calling

6

「胡蝶(フーディエ)様! どちらですか!」
 広く青々と茂った森の中を一人のメイドが主人を呼びながら歩いていた。
 日の光は燦々と降り注ぎ、そろそろ暑くもなりそうな時だ。日陰に入ってもらわないといけない時間だったのに、主人の胡蝶(フーディエ)が見つからない。
 もしかして誘拐でもされたのかと慌てていると、庭の端にある図書室へと出た。
 図書室は、特殊な本をこの島の持ち主が保管している。ふだん読んだりはしないけれど、高価で市場に出回らない資料だ。それを何代も前から当主が受け継いできたもので、ちゃんとした保管庫だ。専門家が見たらよだれを垂らしながら、命を賭けてでも盗み出すような品々だとメイドの緋紅(フェイホン)は聞いていたが、それがどういう意味なのかは本気で分かっていなかった。あんな紙の本一つが数千万する。確かにすごいことだが、緋紅(フェイホン)の生活には必要のないものだった。
 だからなのか、この島へ来てから、胡蝶(フーディエ)には馬鹿にされたけれど、当主からは「お前はそのままの価値観でいろ」と褒められ、故郷に両親の家が建った。病弱だった弟は手術を受けて元気になった。学校にも通えるように手配してもらい、今は留学もさせてもらっている。
 だからそれに感謝して緋紅(フェイホン)は本のことには無関心になった。
 けれど緋紅(フェイホン)が仕えている胡蝶(フーディエ)は本の虫だった。
 そこへ忍び込んでは本を読みあさり、それを嬉しそうに話してくる。その話自体は面白いがそれだけだった。どうして胡蝶(フーディエ)ほどの美しい人が、着飾りもせずにこうして島に住み着いているのかが理解できない。閉じ込められているわけでもないのにだ。
「あら、緋紅(フェイホン)」
 ドアを開けるとちょうど胡蝶(フーディエ)が出てくるところだった。
 美しい妖艶な女性、身長は百七十と高いのだが、すらりとした体をチャイナドレスが覆っている。そのなまめかしい体は、女性としては羨ましい限りだが、胡蝶(フーディエ)はそれを誇張したりしない人だった。
「良かった、胡蝶(フーディエ)様。誘拐でもされたのかと」
 胡蝶(フーディエ)を心配してきたのだが、そんな緋紅(フェイホン)を見て胡蝶(フーディエ)が笑う。
「やだ、途中で刃(ダオレン)が死んでたらそう思ってもいいって言ったじゃないの」
 胡蝶(フーディエ)はそう言うのだが、そんな恐ろしいことは起こって欲しくなくて、緋紅(フェイホン)は首を振る。
「……そろそろ日が高くなって日差しが強くなりますから」
「分かったわ、戻るわよ」
 その戻る途中で胡蝶(フーディエ)は真顔になる。
「ねえ、緋紅(フェイホン)。最近、兄様の様子が変よね」
「そうですか? 私はいつものようにしか……」
 それに緋紅(フェイホン)は答えようがなかった。
 最近、変なのは胡蝶(フーディエ)の方なのだ。
 兄である道伏(ダオフー)に噛みつくようにして毎回尋ねていることがあるのだ。
「だって、宗蒼(ゾンツァン)様の親戚よ。たとえ日本人との間にできた子供だったとしても、唯一の肉親よ。なのにどうして島に呼ばないの?」
「それには事情があると道伏(ダオフー)様は……」
「どんな理由? ジャパニーズヤクザの愛人になるしか道がないっていう選択肢がないってこと以外に!」
 胡蝶(フーディエ)はそう言って憤った。
「許せないわ。宗蒼(ゾンツァン)様の肉親が情人なんかに身を落としているのを、兄様が黙認しているのは!」
 そう胡蝶(フーディエ)は言う。
 それでも緋紅(フェイホン)には答えられない。
 まず、鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)蔡宗蒼(ツァイ ゾンツァン)の血筋であるという話自体が問題なのだ。そんな人間は存在してはならないはずなのだ。
