Distance
愛うらら
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とにかく、放心したままの千冬をそのまま電車で帰しては、周りから何をされるのか解らない。世嘉良(せかりょう)の危惧は当然として、千冬を自分の車で連れ帰ることにした。これなら部屋まで安心して運べるからだ。
最初、やっと事の成り行きに気がついた千冬が嫌がったのだが、世嘉良は有無を言わせなかった。
世嘉良曰く、こんな状態で帰りつくわけない。という理由からだったが、せっかく家が隣同士なのだからという言葉に、千冬は甘える形になってしまったのだった。本当なら逃げ帰りたいところなのだが、それは世嘉良がそうはさせないだろうと何故か思ってしまったのだ。
ここで逆らったらどうなるか。そう考えたら何故か怖い感じがしてしまったのも事実である。
「どうせだから、一緒に飯でも食おうや」
世嘉良からそう言い出して、千冬は断る言葉を思いつかなかった。
世嘉良と食事をするのは、これで二度目だ。一度目も確か変な感じで一緒に食事することになってしまったのだが、まあそれは千冬の食生活を心配した世嘉良が気を利かせてくれたのだろう。でも今回はそういう訳ではなさそうだった。
帰りに二人分の簡単な夕食材料を買い込んで、世嘉良と千冬は家に辿り着いた。
「じゃ、着替えたらこっち来いよ」
世嘉良はそう言うと、千冬の持っていたビニール袋を持って部屋へと帰っていく。どうやら、両親の留守中の家に上がるのが面 倒なわけでなく、勝手が利く、自分の部屋の方がいいのだろう。そんな世嘉良の後姿を見送って、千冬は部屋へと戻った。
今日は何だが変な日だった。世嘉良のしてきたことにもあるのだが、多保や幹太のこともあった。二人がそういう関係であるのは解ったが、それが自分と世嘉良との関係とは何か違っているのではないかと思ってきたからだ。
いくら好きだと言われても、千冬は世嘉良を好きだとは言えなかった。何故言えないのかは解らない。好きだとは自覚してないのだとは千冬には気がつけない状態なのだ。
まったく、自分に何が起こっているのかさえ理解できてない状態では、どうしようもないことなのだ。
制服から私服に着替えて、携帯電話を持つと、千冬は世嘉良に言われた通 りに世嘉良の部屋へと向かった。どうしてこんな状況になったのかもまだよく解らない。何故、自分は世嘉良がしてくる事を許しているのだろうか。それが解らなかったのだ。
玄関のチャイムを押すと、世嘉良がすぐに玄関のドアを開けてくれた。
「さあ、入れよ。食事は今準備してるからな」
世嘉良はそう言って、千冬を部屋に通すと、さっとキッチンへと消えていった。
前と同じ状況で、千冬にはやることがない。手伝おうと思ったのだが、世嘉良が手際よく準備しているのを見ると、邪魔しちゃ悪いかな?と思ってしまう。
「千冬は嫌いなものはなかったよな」
「え、はい」
千冬がそう答えると、世嘉良は振り返って苦笑した。
「だから、断らなくていいから、座れば?」
そう言われて、千冬は大人しくソファに座った。
「今度からは断らなくていいから、自分の家だと思って寛げばいい」
「で、でも、そういうわけには……」
「俺は、千冬に寛いで欲しいな」
「はあ……」
なんで、こんな状況になってるんだろう?
千冬はそう思ってなんだか変なことになってきたと思った。最初はただのお隣さんだったのが、学校の関係者で教師で、今じゃ部活の顧問の先生になっている。 それは、別 に珍しくもないのだろうが、それ以上の関係となると微妙だ。
思い出しても恥ずかしいのだが、今日、世嘉良にされた事は、思い出しても恥ずかしいっていうものではない。もう羞恥。それ以上に誰にも言えない事なのだ。まさか、自分があんな状態になるとは思ってもみなかった。流されている?とは思うが、自分の感情がわからない。
好きってなんだっけ?
