Distance
愛うらら
1
朝、目覚ましの鳴る音で、而摩千冬(しま ちふゆ)は目を覚ました。鳴り続ける目覚ましを叩き付けるように止めて、のそりとベッドに座り込む。
頭はまだ全然覚めてない。ただ目が開いているだけで、瞳はただ真っ白な壁を睨み付けるようにしている。
完全に目が覚めるまで、千冬は時間が掛る方だった。
やっと動いた腕で背伸びをするように背を反らすと、大きな欠伸を一つした。
でもまだまだ身体が動かない。
そして目覚ましが二度目の音を響かせて鳴った。
「うるさい……」
千冬は呟いて、また叩き付けるようにして、目覚ましを止めた。
「起きなきゃ……眠い」
言っている事がまったく反対だが、身体はやっとベッドから起き出していた。のっそりと歩いて、まず洗面 所へ向かった。
広い廊下を裸足で歩いて、洗面所に辿り着く。そこで顔を洗って、やっとすっきりした顔を鏡に映し出した。
大きなアーモンド型の目はぱっちり開いて、二重が綺麗に出来上がっている。細い顎に幼い顔。綺麗な鼻梁がすっと通 っているのに、頬は柔らかそうである。人からは、この顔は、母親によく似ていると言われてきた顔だ。
本当は可愛らしい顔と言っていいのだが、千冬は自分のこの顔が嫌いだった。
この顔のせいで、昔イヤな目にあった事があったからだ。所謂、イジメというやつだ。女みたいな顔と言われ、悔しい思いをしてきた。いっそ父親に似ていたら、もっと男らしい顔になっていたかもしれないと何度も思った。その父親は、千冬が物心付く前に亡くなっている。
自分とよく似た母親は、女手一つで、千冬を育ててきた。その大変さは壮絶なものだっただろう。親戚 中から反対された結婚だったと聞く。それでも駆け落ち同然で二人は一緒になって千冬をもうけた。なのに、その母親の唯一の味方である父親は、草々にこの世を去ってしまった。
それからの生活は大変だったが、それでも千冬は聞き分けのいい子として、真面 目な子供になった。大変な母親の手を煩わすのも嫌で、イジメの事さえも黙っていた。
そのイジメから解放されたのは、中学2年の時だった。
母親は勤めていた会社の上司に再婚を迫られ、晴れて再婚することになったのだ。そして、このマンションを買った時、千冬は、学区外だった中学校へと転校したのだ。そのお陰で大分楽になった。新しい父親は優しい人で、千冬の事も可愛がってくれ、まるで自分の子供のように接してくれた。
まあ、それはこの顔のお陰だったのかもしれない。母親に似た顔だったから、義父は余計に可愛がってくれたのだろう。これが父親似だったら違ったかもしれない。
そう考えると、この顔も悪くないとは思う。
でも、その義父と母親は、千冬が高校受験をした後、会社の辞令で転勤となったのだ。本社が九州にある会社だった為、いわば出世となったのだ。
初めは千冬を連れて行くと言い張っていた義父だが、千冬が大学はこっちに通 いたいと言った為、今、受験で合格した学校の方が有利だと納得して、千冬を東京に置く事を承諾した。母親は元から千冬の意見を尊重する人だったので、反対はなかった。
代わりに千冬は、二人で新婚生活を味わったらいいと、二人をからかったりもした。
元々忙しい母親の元で育ったお陰で、一人暮らし出来るくらいの知識や知恵はちゃんとあった。
しかし、それにはこのマンションを出なければならないと思っていた千冬だったのだが、義父はこのセキュリティのしっかりしたマンションにいなさいと言ったのだ。
そこは元々、義父が買っていたマンションだから売らなくても別に困らないらしい。更に義父は、いずれは千冬も家庭を持つかもしれないから、このままここに住んだ方がいいだろうとも言ったのだ。まるで生前分与のような形で、千冬はマンションを譲り受けた。ただまだ義父名義ではあるのだが。
そういうわけで、現在、千冬は春休みから一人暮らしを始めている。
最初は慣れなかった一人暮らしも、1ヶ月もすれば慣れてくる。やっと義父と母親がいない生活に慣れてきたばかりだ。