 それを胡蝶(フーディエ)が知ったのは最近だ。
 宗蒼(ゾンツァン)とは夫婦になることが決まり、その時に宗蒼(ゾンツァン)から話を聞いた。
「私には他に肉親はいないことになっているが、実は日本にいる」
 そう切り出し、実は父親が他の人との間に子供をもうけていたことを、宗蒼(ゾンツァン)も十年ほど前に知ったのだという。
 あちらはこちらのことに関わりたくないため、自分たちに出来ることはないのだが、それでも無事を祈り見守っているということだ。
 相手は親子で、最近父親が殺された。そして一人になった息子を宗蒼(ゾンツァン)は守ってきた。
「私の自己満足でやっていることであるけれど、他の誰にも言えないことなんだ。銀(イン)は知っているし、見張ってる人間もいるが、何があっても関わりを持たないというのがあちらとした約束だ。けれどそれでも私は何かあったら彼を助けたいと思っている。同じ大学で過ごしたことも友人として扱ってもらったことも、私が鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)であることも承知で、彼は私の友になってくれた」
 最後の最後まで我が儘を言った気がするが、それでも彼は宗蒼(ゾンツァン)には従わず、それなりの自由を選んだ。
 そこまでは胡蝶(フーディエ)も分かることだった。
 だが選んだ自由が、ヤクザの愛人だなんてことがあって言い訳がない。
 それこそ助けてあげなければならないと胡蝶(フーディエ)は思ったのだ。
「いいわ、私がなんとかしてあげる」
「え、胡蝶(フーディエ)様?」
 胡蝶(フーディエ)はそう言うと、そそくさと歩いて屋敷に戻った。
「刃(ダオレン)、日本へ出かけるわ」
 そう胡蝶(フーディエ)がそう言うと、どこからともなく人が現れた。全身真っ黒な様相で、剣を腰に差している。
「……ですが……」
「じゃあ、私の代わりに今すぐ、織部寧野を連れてきなさい!」
 胡蝶(フーディエ)の無茶な命令に、刃(ダオレン)は困ったような顔をしたが、それでも分かりましたと言った。
 胡蝶(フーディエ)はそれでも何か思いついたように言う。
「私も行くわ。日本で買い物をすると言えば誰も疑わないでしょ」
 胡蝶(フーディエ)はそう言って部屋に戻り、緋紅(フェイホン)と荷物をまとめた。元々島に閉じ込められているわけではない胡蝶(フーディエ)は、自由に島に出入りが出来る。
 メイド長に日本へ買い物に出かけると言うと、そうですかと言って日本行きに必要な手配をしてくれた。



「申し訳ありませんがアポイントメントのない方とは、副会長はお会いいたしません」
 胡蝶(フーディエ)は日本にきて、真っ先に寧野がいるであろう白鬼(なきり)に乗り込んだ。
 だが会社の受付で寧野を呼び出してもらおうとしたところ、門前払いをされた。
「じゃあ、銀(イン)の妹が会いたがっていると言ってもらえるかしら?」
 胡蝶(フーディエ)はそこは懲りずに、寧野に会おうとして兄の名を使った。受付は、仕方がないとばかりに連絡を取ってくれるが。
「少々お待ちください。現在、副会長の織部は会社にいませんので、確認が遅れます」
 そう言われたのである。
「いいわ待ってる」
 そう言うのだが、それから五分ほどで折り返しかかってきた電話では。
「もし銀(イン)様の妹様であるなら、銀(イン)様本人から連絡を受けてからなら会うことも可能であると言っておられますので、再度アポイントメントを取り直ししてください」
 とやはり門前払いされた。

「なかなかにガードが堅いわね」
 胡蝶(フーディエ)はとりあえず会社を出て、近くの喫茶店に入った。日本のコーヒーは美味しくなく、合わないので紅茶にしたがそれも合わずに、結局味の変わらないコーラにした。
