Agnus Dei4
3
民宿にきて一日目は普通に過ぎた。
朝起きてからも智は直人と行動をし、資料のある民家にも常に同行した。
なるべく直人以外とは行動しないようにしていたため、直人も智には気を遣ってくれた。
「大丈夫か、一人で寒い中」
資料室には入らないけれど、一階の部屋で降ろしてきた資料を丁寧に並べ箱に入れる作業をしている智に、直人は聞いてくるけれど、智にとっては一人でいる方が気が楽だった。
「大丈夫、こうやってやることあるから。ほらご飯分は働かないとね」
今回の旅行にかかった一万円の費用はチャーターしたバスの代金である。食事や宿泊に掛かったお金は教授から出ている。そして手伝いをするバイト代が全部の仕事が終わったら出る。少ないお金であるが、一週間で二万円。そのうち一万円はもう消えていると言って良かったので実質一週間で一万円である。
だからこのバイトにもならないこの旅行に、嘘を吐いてまで付いてきた渡辺や片岡の参加理由が納得できないままであった。
智はそれを考えても仕方がないと思う一方、何故かあの二人と始終目が合う気がして気持ちが悪かった。
その日は昨日見た野良犬のボスらしい姿も見ずにいたので、やはり昨日は監視されていたのだろうと智は思った。
作業も順調で二日目が終わった。
ご飯のことは足りないということでレンタカーを借りてくれた高梨が麓まで降りてくれて材料を買い込んでくれた。食べ盛りでは冷凍食品のおかずは足りないと真っ当な意見を袁藤と高梨が文句を言ってくれて買い出しなら自分たちが行くと言ってくれた。
食べ足りない人だけがお金を出し合って材料を買い込んでくることにした。その材料が揃ったら智が簡単に炒め物などにすると決まったのでその日の夕食からはそれなりの食事に変わった。
そうなるとアウトドアが趣味だという二人、渡辺と片岡が居心地悪そうに食事を別にしてきた。
決して追加の食材を買い足して作ったことに関しては文句は言えなかったらしいが、不満はあるようだった。
そしてその決裂こそが全ての始まりだったかもしれない。
夜中にふっと目を覚ました智は、トイレに行きたくなりこっそりと部屋を出た。
トイレは部屋と部屋の間にあるため、寒い中を廊下の薄明かりを頼りにトイレに入った。
個室しかないのでそこで用を足してから廊下に戻るといきなり誰かに体を押さえつけられたのだ。
「ひっ!」
人が居ると思っていなかったので悲鳴を上げようとしたが、口を前から塞がれた。
目の前に見えたのは渡辺の姿で、ニヤニヤした顔をしていた。
必死になった智は暴れたけれど、それほど大きな体ではない智はあっという間に抱え上げられて民宿から外へと連れ出されたのだ。
そのまま暗闇の中運ばれ続けたがその途中で誰かの悲鳴があがった。
「うわあああ!」
急に何かに襲われたかのような声がして、智の体が地面に投げ出されたのだ。
「ああっ!」
叩き付けられるように落ちた先がちょうど草むらだったのか、智はそのまま斜面に放り出されてその斜面を二メートルほど滑り落ちた。
すぐに別の地面と接触して智は横に倒れたけれど、痛みはそれほどなかった。
「……は……」
驚いて声を出したが、すぐに口を覆った。
すると頭の上の方で人の悲鳴が続いたのだ。
「や、やめろ! なんだよ!」
「ぎゃあああ!」
恐ろしい悲鳴が聞こえてきて、智は目を見開きながらも息を殺した。
何かがいる。
さっき智を連れ去ろうとした二人、恐らく渡辺と片岡だったのだろう。その二人が何者かに襲われているのだ。
(……まさか野犬?)
