Distance
愛うらら
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翌日。
千冬は朝早くに家を出た。昨日の時間のようなぎりぎりだったり、予定していた時間だったりすると、どうしても世嘉良(せかりょう)と鉢合わせしてしまいそうだったからだ。
昨日の出来事は、今、玄関で世嘉良の玄関を見つめているだけで思い出してしまうくらいに恥ずかしい出来事だった。
ありえないと思いながら眠ったのだが、身体が何処か疼くような感じがして、ドキドキが治まらなかった。それも全部世嘉良のせいだ。あんな事をされたから身体がおかしくなってしまったんだと千冬は思っていた。
でも、何故世嘉良があんな事をしてきたのかは、まだ解っていない。
とにかく、隣に住む以上、必要以上に会うだろうし、ましてや世嘉良は学校の教師だ。嫌でも会うだろう。
それまでには、普通でいたいと千冬は思った。
だから、今ここで世嘉良に会う訳にはいかないのだ。
千冬はゆっくりと玄関のドアを閉め、鍵を掛けて、そろりとエレベーターホールへ向かった。
その間も世嘉良が現れるんじゃないかと怯えながらだったので、長い事そこに居たような気がしていた。エレベーターが閉まって降り始めた瞬間にはホッと息が洩れた程だった。
マンションの入り口でも、車が通るとドキリとしたりしていたが、結局駅に着くまで世嘉良の姿を見つける事はなかった。
なんとか避ける事が出来たようだ。
本当は初日から乗るはずだった電車が来ると、どっと人が乗り込んで行く。出てくる人を避けて、千冬はなんとか車両に乗り込んだ。
学校が近いのはいいのだが、このラッシュにはなかなか慣れないかもしれないと思った。今までは別 の方向へ向かって学校へ通っていたが、今度は学園がある方へ向かう電車は学生で一杯だ。
それも同じ学校の学生ばかりなのが解った。それもそのはず。制服で解るからだ。紺のブレザーに紺のネクタイ。線が入っている色は違うが、中学も同じ制服らしい。
見なれない、オレンジやら青、水色のネクタイ線の生徒もいるからだ。どうやら、高等部だけではなく、中等部も同じようにネクタイ線で学年が解るようになっているらしい。
そんな学生のラッシュに揉まれて、千冬はやっと外へ出る事が出来た。
某駅に着くと、一斉に学生が電車から吐き出される。それも皆が同じ方向へ向かうので、また階段やら通 路が混むのだ。
……こんなラッシュなんだ……。
千冬は初体験したラッシュに少々辟易していた。これなら自転車で通ってもいいかもと思えてしまうからだ。3駅分ならそっちの方が気楽かもしれない。
そう考えたが、部活で遅くなったり、友達と遊びにいったりするのには、やはり電車の方が都合がよさそうだと考え直した。
昨日、多保や幹太に岸本と一緒に遊ぶような事があったら、やはり自転車通 学は邪魔かもしれないと思ったからだ。
千冬は昨日の事が楽しかったので、ぜひまた暇な時に皆で遊びたいと思っていたのだ。
駅を出ると、一斉に吐き出された学生が、道路の通学路を紺色で埋める。友達と来ている人や、待ち合わせなどしている人。とにかく紺色の服の山である。
途中までは、小学部や中等部があるので、学生だらけだが、その校門の前までで学生は半減するようだ。
千冬は駅で一息置いてから、学校へ向けて歩き出した。
これから三年、いや、もしかしたら7年通うことになる道になるのだ。大学までいけば、当然この道を通 る事になる。
