Distance やわらかな傷跡

6

 水渚(なぎさ)が走り去ってしまい、大介はそれを追いかけることが出来なかった。
 どういう意味であれを言ったのかは、想像出来る。

 まさか、氷室のお爺が既に水渚と接触しているとは、予想外だった。これはもうけん制だろう。何もしてくれるなという。

 ずっと可愛かった子供が、十分に大人の考えを持つようになるのには、3年は長かったのだろうか。

 ここは引き止めるべきではないと頭では解っているのに、いざこの手を離れるとなると、感情がついていかない。

 ずっと、ずっと手放したくなかったのだと。思った以上に思っていたらしい。

 この感覚は、斗織の時にはなかったものだ。妙な独占欲がある。あれは私のだと、そう言ってしまいたいくらいに執着しているものでもある。
 水渚を引き取ったのも意地ではない。正気になった時、傍に居てくれたあの子を愛しいと思ったのだ。

 だが、あの子が悲しい思いをしている時に自分が何をやっていたかと思い出すと、強く言えない。肝心な時に自分はいつも役に立たない。それを今も痛感している。

「斗織、私は何か間違ったのでしょうか? 貴方が居なくなってから、何かが違うような気がします」
 独り言のように呟く。
 聞いている相手も、答えてくれる相手もいないのに、時々こうして呟いてしまう。

「貴方はいつも無言だ……本当に酷い」
 誰もこんな感情を教えてはくれなかった。ただ相手を憎むこと。そして、憎みきることしか出来なかった自分が、あの子を受け止めてやれるのか?

 あの子が選ぶなら、それはそれで従うしかないとは思う。それを邪魔する権利は自分には無い。
 保護者ではないとバレてしまった以上、自分に何が出来る?

 だが、まだやるべきことが残っている。あの子がこの手を離れるなら、その前にこの問題をどうにかしなければならないだろう。

 そうしなければ、あの子は安心して暮らしていけない。
 何より望むは、あの子の安全だけだ。たとえ自分を犠牲にしても、それだけはいつも最優先事項だった。

 ふと、現れた気配に、大介の神経はそちらへと向いた。
 時々、それもここ最近になって、現れるようになった、覚えのある気配。姿は絶対に見せないが、これはアレだと直感で解る。

 今更何をしに。そして、何が目的だ。水渚の何が狙いか。
 それがはっきりしない限り、まだ水渚を手放す訳にはいかなかった。









 大介が追ってきてくれなかったことは、大体予想がついていた。
 暫くして、玄関が開く音がして、そしてドアを開けようとしているようだが、今日は、多分ここへきて初めて鍵をかけた。
 コンコンとノックがされ、大介が言う。

「もう寝るのなら、風邪をひかないように。何かあったら仕事部屋にいるから声をかけて」
 そう言って足音も消えた。

 それをドアの前で聞いていた水渚は、泣き笑いのような顔を浮かべた。
 さっきのことに関して、大介が何か言うのなら聞こうと思ったが、向こうはそれを言おうとさえしない。最終通告さえしてくれない。

 いっそ、追い出してくれてもいいのに。

 そう考えて、一瞬足元が崩れるような感覚に襲われる。追い出されたら、多分もう立ってられない。それくらいに自分は弱っている。
 出来れば、自分から離れてしまおうと決心して言ったのに、それすら受け入れてはもらえないらしい。

 でも、この時になって、初めて斗織の気持ちが解った。大介と別れることになった、それも置いていく形になった時、斗織はこうやって自分を追い詰めたのだろう。

 裏切られたと思う方は、憎めばいいが、置いていく方がどう思われても何も言えないのだ。

「ねえ、斗織。こんな気持ちだった? 大介を置いていく時、憎まれてもいいって思ったんだよね? でもそれは貴方が死ぬから、その後、何も考えないでいいから、随分楽だったよね」

 自分はまだ生きている。死ぬ予定だってない。離れれば、離れただけ大介を思ってしまう。それでも相手から憎まれている以上、何か出来るわけでもないのだ。
 これは予想外に辛い。

 もう何もする気が起きなくて、水渚はそのまま夜を明かすことになってしまった。

 その次の日に、水渚の携帯に珍しい番号から電話がかかってきた。

「あれ? 梧桐(ごとう)?」
 電話に出てみると、相手は梧桐だった。

『よう、なんだ? 徹夜明けみたいな声して』

「番号教えてないよね? 誰に聞いた?」

『それは情報屋の仕事。で、お前なんかあったのか?』

「……何で解る」

『まあ、一昨日おかしかったし。何かあるなら昨日だろうなと。調子悪いなら今度でいいけど』
 梧桐は凄くシンプルに答えているから、こっちも度肝と抜かれる。

 確かに色々あった。それを全部話してしまいたいという衝動にかられるのは何故だろうか。
 相手が梧桐だからか? それとも誰でもいいのか?