思い当たる人を襲う生き物は昨日何度か見た野良犬の群れしかない。
野良犬の気配はしないけれど、襲われるというおかしな出来事はそれしか智には思いつかなかった。
「やめてくれっ……ああっいたいっ!」
「やめっああああっ!」
二人の男が悲鳴を上げることしか出来ない攻撃をされているのだけは分り、智は体が動くうちにこっそりと明かりがある方へと這うようにして歩き始めた。
怖くて歯がカチカチと鳴るくらい震えていたけれど、聞こえていた悲鳴が突如聞こえなくなった。
「……っ」
まさか二人ともやられてしまったのか。
何があったのか分からないままに智は軽い坂を登った。
這って登り終えた時に智の目の前で何かの息遣いが聞こえた。
「……ひっ」
明らかにさっきまで何もいなかったのに、今まさに目の前にいる。
顔を上げることなんて出来るわけもない状況だったけれど、智はゆっくりと目を開いて顔を上げていた。
薄明かりの中、背後から光を浴びている大きい犬のような陰がいるのが分かった。顔は逆光で見えないけれど、その息遣いから血の匂いを感じた。
喰われるのではないかと思ったが、その陰はふっと智の耳元に鼻先を寄せて擦り付けてから目の前からあっという間に去って行った。
耳の側に心臓があるくらいに感じるほど心臓の音しか耳に届いていない状態になっていたが、遠くから誰かが呼ぶ声がした。
「智! 何処だ!」
その声が耳に入ったのは目の前からあの陰が消えて五分ほど経ってからだった。体感では一分も経ってないくらいに感じたけれど智はやっと我に返った。
「…………生きてる」
思わずそう呟かずにはいられないほどに智は恐怖からやっと解き放たれたけれど、それでも体がまだいうことをきかなかった。
その場に座り続けていると宿泊している民家の方から直人が走ってくるのが見えた。
「智!」
明かりで智がいるのが見えたのだろう。
急いで駆け寄ってきて直人が智の前に座り込んだ。
「……智、怪我……してるのか?」
「……擦り傷くらい……」
そう智が答えたけれど、首筋辺りを触った直人が言った。
「ここ、怪我していない?」
「してない……」
怪我などしていないのに何でと思ったが、さっき野犬の陰がその辺りに触れていったことを思い出す。
「……あ、……わからない……犬が……」
声を出して説明をしなければならないのに声が上手く状況を伝えられないくらいに乾いているのに智は気づき、咳き込んだ。
「智、一旦家に戻ろう」
直人はそう言うと智を抱えて立ち上がった。
智は抱えられるようにして立ち上がり、あとは直人に背負ってもらった。
その場を離れる時に智は振り返って暗闇を眺めたが、その場所は真っ暗で何も見えなかった。もしかしたらあの場所に倒れている二人がいるかもしれない。
それが分かっていたのに、声を出そうとすると咳き込んでしまいどうしようもなかった。
「喋るのはあとだ、智」
直人にそう言われて民宿に戻った。
玄関の近くには街灯があり、さらに家の明かりが灯っていた。
「おーい、いたか!?」
戻ってくる直人を見た白井が叫んでいるので直人が言い返した。
「智はいた!」
「分かった!」
どうやら智以外に渡辺と片岡がいないことも分かっていたのだろう。
しかし彼らは探しに行こうとはせずに、家の中に戻った。
玄関に入ると、白井が智を見て大声を上げた。
「なんだそれ、怪我してるのか!?」
そう大きな声で言われて智は首を傾げてから言った。
「擦り傷、くらい……で」
「あ、わりい、酷い声だ。ほら水」
すぐに玄関でペットボトルの水を貰い、智はそれを飲んだ。
一気に半分ほど飲むとやっと喉が潤って言葉が出た。
「は……怪我はしてないと思います……擦り傷くらいで……でも、犬、犬みたいな何かがいて……たぶん、渡辺さんと片岡さんが襲われていました……」
智は胸に手を当ててからそうやっと全部答えられた。
「何だって……!?」
「まずい、野犬の仕業だったなら……探しに行くのも二次被害に繋がる……っ」
そう直人がいい、玄関の鍵を閉めた。
「何があるか分からない、鍵を閉めて閉じ籠もろう。犬以外の可能性もある」
直人がそう言うと、山下や福田たちが一斉に部屋の鍵を確認にいった。
白井が暖房を付けてくれ、居間に智たちは移動をした。
部屋に入った時にあった鏡を見て、智はやっと自分の右側の頬から首筋にかけて真っ赤な血が付いていることを知った。
「あ……これ……」
「びっくりだろ。皆驚くよ。服を持ってくるから着替えよう、汚れも落としたいだろうし、擦り傷だらけだ」
「……うん」
思った以上に足なども擦り傷が沢山ついていた。草で切ったのか、薄らと血が滲んでいる箇所もある。
