前鹿川多保(ましかわ たほ)は学校に居ても浮いている存在だった。綺麗だの美人だの言われても多保はそんな言葉に怒りを見せるだけで喜んだりはしなかった。
他人に関心が持てなくなったのは、ずいぶん昔のことだ。
それまでは普通の子だったし、他人にも興味はあったと思う。他人と遊ぶことや他人と交流すること。その全てに興味がなくなったのは、小さな事件のせいだ。
幹太が知っていて、他の人が知らない事件。
小学生になった年、多保は中学生になったばかりだという従兄弟に性的な悪戯をされた。
川でみんなで遊んでいる時に多保だけ別の場所へ呼び出されて、性器を弄ばれた。怖かったし、泣き叫びたかったが、体や口が全然動いてくれなかった。震えて泣いているしかない時、幹太が気づいて助けてくれた。
一歳から空手の真似を始めて、小学生になったばかりだった幹太だったが、何もやってない従兄弟を撃退するだけの突きや蹴りは出来た。
だが、やり過ぎた。
加減をせずにやったそれで、従兄弟は岩場から滑り落ちて足や腕を骨折した。
ある意味、自業自得だったが、二人はその助けを呼ばずに逃げた。痛みに苦しむ従兄弟を放っておいたのだ。
その後、夕食を過ぎても戻らない従兄弟を捜して家族が出ていったが、深夜になって従兄弟は見つかった。
骨折だけで済んだことだったが、従兄弟は幹太にやられたとは言わなかった。さすがに中学生になって小学生にやられて骨折は恥ずかしいのだろう。滑って転んで痛みで気を失っていて助けを呼べなかったという方が恥ずかしくはない。
それに幹太は従兄弟を脅していた。幹太がやったと言ったら、従兄弟が多保にしていたことを言うと。そしてまた多保に何かしたら今度は殺すとまで脅していた。これで従兄弟は何も言えず、多保にも何も出来ずに、その夏は入院だけで済んだ。
次の年から、従兄弟は多保たちが来ると、決まって友人の家に泊まりに行き、多保たちが帰るまで帰ってこなかった。
やり返しも出来ただろうが、幹太はどんどん強くなっていて小学生の部では全国クラスにで上位に入る成長をしていた。小学生最後の年になって、幹太の身長も175センチに達しており、体も大きくなったのを従兄弟は見て、さらに怯えたようだった。
大学生になったとはいえ、体の大きさでは幹太より小さかった従兄弟が敵うわけなかったからだ。
次に手を出したら確実に殺されると。
多保が他人に興味を持てなくなったのは、このことからだ。信用すれば裏切られる。家族以外を信用するものじゃないと思っていたからだ。
この時から、多保は幹太すらも信用出来なくなっていた。幹太が助けてくれたのだが、幹太が怖かったのだ。他人のために人を殺すと言い切れる幹太が怖かったのだ。
だから、何があったのかは言いたくなったし、誰かに興味を持つことも怖かった。そうして無関心を貫き通していた。幹太にも興味がないと言い張って。 その頃から多保は眠ることで現実逃避をしていた。眠っていれば何をされても分からないからだ。
起きていると嫌なことが起きる、そう思っていた。眠ったままだったら楽だった。
そうして眠っているように、他人に気づかないふりをし続けた。
だが、幹太は笑って側に居てくれる。
それが内心では嬉しかったし、当然のように多保を優先してくれる幹太に感謝もしていた。
でも、それが上手く言葉に出ないし、態度にも出ない。
自分の中に芽生えていたある種の想いが、暴走するのも恐かったから、余計に態度にでないようにしていた。
生きているのだから、楽しく生きようと言ってくれる幹太。それは眩しくて大きな存在だ。
ずっと多保を守ってくれる。
そう勘違いをしていた。
そう夢を見ていた。
多保が幹太の別の学校への推薦の話を聞いたのは、偶然職員室へ行った時だった。
教師たちが気楽に進路相談について話していた。自分たちの学校にはあまり外部への進学はない。だが、事情があって別の学校への進学をする生徒もいることはいる。その話をしているのだと思っていて聞き流していたが、その中に幹太の名前があることに気づいたのだ。
「後生川(ごせかわ)も決まりですか?」
担任に別の担任が聞いていた。
「ああ、決まりそうだ。あそこの学校は空手が強いらしいし、世界的有名な選手も出ているからね。後生川の父親もそこ出身だというし、ちょうどいいんじゃないだろうか?」
「うちはそれほど強いわけじゃないですしね。柔道の方だったら絶対逃がさないんですがね」
「ははは、名山先生は柔道の副顧問でしたね。ですが後生川も本気でやる気になったんだからいいじゃないですか。あいつ、学校の部の方には入ってくれそうもないですし」
「まあ、確かに。家の方が忙しいとか?」
「そうなんですよ。父親と母親が遠征ばかりしているそうで、弟たちの面倒を見てるのが後生川だそうです」
「ああ、それで隣に住むという前鹿川(ましかわ)の面倒も見てるんですか」
「前鹿川はねぇ。あの子はちょっと問題ありで。後生川がいなくなったらやっていけるんですかね」
「ほうほう」
そう教師たちが言い合っているのをなんとか表情に出すことなくやり過ごし、職員室を出た瞬間、多保の体に震えが来ていた。
――――――幹太が居なくなる?