そんな言葉が浮かぶ。世嘉良は自分を好きだと言ってあんな事をしてきたのだが、本当に何が好きなのかが解らないのだ。
今まで、人に好きとか言われた経験がなく、しかも同性から言われた事もない。
初恋は、無残にも、女の子に嫌われて実らなかった。自分はその女の子を可愛いと思っていたのに、その女の子は千冬の外見が気に入らなかったらしい。
こんな、女のような童顔の男に好きだと言われても女の子は困るしかなかったのだ。
でも、それは千冬が思っているような事ではない。女の子は自分より可愛い男の子の存在が許せなかっただけだったのだ。引き立て役にしかならないと思ったのだろう、それだけで千冬は恋愛の対象外にされてしまったのだ。
それからの千冬は女の子に恋をするような事はなかった。それからまもなくしてイジメが始まったからだ。心を閉ざして、イジメを切り抜け、それでも人恋しくて堪らなかった心を押さえつけてしまうことを覚えてしまった。
それが少し変わったのは、母親の再婚だろう。その父親となった男は、千冬を本当に可愛がってくれた。事あるごとに可愛いといい、本当に出来た子だと褒め、本当にそう思っていってくれてるのが解って、嬉しいと思ったのだ。それから千冬は少しだけ変わった。
好意を向けてくれる相手に対して、少し寛容になったのだろう。許せると思ってしまったのだ。
でも、同年代ではまだ巧くいかないことも多い。その分年上から言われると弱いのかもしれない。
でも、世嘉良がしてくる事の意味は全然解っていなかった。どう理解すればいいのか誰も教えてはくれないし、そんな教材なんてないのだ。 こうして食事を作ってくれることも戸惑いはある。何故、そこまでしてくるのかも解らないのだから。
「ちょっと悪い。千冬、皿出してくれるか?」
世嘉良はそう言いながら、フライパンを持ってうろうろしていた。
「あ、はい」
千冬は素早く立ち上がって、キッチンに向かった。世嘉良が出してくれと言った皿を戸棚で見つけて、軽く洗ってキッチンの隙間に置いた。
「サンキュ」
世嘉良はそう言って機嫌よく皿に料理を盛り付けていく。今日は、フライパンで焼いた焼肉だ。何故か世嘉良が千冬には肉が足りないと言い出して、でも焼肉セットは持ってなかったのでこうなってしまったのだ。
「あの、ご飯入れましょうか?」
千冬がそう申し出ると、世嘉良はん?っという顔をしたが、拒否はしなかった。任せると言って、戸棚から茶碗を出してくれた。
「今朝、炊いてあったのだから、あんま美味くないかもしれないけど」
世嘉良がそう言ったので、千冬は思わず言ってしまう。
「それなら、炊いたご飯を少し冷まして、ラップに茶碗一杯分を巻いて冷凍しておけば、いつでもレンジでチンして美味しいのが食べられますよ」
ずっと家事をしてきた千冬が出した答えに、世嘉良は少し驚いた顔をして聞いてきた。
「よく、そんな方法知ってるな?」
「ええ、まあ。母が忙しかった時は俺がご飯作ってましたし、それで家事は出来るようになったんです。再婚してからも、結局俺がやる羽目になったし」
千冬はなんでもないとばかりに答えた。それが千冬にとっては普通の出来事であり、他所がどうしてるかなど気になどしてなかったからだ。
千冬の家庭環境をよく知らない世嘉良には驚く出来事ではあったらしい。少し見開いた目が千冬を見ていたからだ。
「だから、一人暮らししても大丈夫なわけか……」
妙に納得したような顔をして世嘉良は言った。
「大丈夫って訳じゃないですけど、家事は大丈夫だって、お父さんも言ってたから……」
そう、生活面では千冬は大丈夫ではある。でも一人暮らしをするにあたっては、父親はかなり難色を示したのだ。一人は可哀想だの、心配だの言って、駄 々をこねたのは母親より父親だった。そういうところは、千冬より子供だった。それを思い出してしまい、千冬はぷっと吹き出して笑ってしまった。
いきなり笑い出した千冬に世嘉良は驚いて聞いてきた。
「なんだ? 何が可笑しい?」
「いえ……すみません。思い出し笑いです。お父さんが、俺が心配で駄々をこねてたのを思い出したんです」
そう言って、千冬は更に笑う。世嘉良はそれを目を細めてみていた。
「そりゃ、俺が一人だったら心配かもしれないけど、母が大丈夫だって言うのに、どうしても心配だって言って聞かなかったんです。説得するにも大変で。学校の事がなかったら、たぶん、俺九州に連れて行かれてたと思います」
「ふむ。その心配は解るな」
「え?」
「千冬は家事が得意。でも、世間に対してはまだ子供だ。それを残していくとなれば、父親なら誰でも心配するだろう。俺でも心配だ」
「先生が?」
何でだろう?