「よし、起きた」
自分で自分に気合いを入れて、千冬はキッチンに向かった。朝食は簡単にトーストと目玉 焼きにベーコンとシンプルである。これに野菜が入れば完璧だが、そこまでは手が回らない。
一人暮らしをしてみて解ったのだが、やっぱり東京は野菜が高いという事だ。
親からの仕送りで十分やってみせてはいるが、もっと節約しなきゃという気がしてくるのだ。一人残った千冬の為に余計に生活費がかかるからだ。
やっぱり生活費で苦労してきただけあって、その辺はしっかりしている。義父は千冬を甘やかしたいのか、十分過ぎる以上の仕送りをしてくるからだ。貧乏だった自分とは違って義父はどうやらいい家の出らしく、資産もあるようで金銭感覚が違い過ぎるのだ。
その辺は考えて貯金に回すようにする事にした。小遣いにしても多いものだ。今どきの子がこんなに貰ったら、遊び放題という額なのだ。つまり、バイトはするなという意味なのだろう。
あまりバイトとかしたいという気分にはなれない。東京に残った以上、勉強して大学へ入らなければならないからだ。
今日は、ちょうど高校の入学式である。
私立のエスカレーター式の学校だが、学力はかなり高い。それにおぼっちゃま学校として知られている。
ただそこを選んだのは、この家から近いというだけの理由だったのだが、大学まで行けるのなら、そこでもいいだろうという判断もあった。
とにかくその学校へ今日から通う事になるのだ。
食事を済ませると、食器を綺麗に洗い、始末をして着替えに部屋に戻った。
時計を見ると、かなりの時間が経っていた。ここからその学校までは3駅しか離れてないのだが、このラッシュの中で、どれだけ時間がかかるか解らない。
余裕を持って出たいと思っていたのだが、これでは時間が足りない。入学式前に学校内を見てきたいとは思ってたのが、その時間はなさそうだ。
慌てて歯磨きをして、制服に着替える。その学校の制服は、それまでの学ランとは違ってブレザーである。ネクタイはブルーに黄色の線が入っている。どうやら色によって学年を分けているらしい。
それは、受験の時にいた案内の学生が赤の線が入ったネクタイをしていたからだ。学年ごとに買い替えなければならないようだ。まあ、一年使えばネクタイもくたびれるだろう。
なかなかネクタイが上手く出来なくて、四苦八苦しながら、前から練習したように結んでなんとか形になった。
今日は入学式だから、教科書はいらない。
リュックに携帯や財布などを入れ、腕時計をして準備完了。
「あっと、電車の時間が……」
事前に調べた電車の時間が迫っている。
千冬は慌てて玄関に走った。鍵を出して、靴を履く。革靴はなかなか慣れないが、仕方ない。
そのまま慌ててドアを開けた時だった。
「うわっ!」
という声がした。
「えっ……! あっ!」
千冬が慌ててドアを開けてしまった為、千冬の家の前を通ろうとした人にドアがぶつかりそうになっていたのだ。
その人は、なんとか避けてくれたようで当たっていないようだった。
「す、すみません!」
千冬はドアを閉めて、その人を見上げた。
その男の人は、千冬を見ると一瞬、驚いた顔をしたのだが、すぐにニヤッとした笑顔になった。
「いや、大丈夫だ」
その人は、男の人だった。ちょうど30才近くの男性だろうか。凄く顔が綺麗で男らしい感じの人だった。高い鼻梁に綺麗な唇。細い目は鋭いのだが、少し人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
身長も180センチ以上はあるだろうか。165センチに足りない千冬が首が痛いくらい見上げなければならないから、相当高いとしか言えない。
声は、かなり低い。千冬の声などと比べたら、一オクターブは違うかもしれない。
その男の人は、ニコリとして千冬を見ていた。