そんな話聞いていなかった。
震えが来ていたが、なんとか正気を保って教室に戻った。そこには笑って話をしている幹太と岸本がいる。
だが、この日に限って二人は真剣な顔で別の話をしていた。
「高校へ行ったら多保のこと岸本に頼んでいいかな」
「俺に頼むことでもない。たぶん、お前が嫌われたら俺も一緒に嫌われるだろうしな。お前の推薦のこと黙ってたことで多保と喧嘩になるだろうし」
そう二人が言っていたので、教師の話と二人の話が何を言っているのか分かってきた。
幹太が推薦を受けて別の学校へ行く。それは本当のことなのだ。
――――――幹太が居なくなる。
ガクガクとする足を押さえて多保は何とか正気を保った。
――――――やっぱり信用するんじゃなかった。
ほらみろ、信用なんかするからこうなる。
幹太だってあんなことをされた多保のことなど好きではないはずなのだ。
そうして精神が不安定になってくる。
多保がずっと不安に思っていたことは、幹太に見捨てられること。
怖くて現実を見る勇気もないほど、怯えていることなど誰も知らない。
精神的に問題があるとされたときから、多保の中にあった不安定なものは幹太の存在だった。
その問題が現実になる。
その日の夕食後に幹太たちが帰るの待って、多保は幹太を外へ呼び出した。家に一旦戻った弟たちを置いて、幹太たちは家と家の間にある庭で話をした。
「幹太、お前、推薦で別の学校へ進学するんだって?」
幹太を見ながらそう聞き出すと、幹太はすごく驚いた顔をしていた。
「なんだ、誰か喋ったのか」
幹太は誰かが言ったと思っていたようだ。ということは教師以外の誰かも知っていることになる。
「偶然教師が話してるのを聞いた。推薦の話、大分前からあったんだろ? なんで言ってくれなかった?」
幹太と岸本が話していたことは聞いてなかったことにしておいた。それは問題はないだろうからだ。
「はっきりと決まってからにしようかと思って。まだ気持ちも決まってなかったし」
「でも教師は推薦は決まったようなものだって言っていた。なんで最初にそういう話があるって言ってくれなかった。こういう風に聞く方が少ししんどい」
多保がそう言い返すと、幹太は困ったような顔をしていた。
「順番というものがある。俺の中でだけど、そういうのやってからちゃんと話そうと思ってた」
幹太の中にはいろいろ考えることがあったのだろう。それはきっとずっと面倒をかけてきた多保自身も含まれているはずだ。
「その中に俺のことも含まれてるのか?」
「まあ……それもあるかな」
幹太は困ったように笑っていた。
やっぱり置いていく多保の心配をしたのだろう。そんな会話をしていた。
「だから岸本に俺のことを頼んだのか?」
そう多保が言うと幹太はさらに驚いた顔になっていた。
「え……と、岸本との話聞いていた?」
少し顔を赤くして焦って幹太は確認してくる。
「少しだけ……」
どんな重要な話をしていたのか分からないが、岸本と話していたことは別にもあるらしい。
「そっか……そこまで聞かれていたらさすがに俺もみっともないかなと。……あの多保」
幹太は緊張したような顔をして多保を見た。
多保はいつも通りの顔をしていたが、内心はかなり怒っていた。いつもみたいに怒鳴らないのは、ここで話を折ってしまうとちゃんと幹太と話が出来なくなるから我慢していた。
「俺、多保のこと好きなんだ」
幹太がいきなりそう言い出して、多保はびっくりして目を見開いた。
「な……何……言い出して……」
幹太の告白に多保の思考が止まりそうだった。
そんなこと、知らなかったし、そんな素振りなかったからだ。
「こういうの多保が嫌いなのは知ってる。拒まれるのも分かってる。けど言っておきたかった」
幹太はそう言って笑って手を振っていた。
返事は期待してないというような言い方に多保はほっとした。
答えを求められたとしたら困る。どうしても答えられないからだ。
男同士なんて考えたことなかったし、あの学校にいたとしても理解はあっても自分がそうなるのは、凄く恐かった。特に幹太とそうなるのは凄く恐かった。