千冬が不思議そうな顔をして見上げると、世嘉良はニヤリと笑って、千冬の頬にキスを落とした。
「な……っ!」
千冬が驚いてさっと後ろに下がると、世嘉良はこう言ったのである。
「だから、こういう悪い狼がいるって事だよ。学校も安全とは言えないしな。ああ、俺も凄い心配だ」
全然心配なんかしていない顔で平気でそんな言葉を口にしている。千冬は唖然として世嘉良を見上げていた。
なんか、からかわれているのかな?うそ臭い感じがするんだけど……。
不審な目で千冬が見上げると、世嘉良はニヤリとしている。いつもの世嘉良のからかいなのだろうか?
「千冬は、こうして簡単に頬とかにキスさせるのか?」
そう言われて、千冬は憤然として怒った。
「そんな事するの、世嘉良先生だけですよ!」
本当にそうだから、千冬は素直にそう答えた。そんな事してくるのは本当に世嘉良だけだ。今までだって誰にもそんなことされたことはないのだから。
「そうか。俺以外にそんなことをさせるなよ。千冬は俺のものなんだからな」
世嘉良はそう言って、千冬の頬を両手で包んで真剣にそう言ってきたのである。
「え……あの……」
いきなり、真剣になられてしまって千冬は戸惑ってしまう。これもいつもの世嘉良の戯言だったなら、怒鳴って何言ってるんですか!と言えるのだが、今度は何か雰囲気が違う。
でも、自分が世嘉良のものというのはどういうことなのだろうか……?自分は誰のものにもなっていないのに……。
じっと見つめてくる世嘉良の瞳がいつになく真剣で、そして深い。吸い込まれそうな深い闇のような気がして怖いのだが、反らす事は出来なかった。
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あれは一体なんだったのだろう?
