Distance over the distance

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 前鹿川多保(ましかわ たほ)と後生川幹太(ごせかわ かんた)は幼なじみとして育った。家は隣同士で、行く学校も同じ。年齢も同じで、クラスも同じ。そうして二人は幼稚舎から中学まで普通に友達をしてきた。

 多保は母親に似た美人で、周りからは綺麗だと言われていたが、気性は激しい方だった。怒る時は怒り、相手が多保を馬鹿にすると食ってかかるような性格だ。だが、朝は低血圧のせいで寝起きはその性格も出てこない。ぼーっとしたまま学校まで連れて行ってもらい、一時間目くらいにやっと目が完全に覚めるという酷さだった。

 そうした多保の面倒を見てきたのが幼なじみの幹太だ。家が隣同士であるから家族ぐるみのつきあいであったし、家を尋ねると勝手に入ってと言われるような間柄だ。

 見た目は体育会系の幹太だが、顔は人懐っこい表情で友達も多い。家が空手の道場をしていて、朝5時に起き、毎朝7時まで朝の練習をしてから日課になった多保を起こしに行く。

 部活は家の道場を手伝うことになっているので入ってはいないが、実力は全国クラスだ。素人の道場ごとに出る空手の大会では常連でいつも全国のトップ3にいる。だから学校側としては幹太に部活に入ってもらいたいが、幹太の家の事情もあることから、無理に進めることもしなかった。

 幹太の父親は空手の師匠としては有名な人だ。けれどそのおかげで全国の道場を回ることもあり、それに母親もついて行くため、幹太の兄弟はよく隣の前鹿川(ましかわ)家に世話になっていた。

 家族で母親以外が全員空手をやっているせいなのか、しつけだけはしっかりしていて、前鹿川家では自分たちの子供よりも後生川(ごせかわ)家の兄弟のことを信用して信頼していた。

 前鹿川家には多保の一個下に早穂(さほ)という弟もいる。後生川家には双子の姉弟の七海と健太という弟がいた。その二人の弟も同じ年とあり、前鹿川家と後生川家は非常に仲がよかった。

「幹ちゃん、健ちゃん、七海ちゃんおはよう」
 朝ご飯を食べに降りてきた早穂は、居間に入ってきた幹太たちを見て挨拶をする。

「早穂、おはよう。ってまた多保は」
 幹太は早穂が制服を着てきっちりした姿でいるのを見ると、どうして多保はこうも早穂と違うんだろうと唸りながら二階へ上がろうとする。

「毎朝のことだけど、多保ちゃんほんと朝だめだね」
 すでに自分の家でご飯を食べてきている健太と七海は、多保たちの母親が出してくれるコーヒーを貰って飲みながら早穂の朝食が済むのを待つのが恒例だ。
 だが幹太は毎朝起きられない多保を起こすところからが出発点だった。

「多保ちゃんはね、幹ちゃんがいるから安心して寝てんだよ。絶対幹ちゃんが起こしてくれるしさ」
 早穂が呆れたようにそう言った。

「そういや、幹ちゃんが起こさなかった時、夕方まで腐ったように寝てたんだよね。あれ、起こさなかったらあのまま死んじゃうんじゃないの?」
 健太が面白そうにそう言う。それに七海が呟いた。

「死因が寝過ぎって、それなんて病気?」
「でもお母さん、多保ちゃんって過眠症とかの病気じゃないんでしょ?」

 一度あまりに起きずに一日中寝ている多保を心配した母親が病院に連れて行って調べたことがあるのだ。それくらいに多保はよく寝る。だが、結果はただの低血圧のせいなのと、精神的な何かが関係しているのかもしれないという結果だった。過眠症と症状が違うこともあり、精神的なものとされた。

 小学校くらいから始まった多保の朝が起きられない症状はいくら早く寝かせたとしても無駄だった。
 その精神的な何かが一向に分からずにきているが、幹太が起こすと多保は無意識ながらも起き、ちゃんと学校へ行ける。幹太には面倒をかけるが、幹太は嫌がらずに多保を起こして学校まで連れて行ってくれるので多保の母親もすっかり幹太を頼るようになっていた。
 それ以外で多保が面倒を起こすことはないし、学校での成績も悪いわけではなかったので、母親は問題にしてなかった。

 しかしここへ来て問題になってきたのだ。
 幹太がいつまでも多保を起こすのは、今後の多保のためにならないと思えてきたからだ。

 たとえば、高校、大学までこの症状が続いたとして、ずっと幹太に世話になるわけにもいかない。社会人になれば、幹太だって忙しくなる。そういうわけで多保にはどうしても自力で起きて貰わないといけないわけだが、多保は自力で起きられないままだ。

