものだ。
あれこそ二重人格と言ってもいいのではないかという態度だった。
抱きついてバイトをせがむのは、普通のいいマスターで、情報がどうたらという根方はその筋の人間ぽかったのだ。一瞬驚いて手が出そうだったが引っ込めた。
「うん、ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけど、どうしても気になって。だからバイトしようよ」
真剣にバイトが欲しいようで、何度もバイトバイト言うので仕方なく寧野はそれに応じた。すると履歴書を勝手に作られ(経歴などなしで、名前と住所と電話番号と大学だけ書いた程度)話がやっと進んだ。
寧野が頼んだ貉については、有名ではあるが害がないことから調べていないところが多く、調べ直すと言われて後日受け取ることにした。そのバイトに行くことにしたことを報告すると、櫂谷と香椎の二人が送り迎えをすると言い張りだした。
「お前、いくら強くても武器を持ってたら一人じゃ辛いぞ、せめてもう一人くらい」
「そうそう、絶対一人より二人だ」
二人でそう言ってくるのだが。
「いや、二人のどちらが居ても強そうだけど……」
当初の目的と違うことになってしまうと寧野が言うのだが、それでもまだ準備は出来ていない。ここで暢気にバイトをしていていいのだろうかと思い、思わず囮になる作戦を立てた方が早いのではないかと持ちかけようとするも。
「駄目だ、それはもう少し後のことだ」
二人に同時に言われて寧野は仕方なく二人の心配性の護衛というモノを受け入れることになっってしまったのである。
そうして始まった東京での大学生活は至って普通だった。
授業を受けて、香椎や時々櫂谷が知り合った大学での友人という少し怪しいことをしている人間を何人か紹介して貰った。
根方から貰う情報は本筋のものであるが、学生がする裏情報というのがあるらしい。そこに出入りしていたのは香椎(かしい)で、そこから何か情報が上がってきたようだった。
学生を巻き込むのはどうかと思ったが、その学生もただ者ではないらしく、その筋では有名なのだそうで、情報を貰うことはやましいことではないらしい。
そう説得はされたが、一応拙くなったら手を引くようにとは言ってあった。
その部室は普段学生が来ない、講義棟からずっと離れた裏門に近い場所にある。周りは取り壊し予定にしてあるけれど、まだ中にある実験室などの新棟の設備が整わないのもあり、取り壊すのは寧野たちが卒業してからになるのではと言われている実験室などが多くある二階建ての建物だ。内部は壁に塗られていたモノが剥がれ落ちていて、鉄の手すりは握る方が危ないほどペンキが剥がれている。階段はコンクリートであるが、滑り止めであったゴムもすり減っていて滑り止めという役目をとっくに終えていた。
実験室は大抵一階に用意されていて、二階は教授たちの資料室などが多かったが、ほどんどは新棟に移ってしまったので、空いている部屋がいくつも並んでいる。
教授の部屋だった場所には使い古されたソファや棚、机と便利でまだ使えそうなものが沢山そのまま残っている。新棟には新品のモノが用意されていたのでここのモノは捨てる為に置いてある。
その全てを拝借して部室にしてしまう人間はそれほど多くないのだという。
まず許可が出ない。遊びのための部室として研究室や実験室のある場所を関係者以外が出入りするのは好ましくないとされていた。しかしその決まりもほとんどの研究室が移ってしまうと、規制も緩くなった。
パソコンなどを持ち込んだ、遊びではなく、ちゃんとした情報処理という部活であるので、部活動は認められ、この場所も提供されていた。
部活は基本的には学生の情報収集と時々出すアンケート集計などを学校内で見られるホームページに掲載している。あまり意味がなさそうであるが、例えば「最近よく飲みに行ったお勧めの店」など学生が日常的に合コンやコンパで使うようなネタを扱ったものをアンケートして集計し掲載しているので、結構見ている学生も多いし、講師も話題にしたくて見ているようだった。
そんな部が出来たのは一年前のことで、その一年後にはすでに認知された存在だった。
だがこの部、通称は「情報屋」であるが、本当の名は実は誰も知らないといういい加減な部分を持つ。
そこに香椎が出入りしているのは、香椎が寧野たちのいる学校に転入する前に世話になっていた先輩がいて、その先輩がこの部を立ち上げたからだという。