千冬は布団に入ってから、ふと思い出した。
そう、さっき世嘉良(せかりょう)が見せた真剣な目。あれが気になって仕方ない。
あの後、世嘉良はニコリと笑ってさあ、ご飯を食べようと言って、それ以上その話題を出すこともなく、いつものニヤリとした笑みを浮かべて千冬に戯言を言って遊んでいた。それは普段の世嘉良で、さっき見せた本気のような顔ではなかった。
それに千冬はホッとしたのだけれど、お風呂に入って布団に入ったとたん、あの瞳を思い出してしまったのだ。
「あれは、何だったんだろう」
声に出したところで答えが見つかるものでもないのは解っていたが、それでも声に出てしまった。
答えなんてきっと見つからないに決まっている。何故かそう思えた。世嘉良が何を考えているのかがわからない以上、あれの意味を考えるのは時間の無駄 のような気がしてならない。
「俺のもの……ってなんだよ。いつ先生のものになったんだよ……。解んない」
世嘉良が酔狂なのは解ったが、本心が何処にあるのかが解らなかった。
「駄目だ、寝よ」
千冬はそれ以上考えるのを止めることにした。このままじゃ眠れないからだ。
そう考えて、布団を頭から被って寝返りをうった。その日は都合よく睡魔がやってきてくれて、千冬はそれ以上何も考えることなく眠ることが出来たのだった。
世嘉良はソファでスケッチブックを広げて、そこに何の意味も無いものを描きながら考えに没頭していた。手元は動くのだが、考えの方が纏まらない。珍しいこともあるものだと思わず自分を笑ってしまう。
まさか、自分があんなことを思っていたとは意外だった。ふっと笑いが漏れてしまう。
出来れば、千冬を怖がらすことはしたくなかったのに、意思とは反して地が出てしまったようだ。誤魔化してはみたが、巧くいったかどうかも判断が出来ないとは……。
意外に自分に余裕がなかったんだなと、自嘲してしまう。
千冬を欲しいと思ったのは、本当に一目惚れといっていいくらいだ。ふと目の前に現れた瞬間に、欲しいと思ってしまった。隣に住むのはラッキーだと思ったし、学校が同じでしかも部活まで一緒だ。ここまでは運できたようなものだ。
後は、自分で千冬を振り向かせるしかないのだが、千冬が笑っている姿を見て、酔狂な自分を演じる事が出来なかった。あれでは、怖がらせてしまったかもしれない。
本当に千冬は純粋で、男が男を求めることがあるとは、あまり理解していない。そこに付け込んで自分の方を振り向かせよう、考えられなくしようと思ったのだ。
そうすれば、千冬は自分から逃げることが出来なくなると思ったのだが、今日ので少し失敗をしたかもしれない。貪欲に求めていると気づかれた逃げられてしまう。他の男と同じことをしてはいけない。あくまでゆっくりと自分に慣らしていくのだと決めたのだが、まさか、千冬の父親までに嫉妬するとは思わなかった。 千冬の心を占めているのは、自分であって欲しいと求めてしまった。
明日になって、千冬が自分にどう接するかで今後を決めるしかない。 そう考えたところで、世嘉良は、自分が描いていたものをみて、思わず笑みが零れてしまった。
そこに描きあがっていたのは、今日見た千冬が達した瞬間の顔だったのだった。
学校へ着いて、千冬はふと前の席に多保がいないことに気がついた。
「あれ、多保は?」
幹太はちゃんと席に座っているのに、朝が苦手な多保が席にいないのは変である。今まで一度もそんなことはなかったからだ。
「あー多保ね」
幹太が振り返って千冬を見上げた。なんか様子が変である。
「どうしたの? 休み?」
「あーんーまあ、そうだな」
なんともはっきりしない返事である。
「何かあったの?」
千冬は心配になってそう聞き返すと、幹太が千冬を手招きして呼んで、こっそりと言ったのだった。
「多保は風邪だって言えっていったんだけどさ。実は、ちょっとやりすぎてな」
「は?」
やり過ぎてってなんだろ?
千冬が解らない顔をしていると、幹太は更にこっそりと言うのである。
「だから、あっちの方でな」
「あっちってどっち?」
「いや、だから……あー千冬に言っても解らないか……」
「?」
千冬が不思議な顔をしていると、幹太ははあっと息を吐いて、頭をがしがしと掻いている。
千冬にはさっぱり意味が解らない隠語を使われたような気がして、幹太が何を言いたいのかが理解できない。
すると、隣でこっそりが聞こえていたのか、岸本がぶっと吹き出して笑い出したのだ。
「あはははははーっ。幹太、而摩に詳細伏せて言うのは、どうかと思うぞ。なんたって天然だ。しかも、あの恐ろしいやつ相手にしても平然としてるような天然だぞ」
岸本はそう言って涙を拭いている。何がそこまで可笑しいのか。千冬は不満に思った。今の話で岸本にはわかったのに自分には解らなかった事を天然で片付けられてしまったのだから。
「まあ、午後には出てくるんじゃない?」
「そうなの?」
「うん、本人その気だから」
風邪と誤魔化すような体調にあるのに、出て来られるような体調?