「7年かあ……」
元々、大学付属だからこの学校を選んだというのもあるし、それを考えると随分長い時間なのだと思った。でもそれもあっという間に過ぎてしまうのかもしれない。
将来、なりたいモノがまだ決まってない千冬には、これからが本番で、何をして生きて行くかを決める学校でもあるのだ。
一度立ち止まって、それから再び歩き始めた時だった。
「而摩(しま)ー!!」
そう呼ぶ声が後ろから聴こえてきて、千冬は立ち止まった。
而摩という名前は珍しいから、たぶん自分なのだろうけど、それを呼ぶ人がそんなに多くない事に気付いて、千冬は首を傾げて振り返った。
すると、駅の方から走ってくる姿が目に入る。
それは岸本だった。
「あ……」
岸本が手を振って走ってくるので、千冬も手を上げて手を振った。
追い付いてきた岸本は、千冬の横に来ると、肩で息をしながら、はぁはぁと荒い息を何度も吐き出していた。そして深呼吸をして、呼吸を整えている。千冬はそのまま岸本の息が整うのを待っていた。
「はー、おはよう」
岸本はそう言って笑った。
「おはよう」
千冬も自然と笑顔になって、岸本に笑いかけていた。
「電車、この時間だったんだな」
岸本がそう言ったので、千冬は違うと答えた。
「あーいや、本当はもう1本か2本遅い方かな?」
自分で計った始業時間に間に合うのは、もう1~2本遅い電車でも間に合うのだ。千冬の使っている方角の電車は都心部に向かっている為なのか、本数が多いのだ。
「そっか、じゃ、この時間に会うのは偶然だったんだな」
「そうだね」
「で、なんで今日は早かった訳?」
そう岸本に聞かれて千冬は少し言い淀んでしまった。
「あ、あの、目が覚めたのが早かったから、ちょっと早めに家を出てみただけで」
「ふーん、なるほどね。その割に寝不足みたいな顔してるじゃんか」
「え……あの」
千冬は固まってしまう。まさか、世嘉良の事で色々あって眠れなかったとは言えないからだ。まさかそれを口にしてしまう程、千冬も馬鹿ではない。
「休みのつもりで寝るのが遅かったとか、本とかTV観てたとか?」
岸本がそう質問してきたので、千冬はこれに乗ることにした。どうしても言い訳が出来ないからだ。
うんうんと頷くと、岸本は納得したような顔をした。
「俺もネットやってて寝るの遅かったしなぁ。休み気分抜けないよな」
「ネットやってるんだ?」
「今どき、やってない方が珍しいぞ。パソコン持ってないのか?」
岸本は自分の方に話題がきたと喜んで、寝不足の話から離れてくれた。
「パソコンは持ってるけど、ネットはしないから」
「んじゃあ、今度、笑えるモノとかメールで送ってやるから、メルアド、えっとメールアドレス教えてくれよ。メールで秘密の会話とかしようぜ」
そう言われて、千冬は友達同士の会話って楽しいなあっと思った。岸本は気さくだし、軽い感じが千冬には馴染めていい感じなのだ。
「でも、メール送ったら送ったって教えてね。じゃないとパソコン開かないし」
「ほんと、宝の持ち腐れだね。PCにメールしてから携帯にメールか?」
岸本はそう言ってゲラゲラと笑っている。確かにそれは変だなあっと千冬は思った。
「できれば、家計簿のソフトは欲しいかも。あれ便利だよね」
「ああ、便利みたいだな。うちのかあさん使ってるから、それ譲ろうか? 別 に古いバージョンでもいいんだろ?」
「あ、ほんと? 嬉しいな。うんうん」
「じゃ、明日持ってきてやるよ」