どうやら同じマンションの人なのだろう。朝からいきなりこんな所を訪ねてくる人はいないだろうし、向かっていた先はエレベーターだったからだ。でも千冬には、こんな人がマンションにいたのかさえ解らない。
ファミリータイプのマンションには似合わない感じの人だったからだ。家族と住んでいるとは思えない風貌であるし、それはそれで違和感があったからだ。
「えーっと、これ、なんて読むのかな?」
男の人は、千冬の玄関にある表札入れの中にある、ワープロで書かれた名字を見てそう言った。まあ、確かに最初は誰も読めやしないだろう。義父の名字は読めないのだ。
「しま、と読みます」
千冬がそう言うと、男はほうっと息を吐いて言った。
「而摩(しま)ねぇ。珍しい名字だね」
「はぁ、父の名字は珍しいみたいです。1回で読めた人はいませんよ」
千冬は、感心する男に笑顔でそう答えていた。何回も聞かれる事ではあるが、今日はやはり何回も聞かれる羽目になるだろうと思っていたからだ。それが意外なところから聞かれたので、なんか可笑しかったのだ。
「もしかして、今日入学する学生?」
男はそう聞いてきた。いきなりだったので千冬は首を傾げてしまった。なんで解ったのだろうと。まさか中学生に間違われたとは思えないし。
「え、ええ。そうですけど……どうしてですか?」
千冬がそう不思議そうに問うと、男はハッとして言った。
「いや、怪しいもんじゃないんだ。その制服、うちの学校の制服で、しかもネクタイの線が黄色だったから一年かなと思ってね」
男がそう言ったので、千冬はハッとなった。
なんとこの男、どうやら千冬が通う学校の関係者らしいのだ。うちの学校と言うくらいだから教師か何かだろう。
「あの、学校の関係者ですか?」
千冬が遠慮がちに尋ねると男は頷いた。
「そうですか……あっ電車の時間っ!」
学校の話が出たところで、千冬はハッと気が付いた。
自分は急いで電車に間に合うように家を出ようとしたのだが、とんだアクシデントですっかり電車の事を忘れていたのだ。
だが、千冬が乗ろうとしていた電車には、もう間に合わない。
「なんだ、電車間に合わないのか? だったら送っていくが?」
男が何気なしにそう言った。
「え?」
「立ち話しちまったのは俺の方だしな。車だけど、電車よりは早く着くぜ」
男はそう言って、車のキィを見せた。
確かに車だと、裏道を使えば、そう離れた距離でもないし、学校関係者なら駐車場まで入ってくれるだろう。そうした方が電車より早いのは確かだ。
「ところで、お名前窺ってもいいですか?」
千冬は、この男の名前を知らなかった。仮にも車に乗せてくれるという相手の名前やら素性が解らないのであれば、千冬も警戒するに決まっている。
男はそこまで考えてなかったのだろう、ふむっという顔をして答えてくれた。
「俺は、世嘉良圭章(せかりょう けいしょう)という。せかりょうでいいよ。君が通う学校の美術教師。それに、昨日からお隣さんってわけだ。よろしくな、而摩……えーと下の名は?」
世嘉良(せかりょう)と名乗った男は、一気にそこまで言って、千冬の名前を尋ねた。
「あ、千冬です。千の冬と書いて、ちふゆと読みます」
「千冬ね。ま、ここで話しててもなんだから学校いこうか」
世嘉良はそう言うと、さっと千冬の肩を抱き寄せて、さっさと歩き出してしまう。思わず転びそうになった千冬だが、世嘉良が支えてくれたので、なんとか転ばずに済んだ。
それにしても、昨日引っ越してきたばかりとは驚いた。物音には敏感な方だったが、隣に引っ越しがあったことすら、全然解らなかったのだ。
そういえば、挨拶にも来なかったし……。
もし家族で越してきたなら、挨拶くらいはあるだろう。でもそれがなかったという事はこの世嘉良という教師は一人暮らしなのだろう。東京でよくある、隣に誰が住んでいるのか興味がないタイプに見えた。
千冬は世嘉良に急かされるまま、車の助手席に乗せられた。車は、国産車の高級車である。一体どういう人なのだろうと、千冬はますます不安になった。
2