千冬がいくら考え込んでも解らない事である。
まあ、多保が出てくるなら、気にする程でもないのかもしれないと千冬は思い直していた。
そして、岸本の予想通り、多保は午後になる前に学校に出てきた。理由は風邪気味で医者にいっていたという理由だったのだが、それは誤魔化しであるのは幹太が言っていた。それなのに、多保は何故か凄くだるそうなのだ。
「多保、大丈夫?」
千冬がそう多保に聞くと、多保は一瞬困った顔をしたが、すぐに大丈夫だと答えた。
「あ、あのね。多保。幹太がやり過ぎたっていってたあっちって何?」
千冬は素直に真っ直ぐに多保に尋ねていた。
その瞬間、多保は固まるし、幹太は飲んでいたジュースを器官に入れて咳き込んでいるし、岸本は爆笑しているしで、千冬は自分がとんでもない事を言ったとは思ってないから何が起こったのか理解出来なかった。
だが、次の瞬間。多保が地を這うような低い声で幹太の名前を呼んだのである。
「かーんーたー!」
物凄い形相に、千冬は自分も怒られるような気がして、思わず背を伸ばしてしまった。
「ご、ごめん!」
「逃げるな!」
だっと駆け出した幹太を追って、多保まで走って教室を出ていってしまった。
教室では、いつもの事だと思ったのか、一瞬は驚いた生徒達もすぐに雑談に戻っていく。
「あ、あの。岸本」
「んー?」
「俺、なんか、幹太を窮地に追い込んだのかな……?」
多保の形相を思い出すと、どうしてもそうなってしまう。それに岸本はケラケラ笑って手を振った。
「まあ、爆弾を投下したのが而摩(しま)って事だけで、幹太はどうせ自滅する材料を得意に喋っただけだよ」
「……はっきり言ってくれない?」
「ま、而摩も知ってた方がいいかもな。あっちはエッチの事。やり過ぎはそのままやり過ぎって言えばいいか?」
それを聞いた瞬間、千冬は目を見開いて本当に知らなかったという顔をしたが、すぐにかあっと顔を真っ赤にして机に突っ伏してしまった。
あ……あれがそういう意味で……うわ、俺何言って……うわ!
「あーあー、而摩撃沈。まさか、世嘉良(せかりょう)先生、奥手なのかなあ?」
岸本がいきなりそう言ったので、千冬はがばっと起き上がって岸本に叫んだ。
「な、なんで! 世嘉良先生と俺が! ななななな」
千冬が慌ててそう言うと、岸本はふむという顔になって言った。
「まだなんだ。意外だなあ。もう食われてるかと思ったんだけど」
岸本はふむふむと何度も頷きながらそういうのである。
「く、食われた……って……」
「美味しく戴かれたのかとでも言おうか?」
「丁寧に言えばいいってもんじゃない!」
千冬はそう怒鳴って、はあっとため息を吐いた。なんでこうなるんだよと言いたいところだ。
「いやあ、而摩には悪いけど、あの先生、結構やり手みたいに見えるし、手は速そうだなあとは思うんだけど、まだ食ってない……」
「それはもういいって……」
千冬はがくっとなってしまう。
世嘉良に食われるということは、つまり、エッチをするということになるのだ。そんなのあり得ないと千冬は思ったのだが、ふと、昨日の出来事を思い出して、更に顔を真っ赤にしてしまった。
あ、あれってあれって……まさか。
世嘉良にされたあれは、まさか食われる序奏という事ではないだろうか。そう考えてしまったからである。
「おや? 何かあったのかな。而摩君」
ニヤニヤしながら岸本が言う。
意地が悪い……岸本って。
「ま、美味しく戴かれちゃったら報告してな」
「な、なんで!」
「そりゃ、而摩のこと、心配だしなあ」
「面白がってないか?」
「いやいや、そんなことはないぞ。本当に心配してるんじゃないか。あの先生だぞ。そりゃ無体なことはしないだろうけど、相当きつそうじゃん。それにしつこそうだし、いじめそうだし、ねちねちしてそうだし、俺様だし」
「俺様は認める……」
確かに世嘉良は俺様だ。自分が優位に立っていると思ってるし、自信もあるのだろう。そうした雰囲気がする人である。
なんで、そんな人が自分に構うのかがいまいち解らないところでもある。酔狂だけでは、あんなことは言わないような気がするのだ。
千冬は俺のものだからな。
その言葉にどんな意味があるのか、今まで考えなかったのだが、それは、多保や幹太のような関係のことをいっているのだろうか。
それとも違う?