 隣に座っていた緋紅(フェイホン)は、まあ普通はそうだよねと思っていた。口に出して言えないが、織部寧野の経歴というか、巻き込まれた事件の話は胡蝶(フーディエ)からは聞いていた。そんな人が見知らぬ人と気軽に会うようなことをしてくれるはずもなく、まして銀(イン)を持ち出したことで余計に怪しまれただろう。
 それくらいの予想は緋紅(フェイホン)でもできた。
「銀(イン)の名前を出して、大丈夫だったんですか?」
「あら、大丈夫よ。今は兄様から織部寧野に連絡する手段はないと思ってるもの」
「え?」
「遠くで見守っているということを宗蒼(ゾンツァン)様がおっしゃってたわ。なら、本人とはもう連絡を取り合う仲ではないということよ」
「……まぁ確かにそうですけど」
 遠くで見守るというのは確かに連絡を取り合うような仲ではないということだろうが、先のことで宗蒼(ゾンツァン)が織部寧野に何者かを付けていたとしたら、胡蝶(フーディエ)の行動は宗蒼(ゾンツァン)に筒抜けということになる。
 この行動で胡蝶(フーディエ)が宗蒼(ゾンツァン)の怒りを買わないかが問題だ。
 せっかく秘密を打ち明けたのに、それをこうやって公にさらしているようなものだ。この行為のせいで織部寧野に危険が迫ったとしたら、宗蒼(ゾンツァン)が切るのは、きっと胡蝶(フーディエ)の方だろう。彼女にそれが分かっているのか疑問だと緋紅(フェイホン)は思っていた。
 だが召し使いの立場上、口に出して忠告はできなかった。たとえ正論であっても主人のしていることに口出しをすることはできない立場だった。
「刃(ダオレン)はどう思う?」
「相当な警戒をされたと思います。銀(イン)様の名前を出したことで、余計にそう思われたのだと」
「まあ、何故かしら?」
「親しいとは言っても今は昔。連絡をしてくるということは何か重大なことが起こった時だと思われます。ですので、会社の正面から「妹です」と堂々と名乗り出たことが、余計に怪しくなります。連絡すらもう取り合うほどの関係ではないのに、気軽に誰かが訪ねてくるなんてないんでしょう。こちらが怪しく見えても仕方ないかと思われます」
「…………」
 そこまでの関係ではなく、十分に相手を知っているからこそ、警戒されたのだ。そうした輩がたくさんいるのだろう。
「もしかすると、道伏(ダオフー)様に妹がいるなんてことも知らない可能性があります」
「あ、その可能性は考えなかったわ」
 胡蝶(フーディエ)はこれは失策だったと思った。
 表向きに付き合っていただけの関係であるが、宗蒼(ゾンツァン)は学生として、道伏(ダオフー)はお付きとしてきたことは織部寧野も知っている。だから宗蒼(ゾンツァン)が話さないことは、寧野は聞かない。そうした関係であったとしたら、道伏(ダオフー)に妹がいるなんて、家族構成的なことは話す必要はないわけだ。
「それなら仕方ないわね。なんとか話しだけでも聞けないものかしら」
「それでしたら会社に毎日訪ねれば、どこかで会えると思います」
 会社である。会長は来ないままでも副会長まで来ないということはないはずだ。だから、会社にいれば出会うことも出来る。
 胡蝶(フーディエ)は刃(ダオレン)にそう言われて、素直にその通りにした。
 毎日、会社の入り口にあるロビーで副社長である織部寧野を待つ女性の話は、会社の人間からの助言でとうとう寧野の耳にまで入った。
「銀(イン)さんの妹さん?」
 車の中で寧野はそれを聞いて首をかしげた。
「さすがに家族構成までは知らないからいるのかいないのか定かでないけど……」
 寧野はとにかく問題が起きているなら、どうにかしないといけないなと結局、事務所で会うことにした。


 事務所で会うことにした結果。
「私が銀(イン)の妹、胡蝶(フーディエ)よ」
「俺が真紅(マリーノヴィ・ツヴェート)のところからの使いで、トーリャです」