「取りあえず、車で20分と言えば、それほど遠くはないだろ? あの学校、駅からかなり歩くしな」
世嘉良(せかりょう)はそう説明してくれた。
そうなのだ。千冬(ちふゆ)が通う私立は、かなり大きな学校で、敷地面積だけでも恐ろしく広いのだ。
氷室秀徳館学院(ひむろしゅうとくかんがくいん)という学校は、幼等部から大学まである学校なのだ。
もちろん、エスカレーター式の偏差値も高い学校で、入るのは難しい。千冬が入る学校は男子校の方で第一学園と呼ばれている。第二になると、共学で、しかも音楽科などがある私立だ。
そんな広い敷地は、現在地と書かれた地図がないと迷いそうな程大きく、それぞれ幼等部、小等部、中等部、高等部、大学と別 れていて、大学だけが共学である。
これだけ、そろっていれば、当然のように敷地も広い。駅から近いとはいえ、高等部まで辿り着くのにも時間がかかってしまうのである。
それは入試の時に感じた事だ。これ、駅から20分じゃないの?という事だ。交通 の便はいいのだが、なにせ学校が巨大過ぎて、門まで辿り着くのに時間が掛り過ぎるのが難点である。
こんな不便でも、エスカレーター式とあれば、誰でも通う。大学まで保証されているのだから。でも、高等部からの外部入学は珍しいらしいとは聞いていた。
入試希望者は多いが、定員が少なく、なかなか入れない難関らしい。それでも、その難関を千冬は突破して入ってしまったのである。
「千冬は外部入学者か?」
「ええ、そうですけど?」
千冬はなんで外部だと解ったんだろうか?
と不思議そうに首を傾げていると、世嘉良(せかりょう)は、クスリと笑って言った。
「俺が見た事ないからだ」
と、世嘉良が答えた。
なんで、自分は高等部の美術教師のくせに、見た事がないからとかで見極められるのかが不思議だった。でもその謎はすぐに解けた。
「中等部入学者でも、中等部の美術教師とは面識はあるし、作品もみてきてるから、而摩(しま)なんて名前があったら覚えるはずだからな。知らなかったって事はないだろうし、始めてみる名前だしね。だから外部だろうという判断だよ」
世嘉良が種明かしをしてくれたお陰で、不思議だった千冬の顔も笑顔になっていく。
「そうですよね。それに、俺が中等部からいたら、世嘉良(せかりょう)なんて凄い名字、忘れそうにありませんよね。俺の而摩くらい珍しい名字ですよね」
納得したように千冬が言うと、世嘉良は声を出して笑った。
「うちの祖父さんが沖縄出身でね。妙な名字な訳だ」
「沖縄って変わった名字、多いですものね」
思わず納得してしまう説明に、やはり千冬も自然と笑顔になる。
どうも、この世嘉良という教師は、なんか話しやすい感じがするのだ。
初対面なのに、普通で気取ったところがなく、教師特有の嫌なところがまったくない、自由人という感じがするのだ。その考えは間違っていないという事を、千冬はのちに思い知る事になる。
車からは、もう学校の外壁が見える。外には駅から吐き出された学生が学校へ向かって歩いている姿が見える。どうやら、本当に間に合ったようだった。
「な、車の方が早いだろ?」
世嘉良がニヤリとしてそう言った。
「そ、そうですね……確かに歩くのを考えると車の方が早いですね」
歩かなくてよかったと思った。あのままだと確実に初日から、この道を走っていた事になってしまうところだったのだ。そのところは、世嘉良に感謝しなければならない。
車は、職員専用の駐車場に入って止まった。
「また、困った時は乗せてやるぜ」
世嘉良はそう言って、くしゃくしゃと千冬の髪を撫で回した。
「ちょっと、せっかくセットしてたのに……」
「ああ、悪い悪い」
世嘉良はニヤリとして、乱れた千冬の髪を綺麗に元に戻した。その仕種がなんというか手慣れた感じがして、千冬には不思議でならなかった。
「あの、本当に助かりました。ありがとうございました」
「いやいや、いいって」
やはり世嘉良はニヤっとして笑って言う。
こういう感じは、生徒受けがいいんだろうなと、思わず千冬は思ってしまう。