珍しいおもちゃが手に入ったから喜んでいるのかもしれないし。
そう考えて、千冬は何だか嫌な気分になってしまった。
何故か、そう思われていたらと考えたら、突然嫌な気分になってしまったのだ。
その訳は解らない。
なんだか、解らないことばかりのような気がする。
千冬がはあっと息を吐いた時、多保に捕まった幹太が、引きずられるようにして教室に戻ってくる姿が見えた。
それはなんだか面白い光景だなあと暢気なことを考えていたのだった。
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なんとか、幹太を確保してきた多保は、仏頂面で事の顛末を聞いたのだった。
千冬にそんな知識がないことまでわかってなかったらしく、それが通じなかった事が、今回の事態を招いたとあって、多保は少し呆れた顔をしたものだった。
「千冬にそんなこと、吹き込んでるんじゃない……」
がっくりとした多保は、申し訳なさそうに千冬を見ていた。
「ご、ごめん、俺……」
千冬は畏まって、多保に謝った。自分が余計な事を言わなければ、こんな問題にはならなかったのだと悟ったからだ。
「ま、仕方ないよ。千冬が悪いわけじゃないからね。気にしちゃ駄目。悪いのは、幹太だから」
多保はさっきまでの疲れを幹太に怒ることで発散させたようである。お陰でいつも通 りの多保に戻っていた。
「でも、千冬が天然だってよく解ったよ」
散々、さっきから天然と言われ続けてしまって、千冬は困っていた。自分はそんなに天然なのだろうか。
「俺って、そんなに抜けてる?」
ちょっと不安になってそう言うと、三人はうんと一斉に頷いた。これにはもう千冬も自分は天然だと認めるしかないようだ。
「ここまで天然だったら、あの人も大変だろうな」
何気なしに多保が言うと、幹太は。
「案外それが面白いのかもしれないぜ。あの先生のことだ。それなりに考えがあってやってるんだろうし」
そうあの人やらあの先生とは、世嘉良(せかりょう)のことだ。
確かに酔狂なところがあるから、その過程を楽しんでいるというのは十分予想出来ることだった。
ことさら、千冬に関しては、今までの常識が通用しないというところから始まっているようなものだ。
世嘉良でなくても、手こずらせるだろう。
「なんで、そこで俺と世嘉良先生の話になるんだよ」
千冬は納得出来ないとばかりに、そう言って不満をぶちまけた。
「しょうがないじゃないか。あの人が今夢中になってるのは千冬の事だけなんだから」
多保はさも当然だとばかりに言い放った。
「まあ、そのうち多保の仲間入りだしなあ」
そんな事を言った幹太は、当然のように多保に殴られる羽目になったのだった。
授業が終わって、一息ついた千冬は部活があるから、美術室へ向かおうとしていた。
その時だった。
「あ、而摩(しま)ちょっといい?」
声をかけてきたのは、確か隣のクラス、1組の人だ。何故か存在感がある美少年なのだが、油断ならないとさえ言われている人だ。
でも、名前はまだ知らなかった。
「あの……」
「あ、俺、嗄罔水渚(さくら なぎさ)っての。世嘉良先生の家って知ってる?」
いきなりそう尋ねられて、千冬はふっと不快になってしまった。どうしてこの嗄罔(さくら)とかが、世嘉良の自宅を知ろうとしているのが解らないのだが、聞くということは、訪ねるということなのだろう。
「あの、勝手に教えていいか、解らなくて……」
もし、世嘉良が困るようなことにでもなったら、それは住所を教えた自分ということになってしまう。
だが、嗄罔は、ふーんと鼻を鳴らした後言ったのである。