「病気じゃないけどねぇ。なんて言ったらいいのかしら」
 母親もここにきて困っていた。
 早穂は多保が精神的な何かが問題であることを知らない。早穂が起こしても起きることは起きるが、多保は自分から何も出来ないのだ。

 
 その二階では幹太が多保を起こしているところだった。

「多保、おはよう。朝だよ」
 耳元でそう呼んで挨拶をして多保の肩を撫でる。すると多保の瞼が開いて、もぞもぞと布団から出てくる。

「多保、二度寝は駄目だぞ。そうしたら学校間に合わない。あくび一回したら布団から出て着替える」
 幹太はそう言うとクローゼットから勝手に制服を出してくる。それをベッドに置いてやると多保は自分で着替えることが出来るようになっていた。

 ここまでさせるのにはかなり苦労した。多保は寝起きは大抵何も出来ない。だが、最近はやっとここまでやれるように出来た。
 言葉を投げてやって、多保が無意識でも従うように誘導するのに一年かけた。

 ベッドから這い出た多保はもう一回あくびをして着替え始めた。それを確認すると幹太は多保から目をそらした。

 二年前から幹太は多保の裸を見ることで、興奮するようになってしまった。一年前には多保の意識がまだ浮上してないのをいいことに、体中を触ったこともある。ハッとした我に返った時、幹太は自分の欲望に気づいて呆然とした。

 信頼してくれている人たちを裏切って、多保に手を出そうとした。このことが幹太には禁忌を犯しているのだと気づいて、すぐに多保との間に壁を作ることにした。

 それが着替えは多保の無意識でもやれるようにである。そこまでもっていくのに半年、今では声をかけるだけで多保は着替えを出来るようになった。

 幹太はここまでなんとか自制心を強くさせて多保の寝起きに挑んでいた。周りには普段通りに見えるように演じてきたが、そろそろ限界だった。

 多保の体を意識するようになって、いろいろ調べた。ただ男の体に興味があるだけなのか、それとも多保にだけそう思うのか。学校が特殊なところだったから知識は初めからあったが、肝心なところを知ってなかった。

 男が男を好きになる理由や条件。
 いつも側にいた多保に欲情するなんて、多保に言えるわけがない。なるべく多保と居る時間を減らし、離れてみようとしたが、思いは募るばかりで、幹太は自分が多保のことだけを好きなのだと気づいた。

 多保を好きで、その体に欲情し、抱きたいと思う。そのことを絶対に多保に知られたくなかった。
 そうしたことを思うことすら、多保に失礼だと思ったし、多保がそんな幹太を受け入れるわけがないと分かっていたからだ。

 嫌われる前に離れてしまおう。なるべく早くに、多保に何かしてしまうまえに、離れてしまおう。そう考えて、幹太は去年からいろいろ計画を立てていた。その一つが、多保の寝起きをどうにかすることだった。

 着替えが済んだ多保は、幹太の側に来て幹太の腕を引っ張る。
 これは幹太が教えたわけじゃないが、着替えを見なくなってから多保がするようになったことの一つだ。
 多保は無防備に不安顔になり、幹太の腕を引っ張って合図する。

 ねえ、これでいいのかな? とでも言っているかのようにだ。
 これが猛烈に可愛い行動であるのに多保が気づいてないのが幹太の心臓に悪いことだ。
 普段が普段だけに、想像すら誰も出来ない。

「多保ちゃん、それは俺の中では萌えなんですよ……まあ、わかんないか。それじゃ下行ってご飯食べようか」
 そう幹太が言うと多保は鞄を持ってついてくる。これがまた悩殺されるくらいに可愛いのだが、この姿は修学旅行でも誰にも見せていない。絶対に誰かがおかしくなるのはわかりきっていたからだ。
 気をつけていたが、これも幹太が相手でないとしないらしい。何度か早穂にもお願いして試してみたら、多保はこんなことはしないのだという。

 段々と幹太が起こしにくる機会を減らしてみているが、早穂はまともに多保が起きてくれないと文句を言う。だが、それに慣れて貰わないといけない。

 だって自分は来年からいないのだから。

 一階へ下りていくと、ちょうど早穂がご飯を食べ終えて健太たちと出かけるところだった。

「幹ちゃんおつかれ。じゃ先行くね」
 三人が出かけるのを見送って、多保を席につけると多保の母親が幹太に近寄ってきてこそっと話しかけてきた。

「幹太くん、あの話、本当なの?」
 さすがに多保にはまだ耳に入れたくないのは分かっているようだった。

「あ、はい」
「そう。残念ね。多保にはまだ話してないのね?」

「あー、はい。はっきり決まったわけじゃないんで」
 幹太は笑いながらそう言っていた。
 本当はもう決まっている。自分は行くつもりでいる。だが、まだ推薦は貰っていない。なので話すのは推薦が出てからにしようと思っているのだ。