偶然、構内で出会って、あれこれ話しているうちにいつの間にか情報を貰うことになってしまったのだ。寧野もあの先輩の話術は何だったのかと未だに思っている出来事だ。
部屋に香椎と入ると、応接用のソファで人が寝ていた。一人二人と死んだように寝ている。その向こうにある教授の机と椅子には、漫画を読んでいる学生がいる。しかも丸坊主なのにスーツを着るという奇妙な格好である。
「おー、香椎かー。犬束(いぬづか)なら奥だぞ」
漫画を読んでいるのがこの部の部長で、いつきてもここにいる道橋勘介(みちはし かんすけ)という名の人物だ。常に入り口で漫画を読んでるだけという本当に情報屋なのか疑いたくなる人物だ。
「あ、はい失礼します」
二人は頭を下げて置くのドアを開ける。そこは教授の資料庫だった場所だが、この部室ではパソコンを数台置いて、さらに中央の部屋の向かいにはサーバーまで置いている。
その奥に一人でパソコンに向かっている人が居る。
「先輩」
香椎がそう言うとその人物は手を上げて三本指を示した。
どうやら今やっていることが後三分で終わるという意味だ。
香椎と寧野はその部屋にあったソファに座って黙って待っていると、隣の部屋からさっきいた道橋が紙コップにお茶を入れて持ってきた。
「すみません」
寧野は慌てて立ち上がってコップを受け取る。道橋はそれだけ渡すと部屋を出て行った。お茶を持って寧野が座ると香椎はコップを受け取って一気に飲んでしまう。寧野はちょっと飲んでしっかりとコップを握っていた。ここではソファ以外で水分のあるものを飲んではいけない決まりなのだそうだ。
タンタンとキーボードのキーを叩いている音だけが暫く聞こえていたが、それがピタリと止まったのは1分後だった。
「よーし出来た」
そう言ってパソコンに向かっていた、犬束知有(いぬづか ちあり)がにやっとした顔をして振り返った。切れ長の目とこちらは作務衣を着て椅子の上で胡座を掻いたままで机を押してこちらを振り返る。
「いよー、ちょうど上手い具合に情報が入ったところだったんだ」
犬束の身長は高くはない。寧野よりも低いかもしれない。そして喋る声も高く、変声期を迎えたのかどうかさえ怪しい高さだった。顔も寧野より女顔と言えたし、女子学生と一緒にいるところを見ると、そのまま女子学生だと思い込んでしまうような甘い顔をしている。
しかし、ここで部長だと言って隣の部屋で居座っている道橋よりも恐ろしいのがこの犬束である。ここで情報の一手を引き受けているのが犬束なのだ。外にいる道橋は所謂強面を部長として置いておけば、無理矢理何かを聞き出す人間が少なくなるだろうという予防線の一つに過ぎない。
それに香椎の話だと、犬束は恐ろしく強いのだという。特に武器、棒でもなんでもいいのだが、そういうものを持たせると最強になるのだという。
そういう騒動が起きないようにしておくために、道橋が部長なのだそうだ。
「織部が頼んでいた件だが、おかしなことになってるようだ」
「どういうことですか?」
寧野が頼んだのは、貉(むじな)に関する情報だ。ただ貉自体を調べることは学生では不可能だと解っているので、日本で動き回っているおかしなアジアの人間のことになる。
「前に頼まれた時に貉ってどこかで聞いたなーと思って調べていたら、お前の過去が出てきた。まあ、それは聞かなくても調べれば解ることだって思ってたってことでこっちは了承して調べた。そこで初めて、宝生という暴力団関係から貉という名が出始める」
犬束に貉のことを調べて欲しいとお願いしたのは三日前のことだ。犬束は何でも三日欲しいと言う癖があるらしく、その間に出来る限りの情報を仕入れてくる。
「俺が貉という存在をはっきり知ったのもその事件からです」
寧野がそう言うと、犬束はなるほどと頷き言った。
「織部が、そうなのも仕方ない。貉という組織が日本に潜入してきたのは噂によると、その事件から半年くらいだと言われている。で、この貉なんだが、ここ最近また宝生組のテリトリー内で動き回っているのが確認されている」
そう言って犬束はその貉が現れたと言われている場所を地図に記して見せてくれた。その地図によると繁華街ばかりで目撃されているようだった。
「まあ、見て解るように全部アジア系の組織が入り込んでいる繁華街ばかりだ。その繁華街を排除して、見かけられたと思われる怪しい組織っぽいのを探すと」
また新しい地図を出して見せられた。
「……やっぱり」
寧野が行動している範囲に集中してマークがされている。東京に来て一ヶ月ほど経っていたが、予想より寧野の周りは静かなのに、こうして見せられるとはっきりと解る。向こうもこちらの動きを完全に把握しているということだ。