だから幹太が答えを求めてこないことに、心底ほっとしたし、笑顔が今までと変わらないことに本当にホッとした。
「多保、明日から起こしに行けないから、早穂に頼んでおけよ」
多保がほっとしたような顔をしたのを確認した後に幹太はそう付け足していた。
多保から無理に返事を聞こうという気はなかった。だから告白のようで独白のような言葉になってしまったが、それで多保が安堵するなら幹太には自分の思いが伝わらなかったとしてもいいと思った。
そう思っていたのに。
「え? 起こしに来ないのか?」
多保は心底驚いたというように、まるでそのことは別というように聞き返していた。
告白とこういうのは別のことだと思っていたのだ。
いきなり幹太との関係が変わってしまうなんて予想もしてなかった。だから驚いたのだ。
「あのな。さすがにフラれた後に暢気に多保の寝顔見て起こす勇気は俺にもないぞ」
おいおいとばかりにそう暢気に返すと、多保は困ったように顔を顰めた。
その顔を見た瞬間、幹太もさすがに頭に来た。
「多保、お前さ。俺のことなめてるのか?」
急に声が低くなって幹太が多保を睨み付けていた。
今まで多保に向けたことはない、怒りの表情。それは、多保以外の人間に向けたところを多保は何度か見たことがあった。
「い、いや……あの……そうじゃなくて」
幹太は多保に近づき、多保を家の壁へと追い詰め、逃げようとする多保の体を挟むように腕を突き出して多保の逃げ道を塞いでから言った。
「そうじゃなくてなんだ? これとそれは別? まさか振ったから俺がここで諦めて、多保とこれからも仲良くなんて馬鹿なこと考えてるとか?」
幹太の言うことは全部多保が思っていたことだ。
告白はなかったことになって、幹太は高校に入るまで多保とはいつも通り、そう思っていた。
だが、幹太はそれに腹を立てている。
ああ、違う。そんなに簡単に諦められるくらいなら、幹太は告白なんてしない。そのことに気づいて、やっと自分が幹太の地雷を踏んだことに気づいた。
「俺はフラれてまで多保と仲良しこよしはしない。多保だって言い寄ってきた相手と仲良くなんてしないだろう? それと一緒だ」
「それとこれは別……で」
そんなどうでもいい人たちと幹太は別なのだ。そう言おうとしたが失敗した。
「別? 別なわけないだろ? やっぱ多保、お前俺のこと馬鹿にしてるだろ? 俺が多保の嫌がること何もしないと思ってるだろう? だが出来るんだ」
そう言って多保の顎を掴むと、幹太はそこに顔をかぶせてきた。驚いて目を瞑っていると唇に柔らかい感触がした。
最初は優しく触れるように、そして強く唇に吸い付いてきた。顎を掴まれているので逃げられずに震えながらも歯を食いしばって我慢していたら、幹太はそれ以上キスをするのをやめた。
「今後俺に近づくなら、それなりに覚悟してくれ。俺はたぶん止まらない」
耳元でそう幹太は言い切ると耳にもキスをしてから離れていった。
驚いたままで幹太を見ていると、幹太は苦しそうな顔をして多保を見た後、踵を返して家に戻っていった。
多保は暫くそこに座っていたが、幹太が戻ってこないことを知って、ふらふらと家に戻っていった。
幹太は家に入らずに多保が家に戻るまで庭に座り込んでいた。多保が家に入るのを確認してから家に入った。体が完全に冷えてしまっていたが、そんなことは気にならなかった。
やはり、多保にはちゃんと伝わらなかった。
脅すつもりもなかったし、あんなキスをするつもりもなかった。あれじゃただの脅迫だ。
駄目だ。やはり多保の側にいると自分は凶暴になる。これ以上多保に何かを求めるなら、自分でも信じられないことをしそうだ。
それだけはしたくない。それだけは。
だから、さらに多保を脅した。
もう近づくな、酷いことをするから、お願いだから近づくな。これ以上近づくな。
初めて多保にしたキスは、苦しいだけで何もいいことはなかった。
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