 幹太は多保から離れるために、高校を別の高校にしようとしている。
 それも簡単には会いに来られない、会いに行けないような遠い学校への推薦だ。空手をしている幹太ならそれが貰えるし、向こうの学校も幹太には来て欲しいと思っている。だから、ちょうどよかった話だった。

 父親からその話が出たのは、去年の12月だった。多保とのことに悩んでいた幹太は、その話に興味を持った。
 多保の寝起きのことをどうにかしようと思っていた矢先だっただけに、きっかけとしてはちょうどよかった。そうして幹太は多保には内緒に進路を変更し、第一希望を別の学校にした。

 今月、12月に幹太の推薦の話が前鹿川家にバレた。知っているのは多保の両親だけだが、いずれ幹太の兄弟からそれが早穂にバレるだろう。
 その前に、多保には話さないといけない。

「俺から話すんで、出来ればそれまで多保には秘密にしておいて欲しいです」
 幹太がそう願い出ると、母親は違う風に勘違いをして言っていた。

「多保が我が儘言うかもしれないからね。幹太くんの進路だもの。多保の我が儘につきあうことはないわよ」
 そうじゃない。幹太は自分は逃げようとしているのだと分かっていた。
 

「んでさ、本当に今までバレてないわけ? 多保マジで鈍いなあ」
 そう言って他人事とばかりに笑うのは岸本守だ。彼は中学外部入学をしてきたが、今は完全にこの学校に馴染んでいる人間だ。

 入ってきたのは2組だったから、ずっと幹太や多保とは同じクラスで、一度も2組から落ちたことはない。そうして同じクラスで3年まで過ごせば、ある程度のことは受け入れられるものだが、岸本はあらゆることを受け入れてしまっている変人だ。

 幹太が多保に欲情しているのに最初に気づいたのも岸本で、特に変だとは言わなかった。それがせめてもの救いだろうか。
 多保が全然気づかないことも、周りは大抵知っている。だが一番に気がつくのはいつでも岸本だ。だから相談となればいつでも岸本になってしまうのは自然なことになっていた。

「多保が鈍いのは分かってるし……」
 別にそのことは問題ではないとしている幹太に岸本は厳しいことを言って返す。

「お前が結構献身的にやってることも、多保は当然と思ってるわけだ。お前は多保のことは何でも知ってるのに、多保はお前の秘密っつーか周りも知ってることも知ろうともしてくれないただの幼なじみ以下ってことだなあ」
 岸本の言葉に幹太は凹んだ。

 そうその通りなのだ。
 別に岸本は意地悪をして言っているのではなく、岸本から見た多保はそう見えるというだけの話だ。それは事実で、否定しようがない。

 多保は、幹太のことを幼なじみと思っているが、今はそれ以下とも言えた。幹太が好きだと思っていることにも気づかずに、幹太が欲情して妙な目でみていることにも気づかない。あげく、進路を変えたことにすら気づいてくれない。
 それだけ幹太のことに多保は関心がないというのは見ていれば分かることだ。

 当然、幹太が告白したところで、歯牙にもかけてもらえないことは明らかすぎた。望むだけ無駄だと分かっていただけに余計に凹む。

「岸本、意地悪過ぎだ。幹太凹んじゃう」

「凹め凹め。めり込んで地球の反対側にいっちまえ」
「ちなみにここから地球の反対側は海の上だと思うんです。ブラジルには泳がないといけません」 

「へえ、昔はよくブラジルへ行けると思ってたんだけどなあ」

「地図を見れば分かることです。ぎりぎり沖縄がセーフだそうです」
 文句を言いながらも幹太を突っ込んでそう言っていた。幹太は昔からその話は聞いたことがあったが、どう考えても無理じゃんと多保が突っ込んでいたことを思い出したのだ。