「ありがと」
千冬は思わぬ収穫に頬が弛んでしまう。こういうのは本当に楽しいからだ。今までの自分はなんだったんだと思うような機会に出会って千冬は思わぬ 感動が芽生えていた。
「そういえば、多保とか幹太とは一緒に通学してないんだ?」
千冬はふと思い出したように言うと、岸本は笑って答えてくれた。
「あいつらなら、もう来てるよ。通学時間が早いんだよ」
「へぇ、幹太とか寝坊しそうな感じなのにね」
千冬がそう言うと、げらげらと岸本が笑った。なんだ?と思っていると。
「そう思うだろ? ところがどっこい。幹太は早起きなんだぜ。あいつんち、空手の道場やってるらしいんだけど、それで朝練とかあるらしくて、それで早起き。その反対に寝坊なのが多保の方。あれは寝起き悪いというか、無防備っつーか。修学旅行で俺はそれを見たね」
「へぇ、多保の方が朝スッキリって感じがするのになあ」
聡明そうで優しい多保を思い浮かべて、千冬は多保が寝起きが悪いのが想像出来ないでいた。幹太の方が早起きという方が想像出来ないし、寝坊の方が想像出来やすい。
「あいつら、家が隣同士でさ。多保んちは親が出張なんかでいない時が多くて、幹太んちに世話になってんの。それで、朝練した幹太が多保を起こして、飯食わせて、それでそのまま連れてくるんだよ」
「幼馴染みだっけ。仲いいよね。ちょっと多保はきついけど」
「まあ、生まれた時からのお付き合いって事で仲はいいな。ま、多保はあれで多保だし、慣れればちょっと違うかもよ」
岸本はそう言って、ニヤリと笑った。なんだろう?その笑いは?と千冬は思ったが、聞き返す事は出来なかった。
何かそこには、本人以外から聞いてはいけない何かがあるような気がしたからである。
教室へ辿り着いて、千冬と岸本が見たのは、岸本が言ってたような光景だった。やはり早めに来ていたようで、多保の方は机に突っ伏しているし、幹太は何か音楽でも聞いているのだろうか、イヤホンをして少し身体を動かしている。
「おはよう」
二人の後ろに席がある千冬と岸本が二人に声をかけると、まず幹太(かんた)が反応した。イヤホンを外して、振り返ったのだ。どうやら音楽は小さめの音にしていたらしい。
「おう、おはよう。あれ? 千冬寝不足?」
振り返った幹太が言った言葉に、千冬はもうこれは誰が見ても寝不足な顔をしているんだなと確信した。
「まぁ。多保も寝不足?」
千冬はそう答えて席に座った。
「あーこれはまだ眠りの中~。まあ、いつもこんなもん。おーい、多保、千冬が来たよ」
幹太が戯けて答えて、机に突っ伏している多保に話し掛けた。すると、突っ伏していた多保がムクリと起き上がって、くるっと顔を幹太の方へ向けた。まだ寝ぼけているようだった。
「あ、髪乱れてる。直しておこうね」
幹太が多保の髪が乱れているのに気が付いて、さっさと髪を元に戻している。その間、あの凶暴な多保とは思えないような大人しい多保で、幹太にされるがままになっている。
「いつもこうなの?」
千冬は岸本に聞いた。大人しい多保なんて多保じゃないって感じだからだ。
「こいつらのべったりはいつもの事。まあ、気にしなさんな。慣れよ慣れ」
そう岸本に言われて、千冬はふと思った。男同士でもこうやって絵になる二人なら、気持ち悪くはないもんだなと。そう考えた時、世嘉良(せかりょう)の事を思い出した。
男同士だからとか世嘉良には関係ないのだろうか?
だから、好きだとか言ったのだろうか?