悪い感じがまったくしないのは、いいことでもあるだろうし。
そこで、千冬は思いきって言う事にした。
車を降りて助手席から出た後、車の中を覗き込んでから、世嘉良に宣言をしたのだ。
「あの、もしかしたら、俺、美術部入るかもしれません」
世嘉良が美術の教師なら、当然部活の顧問もやっているだろう。だから、これは言っておかなければと千冬は言ってた。
千冬は、元々美術が好きだった。絵を描くと安心するし、ホッとする瞬間があるのだ。今まで勉強漬けだったけれど、趣味といえば、絵を描く事でもあったのだ。
特に、油絵は好きだった。
「美術というか、絵、好きなのか?」
世嘉良が不思議そうに聞いてきたので、千冬は素直に頷いた。
「はい、好きです。中学校の時は美術部に入ってたくらい好きなんです。でも、あまり描いたのは少なくて下手なんですけどね」
千冬はあまり期待されても困るので本当の事を言った。
「へえ、そうか」
すると、世嘉良は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤっとして笑った。
「待ってるぜ」
そう言った。
本当にそう思ってくれているのかは怪しいが、美術部っていうのは部員が少ない方だろうから、歓迎はされているようだ。
それを確認した千冬は、そのまま挨拶をし、お礼を言って駐車場から走って生徒用の玄関へと向かっていった。
なんか、イイ感じで、学校生活が始まったかも。
そんな感じがして、これから入学する学校生活が楽しくなるような気がしていたのだった。
それを見送った世嘉良圭章(せかりょう けいしょう)は、ふむっと考え込んで、それから誰にも見せた事がない笑顔で呟いた。
「而摩(しま)、千冬ね……なかなか、可愛いじゃないか」
と言い、思わず笑いが声にまで出そうになって、それを必死で押さえるのに必死になってしまったのだった。
3
氷室秀徳館学院(ひむろしゅうろくかんがくいん)の入学式は質素なものだ。
元々エスカレーター式の学校ともなると、入学式というのは外部入学者の為にあるようなもので、一応学年と組関係の説明だけがなされた。
校長の挨拶も簡単なもので、それより長かったのは、生徒会の生徒会長の祝辞のような気がした。
生徒会は何故か人気があるらしく、生徒会長が教壇に上がると、一斉に声がかかったりもしていた。それと部活の事の説明などもあった。
入学式が終わると、すぐに部活の勧誘があるらしいのだが、すぐに決める事ないし、無理強いするような輩が出たら、生徒会に報告を、などと説明があった。
ここでは部活動は盛んに行われているようで、各部の部長などが教壇に上がって、部の説明をしたりする時間もあった。
でも、千冬が入ろうとしている美術部の勧誘の説明はなかった。
あまり盛んではないのだろう。それとも部員がいないか少ないかで、無理に勧めるモノでもないと思っているのかも知れないと思った。
大体の説明が、運動部の説明ばかりで、運動に自信がない千冬には興味がないモノばかりだった。それにここは大抵がエスカレーター式なのだから、入る部活も大体決まっているようなものだ。熱心になっているのは、外部入学者の獲得なのだろう。
そんな説明をぼんやりと聞いていた千冬であった。
入学式が終わると、部活などの勧誘が始まっていた。
本当に、体育館を出たところで、まるで出店のような感じのスタイルで、「何部ですー!どうぞ!」とチラシが配られてくるのだ。
そう言えば、この勧誘があった後、部活説明会があるらしい。教室に入るのは、それが終わってかららしいのだ。
どうしようと、千冬は迷った。
沢山のチラシを受け取ったはいいが、自分が入りたい美術部の勧誘がないのだ。
これは直接美術室にでも行った方がいいんじゃないかと思い始め、学校内にある、現在地という地図を発見して、それを見入った。
今居るのが、体育館前である。それから教室がある棟が並んでいて、更に離れたところに別 館がある。どうやら、そっち系の教室は全部そこにあるらしい。