「いや、何か用だった?」
 番号を調べてくる辺りから、何か用事があったのだろうと思われる。

『急用でもない。つーか、俺が暇だから構ってもらおうかなと』

「なんだそれ?」
 思わずプッと吹き出して笑ってしまった。不覚だ。

『祥真(しょうま)も末乃(まの)も今原稿中でな。俺は邪魔なんだと。まったく親友に対してそれはないんじゃねえって思うわけだ。試験明けで命いっぱい遊ぼうと思ってた矢先にやられたって感じだよ』

「ああ、コミケだっけ? あいつ大丈夫なのか?」

『運営側も対処してくれるらしいし、周りも協力してくれるんだと。表立って売り子はやる訳にはいかないから、それはそれで用意するとして。なにより、あいつがやりたいと思ってるなら仕方ないから協力してやろうって。乗り越えるには何かが必要なんじゃない?』

「へえ、案外強いんだな」
 もうあんなことには関わりたくないと手を引くだろうと思っていたのに、それに立ち向かうとは結構肝が据わってる。
 人間、支えがあると強くなれるものなのだ。たとえ一度は弱りに弱って死にそうになったとしても、復活してさらに強くなることも出来るということだ。
 祥真はそれを地でいっている。

『つーわけで、俺暇なんだ』
 梧桐の暇そうな誘い文句が可笑しかった。

「なんだ、その下手なナンパは」
 よくいる、俺暇なんだ、だからどっかいこうぜという、使い古された台詞を言われ、またもや水渚は吹き出して笑ってしまう。

『まあいいじゃん。で、出て来れそう?』
 もう行くことになってしまっているようで、断る理由もないかと水渚は了承することにした。

 待ち合わせには最寄り駅を使うことにして、水渚はさっさと出かけた。大介には梧桐と出かけてくると言ってきたが、特に反応はなかった。
 昨日の嘘がきいているようだ。微塵も疑いもしない。

 最寄り駅に着くと、梧桐は既にきていた。

「よう」

「あれ? こっから近かったっけ?」
 水渚がそう首を傾げると、梧桐はニヤリとして言った。

「実は、電話した時、既にここにいた」

「……お前、これで僕が出てこなかったら、意味がないだろ?」
 まさかそんなことだったとは思わず、水渚は驚いてしまった。

「出てきたじゃん、それでよし」
 結構前向きでマイペースな梧桐に水渚は呆れ返ってしまった。

「で、何処行くんだ?」

「さて、初デートは何処がよろしいですか?」

 …………。
 言葉なく見つめ合ってしまった。

「梧桐、寒いよ。極寒だよ」
 肩を抱いて水渚が叫ぶ。

「おお、ブリザード来たな」
 極寒にでもいるように、思わず二人で震えてしまった。
 一通り梧桐の寒いギャグを聞き流してから、本題に入った。

「ま、あんま歩くより、どっか入って何か食べようか」

「うーん、食欲はないんだよね」

「飯食ったばっか?」

「ああうん、そう」

 食べたくないからとは言えず、食べたばかりだと主張した方が自然だったかと、思わず自分の発言を叱咤したくなる。どうも最近弱くなっているせいか誤魔化し方かうまくいかないような気がする。

 とりあえずと、梧桐が気に入って通っているレストランに行く。そこでドリンクバーを頼んで、梧桐は普通に食事を取る。

「いやー、お前目立つ目立つ」
 ご飯を二人前詰め込んだ梧桐は、ドリンクバーでコーヒーを入れてきてから、席に座る時にそんなことを言った。

「は?」

「だから、目立つって。学校じゃいるんだかいないんだか解らないくらいに存在感がないんだけど。こういう所に来るとやっぱ勝手が違うというか」

「目立ったら何か悪い? というか、梧桐の方が色んな人に見られているみたいだけど」

 実は二人とも目立っているのだが、自分のことには無頓着な二人だった。

「そういや、さっき、ここに変な外国人いなかったか?」
 梧桐がそう言って指を差したのは、水渚が座っている席の横で、椅子はないところだ。

「え? そんなの気がつかなかったけど」

 水渚はとぼけている訳でもなく、本当にそんな存在、気配すら感じなかったのだ。こんなに近くに居たら、いくら自分がぼーっとしてても、気が付くし、目にも入る位 置だ。

「ちらっと見た時は居たんだけど、パッと振り返ったらもう居なかったんだよな。なんだろ、あの外国人」

「消えた訳でもあるまい。白昼夢かよ」

「まあそうだよな。けど、変だなあ……見間違いにしちゃ嫌にはっきりしてたから」
 梧桐は何だか納得がいかない様子で暫く呟いていたが、見間違いだろうと言って話しを打ち切った。

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