「でも、君は知ってるじゃん。仲がいいってきいたけど、それだけで住所教えるとは思えないな」
ずばりと言われて、千冬はムッとしてしまった。確かに、世嘉良が自分の自宅の隣に住んでいるから住所は知っているだけである。
もし、その偶然がなかったら、世嘉良は自分の住所を教えてくれただろうか? いや、それは教えてはくれなかっただろうと何故かそう思えてきた。
「それで、何か用なの?」
千冬がそう聞くと。
「それは言えない。先生との約束でね」
そう挑発するように言われて、更に千冬はムッとしてしまった。これではまるで、自分では世嘉良には合わないとでも言われているかのようだった。それは隣にいるということも相応しくないと言われた気がしたからだ。
「ま、今日中に渡して欲しいって言われたものを渡したいだけなんだけどね。期限が今日までなんだけど、あの先生、大学へ行ったらしくて、捕まらないんだよね。だから、届け物したいから住所教えてよ」
ここまで言われて断ったら、世嘉良に何で住所教えなかったんだって言われるかもしれないと千冬は考えて、仕方なしに答えた。
「ふーん、隣同士だったんだ」
嗄罔(さくら)はそう言うと、納得したように言って、千冬から預かったメモを振りながら、ありがとと言って去っていった。
嗄罔の言葉には少し妙な事があったのだが、千冬はその矛盾に気がつかなかった。
結局、世嘉良がいなければ、部活をしなければならないという義務も生まれなかったので、千冬は部活はやめて帰路に着くことにした。
部活用の画材を一応美術室に置くことも考えたが、世嘉良がいないのであれば、当然美術室にも入る事は出来ないので、仕方なしにロッカーに画材を押し込めて、玄関へ向かった。
周りは部活が始まったばかりで、結構な人が残っていた。それを脇目に千冬は門を抜けた。最寄り駅までいって電車を待つ。この時間なら、帰宅部の学生はもう帰った後で、部活をしている生徒とは鉢合わせることもなく、電車は空いている状態だった。それでもなんとなく座る気分でもなかったので、出入りがしやすい場所に立って景色を眺めていた。
考えていたのは、もう今日の夕食は何にしようということで、世嘉良のことは考えてなかった。
駅で降りた千冬は、小さなスーパーで買い物を済ませて、とぼとぼと家までたどり着いた。
部屋に入って着替えを済ませると、テレビをつけてからキッチンに立って今日の夕食の下準備をした。
それも手早く終えて、コーヒーを持ってリビングにいって、座ってテレビを観ていた。始まったのは、再放送の二時間サスペンスで、前に見逃していたものだったから楽しみだったはずなのに、内容が一向に頭に入ってこないのだ。
そして、考えているのは、さっきの嗄罔のことだった。あの人は何のためにわざわざ世嘉良の自宅を訪ねようとしているのだろうかということだ。今日中に渡すものといっていたが、世嘉良がいないのだから、明日にでもすればいいのにとなんとなく思っていた。わざわざ家にくるということは、それだけ世嘉良には重要なものなのか、それとも……。
そう余計なことを考えて、千冬は頭を振ってしまった。
まさか、あの嗄罔は、世嘉良のことが好きなのだろうかという事だった。それはあり得ないとはいえない。わざわざ自宅を知りたがるくらいなのだから、何か思うところがあるのかもしれない。
何故か、今まで世嘉良は自分だけに好意を向けてくれていると思っていたが、それは自分の思い過ごしなのかもしれないと思えてきたのだ。
勝手な言い草かもしれない。
今頃になって、世嘉良と嗄罔の関係が気になって仕方が無いのだ。