そう考えてしまった。
まさか、自分を好きになる世嘉良というのが考えられなくて、千冬は自分の考えに苦笑してしまったのだった。
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そうして世嘉良(せかりょう)を避け続けて3日目だった。
相変わらず、電車の時間を早めて、朝はこっそりと外へ出るという事を繰り返していた。世嘉良からの接触はなく、家を訪ねてくる事もなかった。
きっとあれは単なる悪戯で、遊んだだけなのだと千冬は思いだしていた。
そうでなければ、世嘉良から何か言ってくるはずだし、接触があってもいいはずだ。それがないということは、そういう事だったのだと思ってしまうのも仕方ない。
それに千冬は、世嘉良に構っている暇がなかった。
学校では、中学までの実力テストが開催され、その勉強に追われていたのもある。成績優秀で入学したとはいえ、進学校なのだからテストは頻繁にある。
たぶん、学年での成績発表もあるのだろう。
そうして3日、テストをして、それが終わってホッとした時だった。
「実力テスト、惨敗かも」
幹太が千冬の机に突っ伏してそう言った。
「でも、一緒に勉強したじゃん」
千冬がそう言うと、幹太はそうじゃないと言った。
「このクラスで惨敗って意味。そりゃ下の組には落ちないけど、多保が優秀だからさ、それに追い付いていかないと、2年になったら多保が1組で俺2組って成り兼ねない。そんなのいやだー!」
と、幹太が熱烈に語ると、多保から案の定鉄拳を食らっていた。
「馬鹿な事言うんじゃない」
「どうせ俺は馬鹿ですよ」
むくれる幹太。
「幹太って、ちゃんと出来てたじゃん。答え合わせして一番よかったのって千冬じゃん」
岸本がケラケラ笑いながらそう言う。とは言え、千冬が一番成績がよくても、多保とはさほど変わらない点数だったはずだ。
「どうせ、クラス別発表なんだしよ、俺、最下位にいるって……」
まだ愚痴っている幹太に多保は溜息を吐いた。
テストが終わってからずっとそう言っているから、もう飽きたというか、呆れてモノが言えない状態なのだ。
「とにかく、テスト終わったし。授業始まるまでは、オリエンテーリングに特選科目選択に先輩方の祭りかな」
岸本がそう言って、テストの話から引き離した。
「祭りって?」
千冬がそれに首を傾げると、岸本が説明してくれた。
「いい子いないかなー。部活入ってくれないかなー、なーんて勧誘がやってくる訳よ。主力は欲しいし、可愛い子はマネージャーに欲しいしで激戦なわけよ。でもこっちからみたら祭りの「いらっしゃいませー、綿菓子どうですかー」てな具合にしか見えない。だから、祭りって言うんだよ」
確かに部活勧誘の先輩達の勧誘の仕方は尋常じゃなかった。この学校では、体育系では一応関東大会まで行くくらいの部活もあるし、文系でも同じようなものだ。そりゃ主力は欲しいところだろう。
千冬は部活と言われて、ハッとした。自分は美術部に入りたかったのだ。でも、今は世嘉良(せかりょう)を避けている状態であるし、入るのはやめた方がいいんじゃないかと思いだしていたのだ。
でも、美術はやりたいし、でもその担任が世嘉良って言うのも問題だ。
どっちにも転べない状態になってしまっている。
どうしようか……。
本気でそう悩み始めた時だった。
「おーい、而摩(しま)。而摩千冬っているかー」
いきなり名前を大声で呼ばれて、千冬はびっくりして立ち上がった。
「は、はい!」
返事をして、声がした方を見ると、クラスメイト2人が、入り口で手招きをしている。
「客ー!」
そう言われて、千冬は首を傾げながらも入り口へ向かった。
客と言われても、自分を知っている人はいないはずだから、何かの呼び出しなのだろうが、それが一体何なのかが解らない。でも、多保には「変な人には付いて行かないように」と言われていたので、それは警戒していた。
入り口に行くと、やっと千冬の客という人が見えた。
その瞬間、千冬はしまったという顔をしてしまった。
そこに立っていたのは、あれだけ避けていた、世嘉良圭章(せかりょう けいしょう)だったからだ。
あれだけ避けていたのに、向こうからやってきてしまった。学校内だと逃げる場所がないから千冬も逃げる事が出来ないし、無視する事も出来ない。