露天風呂まで行くには危険なので、台所でお湯を沸かせてそれで体中を拭いて綺麗にした。
その結果、首筋には一切怪我をしておらず、足も細かい擦り傷程度で消毒液で拭く程度でよかった。
「思ったより怪我はないみたいだな……よかった……」
体中を見た直人がそう言い、ホッとしている。
「……うん、でもなんで僕は襲われなかったのかな……」
智はやっと落ち着いてきたので着替えた後は居間の座布団に座り、経緯を説明した。
その場には白井、山下、福田、金子、袁藤、高梨がいて、やはり渡辺と片岡がいなかった。
「トイレに行ったあとに渡辺さんたちに拉致されるみたいに連れ出されて……それで道の途中で何かが襲ってきたみたいに悲鳴が聞こえて、僕は崖下に落ちたみたいで……それで明るい方に逃げたら、多分襲っていた犬みたいなのがいて……僕は何故か何もされなくて、その時に触れられたみたいで血が付いたようで……その後すぐに直人がきたから……あの二人がどうなってるのか、暗くて見えなくて……声も出なかったし……」
智はそう言ったところ、全員が唸っている。
「野犬の群れか」
「群れかどうかは分かりませんけど、ただ一匹はいます。高見さんと一緒に見たんですけど、野犬のボスらしいのが村の周りを徘徊してるらしくて……でも村に入ることはないみたいで……周りの山に棲んでいるみたいだって……」
その場で智が感じたのは一匹だけの気配だった。
他に野犬がいたならもっと唸り声や騒ぎの物音がしていたはずだ。
まさか無音で無言の群れなんてあるわけもない。
「とにかく、朝になって危険が無いか確認したらあの二人がいるかどうか探してみよう。その前に高見さんに連絡を入れるって事でいいな」
直人がそう言うので全員が頷いた。
午前五時を回っていた時間になっていて、直人は高見に連絡を入れるために電話を掛けた。ところがだ。
「……繋がってないぞ……?」
通話するときに鳴る通話の音がしないと直人が言った。
「嘘だろ? 昨日の昼には使えたぞ?」
麓に買い出しに行った高梨が、金子にお昼に電話をしたことを思い出す。
「そうそう、俺電話にでたもん」
金子もそう言い、全員が顔を見合わせる。
「もしかして、あいつら?」
電話が切れるよな天候でもなかったし、切れるような問題もなかったはずだ。
昨日のお昼まで繋がっていたなら、その後何かあったはずである。
「あいつらが電話線を切って、助けを呼べないようにしたとして、智を連れて何処へ行くつもりだったんだ、そもそも……」
直人がそこまで言ってから高梨がハッとして民宿の前に止めてある車を見に行った。
「おい、今外に出るなって!」
白井が慌てて高梨を追って行くも、高梨は車の前輪を見て悔しそうに叫んだ。
「タイヤ、やられてる! ご丁寧に四本全部だっ!」
「あいつら、そこまでやったのか……」
金子もさすがに驚き、絶望した顔をした。
「何なんだよ……本当に」
「というか、ここまでやって栗花落連れて何処へ行くつもりだったんだ? 直人も疑問に思ってるだろ? 脱出手段が別にあるんじゃないかって」
袁藤がそう言いながら智の方を振り返る。
「どの方向に向かってたんだ?」
「わ、分からない……僕は抱えられていたから……でも直人ならどの方向かは……」
探しに来た直人なら方向が分かるのではと智が答えると、直人が走り出した。
「え、どういうことだよ?」
訳が分からないと福田が山下を見ると山下が言った。
「栗花落を連れて脱出する手段があったってことだよ。そう考えるのが妥当だ。あいつらが向かった方に車か移動手段があるってことだ。あの二人が辿り着いていないならまだそこに移動手段があるかもしれないだろ?」
山下がそう言いながら直人の後を追って走り出した。
薄明かりの中ではあったが、朝が来ているので冬でも午前六時前となれば真っ暗ではないからか、全員が走って行く。
けれど智は後を追えなかった。
全員走ることができるけれど、智は少し足に痛みがあって歩くことしかできなかったのだ。そのせいで誰よりも遅れた。
そして全員が走って行く道とは違った道に視線が自然と向いた。
そこにはあの野犬のボスと言われている大きなオオカミのような犬がいた。
じっと智の方を見て動かず、智もその場から動けなくなってしまった。
そのオオカミのような犬は真っ白な色をしていたけれど、その体は血を浴びたかのように真っ赤に染まっていたからだ。
(ああ、お前だったんだ……助けてくれたのは)
智はそれが分かったので、血まみれの犬を見ても怖くはなかった。
そして智は自らその犬の方に近づいて歩いていた。
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