 と、どういうわけか、二組と会うことになってしまった。
「えっとまず、トーリャさんは一旦お帰りください」
 寧野はそう言ってトーリャに出ていってもらうように頼んだ。
「え、何で……」
 トーリャは困り果てていたが、寧野が犹塚に頼むと、外から寧野の警備をしている、櫂谷(かいたに)と香椎(かしい)が入ってきてトーリャを連れて外へ出た。
 櫂谷と香椎は、白鬼(なきり)の新しい人間として夏から寧野の警備に付いた。基本は、取り引きの安全のためと耀は言うが、よく知っている人間の警護の方がいいだろうと気を遣ってくれたのだ。
 櫂谷や香椎は、宝生組の直参の組の次男である。組は継げないので跡目争いになる前に自分たちで家を出ていた。
 寧野の高校と大学と警護をしてくれたが、大学卒業と同時に自立していった。だが、所詮ヤクザの息子なのか、結局、一般社会に溶け込むことができずに、戻ってきてしまったと本人は笑っていた。
「胡蝶(フーディエ)さん、何のようでしょうか?」
 寧野がそう言うと胡蝶(フーディエ)はここ最近、寧野のことを知ったと言った後。
「あなたは島へ来るべきだわ。彼の親族なら当然、危険があるもの」
 と胡蝶(フーディエ)はもっともらしいことを言って寧野を誘う。
 だが寧野は胡蝶(フーディエ)がそれだけで寧野を島へと誘っているのではないと分かっていた。
 最初から寧野を見る目が、親切な女性を装ってなかったのだ。
 明らかに見下したような視線を感じない方が不自然なほど、胡蝶(フーディエ)は自分でも気づいてないような視線を向けてきていた。
「私が、男の恋人を持っていることが不満ですか?」
 寧野は静かに言っていた。
 胡蝶(フーディエ)の不満は多分そこであろう。
 胡蝶(フーディエ)はすっかり自分が見抜かれていることに気付いて、顔を赤らめて怒鳴った。
「そうよ! 誇り高き我らの龍頭(ルンタウ)の血筋でありなら、男の情人など、あってはならないことだわ」
「あなたの常識を私に当てはめるのはやめていただきたい」
 寧野の強い拒否に、胡蝶(フーディエ)は憤慨する。
「な! なんてこと、私は宗蒼(ゾンツァン)様の妻になる女よ!」
 自分の方が格上だからと寧野を威圧してきた。だから寧野にも胡蝶(フーディエ)の心が読めた。
 胡蝶(フーディエ)は寧野を従わせたいのだ。それは今まで何でも彼女の我が儘がまかり通ってきた環境がそうさせているのだろうと読み取れたが、寧野はそれを嫌悪した。
「彼の妻になる女が、ここまで口が軽い上に頭の中身もない女だとは思いたくもない」
 寧野がそう毒を吐いた瞬間、胡蝶(フーディエ)が怒りのあまりに震えだした。あまりの怒りに声が出ないほどだ。
 自分を知的だと思っていた胡蝶(フーディエ)は、自分より立場が下の男の恋人を持つ人間に馬鹿にされたことに怒りを感じていた。
 だが寧野の馬鹿にした言葉は、冷たく言い放つような言い方で、本気で中身がないことに静かな怒りをみせている言い方だった。
 それを聞いていた緋紅(フェイホン)は、寧野が胡蝶(フーディエ)に失望していることを悟った。
 そしてこの人は本質を見る人なのだと思えた。
「私のことを心配? 嘘を言うのはやめてください。目障りで死んでくれないかなんて思っているくせに」
 寧野はそう言い切った。胡蝶(フーディエ)はそれを聞いて顔を青ざめてしまった。
 心配と口に出してはいたが、本心ではそう思っていないことが知られてしまった。寧野が言ったことは、ずっと思っていたことである。本当にこんな人間、いなくなればいいと思っていた。
 それがたった一分も話していない相手から指摘されるとは思いもしなかったのだ。