直接いってみるしかないなと思った千冬は、簡易に設置されていたゴミ箱に、貰った大量 のチラシを捨ててから、体育館前を後にした。
その頃、写真部では、勧誘は別のものに任せ、一稼ぎしている所だった。
「北澤先輩」
「なんだ、下水流(しもつる)」
大量にある写真を目の前に、写真部の前の廊下は上級生などでごった返していた。
「今年の人気は、誰でしょうかねえ……」
貼り出された写真を眺めて、下水流孝晃(しもつる たかあき)は呟いた。
今、写真部の前にある貼り出された写真は、今年高等部入りした、可愛い生徒や美人の生徒を目玉 にしたものだ。
中等部に忍び込んで撮ってきた、とっておきの写真ばかりなのだ。
これを求めて、男子高であるのに、男子が注文して買って行くのが不思議なくらいなのだ。でも、こういうことは割とオープンで、ただ可愛い子が好きな人もいれば、意中の人を探す人もいたりなんかする。
写真部はそんな人気がある人の写真を撮り溜、売っているのである。肖像権なんかなんのその、所謂闇販売みたいなことまでやっている。今やっているのは、一般 的な人気写真を売っている所である。
下水流に今年の人気は誰かと聞かれた北澤は、写真の売れ行きを見ながら呟いた。
「そーだなっと……」
そう喋ろうとしたところ、そこへ教師がやってきたのだ。
「よっ! 今年も盛況だな」
「げっ、世嘉良(せかりょう)先生……」
世嘉良はニヤリとした顔をして、手を上げて挨拶をする。それに下水流と北澤はひやりとした顔をする。なんとなくではあるが、二人はこの世嘉良が苦手だったのだ。
「別に風紀委員じゃねぇんだから、咎めはしねぇって」
世嘉良はそう言うと、新入学者一覧の写真を眺めていた。
だが目当てのものは見つからなかった。
「今年の人気どころは?」
世嘉良は北澤に聞いた。すると北澤はおやっとした顔をしながらも、売り上げ表を開いて見た。
「えーっと、今年は、前鹿川多保(ましかわ たほ)、又起真麻(ゆきの まお)に、亜里久己(あかり ひさき)というところでしょうかね。まあ、中等部からの人気どころですから」
「ふーん、で、而摩(しま)千冬はどうだ?」
世嘉良はそう聞いていた。
北澤はすぐに顔を思い出せたのだろう、ああっと言ってきた。
「外部入学者なんで、今までの写真がないんですよ。結構問い合わせもあるんですけど、今写 真撮ってもらってるところですけど?」
北澤が素直に答えると、世嘉良は何か思い付いたような顔をしたのだ。
「へぇ、まだ……ね」
「って、先生、まさか……」
さすがの下水流も気が付いて、世嘉良を見た。
世嘉良がもう既に而摩千冬に目を付けているという事を言いたかったらしい。
「そのまさかさ。写真、回せよ」
世嘉良がそう言うと、下水流がええーっと唸った。
「せっかく、可愛い子ってところが人気出ると思って、売り上げ期待大なのにー」
盛大に文句を言う下水流に、世嘉良は。
「これが、上和野(うわの)だったらお前だって多少は止めただろう?」
「う……それいいますか……」
ぐっとなってしまう下水流。
最近になってやっと素直になってきた、上和野景(うわの けい)は下水流の恋人である。もう周りは公認している所なのだが、未だに上和野の写 真を欲しがる先輩方や同級生も多く、それを北澤にいいようにされてしまっている所だったのだ。
なんとか、下水流がポジを見て、大丈夫そうなのは売ってはいるが、あまり気分のいいものではないのは確かだ。
「それに、今年の美術の単位、どうする?」
更に世嘉良は下水流を追い詰める。
またぐっとなってしまう下水流。
「酷いですよー横暴ですよー先生」
「教師の特権っつったら、こんなもんしかねぇだろが」
もっともらしい事を言って、世嘉良は更に迫る。
「下水流(しもつる)は、美術ダメだったよなー。確か、一年の時はさぼりも多かったし、ギリギリだったよなー」