「おお、そうなんだ。マジ知らなかった」

「岸本の周りだけだと思うよ。普通に知ってる人いるしネタ自体古いし」
 幹太は言いながらがっくりとした。なんでこんな会話になってるのか訳がわからない。

「まあいいや。んでお前は告白して玉砕してから行くのか、黙ったまま「俺空手でオリンピック行くんだ」とか言って納得させるのか?」

「岸本、空手はオリンピック競技にないんで、嘘バレバレです。2012年でも候補落ちしたんです。俺が選手やってられる期間にオリンピック競技になるのは難しいんです」

「ああーそういや柔道はよくやってるが、空手ってなかったな、なんでだ?」
 岸本は純粋に不思議がって聞いてきた。

「流派とか、国際的なルールの問題かな。柔道みたいに見せ場になるようなモノじゃないし、技決めたってはっきり素人に分からないんだよ。空手は寸止めが基本だし、スピードになると判定も難しいと言われて、ルール決める時点で国際的に作ると判定が甘くなってしまうから。実際国際ルールの突きより蹴りが高得点とかわけわからんし。蹴りから体制崩したところに入れる突きが高得点じゃないって馬鹿にしてんのかと。それに胴衣に青とか色着いたら俺泣く」
 切々と語る内容に岸本もうむーと納得している。

「確かに俺も柔道着に色がついた時はなんだか泣きそうだったな。というか、お前今ごまかしてるだろ」

「うん、岸本にはバレてると思った」
 告白するのかしないのかの問いを思いっきり空手のことで誤魔化していたのにバレていた。
 そこのところをはっきりするのかしないままにしておくのかは悩みどころだ。

「お前さ、決めておかないとたぶん詰め寄られた時にテンパッて余計なこといいそうじゃん。実際にキレて馬鹿やったこともあるんだしよ」
 岸本が言うのは、中学になってから多保のことを追い回していた相手に幹太がとうとうキレ、向こうが実力行使をしてきたので思わず空手で応戦してしまったことだ。

 あの時、試合も近かったので事件を起こすのはマズイことだったが、その時はさすがに多保もキレて追いかけ回していた方が先に手を出したこともあり、問題にはならなかったが、一歩間違えば大問題になっていたところだった。
 そうしたこともあって、父親も幹太を多保から離すようにしようと決めたらしい。幹太が多保に構う理由を父親は知っているからだ。

 幹太が多保を同性ではあるが、性の対象として見てることを父親は知っていて、何か間違いが起る前に多保に危害を加えないようにしとようとしているのだ。それは幹太も同じ思いだった。

 幹太は多保と何かあったら近くにいるだけ自分が凶暴になるような気がするのだ。それこそ、自制心を押さえられないくらいに。
 距離を置きだした幹太に父親は幹太が多保と離れる覚悟をしたのだと思っている。

 だが、多保は気づいていない。
 父親すらも気づいてしまうようなそんな目で見ているのに、多保は幹太を安全だと思っている。それは間違いなのに。

「思いっきりフラれて、思いっきり凹んだら、別の学校へ行ってもやっていけるかなあ」

「お前ならどこでもやっていける。むしろ多保がいない方がお前らしくなるんじゃないかな」
 岸本はそう言っていた。

 昔の、まだ多保を意識していない時の幹太は本当にどこにでもいる、良いヤツなのだ。ただ多保のことが絡むと非常に危険になるだけだ。
 その危険な部分を省くとすると、多保と離れることになる。

「高校行ったら岸本に多保のこと頼んでいいかな」

「俺に頼むことでもない。たぶん、お前が嫌われたら俺も一緒に嫌われるだろうしな。お前の推薦のこと黙ってたことで多保と喧嘩になるだろうし」

「お前、言いたいこと言いっぱなしにしそうだな」

「俺は性格が悪いんだ。お前以上にな」
 岸本は元々多保のあまりに幹太への関心のなさに腹が立っていたらしい。友達だとか幼なじみだとか言えば、大抵のことを知っているし、関心だって持てるはずだ。なのに多保にはそれがない。まるで世界がそこで終わっているかのような態度なのだ。

 幹太がいなければ多保だってクラスで馴染めたかどうか分からないというのにだ。彼は一度も感謝したことはないだろう。そこに腹が立つのだ。

 岸本は多保とも友達だが、多保は岸本にも興味はないだろう。それはいいとしても、幹太へのあまりにも無関心、それが岸本の口を悪くする。

「俺に逃げられて、岸本にも嫌われたら、多保どうするんだろう……やっぱ俺居た方がいいのかな」

「そうやって過保護にするから多保はいつまでも他人のことに興味が持てないんだよ。一度突き放してやった方がいい。その方が多保のためだ」
 岸本がそう言って話を打ち切ると、幹太はそれに文句を言えなかった。

 多保の他人への無関心は、小学生になった時に起った、小さな事件が発端だった。
 その事実を知っているのは、幹太と、それを話した岸本だけだった。

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