世嘉良は相変わらずな、ニヤリとした笑みを浮かべて千冬を見下ろしている。
クラスメイト達は、千冬に客と聞いて、興味津々で廊下にいる世嘉良を見ている。幹太や多保、それに岸本までもだ。
これじゃ、用事があると逃げ出す訳にもいかなくなった。
とにかく世嘉良が何をしに来たのか用件は聞かなくてはならない。千冬がそっと溜息を洩らすと世嘉良はこう言った。
「ちょっと、来い」
そう言って手招きをする。世嘉良が向かったのは、廊下の窓際だった。
ここなら変な事はされないだろうと、千冬は覚悟を決めて世嘉良に近付いた。
すると近付いた千冬の肩を、世嘉良がギュッと抱いてきたのだ。
「先生……っ」
千冬は身を小さくしながらも、これはちょっとと思って批難しようとした。
すると。
「こうでもしてないと、逃げそうだからだ」
世嘉良はニヤリとしてそう言ったのだ。いつもの世嘉良の人を馬鹿にしたような笑みである。まるで、あの日から千冬が逃げていたのを知っているのだと言っているかのようだった。
千冬は溜息を吐いた。バレていると。
「それで、何ですか?」
用件だけ聞けば、早くこれを外してくれるだろうと、千冬は話を先に進めた。
「顔を見に来た」
世嘉良はそう言って、ふわりとした笑いをしたのだ。思わず千冬はドキリとしてしまう。世嘉良のこの優しい顔には何故か弱いのだ。
思わず顔が真っ赤になってしまう。
「千冬はやっぱり可愛いな」
世嘉良はわざと耳もとでそう言うのだ。耳もとで囁かれると、身体がぶるっと震えてしまう。これも条件反射なのだろうか。弱い部分でもある。
「恥ずかしいから、俺から逃げてるんだろ? あれくらいで音を上げたら、先が出来ないじゃないか」
世嘉良にそう言われて、千冬は唖然としてしまった。
あの先に一体何があるといのだろうか? 想像も出来ない。
「あ、あれくらいって!」
思わず声が大きくなってしまう。そして世嘉良を睨み付けた。自分はあれだけでかなり参ってしまったというのに、この男はまだ何かするつもりらしいのだ。
「先は長そうだけど、今は牽制だな」
世嘉良はそう言うと、千冬をギュッと抱き締めた。周りではおおーっと言う声が上がっていたが、千冬には聞こえなかった。ただ自分の心臓の音が大きく聴こえていた。
「そ、それだけの用ですか……?」
真っ赤な顔をして、心臓をバクバクさせながら、千冬は尋ねていた。
牽制が何を意味するのか解らなかったが、それは聞き流す事にした。
千冬がそう尋ねると、世嘉良は胸ポケットから一枚の紙を取り出した。そして千冬に見せる。
それは、美術部の部活入部書であった。
「取りに来ると言って、取りに来ないから持ってきた」
世嘉良がそう言うので、千冬はハッとした。世嘉良は入部書を千冬の前で振って見せている。
だが、思わず千冬は考えてしまった。このまま世嘉良と自分しかいないような部に入って大丈夫なのだろうか? という事だ。
その考えを読んだように世嘉良が言った。
「まさか、やめるなんて言わないよな?」
その声は心無しか、低かったように思う。千冬はドキリとして世嘉良の顔を見上げた。
すると、その顔は笑っているのに、目が笑ってないのだ。そう、目の奥が真剣で、千冬をじっと見つめているのだ。
自分は何も悪い事はしてないのに、何故か自分が悪い事をしたかのような気分になってくる。
しかも、辞めると言ったら、ここで何かされそうな感じさえする、危険な目をしているのだ。それは怖いし、何が起こるのか解らないのも怖い。
「や、辞めるとは言ってません……」
千冬が観念したかのようにそう言うと、じっと見つめていた目が一瞬で優しくなる。その変化に千冬は驚いてしまう。
「だよな。これ、書いたら担任に提出しておけよ。それで俺の所へ回ってくるからな」
世嘉良はそう言うのだ。つまり、出さなくてもそれはすぐに解るという事なのだ。もうここまできたら逃げるのは無駄 な気がしてきて、千冬は入部書を受け取った。
「よし、いい子だ」
世嘉良はそう言うと、チュッと千冬の頬にキスをしてきた。
一瞬の隙を突かれた千冬は呆然としてしまっていた。
「じゃあな」
世嘉良はこれで用事が済んだとばかりに、意気揚々と去って行く。
取り残された千冬は、頬に手を当てて、呆然と見送っていた。