何でもないという風にいいながら、しっかり脅しているのだ。
それを見ていた北澤がはぁっと息を吐いた。
「諦めろ、下水流」
そう言って、下水流の肩に手をおいて首を振った。
「北澤先輩ー、いいんですかー?」
「今年は確かに豊作だ。さっきも埜洲(やす)先生や京義(たかぎ)先生まで来てたんだから、どっちにしろ、お前の成績は、2科目は安泰になるってわけだし、保健室は使いたい放題。脅しじゃなくて取り引きだと思えよ」
北澤がそう言うと、世嘉良は少し驚いた顔をした。
京義(たかぎ)は、化学教師で、かなりのインテリの堅物だ。それがこんな所に現れるのは珍しい。埜洲(やす)はまあ癖みたいなもので、可愛い子を見ると手を出そうとしている保健医である。その二人が現れたと聞いて、少し世嘉良は焦った。狙いが同じだったらと思ってしまったからだ。
「で、やつらは誰を狙ってるんだ?」
「えー、埜洲先生は亜里久己(あかり ひさき)で、京義先生は又起真麻(ゆきの まお)でした。御安心下さいー」
少し茶化すように、北澤は言った。
どうやら、狙いと好みは別だったようだ。一応安心する世嘉良。
「ほうほう……おさかんな事で」
世嘉良はニヤリとして言う。こうなると、3人の人気学生を教師が抑えた事になってしまうのだ。そうなると生徒が手を出すのは難しいという事になる。
早目に唾を付けて、牽制してれば、生徒は割と大人しくなるのだ。
更にラッキーな事に、世嘉良の場合、まだ千冬の写真が出回ってない事が有利に働きそうである。
「写真、しっかり回せよ。あんまヤバイのは出回らせるな」
世嘉良はそう言うと、もう用はないとばかりに写真部を去って行った。その後ろ姿を見送りながら北澤は仕方ないとばかりに言ったのである。
「解りましたって……たくっ今年はどうなってんだー?」
世嘉良に、埜洲、京義までが出てきてしまっては、顔をしかめるしかない北澤である。何が起こってこうなったのか、まだ理解出来ないのだ。
「今年の一年は大変ですなー。よかった、景が狙われなくて」
下水流は自分の恋人に被害が及ばないと解っただけでもラッキーだと思っていた。
あんな男前3人に狙われた、新入学生には悪いが、スケープゴートになってもらうしかないだろう。見込まれた容姿が悪いんだと、下水流は思っていた。
写真部を後にした世嘉良は、美術室に戻ってきていた。本来、入学式には出席する必要もなく、する事もなかったので写 真部に顔を出したのだが、思わぬ成果があったものだ。
今日、初めて見るであろう、千冬に先に自分が出会い、唾を付ける事に成功しているのだから。ニヤけた顔が元に戻らない。
どうも自分は、千冬に一目惚れをしてしまったようだった。こんな気持ちになるのは、久々かもしれない。それなりに女とは遊んではきたが、遊びの範疇を出た事はなかったし、男とも同じようなものだ。
それが、15も年下相手に自分はときめいてしまったようなのだ。
何故だろう? 何がきっかけだろうか?
考えてもよく解らないが、家の前で話をして、名前を聞いた時には既に思惑は決まっていたような気がする。
幸いにも家は隣同士、接点はいくらでもある。
が、学校ではどう接触を持とうと思案しながら、美術職員室に入ろうとすると、美術室のドアが開いているのに気が付いた。
誰かがきたのだろうかと、部屋を覗いてみると、そこには、而摩千冬(しま ちふゆ)がいたのだ。
千冬は、壁にかけられた絵を見入っている様子だ。
何故ここに?と問いかけそうになって、ハッと思い出す。確か、千冬は部活は美術部がいいと言っていたのだ。
入学式では、美術部の勧誘は行っていなかった。部員は少ないし、勧誘したところで入るという奇特な生徒もいないだろうと、勧誘行動はしない事になっていた。
それで千冬は、勧誘がないから、ここへ足を運んでくれたらしい。
思わず、世嘉良はニヤリとしてしまう。
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