「私のことは、彼から秘密であることは重々言われていたはずだ。それを口に出して、ペラペラ喋ることが、どれほど私の危機になっているのか分かってないとは言わせない。私が龍頭(ルンタウ)の血筋と誰かが聞けば、私を使って鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)を動かすこともできるかもしれないと考えて、私を捕らえようとする人間が今以上に沸いてくる。私が金糸雀(ジンスーチュエ)と呼ばれ、存在を狙われていることも知っているくせに、彼の好意を無駄にするなんて、そこまで頭が悪いとは思いたくないが」
 寧野はそう一気に言った。
 自分の危機だから怒っているのではない、彼、蔡(ツァイ)の好意自体を無駄にしてまでも寧野を排除するために、呼び寄せようと画策する女に怒りがわいたのだ。
「島に呼べば、貴方の思い通りに出来る。そう、殺すことだって出来る。幸い私は命も狙われている。金糸雀(ジンスーチュエ)一族殺し、知らないとは言わせない」
 寧野のはっきりとした言い分に、胡蝶(フーディエ)は心の底から冷えていくのが分かった。
 緋紅(フェイホン)は、胡蝶(フーディエ)が一言でも寧野のことを排除しようとしているようなことは言わなかったと思った。けれど、秘密にしろと言われたのに、緋紅(フェイホン)にまでペラペラと喋ってくる秘密は、正直、胡蝶(フーディエ)にしてはうかつだと思っていたのだ。
 良くも悪くも緋紅(フェイホン)は純粋だった。
 秘密といわれたことを人に話そうとは思わなかったし、まして信頼しきってもいない緋紅(フェイホン)に言う意味はないと思っていた。
 だがここにきて、胡蝶(フーディエ)の謎の行動に緋紅(フェイホン)は意味があったと気付いた。
 喋って欲しかったのだ。緋紅(フェイホン)に、他の誰でもいいから、喋って欲しかったのだ。そして緋紅(フェイホン)にしか秘密は言わなかったと言い逃れするつもりで、胡蝶(フーディエ)は緋紅(フェイホン)に当主の秘密を話したのだ。
 胡蝶(フーディエ)は緋紅(フェイホン)がどうして誰にも話さないのか分からなかっただろう。だが緋紅(フェイホン)はどうして人の秘密を喋ると思われたのか理解できなかった。
 当主は緋紅(フェイホン)に、「そのままでいなさい」と言った。つまり余計なことは喋らなくていいと褒めてもらえたのだ。だから緋紅(フェイホン)は喋らない。
 当主がそう言ったのだ。そのままでと。なら緋紅(フェイホン)はそうしている。その強い意志を当主以外が理解しているとは思えないが、緋紅(フェイホン)には普通のことだった。
「……私は……」
 胡蝶(フーディエ)はなんとかしようと言葉を発したが、それを寧野が止めた。
「というか、あなた、彼に試されたんじゃないんですか?」
 寧野がそう言い出し、胡蝶(フーディエ)はポカンとする。
「は?」
 寧野の方は何となく分かってきたように胡蝶(フーディエ)に言った。
「貴方が秘密を誰かに喋って公にするのか、黙っていてくれるのか、試したんじゃないかなってこと」
「……!」
 その寧野の考えに、胡蝶(フーディエ)は気付いた。
 あれはもしかして、宗蒼(ゾンツァン)の嘘だったのではないかと。
「あなた……まさか」
 胡蝶(フーディエ)が喘ぐように聞き返した。
「私が龍頭(ルンタウ)の血筋? まさか有り得ない」
 寧野ははっきりとそう言い切って見せた。すると胡蝶(フーディエ)はストンと気が抜けたように椅子に座った。
 宗蒼(ゾンツァン)もまさか寧野本人を邪魔者として誰かに始末してもらうために、胡蝶(フーディエ)が助ける振りをして噂を広めようとしていたとは思わなかっただろうし、まして寧野本人に言いに行くとも思わなかっただろう。
「あなた、彼の想像外に動きすぎたんだ。銀(イン)の妹でなかったら死んでたよ」
 寧野が何のことのないように、胡蝶(フーディエ)に死刑宣告をした。