予想はしていた通りに向こうは動いていることになる。
「織部は予想済みだったみたいだが、なんでまたマフィアなんて。というのは言わない約束だったな。でなー、調べているうちにぶち当たったんだけど、この件、どうも宝生組が主体で動いているようなんだ。俺からしたら結構マジヤバ」
意外な名前が出てきて、寧野はキョトンとした。
随分と懐かしい名をはっきりと聞いた。
「ほう、しょう?」
この名前を口にしたのは三年ぶりだった。
あれから同じ苗字を持つものには出会わなかったし、宝生組のことを説明する機会がある時のみ使った気がするが、それでもそれは単語として並べただけだった。それにそれは過去のことを語るのみで、今現在を語るために使ったことなどなかったのだ。
「前回も少し関わっていたというか、元々遠海会と貉というマフィアの接触しているところを邪魔したのが、宝生組でなんかあったみたい、なのは知ってるみたいだな。で、そのまま緊張状態が続いていて、その後織部の方の事件だろ? それにも絡んでたようだが、織部となんか繋がりあったのか?」
そう犬束に聞かれて寧野は首を横に振った。
犬束が聞いたのは、宝生耀を動かすような何か理由があったのかということだ。それはなかったので、寧野は首を横に振っていたのだ。
宝生耀に告白されたことは黙っていようと思った。だってあれはカウントされなかったものだ。断ったことでもあったし、その後の関係から繋がりなんてあの告白した場面のみだった。あの時、彼がそこに居てくれたのは、彼の組織が元々遠海会と貉と敵対していたことから、寧野の過去の事件に繋がっていただけのことだった。
だから親切にはしてもらったが、はっきりとした繋がりなんてなかったし、それを証明するようなものさえなかった。
告白関係を抜きにして寧野と耀の繋がりは今はまったくない。そうはっきりしていることだ。
今回寧野に接触してきた貉の関係で宝生が困るようなことといえば、中華系マフィアが縄張り内に増えてしまうことくらいであろう。それを排除するとしても、今の宝生には日本にいる貉など簡単に追い出せたはずであるし、寧野のことを抜きにしてもわざわざ動く必要はないはずだった。
だから寧野は驚いたのだ。何故今回も彼らが動いているのか。それがまったく解らないのだ。
「そっかー……」
犬束はため息を吐いて頭を掻く。テーブルに置いていた指がトントンと机を叩いているので、納得はしてくれなかったらしい。
しかし宝生耀が事件に関わっていたとしても、寧野への思いだけで動いているなんてことは絶対にないはずだ。だから納得してくれなくても寧野には答えを用意出来ないので困ったことになってしまった。
「宝生組は、元々因縁があったことで貉を徹底マークしているってことじゃないか? 関東内しかも東京都内で貉に好き勝手されるわけにはいかないだろうし」
その話を切り返して香椎(かしい)が宝生組が絡んでいてもおかしくはないと言った。
「まあ、そうだけど。それだけじゃないような気がしてね。まあ、この先どこかで宝生組と鉢合わせになる可能性も出てくるかもしれない。その時繋がりがあったのなら、一応話は通しておいた方がいいんじゃないかなーと思ったわけだ」
つまり、親しい誰かが居たとしたら、その人物に話を通しておいて決して邪魔をしているわけではない、ただこちらも因縁付けられたのでそれなりにやっているのだと説明していた方がのちのち困らないのではと言ってくれているのだ。
そうは言われても急に繋がるようなものではない。それにこの話はきっと上層部に通さないと意味をなさないような気がするのだ。
「繋がりがないので、話を通すと言っても無理です」
寧野はふとあの電話番号を思い出したがそれを振り切った。あれはあの時だけの保険のはずだ。使ってはいけないお守りみたいなものだ。
宝生耀だってあれから三年経って随分変わっているだろう。大人びた彼が、さらに闇に溶け込んでいる状態で、三年前に告白して助けた相手を今でも無償で助けてくれるなんてあり得ない。
三年経てば人の心だって変わる。
しかし寧野はそれを確かめるのが怖かった。
不安な時や怖い時にお守りにして呪文のように唱えていたあの11桁の数字。
――――――それがもう繋がらない番号だなんて知りたくなかった。
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