自分でもどうかしていると思う。それでもその考えは止まることなく、千冬の頭の中を駆け巡る。
結局、楽しみにしていたサスペンスはまったく頭に入ることなく、終わってしまった。
「はあ、俺って何考えてるだろ」
なんだか、馬鹿らしくなってきて、いっそ笑えるくらいだ。
今まで、自分の中で特別な人なんていなかったはずだ。それなのに、いつの間にか世嘉良が入ってきている。これはもうどうしようもないのかもしれない。あの勝手な、そして酔狂な性格の俺様男に翻弄されているのだ。
やっぱり、どうかしてる……。
千冬はそう思って、頭の中を切り替える為に食事の準備をして、一人でそれを食べ、片付けてから、今度は授業の予習をする為に教材を持ってリビングに戻った。
それをやっている間、テレビではニュースが始まって、凄惨な事件の報道をやっていた。
勉強を始めると、頭が切り替えられたのか、世嘉良のことも嗄罔のことも考えることはなくなっていた。
しばらく勉強をして、バラエティーが始まった頃には勉強も一段落していた。すぐにシャワーを浴びて、すっきりさせると、またテレビに向かってバラエティーを堪能した。
途中で、冷蔵庫に入っている水を飲もうと思って開けてみると、水はわずかしか残ってなかった。
「しまった……」
今日は、二リットルの水を買っておく予定だったのを忘れていたのだ。
「仕方ない、コンビニで買ってくるか」
水がないと、後々困るのは自分だからだ。
せっかく着替えたパジャマから私服に着替えて、財布と携帯を持って家を出ようとした。玄関を開けようと思って手をかけた瞬間、外から少し大きな声が聞こえてきた。
「だからって、わざわざ家まで来ることはないだろ」
その声は世嘉良の声だ。
「でも、今日中にこれが欲しいといったのは、先生ですよね」
この声は、確か、嗄罔水渚(さくら なぎさ)の声。
どうやら、千冬の家の前で言い争いをしているようだ。開けるに開けられない状態である。
しばらくすると、歩き去っていく音がした。それはどうやら世嘉良の部屋へ向かっているようだった。
千冬は少しドアを開けて、外を覗いた。ちょうど、世嘉良が先に部屋へ入っていったようで、その後に嗄罔が続いている。
その時だった。
振り返った嗄罔が、ドアを開けてこちらの様子をみている千冬に気がついたようだった。
一瞬、驚いたように目を見開いていたが、次の瞬間、千冬を見て、ニヤッとした顔をして平然と部屋へと入っていったのである。
千冬はそれを呆然として見送っていた。世嘉良の部屋のドアが閉まるまで、千冬はその場に立ち尽くしていたのだった。
何か、とても嫌な感じがした。
嗄罔から感じたのは、優越感とでもいおうか、そうした類のものだったからだ。
千冬は暫く、世嘉良の部屋のドアを見つめていたが、そこは二度と開くことは無かった。
なんだ……誰でもいいんじゃん。
なにか落胆したというか、納得したというか、それでも石でも飲み込んだように胃が重い気がした。
「なんだよ。先生が何をしようと、俺が知ったことかよ」
そうだ。世嘉良が何をしようが、自分が干渉する問題ではないのだ。たとえ、こんな時間に訪ねてきた生徒を自宅へ招きいれようとも、それは千冬には関係ないことなのだ。
千冬はそう自分に納得させるように何度も何度も呟いて、言い聞かせていた。
そうだ。関係ないんだ……。
そうは思ってみても、頭で納得するより、何故か感情の方は思うように納得してくれなくて、コンビニの行き帰りにも、独り言を呟きながらもくもくと歩いて、自宅まで帰っていったのだった。
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