 緋紅(フェイホン)もこれだけの秘密がもし本当だったら、胡蝶(フーディエ)はたぶん本当に殺されていただろうなと思えた。主人でも駄目な主人に入る胡蝶(フーディエ)は、あまりに滑稽に見えた。
 だがそれすら緋紅(フェイホン)は顔には出さなかった。それが仕事だったからだ。
「そろそろお迎え呼ぶね。話はそれだけのようだから」
 寧野がそう言って電話をかけ。
「上がってきていいよ、零(リン)さん」
 寧野のその言葉に胡蝶(フーディエ)は信じられない者を見るように寧野を見た。
「あなた……令狐(リンフー)と繋がってるの?」
「こういうことがあった場合は、かけていいといわれている」
 寧野がそう言うと、胡蝶(フーディエ)は更に顔が青くなった。織部寧野が龍頭(ルンタウ)の血筋ではないけれど、令狐(リンフー)がつくような人間であることだ。
 令狐(リンフー)は鵺(イエ)の特殊部隊だ。基本的に人を護衛する役目で、主人から命令がないと動かない。そう寧野が危機になっても主人からの命令がない限り見ているだけなのだ。
 その対象は、鵺(イエ)の内部の人間からの攻撃に対処することの方が多いらしい。
 胡蝶(フーディエ)が完全に考えることを辞めたのを見た緋紅(フェイホン)は、首をかしげた。
 令狐(リンフー)は普通、主人の危機にしか動かない。今はそうではないはずだ。だけれど動いた。となると、胡蝶(フーディエ)以外にその危険な存在はない。
 そこで、緋紅(フェイホン)は気付いた。
 織部寧野は本当に龍頭(ルンタウ)の血筋なのだと。だから令狐(リンフー)は動く。ここで胡蝶(フーディエ)が龍頭(ルンタウ)の血筋なんていないと信じたからいいとして、本当は本当なのだろう。
 思わず確認するように、寧野を見てしまった。
 すると彼はすっと指を口に当てて、しーっとジェスチャーをした。
 どうやら、聞かせたい相手は胡蝶(フーディエ)だけではないらしい。
 それに気付いた時には、黒服の男、零(リン)がやってきて、刃(ダオレン)までもが拘束され、一緒に連れて行かれた。
 それに続いて緋紅(フェイホン)が歩いていくと、寧野が言った。
「あなたはそのままでいてください」
 そう当主と同じ台詞を寧野は言った。
 彼は当主が緋紅(フェイホン)にそう言ったことは知らないはずだ。なのに全く同じことを言った。それで緋紅(フェイホン)は確証が持てた。
 彼は紛れもなく、龍頭(ルンタウ)の血筋だと。
「はい」
 緋紅(フェイホン)は笑顔で答えて跪いて両手を前に出し頭を下げて臣下の礼をしてから部屋をでた。
 零(リン)は一瞬それには驚いたようだが、寧野がまあまあとなだめたので何も言わなかった。
「お騒がせしました」
「いえ、ご苦労様です。後はお任せします」
 寧野がそう言うと、零(リン)が臣下の礼を取ってから部屋を出ていった。
 側にいた犹塚が。
「胡蝶(フーディエ)の方は騙せましたが、あの緋紅(フェイホン)というメイドは……」
「彼女はきっと誰にも言わないよ。そういうできた人だもの」
 寧野はそう言って犹塚に笑ってみせる。
「たぶん、あの子じゃないかな……宗蒼(ゾンツァン)の妻になるの」
 寧野はなんとなくそう思えた。胡蝶(フーディエ)は力不足。喋りすぎない上に秘密を絶対に喋らず、主人の言うことを疑問に思っても口に出さず、与えられた情報だけで、回答を導き出せるような女性が緋紅(フェイホン)だ。
「嫁選別させる気で放置したなら怒るけど?」
 寧野がそう言って、ドアを見ると銀道伏(イン ダオフー)が立っていた。「申し訳ありません」
「それで決まったわけ?」
「はい、私の妹は命があるだけマシだと……いうことが理解できました」
 道伏(ダオフー)はそう言ってがっくりと肩を落とした。
 長く一緒に暮らしていなかったせいで、妹の行動を理解できなかった。宗蒼(ゾンツァン)は、胡蝶(フーディエ)の行動に不信感を抱いていて、秘密を共有できるか試したのだという。