暫くして、周りが騒がしい事に気が付いて千冬が振り返ると、一斉にクラスメイトが教室に飛び込んで行くではないか。
まさか、あれを見られたのだろうか? 千冬はあれは見えなかったはずだと思っていたから内心焦ってしまった。
教室に戻ると、全員が知らん顔して、千冬を見ないようにしている。
「なんだ……?」
この雰囲気の代わり様に千冬は戸惑いながらも、自分の席に戻った。
クラスメイトはなんかこそこそと千冬をみながら話しているのだ。さっぱり訳が解らない。
千冬が席に座ると、待っていたとばかりに幹太と岸本が聞いてきた。
「世嘉良(せかりょう)先生と知り合い!?」
声を揃えて同じ事を言う二人に千冬はキョトンとしてしまった。
「え……まぁ、家が隣で……」
何処から説明していいか解らなくてそう言うと。
「家が隣同士! じゃあなんでわざわざ別館から出てきたんだ?」
幹太がそう言い出したので千冬は更に首を傾げた。どうやら、別館にいる教師がこっちの本館に来る事が珍しいらしい。
「えっと、部活の事で来ただけで……」
千冬が素直にそう答えると、多保が聞いてきた。
「美術部に入るの?」
と、興味津々だ。
「うん、その予定で、さっきは入部書を持ってきてくれて」
千冬がそう説明をすると、3人が顔を見合わせたのだ。
千冬が何だろう?と思っていると、多保が言った。
「あの先生、あんな親切じゃないよね」といい、それに岸本が頷いて、幹太が。
「どっちかってーと、そんな事、死んでもしないぜ」
というのだ。
「千冬にだけ親切……」
多保が何か気付いたように呟く。それに幹太も呟いた。
「やっぱ、あれ本当だったんだ」
「うわ……マジかよ」と岸本。
3人だけ、いやクラスメイト全員が聞き耳をたてていて、3人と同じように呟いているのだ。
「な、何?」
1人取り残された千冬は不安になった。そんな不安な千冬を残して、噂は一気に学年中に轟いたのだった。
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そんな噂。
「世嘉良圭章(せかりょう けいしょう)先生と而摩千冬(しま ちふゆ)はデキている」という内容のものは、一切、千冬の耳に入らなかった。
それもそのはず、千冬を前にすると皆が口を噤んでしまうからだ。誰かが箝口令でもしいたのか、それとも見て見ぬ ふりを決めたのかは定かではない。
お陰なのか解らないが、千冬の前には多保にやってくるような輩は現れていないのは事実だった。
今も多保は廊下に呼び出されて、上級生から告白を受けているのだ。もう、これは日常茶飯事で、ただ幹太が心配そうに入り口から廊下を眺めて睨んでいるのだった。
「多保ってモテるっていっちゃ悪いけど、モテるよね」
千冬は幹太の後ろ姿を眺めながらそう呟いた。
それに岸本が弁当から顔を上げて言う。
「まあ、中学時代からかなりモテてたけどなー。多保も慣れたもんよ」
岸本はそう言って、笑う。さほど、この状況を心配してないどころか、面 白がっている風でもある。今日は何人だった?などと言う事もあるからだ。
多保も本当に慣れたもので、いつも呼び出されても廊下で話しを済ませてしまう。前に千冬に言っていたオオカミとかには付いて行きはしない。呼び出されても呼ばれた場所へは絶対に行かないし、幹太がそもそも行かせない。
そうして呼び出してくる輩が危ないのだと、千冬は多保に言われていた。
そして気をつけるようにと言われていたが、今の所、千冬が呼び出される事はない。そうして安心していると、多保の方が大変な事になっているのだ。
目をつけられるという事はこういうことだと教えてくれているようなものだ。
こういうのでは目立ちたくないなあと千冬は思っていた。
「やっぱ、美人だから?」
多保は、男にしておくには惜しいくらいの容姿をしている。女性と間違えるわけではないが、女性でもなく、男性的でもなくという中性な感じがするのだ。
それが人を惹き付けているのだろう。
「そーです。くらっときちゃうらしいですよー」
どうしてくらっと来るのか解らないとばかりに、岸本は戯けてそう言っていた。
「男同士なのに……」
千冬はその辺の境目がない、ある意味開放的な校風に首を傾げていた。
すると岸本が。
「何を今さら。千冬だって……」
と言い出したのだ。
なんの事だろう?