「まさか、秘密にするように言われた話を平然と人に話してしまう上に……あなたを殺しにかかるとは……」
 龍頭(ルンタウ)の血筋だという話。それを真に受けるのはまだいい。しかしそれを広めようとしたことは罪だ。龍頭(ルンタウ)の妻になる資格はないと言えた。
 寧野でも耀の秘密をペラペラと誰かに話したことはない。だから何故胡蝶(フーディエ)がそういう行動に出たのか、最初は理解できなかった。
 龍頭(ルンタウ)の血筋じゃなければ、恋敵にでも見えたのだろうか。
「一緒に暮らしてないから身内に甘くなるのは分かるけど、その甘さで俺が殺されたんじゃ割に合わない」
 寧野がそう言うと、道伏(ダオフー)はハッとして頭を下げた。
「本当にすみません」
 心からの謝罪だった。それはこれから胡蝶(フーディエ)が受けるであろう生涯にわたる苦行を銀道伏(イン ダオフー)も覚悟した顔だった。
 それだけの代償を胡蝶(フーディエ)は受けなければならない立場に陥った。

 胡蝶(フーディエ)はその後、島に戻り二度と島から出ることはなかった。それまで自由に出入りできた島から出ることは許されず、通っていた我が儘も一切通ることはなくなった。
 傅(かしず)いていた召使いたちは、すべて監視に変わり、生活が一変した胡蝶(フーディエ)は、今回の口の軽さの自分を呪った。
 龍頭(ルンタウ)の秘密を暴露するという評判が立ち、龍頭(ルンタウ)の婚約者候補から真っ先に脱落した。何人もいた候補者からは第一本命が消えたことで騒然となったが、胡蝶(フーディエ)を馬鹿にはできなかった。明日は我が身でもある。
 島に戻った緋紅(フェイホン)は、メイドから側室に移動になった。妻を持たない龍頭(ルンタウ)が真っ先に欲しがったのが緋紅(フェイホン)だった。
 正妻ではないことから、周りからは文句はでなかった。龍頭(ルンタウ)は側室を持つことを進められていた。先の龍頭(ルンタウ)だった司空(シコーン)が子供を一人しか残さなかったことで混乱が起きたことも関係している。
 血統を重んじる幹部たちは、正妻にもしものことがあった場合の予備として側室を認めていたから、経歴がはっきりしている緋紅(フェイホン)の存在は願ったり叶ったりでもあった。
 そうした大人の事情で側室になった緋紅(フェイホン)は、家族とは滅多に会えなくなるが、当主のことは大好きだったので、それでも幸せだった。
はっきりと妻になって欲しいと言われた訳ではなかったが、側室に収まるということはそういうことだと言われ、それは当主の役目であることも知っていたため、緋紅(フェイホン)はその仕事をこなした。
 緋紅(フェイホン)の家族は龍頭(ルンタウ)の保護下に置かれ、生涯の安全は保証された。


鵺(イエ)の龍頭(ルンタウ)が結婚したとされたのは、それから一ヶ月ほど経ってからだった。正妻候補者の全員脱落という、酷い規模での龍頭(ルンタウ)の妻試験に側室の緋紅(フェイホン)以外に誰も残らなかったというのだ。
 さすがの幹部たちも、このちょっとした騒動には頭が痛くなり、正妻の立場に相応しいのは緋紅(フェイホン)だと気づいた。
 そして緋紅(フェイホン)は正妻へと押し上げられたが、本人はいつもと変わらない日常を送ることを龍頭(ルンタウ)に約束させられた。
 変わらないでくれという龍頭(ルンタウ)の願い。それを緋紅(フェイホン)は死ぬまで守るだろう。
 寧野は結婚式には出られないが、お祝いの贈り物はした。
「まあ、あの大変な立場にしては、いいお嫁さんもらったんじゃない?」
 寧野の感想に、当の緋紅(フェイホン)に会っていない耀は、そうかとしか答えられなかった。 

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