「え? 俺が何?」
千冬は本当に訳が解らないという顔をして岸本に問うた。
その千冬の顔を見て、岸本は慌てた。
「い、いや。いいっ! 間違えた!」
手を振って訂正してくる岸本を千冬はやはり首を傾げて見ていた。
「変な岸本」
千冬はそう言って、パックのコーヒーを飲んだ。
今は昼休みで、周りも騒がしい。やっと通常の授業も始まって、千冬の部活も今日からだった。
少し不安はあるが、やはり絵が描けるとなると嬉しくなる。今日はスケッチブックも持ってきた。真新しいのを義父が買ってくれ送ってくれたものだ。これに新しい絵を描くとなるとワクワクしてくる。
その部活の担任である世嘉良とは、入部書を持ってきたあの日から、顔も合わせていない。今なら大丈夫な気がする。
「今日から部活かあー」
「岸本は?」
「俺は、帰宅部でーす。塾があるしな」
「そういえば、多保も幹太も帰宅部だよね」
千冬は二人が何部に入るのかを聞いていた。すると二人とも部活はしないと言ったのだ。
「幹太は家の道場があるし、多保1人じゃ危険だしな」
岸本は何でもないとばかりに、多保1人だと危険だと言った。
「危険って?」
「告白で振られた奴らが、多保が1人の時を狙って襲ってくるかもしれないだろう? 千冬は、まあ、世嘉良先生がいるから大丈夫だろうしな」
岸本の言葉に千冬は何でだろうと思った。
「なんで先生がいると大丈夫なの?」
千冬はキョトンとして岸本に聞いた。
「そりゃ、あの先生怖いしな。千冬の事、大事にしてそうだし」
岸本は何だか言いにくそうにそう説明をしてくれた。
その言葉に千冬は首を傾げた。
自分は世嘉良を怖いとは感じた事はなかったし、その逆に大事にされた覚えもなかった。何でこんな事思われてるんだろう?と千冬は不思議に思った。
そうしているうちに、多保と幹太が戻ってきた。
多保は不機嫌で、幹太は呆れた顔をしていた。
「女王様の御帰還ーで、今度は何処の誰?」
岸本が興味津々に聞くと、多保はムスッとしたままで、食べかけていた弁当を食べ始めた。どうやら答える気がなさそうだ。
それに答えたのは幹太の方だった。
「玉砕してんのに、まだ来るとはねぇ」
と、幹太が言う。
そう多保の事を諦め切れないという2年の先輩は、もう4回も押し掛けてきているのだ。
「多保、かわいそう」
千冬はそう思って言ってしまった。
何度も断っているのに、何度も押し掛けてくる先輩は、迷惑以外の何者でもない。
「千冬、優しいなぁ」
多保はにっこりしてそう言った。
「優しいも何も、迷惑してるのは多保でしょ? 諦めてくれないかなー?」
あまりにも多保が可哀想で、千冬はそう願ってしまう。
「ああー無理無理」
幹太がそう言うと多保が幹太を睨んだ。
「あの人、放課後も玄関で待ち伏せて、一緒に帰ろう、どっか行こうて言ってるんだ。多保に寄り添ってる俺が目に入らないのか!?」
幹太はダンッと机を叩いて抗議をする。
「幹太じゃ役不足なんだよ。ただの友達にしかみえねぇって。寧ろ、邪魔だと思っているだろうし、無視してんだろ」
そう岸本が分析して言う。
なんだか、この話しを聞いていると、どうもおかしな関係が浮かんでくるのだ。
千冬はふと思った。
もしかして……。
「幹太って、多保の事、好きなの?」
千冬は首を傾げて、幹太に問うた。
すると多保はゴホッとむせて咳をするし、幹太は照れたように笑うし、岸本は今さら何をという顔をしていた。
「千冬!」
多保が怒って、千冬を睨む。どうやら聞かれたくない事だったらしい。
でも、幹太はにっこりと優しい顔をしている。多保は睨んでいる割には顔を真っ赤にしている。
千冬のもしかして……は当たっているようだった。
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